時間薬が効かないトラウマ
8月1日。月曜日。8月1日。。BCデイの三連休の最終日(日本流に言うなら、ハッピーマンデイかな)。やっと到来した夏、どうやらしばらく腰をすえてくれそうで、週間予報はお日様マークがずらり。今日の予報は平年並みの最高気温、湿度は60%以下で、午後1時の気温は18度だけど、日差しの中に出ると「夏!」という感じがする。
カレシが温室からでっかいきゅうりをもいできたので、茂りすぎた青しその葉を取って来てもらって、即席のきゅうりの漬物を作った。ワタシは漬物やピクルスの類はほとんど食べないけど、カレシは大好きで、買い物に行くたびに買い込んで来ては、もぐもぐ。空腹と言うよりは「口さびしい」という感覚なんだと思う。塩分の取りすぎがちょっと気にはなるけど、日常の三食についてはシェフが減塩を心がけているから、まっ、後は本人の自制にお任せというところかな。賢い大人の年令なんだしね。
その自制というやつがまたけっこう難しいらしく、今日は庭仕事を終えてコンピュータの前に座ったとたんにぶつぶつ、ぐちぐち。ルータの調子がおかしい。メールにもネットにも接続できない。あっちこっちと弄り回し、ぶつぶつ、ぐちぐちがだんだん大きくなる。きのうはiTunesのアプリが壊れたとか何とかぶつぶつ。んっとにこの頃はとみに亡きパパに似てきたなあ。あれが嫌い、これが気に食わん、あれはダメ、これlはクズ。ネガティブなのもここまで来ると、 さすがのワタシもイラッと来てしまう。寝ている間に入ってきた仕事の算段をしているときに、後ろであまりごちゃごちゃ言うから、プロバイダのサーバがダウンしてるんじゃないの?と言ったら、案の定、「そんなこと、あるはずがない!」と口をとんがらせて一蹴。あっ、そう・・・。
昔とは違うところは、カレシがそうやって子供のような癇癪を起こしたら、ワタシは「もしもワタシがネクラ丸出しでぐちぐち、ぐちぐち文句を言い続けて、思い通りにならなくて癇癪を起こしたら、アナタはどんな気分になると思う?」とやれること。自分がされて嫌なことは人にしないって、どこかで誰かに教わらなかったのかなあと思うけど、誰にも教わらなかったか、あるいはそういう思考ができないか。どっちでもいいけど、ちょっと落ち着いて、何を手伝って欲しいのか合理的に質問したり、頼んだりできるようになったら、お話を伺いましょ。そのときは新しいバックアップ電源に切り替えるのも手伝うから、言ってちょうだいね。
しばらくして諦めたのか。「電源はどうやって取り替えるの?」と来た。古くなったバックアップ電源がピーピー鳴っている。そこで、配達されたままの箱から取り出して、ひっくり返して底を開けて、電池の電極を接続して、コンピュータとモニタのプラグを差し込んで、電話のコードをつないで、電池のプラグをコンセントに差し込んで、おしまい。コンピュータは無事に立ち上がり、モニタもちゃんと機能している。ルータも立ち上がって、ワタシのコンピュータから印刷もできる。でも、やっぱりネットにもメールにも接続できない。ここまで来て、さすがのカレシも電話を取って、プロバイダのヘルプデスクに問合せ・・・何のことはない、「ただ今システムがダウンしています」というメッセージが流れたそうな。だから言ったでしょ、プロバイダのサーバがダウンしてるかもって。人の言うことに耳を傾けないから、よけいな回り道をするんだってば・・・。
夜になって、ラジオで「ハードウェアの問題でTelusのネット接続が州全体で障害が起きている」というニュースが流れた。朝からそんな状態だったようで、テクニシャンたちが一刻も早い復旧を目指して対応中とか。それを聞いたカレシ曰く、「別に接続できなくたっていいさ。オレのせいじゃないからどうにもならないんだし」。ワタシは突然ネットやメールがつながらなくなったら、まずはルータより先の外部の問題を疑ってみるけど、と言ったら、ちょっと照れくさそうな顔。小さいときから不器用だったカレシはおもちゃを壊してはパパに叱られたり、虐待的ジョークのネタにされたりしたもので、70代に手が届く年令になっても、モノが故障したり壊れたりすると、とっさに「オレのせいじゃない!」という反応が出るらしい。たぶん、子供の頃のトラウマがパニックを引き起こして、冷静に考えられなくなるんだと思うから、とりあえず「するべきこと、できること」をまず考える方へと、それとなくやんわり誘導する。ふうぅ・・・。
若いときにカレシのそういう背景が理解できていたら、モラハラ的なネガティブな圧力に潰されることはなかったかもしれないと思うけど、まあ、若さには知恵が付いてこないし、知恵が付く頃には痛い目にあった後でもう若くないのが現実。それにしても、ハードウェアの問題って、電話は通じているから、泥棒に電話線を切り取られたわけじゃなさそうだし、復旧までに日付が変わりそうなのは、よっぽど重大な障害なんだろうな。おかげで、我が家にまでもう少しでひと悶着のとばっちり。寡占状態なのに、事業継続計画ってやつは作ってなかったのかなあ・・・。
アインシュタインもびっくり仰天
8月2日。火曜日。ちょっと高曇りだけど、正午の気温は20度でまあまあの夏日。今日はカレシのネット接続も復旧したようで、機嫌よく庭仕事。なんとなくほっとしたワタシも、先ずは特急で仕事を仕上げて納品。やっぱりどうもやる気の出ない時期らしくて、続けて仕事が入って来なければいいなと思ってしまう。ご隠居さんのカレシのご機嫌にも波があるように、現役稼働中のワタシのやる気にも波があるってことで、うねって砕けた後は穏やかな引き波になれば、それでよし。
