南斗屋のブログ

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女性に笞刑はできないので、どうすれば… 仮刑律的例 24 徒刑処置

2024年02月08日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 24 徒刑処置

【京都府からの伺】明治元年十二月廿六日
穢多の身分の女性四人が共謀等して窃盗等を致しました。被害額を規則に引当ててみますと、笞百回又は五拾回に相当します。女性でありますので、笞刑は避けたいと考えております。
そこで、徒刑場を作った上で、徒刑を宣告することを考えましたが、穢多や全くの非人は徒刑から除こうと考えておりましたので、徒刑を宣告することもできないようにも思えます。
どのような刑とするか当府において検討すべきところですが、明治政府のお考えも承知致したく、お伺いするものです。
①無宿の穢多りう、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金弐両壱歩三朱と銭百四拾文。
②無宿の小鶴、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金五両弐歩弐朱と銭五百文。
③無宿のとく、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金六両弐歩壱朱と銭四百文。
④無宿の小せん、共謀して盗取した品物 売捌いて配分された金額は、金弐両老朱。

【返答】
非人や婦女は、それぞれ区別をして徒刑を行うのが最も良い。徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよい。


(コメント)
・この伺いが出されたのは明治元年ですので、穢多非人等の称や身分が残っていました。これらがされたのは、明治4年8月28日(1871年)の太政官布告です。
・本件伺いに名前が挙げられている者たちが、どのような理由により窃盗に及んだかは書かれてはいないものの、政治経済が不安定な世の中で、経済的弱者が一層弱い立場に置かれていたであろうことは、容易に想像できます。
・窃盗の刑は被害額によって定められていました。公事方御定書では重敲、軽敲といった笞刑をすべき旨規定されており、明治政府はこの回数を次のとおり仮定めしていました(明治元年十一月四日の京都府の伺いへの回答)。
5両以下は笞50回
10両以下は笞100回
20両以下は徒1年
40両以下は徒1年半
(以下略)
これを当てはめると、女性たちには笞50回又は100回という刑になってしまいます。
・しかし、ここで京都府は「女性でありますので、笞刑は避けたい」と考えます。こういう感覚は非常に重要です。公事方御定書では、笞刑としか書いていないのです。ですから、笞刑を宣告してもそう書いてあるから仕方ないで済ませることも可能です。
・しかし、京都府の担当者は、女性だから笞刑はやり過ぎだろうという感覚をもっていました。そこで、本件の伺いとなったのです。
・「女性だから笞刑はやり過ぎ」という考え方は現代の人権感覚に通ずるものがありますが、一方で「穢多や全くの非人は徒刑から除こうと考えておりました」というところは、差別そのものの発想であり、人権感覚とは対極にあります。
・明治政府は、①徒刑を行うのがよい、②徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよい、③徒刑を行う場合は、婦女、非人は区域を別にすべきとの回答でした。
女性には笞刑を避けるが、非人との差別は残すとの京都府の考え方と同じです。



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窃盗の被害が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回。仮刑律的例 23 刑律問合

2024年01月29日 | 仮刑律的例
窃盗の被害が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回。仮刑律的例 23 刑律問合

(明治元年十一月四日、京都府からの伺)
昨日(11/3)、行政官から以下のような達を受けました。
新しい律を公布されるまでは、幕府が制定した刑律(公事方御定書)に基いて行うが、死刑は天皇の御勅裁を経ること、追放刑・所払い刑は徒刑へと変更すること、流刑は蝦夷地に限ること、窃盗については旧例のとおり被害額百両以下は死刑にしないとの達。
府は、以下の点に疑問を持ちましたので、どのように取り計らうべきかお伺い致します。

【伺い①】その場で盗心を生じて窃盗に及び大金を取得した者、計画的な犯行でない者については死刑でよいでしょうか。それとも減軽してもよろしいものでしょうか。
【返答】ふと悪心を生じて窃盗した者の刑罰は一等軽くしてよい。

【伺い②】笞刑は廃止でしょうか。これまでどおり笞刑を行う場合は、金額の多少と笞数を教えてください。
【返答】新しい律が定められるまでは、幕府が制定した刑律(公事方御定書)のとおり重敲、軽敲といった笞刑を行う。もっとも、金銀の相場が制定当時と変わっているので、以下のとおり仮に定める。
5両以下は笞50回
10両以下は笞100回
20両以下は徒1年
40両以下は徒1年半
60両以下は徒2年
80両以下は徒2年半
100両以下は徒3年


【伺い③】徒刑は被害額の多少で刑の日数を変えるのでしょうか。また、徒刑は盗賊に対してだけに科すものでしょうか。盗賊以外にも徒刑を科して良いのであれば、その犯罪を予めお教えください。
【返答】徒刑は盗賊に対してだけ科すものではない。どのような犯罪でも徒刑を科してよいので、その犯罪を予め教えるというのは難しい。なお、刑の軽重は、死刑、流刑、徒刑の順である。

【伺い④】流刑につきましては、遠・中・近の区別がありますが、どのような犯罪の場合に、どのような刑を行えばよいか予めお教えください。
【返答】漢土(中国)では流刑は、3000里、2500里、2000里の区別があるが、故幕府律(公事方御定書)では、遠・中・近の区別はない。京・大阪からは何島、江戸からは何島に流刑にせよとの定めのみがある。
流刑にすべき者:追放刑にしたのに追放場所から戻った者、女犯の僧、15歳以下で死罪にあたる罪を犯した者。それ以外は一つ一つ答えることはできない。

【伺い⑤】強盗、追剥、追落はいずれも重罪であり、金額の多少にかかわらずに取り扱うということでよろしいでしょうか。また、この三者に違いがあるのかもお教え願えますか。
【返答】故幕府の律書(公事方御定書)では、追剥は獄門、追落は死罪と区別している。それ以外は、強盗、追剥、追落はいずれも重罪であり、金額の多少で取り扱いを変える必要はない。

