もうダメなの、鳩山さん?
6月1日。いつのまにかもう6月。年がら年中カレンダーを見るたびに言っているようでもあるけど、早いなあ。今日もまた雨模様。天気予報にいたっては「当分の間、夏らしい天気は期待しないで」みたいなことを言っている。「雨ばっかりなのはけしからん」と文句をつけるおバカなクレーマーがいるのかなあ。気まぐれなマザーネイチャーの心づもりを人間がなんとか先読みしようとがんばっているのが天気予報なんだから、文句があるならマザーネイチャーに直談判してもらうしかなさそうだけど。
談判といえば、東京のホテルでのことを思い出す。和食レストランでのこと。朝餉のおかゆが大いに気に入って、その朝も塩鮭や明太子を集めてご飯のテーブルに行ったら、ちょうどおかゆがなくなって次ができて来るのを待っているところだった。カウンターで給仕をしていた若いお嬢さん、マイクで厨房と連絡を取って入るらしいけど、催促するお客の扱いがわからずしどろもどろ。ワタシが英語で「あと5分くらい?10分くらい?」と聞いても「ソリー」と言うだけ。まあ、たぶんアルバイトが派遣で、厨房に「あと何分かかるんですかっ」なんて聞ける立場じゃないだろうな。すぐに来ないのはわかったから、ワタシとカレシは後でいいやとテーブルに戻ろうとした。そこへ突如現れたのが年配のおじさん。いきなり「あのな、あと何分かかるかって聞いてんだよ。なんで奥へ走るなりして、聞いて来ないんだ。頭が悪いのか、あんた?」と怒鳴りだした。(聞いていたのはこっちなのに)ワタシもカレシもあっけに取られ、後に並んでいた人たちは「あ~あ」という顔で、お嬢さんは今にも泣き出しそうな顔。「It’s OK」と言ってその場を離れたけど、おじさんの罵声は止まらない。へえ、ああいうのが悪名高い「クレーマー」かと思った。後で(できたての)おかゆを盛ってもらってサンキューと言ったら、お嬢さんはほっとした顔でにっこり笑ってくれたので、ワタシもほっとしたけど、それにしてもあのおじさん、トレイさえも持っていなかったから、あのパフォーマンスはいったい何だったんだろうな。
カレシを英語教室に送り出して、仕事にかかる前に新聞サイトを見たら、あらま、鳩山さん、とうとう辞めちゃったんだ。でもなあ、「引かせていただきます」って、亭主に愛想をつかして「実家へ帰らせていただきます」と出て行く奥さんみたいに聞こえるな。産経のサイトに鳩山さんは「仰ぎ目」と「泳ぎ目」が他の議員よりも多い」という大学の先生の話が載っていた。なんでも、「仰ぎ目」は夢や理想を語るときで、「泳ぎ目」は自信がないときや迷いがあるときなんだそうな。そうか、期待をかき立てる選挙戦では「仰ぎ目」は有効かもしれないけど、いざ有言実行を求められる総理大臣になったら逆効果ということらしい。眼球が相手の目やカメラを避けてきょろきょろと左右に揺れる「泳ぎ目」は初めから信頼はできないという印象を与える。自信のなさや迷いのほかにも、嘘を付いていればそれに対する後ろめたさも目玉の動きとなって現れることが多い。まあ、そういう人はほんとうは根はいい人で、自分に自信がないために小心なんであって、罪悪感のひとかけらもなくしゃあしゃあと嘘をつけるような人間とは大きな違いがあると思う。鳩山さんもあんがい根っこでは気の小さい人だったのかな。
だけど、大きな期待を背負って発足した鳩山内閣もわずか8ヵ月の短命。かってはイタリアがシャツを取り替えるよりも頻繁に首相を取り替えると言われたけど、総理大臣になって1年と持たなかったのはこれで何人目なんだろう。次は誰だと見回しているうちにも、世界では経済も政局もどんどん動いて行く。なんだったらハーパー首相を貸してあげようかな。少数政権でいつ倒れるかと言われながら倒れずに続いていて、その間にカナダはいち早く世界同時不況を抜け出したし、カナダの銀行はいたって健全で、今年の第1四半期にはカナダ経済は年率にして6%も成長した。個人的には人気はイマイチだけど、最近の世論調査では、今選挙をやったら与党が過半数を確保できると予測されている。いや、これでは貸してあげるわけにはいかないか。さて、次の総理大臣は何ヵ月続くのかなあ。黒幕船頭が多すぎるから日本丸がミズスマシのようにくるくる回っているんだとしたら、いわゆる「善意の独裁者」に国政の舵を取ってもらうしかなくなるんじゃないだろうか。誰がいいのかといって、そういう人がいるのかどうか知らないけど、日本の「善意の独裁者」はきっときわめて親分的(女だったら姐御肌?)で浪花節的な人だろうと思うな。少なくとも何でもバカ丁寧にさせていただいてばかりの人じゃあないだろうな。
言っても言わなくても通じない言葉
6月2日。水曜日。まだぐずぐずしていると思ったら、午後になって少し晴れ間が出て来た。あれ、今日はかなりの雨のはずじゃなかったのかな。ま、青空が見えるに越したことはないか。お久しぶりって感じだし。
うとうとしながらゲートのチャイムが鳴っているなあと思っていたら、やっぱり。郵便屋が不在通知をおいて行った。注文してあったセキュリティスタンプ。うちの郵便受けは本を入れてもらえるようにとけっこう口を大きく取ってあるんだけど、そこを通らない大きさってことか。まあ、スタンプが4個だから軽いだろう、ということで、明日にでも運動代わりに引き取りに行ってこよう。
今日はでかい仕事に手をつけなければならないのに、ねじ込みの仕事。小さいのはいいけど、発注元の内部で使っているらしい略語がたくさんある。ときどきあるなあ、そういうの。漢字だからヘンな英語のアルファベットの略語を並べられるよりはましなのかもしれないけど、どう見ても誤変換じゃなかろうかというものもある。まあ、社内文書らしいから、仲間内にしかわからない言葉も、漢字の誤変換もまったく問題なしってことなんだろうけど、キミたち、ちょっ~といい加減じゃないのかなあ。小町横丁の井戸端おばさんたちの真似をして、「漢字が違ってますよ」、「あなたの日本語はヘンですよ」、「自分で読み直してから投稿してくださいね」、「言葉の使い方に違和感があります」・・・なんて嫌味たっぷりに書き込めたらすっきりするのかなあと思うけど、そうやって本題そっちのけで枝葉末節をつつくのってなんだかめんどうくさそうだから、やめとこ。その代わりと言っちゃなんだけど、キミたちの仲間言葉の解釈が違っていたって、「誤訳だ!」と騒ぐんじゃないよっ!