同業仲間のメーリングリストにおもしろそうなリンクが貼られていいた。6月に発行されたばかりのアインシュタインの伝記本の日本語訳があまりにもひどいものだったので、出版元が全数を回収したと言うもの。上巻がすでに出ていて、回収されたのは下巻という。日本語してまったく意味の通らない文章もあって、機械翻訳ではないかという説もあるそうな。実際に英語の原文をあるサイトの翻訳ソフトに通してみたら、同じ日本語文が出て来たという話もある。この本のある章を写真サイトに載せた人がいると言うので、さっそくリンクを辿って行って、開いてスキャンした本のページを読んでみたら、うはっ!すごっ!絶句ものだ、これ・・・。
というよりは、先ず日本人が書く日本語ではない。たしかに、昔から「翻訳調」と呼ばれる外国語からの翻訳もの独特の日本語文体のようなものはあったけど、これは「翻訳調」だからと我慢して読むようなものではない。だって、いわゆる「翻訳調」の日本語文は言い回しや理屈がちょっと「バタ臭い」と言う感じがするだけで、それでもれっきとした日本語文だった。英日翻訳をやりたいと言うと即座に「アナタの日本語の文章力は?」と聞かれる今でさえ、数ヶ月の短期語学お遊学して来て「エイゴできるんですけどぉ」と言っているようなオンナノコたちとか、お小遣い程度の稼ぎがあればいいというバイト感覚の子持ち専業主婦とか、そういった何ちゃって翻訳者にだって、こんな日本語になっていない日本語訳はやろうとしてもできないと思う。どう見たって、日本語も英語も中途半端な俗に言う「セミリンガル」としか思えない人でも、さらには日本語が母語でないプロの日英翻訳でも、こんなひどい日本語訳にはならないと思うんだけどなあ。日本語が母語だけど日英翻訳もやっている日本人翻訳者の(英語人がNGを出すような)英語訳と比べても、この日本語訳は無限大に「ひどい」。それくらいひどい・・・。
出版元はそこらの零細な出版社ではない。ドイツの有力メディアが所有するアメリカの由緒ある大出版社と直結した会社で、翻訳本が主力事業だと言うからにはそれなりの資源があるはず。アマゾンのページの写真をうんと拡大してみると、名前は判読できないけど「監訳」という文字が読める。てことは、翻訳も、校正・校閲もみんな下請けに丸投げしたんだろうな。ノンフィクションの日本語訳にはけっこうそういうのが多いように思うけど、なんか日本の読者を小ばかにしているような感じがするな。まあ、こういう誰が見ても粗悪な仕事をして、自分の名前を表紙に出せる翻訳者はいないと思うけど、原書の著者はこの騒ぎを知っているのかなあ。
あるベテラン会員が粗悪翻訳の根源は「けちり」だと言っていたけど、まさに安ければ言いという姿勢なのかもしれないな。発注元から採算が取れるはずのない安い値段で請け負う翻訳会社があって、それを先の「500円翻訳者」と同様にパチンコ屋の出血大サービスのような安いレートで、おそらくは安いとも知らずに引き受けるプロ意識も生活意識もない「翻訳家」がいるから、発注する側にとっても翻訳は安いのがあたりまえになって、そういう水準の予算しかつかなくなるのかもしれない。安いを意味するcheapには「俗悪」という意味もあるんだけど、出版社も翻訳会社も翻訳者も気が付かなかったのか、あるいは諸般の事情で目をつぶったのか。
出版社のホームページには「お詫びとお知らせ」が掲載されているということで、リンクを辿って行って読んでみたら、「一部に校正・校閲の不十分な箇所がございました」だと。はあ、「一部に」ねえ。校正と校閲も外注したとしても、少なくとも印刷に回す前にたとえざっとでも最終原稿に目を通したはずだと思うけどなあ。でも、「You get what you pay for」、つまり、お金を惜しまなければ良いものが手に入るし、逆にケチればそれなりのものしか得られないと言うこと。翻訳能力、文章力が欠如した人間による翻訳なのか、本当に大手ポータルサイトの翻訳ソフトによるキカイ翻訳なのかの議論はともかく、こういう形容詞さえ思いつかないすごい翻訳本が、印刷製本され
て日本各地の書店の本棚に並ぶまで、誰もその品質にまともな疑問を抱くことなく通ってしまうというのが究極的にすごいと思うなあ。
もしも、もしも、いつかワタシの小説が北米でヒットして、日本語訳の話が出るようなことがあったらどうしよう。まあ、万のひとつも可能性はないと思うからいいんだけど、もしもアインシュタインが聞いたらどういう反応をするか。
半端な残り物食材で作る思いつき料理
8月3日。水曜日。今日も夏が真っ盛り。シーラとヴァルが正午過ぎのいつもの時間に来たけど、今日はワンちゃんのレクシーがシーラの孫娘とお留守番ということで来なかったので、ちょっとつまらないから、一階と二階を掃除している間にオフィスで仕事。掃除が終わった午後2時過ぎのポーチの気温は22度。明日はもっと上がるという予報。
フリーザーに使い残しのオヒョウとロックフィッシュ、ティラピアがあったので、これも1個だけ残ったじゃがいもをゆでて、潰して、魚もまとめてさっとゆでてほぐして、刻みにんにく、刻みパセリ、パルメザンチーズ、卵、パン粉を混ぜ合わせて、フィッシュケーキを作ることにした。まあ、コロッケのようなもので、ちょっと多いかなと思っていたら、カレシが太いきゅうりを収穫して来て、半分をくれて「これ、何かになる?」
