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仮刑律的例 31・32 強盗に刎首、強盗殺人には梟首

2024年05月30日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 31・32 強盗に刎首、強盗殺人には梟首

【伊那県からの伺】明治二年二月
明治2年2月2日、伊那県よりの伺い
無宿の仲五郎ら計4人(下記)を召捕り、吟味致しましたところ、各所で追剥をし、人を殺害するなどしたと自白しました(その口書は別記のとおり)。
刑につき検討致しました。新しい法令が施行されるまで、故幕府の刑法に基づいて刑を定めることになっておりますところ、追剥をした者又は人を殺して盗みをした場合は、獄門の刑罰が適用されます。ついては、仲五郎ら計4人には梟首を申し付けたく、お伺い致します。至急の御沙汰をお待ちしております。
なお、伝吉の所行は昨年9月8日以前のものでありますが、人を殺害した悪業ですので罪一等を減じることなく、このとおりの伺いとしました。

〈 仲五郎ら4人〉
・真田信濃守領分である信州水内郡権堂村生まれの仲五郎(無宿)
・諏訪伊勢守領分である信州諏訪郡上諏訪村生まれの林蔵(無宿)
・太田栄之丞知行所である信州伊那郡松島村生まれの栄作(無宿)
・内藤若狭守領分である信州伊那郡宮田宿生まれの伝吉(無宿)


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【返答】
明治2年3月19日、天皇の裁定を経て以下のとおり返答する。
一 仲五郎、林蔵、栄作
この3人は、旅人を追剥し、刃物で脅したとのことであり、不届きの至りである。よって、刎首とすべきである。
一 伝吉は、旅人を殺害し、財産を奪っており、不届き至極である。よって、梟首とすべきである。

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(コメント)
伊那県は、慶応4年(明治元年)8月から明治4年11月まで存在していた県。現在は長野県内です。
加害者の仲五郎ら4人はいずれも信州生まれで、その後無宿となり、各所で追剥をし、人を殺害するなどしました。その詳細については以下の口書(供述)をご参照下さい。
4名のうち1名は殺人を実行しており梟首、残りの3名は刎首の刑を言い渡されています。


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〈仲五郎の供述(身上)〉
真田信濃守領分である信州水内郡権堂村で生まれました。父は為助といい、両親は存命、兄が2人、姉が3人、妹が1人おります。
幼少期には、牧野遠江守御城下の小諸町に住む親戚である万屋甚五右衛門のもとで育ちました。一昨年(卯年)の冬に家出し、武州秩父に行きましたところ、兵九郎という博打渡世している者と近づきになりました。
その後、自分が宗門人別帳から外されて帳外となったことを知り、行く宛もないので、知人を頼って、あちこち徘徊しておりました。

〈林蔵の供述(身上)〉
諏訪伊勢守領分である信州諏訪郡上諏訪村で生まれました。
父は元右衛門で、先年亡くなりましたが、母は健在です。兄が1人おり、家を相続しています。家族は6人でしたが、私は6年前に家を出て、無宿となり、あちこち徘徊しておりました。

〈栄作の供述(身上)〉
太田栄之丞知行所である信州伊那郡松島村で生まれました。父は弥平治といい、先年亡くなりました。弟が1人おりましたが、弟も先年亡くなり、家族はおらず独り身となりました。去る寅年に家を出て、無宿となり、知人等を頼ってあちこち徘徊しておりました。

〈伝吉の供述(身上)〉
内藤若狭守領分である信州伊那郡宮田宿で生まれました。父は忠八で、両親とも先年亡くなりました。兄が1人いて家を相続しています。
私は3歳のときに、信州伊那郡貝沼村の喜兵衛という人物の養子となり、19歳のときに家出をして無宿となって東京に行き、下谷金杉町の叔父為七を頼って日雇いの仕事をしておりましたが、天然痘となって仕事もできなくなり、5年前に貝沼村の喜兵衛のもとに戻りましたが、
あちこち徘徊しておりました。
なお、貝沼村の喜兵衛が無宿者を寄せ付けておいたことは不埒であり、吟味の上相応の咎を申し付ける予定です。

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1 犯罪① 旅人への強盗殺人
〈仲五郎と伝吉の供述による〉
昨年(辰年)7月24日、仲五郎は、無宿柳太郎と無宿鷲五郎と林蔵とともに、久保村手前で伝吉と出会いました。彼らは5人で塩尻宿に向かう途中、旅籠屋(名前不詳)で一泊しました。
翌25日の朝、村井宿の博奕場で待ち合わせようといい、伝吉、仲五郎、林蔵の3人で向かっていたところ、途中、林蔵は小用があって一人遅れてしまいました。
伝吉と仲五郎の2人だけが、桔梗ヶ原に差し掛かったところ、年齢30歳ばかりの町人風の者が風呂敷包を背負うのに出会いました。
伝吉は「待て!」と声をかけ、この風呂敷包みを奪い取りました。中には、袴や木綿袷、単物、襦袢各一枚、薬籠一つ、呉呂服紙入一つが入っていました。
伝吉はその場で刀を持って抜打ちに旅人を襲い殺害しました。その後林蔵が追いつきましたので、林蔵にはこれらを奪い取ったとは言わず、持っていてくれといい、仲五郎と伝吉は空手で
塩尻宿まで行きました。鷲五郎と柳太郎がそこにいて、その品々はどうしたのか尋ねました。二人は「博奕で勝って持ってきた」といい、袷を鷲五郎に、単物を柳太郎に着せて、その他の品々は親分に渡してくれと鷲五郎に頼みました。
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2 犯罪② 旅人への強盗殺人
〈仲五郎と伝吉の供述による〉
仲五郎は去年(辰年)8月22日の夜に甲州の無宿岩五郎と共に宮田宿の松弥とかいう者のところへ行きました。
翌23日に3名は、 飯田表新町の旅籠屋(名前は不詳)に一泊しました。翌24日に、岩五郎が大平峠で追剥をしようと言い出し、他の二人も同意しました。
仲五郎と岩五郎は往還脇の熊笹の中に入り、伝吉は往還で待機していました。町人風の者が通りかかったので、3人は旅人を山の中に引き摺り込み、風呂敷包みを奪いました。
岩五郎は仲五郎と伝吉に荷物を背負わせ、仲五郎と伝吉は先に飯田に戻りました。
岩五郎は後から飯田に来たので、どうしたのかと尋ねたところ、旅人はまだ金子を持っていたので(金2両3歩・銭3貫文程度)、奪い取って切り殺して来たと言っていました。
奪い取った品は岩五郎が所持し、金子はそれぞれ分配し、酒食雑用に使ってしまいました。