ワタシの日本語も何だかなあと自分で思うくらいだから、人のことは言えない。それでも言っておくけど、ワタシの日本語はたぶん35年前の昭和の地方の20代半ばの無学歴の女性が使っていたレベルの日本語(のまま)なのに対して、平成社会人の日本語は今現在の日本の中心の高学歴の現役の社会人が使うレベルの日本語のはずだと思うんだけど。だから、日本語浦島さんになったワタシのお手本になるようなしっかり正しい日本語を書いてくれると助かるんだけどな。まあ、鳩山さんの辞任のスピーチを読んでみたけど、いまいち何を言いたいのか良くわからなかった。ばかていねいな言い回しがずいぶん多いけど、すりすりのユライア・ヒープじゃあるまいし、何だか卑屈そうな感じがしてしまう。政治家ってのは「させていただく」のじゃなくて「する」ものだと思うんだけどなあ。あの鳩山語が宇宙人のコミュニケーションだとしたら、もっとわからない小沢語は何の言語なんだろう。
とにかく、ジャンボ仕事にかかろう。スキャンしたPDFを印刷してみたら60ページもある。それでも、裁判所に出すような文書だから、紋切り型ではあっても的確でわかりやすいから、あまりく疲れないで済みそうかな。もっとも、英語の法律文書もそうだけど、わかりやすいからと言って家へ帰って女房子供相手にこんな口調でしゃべったら笑い飛ばされそう。いわゆる「お笑い芸人」がしゃべったらおかしいのかもしれないけど、ホテルのテレビに映っていた芸人たちは自分たちで笑い合っているみたいでちっともおもしろくなかった。ワタシにはツボがイマイチわからない日本語をしゃべっていたのかもしれない。物心ついたときから使い慣れた言語でも年令や環境によって発達レベルの違いがあるのは確かだし、言語は生きものだから止まることなく進化(あるいは退化)するし、ほんとに言葉のコミュニケーションって難しいな。だけどま、仕事に気合いを入れないとまたぞろ切羽詰ってしまうから、こんなところで油を売ってはいられない・・・
胃の筋肉も運動不足になるらしい
6月3日。木曜日。からっとじゃないし、薄雲の量も多いけど、一応青空が見える日。火曜日と水曜日と連続で英語教室をやっているカレシにとっては、木曜日は「さあ、週末!」なんだそうな。うん、木曜日から月曜日まで、毎週が五連休だもんね。まあ、ワタシだって(もしも)2年と10ヵ月と1週間後にめでたく引退したら、毎週七連休だなあ。やりたいことはい~っぱいあるんだけど、仕事も好きだし、仕事をして稼いだお金を使うのも好きだし、どうしようか・・・。
今日という今日はほんとにがっちりと気合いを入れて、いつもの倍近いペースで仕事をしたぞ。午後と夜だからダブルシフトの残業のようなものだけど、おかげで全体の3分の1の1万文字くらいできた。昔の自己記録に近いかもしれないな。ふう、くたびれた。でも、その気になればまだガンガンやれるじゃないかと思ってしまうと、いっそ「65才、定年引退」なんかご冗談でしょ~と笑い飛ばして、このまま続けてもいいかなあという錯覚も起きてくるから要注意。せっかくたんまり稼いでもそれを使って楽しむ時間がないんじゃ本末転倒もいいところ。人生には遊びもなくちゃあ。極楽とんぼよ、自営業前期10年の燃え尽き症候群に至るまで教訓を忘れちゃいかんぜよ。
それにしても、今日はなぜか親指の調子がいいから不思議。そもそも(日本語入力処理で)キーを叩きすぎでばね指になってしまったのに、今はキーを叩いているときはぼってりと腫れてはいてもカクカクいわずにけっこう曲がるようになった。どういうことなんだろうな。一番つらいのは朝の起き抜けで、うっかり曲げると飛び上がるくらい痛い。親指の関節の内側にはしこりができていて、これがモノを握ろうとするとじゃまになるからやっかいだけど、神様は人間に困ればなんとか工夫して曲がりなりにも適応する知恵を授けてくれたようだから、ま、なんとかなるか。だけど、このままでもいつかは治ってくれるのかなあ・・・。
今日の夕食は久々に肉。といっても、忙しいときにめんどうだからと、ぶつ切りにした鶏のもも肉と玉ねぎやにんじんを南アフリカのレトルトカレーソースで煮て、タイ米のご飯を炊いて、セルフサービスでね、とテーブルに出した。カレシもワタシも「たまには肉を食べたくなるよね」と、大盛りのご飯にカレーも大盛りして、おいしいの連発。うん、久しぶりでおいしかっただけど、食べ終わってからの胃の重さときたら。たしかに肉の方が消化にエネルギーがいるだろうけど、ひょっとしたら毎日魚ばかり食べているうちに胃の筋肉が運動不足で弛んでしまったのかなあ。忙しいってのに、胃が重くなると、まぶたが重くなってきて、頭も重くなってきて・・・あらら。
カレシは自家製の炭酸水をがぶ飲みして、「ケホッ」(市販の炭酸飲料を飲むと「ゲッホッ」とすごいのが出るんだけど)。げっぷがへたなワタシもコップ一杯飲んで、「ケフ」。この炭酸水メーカーはお値打ちの買いものだったな。まあ、大食いしたから眠くなったんだろうけど、おかげで居眠りでむだにできない時間をむだにせずに済んで、めでたし、めでたし。ん、なんでげっぷの話になってしまったんだろう・・・?
