30センチの雨が降る!
11月15日。月曜日。正午だというのにベッドルームはすご~く暗い。けっこう早寝したのに目覚めが正午なのはあまりにも暗いせいもあるのかな。パイナップル特急が接近中で、これから3日間で300ミリ以上の雨が降って、河川の氾濫が心配されているそうな。どんと雪が積もって早々とオープンしたスキー場も早々と臨時休業だろうなあ。テレビのニュースでは今月は半月でもう180ミリの雨量を記録したと言っていた。平年の1ヵ月分が179ミリだそうだから、今月はもう雨はけっこうですというところだけど、これからまだ300ミリ以上も降るって、どうもおかしな天候。新聞を見たら天気予報官までが「外へ出なくてもいいなら、自分だったら出ないけどね」と言い出す始末。ふむ、
300ミリというのは30センチ。ということは12インチ(1フット)。うはっ、3日間でそんなに降るの?
どうしてか「300ミリ」といわれるとちょっと見当がつかない。1フットまたは12インチならすぐに見当がつくし、30センチといわれたら、「30センチ=1フット」という換算値が頭にあるから問題はないけど、センチとミリはどうも感覚がつかめない。日本で(小さいときはまだ尺貫法がまかり通っていたにしても)メートル法で教育されたんだし、カナダは基本的にメートル法の国なんだから、メートル法でいいはずなんだけど、感覚がすっかりヤードポンド法(インペリアル単位)になじんでしまって、メートル法で来られても換算してみないとわからなくなっているわけ。
それというもの、ワタシが来たときのカナダはヤードポンド法からメートル法に切り替える過程にあって、温度だけは前年から摂氏になっていたものの、その他はまだ切り替えていなかったから、重さはポンドとオンス、長さはフィートとインチ、液体はパイント、クォート、ガロン、距離はマイルということでないと、日常生活の上で何かと不便。しかもワタシは暗算が苦手ときているから、毎日の買い物でいちいちメートル法に換算せずに、手に持った重さ、目で見た長さ、というように感覚で覚えてしまったのだった。おかげでスーパーでの単位の切り替えが始まったときは、平均的カナディアンと同じに四苦八苦するはめになった。政府がメートル法完全移行を徹底してくれたら、きっとまたメートル法感覚を体得しただろうと思うけど、1980年代半ばに公式の単位ではあっても強制しないということになったおかげで、ワタシの感覚は切り替わらずじまい。
あれから四半世紀を経て、カナダではメートル法とインペリアル単位が平和共存する展開になった。まあ、お隣さんのアメリカは頑としてメートル法を拒絶しているから、二国間の商取引の規模を考えると完全移行はやりにくいということもあるだろうな。それよりも国民の抵抗の方が強かったかもしれない。コンピュータ化した今、スーパーの値段は、店内ではインペリアル単位で表示しているけど、レシートにはメートル法単位で打ち出されるからおもしろい。(Hマートのはなぜかポンド単位になっている。)ガソリンはリットル単位で買うのに慣れたけど、車の燃費効率は1ガロンあたり何マイルで納得。ただし、速度はキロメートルが定着。それでも長距離はマイルの方がわかりやすい。
家の大きさは平方フィートで、平方メートルはさっぱりわからない。ワタシも我が家の設計図をフィートとインチで引いたけど、十進法じゃないので計算はけっこうめんどうだったな。インチの端数になると分数で表示するからもっとややこしい。もっとややこしい話になると、オーブンの温度設定は華氏単位のままだし、バターの場合は「1ポンドのバターがなくなる!」と大騒ぎした割には従来の1ポンドのものにメートル法換算の454グラムという表示をつけただけ。ただし、ミルクはリットル単位でほぼ統一されている。まあ、計量スプーンやカップの大きさは変わっていないから料理の上では不便はない。(ただし、日本の1カップは欧米のより小さいので、日本のレシピを使うときは要注意。)液体の単位はアメリカとカナダではガロンの量が違っていたりして、昔からややこしいんだけど、缶入りの飲料は(なぜか)アメリカのオンス単位に変わって、それにメートル法の355ミリリットルという表示がついた。まあ、ビールひと缶はひと缶だからどうってことないんだろうけど。
でも、考えたらカナダは公用語が2つある国だし、度量衡の単位が2つあってもあまり苦にはならないのかもしれないな。そういうところが割とカナダ的でもあるんだけど。
絶対に譲れない結婚条件?