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3 犯罪③ 殺人
〈仲五郎の供述による〉
昨年(辰年)10月14日、柳太郎と一緒に木下町村の礒右衛門宅に一泊した。翌15日朝、私がまだ寝ているうちに物音が聞こえたため起きてみると、同村に住んでいた無宿の兼吉という者を、柳太郎が殺害してしまった。驚いて事情を聞いてみると、「このことについては子細があり、お前には関係がない。すぐにこの場を立ち去れ。このことは他言無用である」と言っていたので、その場を立ち去りました。


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4 犯罪④ 恐喝
〈仲五郎・林蔵の供述による〉
昨年(辰年)10月23日ころのことでしょうか、私ども二人で貞次郎と申す者(無宿)に出逢い、愚痴等話しているうちに、貞次郎が「街道筋で追剝でもしよう」と話しました。そこで、一緒に塩尻峠へ行き、旅人が通行するのを待っておりました。暮方に商人体の者一人が通りましたので、貞次郎はこの者を捕まえて、「金を貸してくれないか」と強談しましたら、その者は、金子の入った財布と所持之荷物及び脇差を差出しました。
荷物を改めてみると、前下げ巾着一つと真綿足袋がありました。それから、三人で山に入って財布の中を改めまさたところ金8両2歩あり、前掛けの巾着の中には金3歩3朱ありました。このうちの1両2歩と脇差一本は私どもがもらい、その他は貞次郎が取りました。
貞次郎はその時に、これから上州の方へ行くと言っていましたが、何方へいくかは存じあげません。

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5 犯罪⑤
〈仲五郎・栄作・林蔵の供述による〉
昨年(辰年)10月晦日、仲五郎・栄作の二人が小野村近辺で林蔵に出会い、三人で共に諏訪宿へ向かう途中、愚痴等話していました。
塩尻峠に差し掛かったところ、三人組の薬商と思われる者とすれ違いました。栄作が内皮羽織着用の男に、「金を貸してくれないか」と求めたところ、金がないとの返事でした。また、その男の脇差を取上げて見ましたが、これもまた大したことのないものでした。
そうしているうちに、三人のうち二人が逃げ出しましたので、林蔵は自分の脇差を抜き放ち、仲五郎と共に追いかけました。
一人の男が荷物を捨てていきましたので、仲五郎が拾い上げて中を改めたところ、緋弁慶縞海黄約8尺、紺海黄1疋、黒五日市切約3尺、博多帯1筋、木綿袷股引1足、紬縞合わせて羽織タバコ入れ、キセルがあり、これらを奪い取りました。
その後、三人で小野村へ向かう途中に再度改めましたところ、金30両程度をが入っておりました。そのうち15両3分2朱余りは、三人で食事や酒を買ったり、仲五郎が質に入れた木綿縞す袷3枚、脇差2本、木綿単物2枚、栄作が同様に質入れしていた木綿の羽織を1枚、脇差1本を受戻し、残りの金額は7両と銭380文と博多帯は途中でなくしてしまいましたが、その他の品は持っています。
以上自分がした悪事については全てお話ししました。
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仮刑律的例 30 浪人を装った強盗事件⇒刎首

2024年05月20日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 30 浪人を装った強盗事件⇒刎首

【若狭小浜藩からの伺】明治二年正月
明治2年巳3月29日、酒井少将(小浜藩酒井忠義)からの伺い
6名の者(下記)が申し合せ、昨年8月18日の夜、小浜藩の郷中2ヶ所に押し入りました。いずれも、槙蔵を門口に残して見張りをさせ、他の5人が脇差を抜き、会津浪人であると偽って家の表口から入り、住民を縛って金銭や米、衣類などを盗み、各自に分けました。5人が逮捕され、吟味の上自白しましたが、安吉1人が逃走し、現在の行方は不明です。
以上のとおり、大勢の者が夜中に家に押入り、特に脇差を抜いて家の者を脅して縛りあげ、金銭や米手形、衣類、品物などを奪ったのは、強盗の所業であり、不届きであって許し難い罪状です。よって、逮捕された5人の者には死罪を申し付けたく、この点お伺い致します。
〈6名の者〉
・山城国葛野郡上嵯峨村の藤野伊兵衛の伜、源之助(無宿)
・山城国相楽郡木津郷梅谷村の宗三郎の伜、梅吉(無宿)
・播州升田郡加古川宿の枡屋喜兵衛の伜、升蔵(無宿)
・播州明石郡上村の市兵衛の伜、槙蔵(無宿)
・摂州大阪安治川口の福嶋村の淡路屋熊次郎の伜熊吉(無宿)
・河内国富田村出身の安吉

〈被害金品〉
- 現金25両3歩2朱、銭125貫600文
- 米手形約14貫750匁
- 衣類・品物10品
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【返答】
本年3月、天皇の裁定を経て以下のとおり指示する。
この者ども、浪士と偽って強盗を致し、その上刃物を以て威すなど不届の至りであるので刎首とすべきである。

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(コメント)
・浪人を装った強盗事件です。
本件は現在の刑法にあてはめると、住居侵入罪+強盗罪となります。強盗罪は「5年以上の有期懲役に処する」と規定されているので、無期懲役にすらなりませんが、本件は「
刎首」とすべきとされています。
明治政府はこの時期死罪については次のように考えていました。
〈死刑〉刎首(身首処を異にす)、斬首(袈裟斬り)
〈極刑〉磔、焚、梟首(梟して衆に示す)
「刎首」は極刑よりは軽い死刑に分類されますが、「身首処を異にす」即ち、首と胴体を切り離す刑という意味で、斬首よりは重いと考えられていました。
明治政府の返答からは、浪士と偽ったこと、刃物で威したことが量刑のポイントのようです。

