11月3日。イギリスのThe Guardian紙がスノーデンがリークしたアメリカのNSAの活動を報道して、世界のスパイ非難合戦が始まった観がある。ドイツもイギリスもブラジルもどこもかしこも、アメリカに覗き見、盗み聞き!と声を荒げて抗議、非難の嵐。ところが、同じThe Guardianが今度は同じスノーデン文書によるとドイツ、フランス、スペイン、スウェーデン、オランダの諜報機関がイギリスやアメリカと協力して光ファイバーケーブルの通信盗聴する方法を開発していて、民間テレコム会社もこっそり協力していたと報じたという記事がロイターズに載っていて、思わず笑ってしまった。特にイギリスはドイツのBNDの技術力やインターネット中枢へのアクセス力の優秀さにいたく感服していたらしい。
ジャパンタイムズには、一連の暴露で一番驚くべきことは「世間が驚いたと言うこと」だと、外交官経験のあるグレゴリー・クラークが書いていた。つまりは、どこの国もずっとやって来たことで、たまたま憎まれっ子アメリカの活動が(内部から)暴露されたから、正義感に燃える?世界各国がここぞとばかりにこぞってアメリカ叩きに乗り出しただけということになるのかな。ドイツはNSAがメルケル首相の携帯をハッキングしていたと息巻いているけど、秘密警察(Stasi)が市民の生活を隅々まで監視していた東ドイツに生まれ育ったメルケル首相が盗聴の可能性を露ほども疑っていなかったなんて考えられる?
グーグルやヤフーまでがNSAが自分たちの光ファイバーネットワークのデータや通信を盗聴していたと騒いでいるけど、人さまのコンピュータにトラッキングクッキーなんかをばらまいてユーザーのネット利用情報をかき集めては広告主に売っているんだから、どの口がどの面で言うかというところ。それだってスパイと同じようなもんだから、同じ穴の狢。今どきは、公共の場でちょっとした事件があると必ずと言っていいほど監視カメラの映像がテレビに流れるし、下々の衆だって、小町横丁では疑り深い女房が亭主の携帯をチェックしたりしているしね。つまりは、みんないつどこで誰の監視レーダーにキャッチされているかわからないということだと思う。
一方で、ドイツのDer Spiegel紙が、アメリカが世界80都市に盗聴拠点を置いていたと報道したけど、その中に秘密保護法の制定で揺れている?日本の都市がひとつもなかったというのはおもしろいと思う。報道が事実だとして、日本政府がそれをどう解釈して、国民にどう説明したのか(しなかったのか)知らないけど、理由を勘ぐればどんどん意味深になりそうで、安倍さんに聞いてみたいところだな。もしかして日本政府が代わりにやってあげていたのか。もしかしてアメリカが日本は節穴だらけでスパイしても意味がないと思ったのか。もしかしてアメリカにとって日本は無味無臭無害の存在なのか。ここは調査報道の出番だと思うけど・・・。
でも、ある事件や現象の中のひとつの事柄に集中して大騒ぎするのが最近のジャーナリズムの特徴のように思う。それがアメリカでCNNのような24時間ニュース局が登場してからは、もはやニュース報道なのか娯楽番組なのかわからなくなり、FBやツィッターのようなSNSの登場で、伝えられるニュースがジャーナリズムの産物なのかただの口コミなのかわからなくなってしまった。世の中、いろんなことが起こっているのに。センセーショナルな一点に集中して、穴があくまでほじくり、ほじくり、ほじくりまくって、しまいに何が起きているのかわからなくしてしまう。それをイメージやサウンドと共に(15分おきに)繰り返し、繰り返し、繰り返し流せば、ただ漫然とテレビを見ている人間がそれがそのときの唯一の重大事件であるように思ってしまうことだってあり得るんじゃないかな。
まあ、ニュース専門局というのは、週7日で無限に繰り返される「1日24時間」のコマーシャル以外の時間を1分の隙間もなく「ニュース」で埋めなければならないわけで、「ニュース」が足りなければ作ればいいと言うことになるのかもしれない。新聞なら3行記事で済む「事件」だって、突っ込んで行けば売りになる「一点」はいくらでも見つけられるだろうな。そこで「カンケイシャ」を巻き込んで話を大きくすればいい。隠しカメラを仕掛けたり、イギリスで実際にあったように関係者の電話を盗聴したりすればいい。そえもでも何も出て来なければ誇張すればいい。テレビでもネットでも何でも、「ジョーホー」は先に手に入れたもの勝ち。はて、何だか古い西部劇映画の「先に引き金を引いたもの勝ち」の決闘シーンみたいだな。でも、他人の情報を先に聞いたもの勝ち、先に流布したもの勝ち、先に非難の声を上げたもの勝ちでも、情報時代の現代は自分の情報も他人の手に入っている公算が大きいということけど。
スパイの話から報道の話しにずれてしまったけど、こうして考えてみると、古典的なジャーナリズムは「絶滅危惧種」に指定してもいいんじゃないかと言う気がして来る。ずれっ放しのついでに、ワタシにはThe Guardian紙に忘れられない「恩」がある。まだ日本にいた70年代の初め頃、昭和天皇のヨーロッパ訪問のときにオランダやイギリスで第二次大戦中の日本軍による捕虜の扱いに抗議するデモが起きた。どういうわけか忘れたけど、ワタシはなぜ年老いた天皇に青年時代の「感傷旅行」を楽しませてやらないのかと抗議っぽい手紙をたまたま住所があった同紙の編集長に送ったら、思いがけず編集長から署名入りの長い返事が届いた。遠い日本のそれも地方に住む血気盛んだけど無知な小娘の怪しげな英語の手紙のどこが当時すでに創刊150年の大新聞の編集長の関心を引いたのかは知る由もないけど、我が子に話しかける父親のような丁寧な手紙は、世界のできごとや現状を「歴史」という大きな枠の中で見て考えるという、きわめてアナログな視点をワタシに教えてくれたのだった。
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