11月16日。月曜日。夜の間、予報通りにかなりの雨が降って、かなりの大風が吹いていた。外を歩いていたら「横なぐりの雨」といったところか。ローカルの新聞のサイトを見たら、傘を差して足首まで浸かりそうな大きな水たまりをばしゃばしゃと勇敢に渡って行く女性たち、盛大に水を跳ね上げて通り過ぎる車に顔をしかめる信号待ちの人たち。天気予報では少なくとも木曜日まで雨。まだ月曜日だってのに。
仕事のない日、4日目。11時半に目が覚めて、あたりが暗いもので、たまたま目を覚ましたらしいカレシの腕枕でまたひと眠り。なんかおもしろそうな夢を見たのに、カレシがやたらと頬っぺたや鼻をつつくから、せっかくいいところだったのに目が覚めてしまった。(覚めたとたんに何がいいところだったのかは忘れてしまったけど。)正午過ぎだけど、別にあわてて起きる理由もないから、しばらくは腕枕のままでとりとめのない話をしながらだ~らだら。二人揃って「在宅」だと、こうやっていつでもダラダラできるという特典?がある。だけど、ひょっとして「Fly on the wall(壁にとまったハエ)」の目で見たら、2枚の濡れ落ち葉がくっついているみたいだったりして・・・
小町に『ぜったい譲れない「結婚条件」を教えてください』というトピックがある。そんなことを人に聞いてどうするんだろうとは思うけど、そこは小町の井戸端で盛んな、非公式のごく私的な非科学的非統計的世論調査。それでも、コンカツ全盛時代の結婚は「初めに条件ありき」みたいな観もあるから、他の婚活者にどんな条件を出しているのか聞いてみるのも戦略のうちってことか。(この婚活真っ最中の人のことを何と呼ぶのかな?「コンカッチャー」とか?これを英語風に「concatcher」と綴ってみたら、ほほぉ、実にビミョーな含みのある言葉ができるなあ・・・。)「結婚をする際にぜったいに譲れない相手に対する条件」って、ふむ、結婚「を」するなら、やっぱり人間よりは条件重視なのかな。恋愛「が」したい、結婚「が」したいという表現と同じで、この「を」に昨今の女性の結婚観が潜んでいそうな感じがする。(ま、男の場合は昔から「が」や「を」が入っていたように思うけど・・・。)
結婚する「相手に対する条件」・・・う~ん、考えたことなかったなあ。ワタシが適齢期だった頃は、地方だったからかもしれないけど、まだ見合い結婚が主流で、結婚相手の条件は親や「縁談」を持ち込むオトナが心配していてくれたし、元々結婚願望があまりなかったので、母から「お父さんがみんな断ってしまって」と愚痴半分に聞かされた縁談の相手が出して来た「条件」を聞いて、ますます結婚なんかまっぴらという気になってしまった。まあ、能天気に天体望遠鏡をのぞいていたワタシにも人並みに縁談が舞い込んでいたってことなんだけど、その条件というのも人並みに「おとなしく家庭を守る専業主婦の良妻賢母」だったらしいから、父が門前払いを食わせたのは正解だったと言えるな。(今は亡き父はワタシの守護天使なのだ・・・)
結局のところは今の婚活女性に言わせたら「条件が最悪」のカレシと結婚しちゃったわけだけど、それはたぶん、「条件」と呼べそうな条件が頭になかったもので、「好き!いっしょにいたい」という心に先導された結果だろうと思う。カレシの年収なんか、公務員だからそれなりだろうと思っただけで聞いてもみなかった。その公務員も結婚したとたんに辞めて、大学に戻って会計士になるために学士と修士の中間みたいな学位を取るまでの1年間は無収入。ワタシの貯金でぎりぎりの生活をして、やっと会計士補になったらなったで、涙が出そうなくらいの、すぐ後に日系企業に就職したワタシとあまり違わない低収入。ワタシの給料分が貯金に回るようになったのは3年後のこと。
今考えると、ワタシにとっての「絶対に譲れない条件」は自分の「ぜいたくルール」にあてはまることだったのかもしれないな。ルールその1の「好きでほれ込むこと」はそのままとして、その二の「買えるお金があること」は、結婚という契約に置き換えると「大好きな人といっしょにいるための精神的な対価を払えること」ということになるかもしれないな。まあ、クレジットカードを切って、後でその請求が来てまとめて払ったような感じがしないでもないけど、これは相手に対する条件とは違うなあ。小町のトピックの主は相手に対して求める絶対的な条件は何かと聞いているんだったっけ。はて、どうやら結婚「を」したくはなかったけど奥さん「が」必要だったらしいカレシに「絶対に譲れない条件」があったとしたら、どんなことだったのかなあ・・・。
ネット時代の友達って何なの?