・この犯罪が起きたのは、慶応4年8月です(明治2年の前年ですが、明治に改元前の事件です)。
犯行場所は小浜藩内です。幕末に小浜藩は佐幕派の立場をとり、慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の一員として官軍と戦っていますが、敗退して官軍に降伏しています。
加害者らは自分たちを「会津浪人である」と偽っていますが、小浜藩が元は佐幕派だったことから、会津藩の浪人は領内に相当数いて、この時期は浪人が何をしてもおかしくはないという背景があったのでしょう。
なお、加害者らの出身地は、山城国、播磨国、河内国であり、現在の京都、大阪、兵庫であって、会津とは全く関係がありません。

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仮刑律的例 29-2 彰義隊参加者の為の嘆願

2024年05月09日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 29-2 彰義隊参加者の為の嘆願

明治二年已正月十二日、江州伊香郡の禅曹洞宗、栄昌庵悟宗よりの歎願。
【 歎願の内容】
酒井直之助の元家来の松平孫三郎の嫡子右京と申す者がおります。拙僧はこの者と上州前橋竜海院に随身中からの知人です。
このたび右京が落髪して出家し、拙僧のところに来て次のことを話しました。
「今年4月に東京から脱走し、上野の輪王寺宮の守衛である彰義隊に参加しましたが、意見が合わず、様々な問題が発生しました。最終的には追討の御沙汰となり、大罪を犯してしまいました。身の置きどころがなくなり、前非を悔い改めるため、出家をしたい。謝罪をし、仏の慈悲を乞うほかありません。」
これは容易なことではないと驚きいり、一旦は断りました。しかし、出家できなければ自殺しかねない様子。一旦沙門に身心ともに委ね縋っている者を、このまま一命を捨てさせてしまっては、利済の道に欠けるものと思い、天朝に対しては恐れ多い行為ではありますが、やむを得ず法衣を与えました。右京は謹慎し、恭順の意を表明しています。
右京本人に自らの過ちを謝罪させるべきではありますが、近畿に近づくことも恐れ多いことと述べているため、やむを得ず拙僧が彼に代わって謝罪することといたしました。何卒、非常出格の御寛典をもって、右京の
一命を救って下さるようお願い申し上げます。


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【返答】
〈付紙〉
歎願の件は御採用となった。死一等を減じ、元藩への引き渡しとなる。よって、その旨心得ること。

〈明治2年正月二25日、諸侯掛弁事へ返答〉
別紙の通り申し出があったため、酒井直之助の公用人を呼び出し、右京の身柄について尋ねたところ、親孫三郎はかねてより不正の筋があったため、現在格禄を取り上げて、永牢にした処とのこと。右京は上野彰義隊に参加し、官軍に抵抗したのち敗走し、その後行方不明となっていると申述した。これにより、同藩への引き渡しおよび同藩による処置を任せても問題ないと考えられる。なお、右京についてはこれまで当職において関係していないことに留意いただきたい。よって、この段申し入れる。


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(コメント)
松平孫三郎の嫡子右京という者が、彰義隊に参加した罪を悔悟して出家を希望しました。栄昌庵悟宗は僧侶として出家を認め、右京の嘆願をしています。
この嘆願は認められ、死一等を減じ、元藩への引き渡しとなり、同藩による処置に任せられます。
なお、ここでの「元藩」というのは、姫路藩のことです(文中に出てくる酒井直之助は播磨姫路藩主酒井忠邦)。

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仮刑律的例 28&29-1〈兵庫県〉 関係者の役職への処分等

2024年04月29日 | 仮刑律的例

仮刑律的例 28&29-1〈兵庫県〉 関係者の役職への処分等

※本件は仮刑律的例 27の事案において、被害者の一人である三浦行蔵(重傷)及び同行していた杉浦英之進(被害無し)の役職への処分に関する伺いです。詳細な事案は仮刑律的例 27(過去記事)をご参照下さい。
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【兵庫県からの伺】明治二年正月
三浦行蔵からの申出
「昨日6日、私(三浦行蔵)と柘植重次郎は、杉浦英之進と共に喜多村慶二判事宅に赴き、酒肴を求めました。酒が進み、泥酔状態となり、その後のことは全く覚えておりません。手疵を受けたことにつきましては、恐縮するほかございません。処分につきお伺い致します。」
【返答】
正月晦日に付紙で返答。
「この者は、同僚である柘植重次郎及び杉浦英之進と一緒に喜多村慶二方に赴き、酔って同人に対して乱暴な行為に及び、慶二の従者に怪我を負わされた。この始末は不埒であり、役職を免ずる。」

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杉浦英之進からの申出
「昨日6日の午後7時すぎに、同役(船改役)
の柘植重次郎と三浦行蔵と一緒に、喜多村慶二殿宅に赴き、すぐに帰る予定であったのですが、行蔵が慶二殿に酒肴を求め、もともと酒気を帯びていたので、さらに大酔してしまい、重次郎と行蔵が不作法なことを起こしてしまいました。心配となり、両人を制していたのですが、隣の部屋から名前を承知していない人が
重次郎と行蔵に手疵を逐わせてしまいました。私の不行届きにつきましてはお詫び申し上げます。その後、旅館で謹慎をして過ごしています。処分につきお伺い致します。」

【返答】
正月晦日に付紙で返答。
この者は、同役(船改役)の者と喜多村慶二方に行き、同役両名が慶二に対して乱暴な振る舞いをしたのであるから、取り鎮めなければならないところ、取り鎮め方に不行届きがあったものである。よって、謹慎30日とする。

