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南斗屋のブログ

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追放刑をやめて徒刑にせよ 仮刑律的例21 徒刑

2024年01月18日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #21 徒刑
(要約)
【堺県からの伺い】明治元年十一月八日
従前の追放刑を徒刑(懲役刑)にするようにとのご布令は承知致しました。今後、人別に加わっていた者については徒刑に致します。ところで、無宿人についてはどのようにしたらよろしいでしょうか。追放刑でよいでしょうか。他所で出生して無宿となった者には焼印を押すことでよろしいでしょうか。
【返答】無宿人であっても徒刑にすべきである。なお、焼印はすべきではない。

(詳しい訳)
【堺県からの伺い】明治元年十一月八日(辰年)
御仕置の件につきまして、追放・所払いを徒刑(懲役刑)に換えるという御布令については承知致しました。
旧幕府法で人別に加わっていた者については、今後追放・所払いではなく、徒刑を申し付けますが、なお不明な点がありますので、お問合せさせていただきます。
無宿人が盗みをいたした場合、どのように処置したらよろしいでしょうか。これまでのように敲(たたき)の上で追放してもよろしいでしょうか。
管轄地で出生の者である場合は、徒罪を申し付けた上で、満期となった後、元在所に引渡して人別に加えさせるのがよいでしょうか。
他所出生で無宿となった者は、これまでどおり敲の上で追放してよいでしょうか。追放する際は、内股に「サ」の字の焼印を押しておりますが、それでよろしいでしょうか。
以上、ご相談致します。
【返答】管轄所で出生して無宿となった者、他所で出生し無宿となった者のいずれも徒罪とすべきであって、追放・所払いとすべきではない。この点については、そのうちに規定も整えるので、処置の仕方も分かるようになるであろう。
なお、焼印については見合わせるべきである。

【コメント】
・堺県からの伺いです。堺県は、慶応4年(=明治元年;1868年)〜明治14年(1881年)まで存続した県です。
・今回の伺いは、追放・所払いの刑はやめて、それを徒刑(懲役刑)にしなさいという明治政府の布令に関する伺いです。
・追放刑は、犯罪者を一定地域への立入を禁止するものです。立入禁止地域を「御構場所」といい、公事方御定書では、重追放、中追放、軽追放、江戸十里四方追放、江戸払、所払に区分されていました。
・明治政府の布令(明治元年十月晦日)は、追放について、概略次のように規定しています。
①刑律制定は重要であるが、新律制定の暇がないので、新律の布令までは幕府に委任していた刑律(公事方御定書)によるべきである
②もっとも追放・所払は徒刑に換えよ。
③徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。
・それでは、明治政府の布令を無宿人にどのように適用したらよいのでしょうか。無宿人が盗みをした場合、これまでは敲(たたき)+追放という処置をしていました。追放刑⇒徒刑と単純に置き換えると、敲+徒刑となってしまいますが、これでは刑が却って重くならないだろうかというのが堺県の問題意識にあるようです。
・この点についての明治政府の返答は、「管轄所で出生して無宿となった者、他所で出生し無宿となった者のいずれも徒罪とすべきであって、追放・所払いとすべきではない。」
というものでした。どのような場合であっても追放刑を行わないということはこれで明らかになりました。
・堺県からの伺いには、身体刑も問題にされています。伺いでは、「追放する際は、内股に「サ」の字の焼印を押しております」とあり、これまでは焼印を押していたことが分かります。明治政府は「焼印については見合わせるべきである」とし、焼印の廃止を明らかにしました。



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刑罰・拷問をしてはならない日はいつですか 仮刑律的例 20刑罰拷問可除定日

2024年01月11日 | 仮刑律的例
刑罰・拷問をしてはならない日はいつですか 仮刑律的例 #20刑罰拷問可除定日

【倉敷県からの伺い】明治元年十月(辰年)
断獄(刑事裁判)を避けなければならない日は、いつになりましょうか。この点をお伺いしたく申し上げます。
【返答】
今上御誕辰(明治天皇誕生日) 9月22日
神武天皇御忌 3月11日
仁孝天皇御忌 2月6日
孝明天皇御忌 12月25日
以上の日は刑罰・拷問をしてはならない。