11月17日。目が覚めてみたら、おや、な~んか明るい。どうやらパイナップル特急はどこかで臨時停車というところかな。雨続きもいんだけど、少しは乾くチャンスがなくてはね。
今日はいつもばたばたする火曜日。でも、仕事がないだけ、午後はのんびり。始める予定だった仕事が原稿の修正ということで棚上げ。おかげで、「休みモード」の5日目。だんだん、のんびりムードに慣れて来たような。ま、今年は来年の総売上を突破してしまっているから、カレシの言う通りに「今年の営業は終了いたしました」と看板を出して、のんびりしてもいいんだけど、ビジネスとしてはそれは絵に描いたもち。そんなことしたら、年が明けてもお客が戻って来ないなんてことになりかねないから、自営業はいつも「待機中」の態勢。
オックスフォード大学の出版局が選んだ「Word of the Year(今年の言葉)」が「unfriend」という聞き慣れない動詞。FacebookのようなSNSサイトで、たくさんできすぎてしまった「友達」を整理するのに削除することをいうんだそうな。別に「defriend」とも言うらしく、Facebookのユーザーの間でちょっとした論争になっているとか。どっちにしても、ネット時代の友情はマウスのクリックひとつで、泡沫のごとく浮かんでは消え、浮かんでは消え、ということか。ちょっとばかり薄ら寒い人間関係だなあと思うけど、Facebookには3億人のユーザーがいるそうだから、ネット空間には容量という制約があることだし、ときどき大掃除よろしく整理しないと、誰が誰なのかわからなくなるんだろうな。
薄情なことを「unfriendly」というから、「あ、この人はもういらないや」と薄情に切り捨ててしまうのが「unfriend」ってことだろうか。まあ、「un」のつく言葉には、つながっていたものをばらばらにするようなニュアンスもあるから、つないでいた手が引き離されるようなうら悲しいイメージが浮かぶんだけど、「defriend」の方にはなんか「脱友達」とでもいうような無機質な感じがある。人間が、目の前にいる血の通った生身の人間よりも、そこにいなくて顔が見えない人間とのコミュニケーションに夢中になりだしたのはいつ頃のことだったかなあ。電話回線の再販が可能になって、長距離通話の料金値下げ競争が始まった頃からだったかなあ。
コマーシャルのキャッチが「手を差し伸べて、タッチしよう」。ちょっと見にはほのぼのした印象を与えるけど、目の前の相手より何千キロ離れた相手との会話の方が今どき風・・・。それがさらに携帯やら、インターネット、VOIP、SMSと、タッチするための手段がどんどん変化して、、なんだかみんな「(体はここにあっても心は)ここにいない人」になってしまったような観もある。「近くの友より遠くの友」ということかなあ。その結果が、目の前にいる生身の人間との触れあいはめんどうくさいという風潮だとしたら、人類の悲劇だなあ。掲示板を見ると「友だちがほしい(できない)」という悲痛な叫び?が載っているかと思えば、「友だちをやめたい」という相談が載っている。せっかくお茶やランチを共にする友だちができても、「自分の話ばかり」、「自慢話ばかり」、「愚痴ばかり」で、会った後はどっと疲れてしまうというから、今どきの友だち付き合いは命が磨り減るくらいのエネルギーがいるらしい。
その上で、遠くの友もマウスのクリックで軽く「脱友」できてしまう希薄な人間関係がはびこる世の中のようで、友情っていったい何なんだろうな。ますます人類にとっては悲劇だなあ。友だちって、近くでも、遠くでも、サイバー空間でもどこでも、欲しいからと「作る」もんなんだろうか。人間は外の環境や内的な要因の変化に沿って常に流動的なものなのに、変わったとか、趣味が違うとか、生活環境が違うとかいった理由で簡単に友だちを「やめる」ことができるもんなんだろうか。人類の未来、ほんとに大丈夫・・・?
極楽とんぼ亭: ぶっつけ本番油揚げ特急
11月18日。水曜日。棚上げ懸案の仕事はまだ懸案のまま。まあ、たいしてやりたい!と思うような内容でもないから(お金の関係はいつもあくびものなんだけど)、このままお流れになってくれてもいいかなあという気がする。
なんてのんびり構えていたら、えっ、今日は英語教室の日?そっか、これまで火曜日と木曜日だったのが、今週から火曜日と水曜日に変更。あああ。すっかり忘れていた!
早めのディナーをとキッチンに上がって見たら、あら、今日のメニューのナマズはまだ半分も解凍してないじゃないの。(油の少ない淡水魚は解凍のペースが遅いらしい。)やれやれ、これではその場のぶっつけ本番の即興メニューと行くしかない。
[写真] えびいか入り油揚げポケット(ジャンバラヤ、かぶの葉のソテー)
小袋に冷凍してあった余りもののえびとイカを流水で半解凍している間に、ジャンバラヤはルイジアナ風パエリャのような米の料理。米と乾燥野菜とスパイスだけのミックスに好みの肉やソーセージ、えびを入れて・・・と書いてあるから、魚のソーセージ2本と切ったインゲンを放り込んで、後は炊き上がるのを待つだけ。
メインはHマートにあったいなり寿司用の(味付けなしの)油揚げの片側に斜めの切れ目を入れて、中にチンゲン菜を敷き、えびとイカにペリペリソースをさっとからめて詰めて、蒸し器に。途中でブロッコリを彩り代わりに乗せて、蒸し上げる。付け合せにはカレシが庭から抜いてきた親指の先ほどの白かぶ(サラダ用)の葉っぱをもらって、油いため。
やれやれ、間に合った~。「油揚げポケット」は思いのほかあっさりしていておいしかったから、もう少し味付けを考えてグレードアップしてみようかな。いつものことなんだけど、ああだこうだと考えすぎない方が「これはいける」というものができるから皮肉なもんだ。
外はパイナップル特急が通過中だけど、カレシ、いってらっしゃ~い。
嵐の夜は本でも読もうか?
