最近、日本史に関する本を趣味で読んでいます。
そこで、気が付いたのですが、歴史というのは、「史料」によって、過去にどのような事実があったのかを認定していくのだということです。
現時点において、遠い過去の歴史を見聞した人はいないわけですが、当時の見聞をもとに記載した文献・遺物・遺跡・図像・口頭伝承などをもとに、どのような歴史があったのかを明らかにしていくのです。
これは、裁判でもでてくる”事実の認定”に似ているというか、ほとんど同じ作業だと思います。
歴史では、「史料」をもとに事実を認定しますが、裁判では、「証拠」をもとに事実を認定していくのです。
ところで、歴史というものは、すべてが明白になっているのではなく、明らかになっていないこと、学界で論争になっているものというものが沢山あります。
有名なものでいえば、邪馬台国がどこにあったのかというようなものです。
これは「史料」が不足している、又は「史料」があるけれども、対立したものがあるとか、あるいは、こういう風にも解釈できるし、ああいう風にも解釈できる、即ち解釈の多様性ということから生じてくるのです。
このようなことは、裁判でも生じます。
つまり、ある事実があったのかなかったのかが論争になり、それをどのように認定していくのかという問題です。
交通事故でいえば、例えば、どのような交通事故だったのかということは深刻な事実認定の問題です。
最も厳しい対立があるものに、いわゆる青・青主張というものがあります。
Aさんと、Bさんがそれぞれ自動車に乗っていて、信号のある交差点で衝突したとします。
Aさんも、Bさんも「自分の方が青信号だった」「いや俺の方が青信号だ」と主張するのが、青・青主張というもので、こういう場合、どちらかが真でどちらかが嘘をついていることが多い。
どちらに軍配をあげるべきか、第三者の目撃者がいれば決着は容易ですが、そうでない場合は非常に難しい。
同じケースでも、Aさんが死亡してしまって、Bさんは「私の方が青信号でした」となったときに、Aさんの遺族は納得できるのかどうか。
こういう場合も非常に困難です。
このように事実の認定というのは、非常に難しい問題をはらむものなのです。
そこで、気が付いたのですが、歴史というのは、「史料」によって、過去にどのような事実があったのかを認定していくのだということです。
現時点において、遠い過去の歴史を見聞した人はいないわけですが、当時の見聞をもとに記載した文献・遺物・遺跡・図像・口頭伝承などをもとに、どのような歴史があったのかを明らかにしていくのです。
これは、裁判でもでてくる”事実の認定”に似ているというか、ほとんど同じ作業だと思います。
歴史では、「史料」をもとに事実を認定しますが、裁判では、「証拠」をもとに事実を認定していくのです。
ところで、歴史というものは、すべてが明白になっているのではなく、明らかになっていないこと、学界で論争になっているものというものが沢山あります。
有名なものでいえば、邪馬台国がどこにあったのかというようなものです。
これは「史料」が不足している、又は「史料」があるけれども、対立したものがあるとか、あるいは、こういう風にも解釈できるし、ああいう風にも解釈できる、即ち解釈の多様性ということから生じてくるのです。
このようなことは、裁判でも生じます。
つまり、ある事実があったのかなかったのかが論争になり、それをどのように認定していくのかという問題です。
交通事故でいえば、例えば、どのような交通事故だったのかということは深刻な事実認定の問題です。
最も厳しい対立があるものに、いわゆる青・青主張というものがあります。
Aさんと、Bさんがそれぞれ自動車に乗っていて、信号のある交差点で衝突したとします。
Aさんも、Bさんも「自分の方が青信号だった」「いや俺の方が青信号だ」と主張するのが、青・青主張というもので、こういう場合、どちらかが真でどちらかが嘘をついていることが多い。
どちらに軍配をあげるべきか、第三者の目撃者がいれば決着は容易ですが、そうでない場合は非常に難しい。
同じケースでも、Aさんが死亡してしまって、Bさんは「私の方が青信号でした」となったときに、Aさんの遺族は納得できるのかどうか。
こういう場合も非常に困難です。
このように事実の認定というのは、非常に難しい問題をはらむものなのです。