個人情報とプライバシー
6月4日。金曜日。穏やかに始まった日。朝食後、カレシはパン焼きにかかった。朝食の準備と同じように、毎日のパンを焼くのもいつのまにかカレシの「担当」になっているのもので、ワタシはコーヒーを飲みながら、届いたばかりのTIMEのページをのんびりとめくっていると、「粉を入れすぎた~」。いつもは計量スプーンやカップを使う順に並べておくのに、今日はなぜかカップを並べる順を間違えたらしい。どうしよう、どうしよう、と頭を抱えるカレシ。多すぎる分をすくい出したら?というワタシ。思い切って余分の粉をすくい出して、イーストを入れてセット。しばらくして「これじゃあ粉が少なすぎてだめだ~」。のぞいてみたらたしかに水が多すぎる。じゃあ、すくい出した粉の半分くらいを戻してみたら?というワタシ。「分量が狂ったから、もうだめだ!」と捨てる気満々のカレシ。それでも、ダメモトで少し粉を足して再スタートした。(なぜか、事故パンはいい具合に焼き上がった・・・。)
ひと騒動が落ち着いたところで、郵便局まで小包を引き取りに出かけた。いい天気で半そで温度だし、歩いて20分もかからないし、(特に帰りの上り坂は)いい運動になるし。受け取った小包も軽いから、トートバッグに入れて、背中を伸ばして、てくてく。一本調子で10ブロックの上り坂はさすがに汗が吹き出して来るなあ。気持ちは良かったけど。小包の中身は雑誌やカタログに印刷されているアドレスの上に押して判読不能にするスタンプ。大と小の2個セット。台湾製と書いてあって、隅に「Plus Stationery Corp.」とある。プラスってのは、日本の事務用品会社じゃなかったかなと思って、ググってみたら、やっぱりそうだ。サイトに「セキュリティ用品」というタブがあったのでクリックしてみたら、出て来た。個人情報保護スタンプ「早撃ちケシポン」だって。「ケシポン」というネーミングがいかにも日本的。英語名なんか「ID GUARD」で味も素っ気もない。ピンクとかグリーンとか、えらくカラフルなのも日本的だなあ。アメリカの一応「高級」なカタログは白しか売っていないけど、「ポップな」ピンクやグリーンはなんとなくおもちゃっぽく見えてしまうからかもしれない。
だけど、封筒や雑誌の名前や住所はそうやって隠せるけど、日本ではどの家も玄関先に「表札」ってものを付けているよねえ。苗字だけのも多いけど、そこに住んでいる家族全員の名前が並んでいるのもあるよねえ。で、その辺を歩いていると電信柱があって、広告の下のほうに「どこそこ町何丁目何番」と書いてあるよねえ。昨今は個人情報を知られたくない、知られたら困ると神経質になっている人が多いけど、あの玄関先に表札を出す慣習、なんか矛盾していないのかなあ?電柱の住所を見て、表札を見たら、知らない人に「○○市○○町○丁目○番地○○×子」まで知られてしまいそう。それに、日本人はちょっと知り合った程度でも、家族構成とか、職業とか、経歴とか、わりと気安く質問する癖がある。他のアジア人も似たような傾向があるし、一種の「あいさつ」的な習慣になっているのかもしれないけど、これだって「個人情報」のうちじゃないのかなあ。まあ、「プライバシー」という言葉の意味や観念が違うのかもしれないけど。
さて、カレシがたまっていた雑誌やカタログの住所に「ケシポン」をごきげんでポンポン押しまくっている間に、ちょっと仕事でもするか・・・。
人生は「たまたま」シリーズ
6月5日。土曜日。いい天気なのでカレシは庭仕事。ワタシはあいも変わらずベースメントのオフィスにこもって仕事、仕事。火曜日からはまたランガラ・カレッジで「即興演劇」のクラスが始まるから、がんばらないと。それにしても、コチコチの用語がぞろぞろ出てくる。裁判所に出した書類なんだからあたりまえなんだけど、お金が絡むといろいろ大変だなあと思うな、政治もビジネスも人生も・・・。
ちょっと息抜きに小町横町の井戸端会議をひやかしていて、ふっと思った。あれがいや、これがいやというトピックの何と多いこと。一生懸命に受験勉強して大学に行って、社会に出てきたのに、仕事がつらい、上司がいや、同僚がいや、できない人が多すぎる・・・社会ってこんなもの?夢と希望に胸を膨らませて結婚したら、だらしない、約束を守らない、嘘をつく、稼ぎが悪い、浮気が発覚・・・こんなはずじゃなかった。世間を見回したら、非常識な人、不愉快な人、自己中な人・・・迷惑しているのは私だけなの?憧れの海外在住組になったらなったで、いつまでたってもなじめない、この国のあれがいや、ここが嫌い・・・言葉や文化の壁がない日本は良かった。まるで、夢破れて・・・の大合唱。ま、匿名掲示板そのものが元々夢(仮想現実)なんじゃないかと思うけど。
それでも、ずらりと並んだタイトルを眺めているだけで、不幸せな人、不満だらけの人がそんなにも多いのかと思ってしまうけど、本当に幸せな人は匿名掲示板に相談するような悩みはまずないだろうし、幸せだと言えば不幸せな人たちから袋叩きにされかねないから黙っているだろうから、よけいに怨嗟のネガティブなオーラが充満しているように感じてしまうんだろうな。でも、『アメリカの生活って本当に快適なのですか?』というトピックへの書き込みを読んでいるうちにふと思った、人生というのは「たまたま」の連続なんじゃないかなあ、と。