11月18日。いや、とにかくすごい嵐。玄関のドアを開けなくても、向かいのゴルフ場の木々の上で風がゴーゴーと唸っているのが聞こえるくらい。大雨警報と強風警報が出ている。バンクーバー島と本土を結ぶ州営のフェリーは軒並み欠航だそうな。おとといの嵐では郊外で何万戸も停電したというから、停電しなきゃいいけどなあ。夜遅くには通り過ぎてくれるらしいけど、天気予報では台風一過の秋晴れどころか週明けまで雨。衛星写真を見ると、ほんとにハワイの方角から低気圧が団子のように連なってこっちへ向かっている。うひゃぁ・・・
我が家の庭の隅でやたらと背だけ伸びたやせっぽちの落葉松は右に左に大揺れ。でも、けっこうしなやかそうだから、折れたり倒れたりすることはないだろうけど、それよりも大嵐のたびに心配なのが、フェンスのすぐ外に勝手に生えて、双幹の大木になった白樺。3年前のパイナップル特急の嵐でてっぺんを吹っ飛ばされて以来、上の方からだんだん枯れつつある。市役所に市有地に生えているんだから、倒れて被害が出る前に伐ったらどうだと言ったけど、「枯れ木じゃないから伐れない」ときた。その斜めに延びた方の太い幹がこっち側に倒れたらゲートハウスを直撃、反対側に倒れたら消火栓を直撃と、どっちに転んでもえらいことになるんだけどなあ。市営のゴルフ場からはしょっちゅうチェーンソーの音が聞こえるんだけどなあ。白樺よ、大風に負けずに踏ん張れよ~っ
雨風の中を英語教室にでかけるカレシを送り出して、仕事がないのがもっけの幸いと、本棚の整理を始めた。我が家は本が多い。小さな家には多すぎるくらいに多い。少なく見積もってもゆうに千冊以上はあるかなあ。なにしろ(老後の蓄えと称して)本を買うのがワタシの趣味みたいなもので、それもハードカバーの大きな本が好き、優雅な香りのする革装丁本ならもっと好き。ところが、リビングの2面に造りつけにした本棚は40年前の大学の教科書や時代遅れになったTIME-LIFEのハウツーもののセットやカレシが買い集めたDVDセットに占拠されて、どんどん増える新しい本は行き場がないから、あっちこっちに山積み。それなのに二階の2つの本箱は「入居率」50%そこそこ。ベースメントのオフィスにも夏休みの大掃除で空っぽになってほこりが溜まっている棚がいくつもある。つまり、スペースの有効利用ができていないってことなのだ。
だけど、本は重い。二階の本棚を整理して、リビングから「不要になった本」を抱えて階段をえっちらおっちら。不要本は25年分のナショナルジオグラフィックと一緒にウェイトマシンの後のアクセスしにくい本箱に、ごくごくたまには手に取るかもしれない本は別の本箱に。20回くらい階段を上がったり下りたりして、「入居率」は75%くらいにはなったところで今日の作業はおしまい。この次は文庫本とペーパーバックの移動だな。これは運びにくそうだけどあまり数がないからいい。カレシはDVDのコレクションをベースメントに移したいというから、ワタシが(老後の蓄えと称して)溜め込んだジグソーパズルをどこかに移してスペースを譲ることにしたけど、本棚に30個くらい(クローゼットの棚にも30個くらい)ある、買ったままで手をつけていないパズルのコレクションは、はて、どこへ行くのか。こっちが納まれば、あっちが溢れる・・・ふむ、モノの収納って、なんだかゼロサムゲームみたい。
英語教室から帰って来たカレシ、少しは本箱の体裁の整った二階の本箱を見て、「本箱に本があると部屋が心地よく見えるなあ」と感想をひとこと。あのさ、それは本箱に「きちんと」本が並んでいると、でしょ。あ~あ、ワタシは関節炎の指が痛い。それにしても、外はまだすごい荒れ模様。仕事もないことだし、本、読む?(それよりも、Folio Societyに注文したい本が3冊あるんだけど・・・。)
デフレという名のあり地獄
11月19日。夜半過ぎに収まった嵐。起きてみたら落葉松も白樺も無事に嵐を乗り切ったよう(は大げさだけど)。だけど、もう次の大雨強風警報が出ているんだから、困ったもんだ。それでも去年のような大寒波と大雪に比べたら、雨と風の方がましか。おまけに、カレシ菜園ではまだトマトが採れる。色のつきかけたのをもいで来て家の中においておくと数日で食べられるくらいに赤くなる。初霜でへこたれなかったラディッシュもかぶもまだ収穫できる。もう11月も下旬に入るってのに。
仕事なしが今日で丸1週間。このあたりが「仕事のない日常」に微妙に慣れてくる頃かな。やっぱり、65才になったら引退しちゃおうかなあ・・・という方に気持がちょこっと傾く。うん、年金受給の手続きをしなければならない時期まであと3年を切っちゃったしなあ。まあ、年金をもらい始めたからって、別に仕事をやめなければならないという決まりはないんだけど。結局は、仕事をしているときは引退なんかまだまだという気持が勝ってきて、仕事がないときは引退するのもいいなあという気持が勝ってきて・・・あ~あ、不惑の40をとうの昔に過ぎたのに、60を過ぎてまた惑々するなんて。