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(コメント)
本件は仮刑律的例 27の事案の関係者の役職への処分に関するものです。
仮刑律的例 27の事案というのは次のようなものでした。
* 明治2年1月6日、喜多村判事の下男友次郎が、運上所船改役の柘植重次郎と三浦行蔵に手疵を負わせた。重次郎と行蔵が酔狂に乗じて判事に対し不作法な行為を行ったため、友次郎は怒りにかられ脇差で両名に切り付けた。重次郎は余病を発して7日に死亡、行蔵は重傷を負ったが快復。
今回の伺いは、被害者の一人である三浦行蔵(重傷)及び同行していた杉浦英之進(被害無し)の役職への処分に関するものです。
三浦行蔵⇒免職
杉浦英之進⇒謹慎30日

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仮刑律的例 27 兵庫県での 酔狂乱暴につき流刑

2024年04月18日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 27 兵庫県での 酔狂乱暴につき流刑

【兵庫県からの伺】明治二年正月
明治2年巳正月7日、兵庫県からの伺い
先日(6日)、当県の判事である喜多村慶二の下男の友次郎が、同県運上所船改役の柘植重次郎及び三浦行蔵に手疵を負わせました。詳細は別紙始末書のとおりです。友次郎には入牢を申し付けました。
重次郎と行蔵が酔狂に乗じて不作法な行為を働き、士道を見失って禍を起こしたことは不埒至極であります。
怪我を負った両名にはすぐに治療を致しましたが、柘植重次郎は余病を発し、翌7日に死亡しました。三浦行蔵は快復してきております。
喜多村慶二判事は特段の落度もありませんので、これまでどおり勤務するようにと申し渡しております。
三浦行蔵及び下男の友次郎にはいかなる刑とすべきかお伺い致します。
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〈喜多村慶二判事から伊藤博文五位(兵庫県知事)への届書〉
昨日(6日)、七つ半頃、船改役の三浦行蔵外二名が面会を求めてきました。ちょうど夕食中であったため、夕食の後に面会しようとしたところ、三浦行蔵はひどく酔っておりました。三浦に同行していたのは船改役の柘植重次郎と杉浦英之進でしたが、この両名は面識のない者でした。面会したものの、具体的な用件もなく、酒がほしいというので、酒肴を出しました。
彼らは酔狂に乗じて暴言だけでなく、様々な不作法をしてきました。さらに酔いが回って私に対してあまりにも酷い悪口雑言を行いました。
三名のうち、杉浦英之進は最初から冷静であり、三浦行蔵と柘植重次郎の乱暴を抑えようとしていましたが、両名は取り合いません。
安井喜代三が来て、杉浦英之進と共に両名を何とかしようとしましたが、両名はますます暴れるばかりです。
これに我慢がならなかったのでしょう、下男の友次郎が勝手から走って参りまして、いきなり両名に対して手疵を負わせたのです。
このような不始末となってしまい、このまま自分の職務を続けてよいかと恐れ多く感じており、謹慎をさせていただきます。この上はいかなる処分もお受け致しますので、よろしく御沙汰ください。以上のとおり申上げます。
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〈兵庫県判事喜多村慶二の下男友次郎(50歳)の供述〉
私は、昨日(6日)、柘植重次郎殿外一名に対して怪我を負わせてしまい、御吟味を受けております。
私は兵庫県東柳原町に住んでおり、主人の喜多村慶二方で昨年6月から奉公しております。
昨日(6日)、夕刻に食事の用意をしていたところ、普段見知たことのない三人の者が主人に面会したいとやってきました。その旨取次の者に伝えましたが、主人の言葉も聞かないうちから玄関から入ってきました。主人は夕飯中であり、夕食後に面会する旨、取次の者が伝えました。
三名はいずれもかなり酔っており、酒を出せと申しますので、彼らのいうとおり酒肴を出しました。彼らは、主人と一緒に酒を飲んでおり、当初は暴力的なものはなかったのですが、段々と酒が進むにつれ、場を弁えず、言葉が粗暴なり、かつ、不作法なことを行い、主人のことを軽侮嘲弄する始末です。心もとないため、隣の間に控えて三人の動静を伺っておりましたところ、いよいよ暴言が甚だしくなり、一人は倒れて酒肴の器を両足で蹴っ飛ばしました。主人が便所に用を足しに行くのを、「逃げやがった」等と罵っていました。
このとき大阪府より急ぎの御用状が届き、これに返答するため、主人は御用状の返事を書かなければならなくなりました。その際に、主人を軽侮嘲弄したのです。主人は酔った者であり、このようなことをされても頓着しないで、平然と対応しておりましたが、彼らはそれにつけ込み暴行に及んだのです。折しも安井喜代三殿が来訪され、杉浦英之進殿でしょうか(その当時名前を存じあげませんでした)を隣室に招き入れ、何やら話をしていた。その間にも、柘植重次郎外一名が、主人に対して暴言を浴びせました。私は、彼らの以前からの粗暴な振る舞いに腹を立て、また主人が屈辱を受けているその心中を推し量り、身分の低い自分ながらも憤慨を隠し切れず、主人の恩義に報いるのは今しかないと思い、覚悟を決めて、主人から渡されていた脇差で二人に傷を負わせました。
このような行為に及んでしまい大変恐れいっております。この上は法に従って処罰を受ける覚悟であります。以上につき相違ございません。
以上。
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【返答】
正月晦日付紙
本件は、柘植重次郎と三浦行蔵が酔って主人の喜多村慶二に乱暴な振る舞いをしたため、主従関係にあるこの者が憤懣に耐えられなくなって切り付けたものである。過激な行動を取ったことは不届きであり、流刑とすべきである。
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【コメント】
本件は、兵庫県の喜多村慶二判事の下男、友次郎が2名の者に脇差しで切り付け、一名を死亡させ、一名に重傷を負わせたものです。
現代であれば、殺人罪か傷害致死罪かが大いに争われそうですが、その点についてはあまり意識された論述となっていません。
友次郎の刑は流罪となっています。