トピックは「小町では(日本と比べて)アメリカ生活がいかに快適かを語る人が多いけど、アメリカ帰りの知人と婚約者は揃ってネガティブな評。ほんとうのところ、どうなのよ?」という、イジワルに勘ぐれば「快適なんて本当は嘘なんでしょ?」と言いたそうな質問。まあ、比較する対象のあるなしにかかわらず、ある環境を「快適」と感じるかどうかは人それぞれの感覚だし、アメリカとひと口に言っても広い国にいろんな人間がごった混ぜでいるところだから環境も千差万別なんで、愚問といえば愚問。当然、回答は快適だという人と、快適じゃないという人に分かれる。もちろん、アメリカ生活に不満だらけで不幸せな人は「快適なんてとんでもない」となるけど、こういう人たちは日本での生活も不満だらけで快適じゃなかった人か、あるいはいつまで経っても「エトランゼの私」のままの人か。どっちにしても、「たまたま」アメリカに住むことになったおかげで不満や不幸せのよりどころができたんだから良かったんじゃないのかな。快適だという人も今「たまたま」置かれている環境が快適だと言っているだけで、「たまたま」環境が激変することがあれば「アメリカなんて・・・」ということになるかもしれない。
ひょっとしたら、何をしてもどこにいても「夢破れて」の状態で不満だらけの不幸せになってしまう人は、人生は「マニュアル」に沿って「プログラム」通りに進捗するものだと思い込んでいて、「たまたま」にどう対処していいのかわからないのかもしれない。きっと、まだ若いからなんだろう。生きるために便利なマニュアルがあるとしたら、トラブルシューティングのページは間違いなく空白。だって長い人生で起きる「たまたま」を逐一予想するなんて不可能なんで、その場その場で対処して、その結果をマニュアルに書き入れて行くしかない。それが人生経験というものなんだと思う。自筆のページが多くなれば「たまたま」は怖くなくなるし、自分に対する信頼も高まって、人生が快適に感じられるようになると思うんだけどな。将来ある若い人たちが精神的にひ弱で、不安と不満にいら立っているのに、元気一杯の高齢者たちが多いのは、いろんな「たまたま」の対処法を身をもって学んで来て、それぞれの「マニュアル」ができ上がって来たからかもしれない。その辺りから見たら、いつまでも若いままでいるというのも考えものかな。
たまたま運の良い人に当たると・・・
6月6日。日曜日。なんとなくぐずぐずなのは天気もワタシも同じ。とにかく、きのう草稿で保存したまま忘れてしまったブログの続きを書き終わって、遅ればせながらきのうがおしまい。きのうは「タックスフリーダムデイ」、つまり、平均的な人が1年に納める種々の税金を納め切るだけ稼いで、さあ今日からは稼いだ分全部が自分のものだぞ~と言う日。10年くらい前に比べるとかなり早くなっているような気がする。昔は7月に近かったような。それでも、1年のうちの5ヵ月は税金を払うために働いているってことだけど、まあ、医療や教育、社会福祉という形で戻ってくる部分も多いわけで、丸々5ヵ月を赤の他人のために働かされているわけでもないからいいけどね。
東京から帰って来て以来、なぜか外食ムードに戻ったようなカレシ。きのうは久しぶりにTojo’sへ。冷えた辛口の加賀の酒とおまかせ6コース。まぐろのたたきで始まって、ふっくらと煮たぶ厚いしいたけ、おひょうのほっぺとにんにく味噌ソース、大きな甲羅を器にしたアラスカのタラバガニ、燻製ぎんだらと松茸とマンゴーの奉書焼き、そして握り寿司で仕上げ。別に出てくるダイナマイトロールはえびのてんぷらが入った手巻き。最後は抹茶のクレムブリュレ。特にぎんだらの奉書焼きは、開ける前からごぼうのいい香りがして、松茸よりもそっちの方がうれしかった。一品ずつの量は少ないけれど、最後に寿司を平らげたところでおなかいっぱい。いつものように寝る前に秤に乗ったら体重が急上昇。でも朝になって計ったらなんと3ポンドも減っていた。きのうは「たまたま」塩分の摂取量が過剰になって、夜と朝の体重差がこんなに開いたんだろうな。
夕食のテーブルで、カレシに「人生の流れってほんとにたまたまだよね」と振ってみた。カレシ曰く、「たしかに流れが変わるきっかけはあるな」と言う。うまくいい方に流れれば人生は楽しいだろうし、悪い方に流れれば辛いだろう、と。なるほど、「きっかけ」があるたびに、阿弥陀くじをなぞるようにあっち、こっち。でも、それは能動的な「チャンスをつかむ」ことであって、「たまたま」にはもっと受動的な、要するに運、不運のような要素もあるような気がするんだけど。というのも、「人生はたまたまの連続」と考えているうちに、自分は先を読んで積極的に進路を決めるということをあまりやって来なかったんじゃないかと思ったから。たまたまカレシに出会ったためにたまたまカナダに住むことになって、たまたま周りがそうだからと共働きになって、たまたま子供ができなかったからキャリアを考え始め、勧められて行った通訳学校でたまたま先生にスカウトされてこの道に入ったのがたまたまインターネット時代の前だったから学歴も問われず、たまたまひとり稼業が性に合ってそのまま20年。ろくに営業もしないのにちょうど業界の流れが変わる頃にたまたまクライアントの入れ替わりがあって、という具合に。
それに、カレシとのことだって、もうだめだと諦める寸前にたまたまカレシがリストラで引退することになって流れが変わったんだし、ほんとに、流れに任せて川を下って来て、たまたま洗濯をしていたおばあさんに拾われた桃太郎みたいな人生だと思わない?たまたま仮死で生まれて来ても死ななかったし、きっと運が強くて、ラッキーな「たまたま」にたくさん出会って来たんだと思う。きっと守護天使がついているんだと思う。だから、たまたまそういう強運の奥さんに当たったカレシも、あんがい運がいい方なんじゃないのかなあ・・・。
頭の使いすぎはボケのもと?