(コメント)
・倉敷県は倉敷(現岡山県倉敷市)を中心とする県。1868年(慶応4年)-1871年(明治4年)。
・倉敷県は、断獄(刑事裁判)をしてはならない日について伺いをしているのですが、明治政府は「刑罰・拷問をしてはならない日」を回答しており、伺いと回答がズレています。政府は、刑事裁判を避ける日は考えていないのかもしれません。
・明治政府の回答は、現在の天皇の誕生日及び三名の天皇の御忌(忌日=命日)です。御忌については、神武天皇のほかは、明治天皇の先々代及び先代になります。仁孝天皇(明治天皇の祖父)、孝明天皇(明治天皇の父)。
・この回答がなされた明治元年は、いまだ太陽暦ではありませんので、いずれも太陰暦の月日です。
・神武天皇御忌を返答では3月11日としており、『日本書紀』を典拠としています。現在では神武天皇祭は4月3日とされていますが、これは神武天皇崩御は同天皇76年=紀元前586年とし、これをグレゴリオ暦に換算したからです。
・仁孝天皇御忌は2月6日とされていますが、
同天皇が崩御したのは、弘化3年1月26日です。2月6日は発喪日です。
・孝明天皇の崩御は12月25日であり、孝明天皇御忌と同じ日です。
・返答では、刑罰だけでなく、「拷問をしてはならない」とされており、拷問を行うことが当然の前提とされています。 刑罰と拷問が何の留保もなく、並列されており、この時代の刑罰・拷問についての考え方も表れています。
・現代では、土日祝、年末年始(12月29日〜1月3日)は死刑を執行しません(刑事収容施設法178条2項)。




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窃盗と殺人を犯した者には梟首 仮刑律的例 の19 梟首

2024年01月08日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #19 梟首
(要約)
【久美浜県からの伺い】明治元年十月
卯吉は、他の者と共に、昨年3月、播州のある村の農家から麦三斗、米五升を盗み、所払いの刑を受けました。
その後、①他の者と共に、同年10月21日夜、播州小佐村の家から金子・銀札を盗み、②10月22日に但州石原村の番人重太郎に見咎められ、他の者2名と連行されたのですが、途中の山中で、その者らと共に重太郎を絞殺しました。
この者の刑について伺います。
【返答】梟首

(詳しい訳)
【久美浜県からの伺い】明治元年十月(辰年)
野非人の卯吉が盗みと殺しをした件について、吟味しました結果は以下のとおりです。
「私は、備後福山辺りで出生した野非人です。幼いときに両親を亡くし、「こと」という姉に連れられて諸国を袖乞いして歩きましたが、そのうち姉とも別れてしまいました。」
〈前歴〉
「去年(卯年)3月、無宿四方吉らと龍野領播州のある村(村の名は忘れました)の百姓の家から麦三斗、米五升を盗みました。その月のうちに召し捕られ、吟味を受けて、所払いの刑となりました。」
〈犯行に至る経緯〉
「この年8月に播州宍栗郡で無宿人仙太郎と出会い、一緒に但州に行きました。そこで、無宿人の伊之助や元吉と出会いました。10月になって仙之助とは別れてしまいました。」
〈本件犯行〉
「①同年10月21日夜、伊之助や元吉と、但州小佐村の文三郎の家の入口の戸を開け、金子・銀札類を一同で盗みました。合計いくらを盗んだのかはわからないのですが、私の分け前は金3歩と銀札20匁でした。伊之助か、博奕をしたときの借金があったので、分け前は全て伊之助に払ってしまいました。
②10月21日暮れ六つころ、但州石原村地内辻堂で、同村の番非人の重太郎から見咎められ、引き立てられる途中の山中で、伊之助や元吉と一緒に重太郎を襲いました。重太郎も十手で立ち向かってきたのですが、こちらは三人なので重太郎を取り押さえ、持っていた縄で重太郎の首を縛って絞殺したのです。」
〈犯行後の経緯〉
その後は、皆ばらばらに逃げましたので、伊之助や元吉がどこへ逃げたのかはわかりません。私は宍栗郡辺りをうろうろしているところを召し捕らえられました。
仙太郎につきましては、途中で別れましたので、本件には関わっておりません。
以上のとおり間違いございません。」
【返答】梟首

【コメント】
・久美浜県からの伺いです。
久美浜県は、慶応4年(=明治元年)閏4月〜明治4年11月まで存続した県。県庁は旧久美浜代官所(現京都府京丹後市)に置かれました。
・本件の犯人は卯吉。備後福山(現広島県福山市)の出身。両親を早くに亡くし、姉と流浪生活。姉とも別れてしまい、無宿人らと付き合うようになってから犯罪に手を染めてしまいます。
・最初の犯行は、無宿人の四方吉らと共謀した窃盗事件。播州のある村の農家から麦三斗、米五升を盗んでいます。これにより所払いの刑を受けています。追放刑ですね。追放刑は厄介者を他の場所に行かせるだけなので、犯罪者の更生には役立ちません。近代刑法では追放刑はなくなりました。
・卯吉の本件犯行は、①住居侵入・窃盗、②殺人です。犯行場所は、①が但馬国小佐村、②が同国石原村です。
・①の犯行場所である但馬国小佐村は、現在の兵庫県養父市八鹿町小佐。八鹿は「ようか」と読みます。

八鹿町小佐 · 〒667-0053 兵庫県養父市

〒667-0053 兵庫県養父市

八鹿町小佐 · 〒667-0053 兵庫県養父市


・②の犯行場所である但馬国石原村は、小佐村の隣の村です。現在の養父市八鹿町石原。小佐村から石原村に向かったということは、街道を通るルートは避けて、山中のルートで逃走しようとしたのでしょう。それを、同村の番非人の重太郎から見咎められてしまいました。