【伺い⑥】盗物と知っていながら、又は怪しい品と気がつきながら、盗賊から買い取った者の刑律について伺います。
【返答】故幕府の律書(公事方御定書)では、盗賊と知りながら買い取った者は、所払いとある。

【伺い⑦】盗賊と知りながら、宿を貸した者の処置につき伺います。
【返答】死罪になるべき盗人に宿を貸した物は田畑取り上げの上で所払い。村役人、名主、組頭、五人組はいずれも過料を申し付ける。死罪とはならない盗人に宿を貸した場合は、一等軽くすべきである。


【コメント】
・京都府からの伺いです。具体的な事件についての問い合わせではありません。法律上の問題といった体の質問です。
・【伺い①】は、計画的でない窃盗の量刑についての質問。計画的でない窃盗は一等減じて刑を量定すべきというのが明治政府の方針です。
・【伺い②】は笞刑についてのもの。京都府は笞刑は廃止か?と考えていたようですが、明治政府は、この時点では笞刑は存続する意向です。窃盗の被害額が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回と仮に定めています。それ以上の額は徒刑にすべきとの考えです。
・【伺い③】は徒刑についてのもの。徒刑は、公事方御定書には規定がなく、明治になってから新しく導入された刑ですので、京都府がその適用に戸惑うのも無理はありません。明治政府の布令(明治元年十月晦日)は、概略次のように規定していました。
①新律の布令までは幕府に委任していた刑律(公事方御定書)によるべきであるが、追放・所払は徒刑に換えるべき。
②徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。
追放・所払は徒刑に置き換えよとの指示はなされていますが、それ以外に徒刑を科してよいかどうかは不明なことから、京都府は政府に伺いを行ったのでしょう。
明治政府は、徒刑は盗賊に対してだけ科すものではなく、どのような犯罪でも徒刑を科すことはできるという立場を取っています。
・【伺い④】は流刑についてのもの。流刑は島流しのことです。京都府は「流刑は遠・中・近の区別がある」としていますが、これはそういう慣習となっていたもので、公事方御定書にはそのような規定はありません(明治政府の返答でもこの点を指摘)。
明治政府は、流刑は蝦夷地に限るとして、流罪を限定する方針を打ち出しておりました。
・【伺い⑤】は強盗、追剥、追落についてのもの。これらは「重罪」とされ、いずれも死罪以上の刑。現代の感覚からすると、死罪よりも上があることが分かりづらいのですが、この時代は犯罪者の死なせ方、その後の遺体の処理の方法により、死罪よりも重い刑があると考えていました。
・【伺い⑥】は、盗んだ物と知っていながら、又は怪しい品と気がつきながら、盗賊から買い取った者の刑律について。今の「盗品等関与罪」ですね。公事方御定書では、所払いにしていたのですね。もっとも、明治政府は所払いの刑は徒刑に変更せよという方針でした。
・【伺い⑦】盗賊と知りながら、宿を貸した者の処置。死罪になるべき盗人か否かで区別し、死罪になるべき場合は重く処罰されます。村役人、名主、組頭、五人組は、宿を貸した者が出たこと自体の責任を取らされるというのも、この時代の特徴。村内で宿泊する者はちゃんと管理しておかないといけないことになっており、管理不行届により処罰されてしまいます。


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山田大路陸奥を禁錮にせよ 仮刑律的例22 禁錮

2024年01月25日 | 仮刑律的例

山田大路陸奥を禁錮にせよ #仮刑律的例22 禁錮


#仮刑律的例 #22 禁錮

(超訳)

【度会府からの伺い】明治元年十月

先月16日に伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したのですが、当度会府の御用掛である山田大路陸奥が「これはただ事ではないので、今上天皇の江戸への御出輦の可否とも関係する神慮ではないか」と考え、正式な手続きを経ずに京都の友人にその旨を書き送りました。以前から姦雄といわれていたこの者の今回の所業いかなる処置といたしましょうか。

【返答】

今上天皇の江戸への御出輦のときに、決められた手続きを経ずに妄説を説いたのは不届きである。官爵を解き、禁錮を申し付けるべきである。


(詳しい訳)

【度会府からの伺い】明治元年十月(辰年)

当度会府の御用掛である山田大路陸奥の件、どのように処理しましょうか。早急にご判断いただくようお願い致します。

〈度会府の見解〉

先月16日に伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊しました。鳥居は朽廃が原因で倒壊したのですが、

山田大路陸奥は、この災異に付会して、今般の明治天皇の御東幸の盛挙をみだりに誹議し、所見を陳じたものです。

この者、すこぶる才名があり、交際範囲も広く、以前から姦雄といわれておりましたが、今回、度会府、祭主、禰宜、大宮司にも知らせず、京師に密使を走らせております。

このことは、祭主・宮司の怠慢をあばき、己の忠義を売って僥倖を計ろうとしたに相違ありません。

鳥居の倒壊の原因につき、よくよく見分することもなく、巷談を信じ軽易建言に及んで衆聴を驚かそうとしたこと、不届きというほかありません。いかが処理すべきかお伺いします。

なお、山田大路陸奥には当度会府の御用掛を申し付けてありますが、任用を続けてよいか否かも合わせてご指示ください。


〈山田大路陸奥の口上〉

先月16日に内宮冠木御鳥居が倒壊した件ですが、私が知りましたのは翌17日です。17日は持病の疝痛で終日引きこもっており、夜になってようやく持ち直してきました。深更になってから、司中前政所の岩淵修理から話したいことがあるとの連絡があり、大宮司家に行きました。