急遽、フィッシュケーキは半分だけ使うことにして、3個残っていたホタテを出してきて、急速解凍。スライスしたきゅうりには塩を振っておいて、ホタテはポン酢でマリネート。野菜が底をつきかけているから、今日はレインボーにんじんを蒸して付け合せにすることにした。
[写真] フィッシュケーキは平たく形を整えたものに軽くパン粉をまぶしてフライパンに。焼けるまでの間に、にんじんをスチーマーにセットして、別のフライパンにバターを少量溶かして、薄くスライスして一味唐辛子をちょっぴり振ったホタテをさっと火が通る程度に焼いて、きゅうりと段々に重ねてみた。飾りに香り付けを兼ねたレモンのゼストを載せて、はい、残り物の在庫一掃セールメニューのできあがり。
2人だけの食生活ではどうしても一回では食べきれない中途半端な食材が出てくる。フリーザーに戻せば鮮度や質は落ちるけど、あまり長く入れておかない限りは食べられないほどには落ちないから、ちょっとダメもとのつもりで実験!その結果、どんなものができるかわからないのが極楽とんぼ亭の名物思いつきなんちゃら料理。前の週末に食材を出し忘れて緊急処置として刺身にしたときは、先細りのタコの足とカレシ菜園の青じその葉で、ちょこちょこっと小品を作ってみた。
[写真] たこの足をさいころに切って、青じそは大きいので半分にしたものをくるくると巻いて小口切り。刺身のつまを作った残りの大根をおろして合わせ、明太子といくらを入れるカップを作るために繰り抜いた太いきゅうりの芯もざくざくと刻んで混ぜてポン酢で和えるだけ。冷凍室に入れてよく冷やしておいたグラスに盛って、しそのは半分を飾りにしたら、半端な食材がけっこうエレガントな夏のアペタイザーになったから、フォレスト・ガンプ式クッキングは楽しからずや・・・。
不況になったら下手の横好き三昧で行くか
8月4日。木曜日。寝たのが午前5時に近かったので、起床はほぼ午後1時。別に急ぐ用事もないからいいんだけど。いっとき咳が出て、気管支がぜいぜい、ごろごろいい出したあたりでやっと収まった。カレシが「ひょっとしたらしばらくトレッドミルに乗ってないからじゃないのか」と推測したところは当たっているかもしれない。ちょっと膝の調子が良くなかったのを口実にしてサボって来たからなあ。肺の空気をすっかり入れ替えるような運動しないと、呼吸機能が低下するのかもしれない。あしたから再開するか・・・。
テレビをつけてびっくり仰天。アメリカもカナダも株式市場がすごいことになっている。(でも、カナダドルもあおりを食って2セントも急落したので、高いときに入って来たアメリカドルを換金するにはいいチャンスかも。)まあ、アメリカが何とか債務不履行を回避したといっても、とりあえず借金して払うべきものを払うと言うことなんで、いずれはその借金を払わなければならなくなる。そのときにお金があればいいけど、なければ元の木阿弥。ヨーロッパでは今度はイタリアが危ないらしいし、日本でも特例の国債発行ができないでいるそうで、いずれ国庫は空っぽと言うことになりかねない。政府負債率がGDPの200%で世界一だと言っても、自国民からの借金がほとんどだそうだから、破綻して直接損失を被るのはほとんどが日本国民。『エコノミスト』誌に「欧米の日本化」という記事があって、日本では、バブル経済が崩壊して以来、国の針路を変えるチャンスが数え切れないくらいあったのに、政治家たちは長いことそれを避けて通って来たために実行するのが難しくなってしまった。欧米はそれを戒めとして留意すべきだと言っていた。ワタシは何年も前から(冗談半分に)世界の「日本化」が進んでいると言っていたんだけど・・・。
それはともかく、今日はオバマ大統領の満50歳の誕生日なんだそうな。へえ、やっと50歳なんだ。中年の真っ盛りみたいな50歳。そのオバマさんは、まだ大統領になって1期目なのに就任当時と比べると格段に頭が白くなって見える。だいたい、アメリカの大統領は老けるのが速いなあという印象だったんだけど、それだけ「アメリカ合衆国大統領」というのは激職ということかな。それにしても、節目の満50歳の誕生日のその日にウォール街の大暴落なんて、ちょっとかわいそうなプレゼントだなという気もする。
これが心配されていた不況の二番底なのか、それとも新たな大不況の始まりなのかはわからないけど、アメリカがこれでは日本の景気もあまり期待できそうにないな。復興景気が来るとささやかれたけど、政治家の不毛な駆け引きと、原発事故・放射能汚染問題のまるで堤防の水漏れに指を突っ込むような対応でいっぱいっぱいらしくて、東北の復興事業が始まっているのかどうかさえわからない。(少なくとも、毎日読むウェブ版の日本の新聞からは「復興の槌音」は聞こえてこない。)ま、今年はワタシのビジネスも2003年の正体不明の不況に匹敵するくらい「低調」な年になると予測して、近くのカレッジの秋の「継続教育」プログラムを開いてみる。また即興演劇コースを取るか、短編か小説のコースに戻るか、それとも美術。はて、どれにしよう・・・。