八鹿町小佐 to 八鹿町石原

八鹿町小佐 to 八鹿町石原


・被害者は非人番(ひにんばん)の重太郎。非人番とは、江戸時代に農村の治安維持の任務を与えられていた生業です。人を指すときは本史料にあるように「番非人」と呼んでいたのでしょう。
・重太郎は石原村地内辻堂で番をしており、見咎めた三名(加害者)を引っ立てようとするときに、加害者の反抗にあってしまいました。重太郎は十手を持って抵抗したのですが、絞殺されてしまいました。
・加害者は別れて逃走。卯吉は宍栗郡にまで逃走していました。宍栗郡は、概ね現在の兵庫県宍粟市。当時は久美浜県に所属していました。
・それにしても、本件についての明治政府の返答は素っ気無いことこの上ないです。一言「梟首」、これだけです。
・梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首。梟首はこの時代〈極刑〉に分類されていました。死刑と極刑は異なるものであり、死刑よりも重いのが、極刑。
・返答に一言だけ「梟首」とあり、極刑を言い渡すのに、理由もなく、躊躇もないように見えてしまうのが、かなり怖いように感じてしまうのは私だけでしょうか。




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刎首では手ぬるい、梟首にせよ 仮刑律的例 その18 梟首

2023年12月11日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #18 梟首
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
無宿人の庄平と惣太郎は、昨年12月、野後里村の庄屋が伊勢神宮へ年貢を金納する機会に乗じて、庄屋らを道中で襲って殺害し、金200両を奪いました。庄屋は重傷、荷物持ちが死亡。この者らを刎首に処したいので、お伺いします。
【返答】
この者らが行ったことは強盗殺人であり、重々不届きである。刎首ではなく、梟首とすべきである。

(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月(辰年)
無宿人の庄平及び惣太郎(勢州山田町で召し捕り)が、人を殺し、金子・銀札を奪取した件を吟味しましたので、申し上げます。
〈犯行に至る経緯〉
庄平は、遠州佐野郡上芳村の惣左衛門の倅で、両親ともに農業に従事しておりましたが、当人の身持ちが悪く、一昨年(寅年)10月に勘当されて無宿となり、あちこちをふらふらしておりました。
惣太郎は、勢州度会郡三瀬村の要助の倅で、両親とも先年亡くなり、家が仕舞いとなってしまぅたことから無宿となり、あちこちをふらふらしておりました。惣太郎は、昨年(卯年)7月に庄平と出会い、二人して徘徊しておりました。
二人は日雇い仕事などをしておりましたが、それだけでは金銭に難渋するところとなり、同年12月には上方に向かうことに致しました。
同月25日、二人は旅の途中で勢州野後里(のじり)村の左膳という庄屋と会いました。左膳は毎年年貢を伊勢神宮の内宮長官に金納することを知り、この金子を強奪することを共謀致しました。
〈本件犯行〉
同日の暮れに、二人は左膳が内宮に行く後をつけておりましたが、途中で先回りし、勢州上地村縄手にて左膳を待ち構え、脇差しで前後より切りつけました。左膳は手疵を負い、その場から逃げました。また、庄平は両掛(旅行用行李)を担いでいた長作にも切りつけ、同人をその場で殺害しました。両掛(旅行用行李)は惣太郎が奪いとりました。二人は松山まで行ってから、両掛を踏み破って金子・銀札計約200両を取り出し、二人で山分けしました。
〈犯行後の経緯〉
両名は逃亡したものの、山田町で召し捕りました。余罪を追求しましたが、本件だけとのことです。吟味詰めしましたところ、両名事実を認めて謝罪しております。
この件は重々不届きであり、両名に対し刎首申し付けふべきと考えますので、お伺いする次第です。