祭主様(大中臣教忠)と政所にお会いし、用向きも済みましたので、帰ろうかと思っていたところ、公文所に前政所岩淵修理、権政所上部令使の三室戸様、雑掌の林筑後の三人がおりました。この方々から、昨日内宮の由基御撰調進の時刻に、冠木御鳥居が倒壊し、その後に大きな穴ができてしまったことを聞きました。このことは17日朝に、禰宜中から祭主様に届けがあったとのことですが、司中にはまだ届けがされていないとのことでした。

本件のようなことは、書面で御総官へ申達するのが通例ですが、御総官は東京へご参行中とのことでした。

祭主様は「(明治天皇が)東京へまもなくご出輦されるとのことであるから、ご帰京された後に神祇官衆中へご相談することとしょう。」と仰り、ご報告を留保されるご意向を示していました。

以上のような話しをして、帰宅いたしましたが、考えてみますと、少しも風が吹いていなかったのに理由もなく、鳥居が倒壊したということは、何か神霊に関わるようなこと、神慮を何か問うようなことがあるようにも思われます。

そういえば、近日中には、(明治天皇の東京への)ご出輦の可否につき恩給勅使により、伊勢神宮に神慮をお窺いするとも聞いておりました。

だとすれば、これは容易ならざることです。私のような小民が私見を申し上げるのも恐れ多いことです。そこで、私見を京都にいる相職にお知らせし、その取り扱いについては、友人たちの相談に任せようと思いまして、書面を書き、18日の昼に師岡豊輔宛に発送したのです。師岡がいないときは、樹下石見守、権田直助、落合一郎らに披見するように申しつかわしております。

師岡は不在であったため、樹下らがこれを取り扱ってくれたとのことでございます。

今回のことは、あくまでも玉体の御安泰を祈念して行ったものでありますが、鳥居が腐朽して倒壊したという可能性も考えず、かような御迷惑をおかけしましたことは、今更ながらではありますが、恐縮し後悔しているところです。

この段よろしくご恕察願い奉ります。


【返答】

山田陸奥のこと、決められた手続きを経ず、鳥居の倒壊という容易ならざる事件について妄説をなし、(明治天皇の東京への)ご出輦に際して、衆聴を驚かせたのであるから、不届きである。よって、官爵を解き、禁錮を申し付けるべきである。


【コメント】

・度会府からはこれまで2回伺いが仮刑律的例に取り上げられています(17&18)。今回の伺いで3回目となります。度会府は慶応4年7月6日に設置され、伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。度会府は明治2年7月(1869年)に、度会県に改称。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。

・本件で問題となっているのは、「山田大路陸奥」という人物です。度会府の職員をしており、これまで紹介してきた事例に出てくる無宿人等とは全く違うタイプです。

・犯罪とされた事案を見ても、伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したことを、正式なルート外で外部に漏らしたというもので、現代風にいえば公務員の守秘義務違反というよあにしか見えません。このようなことを理由として、「官爵を解き、禁錮を申し付ける」とするのは、いかにも行き過ぎのように思われます。

・このような過酷すぎる刑となったのは、明治天皇の東京への出輦が絡んでいるのでしょう。

明治天皇は、明治元年9月20日に京都を出発、10月3日東京着。12月22日に京都に帰着しています。伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したのは9月16日であり、京都出発の直前という時期でした。

明治天皇の東幸(東京への行幸)は、首都をどこにするかとも関わる政治的に重要な行事であり、明治政府としては邪魔が入らないように気を遣っていたはずです。

政府としては、山田大路陸奥が何らかの謀略を企てたと考えたのかもしれません。

・山田大路陸奥は、幕末に様々な活動に加わっていたようであり、『三重県下幕末維新勤王事蹟資料展覧会目録』中の『山田大路親彦事蹟資料』には、「師檀関係により薩藩の俊傑と交わり、又諸国の勤王の士と相往復し、文久三年五月捕らわれて入獄。後解放さる。」との記載も見えます。度会府の伺いに、「この者、すこぶる才名があり、交際範囲も広く、以前から姦雄といわれておりました」とあるのは、このような経歴を指すものと思われます。

・しかし、それにしても山田大路陸奥が謀略を企てたとまでは立証できていません。政府の回答も、「鳥居の倒壊という容易ならざる事件について妄説をなし、(明治天皇の東京への)ご出輦に際して、衆聴を驚かせ」たと認定しているに過ぎず、謀略を企てたことにはなっておりません。

それなのに、懲戒免職・禁錮というのは、いくら何でも重すぎると言わざるをえません。

・山田大路陸奥は、本件で禁錮となり、まもなく亡くなってしまいました。『山田大路親彦事蹟資料』には、「東京遷都の議あるや、意見書を上る。事、当局の忌諱に触れ、度会府より禁錮せらる。明治二年二月二十日歿。年五十五。」とあります。明治政府の回答からはわずか4ヶ月後のことでありました。



━━━━━━━━━━━━━

2024年2月1日追記

本ブログをアップしてから、千田稔『伊勢神宮』(中公新書)に以下の記載があることを知りました。明治元年9月20日の明治天皇が東京に行幸する際に、大津駅で京都に戻るよう権中納言大原重徳が権言をするという事件があったのです。同書てわは『明治天皇紀』(第一)からとして以下のように述べています。