考えてみると、初めて取ったデール先生のクラスで、書くことが自らの魂の救済になるような感動を持って、先生のプライベートなレッスンに参加し、その後カレッジで片っ端から創作講座を取るようになったのが2003年だったと思う。たぶん、「ん、なんか今年はヒマだなあ」と感じて、「それじゃあこの際・・・」という気になったんだろうな。1年ちょっとで文芸関係の講座をほぼ取り尽くして、絵を描いてみようと思い立ったのが翌年の秋。入門コースに申し込んで、道具や絵の具を買い揃えて楽しみにしていたら、参加者不足でコースはあえなくキャンセル。代わりに「まだ空きがある」と言われて入ったのが「抽象画」のクラス。絵の具や筆の使い方、色の理論など、知識はゼロだったワタシ。プロの画家の先生に「勇敢だわ、あなた」と言われてしまった。きっと先生もどうしたものかと困ってしまったんだろうな。そのときのコース第1夜に果敢に描いた「処女作」がこれ・・・題して「Primordiality」。
[写真: Primordiality] 「原始細胞」といった意味で、とにかく描いてみなさいと言われて、右も左もわからないまま思い浮かぶままを描いた、まさに原始的なしろもの。下手の横好きアーティストになる兆しがそっくり満開だな、これ。(自分ではそのあっけらかんな下手さ加減が好きなんだけど。)なにしろあのときは「ド」が3つくらいつくようなシロウトだったもので、ときには先生が横で付っきりの指導。でも、何年も展覧会に出すような抽象画を描いている級友たちがいろいろと教えてくれて、あのときはほんっとに楽しかった。よ~し、決めたぞ!この秋はお絵かき修業で行こう。
夫婦に共同参画しないと老後はどうなるか
8月5日。金曜日。お、今日はちょっと涼しいかな。それでも20度は超えそうな感じ。バンクーバーの夏はやっぱりいいなあ。
昼のニュースを見たら、案の定、カナダドルはちょこっと反発している。1ドルが1.0224アメリカドル。ま、きのうは1.0209だったからほんのちょこっとだけど、ゆうべのうちにアメリカドル建て口座から5千ドルほどカナダドル口座に移しておいたのは正解だった。レートが1.05ドルくらいだった頃に入ってきた分だから、名目的なレートと実際の買値の差、それと銀行の手数料を勘案しても、少なくとも損はしていないと思う。S&Pがアメリカ国債の格付けを下げたから、当面はまたアメリカドル安になりそうな気配で、残高はしばらく氷漬けかな。でも、現金を使うことがほとんどないから、月々のクレジットカードの支払がカレシの年金の枠内で納まっていれば特に資金移動しなくてもいいんだけど、そこはそれ、「生活費を入れる」みたいな気持があるのはたしかだと思うな。
となりのパットから庭でたくさん採れたラズベリーのおすそ分け。鳥が落としていった種が芽を出したらしく、今ではかなりの収量になっているとか。さっそく(おやつにだいぶ食べた後で)ハンドミキサーでピューレにして、種を取り除いてラズベリー・クーリを作り、フランスのラズベリーのリキュール(シャンボール)で甘みをつけて、今夜の魚のソース。魚はスズキ。季節を外れて莢が硬くなったスナップエンドウの豆を取り出してあったので、塩とちょっぴりの昆布だしでさっと茹でて、1合弱の発芽玄米を炊いて「えんどう豆ご飯」。野菜がほぼ底をついているから、青梗菜1本と紡錘形のサマースカッシュを2つに切って蒸したら、それでもちょっと見にはごちそう。
夕食後にIGAへ野菜などの買出しに行く予定を確認したら、「う~ん、めんどうだなあ」と気乗りのしない返事。やれやれ、また心変わりかいな。水曜日の夜に行くはずが、木曜日の方がいいというからそうしたのに、きのうになって確認したら「あした」という返事。そのあしたが今日なんだけどなあ。じゃあ、ワタシ1人で行くからいいよと言ったら、「行く、行く。食べもののショッピングは好きだからいいんだよ」。はあ、なるほどさようで・・・。でもねえ、そうやって夫婦共同参画による家庭運営からなし崩しにずるずると抜け出して行ったら、ワタシが仕事をやめた暁にはアナタの存在価値がなくなっちゃうかもしれないけど、そこんところに気づいているのかなあ。仕事を辞めても専業主婦にはならないって宣言してあるんだし、今さら大きなお子様老人のママにになるつもりもさらさらないから、アナタっていったいワタシの何なの?ってことになってしまうかもしれないよ。いいのかなあ・・・?
8時半頃にカレシが「行くぞ!」と号令。気が変わらなかったのはエライ。さっそく着替えて、トートバッグをつかんで出発。道路は思ったより空いていて(金曜日だし)、スーパーの中も人影が少ない。野菜類を中心にどさっと買い出しをして、カレシはけっこうちょこちょことおやつの類を買い込んでの帰り道、「黒オリーブを買ったから、ボクがタペナードを作ったら、キミはバゲットを焼いてくれる?」との提案。「それと、青じそもバジルも育ちすぎたから、どっちもペストソースにしたら、ホームメードのパスタを作ってくれる?」と提案その2。あはは、テキは交換取引に出て来たな。まあ、ここのところは時間の余裕があるからいいけど。提案その1はごく簡単だからOK。提案その2も、セモリナ粉があるから、生地をこねる力仕事に手を貸してくれるならOK。それに、月曜日はカレシの誕生日だから、ここはぐいっと腕をまくって、おいしいものを作ろう。年を取ってくると食道楽のパートナーはすてきだと思うな。それでもやっぱり、老人世帯の伴侶として共同参画してもらわないとね。聞いてる、アナタ?