6月7日。月曜日(だっけ?)にしては何だか静か。そっか、6月だから、カレッジの学年が終わって、夏のコースが始まるまではひと休みというところらしい。昔と比べたら、学生の車は交通量も路上駐車も確実に減って、ふだんでもけっこう静かになったけどね。学生数が増えた1990年代は、道路は見渡す限り学生の車でびっしりで買い物なんかに出かけたら最後、自宅の近くに車を止められなかった。配達にも支障が出て、みんなで陳情してほとんどのブロックに駐車規制をかけてもらったのが始まりで、その後のいろいろな制度や措置、地下鉄の開通もあって、やっと静かな住宅地の道路に近づいたというわけ。おかげで住民活動や市役所との交渉などについてかなり勉強させてもらったな。
ジャンボ仕事はいよいよホームストレッチ。一番めんどうな部分は終わったから、全部まとめて再度手を入れてから、極楽とんぼジムショの「品質管理部」ということになっているカレシに通して読んでもらった。赤ペンをふりふり、「キミ、弁護士になればよかったな」とか何とか言いながら、ふむふむと読んでいたと思ったら、突如としてぎゃっはっはと大爆笑。え?え?え?何かおかしなミスがあった?ねえったら、もう!「いや、ケッサク、ケッサク。取締役会はゼンメツだ」と笑いが止まらないカレシ。会社の定款にある補充役員の任期のところで、「他の取締役の任期と同時にexpireする」というのを、「任期」が抜けていたもので、「他の取締役がexpireするのと同時」となってしまっていた。これにはワタシもきゃははは!だって、「expire」には期間や任期が終了するという意味の他に「息を引き取る」という意味があるんだもん。きっと書類をもらった相手方もきゃはは!と爆笑しただろうなあ。まあ、すんでのところで見つかって訂正できたからいいけど、あ~あ、こういうついうっかりの「珍訳」はかっこわるい。
とにかく笑うだけ笑って、気を取り直して残りの部分もさっさとやってしまおうと思ったら、またぞろ仕事がころころと入ってくる。この週末は何とかしてさぼりたかったのになあ。だって、とんでもないうっかりミスが入るのは疲れているせいだと思う。だらだらと仕事をしているから、だらけてしまったんだ、きっと。それとも、ひょっとしたら恐るべき「senior moment」、つまり年を取るにつれてちょこちょこと現れるらしい「ド忘れ現象」なのかな。や~だ。老人ボケの防止のためにせっせと頭を使えと言われているはずだけど、逆に頭を使いすぎてボケるってこともあるんだろうか。もしもそうだったら、脳みそをぎゅうぎゅうしぼるような稼業をやっていると危ないねえ。法律文書なんか脳の言語回線が加熱して来て、鼻の奥がきな臭くなるくらい回りくどいしねえ、もう。
翻訳なんかやらないで、パラリーガルでも目指した方が良かったのかなあ。どうしよう。やだなあ・・・
演技は自己観察でもある
6月8日。火曜日。起きた頃はかなり良い天気。やっとジャケットがいらない陽気になった。と思ったら、収まったと思っていたハコヤナギの綿毛がまたぞろふわふわ。そうか、雨続きじゃ綿毛は飛ばないよねえ。
今日はジャンボ仕事の追い込み。あとどのくらいあるかなあ。腕まくりして、明日夕方の納期に向けて猛然ダッシュ・・・というとかっこいいけど、目がしょぼしょぼ、親指はしくしく。そんなときにみつけたLeeさんの写真ブログのお地蔵さんたち。那須高原の殺生石というところにあるらしい。茶臼岳という火山の溶岩でできた場所らしいから、山に向かって怒りの心を起こすなよ~祈っているのかもしれないな。赤帽子のお地蔵さんの大群像、ひたすら祈る大きな手。ほ~っと癒された気分になった。
仕事が追い込みなんだけど、今日から「即興演劇」のクラスが始まる。授業は6時半から3時間。カレシを英語教室に送り出して、大急ぎで着替えをして、水筒に水を入れて、歩いて5分ほどのカレッジへ一目散。今回は教室が増築してまだ日の浅い新校舎の4階にある大きな会議室。他の校舎はせいぜい3階建てだから、窓からはノースショアの山並み、ゴールデンイアーズ、ベイカー山、海峡のサンワン諸島までがぐるっと見渡せる。ここに事務部門を持って来たのは、学生が絶景に気を取られて勉強が疎かにならないようにという配慮・・・ってことはなさそうだけど。
第1回の今日は、車座になって、即興とは何かという短い講義の後、ヨガ式の準備体操で体をほぐしてから、「聞く」トレーニング。ワタシはこれで3回目の受講だから慣れたものだけど、集中して聞く訓練はけっこう緊張する。たとえば、最初のひとりが「休暇に行くんだけど、Aを持って行こうと思う」と始め、次の人が「休暇に行くんだけど、AとBを持って行こうと思う」と続け、輪になった生徒が順に持って行くものを加えて行くから、だんだん長くなる。3周目くらいになると覚えきれなくなって、「えっと~」とつっかえてしまう。相手の言うことに耳を澄ますのは「演劇の基本よ」とドロレス先生。相手方の言うことをちゃんと聞いていないと自分のせりふの間合いやリズムが取れなくなるな。