〈辰の刻(午前八時)、紫宸殿を出発。輔相岩倉具視をはじめ議定中山忠脳らが供奉したが、護衛の者を含めると三千三百余人からなる列をなした。沿道の老若男女は天皇の一行を見送り、粛然として拍手の音が絶えることがなかった。(中略) 三条通を東に向かい、粟田口の青蓮院(京都市東山区)で昼食とした。(中略)未の半刻(午後三時)に大津駅に到着。このとき権中納言大原重徳(1801-79)という人物が馬を馳せ てきて、天皇が京都に還行することを建言する。大原重徳は尊攘派公家としてその 名を知られていた。馬を馳せてまで京都還幸を建言した理由は去る十六日夜、豊受大神宮 (外宮)の大祭をとりおこなっていた最中に皇大神宮(内宮)の大鳥居が転倒してお り、神職らが皇大神の警告とみなし急使を派遣して京都に報告したためであった。大原重徳はもとより東京を皇都とすることに反対の立場であったので、東京行幸を阻止するためにこの挙にでたのであった。しかし、岩倉具視は、この建議をしりぞけ、誓書を神明に奉るべきことを大原重徳に約束て、京都に帰らせて、ようやく事なきを得た。〉







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追放刑をやめて徒刑にせよ 仮刑律的例21 徒刑

2024年01月18日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #21 徒刑
(要約)
【堺県からの伺い】明治元年十一月八日
従前の追放刑を徒刑(懲役刑)にするようにとのご布令は承知致しました。今後、人別に加わっていた者については徒刑に致します。ところで、無宿人についてはどのようにしたらよろしいでしょうか。追放刑でよいでしょうか。他所で出生して無宿となった者には焼印を押すことでよろしいでしょうか。
【返答】無宿人であっても徒刑にすべきである。なお、焼印はすべきではない。

(詳しい訳)
【堺県からの伺い】明治元年十一月八日(辰年)
御仕置の件につきまして、追放・所払いを徒刑(懲役刑)に換えるという御布令については承知致しました。
旧幕府法で人別に加わっていた者については、今後追放・所払いではなく、徒刑を申し付けますが、なお不明な点がありますので、お問合せさせていただきます。
無宿人が盗みをいたした場合、どのように処置したらよろしいでしょうか。これまでのように敲(たたき)の上で追放してもよろしいでしょうか。
管轄地で出生の者である場合は、徒罪を申し付けた上で、満期となった後、元在所に引渡して人別に加えさせるのがよいでしょうか。
他所出生で無宿となった者は、これまでどおり敲の上で追放してよいでしょうか。追放する際は、内股に「サ」の字の焼印を押しておりますが、それでよろしいでしょうか。
以上、ご相談致します。
【返答】管轄所で出生して無宿となった者、他所で出生し無宿となった者のいずれも徒罪とすべきであって、追放・所払いとすべきではない。この点については、そのうちに規定も整えるので、処置の仕方も分かるようになるであろう。
なお、焼印については見合わせるべきである。

【コメント】
・堺県からの伺いです。堺県は、慶応4年(=明治元年;1868年)〜明治14年(1881年)まで存続した県です。
・今回の伺いは、追放・所払いの刑はやめて、それを徒刑(懲役刑)にしなさいという明治政府の布令に関する伺いです。
・追放刑は、犯罪者を一定地域への立入を禁止するものです。立入禁止地域を「御構場所」といい、公事方御定書では、重追放、中追放、軽追放、江戸十里四方追放、江戸払、所払に区分されていました。
・明治政府の布令(明治元年十月晦日)は、追放について、概略次のように規定しています。
①刑律制定は重要であるが、新律制定の暇がないので、新律の布令までは幕府に委任していた刑律(公事方御定書)によるべきである
②もっとも追放・所払は徒刑に換えよ。
③徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。
・それでは、明治政府の布令を無宿人にどのように適用したらよいのでしょうか。無宿人が盗みをした場合、これまでは敲(たたき)+追放という処置をしていました。追放刑⇒徒刑と単純に置き換えると、敲+徒刑となってしまいますが、これでは刑が却って重くならないだろうかというのが堺県の問題意識にあるようです。
・この点についての明治政府の返答は、「管轄所で出生して無宿となった者、他所で出生し無宿となった者のいずれも徒罪とすべきであって、追放・所払いとすべきではない。」
というものでした。どのような場合であっても追放刑を行わないということはこれで明らかになりました。
・堺県からの伺いには、身体刑も問題にされています。伺いでは、「追放する際は、内股に「サ」の字の焼印を押しております」とあり、これまでは焼印を押していたことが分かります。明治政府は「焼印については見合わせるべきである」とし、焼印の廃止を明らかにしました。



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刑罰・拷問をしてはならない日はいつですか 仮刑律的例 20刑罰拷問可除定日

2024年01月11日 | 仮刑律的例
刑罰・拷問をしてはならない日はいつですか 仮刑律的例 #20刑罰拷問可除定日

【倉敷県からの伺い】明治元年十月(辰年)
断獄(刑事裁判)を避けなければならない日は、いつになりましょうか。この点をお伺いしたく申し上げます。
【返答】
今上御誕辰(明治天皇誕生日) 9月22日
神武天皇御忌 3月11日
仁孝天皇御忌 2月6日
孝明天皇御忌 12月25日
以上の日は刑罰・拷問をしてはならない。