男子厨房に入れば、女房が忙しい
8月6日。土曜日。今日は午前11時ちょっと過ぎに起床。工務店のマイクが来る予定になっていて、来る前に電話が来ることになっていた。だいたい10時半か11時くらいと言うので、電話をベッドの横に置いて寝たけど、カレシが早々と目を覚まして起き出し、寝ぼけて防犯装置のアラームを解除せずに外へ出たおかげで、ぐっすり眠っていたワタシまで起こされてしまった。んったく、もう。
朝食のテーブルをセットしていたカレシ、「パンを焼くのを忘れた」と素っ頓狂な声。きのうの朝食で食べ切って、出かけないなら(いつものように)すぐにパン焼き機をセットすればいいものを、たぶんきのうはほんとに「ぐうたらモード」だったんだろうな。後でやればいいやと思っているところへ、夜になって買い物に行ったから、そのままケロリ。まあ、そういうことはワタシもたまにやるから、寄る年波のせいでいいけど。しょうがないから、魚バーガー用のイタリアパンをトーストの代用にして、今日は忘れずに「日々の糧」を焼く準備。
マイクが現れないので、カレシはバジルのペストソースを作ると言う。庭からバジルをボウルにいっぱい採って来たら、キッチン中がイタリアンの香り。まずは「松の実、ある?」はい、これとワタシの食材を入れてある引き出しから袋を出して渡す。「パルメザンチーズ、ある?」それは冷蔵庫の引き出し、ソーセージが入っているところ。冷蔵庫を開けてごそごそやっていたと思ったら、「ないよ」。だって、手に持ってるじゃないの。「え、これがそう?いつものと違うからわからなかった」。袋に「Parmigiano-Reggiano」と書いてあるでしょうが。「眼鏡がないと見えないよ。それに英語じゃないし」。英語は単語の綴りや発音や不規則なもので、どうやら英語人は見慣れた綴りでないと脳みそが「外国語だ~」と無視してしまうらしい。その点、ローマ字読みができる日本語人はちょっと得かもしれないな。イタリア語とかスペイン語、フランス語、ドイツ語くらいなら、アルファベットの発音の特徴を覚えたら単語を読める(と思う)し、意味がわからなくても、英語から類推してだいたいの見当が付くことも多いし。
必要な材料を計量して、カレシ流に全部カウンターに一列に並べて、「フードプロセッサの使い方がわからない」。引き出しにマニュアルがあるよと言いかけたけど、オリーブ油を少しずつ入れて・・・なんてレシピを読みながらやっていたらカウンターも何もキッチン中が油だらけになりそうなので、操作はワタシがやることにした。そうしたら、カレシは最後の材料をフードプロセッサの投入口に入れて、自分の仕事は終わったと言わんばかりにさっさとトンズラ。最後はワタシが仕上げて、小袋2つに分けて入れてフリーザーへ。んったく、どうして男の「料理フローチャート」は最後の後始末の段階まで流れないんだろう。社会でいつもそういう仕事ぶりだったら、出世どころか真っ先にリストラの対象になったりして。ま、小町なんか見ると、そういう「ずぼら」で奥さんにリストラされるご亭主もいるみたいだけど。
マイクが「あと1時間半くらいで行く」と知らせてきたので、とりあえずワタシは1人でモールへ。郵便局が移動するので一時閉鎖する前に私書箱を空にしておこうと思ったけど、時遅し。でかでかと「8月15日。までアクセスできません」と書いた紙が全面に貼られていて開けられない。ついでだから、カウンターで7月で切れるレンタル料の請求書をもらっていないと言ったら、「帳簿はもうここにないので、15日。にオープンしたら来てください。なあに、2ヵ月や3ヵ月遅れてもすぐには鍵を変えないから大丈夫ですよ」だと。ああ、よかった。私書箱はワタシの「ビジネスの住所」だから、料金不払いで閉められて、他の人に貸されてしまったら大変。じゃあ、15日。に新しい場所で・・・。
カレシへのバースデイカードを買って、汗をかきながら帰って来たところで、やっとマイクが登場。去年の春にバスルームの改装をしたときに比べてかなりスリムになっていた。すごく若返ったねと言ったら、「そう?クレアが太りすぎだというもんでね」と。(クレアはマイクのガールフレンドで、去年キッチンの本棚を作ってくれた大工さん。)庭の改修ロジェクトも予算があるから、優先順位の高い池の撤去に始まって、パティオを作って、温室に水を供給する配管をやり直して、裏口のポーチと階段を作り直して・・・ああして、こうして。工事を始めるのは秋以降だけど、カレシは今からもう来年の「作付け計画」。半径数メートルの地産地消、エコでいいじゃない?
あしたはまたバジルとルッコラのペストソースを作ると言うから、今夜のうちに仕事を済ませておいた方がいいか。男子が厨房に入るのはいいことだけど、何かと世話が焼けて・・・。
道草を食ってばかりの我がアナログ思考
8月7日。日曜日。正午ちょっと過ぎに起床。今日も暑くなりそう。カレシが予定?を変更して、ペストソースを作るのをやめて庭仕事をするというので(ほっ)、ワタシはまずゆうべダラダラしていてやり残した仕事を片付けるためにオフィスに「出勤」。通勤時間20秒だから休日出勤も何のその、といいたいところだけど、「通勤時間」がたったの20秒だからつい週7日。勤務になってしまうという面もあるような・・・。
相変わらず、キーを叩きながら突っ込みを入れてみたり、人間はいろいろだなあとあたりまえのことに感心してみたり、しまいにはそんなに生きにくい世相になったのかなあと同情したくなったり。ときには無機質なマニュアルの類をやる方が楽かなあと思うこともある。だけど、1990年代にさんざっぱらやったソフトウェアのローカリゼーションを思い出して、最後にはやっぱり人間模様が見える仕事の方がいいやということになる。もちろん科学は持ち前の好奇心をかき立ててくれるから楽しいけど、言動の裏の人間心理を考えながらの仕事も「知りたがり屋」にはなかなか奥深いものがある。でも、「Curiosity killed the cat(好奇心は猫をも殺す)」という古いことわざがあるけど、大丈夫かなあ・・・。
英日が主流だった頃は、北米ではまだ日本のバブル景気の余韻が覚めやらずというところで、契約書や株式市場のレポートや日本への売り込みの仕事が多かったけど、1990年代後半にはなぜかローカリゼーションやソフトウェアのマニュアルの仕事がやたらと増えて、1日。10時間、週7日。仕事をしても追いつかないくらいだった。(それでずいぶんと荒稼ぎできたわけだけど。)中には、おもしろそうというようなモノのユーザーマニュアルもあったけど、ローカリゼーションとなると、テク兄ちゃんたちが作った用語集だのスタイルガイドだのを渡されて、「ん?」というよう日本文でも、舌を噛むようなカタカナ語でも、その通りの文体にせざるを得ないから、窮屈でたまらなかったな。