【返答】
10月8日、天裁(天皇の判断)を経ての回答である。
この者らが行ったことは強盗殺人であり、重々不届きである。刎首ではなく、梟首とすべきである。

【コメント】
・#17に引き続き、#18も度会府からの伺いです。度会府は慶応4年7月6日に設置されました。伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。
・なお、度会府は明治2年7月(1869年)には、 度会県に改称しています。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・本件の犯人は庄平と惣太郎の二人。いずれも犯行当時は無宿人ですが、無宿となった経緯は違っていて、庄平の方は自身の問題を理由に両親から勘当それたのですが、惣太郎の方は両親が亡くなり、家を継ぐこともできなかったという理由によります。
・本件は「勢州」=伊勢国でのものであり、惣太郎も同国のものですが、庄平は「遠州佐野(さや)郡」の出身です。「遠州佐野郡」は現在の静岡県掛川市、森町辺り。この辺りから伊勢の辺りまで流れてきたのかもしれません。
・伺いは、「無宿人として定職にはつかず、日雇いで生計を立てようとするも金繰りに窮して犯罪に及んだ」という一定のパターンにはめこんだ文章になっています。大枠では間違っていないのかもしれませんが、弁護人がいればまた違った主張があったのかもしれません。この時代、弁護人はいないので、その辺りは謎のままですが…。
・被害者は勢州野後里村の左膳という庄屋と荷物持ちの長平です。伺いでは、「野後里村」とありますが、コトバンクには、「野後村」(のじり)とあり同一のものかと思われます。現在地名は度会郡大宮町滝原です。
滝原-伊勢神宮 内宮(皇大神宮)(39 km)
https://maps.app.goo.gl/U4WrZVpLKfXwkvJB7
・野後里村は、毎年年貢を伊勢神宮の内宮長官に金納しており、その道中を狙われたことになります。被害者のどちらかが事情を話してしまったのでしょうか。加害者には大金を狙えると映ってしまったようです。
・加害者が一攫千金を狙ったのは間違いありません。その手段として被害者の殺害を計画していたのでしょう。悪質な犯行ということはなく、死罪は免れません。度会府では、「刎首」の刑に処すべきとの伺いを出していますが、明治政府は「梟首」にすべきとの判断で、考え方に相違が生じました。
・刎首は「身首処を異にす」という点で、斬首(袈裟斬り)と異なります。首と身体を離すか否かに江戸時代は意味を見出していたのですね。
・梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首。梟首はこの時代〈極刑〉に分類されていました(刎首は死刑)。死刑と極刑は異なるものとして認識されていたのですね。
明治政府は、本件の加害者を死刑に処するので手ぬるいので、極刑に処せとしているのです。



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高額窃盗犯を流罪に処す 仮刑律的例 17 流罪

2023年11月20日 | 仮刑律的例
高額窃盗犯を流罪に処す #仮刑律的例 #17 流罪

#仮刑律的例 #17 流罪
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
多数の窃盗を行った者がおり、被害は金105両3分、銀9匁にのぼっております。この者本来は死罪とすべきですが、今般大赦がありましたので、一等を減じて流罪7年といたしますが、よろしいでしょうか。
【返答】伺いのとおりでよい。

(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
無宿で入墨をしている熊蔵(宮後西河原町の源四郎の伜)に対する刑についてお伺いします。
〈前科〉
①元治元年(子年)12月に盗みを行い、吟味の上、敲50回の刑に処しました。
親の源四郎に引渡しましたが、熊蔵の身持ちがよろしくなく、慶応元年(丑年)10月に家出をし、無宿となりました。
②再び盗みをしたことから、慶応二年(寅年)6月に召し捕らえ、吟味の上、敲100回の刑に処しました。
〈本件犯行〉
①去年(卯年)6月ころ、宮後西河原町の脇田宅で銀札3両と3匁を盗みました。
②同年9月ころ、吹上町の信州吉で銀札1両と丸餅30個を盗み、餅は食べてしまいました。
③本年(明治元年辰年)2月ころ、宮後西河原町の又兵衛方で木綿綿入れ一つ、同袷一つ、同単物二つを盗み、綿入れ一つと単物一つは氏名不詳者に銀18匁で売ってしまいました。
④同月、一志久保町の半兵衛方で、八丈縞綿入れ一つ、木綿女浴衣一つ、金巾一つ、同切れ三つ、唐織羽織一つ、金巾腹当て一つを盗み取りました。
⑤同月ころ、江州水口在の氏名不詳者宅で、脇差し二腰、御召羽織一つ、木綿袷一つを盗み取りました。
⑥同年閏4月28日ころ、吹上町の氏名不詳者宅で、二分金5両、銀札1両と3匁を盗み取りました。
⑦同年5月晦日夜、一志久保町の次郎兵衛方で、二朱金26両2朱、銀札30両を盗み取りました。
熊蔵が山田町を徘徊していたところを召し捕らえて取り調べたところ、このような盗みをしたことが分かりました。
被害合計は、金105両3分、銀9匁であり、熊蔵を召し捕らえたときは、39両2朱と銀3匁等しか所持しておりませんでした。
他にも余罪があるのではないかと追及しましたが、これ以外はやっていないとのことです。この者本来は死罪とすべきですが、今般大赦がありましたので、一等を減じて流罪7年といたしますが、よろしいでしょうか。
【返答】伺いのとおりでよい。

【コメント】
・度会府からの伺いです。度会府は慶応4年
7月6日に設置されました。伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。
・なお、度会府は明治2年7月(1869年)には、 度会県に改称しています。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・熊蔵の実家があった宮後西河原町は「みやじりにしかわらまち」と読み、現在でも伊勢市には宮後町があります。
・熊蔵には2回前科があり、いずれも盗み。最初は敲50回でしたが、2回目は敲100回。前科に関する文章には入墨の刑への言及がありませんが、熊蔵が入墨をしているのは、盗みに伴う刑によるものだった可能性もあります。敲の刑については以下のサイトが参考になります。