(コメント)
・倉敷県は倉敷(現岡山県倉敷市)を中心とする県。1868年(慶応4年)-1871年(明治4年)。
・倉敷県は、断獄(刑事裁判)をしてはならない日について伺いをしているのですが、明治政府は「刑罰・拷問をしてはならない日」を回答しており、伺いと回答がズレています。政府は、刑事裁判を避ける日は考えていないのかもしれません。
・明治政府の回答は、現在の天皇の誕生日及び三名の天皇の御忌(忌日=命日)です。御忌については、神武天皇のほかは、明治天皇の先々代及び先代になります。仁孝天皇(明治天皇の祖父)、孝明天皇(明治天皇の父)。
・この回答がなされた明治元年は、いまだ太陽暦ではありませんので、いずれも太陰暦の月日です。
・神武天皇御忌を返答では3月11日としており、『日本書紀』を典拠としています。現在では神武天皇祭は4月3日とされていますが、これは神武天皇崩御は同天皇76年=紀元前586年とし、これをグレゴリオ暦に換算したからです。
・仁孝天皇御忌は2月6日とされていますが、
同天皇が崩御したのは、弘化3年1月26日です。2月6日は発喪日です。
・孝明天皇の崩御は12月25日であり、孝明天皇御忌と同じ日です。
・返答では、刑罰だけでなく、「拷問をしてはならない」とされており、拷問を行うことが当然の前提とされています。 刑罰と拷問が何の留保もなく、並列されており、この時代の刑罰・拷問についての考え方も表れています。
・現代では、土日祝、年末年始(12月29日〜1月3日)は死刑を執行しません(刑事収容施設法178条2項)。




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窃盗と殺人を犯した者には梟首 仮刑律的例 の19 梟首

2024年01月08日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #19 梟首
(要約)
【久美浜県からの伺い】明治元年十月
卯吉は、他の者と共に、昨年3月、播州のある村の農家から麦三斗、米五升を盗み、所払いの刑を受けました。
その後、①他の者と共に、同年10月21日夜、播州小佐村の家から金子・銀札を盗み、②10月22日に但州石原村の番人重太郎に見咎められ、他の者2名と連行されたのですが、途中の山中で、その者らと共に重太郎を絞殺しました。
この者の刑について伺います。
【返答】梟首

(詳しい訳)
【久美浜県からの伺い】明治元年十月(辰年)
野非人の卯吉が盗みと殺しをした件について、吟味しました結果は以下のとおりです。
「私は、備後福山辺りで出生した野非人です。幼いときに両親を亡くし、「こと」という姉に連れられて諸国を袖乞いして歩きましたが、そのうち姉とも別れてしまいました。」
〈前歴〉
「去年(卯年)3月、無宿四方吉らと龍野領播州のある村(村の名は忘れました)の百姓の家から麦三斗、米五升を盗みました。その月のうちに召し捕られ、吟味を受けて、所払いの刑となりました。」
〈犯行に至る経緯〉
「この年8月に播州宍栗郡で無宿人仙太郎と出会い、一緒に但州に行きました。そこで、無宿人の伊之助や元吉と出会いました。10月になって仙之助とは別れてしまいました。」
〈本件犯行〉
「①同年10月21日夜、伊之助や元吉と、但州小佐村の文三郎の家の入口の戸を開け、金子・銀札類を一同で盗みました。合計いくらを盗んだのかはわからないのですが、私の分け前は金3歩と銀札20匁でした。伊之助か、博奕をしたときの借金があったので、分け前は全て伊之助に払ってしまいました。
②10月21日暮れ六つころ、但州石原村地内辻堂で、同村の番非人の重太郎から見咎められ、引き立てられる途中の山中で、伊之助や元吉と一緒に重太郎を襲いました。重太郎も十手で立ち向かってきたのですが、こちらは三人なので重太郎を取り押さえ、持っていた縄で重太郎の首を縛って絞殺したのです。」
〈犯行後の経緯〉
その後は、皆ばらばらに逃げましたので、伊之助や元吉がどこへ逃げたのかはわかりません。私は宍栗郡辺りをうろうろしているところを召し捕らえられました。
仙太郎につきましては、途中で別れましたので、本件には関わっておりません。
以上のとおり間違いございません。」
【返答】梟首

【コメント】
・久美浜県からの伺いです。
久美浜県は、慶応4年(=明治元年)閏4月〜明治4年11月まで存続した県。県庁は旧久美浜代官所(現京都府京丹後市)に置かれました。
・本件の犯人は卯吉。備後福山(現広島県福山市)の出身。両親を早くに亡くし、姉と流浪生活。姉とも別れてしまい、無宿人らと付き合うようになってから犯罪に手を染めてしまいます。
・最初の犯行は、無宿人の四方吉らと共謀した窃盗事件。播州のある村の農家から麦三斗、米五升を盗んでいます。これにより所払いの刑を受けています。追放刑ですね。追放刑は厄介者を他の場所に行かせるだけなので、犯罪者の更生には役立ちません。近代刑法では追放刑はなくなりました。
・卯吉の本件犯行は、①住居侵入・窃盗、②殺人です。犯行場所は、①が但馬国小佐村、②が同国石原村です。
・①の犯行場所である但馬国小佐村は、現在の兵庫県養父市八鹿町小佐。八鹿は「ようか」と読みます。

八鹿町小佐 · 〒667-0053 兵庫県養父市

〒667-0053 兵庫県養父市

八鹿町小佐 · 〒667-0053 兵庫県養父市


・②の犯行場所である但馬国石原村は、小佐村の隣の村です。現在の養父市八鹿町石原。小佐村から石原村に向かったということは、街道を通るルートは避けて、山中のルートで逃走しようとしたのでしょう。それを、同村の番非人の重太郎から見咎められてしまいました。

八鹿町小佐 to 八鹿町石原

八鹿町小佐 to 八鹿町石原


・被害者は非人番(ひにんばん)の重太郎。非人番とは、江戸時代に農村の治安維持の任務を与えられていた生業です。人を指すときは本史料にあるように「番非人」と呼んでいたのでしょう。
・重太郎は石原村地内辻堂で番をしており、見咎めた三名(加害者)を引っ立てようとするときに、加害者の反抗にあってしまいました。重太郎は十手を持って抵抗したのですが、絞殺されてしまいました。
・加害者は別れて逃走。卯吉は宍栗郡にまで逃走していました。宍栗郡は、概ね現在の兵庫県宍粟市。当時は久美浜県に所属していました。
・それにしても、本件についての明治政府の返答は素っ気無いことこの上ないです。一言「梟首」、これだけです。
・梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首。梟首はこの時代〈極刑〉に分類されていました。死刑と極刑は異なるものであり、死刑よりも重いのが、極刑。
・返答に一言だけ「梟首」とあり、極刑を言い渡すのに、理由もなく、躊躇もないように見えてしまうのが、かなり怖いように感じてしまうのは私だけでしょうか。