先生は演劇科の学生時代に、「演技を学ぶということは自分について学ぶこと」と教えられて、それまで演技というのは(おもしろくもない)自分ではない人間を演じることだと思っていたから、自分のことを学ぶなんてつまらないとがっかりしたんだそうな。でも、あるときに自分という人間がわからないと知らない人間像を演じることはできないと実感して、目からウロコだったという。また、演技の基礎は「人間観察」だとも教えられて、他人の行動を観察してその根底にある心理を考えているうちに、あまり好きになれなくて悩んでいたお姑さんとの関係が良くなったという。なるほど、演劇というのは言葉やボディランゲージによる人間のコミュニケーションを形象化した芸術というところなのかなあ。
ワタシにとっては、大きな声を出して飛んだり跳ねたりする、いわばエアロビクス運動みたいなものでもあるけど、コースも3回目になって芝居の奥の深さが少しだけわかってきたような気もする。しばらくは火曜の夜が楽しみ・・・。
バビロンに通訳・翻訳者がいたら
6月9日。水曜日。はっと目が覚めたら、正午過ぎ。シーラとヴァルが来てしまうよ。今日はジャンボ仕事の最終の納期だよ。起きなきゃ~となんとなく寝たりない気分で起きて、朝食。雲もあるけど青空ものぞいている。ゆうべはかなり雨が降ったから、外はきっとさわやかだろうな。だけど、だけど、そんな時間の余裕はないのだ、今日は。
一番先に掃除が済んだオフィスでホームストレッチを疾走・・・とまでは行かないけど、とにかくキーを叩く。印刷したら厚さが1センチになった原稿、もうちょっとのところ。あとひと息だ。胸突き八丁、それがんばれ。午後4時45分終了。いや、またぎりぎりセーフ。盗塁するイチローとは違うんだから、こういうところはちょっとくらい反省しないと。でも、大きな仕事と取っ組み合いをした後は気分がふわっと爽快になる。ある種の達成感とでもいうのかなあ、これ。ま、とにかく無事に終了して、30分でサーモンのファルシの夕食を作って、カレシを英語教室に送り出して、気分はだら~ん。
頭の切り替えにと小町横町をのぞいたら、『英訳お願いします。』と言うトピック。いつから小町は教えてサマご用達になったのかと思いつつ開いてみたら、あら、もろに教えてサマ。早速、プロを雇えとか、自動翻訳を使えとか、ずうずうしいとか反撃を食らっているのは、トピックの口調がちょっとばかり高飛車だからしょうがないか。問題は(と言ってしまっていいかどうかわからないけど)「こう訳したら?」と書き込まれている英語文。親切に訳してあげているわけだからケチはつけたくないんだけど、ほとんどがしっかり「日本人英語」。ま、趣旨はなんとか伝わるからいいか。他人の文にけちをつけいているだけの知ったかぶりくさい人に比べたら、親切な人たちだよね。
それにしても、「そういう文章は英語に存在しません」と言われてもなあ。たしかに日本文化に根ざしたあいさつ表現だから、そのままではすんなり英語にはならない。だけど、人間の「気持」を表すものなんだから、根本的にはどの言語でだって「同じ気持」を表現できるはずだと思うんだけど、日本語が言わんとしていることを「存在する英語」の形で表現するのが英訳じゃないのかなあ。逆にもしも、英語文化に根ざした文章を日本語訳してくれといわれたら、「そういう文章は日本語には存在しません」と言ってしまうのかな。おもしろい発想だと思うけど、日本語にないからってカタカナ化するのだけはやめてね。英語人の心情を汲み取って、ちゃんとした日本語で表現してよね。
たしかに異言語間の意志の疎通は難しい。高校時代の英語の教科書によく出て来た「次の和文を英訳しなさい/次の英文を和訳しなさい」といった問題は機械的に繰り返し練習しているだけだったように思う。テストで、関係代名詞をちゃんと(~である)「ところの」と訳していなかった(訳が抜けていた)からと減点されたことがあったっけ。あのとき先生に「そういう文章は日本語に存在しません」と言ってやれたらよかったのになあ。心の中では「そんなヘンな日本語はないだろ!」と突っ込んでいたんだけど。そういえば、定冠詞を「その」、不定冠詞は「あるひとつの」といちいち訳させられていたような気もする。必ずしも間違いとはいえないとしても、そんな機械的な解釈だったから、未だに冠詞の用法では苦労しているんだと思う。英語の冠詞の概念はもっと奥が深いのに。
人間が天まで届く塔を建ててやろうともくろんだ頃、世界には言語はひとつしかなかった。言葉の壁なんて存在しなくてみんなツーカーなもんだから、史上最大?のプロジェクトもすいすいと捗ったはず。それを見た神様が「不遜なヤツらじゃ!」と怒って、人間の言葉をごちゃごちゃにかき回したもので、みんなお互いに何を言っているのかチンプンカンプン。言葉が通じないというのは前代未聞のできごとで、まだ通訳も翻訳もいなかったために、「バベルの塔」高層ビルプロジェクトは頓挫してしまった。でも、そのすぐ後にはきっと通訳・翻訳業者が雨後の竹の子のごとく旗揚げしたと思うけどね。通訳も翻訳も人類最古の職業のひとつってことになるのかな。ふむ、人間てのはやっぱり互いにわかり合いたい動物なのかも・・・。
国際性って、なあに?