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仮刑律的例 26 長崎府からの刑律問合

2024年04月06日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 26 長崎府からの刑律問合

【長崎府からの伺】
明治2年正月、長崎府からの問い合わせ。
刑律は、新律の御布令まで、故幕府への御委任に基づく刑律(公事方御定書)が継続されますが、
・磔刑は君父を弑する大逆に限ること
・その他の重罪や焚刑は梟首とすること
・追放や所払いは徒刑に変えること
・流刑は蝦夷地に限られること
・百両以下の窃盗罪は死罪とはならないこと
と修正する旨定められています。
また、死刑については勅裁を経ることが必要で、府藩県とも刑法官に伺いを出すべき旨の行政官からの御布令もでています。
しかし、これまで当地においては徒刑を行ったことがありませんので、徒刑の取り計らい方等につき、問い合わせいたします。
【伺い①】
一、これまで長崎で行われていた入墨・敲・追放や所払いなどの御仕置きを申し付けていた無宿者、又は無罪であっても無宿であり、所々を立ち回って風儀がよろしくない者は、同所大黒町にある人足寄場へ送っていました。銘々のスキルに従って仕事をさせて、説諭を加え、その罪の軽重や身の慎み方の良し悪しに応じて、寄場にいる年限や月限を定めます。期限が来て、身寄りの者の引き受けの願い出がある場合は引き渡しを致します。以上が旧幕府時からの仕来りであります。
今般、この寄場を徒刑場に換え、追放や所払いを徒罪に換えますが、従前と同様、銘々のスキルに従って仕事をさせ、年限が来て、身寄りのものが引き受けの願い出をすれば引き渡す扱いとさせていただきたくお伺い致します。
【返答①】そのとおりでよい。

(コメント)
長崎府の伺いを読むと、長崎府が人足寄場をどのように運用していたのかが分かります。
* 長崎では旧幕府時代から、無宿者は人足寄場へ送られていた。人足寄場は大黒町(現長崎市大黒町)にあった。
* 寄場では、スキルに応じて仕事をさせ、罪の軽重や改心の有無に応じて滞在期間を定めていた。
* 身寄りの引き受けがあれば引き渡しをしていた。


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【伺い②】
一、徒刑の年限は、先例がないため当分の間次の通りでよいか伺います。
- 敲の上、重追放相当者- 1800日
- 重追放- 1440日
- 中追放- 1080日
- 軽追放- 720日
- 長崎市中郷中払- 540日
- 長崎払- 360日
- 所払- 200日
【返答②】徒刑の年限は行政官布告のとおりとせよ。
(明治元年10月行政官布告抜粋)
徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。

(コメント)
徒刑というのは現在の懲役刑です。徒刑は江戸時代にはなかったものですが、「追放や所払いは徒刑に変えること」というのが明治政府の方針ですので、府藩県は徒刑期間をどのようにすべきか戸惑いました。明治政府はこの点について、「徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。」というばかりで具体的な指示を出さなかったので、なおさらです。長崎府の徒刑期間案は、この時期の徒刑期間が分かり、大変興味深いものです。
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【伺い③】
一、徒刑場の囲いを破ったり乗り越えて逃げたりする者には、御仕置きを行うことを承知してください。
【返答③】返答②に同じ。
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【伺い④】
窃盗の被害金額が百両以下の場合は死罪とはしないと行政官布告にあります。これは、手元にある品をはからずも盗んだ場合、戸が開いていた場合、家の中に人がいなかった場合の規定と受け止めております。
窃盗の際に人を殺し又は傷つけた場合、計画的に徒党を組んで押込みをした場合、家の中に忍入ったり土蔵破りをした場合、追剥や追い落としをした場合は、被害金額の多少によらず、長崎府の先例どおりに仕置をしてよいかお伺いします。
また、入墨の上重敲・入墨敲・重敲・敲相当の罪状の者は、行政官のご布告により徒刑に換えますが、次のように換えることでよいか伺います。
- 入墨の上重敲相当の者: 入墨の上、200日の徒刑
- 入墨敲:入墨の上、100日徒刑
- 入墨:400日徒刑
- 重敲:200日徒刑
- 敲:100日徒刑
- なお、入墨を入れる場合は左手の甲に「長崎府二百日徒刑」「長崎府百日徒刑」と入れるように致します。
【返答④】笞刑は五十又は百の二通りと仮に定めたので、それに従うこと。入墨等については、新律が制定されるまでは、従前のとおりで良い。

(コメント)
この伺いには2つ質問がありますので、問の内容毎に見てみましょう。
1 次のような場合は死罪を検討してよい。
・窃盗の際に人を殺し又は傷つけた場合
・計画的に徒党を組んで押込みをした場合
・家の中に忍入ったり土蔵破りをした場合
・追剥や追い落としをした場合
1 長崎府では、入墨の上重敲・入墨敲・重敲・敲の刑を行っていたところ、敲刑を徒刑に変えなければならないと考えていたようです。
しかし、明治政府はこの時期は笞刑を認めており、その数は50回又は100回の二通りと仮に定めていました。
また、入墨を入れる刑も認められていました。

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【伺い⑤】
御仕置の伺書については、旧幕府のときのようなもので良いでしょうか。幕府のときに雛形が用意されておりましたが、その通りでよいかお伺いします。
【返答⑤】そのとおりでよい。
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長崎府での死刑は事後報告で処置してもよいですか 仮刑律的例 25 死刑臨機処置

2024年02月24日 | 仮刑律的例
長崎府での死刑は事後報告で処置してもよいですか
仮刑律的例 25 死刑臨機処置

【長崎府からの伺】明治二年正月
明治2年正月、長崎府から問い合わせあり。
【伺い】
先般死刑は刑法官に伺うべき旨の御布告がありました。問題が生じた時々に伺いをなすべきではありますが、当府は遠路隔絶した場所にありますので、伺書の往復は時間がかかります。特に刑事事件は、その者を斬に処し、衆人に対する戒めとするタイミングというものがあります。時宜により当府限りで処置させていただき、その内容につき至急お届けすることにしたいので、この点につきお伺致します。以上。
【返答】
正月十七日に押紙で返答。
伺いの書面の通り取り計らってよし。

(コメント)
・長崎府からの伺いです。このときは「長崎府」でした(長崎府は、慶応四年(明治元年)五月から明治二年六月まで存続し、以後は、長崎県)。
・伺いにあるように、このときは死刑につては刑法官に伺いを立てなければなりませんでした。長崎は遠方の地であり、速やかに刑を宣告し、執行を行いたいことから、長崎府は刑法官に伺いを立てることなく、後でそのことを報告するようにしたいと要請しており、刑法官としてはそれで良いとの返答です。
・「刑法官」は慶応四年(明治元年)閏四月の政体書の発布に伴って設けられた司法機関で、明治二年七月には「刑部省」に改組されています。