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刎首では手ぬるい、梟首にせよ 仮刑律的例 その18 梟首

2023年12月11日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #18 梟首
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
無宿人の庄平と惣太郎は、昨年12月、野後里村の庄屋が伊勢神宮へ年貢を金納する機会に乗じて、庄屋らを道中で襲って殺害し、金200両を奪いました。庄屋は重傷、荷物持ちが死亡。この者らを刎首に処したいので、お伺いします。
【返答】
この者らが行ったことは強盗殺人であり、重々不届きである。刎首ではなく、梟首とすべきである。

(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月(辰年)
無宿人の庄平及び惣太郎(勢州山田町で召し捕り)が、人を殺し、金子・銀札を奪取した件を吟味しましたので、申し上げます。
〈犯行に至る経緯〉
庄平は、遠州佐野郡上芳村の惣左衛門の倅で、両親ともに農業に従事しておりましたが、当人の身持ちが悪く、一昨年(寅年)10月に勘当されて無宿となり、あちこちをふらふらしておりました。
惣太郎は、勢州度会郡三瀬村の要助の倅で、両親とも先年亡くなり、家が仕舞いとなってしまぅたことから無宿となり、あちこちをふらふらしておりました。惣太郎は、昨年(卯年)7月に庄平と出会い、二人して徘徊しておりました。
二人は日雇い仕事などをしておりましたが、それだけでは金銭に難渋するところとなり、同年12月には上方に向かうことに致しました。
同月25日、二人は旅の途中で勢州野後里(のじり)村の左膳という庄屋と会いました。左膳は毎年年貢を伊勢神宮の内宮長官に金納することを知り、この金子を強奪することを共謀致しました。
〈本件犯行〉
同日の暮れに、二人は左膳が内宮に行く後をつけておりましたが、途中で先回りし、勢州上地村縄手にて左膳を待ち構え、脇差しで前後より切りつけました。左膳は手疵を負い、その場から逃げました。また、庄平は両掛(旅行用行李)を担いでいた長作にも切りつけ、同人をその場で殺害しました。両掛(旅行用行李)は惣太郎が奪いとりました。二人は松山まで行ってから、両掛を踏み破って金子・銀札計約200両を取り出し、二人で山分けしました。
〈犯行後の経緯〉
両名は逃亡したものの、山田町で召し捕りました。余罪を追求しましたが、本件だけとのことです。吟味詰めしましたところ、両名事実を認めて謝罪しております。
この件は重々不届きであり、両名に対し刎首申し付けふべきと考えますので、お伺いする次第です。

【返答】
10月8日、天裁(天皇の判断)を経ての回答である。
この者らが行ったことは強盗殺人であり、重々不届きである。刎首ではなく、梟首とすべきである。

【コメント】
・#17に引き続き、#18も度会府からの伺いです。度会府は慶応4年7月6日に設置されました。伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。
・なお、度会府は明治2年7月(1869年)には、 度会県に改称しています。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・本件の犯人は庄平と惣太郎の二人。いずれも犯行当時は無宿人ですが、無宿となった経緯は違っていて、庄平の方は自身の問題を理由に両親から勘当それたのですが、惣太郎の方は両親が亡くなり、家を継ぐこともできなかったという理由によります。
・本件は「勢州」=伊勢国でのものであり、惣太郎も同国のものですが、庄平は「遠州佐野(さや)郡」の出身です。「遠州佐野郡」は現在の静岡県掛川市、森町辺り。この辺りから伊勢の辺りまで流れてきたのかもしれません。
・伺いは、「無宿人として定職にはつかず、日雇いで生計を立てようとするも金繰りに窮して犯罪に及んだ」という一定のパターンにはめこんだ文章になっています。大枠では間違っていないのかもしれませんが、弁護人がいればまた違った主張があったのかもしれません。この時代、弁護人はいないので、その辺りは謎のままですが…。
・被害者は勢州野後里村の左膳という庄屋と荷物持ちの長平です。伺いでは、「野後里村」とありますが、コトバンクには、「野後村」(のじり)とあり同一のものかと思われます。現在地名は度会郡大宮町滝原です。
滝原-伊勢神宮 内宮(皇大神宮)(39 km)
https://maps.app.goo.gl/U4WrZVpLKfXwkvJB7
・野後里村は、毎年年貢を伊勢神宮の内宮長官に金納しており、その道中を狙われたことになります。被害者のどちらかが事情を話してしまったのでしょうか。加害者には大金を狙えると映ってしまったようです。
・加害者が一攫千金を狙ったのは間違いありません。その手段として被害者の殺害を計画していたのでしょう。悪質な犯行ということはなく、死罪は免れません。度会府では、「刎首」の刑に処すべきとの伺いを出していますが、明治政府は「梟首」にすべきとの判断で、考え方に相違が生じました。
・刎首は「身首処を異にす」という点で、斬首(袈裟斬り)と異なります。首と身体を離すか否かに江戸時代は意味を見出していたのですね。
・梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首。梟首はこの時代〈極刑〉に分類されていました(刎首は死刑)。死刑と極刑は異なるものとして認識されていたのですね。
明治政府は、本件の加害者を死刑に処するので手ぬるいので、極刑に処せとしているのです。