去年の不況入りでバンクーバーの住宅市場も大幅に値下がりしたはずなんだけど、いつのまにかほぼ不況前の水準に戻っているらしい。なにしろバンクーバー市内の住宅はバカ高い。26年前に平均的な共働きの年収の2、3倍ほどで買えたのが、今は10倍くらいになっている。その価格が不況でどんと下がったところで、超低金利もあって、それまで指をくわえて見ていたfirst-time buyer(初めてのマイホームを買う人)層が今こそ買い時と乗り出して来たもので、あれよあれよという間に値上がりして来たということらしい。バンクーバー市内に平均的な家を持っているだけで、ローンを払い終わって、ちょっと貯蓄や金融資産があれば、平凡な家族でも紙の上では資産が
100万ドルになる。つまり、ペーパーミリオネアが街中にごろごろいるわけか。
日本はとうとうまたデフレに戻ってしまったとか。ここしばらくは何とか水面上に頭を出していたとはいえ、デフレ状態でもう10年近い。バブル崩壊後の「失われた10年」に続いて「経済収縮の10年」はちょっとひどすぎると思うんだけど、国民は「政府はいったい何をやってきたんだ!」と怒らないのかなあ。(政権交代がその表れかもしれないけど。)このデフレという穴は、緩やかだろうがなんだろうか、一度入ってしまうとなかなか這い上がれないものらしい。経済が収縮すると、国力も萎えて来るだろうし、すべてが「安く、安く」では人の心までがちまちまとして来そうにも思える。そういう未来への危機感があるのかどうかはわからないだけど。
ワタシも価格低下が著しい業界にいるから、日本のデフレは少々気になる。英日はずっと前から価格崩壊の状態なんで、今さらという観はあるにしても、なにしろ参入の敷居が低い商売だから、(不況で夫の収入も減っているんだろうけれど)「育児や家事の手が空いた時間に」できて、そこそこお金が入れば満足という「片手間翻訳者」が大量に入ってきたらしい。女性雑誌かに登場するイメージに憧れるのかどうかはわからないけど、ご当人たちは元からアルバイト感覚でしかないから、職業として成り立たないような超低料金で引き受け、結局は、そういう職業意識もプロ意識もない「片手間翻訳者」が価格崩壊と質の低下を呼び込んでいるように見える。(日英でも、資料として送られてくる過去の翻訳に脱帽するしかないようなすごいのがある。)安ければそれでいいってもんじゃないし、生業として食べて行こうという「プロ」にとってはえらい迷惑なんだけど、安いのがあれば「もっと安く」と思うのが人間なんだろうなあ。(だからきっと安い偽ブランド品が売れるんだろうし・・・。)
何新聞だったか、値段の安い冷蔵庫を買うことに決めて複雑な心境になるサラリーマンのことが書かれていた。家計を考えたら少しでも安くというのは当然であっても、いずれ勤務先の業績に影響し、自分の収入に跳ね返ってくるの必定。誰だってやり切ない気持になるだろうな。消費者は収入が減れば消費を減らしたり、もっと安いものを求めたりするから、売る方も作るのを減らすか、もっと安く作るかする。だけど、そのためには材料だけでなく労働力も安くあげなければならない。結果として、さらに所得が減り、さらに消費が減り、さらに・・・これがデフレスパイラルというあり地獄。行き着くところまで行かないと、だめなのかなあ。
電子ブックには未来がある
11月20日。雨、ひと休み。ゆうべ(ワタシ標準時のゆうべだけど)、これで丸1週間仕事なし~なんて喜んでいたら、入ってきちゃったじゃないの、仕事。棚上げ仕事がどうなっているかわからないから、今のうちにこれを、と。仕事量の割には珍しく納期に余裕があると思ったら、なんだ、日本は三連休なんだ。
仕事は連休明けまで余裕があるからと棚上げにして、まずは野菜果物の買出し。大きな買い物は雨の晴れ間を縫ってやらなくちゃ。帰ってきてニュースをチェック。バンクーバー島では洪水が起きて、住民が避難しているところがある。市内でも冠水した道路があるらしい。明日は雨。日曜日の降水確率は30%だから、ちょっとひと息かな。で、月曜日から4日間はずっとまた雨、雨、雨。なんかコピペみたいな週間天気予報だなあと笑っていたら、なにやら外で轟音。外へ飛び出して行ったカレシ、「雷だ~」と飛び込んできた。うわっ、稲妻。1、2、3・・・と数えて、あまり近くないなと思っていたら、今度は空の底が抜けたような土砂降り。狂ってるなあ、お天気・・・。
夕食が終わって、また少し本の移動。カレシのランチを作っていた頃に妹がくれたお弁当の本が何冊か出てきた。ふむ、何品かを少しずつ詰めるという日本のお弁当のアイデアは、小皿料理にも応用できそうだな。ということで、お弁当の本は手元に置いておく。古くなったペーパーバックの本は紙が焼けて茶色になっている。うんと古いのはパキッと折れそうなくらいにカラカラ。たいていが飛行機の中で読むために空港の売店で買ったもので、なぜかミステリーが多い。でも、持ち込み手荷物も重さが制限されるご時世だから、重くてかさばる本は敬遠されるようになるだろうな。「本の香り」フェチみたいなワタシも今年の旅行には電子ブックリーダーを持って行った。