「百敲(ひゃくたたき)」の刑、吉宗は計算ずくだった – 國學院大學

國學院大學公式サイト。渋谷と横浜・たまプラーザにキャンパス。國學院大學では、日本を学び、世界に貢献できる人材育成を目指しています。

國學院大學


・窃盗については、公事方御定書で、10両以上の窃盗は死罪と定められており、明治元年10月に「倉庫破りをしたが窃盗には至らなかった場合は笞50回、盗みをした場合は被害金額が20金以下であれば笞百回」との修正が加えられています(刑律改定についての行政官布告)。20両超は死罪なので、熊蔵も本来は死罪となります。
・しかし、明治に大赦が出されており、①明治元年となった年の正月以前の犯罪であれば大赦となり、②9月8日以前の犯行であれば、罪一等を減じるというルールになっています。明治元年の犯罪かあるため、一等を減じて流罪となっているのです。


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両親殺しには「破格の極刑」 仮刑律的例 16 磔刑

2023年11月09日 | 仮刑律的例
両親殺しには「破格の極刑」 #仮刑律的例 #16 磔刑

(超訳)
【大津県からの伺い】明治元年十月朔日
両親(養父母)を殺害して、その家にあった金銭を盗んで逃亡した無宿人について、どのような刑に処すべきか教えて下さい。
【返答】
そのような不届き至極の大逆罪を犯した者は、村辺りを引き回しの上で磔。磔刑廃止したが、このような逆罪は破格の極刑でよい。

(詳しい訳)
【大津県からの伺い】明治元年(辰年)十月朔日
新助(無宿者)は、幼年から浅右衛門方(勢州三平郡浜一色村)に養子に出されておりました。しかし、身持ちがよろしくなく、親の意向も無視して伊勢参りをしたため、離縁となりました。
新助は江戸に出て、他家の養子となったのですが、ここもすぐに離縁し、故郷の浜一色村に戻ってきました。
新助は、浅右衛門夫婦が自分を離縁したことを遺恨に思っており、夜中に夫婦両人を殺害。同家にあった金銭を盗んで逃亡しました。
新助は、昨年11月、勢州庄野宿(多羅尾織之助支配所)で召し捕られ、入牢となりました。本年7月23日に当県(大津県)に引渡しとなり、取調べましたところ、上記の事実に相違ないとの申立てを致しました。
本件につきどのような刑に処すべきでしょうか。口書を添えて、お問合せ致します。
【返答】
この者、非常の怨みをもって、養父母を斬害し、その上金子も盗取した。不届き至極の大逆罪であり、居村辺りを引き回しの上で磔とすべきである。磔刑は廃止したが、このような逆罪は非常のことであり、破格の極刑に処せられるべきである。

【コメント】
・大津県からの伺いです。大津は現在の滋賀県ですが、この伺いのあった明治元年には勢州=伊勢国(現三重県)も管轄していました。なお、明治2年9月には、勢州の管轄は度会県に移っています。
・本件犯行現場は、勢州三平郡浜一色村です。現在の三重県四日市市浜一色町。ここに
浅右衛門夫婦が住んでおり、新助を養子にとりました。しかし、新助は養親のいうことを聞かず、お伊勢参りに。

浜一色町 · 〒510-0031 三重県四日市市

〒510-0031 三重県四日市市

浜一色町 · 〒510-0031 三重県四日市市


・浅右衛門夫婦はいうことを聞かなかった新助を離縁。「身持ちがよろしくなく」とありますから、お伊勢参りの一件だけでなく、様々なことがあったと思われます。
・新助は無宿人となって、江戸に出ます。ここでも養子になったのですが、行状はあらたまらなかったようで、ここでも離縁。故郷の浜一色村に舞い戻りますが、そのときに本件犯行を犯してしまいます。
・新助は、夜中に浅右衛門夫婦を殺害。同家にあった金銭を盗んで逃亡しました。殺害の動機は、「浅右衛門夫婦が自分を離縁したことを遺恨に思っていた」となっていますが、夜中であることから、金が目当てであつたと可能性もあります。
・いずれにせよ、本件は今であれば強盗殺人罪に該当し、二人殺していますから、現代でも死刑となってもおかしくない事件。しかも、当時は尊属を殺害するのは、「大逆」であり、この点を明治政府の担当は刑を決める上で重要視しています。
・明治政府の判断は、新助は引き回しの上で磔にせよというもの。磔は極刑です(死刑と極刑は別概念・過去記事参照)。
・明治政府はこの時期焚刑は廃止しておりましたが(過去記事参照)、磔刑は君父を殺した大逆に限定して用いていました。本件の回答でそのことが明らかにされています。
・磔刑が廃止されたのは、 新律綱領(明治3年12月20日)の制定によります。新律綱領により、死罪は「絞」と「斬」のみとなりました。
・新助は、慶応3年11月に庄野宿で召し捕られ(逮捕)、入牢(勾留)となりました。庄野宿は東海道五十三次の45番目の宿場です(現三重県鈴鹿市)。入牢してから大津県に引渡しとなるまで、8ヶ月以上かかっています。