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高額窃盗犯を流罪に処す 仮刑律的例 17 流罪

2023年11月20日 | 仮刑律的例
高額窃盗犯を流罪に処す #仮刑律的例 #17 流罪

#仮刑律的例 #17 流罪
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
多数の窃盗を行った者がおり、被害は金105両3分、銀9匁にのぼっております。この者本来は死罪とすべきですが、今般大赦がありましたので、一等を減じて流罪7年といたしますが、よろしいでしょうか。
【返答】伺いのとおりでよい。

(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
無宿で入墨をしている熊蔵(宮後西河原町の源四郎の伜)に対する刑についてお伺いします。
〈前科〉
①元治元年(子年)12月に盗みを行い、吟味の上、敲50回の刑に処しました。
親の源四郎に引渡しましたが、熊蔵の身持ちがよろしくなく、慶応元年(丑年)10月に家出をし、無宿となりました。
②再び盗みをしたことから、慶応二年(寅年)6月に召し捕らえ、吟味の上、敲100回の刑に処しました。
〈本件犯行〉
①去年(卯年)6月ころ、宮後西河原町の脇田宅で銀札3両と3匁を盗みました。
②同年9月ころ、吹上町の信州吉で銀札1両と丸餅30個を盗み、餅は食べてしまいました。
③本年(明治元年辰年)2月ころ、宮後西河原町の又兵衛方で木綿綿入れ一つ、同袷一つ、同単物二つを盗み、綿入れ一つと単物一つは氏名不詳者に銀18匁で売ってしまいました。
④同月、一志久保町の半兵衛方で、八丈縞綿入れ一つ、木綿女浴衣一つ、金巾一つ、同切れ三つ、唐織羽織一つ、金巾腹当て一つを盗み取りました。
⑤同月ころ、江州水口在の氏名不詳者宅で、脇差し二腰、御召羽織一つ、木綿袷一つを盗み取りました。
⑥同年閏4月28日ころ、吹上町の氏名不詳者宅で、二分金5両、銀札1両と3匁を盗み取りました。
⑦同年5月晦日夜、一志久保町の次郎兵衛方で、二朱金26両2朱、銀札30両を盗み取りました。
熊蔵が山田町を徘徊していたところを召し捕らえて取り調べたところ、このような盗みをしたことが分かりました。
被害合計は、金105両3分、銀9匁であり、熊蔵を召し捕らえたときは、39両2朱と銀3匁等しか所持しておりませんでした。
他にも余罪があるのではないかと追及しましたが、これ以外はやっていないとのことです。この者本来は死罪とすべきですが、今般大赦がありましたので、一等を減じて流罪7年といたしますが、よろしいでしょうか。
【返答】伺いのとおりでよい。

【コメント】
・度会府からの伺いです。度会府は慶応4年
7月6日に設置されました。伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。
・なお、度会府は明治2年7月(1869年)には、 度会県に改称しています。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・熊蔵の実家があった宮後西河原町は「みやじりにしかわらまち」と読み、現在でも伊勢市には宮後町があります。
・熊蔵には2回前科があり、いずれも盗み。最初は敲50回でしたが、2回目は敲100回。前科に関する文章には入墨の刑への言及がありませんが、熊蔵が入墨をしているのは、盗みに伴う刑によるものだった可能性もあります。敲の刑については以下のサイトが参考になります。

「百敲(ひゃくたたき)」の刑、吉宗は計算ずくだった – 國學院大學

國學院大學公式サイト。渋谷と横浜・たまプラーザにキャンパス。國學院大學では、日本を学び、世界に貢献できる人材育成を目指しています。

國學院大學


・窃盗については、公事方御定書で、10両以上の窃盗は死罪と定められており、明治元年10月に「倉庫破りをしたが窃盗には至らなかった場合は笞50回、盗みをした場合は被害金額が20金以下であれば笞百回」との修正が加えられています(刑律改定についての行政官布告)。20両超は死罪なので、熊蔵も本来は死罪となります。
・しかし、明治に大赦が出されており、①明治元年となった年の正月以前の犯罪であれば大赦となり、②9月8日以前の犯行であれば、罪一等を減じるというルールになっています。明治元年の犯罪かあるため、一等を減じて流罪となっているのです。


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両親殺しには「破格の極刑」 仮刑律的例 16 磔刑

2023年11月09日 | 仮刑律的例
両親殺しには「破格の極刑」 #仮刑律的例 #16 磔刑

(超訳)
【大津県からの伺い】明治元年十月朔日
両親(養父母)を殺害して、その家にあった金銭を盗んで逃亡した無宿人について、どのような刑に処すべきか教えて下さい。
【返答】
そのような不届き至極の大逆罪を犯した者は、村辺りを引き回しの上で磔。磔刑廃止したが、このような逆罪は破格の極刑でよい。

(詳しい訳)
【大津県からの伺い】明治元年(辰年)十月朔日
新助(無宿者)は、幼年から浅右衛門方(勢州三平郡浜一色村)に養子に出されておりました。しかし、身持ちがよろしくなく、親の意向も無視して伊勢参りをしたため、離縁となりました。
新助は江戸に出て、他家の養子となったのですが、ここもすぐに離縁し、故郷の浜一色村に戻ってきました。
新助は、浅右衛門夫婦が自分を離縁したことを遺恨に思っており、夜中に夫婦両人を殺害。同家にあった金銭を盗んで逃亡しました。
新助は、昨年11月、勢州庄野宿(多羅尾織之助支配所)で召し捕られ、入牢となりました。本年7月23日に当県(大津県)に引渡しとなり、取調べましたところ、上記の事実に相違ないとの申立てを致しました。
本件につきどのような刑に処すべきでしょうか。口書を添えて、お問合せ致します。
【返答】
この者、非常の怨みをもって、養父母を斬害し、その上金子も盗取した。不届き至極の大逆罪であり、居村辺りを引き回しの上で磔とすべきである。磔刑は廃止したが、このような逆罪は非常のことであり、破格の極刑に処せられるべきである。