AmazonのKindleは新型が出てすごい売れ行きだそうだし、アメリカの書店大手Barnes & NobleがNookという名で売り出したリーダーが早くも売切れたそうだし、一旦は撤退したはず?のソニーも加わって、電子ブックリーダーはクリスマス商戦の目玉商品になっているそうな。音楽界でダウンロードが主流になってレコード屋がなくなりつつあるように、出版界でも電子ブックのダウンロードが主流になれば、街角から本屋が姿を消して行くかもしれないな。紙の「本」は、最近はペーパーバックでもかなり高くなったから、比較的安い電子ブックに取って代わられるのもうなずけるというもの。人間が本を読まなくなるんじゃなくて「本」の形態が変わるだけだし、収集家向けの豪華本は出版され続けるだろうし、本を作るために森林を木を伐らなくても良くなるわけだし、電子ブック化は時代の流れだろうと思う。
出版社にとって、一冊の本を紙とインクを使って一定の部数を印刷して、各地の書店に並べて売るという事業形態はコストがかかる割にはリスクが大きい。それがお騒がせセレブの暴露本や人気作家の作品なら、売れる確率は高いからいいけど、無名の作家のものは、たとえ印刷部数を最小限に留めたとしても、コストを回収できるほど売れるという保証がないから、出版社はどうしても尻込みする。どんなに優れた作品でも、「読書が趣味」の人たちに買ってもらわなければ、出版社はコストを回収できない。派手に宣伝したって売れないということも多いし、売れると見込んで大量に印刷したのにさっぱり売れないということもある。だけど、なのだ。電子ブックはコストがうんと低い。電子書店に表紙とあらすじ程度を掲載してダウンロードしてもらうだけだから、印刷の必要がないし、書店に配送する必要もない。売れずじまいになった本が大量に返品されるという心配もない。
ワタシが電子ブックに大きな期待をかけているのはそこなのだ。コスト的なリスクが少ない分、もっとたくさんの無名作家に作品を世に出すチャンスが開けるのではないかと。出版社にとっては、ウェブに掲載するだけで宣伝もいらないから、リスクは「購入」ボタンをクリックする読者に丸預け。まったく無名の作家だったら、ダウンロードの値段を低くすればいい。安ければ読者のリスクも小さい。注目されて人気が出たら、値上げすればいいだろう。売れっ子になったら「所蔵版」でも印刷して、著者のサイン会なんかやって売ればいい。そうなったら、ウェブ上の「棚」を貸す商売も生まれるかもしれないな。自家出版が盛んになるかもしれない。駄作も多いだろうけど、後世に読み次がれる名作だって生まれるかもしれない。
小学校5年生の学級文集の「未来の夢」の欄に「小説家」と書き込んで以来、50年間その(白日)夢を捨てないで来たワタシには、水平線が白々と明るくなって来たように思えるんだけど・・・。
宮崎はフェニックスハネムーン
11月21日。雨・・・まるでオウムのようだけど、今日も雨。天気予報は、明日の日曜日の午後が曇りで、夜は霧(あちゃ)。月曜日から金曜日までは雨ひと筋。ワタシは「さぼりモード」ひと筋。日本は三連休だからまだ日曜日丸1日あるということで、仕事の方は今日もファイルをちょっと見ただけで「パス」。明日は明日の雨が降る・・・ってね。
朝から「料理モード」のカレシはバナナチップ作りに挑戦。といっても、スライスしてトレイに並べたら、後はデハイドレータがやってくれる。上から適度の温風を送って数時間で果物やハーブを乾燥させるもので、ビーフジャーキーも作れるというから、いつか魚の干物を作れるかどうか実験してみようと思っている。初運転のときは乾燥りんごを作ったけど、途中で「そろそろできたかな~」と何度も味見をするもんだから、すっかり乾燥した頃には半分も残っていなかった。今日のバナナも運命は同じ。このくらいでいいだろうという頃には手のひらに乗るていどの量。あのさぁ、電気代がかかるんだから、りんごでもバナナでも安売りのときに大量に買ってきて、一気に大量生産してよ~。
この季節になると家中にあっという間に山積みになるのが通販のカタログ。とにかく家にも私書箱にもどんどん来るから、いやでも「クリスマス到来!」という気分になる。モールにはサンタのスタジオができていたし、うん、5週間後の今日はほんとにクリスマスだもんなあ。日本にお歳暮を配達してくれる店からもご案内。ここはずっと変わり映えのしない内容だけど、カナダの「名産品」となるとまあそんなもんかな。例年のごとくカタログをめくってはめぼしいものがあるページに片っ端からPost-itのフラグをぺたぺた。結局はいつもその半分も買わずじまいになるんだけど、「あ、これ、いいなあ」とか、「これ、ほしい!」とか思いつつフラグをつける過程がとにかく楽しい。積み上げたカタログからヒラヒラとのぞいているフラグの数を数えたら、う~ん、破産するかも。ま、夢はただだから、獏になったつもりでパクパクと大食い。はて、サンタは何を持ってきてくれるか・・・?