それにしても、バイナリ思考というか、想像力が欠如した人間が増えていると言う印象はますます強くなって来るように思う。言い換えれば、社会がマニュアル化しつつあるのかもしれないけど、コンピュータや携帯など「画面」という小さく限られた接点を持った機器の普及と、ゆとり教育に代表される教育政策の失敗と、どっちが寄り大きく人間の思考形態に影響しているのかは、部外者のワタシにはわからないけど、いいことか悪いことかはまったく別の話として、メディアから受ける世相の印象と仕事で垣間見る世相の印象とがどんどん収斂して来ているように思う。ま、時代は変わる。世界は変わる。社会も変わる。人間も変わる。言語も変わる。行く川の流れは絶えずして、だから・・・。
人間模様がテーマの仕事をしていて、誇大表現やあいまい表現の真意をつかみかねて、どういう訳語にしたら良いのか迷ったときにけっこう役立つのが小町横町の井戸端会議。おかげで道草を食ってばかりだけど、ついでに人間勉強にもなる。トピックのテーマで多いのが、他人について「あれが不愉快」、「ここが非常識/マナー違反」と糾弾するもの。自分については、「私は悪くないですよね」、「私は間違っていますか」と肯定を求めるものと、「嫌われた」、「見下された」という訴え。みんな好かれたいという欲求が強いんだろうけど、自分にも他人にも規格化された「人間像」を求めていて、その規格に合わない人にはどういう対応をしていいのかわからずに途方にくれているイメージもわいてくる。よくある「友だち/彼氏/彼女が欲しい」という表現も、ペットやブランド品が欲しいと言っているのとあまり違わないようない印象がないでもないな。
みんなさびしくてたまらないんだけど、どうやって人とつながったら良いのかわからないのかな。それとも、生身の人とつながるのが(嫌われたくなくて)怖いのかな。それとも、単にマニュアルの通りに行かない生身の人間との係わり合いが煩わしいのかな。他人はその個性が目に見えるのが嫌、その生活音が耳に聞こえるのが嫌、その生活臭が鼻に入ってくるのが嫌、その幸せや不幸のオーラが伝わって来るのが嫌。まるで人見知りをする子供のようだけど、「癒しロボット」が開発される国のさびしい人間模様の一面がちょっぴりわかったような気がする。
まあ、人間の文明や技術の進歩には明と暗が背中合わせなのが常だったと思うけど、デジタル(バイナリ)思考の人間とアナログ思考の人間はこの先うまく共存して行けるのかな・・・なあんてまた道草を食っていていいのかなあ。しっかり仕事をしないと駆け込みダッシュになるのに。
あなた好みの誕生日の晩餐
8月8日。月曜日。家の外でポコポコ、トントンという音がして目が覚めたのが午前9時過ぎ。カレシがさっそく起き出して外へ出て行った。今度はガツン、ゴツン、ゴロゴロ。おいおい、石なんか投げて、窓ガラスに当たったらどうするの。昔、屋根にとまった鳥を追い払おうと石を投げつけて、二階の八角塔の窓ガラスに穴を開けたことがあった。ちょっと強い雨が降るたびに、二重ガラスの内側に水がたまって、まるで金魚鉢みたいだった。(もちろん、断熱効果はゼロ・・・。)しばらくしてベッドに戻って来たカレシ曰く、「いまいましいキツツキだ!」とふて寝モード。そのまま2人とも正午過ぎまで寝直し。今日も暑そうな予感・・・。
でも、キツツキが来たの久しぶり。我が家のあたりは道路向かいが市営ゴルフ場になっているせいもあって、山からは遠いのにけっこういろんな野生動物が出没する。四足ではリス、アライグマ、スカンク、コヨーテ、鳥類ならカモメとカラスの他に、ヤマガラ、コガラ、ヒワ、ユキヒメドリ、ハチドリ、ムクドリにツグミ。たまにはアオカケスやアオサギまでやって来る。そして、キツツキも。キツツキには金属のものをドラミングする困った癖があって、何年か前にはよく我が家の暖炉の煙突のてっぺんを叩きに来ていた。いきなりガガガガガッ、ドドドドドッとやられると、リビング中にすごい音が響き渡る。業を煮やして家の外装を改修したときにステンレスの網をかけてもらって、やっとドラムセッションがおしまいになって、キツツキは来なくなった。最近の新しい家は煙突のいらないガス暖炉が多いから、叩くものがなくなったのかな。うちの屋根を叩くのはやめて欲しいもんだ。金属じゃないんだし・・・。
さて、今日はカレシの68歳の誕生日。カニを食べたいとのリクエストで、朝食後にグランヴィルアイランドのマーケットに買いに出かけた。車で入ると駐車と出るのが大変なので、アイランドの外のちょっと離れた道路に止めて、歩いて行くと、日差しが強くて暑い。23度は行っていただろうな。月曜日だからそれほど人出はないだろうと思ったら、うわ、観光客と思しき人たちがあっちでぞろぞろ、こっちでぞろぞろ。元々はフォルスクリークに面した斜面に住み着いたヤッピーたちに地元産の野菜や魚、肉類を直販する狙いで作った公共マーケットだけど、美術学校(今は大学)ができ、劇場ができ、おしゃれな工芸・手芸品の店ができ、大道芸人が来て、いつの間にか観光バスが数珠つなぎの「観光地」になってしまった。テナント料も高くなったのか、売られている野菜類は、高いのがあたりまえのWhole Foodsの値段よりも高かったりする。
その公共マーケットの中も、迷路のような狭い通路はそぞろ歩く人たちでびっしり。でも、買い物をしている人はあまりいないような感じ。入ってすぐのところにある大きな魚屋で、愛想のいいお兄ちゃんに「一番大きなカニ1匹、ゆでて、甲羅を内蔵を外して」と注文。大きな水槽の中で折り重なってごそごそ動いているカニの中からかなり大きいのを網ですくい上げて、たらいにごそっ。重さを量って、カニが23ドルとゆでる手数料が2ドル。お金を先払いして、処理が終わるまでの小1時間をマーケットの中をぶらぶらして過ごす。アジアの珍しい食品を売っている小さな店では、「柚子の絞り汁」と緑色の「バンブー米」を買った。シェフたちがポン酢を使い出してから、柚子もかなり注目されている。瓶入りの柚子は高知県の産で1本32ドル。高級ワイン並みの値段だけど、どうしても使ってみたくなった。バンブー米はタイ米を若竹の汁に浸したものだそうで、ほのかな香りがついているらしい。きれいな薄緑色が何よりもすてき。
ゆで上がったのを甲羅を外して2つに切り分けてくれたカニを引き取って、帰ってきたらもう午後4時。誕生日ディナーはボリュームのあるカニがメインだから、何品もつけると食べきれなくなる。そこで、カレシのリクエストその2のアサリのスープ以外はカニの味に対抗しない野菜の添え物だけということにした。
[写真] スープはねぎとアサリと醤油ごく少々のあっさり味。小鉢はもやしのナムル風と枝豆の柚子和え。薄くスライスして蒸してから軽く白ワインに漬けた黄色いビーツのカルパッチオとグリルでさっと焼いたたけのこ。カニは、たっぷり濡らしたおしぼりを傍らに置いて、手でえいっと足をもいで、歯でガシッと殻を割って、身を取り出すのが豪快でいい。(カレシは釧路で買った専用のはさみとフォークを使って食べる。)思ったより大きなカニだったから、食べ終わった頃には2人とも満腹。デザートのドラゴンフルーツはランチまでお預けになった。
ま、朝はしゃくなキツツキに起こされたけど、カレシよ、ハッピー・バースデイ!