6月10日。木曜日。大仕事が終わって久しぶりに仕事のない日だからか、8時間ぐっすりと寝た気分。ずいぶんいろんな夢を見ていたようだけど、目が覚めたとたんにほぼ記憶から消滅。。どうやら脳みそのデフラグも無事に終わったらしい。年のせいとはいいたくないけど、やっぱり20年前に比べたら脳みそへの負担が大きく感じられるこの頃。頭の中が飽和状態になると、どっちか一本に絞って暮らせたらいいのにという気持が頭をもたげてくる。で、それじゃあどっちにするかということになると、迷わず英語だろうなあ、やっぱり。「英語圏とわかっているのに、毎日英語ばかりで疲れると愚痴る人が多い」とカレシに言ったら、「キミだって日本語をしゃべるのは疲れるって言ってるじゃないか」と言い返されてしまった。なるほど、そういわれてみるとわかるような気もする。こうやって書けるんだから、しゃべるのも不自由しないはずだけど、しゃべるのはすごく疲れる。生まれ育った言語なのにねえ・・・。
まあ、今日はせっかくの「ノーワークデイ」。雨模様だけど、グランヴィルアイランドへ行って見る。公設市場なんだけど、野菜も魚も肉も高い。そう遠くないところにできたWhole Foodsと変わらない。平日で雨ということもあるけど、客筋の大半はツアーの観光客。これじゃあWhole Foodsに客足をさらわれても不思議はないなあ。迷路のような市場の中をしばしうろうろして、今日の買い物は細くてきれいなインゲン、パティパンというミニミニかぼちゃ、ミニズッキーニ。イタリア人の店でオリーブのミックス。ローカルの製品の販促をやっている店で8種類のはちみつのサンプルとジャムが2つ。だけど、なんかつまらないところになってしまったなあという感じ。
帰ってきて、あくびの連発。まあ、「休みモード」だからいいんだけど。ネット世界をうろうろ、だらだら。朝日新聞がやった世論調査というのがあって、なんとなくウツっぽいニッポンが浮き彫りになったような印象。でも、回答者の75%が日本に誇りを持っているというし、日本の「伝統文化」を誇れるという人が92%もいるから、まだまだ捨てたもんじゃないと思うけどな。今の日本を「登山」にたとえたときのイメージでは「息が切れて、後続の人に追い抜かれていく」が62%。「足を痛めて先に進めない」と言う人も18%。元気な人は16%しかいなくて、74%が今の日本は「自信を失っている」。バブル崩壊以来の日本の現状をわかっていないのは政治家と官僚くらいってことだなあ。(バブルの前だってわかっていたとは思えないけど、それは別の話。)
今の日本は精神的に豊かな生活を「送れていない」し、勤勉さが「報われない社会」。将来の日本は、「ほどほどのがんばりで、ある程度の豊かさ」があればいいけど、「個人の生活を優先した方がいい」。「豊かさはそれほどないが格差が小さい国」がいい、「大国である必要はない」、税負担は軽いが行政にはあまり頼れず、自己責任が求められる「小さな政府」よりも、税負担が増えても行政サービスの手厚い「大きな政府」の方がいい。だけど、少子化が進んで経済を維持できなくなっても移民の受入れは「反対」。おもしろいのは、勤勉、協調性、礼儀正しい、器用、自立心、独創性、国際性のうちで、最後の3つで今の日本人に「あてはまらない」が多かったところ。特に自立心(76%が「あてはまらない」)と国際性(70%)についてはちゃんと自覚しているということかな。で、これから特にどれを大切にしたらいいかと聞かれて一番多かったのが「国際性」で、次に「自立心」。う~ん、なんとなく他
の質問への回答とちょっと矛盾しているところがあるような、ないような。
それにしても、この「コクサイセイ」って、いったいどんなことなんだろう。どうも日本人がイメージする「コクサイセイ」には英語の適訳がないような気がする。いや、「国際性」という言葉そのものがあまり使われないような気がする。日本企業の文書にはやたらと「国際化」という語が出てきて、翻訳するのに具体的なイメージがつかめなくて四苦八苦する。ここでは日本という国のこれからのことだから、経済のグローバル化をいっているわけではなさそうだし、とすると、日本人が「国際性」、「国際化」というときには、どんなことをイメージしているのかなあ。英語で会話ができることなのかな。外国人と仲良くすることなのかな。それとも長期、短期を問わず「海外体験」をすることなのかな。まあ、今の日本は理性よりも知性よりも、「感性」が命!というところもなきにしもあらずに見えるから、「国際性」もメディアが作った漠然としたイメージにすぎないのかもしれないけど、それでも、いくら「国際性」を大切にしなければならないと力んでも、まずその「国際性」とは何ぞやという定義がはっきりしていなければ、実践として何を大切にしたらいいのかわからないんじゃないのかなあ。ここは、やれ国際性がどうのこうのという前に、まずは自立心を培った方が国の将来のためになるんじゃないかと思うんだけど、これまた「自」のつくことが苦手らしいようだから、はて(と、皮肉屋なワタシ・・・)。
極楽とんぼ亭:カフェテリア風お急ぎ料理
6月10日。思いがけず仕事が途切れたのをいいことに、小雨のなかを買い物に行って帰って来たら、夕食の食材が出ていない。もう午後4時。困ったなあ・・・と思案して、思いついたのが、フリーザーにあり合わせのものを流水で特急解凍して、お得意の「機内食風」。
土曜日には久しぶりに極楽とんぼ亭サタデイスペシャルをやろうと企画しているので、ちょっとした予行演習というところ。といっても、大急ぎだから創作しているヒマはない。で、適当に作ってトレイ代わりのお皿に並べたら、なんだか「カフェテリア風」・・・。
[写真] 茶碗1杯分にもならないくらの量が残っていたお米をおかゆにして増量。ゆかりを混ぜて味つけ。キハダは人気定番のポケに。5センチほど残っていた大根はまだすが通っていなかったので薄切りにして塩もみ。なぜかほんのひとかけらが残っていたサーモンを刺身にして2切れずつ。大根の上において、かいわれでちょっとかっこつけ。使い残しの白魚はさっとコーンミールをまぶして唐揚げ。
所要時間40分。ワインは冷蔵庫に残っていたリオハのロゼ。ま、カフェテリアの食事は手軽なのが売りものだけど、残りものもちょっとかっこうをつけたら「カフェ」に昇格?