プレゼンを引き受けてしまった来年の会議まであと5ヵ月になって、なんとなくリサーチを始めた。開催地は宮崎。時期はゴールデンウィーク直前の週末。っとになんでこんな時期?と思うけど、たぶんそのスロットが一番安いのかもしれないな。金曜日の午後までに現地入りするには・・・と、いろいろ調べてみるけど、国内での予約には時期尚早なのか「その日には便がない」という情報しか出てこない。じゃあ、レールパスを買って行って、新幹線を乗り継いで行こうと思ったら、東京を出てから最短で10時間くらいかかるらしい。まあ、シドニーまでの延々30時間近い空の旅を体験した後は10時間はちょっとそこまでの感覚だけど、レールパスでは「のぞみ」を利用できないから、たぶんもっと時間がかかって、当然2日がかり。ちょっと何とかならないかとググったら、見つかった。大阪からの夜行フェリー。ほお、お二人様用の特等室がある。四人用の船室は2人だけだと3人分取られるらしいから、特等室がいいなあ・・・と思ったら、オンラインでは予約できないみたい。できるのは雑魚寝部屋らしい。ふ~ん、変なの。ま、予約開始はまだだから、そのときまでに考えるけど。
その昔、宮崎は新婚旅行の一大メッカだった。まだ飛行機での旅行が大衆化していなかった頃で大安吉日の日曜日の夜の便はいつも新婚旅行のカップルで満席だったそうな。「フェニックスハネムーン」という歌がヒットした。『キミは今日から妻という名のボクの恋人・・・ボクは今日から 夫という名のキミの恋人・・・二人だけだよ、ハネムーン。フェニックスの木陰・・・宮崎の二人』ってね。まあ、新婚旅行といってもパック旅行だったから、「二人だけだよ」という気分になれたかどうかはわからない。あの頃の「ナショナルジオグラフィック」誌の日本特集号に、旗を持った観光ガイドの後ろを列を作って歩いているかわいい新婚さんたちの写真があったっけ。ああ、高度経済成長時代・・・。
今どき、宮崎へハネムーンに行くカップルはいるのかなあ。当時の新婚さんたちは(熟年離婚していなければ)もう定年だろうから、「フェニックスセカンドハネムーン」なんてどうだろう。カレシさあ、ぎくしゃくしながらもパリでセカンドハネムーンをしたから、今度はサードハネムーンでもやってみる?三度目の正直っていうし・・・
「いい夫婦の日」と言われても
11月22日。日曜日。日本では月曜日だけど、例によって三連休の休みで、メールの受信箱は静かでよろしい。明日の午後が期限のしごとをぼちぼちと突っつく。いろんな企業が公式ウェブサイトに嬉々として載せている「経営理念」とか何とかいうものの類らしいけど、「ええ?それってあたりまえのことじゃないの」と突っ込みたくなるようなことをわざわざ「わが社はやりません」と、いかにも「どうだ、うちの会社の倫理観はこんなに立派なんだぞ」といわんばかりに並べてあるからおもしろい。理念を掲げるのはいいんだけど、内容としてはなんとなく中学校の校則みたいな感じがするなあ。まあ、そういう風に活字になって、しかも世間におおっぴらに公表されていれば、あんがいみんな「遵守しなくちゃ」という気になるのかもしれないけど。
11月22日は日本では「いい夫婦の日」なんだって。もちろん、日本人好みの数字の語呂合わせだけど、1年365日のうちの1日だけ「いい夫婦の日」といわれても、どうしろってんだろうなあ。日ごろ暮らしにバタバタしていてつい忘れがちの「伴侶」を互いに再発見しなさいって日かな。それとも、結婚記念日を忘れて痛い目にあっている夫族にこの日を利用してくださいといっているのかな。ほんと、いったいどうしろっていうんだろうな。どうせ、「この日は二人だけの優雅なお食事で、日ごろの感謝を~」とか何とか、ま、(○万円使って)バレンタインデイと結婚記念日とそれぞれの誕生日と、ついでにクリスマスも放り込んで、1年に一度の妻(夫)孝行(=罪滅ぼしまたは貢ぎまたは贈賄)の総集編をやりませんかっていうことなんだろうけど。小町の井戸端統計からみて、そういう商魂に巻き込まれて、奥さんの「おねだりの日」にならないといいけどね。
特定の日を特定の「何とかの日」に指定するってのは世界のどこでもやってることなんだけど、たいていは何かとうに忘れられた歴史的イベントにこじつけてあったりする。ワタシの業界では9月30日が「国際翻訳デー」だそうで、聞いたこともない翻訳会社あたりから能天気に「国際翻訳デー、おめでとう」みたいなスパムメールが来て、おめでとうもへったくれもあるか。特定の業界(とくに小売サービス業)と深く関わっているものであれば、売上増を狙った商業イベントという魂胆が丸見えだからいいけど、翻訳業界が「今日は国際翻訳デーです」といっても翻訳の発注がどんと出るって話は聞かないし、ワタシのところにご祝儀仕事が入ってくるってわけでもないから、はて、いったい誰のための「翻訳の日」なんだろうな。
それにしても、日本には暦の月日の数字の音に語呂合わせをした「何とかの日」って、1年にどれくらいあるんだろうな。そう思ってちょっとググって見たら、「語呂合わせの記念日」というサイトが見つかって、開いてみたら、ひゃあ、ある、ある。ほぼ毎日が「何とかの日」。あっさり「なるほど」とわかるのもあれば、迷作こじつけの殿堂入りしそうなのもある。でも、とどのつまりはどれも「当日限り有効」の切符みたいなものだなあ。中でもよく見ると「夫婦」に関する日が複数ある。4月22日は「よい夫婦の日」だそうで、毎月22日は「夫婦の日」なんだそうな。そして11月22日は「いい夫婦の日」。ことさらに「夫婦」を強調する日があるってことは、それだけ「夫婦の絆」の脆弱化への危機感らしきものがあるのかなあ・・・なんて勘ぐってみたけど、まあ、今どきは夫婦の縁も「かつ結び、かつ解け」みたいなところがあるから、何かで締めなおさなくちゃってことかな。
面白半分に「いい夫婦の日」をググって回ったら、「いい夫婦の日をすすめる会」というのがあった。ごていねいに英語で「Happy Partners Day」というロゴができていて、「いい夫婦の日には「ありがとう」と「愛してる」をバラに込めて贈りましょう」と書いてある。しかも、ヨーロッパには結婚を申し込むときに男が12本のバラを捧げる風習があると、ごていねいに「何とかの日」推進者好みの「ヨーロッパの古い伝統・風習」を挙げているじゃないの。ま、そこんところは日本では「夢を売る手段」としてよく使われるからご愛嬌としても、いくらヨーロッパの伝統と風習に従って12本のバラを捧げても、枯れるときは枯れるべくして枯れるんだけど。で、華やかなバラが枯れて、目に付くのはトゲばかり・・・。
11月22日。毎日が「いい夫婦の日」であるようにと、今年はこれで326日目。
幸せな結婚は与えられるもの?