【コメント】
・大津県からの伺いです。大津は現在の滋賀県ですが、この伺いのあった明治元年には勢州=伊勢国(現三重県)も管轄していました。なお、明治2年9月には、勢州の管轄は度会県に移っています。
・本件犯行現場は、勢州三平郡浜一色村です。現在の三重県四日市市浜一色町。ここに
浅右衛門夫婦が住んでおり、新助を養子にとりました。しかし、新助は養親のいうことを聞かず、お伊勢参りに。

浜一色町 · 〒510-0031 三重県四日市市

〒510-0031 三重県四日市市

浜一色町 · 〒510-0031 三重県四日市市


・浅右衛門夫婦はいうことを聞かなかった新助を離縁。「身持ちがよろしくなく」とありますから、お伊勢参りの一件だけでなく、様々なことがあったと思われます。
・新助は無宿人となって、江戸に出ます。ここでも養子になったのですが、行状はあらたまらなかったようで、ここでも離縁。故郷の浜一色村に舞い戻りますが、そのときに本件犯行を犯してしまいます。
・新助は、夜中に浅右衛門夫婦を殺害。同家にあった金銭を盗んで逃亡しました。殺害の動機は、「浅右衛門夫婦が自分を離縁したことを遺恨に思っていた」となっていますが、夜中であることから、金が目当てであつたと可能性もあります。
・いずれにせよ、本件は今であれば強盗殺人罪に該当し、二人殺していますから、現代でも死刑となってもおかしくない事件。しかも、当時は尊属を殺害するのは、「大逆」であり、この点を明治政府の担当は刑を決める上で重要視しています。
・明治政府の判断は、新助は引き回しの上で磔にせよというもの。磔は極刑です(死刑と極刑は別概念・過去記事参照)。
・明治政府はこの時期焚刑は廃止しておりましたが(過去記事参照)、磔刑は君父を殺した大逆に限定して用いていました。本件の回答でそのことが明らかにされています。
・磔刑が廃止されたのは、 新律綱領(明治3年12月20日)の制定によります。新律綱領により、死罪は「絞」と「斬」のみとなりました。
・新助は、慶応3年11月に庄野宿で召し捕られ(逮捕)、入牢(勾留)となりました。庄野宿は東海道五十三次の45番目の宿場です(現三重県鈴鹿市)。入牢してから大津県に引渡しとなるまで、8ヶ月以上かかっています。



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死んだ者を裁いて良いですか? 仮刑律的例 #15吟味中病死の死骸の処置

2023年09月28日 | 仮刑律的例

#仮刑律的例 #15吟味中病死の死骸の処置
(紀伊藩)からの伺・超訳)
【伺い】明治元辰年十二月廿七日
うちの家来が京都出張中に犯罪に関与していることがわかりました。出張から戻ったら、取調べようとしておりましたが、京都で病死してしまいました。この者の死体はどうすればよいですか。
【返答】
藩主から親類へ引き渡してやるがよい。

以上は超訳したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
(徳川新中納言(紀伊藩)から)
【伺い】明治元辰年十二月廿七日
当藩の家来川端文四郎は、本年九月から公用で京都に出張させておりましたが、不審な事実が判明し、吟味をすべきこととなりました。しかし、同人は京都にて病死致しました。その際、検死にどのようにすべきかと問い合わせましたら、「仮埋めにするがよかろう」との返答でした。この度、共犯者には禁錮を申し付けましたが、川端文四郎の死骸についてはどのように取りはからえばよいか御沙汰のほどお願い致します。
【返答】
川端文四郎については、不審の筋があり、吟味をすべきであったところ、病死したというのであるから、死骸はまず紀伊藩藩主に渡されるべきであり、その上で親類どもへ引き渡されるべきである。

【コメント】
・紀伊藩からの伺いです。江戸時代は徳川御三家の一。徳川新中納言と呼ばれているのは、徳川 茂承(もちつぐ)。紀伊藩の最後の藩主です。
・今回の伺いは、裁判にかけたかったのに、かける前に死んでしまった者の遺体をどうすべきか?というもので、明治政府は「最終的には親類に引き渡せ」と回答しております。現代では当たり前のことなので、何でこのような伺いや返答をしなければならないのか不審に思われる方もおられるでしょう。
・江戸時代は、現代と異なり、死体に対して判決を行っていたのです。シーボルト事件に関与した高橋景保のケースを見てみます。し
文政11年(1828年)10月10日、逮捕。伝馬町牢屋敷にて身体拘を受ける。
翌文政12年2月16日、牢屋敷で死去。
死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政13年3月26日に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上、斬首刑に処せられる。
・現代では起訴されていても、裁判中に死亡すれば、遺体は遺族に引き渡され、裁判は終了(公訴棄却)となります。
しかし、江戸時代は、一部の犯罪(注)について、死体は遺族には引き渡されず、塩漬けで保存され、裁判の対象となり、判決を言い渡されて、刑の執行まで受けるのです。
・紀伊藩は江戸時代の感覚で、家来の死体は保存して裁判にかけるべきなのかどうかを明治政府に伺い、明治政府は江戸時代の考えから決別して、死亡した場合は裁判の対象とはならないと回答したのです。今の視点からは当たり前に見えますが、当時は画期的なことだったのではないでしょうか。

(注)刑の執行前に死亡した場合に死体を塩詰めの上に処刑する犯罪は、主殺し、親殺し、関所破り、重謀計です(公事方御定書)。




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