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女性に笞刑はできないので、どうすれば… 仮刑律的例 24 徒刑処置

2024年02月08日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 24 徒刑処置

【京都府からの伺】明治元年十二月廿六日
穢多の身分の女性四人が共謀等して窃盗等を致しました。被害額を規則に引当ててみますと、笞百回又は五拾回に相当します。女性でありますので、笞刑は避けたいと考えております。
そこで、徒刑場を作った上で、徒刑を宣告することを考えましたが、穢多や全くの非人は徒刑から除こうと考えておりましたので、徒刑を宣告することもできないようにも思えます。
どのような刑とするか当府において検討すべきところですが、明治政府のお考えも承知致したく、お伺いするものです。
①無宿の穢多りう、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金弐両壱歩三朱と銭百四拾文。
②無宿の小鶴、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金五両弐歩弐朱と銭五百文。
③無宿のとく、単独又は共謀して盗取した品物 売捌き代及び配分された金額は、金六両弐歩壱朱と銭四百文。
④無宿の小せん、共謀して盗取した品物 売捌いて配分された金額は、金弐両老朱。

【返答】
非人や婦女は、それぞれ区別をして徒刑を行うのが最も良い。徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよい。


(コメント)
・この伺いが出されたのは明治元年ですので、穢多非人等の称や身分が残っていました。これらがされたのは、明治4年8月28日(1871年)の太政官布告です。
・本件伺いに名前が挙げられている者たちが、どのような理由により窃盗に及んだかは書かれてはいないものの、政治経済が不安定な世の中で、経済的弱者が一層弱い立場に置かれていたであろうことは、容易に想像できます。
・窃盗の刑は被害額によって定められていました。公事方御定書では重敲、軽敲といった笞刑をすべき旨規定されており、明治政府はこの回数を次のとおり仮定めしていました(明治元年十一月四日の京都府の伺いへの回答)。
5両以下は笞50回
10両以下は笞100回
20両以下は徒1年
40両以下は徒1年半
(以下略)
これを当てはめると、女性たちには笞50回又は100回という刑になってしまいます。
・しかし、ここで京都府は「女性でありますので、笞刑は避けたい」と考えます。こういう感覚は非常に重要です。公事方御定書では、笞刑としか書いていないのです。ですから、笞刑を宣告してもそう書いてあるから仕方ないで済ませることも可能です。
・しかし、京都府の担当者は、女性だから笞刑はやり過ぎだろうという感覚をもっていました。そこで、本件の伺いとなったのです。
・「女性だから笞刑はやり過ぎ」という考え方は現代の人権感覚に通ずるものがありますが、一方で「穢多や全くの非人は徒刑から除こうと考えておりました」というところは、差別そのものの発想であり、人権感覚とは対極にあります。
・明治政府は、①徒刑を行うのがよい、②徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよい、③徒刑を行う場合は、婦女、非人は区域を別にすべきとの回答でした。
女性には笞刑を避けるが、非人との差別は残すとの京都府の考え方と同じです。



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窃盗の被害が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回。仮刑律的例 23 刑律問合

2024年01月29日 | 仮刑律的例
窃盗の被害が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回。仮刑律的例 23 刑律問合

(明治元年十一月四日、京都府からの伺)
昨日(11/3)、行政官から以下のような達を受けました。
新しい律を公布されるまでは、幕府が制定した刑律(公事方御定書)に基いて行うが、死刑は天皇の御勅裁を経ること、追放刑・所払い刑は徒刑へと変更すること、流刑は蝦夷地に限ること、窃盗については旧例のとおり被害額百両以下は死刑にしないとの達。
府は、以下の点に疑問を持ちましたので、どのように取り計らうべきかお伺い致します。

【伺い①】その場で盗心を生じて窃盗に及び大金を取得した者、計画的な犯行でない者については死刑でよいでしょうか。それとも減軽してもよろしいものでしょうか。
【返答】ふと悪心を生じて窃盗した者の刑罰は一等軽くしてよい。

【伺い②】笞刑は廃止でしょうか。これまでどおり笞刑を行う場合は、金額の多少と笞数を教えてください。
【返答】新しい律が定められるまでは、幕府が制定した刑律(公事方御定書)のとおり重敲、軽敲といった笞刑を行う。もっとも、金銀の相場が制定当時と変わっているので、以下のとおり仮に定める。
5両以下は笞50回
10両以下は笞100回
20両以下は徒1年
40両以下は徒1年半
60両以下は徒2年
80両以下は徒2年半
100両以下は徒3年


【伺い③】徒刑は被害額の多少で刑の日数を変えるのでしょうか。また、徒刑は盗賊に対してだけに科すものでしょうか。盗賊以外にも徒刑を科して良いのであれば、その犯罪を予めお教えください。
【返答】徒刑は盗賊に対してだけ科すものではない。どのような犯罪でも徒刑を科してよいので、その犯罪を予め教えるというのは難しい。なお、刑の軽重は、死刑、流刑、徒刑の順である。

【伺い④】流刑につきましては、遠・中・近の区別がありますが、どのような犯罪の場合に、どのような刑を行えばよいか予めお教えください。
【返答】漢土(中国)では流刑は、3000里、2500里、2000里の区別があるが、故幕府律(公事方御定書)では、遠・中・近の区別はない。京・大阪からは何島、江戸からは何島に流刑にせよとの定めのみがある。
流刑にすべき者:追放刑にしたのに追放場所から戻った者、女犯の僧、15歳以下で死罪にあたる罪を犯した者。それ以外は一つ一つ答えることはできない。

【伺い⑤】強盗、追剥、追落はいずれも重罪であり、金額の多少にかかわらずに取り扱うということでよろしいでしょうか。また、この三者に違いがあるのかもお教え願えますか。
【返答】故幕府の律書(公事方御定書)では、追剥は獄門、追落は死罪と区別している。それ以外は、強盗、追剥、追落はいずれも重罪であり、金額の多少で取り扱いを変える必要はない。