11月23日。やっぱり雨。仕事を片づけて、送り出してからベッドに飛び込んだせいか、寝つきが悪くて、最後に見た時間は午前6時半。まあ、寝つきが悪いといっても、ほんとうに目が冴えているわけでもなさそうだから、3時間もうとうと、悶々としていたってことか。でも、正午直前に起きてみたら、やっぱり少しばかりまぶたが重い・・・。
月曜日。あちこち買い物に走り回るつもりだったけど、雨だからダウンタウンでだけのショッピング。やっぱり慣れっこのバンクーバーっ子でもだらだらと雨が続くと「やる気」が低下するものらしい。ま、「季節性へたれ症候群」とでもいったところ。カレシがDVDのディスクを買いに行っている間に、ワタシはHマートで、郊外の店で見つけられなかったものを買い足し。ついでに今日の漁獲は「yellowtail」の半身2パック(つまり1匹分)。たしか「ハマチ」だったっけと、辞書を引いてみたら、あら「ブリ」と書いてある。へえ?と思ってググって見たら、「カンパチ」ともいうそうな。成長にしたがって名前がくるくる変わるから「出世魚」というらしいだけど、今日のyellowtailは頭と尻尾を取った長さが25センチくらい。ふむ、出世街道のどこらへんで網にかかっちゃったのかな、これ?
ワタシもだらついた気分で、小町横丁の井戸端会議を冷やかしに行く。だけど、タイトルを見ただけでは「はあ?」とか「ええっ」というお悩み相談が多いもので、つい座り込んでしまう。たとえば、「幸せな結婚生活は、努力だけでは得られないのでしょうか」という切実そうな悩み。「飲む、打つ、買う」の三拍子夫に手を焼いているのかと思ったら、「努力すれば望みは叶うと思って生きてきたのに、望んだ結婚生活が得られなかった」と、これまたえらく落ち込んでいるようす。大学院まで出て、共働きで収入も夫より少し多めだというから、ほんとうに努力ひと筋だった人なんだろうけど、そういう人の理想の結婚生活が「旦那様が奥様をお姫様のように大切にしてくれる」イメージ。それが得られない、まだ努力が足りないのか、と。「具体的な不満は思いつかない」というから、ご当人は「幸せ感」がなくて悶々としていても、傍目には「どこにでもいる普通の夫婦」なんだろうに。
だけどなあ、「努力すれば望みは叶う」って、誰がそんなことを信じ込ませたんだろう。文科省のお役人が作った教育指導要領か?「努力すること」と「望みが叶う」とでは、ワタシには何となく矛盾しているように感じる。要するに、「求めよ、しからば与えられん」ではなくて、「努力せよ、しからば与えられん」。でも、「求める」も「与える」も他動詞。一方、「努力する」は自動詞。望みが「叶う」のと「叶える」のとを見ても、向こうから来るのと、こっちから行動するのとで、エネルギーの向きが正反対。努力すれば与えられる・・・やっぱり矛盾しているんじゃないかなあ。早い話、望みが叶うのは棚ぼたで、望みを叶えるには自分の努力が必要ってことじゃないかと思うんだけどなあ。でも、「努力すれば望みが叶う」と思って生きてきたこの人にとっては「努力すること」そのものがすべてになってしまったんだろうな。努力さえしていれば、望みは誰かが叶えてくれる(実現してくれる)、と。
もちろん、「人事を尽くして天命を待つ」という格言もあるけど、これは「やれるだけのことをやったから、後は運を天におまかせ」ってことで、天が与えてくれるものを受け入れるという心構えがあってのこと。全力を尽くして努力したからって、天は必ずしもこっちの望む通りにしてくれるわけじゃないし、人と交わって生きている以上はいくらがんばっても思い通りに行かないことの方が多いかもしれない。まあ、恋愛や結婚生活、子育てなんてのは思い通りに行かないことの最たるもんじゃないのかなあ。でも、「自分にできることはすべてやった」という一種の(自己)満足感が天命を受け入れる心のゆとりにつながるんだと、ワタシは思うんだけど、まあ、自己のつく言葉が否定的に使われる文化ではそれも難しいのかもしれないなあ。
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