おもしろくない世の中でもおもしろく生きたい
8月9日。火曜日。今日はキツツキが来なかったので、目が覚めたら正午過ぎ。ちょっと涼しげな日になりそう。テレビをつければ、株式市場はまだ絶叫クラスのローラーコースター並み。きのう急落したカナダドルは1セント以上も急上昇。もう少し下がってくれたらうれしかったんだけどな。世界には必要のないところでだぶついているお金がどっさりあって、株が暴落すればプログラム売買で買いに転じるから、翌日あたりには株価が反発する。そこで回復したわけじゃないのにほっと胸をなでおろすのはなけなしの老後の資金を投資している庶民。ラスベガスのスロットマシンと似たようなもので、小金では儲からないようにできているらしい。まあ、我が家は株を持っていないから、野次馬でいられるんだけど。
ゆうべ飛び込んできた「宵越しの仕事」をさっさとやっつけてしまったので、今日は「ノーワーク・デイ」。イギリスで続く暴動では、ほうきを持った市民たちの清掃部隊が集結して後始末を始めたとか。バンクーバーのホッケー暴動の後で登場した清掃部隊を見たのかなあ。携帯やSNSで暴動や略奪が煽られているらしい。いつもカレシに言うんだけど、インターネットが人類の破滅をもたらすきっかけだったってことになるかもしれないよって。(ちょっとはカサンドラの心境?)アフリカでは何千、何万という子供たちが難民キャンプにたどり着けずに餓死して行く一方で、かの飽食の国では2歳10ヵ月の子供が両親の手で餓死させられた事件で、父親は猫の方がかわいかったと言い、死んだ子供の胃腸の中には空腹に耐えかねて食べたらしいプラスチックや紙が詰まっていたという記事を読んで、この両親はソマリアの砂漠のど真ん中に放り出してやればいいと思った。
世の中ってムカつくことが多いよなあと言いながら、小町横町の散歩に出かけたら、ここも相変わらず誰が/何がムカつくという話で大賑わい。結婚生活が楽しくない、育児が楽しくない、仕事が楽しくない、何にも楽しくない。たぶん楽しいことばかりやって育った幸運な人たちなんだろうけど、大人になって楽しくないことがごまんとある現実に直面して、「楽しくないのはおかしい」と首をかしげているのか、あるいは「楽しくなければならない」という強迫観念に囚われているのか、それとも匿名掲示板で「ママぁ~、ちっとも楽しくなぁい!」と言っているのか。誰かがトピックを立てていた「叱らない育児」と関係があるのかな。前に仕事の参考資料として読んだゆとり教育時代のおんぶに抱っこの教科書から推察するに、たぶん何が楽しいことなのかもわかっていないのかもしれない。心が満たされないということかな。
でも、ワタシもうつ病を経験したことがあるから、何をしても心が楽しめないという感覚はよくわかるし、生まれつき病理的に欝っぽい性質ならしかたがないのかもしれないとは思う。それでも、普通に人間として生きていて楽しいという感情を味わえないのって、悲劇だと思うな。楽あれば苦あり、苦あれば楽ありで、楽しいことは自分の想像力を働かせてで開拓するものじゃないかと思うんだけど、どういう感情をもって「楽しい」とするのかがわかっていなければ、無理な話かな。「おもしろきこともなき世をおもしろくすみなすものは心なりけり」という辞世の句詠んだのは高杉晋作だったと思うけど、まさにその通りだと思う。難しいのは生きている間にいかにそれを実践するか・・・。
あれやこれやの不定愁訴?をふむふむと読んでいるうちに、何度か登場したのが「割り切った関係」という表現。この日本語、仕事で遭遇して訳すのに困ったことがあったな。話の流れから漠然としたイメージは想像がついたものの、2003年出版の大きな和英辞典で「割り切る」を引いても全然割り切れない(しっくりしない)訳語ばかり。しょうがないから、「正当なつきあいではない男女関係」という漠然としたイメージそのままに漠然とそういう関係をほのめかす訳で逃げたけど、あれで良かったのかなあという疑問が消えずにいたのが、小町で男女の「割り切った関係」がどういうものかを教えてもらった感じで、あれはあれで良かったんだと納得。文化や倫理観の違いというものがあるから、前から意味を知っていて「的確」な表現に訳していたら、読んだ人がひと騒ぎしたかもしれないもの。くわばら、くわばら。
どこまでが日常会話レベルの英語なのか
8月10日。水曜日。午後1時のポーチの気温は15度で、夏はひと休みの感じ。日本はたぶんお盆休みだろうから、ワタシもちょっぴり夏休みになるのかどうか。春から何となく続いている「だらりん」ムードはもう何だか根を下ろしてしまったのか、振り払うのも疲れそうだから、今年はもう成り行きしだいということにする。でも、いくら遊びたいモードでも、やっぱりあと1年と8ヵ月と2週間は、カレシが勧めるようにこのまま引退というのは選択肢には入らない。だって、ああだこうだと文句を言いながらも好きでやってきた仕事なんだし、急にやめたら禁断症状が起きそう・・・。