【伺い⑥】盗物と知っていながら、又は怪しい品と気がつきながら、盗賊から買い取った者の刑律について伺います。
【返答】故幕府の律書(公事方御定書)では、盗賊と知りながら買い取った者は、所払いとある。

【伺い⑦】盗賊と知りながら、宿を貸した者の処置につき伺います。
【返答】死罪になるべき盗人に宿を貸した物は田畑取り上げの上で所払い。村役人、名主、組頭、五人組はいずれも過料を申し付ける。死罪とはならない盗人に宿を貸した場合は、一等軽くすべきである。


【コメント】
・京都府からの伺いです。具体的な事件についての問い合わせではありません。法律上の問題といった体の質問です。
・【伺い①】は、計画的でない窃盗の量刑についての質問。計画的でない窃盗は一等減じて刑を量定すべきというのが明治政府の方針です。
・【伺い②】は笞刑についてのもの。京都府は笞刑は廃止か?と考えていたようですが、明治政府は、この時点では笞刑は存続する意向です。窃盗の被害額が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回と仮に定めています。それ以上の額は徒刑にすべきとの考えです。
・【伺い③】は徒刑についてのもの。徒刑は、公事方御定書には規定がなく、明治になってから新しく導入された刑ですので、京都府がその適用に戸惑うのも無理はありません。明治政府の布令(明治元年十月晦日)は、概略次のように規定していました。
①新律の布令までは幕府に委任していた刑律(公事方御定書)によるべきであるが、追放・所払は徒刑に換えるべき。
②徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。
追放・所払は徒刑に置き換えよとの指示はなされていますが、それ以外に徒刑を科してよいかどうかは不明なことから、京都府は政府に伺いを行ったのでしょう。
明治政府は、徒刑は盗賊に対してだけ科すものではなく、どのような犯罪でも徒刑を科すことはできるという立場を取っています。
・【伺い④】は流刑についてのもの。流刑は島流しのことです。京都府は「流刑は遠・中・近の区別がある」としていますが、これはそういう慣習となっていたもので、公事方御定書にはそのような規定はありません(明治政府の返答でもこの点を指摘)。
明治政府は、流刑は蝦夷地に限るとして、流罪を限定する方針を打ち出しておりました。
・【伺い⑤】は強盗、追剥、追落についてのもの。これらは「重罪」とされ、いずれも死罪以上の刑。現代の感覚からすると、死罪よりも上があることが分かりづらいのですが、この時代は犯罪者の死なせ方、その後の遺体の処理の方法により、死罪よりも重い刑があると考えていました。
・【伺い⑥】は、盗んだ物と知っていながら、又は怪しい品と気がつきながら、盗賊から買い取った者の刑律について。今の「盗品等関与罪」ですね。公事方御定書では、所払いにしていたのですね。もっとも、明治政府は所払いの刑は徒刑に変更せよという方針でした。
・【伺い⑦】盗賊と知りながら、宿を貸した者の処置。死罪になるべき盗人か否かで区別し、死罪になるべき場合は重く処罰されます。村役人、名主、組頭、五人組は、宿を貸した者が出たこと自体の責任を取らされるというのも、この時代の特徴。村内で宿泊する者はちゃんと管理しておかないといけないことになっており、管理不行届により処罰されてしまいます。


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山田大路陸奥を禁錮にせよ 仮刑律的例22 禁錮

2024年01月25日 | 仮刑律的例

山田大路陸奥を禁錮にせよ #仮刑律的例22 禁錮


#仮刑律的例 #22 禁錮

(超訳)

【度会府からの伺い】明治元年十月

先月16日に伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したのですが、当度会府の御用掛である山田大路陸奥が「これはただ事ではないので、今上天皇の江戸への御出輦の可否とも関係する神慮ではないか」と考え、正式な手続きを経ずに京都の友人にその旨を書き送りました。以前から姦雄といわれていたこの者の今回の所業いかなる処置といたしましょうか。

【返答】

今上天皇の江戸への御出輦のときに、決められた手続きを経ずに妄説を説いたのは不届きである。官爵を解き、禁錮を申し付けるべきである。


(詳しい訳)

【度会府からの伺い】明治元年十月(辰年)

当度会府の御用掛である山田大路陸奥の件、どのように処理しましょうか。早急にご判断いただくようお願い致します。

〈度会府の見解〉

先月16日に伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊しました。鳥居は朽廃が原因で倒壊したのですが、

山田大路陸奥は、この災異に付会して、今般の明治天皇の御東幸の盛挙をみだりに誹議し、所見を陳じたものです。

この者、すこぶる才名があり、交際範囲も広く、以前から姦雄といわれておりましたが、今回、度会府、祭主、禰宜、大宮司にも知らせず、京師に密使を走らせております。

このことは、祭主・宮司の怠慢をあばき、己の忠義を売って僥倖を計ろうとしたに相違ありません。

鳥居の倒壊の原因につき、よくよく見分することもなく、巷談を信じ軽易建言に及んで衆聴を驚かそうとしたこと、不届きというほかありません。いかが処理すべきかお伺いします。

なお、山田大路陸奥には当度会府の御用掛を申し付けてありますが、任用を続けてよいか否かも合わせてご指示ください。


〈山田大路陸奥の口上〉

先月16日に内宮冠木御鳥居が倒壊した件ですが、私が知りましたのは翌17日です。17日は持病の疝痛で終日引きこもっており、夜になってようやく持ち直してきました。深更になってから、司中前政所の岩淵修理から話したいことがあるとの連絡があり、大宮司家に行きました。

祭主様(大中臣教忠)と政所にお会いし、用向きも済みましたので、帰ろうかと思っていたところ、公文所に前政所岩淵修理、権政所上部令使の三室戸様、雑掌の林筑後の三人がおりました。この方々から、昨日内宮の由基御撰調進の時刻に、冠木御鳥居が倒壊し、その後に大きな穴ができてしまったことを聞きました。このことは17日朝に、禰宜中から祭主様に届けがあったとのことですが、司中にはまだ届けがされていないとのことでした。