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死んだ者を裁いて良いですか? 仮刑律的例 #15吟味中病死の死骸の処置

2023年09月28日 | 仮刑律的例

#仮刑律的例 #15吟味中病死の死骸の処置
(紀伊藩)からの伺・超訳)
【伺い】明治元辰年十二月廿七日
うちの家来が京都出張中に犯罪に関与していることがわかりました。出張から戻ったら、取調べようとしておりましたが、京都で病死してしまいました。この者の死体はどうすればよいですか。
【返答】
藩主から親類へ引き渡してやるがよい。

以上は超訳したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
(徳川新中納言(紀伊藩)から)
【伺い】明治元辰年十二月廿七日
当藩の家来川端文四郎は、本年九月から公用で京都に出張させておりましたが、不審な事実が判明し、吟味をすべきこととなりました。しかし、同人は京都にて病死致しました。その際、検死にどのようにすべきかと問い合わせましたら、「仮埋めにするがよかろう」との返答でした。この度、共犯者には禁錮を申し付けましたが、川端文四郎の死骸についてはどのように取りはからえばよいか御沙汰のほどお願い致します。
【返答】
川端文四郎については、不審の筋があり、吟味をすべきであったところ、病死したというのであるから、死骸はまず紀伊藩藩主に渡されるべきであり、その上で親類どもへ引き渡されるべきである。

【コメント】
・紀伊藩からの伺いです。江戸時代は徳川御三家の一。徳川新中納言と呼ばれているのは、徳川 茂承(もちつぐ)。紀伊藩の最後の藩主です。
・今回の伺いは、裁判にかけたかったのに、かける前に死んでしまった者の遺体をどうすべきか?というもので、明治政府は「最終的には親類に引き渡せ」と回答しております。現代では当たり前のことなので、何でこのような伺いや返答をしなければならないのか不審に思われる方もおられるでしょう。
・江戸時代は、現代と異なり、死体に対して判決を行っていたのです。シーボルト事件に関与した高橋景保のケースを見てみます。し
文政11年(1828年)10月10日、逮捕。伝馬町牢屋敷にて身体拘を受ける。
翌文政12年2月16日、牢屋敷で死去。
死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政13年3月26日に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上、斬首刑に処せられる。
・現代では起訴されていても、裁判中に死亡すれば、遺体は遺族に引き渡され、裁判は終了(公訴棄却)となります。
しかし、江戸時代は、一部の犯罪(注)について、死体は遺族には引き渡されず、塩漬けで保存され、裁判の対象となり、判決を言い渡されて、刑の執行まで受けるのです。
・紀伊藩は江戸時代の感覚で、家来の死体は保存して裁判にかけるべきなのかどうかを明治政府に伺い、明治政府は江戸時代の考えから決別して、死亡した場合は裁判の対象とはならないと回答したのです。今の視点からは当たり前に見えますが、当時は画期的なことだったのではないでしょうか。

(注)刑の執行前に死亡した場合に死体を塩詰めの上に処刑する犯罪は、主殺し、親殺し、関所破り、重謀計です(公事方御定書)。




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公金横領した家来でも改元前の犯罪は処罰できず #仮刑律的例 #14大赦による罪科の扱い

2023年09月25日 | 仮刑律的例

#仮刑律的例 #14大赦による罪科の扱い
(信濃飯山藩からの伺・超訳)
【伺い】明治元辰年十二月廿日
一 藩の家来が、昨年藩の印を偽造し、四名の者とつるんで貸主から650両を騙しとりました(藩が貸主に弁償)。また、それとは別に藩の金を千両以上使い込んでおりました。 家来は死罪、その他四名は永牢(終身刑)でよいでしょうか。
【返答】
当春に大赦の布告をしている。昨年以前の犯罪は赦さないとダメ。