カレシが9月からの8週間の英語教室のカリキュラムを作り始たので、実験台になって上級の文法テストをやってみた。センテンスの途中の空白に入る正しい語句を3つの回答から選ぶと言うもので、簡単と言えば簡単なんだけど、簡単だと思っていると「ん?」となるところがある。結局、時制の一致で引っかかったりして、50問中間違ったのが3問あってスコアは94点。カレシ曰く、「オレがやったら90点だった」と。え、100点じゃないの?まあ、英語人は英語文法の達人というのは神話みたいなもので、日本語人に日本語の文法について質問しても先ず説明できないのと同じようなものかな。ワタシは高校で習った日本語の文法なんかすっかり忘れてるし、英語の文法も高校で日本語で習って来たから、わかっていても英語ではうまく説明できない。(ちなみに、古文は惨憺たる成績だったけど、漢文はなぜか抜群に良かった。ひょっとしたらSVO思考なのかなあ、ワタシ。)
ワタシがやった テストは一応「上級」だけど、カレシの狙いは「初級」。今のコースも初級レベルを対象にしていたんだけど、前からずっと来ていて中級の中くらいになっている中国系の2人のおばちゃんがどんどん発言するもので、初級の人たちはついて行けないと思って来なくなってしまうんだそうな。そこで、ベトナム人移民の支援担当のロザリーが集めた9月からの生徒たちの英語知識が片言レベル以下ということで、2人のおばちゃんに易しすぎるからと「卒業」を言い渡したところ、「黙って聞いているから来させて」と懇願されてしまったとか。まあ、陽気なこの2人には英語教室が週一のレクリエーションになっているらしいから、いつまで黙っていられるかわからないけど・・・。
家族と一緒にカナダに移民して来た女性たちは、特にアジア人の場合は就職せずに子育てに専念することが多く、しかも家の中は母語の環境なものでなかなか英語が上達しない。子供とは幼いうちは母語でコミュニケーションが取れるけど、プレスクールに入る頃から子供は英語を話すようになってしまい、母親は英語を勉強しなければという焦りを感じるらしい。英語を覚えた子供が母語で話すのを拒否するのではなくて、英語で覚えて来た新しい知識や経験をそれまで話していた「赤ちゃん」レベルの母語では説明できず、かといって相手にわかるように語句を変えたりできる年頃でもないし、それだけの語彙も発達していないから、親子の間にコミュニケーションの断絶が起きると言うのが実情らしい。(ただし、子供が小学校高学年くらいになると、親の英語勉強を手伝うようになる場合もあるらしい。)
「互いに好きなら言葉は重要ではない」というのは、小町などの国際恋愛/結婚トピックでよく見る。開き直りにも近いような表現だけど、たしかにデートでお星様きらきらの目で互いを見つめ合っていうちは言葉は不要かもしれない。そういうトピックで必ず出てくるのが「結婚生活では言葉が通じなければうまく行かない」という苦言なんだけど、どうも真剣に耳を傾ける相談者はあまりいないような感じがする。でも、言葉なんかわからなくてもわかり合えていたはずのカップルが結婚したとたんに「わかり合えない」と思うようになるのはよくあることらしい。まあ、移民手続きにしても、スポンサーのダーリンに聞けば手っ取り早いだろうに、日本人のための日本語の掲示板にあれこれと日本語で質問が上がって来るのは、実は英語人のダーリンと言葉による意思の疎通ができていないことを暴露しているようなものじゃないかと思う。
ただし、人間は自分の外国語の能力をやや過大評価する傾向があるから、お星様きらきらの目で相手を見つめているうちに心の奥深くまでわかり合えたような気分になって、「アタシの英語は通じるから大丈夫」という錯覚が起きるのかもしれない。でも、どこの結婚生活も基本は同じようなもので、家計の算段、諸々の生活上の事務、相手の家族や友だちとの付き合い、子供ができれば医療や教育での事務・・・一歩外へ出たら、お星様きらきらの目で相手を見つめていれば用が足りるってわけじゃないから、英語(または他の現地語)で処理しなければならないことが果てることなく続く。いかに2人が深く、深く愛し合っていようとも、夫婦の、家庭の毎日の営みを回すのは言葉、さらに言葉、そして言葉。それもみんな「言葉の壁」、「文化の壁」のせい。
しかも、学校で習った文法の知識だけではどうにもならない曲者が「日常会話」というやつ。よく、「日常会話はできるけど・・・」というのを聞くけど、未だにどういう英語をいうのかよくわからない。「日常」というからには、日常会話の範疇には、家族や友だちとの他愛のない会話から、買い物などでの問合せ、苦情や交渉、パーティなどでの政治、経済、ビジネスの話題、はては科学技術、スポーツ、芸能、ゴシップまで、日常生活の中で交わされる会話で話題になるすべての分野が含まれているわけで、分野によってスタイルが少々異なるというだけで、すべてをひっくるめて「英語」がある。さりとて誰もがそのすべての分野に通じていなければならないものではないから、
「英語は日常会話ならできるけどビジネス英語はダメ」という線引きはありえないと思う。どこまでが日常英語でどこからがビジネスその他用英語なんだか。飲み会なんかで投資の話で盛り上がったら、「アタシは日常英語しか話せないのに」とこぼすのかなあ。まあ、そういう線引きをして「日常会話はOK」と言う人たちには、カレシの英語教室はレベルが低すぎるらしいけど。