本件のようなことは、書面で御総官へ申達するのが通例ですが、御総官は東京へご参行中とのことでした。

祭主様は「(明治天皇が)東京へまもなくご出輦されるとのことであるから、ご帰京された後に神祇官衆中へご相談することとしょう。」と仰り、ご報告を留保されるご意向を示していました。

以上のような話しをして、帰宅いたしましたが、考えてみますと、少しも風が吹いていなかったのに理由もなく、鳥居が倒壊したということは、何か神霊に関わるようなこと、神慮を何か問うようなことがあるようにも思われます。

そういえば、近日中には、(明治天皇の東京への)ご出輦の可否につき恩給勅使により、伊勢神宮に神慮をお窺いするとも聞いておりました。

だとすれば、これは容易ならざることです。私のような小民が私見を申し上げるのも恐れ多いことです。そこで、私見を京都にいる相職にお知らせし、その取り扱いについては、友人たちの相談に任せようと思いまして、書面を書き、18日の昼に師岡豊輔宛に発送したのです。師岡がいないときは、樹下石見守、権田直助、落合一郎らに披見するように申しつかわしております。

師岡は不在であったため、樹下らがこれを取り扱ってくれたとのことでございます。

今回のことは、あくまでも玉体の御安泰を祈念して行ったものでありますが、鳥居が腐朽して倒壊したという可能性も考えず、かような御迷惑をおかけしましたことは、今更ながらではありますが、恐縮し後悔しているところです。

この段よろしくご恕察願い奉ります。


【返答】

山田陸奥のこと、決められた手続きを経ず、鳥居の倒壊という容易ならざる事件について妄説をなし、(明治天皇の東京への)ご出輦に際して、衆聴を驚かせたのであるから、不届きである。よって、官爵を解き、禁錮を申し付けるべきである。


【コメント】

・度会府からはこれまで2回伺いが仮刑律的例に取り上げられています(17&18)。今回の伺いで3回目となります。度会府は慶応4年7月6日に設置され、伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。度会府は明治2年7月(1869年)に、度会県に改称。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。

・本件で問題となっているのは、「山田大路陸奥」という人物です。度会府の職員をしており、これまで紹介してきた事例に出てくる無宿人等とは全く違うタイプです。

・犯罪とされた事案を見ても、伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したことを、正式なルート外で外部に漏らしたというもので、現代風にいえば公務員の守秘義務違反というよあにしか見えません。このようなことを理由として、「官爵を解き、禁錮を申し付ける」とするのは、いかにも行き過ぎのように思われます。

・このような過酷すぎる刑となったのは、明治天皇の東京への出輦が絡んでいるのでしょう。

明治天皇は、明治元年9月20日に京都を出発、10月3日東京着。12月22日に京都に帰着しています。伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したのは9月16日であり、京都出発の直前という時期でした。

明治天皇の東幸(東京への行幸)は、首都をどこにするかとも関わる政治的に重要な行事であり、明治政府としては邪魔が入らないように気を遣っていたはずです。

政府としては、山田大路陸奥が何らかの謀略を企てたと考えたのかもしれません。

・山田大路陸奥は、幕末に様々な活動に加わっていたようであり、『三重県下幕末維新勤王事蹟資料展覧会目録』中の『山田大路親彦事蹟資料』には、「師檀関係により薩藩の俊傑と交わり、又諸国の勤王の士と相往復し、文久三年五月捕らわれて入獄。後解放さる。」との記載も見えます。度会府の伺いに、「この者、すこぶる才名があり、交際範囲も広く、以前から姦雄といわれておりました」とあるのは、このような経歴を指すものと思われます。

・しかし、それにしても山田大路陸奥が謀略を企てたとまでは立証できていません。政府の回答も、「鳥居の倒壊という容易ならざる事件について妄説をなし、(明治天皇の東京への)ご出輦に際して、衆聴を驚かせ」たと認定しているに過ぎず、謀略を企てたことにはなっておりません。

それなのに、懲戒免職・禁錮というのは、いくら何でも重すぎると言わざるをえません。

・山田大路陸奥は、本件で禁錮となり、まもなく亡くなってしまいました。『山田大路親彦事蹟資料』には、「東京遷都の議あるや、意見書を上る。事、当局の忌諱に触れ、度会府より禁錮せらる。明治二年二月二十日歿。年五十五。」とあります。明治政府の回答からはわずか4ヶ月後のことでありました。



━━━━━━━━━━━━━

2024年2月1日追記

本ブログをアップしてから、千田稔『伊勢神宮』(中公新書)に以下の記載があることを知りました。明治元年9月20日の明治天皇が東京に行幸する際に、大津駅で京都に戻るよう権中納言大原重徳が権言をするという事件があったのです。同書てわは『明治天皇紀』(第一)からとして以下のように述べています。


〈辰の刻(午前八時)、紫宸殿を出発。輔相岩倉具視をはじめ議定中山忠脳らが供奉したが、護衛の者を含めると三千三百余人からなる列をなした。沿道の老若男女は天皇の一行を見送り、粛然として拍手の音が絶えることがなかった。(中略) 三条通を東に向かい、粟田口の青蓮院(京都市東山区)で昼食とした。(中略)未の半刻(午後三時)に大津駅に到着。このとき権中納言大原重徳(1801-79)という人物が馬を馳せ てきて、天皇が京都に還行することを建言する。大原重徳は尊攘派公家としてその 名を知られていた。馬を馳せてまで京都還幸を建言した理由は去る十六日夜、豊受大神宮 (外宮)の大祭をとりおこなっていた最中に皇大神宮(内宮)の大鳥居が転倒してお り、神職らが皇大神の警告とみなし急使を派遣して京都に報告したためであった。大原重徳はもとより東京を皇都とすることに反対の立場であったので、東京行幸を阻止するためにこの挙にでたのであった。しかし、岩倉具視は、この建議をしりぞけ、誓書を神明に奉るべきことを大原重徳に約束て、京都に帰らせて、ようやく事なきを得た。〉







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