以上は超訳したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。

【伺い】明治元辰年十二月廿日
当藩の家来が、昨年藩の印を偽造し、他四名と連印して650両を借入れるという詐欺事件を起こしました。650両は藩の方で貸主に返済し、藩には返済されておりませぬ。また、この者、調べましたら、藩の金を千両余り使い込んでおりました。
家来は重々不埒であり死罪申し付けるべきですが、先般のご布告もありますので、如何に処置すべきかご教示ください。
一 650両をだまし取ったその他四名については、藩の方への被害弁償もありませんが、家来と異なり藩の金の使い込みはありませんので、死罪から一等減じて永牢(終身刑)としたいがよろしいでしょうか。
【返答】辰十二月廿七日
当春に大赦の布告をしており、昨年の罪科は赦すべきである。
但し、このような家来を置くことは藩に迷惑であろうから、家来から外してもよい。
【コメント】
・信濃飯山藩からの伺いです。現在の長野県飯山市に藩庁がありました。同藩は、享保2年(1717年)、本多氏が越後糸魚川藩より入封、以降本多氏10代が明治維新まで飯山城に居を構えていました。この伺いは、正式には本多乙次郎(本多助寵)の名前で出されております。
・問題となっているのは、家来の詐欺・横領事件。家来がその他4名(おそらくこよ4名は家来ではないのでしょう)と共謀し、貸主から650両を詐取。この事件をきっかけにして調べてみたら、千両以上の使い込み(業務上横領)が見つかりました。
・この犯罪、昨年以前に起きています。伺いの日付が明治元年十二月ですから、飯山藩さんは今まで何をやっていたんだろうかということになりますが、この辺り小藩(2万石)の弱みなのかもしれません。
・ところで、明治に改元となったことで大赦が出されており、この年一月以前の犯罪は大赦の対象となってしまいます。明治政府の返答はこれを踏まえており、昨年以前の犯罪は処罰できず、赦さなけれぱならないとされています。
・本来であれば、死罪になっていた飯山藩家来・その共謀者ですが、飯山藩の処理の遅さから命拾いしました。
・以前備中浅尾藩のケースを紹介しました。このケースは、家来が藩の公金1640両を盗んだというものですが、大赦以後の犯罪なので、死罪は間違いなしというものでした。たった一年の違いでこのような違いが出てしまうのが、大赦のスゴいところです。

主家の大金を盗んだ者はさらし首 仮刑律的例 #4梟首 - 南斗屋のブログ

#仮刑律的例#4梟首(要約)(明治元年九月、備中浅尾藩からの伺)当藩の家来が①本年7月、留守居役の者から提出された証文をすり替えて百両を藩から...

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ニセ金づくりは原則死刑 #仮刑律的例 #13贋金処置

2023年09月18日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #13贋金処置
(明治元年十二月、高山県からの伺)
【伺い】贋金を作ったもの等を死刑にしてよろしいでしょうか。朝敵ですら寛刑となる場合がありますが、贋金作りは朝敵に比すれば刑は軽くても良いとも考えられます。如何なる処置とすればよいか至急御沙汰下されるようお願い致します。
【返答】
朝敵に対する軍事非常の御処置は平常の罪科と比較してはならぬものであり、本件は法に照らして処断すべきである。
もっとも、本年正月以前の犯罪であれば大赦となるから、犯行の行われた年月を調べて処置をすべきである。


以上はかなり要約したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。

#仮刑律的例 #13贋金処置
高山県からの明治元年十二月の伺い
【伺い】
一 大野郡高山町の源兵衛は、弥助・甚兵衛両人に頼まれて贋金を作りました。
一 高山壱之町の弥助は、源兵衛に依頼し、贋金を作らせたものです。
一 高山壱之町の甚兵衛は、当初贋金を拵えるよう依頼しましたが、その後後悔して贋金を使いませんでした。しかし、贋金事件の主謀者の一人ではあります。
一 高山三之町の利七及び大谷村の清三郎は、それと知りながら、源兵衛から贋金を買い取ったものです。
一 町方村の又右衛門は、清三郎及び藤兵衛の持っていた贋金をそれと知りながら質入をする周旋を行ったものです。
一 高山町方の儀助及び高山壱之町村の藤兵衛は、源兵衛に依頼して、贋金を作らせたものですが、十月から脱走して行方がわからなくなっています。

旧幕府においては贋金に関わったものは、全てこれを死刑に処することになっておりますした。しかし、大逆無道であり、殺してさえ赦してはならない朝敵をも寛刑に処せられております。贋金を者は、もとより重罪ではありますけれども、朝敵に比すればその罪は軽いとも思えます。そこで、贋金作りの者には如何なる処置をすればよいかお伺いします。至急御沙汰ください。

【返答】
朝敵に対する軍事非常の御処置は平常の罪科と比較してはならぬものであり、本件は法に照らして処断すべきである。
もっとも、①本年正月以前の犯罪であれば大赦となり、②9月8日以前の犯行であれば、罪一等を減じるので、犯行の行われた年月を調べて処置をすべきである。


【コメント】
・高山県からの伺い。同県は1868-1871年に岐阜県北部に存在したいた県。幕府領であった飛騨国一円を管轄するために明治政府によって設置されました。
・これまでの伺いは藩からのものが多かったのですが、今回の伺いは県からのもの。藩では、江戸時代から刑事裁判に携わっている人材がいて、明治になってからもその担当者が引き続き刑事裁判を担当していたのでしょう。しかし、今回の伺いを見る限り他の伺いよりも文章の構成からして、練れていない感じを受けます。
・贋金作りは公事方御定書では死刑と定められています。ですから、本件に関わった者は全員死刑とすべきとは思いつつ、朝敵でさえ赦されるのだから、贋金作りの者も赦されて良いのではないかとの発想が、初々しくて面白い。
・明治政府からは「朝敵に対する軍事非常の御処置は平常の罪科と比較してはならぬものである」とあっさりとかわされてしまっています。
・朝敵が赦されるかどうかを考えるよりも
本件犯行の日時がいつかを念頭において、処断すべきというのが、明治政府のアドバイスです。
①本年正月以前の犯罪であれば大赦となり、②9月8日以前の犯行であれば、罪一等を減じることになります。高山県の伺いからは、この布告の認識が不明なため、あえてこの点を返答として指摘したのだしょう。
・②は、明治元年9月8日行政官よりの布告によるものです。
「今般御即位、御大礼を済まされ改元を仰せられたので、天下の罪人の当年9月8日までの犯事は、逆罪、故殺及び犯情許し難きものを除いて、全て罪一等を減じることとする。但し、犯情許し難きものについては、府藩県より口書を添付して刑法官へ伺いを出すべきこと」
・明治天皇の即位大礼は明治元年8月27日に、明治への改元は9月8日に行われています。
・布告に「口書」とあるのは、自白調書のこと。自白があれば有罪とすることができましたので、この口書を証拠として判決を言い渡していました。口書を見れば、事件の全体像が把握できるため、減刑しない例外的なケースといってよいかを見極めるために、明治政府は口書の提出を要求したことになります。




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井伊家も明治政府には低姿勢 仮刑律的例 #12死刑の外処置方伺い

2023年09月14日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #12死刑の外処置方伺い

(明治元年十二月、近江彦根藩からの伺)
【伺い】死刑については、政府に伺いを致しますが、その他の刑事事件は、政府に伺いをしなくてよろしいでしょうか。
【返答】
そのとおり。死刑の外の刑事事件は、政府に伺いをしなくてもよい。

以上はかなり要約したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
#仮刑律的例 #12死刑の外処置方伺い


近江彦根藩の井伊中将より明治元年十二月の伺い
【伺い】天下は府藩県の三治制との仰せであり、藩を治めるにあたっては朝廷の政を遵奉することと承知しております。
さて、死刑の外の刑事事件は、政府に伺いをしなくてよろしいでしょうか。租税など会計のことは違算がないように、従前のとおりその筋へ伺いや届けを致しますが、刑事事件につきましては死刑以外については伺いはどうでしょうか。その点を伺うよう中将が申し付けております。以上
【返答】
刑事事件に関しては伺いのとおりであり、死刑以外については政府に伺いをしなくてよい。

【コメント】
・近江彦根からの伺い。近江彦根藩は井伊家が藩主。明治初年の藩主は井伊直憲。井伊直憲は井伊直弼の子で、このときは中将。
・前回高知藩の伺いを紹介しましたが(#11刑律問合)、高知藩は非常に挑戦的な伺いだったのに比較して、近江藩は甚だ気弱な伺いとなっています。幕末のそれぞれの藩が抱えていた事情が色濃く反映されているのでしょう。
・近江藩の伺いの要点は、「死刑の外の刑事事件は、政府に伺いをしなくてよろしいでしょうか」ということなのですが、それ以外は無駄な部分が多い。
・やたら政府に気を遣ってます。
冒頭の「天下は府藩県の三治制との仰せであり、藩を治めるにあたっては朝廷の政を遵奉することと承知しております」等は、わざわざ我藩は朝廷の政を遵奉致しますとっているのであり、言わずもがな。
・「租税など会計のことは違算がないように、従前のとおりその筋へ伺いや届けを致します」←伺いは刑部省に対してのものなので、会計のことに言及する必要はありませんし、言及しても刑部省が回答できないのは明白。政府の返答が「刑事事件に関しては」という限定を付しているのは、この余計な伺いの一文の故でしょう。
・この伺いから近江彦根藩の当時の立場をうかがい知ることができるのは興味深い。
・この伺いが仮刑律的例として記録された意味。
⇒このときの明治政府の方針が死刑判決に限定されているということです。
裁判担当能力の限界を自白しているといってもよいかも。明治政府が回答できるのは、死刑に関してだけであり、それ以外の刑事裁判は府藩県に任せるしかない、それだけの実力しかなかったということが明白です。
・明治初年のこの時期、明治政府がコントロールできるのは死刑だけであって、そのほかは一切コントロールしないし、できないというのが明治政府の限界であったわけです。
・府藩県の方でも対応に温度差がありました。日本法制史の教科書では次のように指摘されています(牧英正外『日本法制史』)。
「廃藩置県までの新政府の指示は各府藩県により遵守の時期とその態度においてかなりの相違がみられ、各府藩県は政府の方針に従いつつも、比較的自由にその管轄内の刑事司法を実施していた」





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