女性を言い訳に使うべからず
6月11日。金曜日。また、いろいろ夢を見ていたらしい。寝ている間もぞもぞ動くもので目が覚めたカレシが「夢を見ていたの?」と聞いたら、ワタシは「夢を見てる~」と答えたんだそうな。本人はそんなの全然覚えていないから、本当に夢を見ていたところだったのかもしれない。ごみ収集のトラックの音で目を覚まして、すぐに眠ったのに今度はリサイクル車のガシャン、ドタンで目を覚まし、また眠ったら、最後は戻って来たごみ収集車の音で目が覚めて、午後12時半。あ~あ、ベーコンと卵の朝食にはちょっと遅すぎるか。
日本はもう土曜日だから今日は静かだけど、週明けが期限の仕事がまた並んでしまったから、休みモードは今日でおしまい。モールまで行こうかと思ったけど、めんどうくさくなって取りやめ。ネットをぶらぶらに飽きたところで、思い立ってたくさんある英和辞書からとりあえずビジネス関係の用語を拾ってExcelで作ってある自前のグロッサリに打ち込む作業を始めた。何十冊あるのかわからない辞書の類はどれもインターネット時代が明ける前に集めたもので、英和が多いし、今でもよく使うものは安っぽくのりで綴じたものだからページが外れてばらばら。それで、かなり前から抜粋して自家製電子辞書にしようともくろんでいたんだけど、なにしろ数がすごいからなあ。
噂に聞くところでは、あの頃によく辞書を漁りに行っていた日本書籍の店が最近倒産してしまったらしい。もっとも、この数年は当時のオーナーの娘夫婦の代になって場所も移転したし、娘婿主導の経営になったのか内容もすっかり変わってしまって足が遠のいたけど、先代の頃はまさに命綱のような存在だった。あの頃は猛烈な円高に加えてブックレートというさらに高い特別為替レートで換算した値段だった。地元だけじゃ当然足りないから、日本に行くたびにも紀伊国屋でしらみつぶしに辞書を漁ったな。元々専門辞書は高いのに円高のせいであっという間に数百ドルにもなって、ため息が出たっけなあ。それでも設備投資だと思ってせっせと買い集めた。今本棚にずらりと並んでいる辞書のカナダドルの原価を合計したら、ひと財産になるだろうな。とっくに絶版になったけっこう貴重なものも多いから、引退したら後進に譲ろうかと思ったりするけど、何でもググって見つけられるネット時代の人たちにはどれほどの価値があるのか・・・。
きのうの新聞に、運転中の携帯使用禁止の法律が施行されて5ヵ月間に違反切符を切られた8千人の人たちの「言い訳トップ10」が出ていた。「緊急の仕事の呼び出しで・・・」、「赤信号で止まってたんですけど・・・」、「ボイスメールをチェックしていたんで、電話かけてないけど」、「ハンドフリーにしてあるんだけど(おまわりさん:手に持っていたらハンドフリーじゃないでしょうが!)」、「ママからの電話なんだ!」、「郊外に住んでて、ここの住人じゃないから知なかったの(州の法律なんだけど)」、「運転しながら食べている人とかに比べたらボクはずっと運転がうまいんですけど」、「ハンドフリーの設定をしていたところだったの」、「捕まったのは初めて。警告で済ませられない?」、そして、「女房からかかってきたんで、無視するわけには行かなかったんだよねえ」。あはは、みんないろいろと言い訳を考えるもんだなあ。東京の高速道路ではハンドルの上に両腕を置いて運転しながらメールを打っていた人がいたけど、どんな言い訳を考えるんだろうな。だけどさあ、ママと女房を法律違反の言い訳に使うなんて、ちょっと男が下がるんじゃないかと思うけどなあ。
アメリカのある大学が若い人たちを対象に実施した心理調査によると、女性は失恋したときに大きなストレスを感じるけど、男性はガールフレンドとの仲がうまく行っていない時が最もストレスが大きく、逆に二人の関係がうまく行っているときには心理的な恩恵が女性よりも多いんだそうな。男女関係の不仲では女性の方が傷つきやすいという通説をひっくり返すような結果だけど、この年頃の男性は彼女との関係の中に安心感を求めているらしく、うまく行かないことで自分のアイデンティティと自尊心が脅かされるんだそうな。なんとなくママに甘え、ママを支配したがる坊やのようなイメージだけど、若い男って所詮は精神的にその程度の成長度なのかもしれないな。(そのままで年を取ってしまう男も相当な数いるけど。)女性は別れてから喪失感でウツっぽくなるというのは、子育てが終わった中年女性の「空の巣症候群」と似ていなくもないような感じがするな。ただし、調査対象になった若い男性の多くが、働く母親、母親の稼ぎに頼るぐうたらな父親、父親不在、両親の離婚といった背景を持っていたというから、よけいに女性との関係に安心感を求めるのかもしれないけど。
だけど、育った環境はどうあれ、相手に求めるばかり、与えるばかりの一方通行の関係は恋でもなければ愛でもない。親子の依存関係をそのまま温存しようとするようなもので、男にとっても女にとっても精神衛生上良い関係だとは言えないと思う。でも、エプロンのひもって丈夫だからなあ・・・。
極楽とんぼ亭:DINE-INスペシャル第26回
6月12日。土曜日。やっと摂氏20度まで行ったら、低温だ、低温だとさわいでいたせいか、平年並みなのに暑く感じた。
さて、今日は半年ぶりに極楽とんぼ亭のシェフのお試しメニュー。ちょっと会席料理風に気取って、ワインの代わりにしっかり冷やした備前の大吟醸の純米酒。備前てどこにあるの?岡山のことじゃないかな。岡山ってどのあたり?西日本でしょ。ということは島根の隣くらい?えっと、そっちは山陰で、岡山は瀬戸内海の方だったと思うけど(津軽海峡以南は細々しててよくわからないってば)・・・と、怪しげな地理問答を繰り広げながら、準備にかかった。
今日のメニュー:
さて、今日は半年ぶりに極楽とんぼ亭のシェフのお試しメニュー。ちょっと会席料理風に気取って、ワインの代わりにしっかり冷やした備前の大吟醸の純米酒。備前てどこにあるの?岡山のことじゃないかな。岡山ってどのあたり?西日本でしょ。ということは島根の隣くらい?えっと、そっちは山陰で、岡山は瀬戸内海の方だったと思うけど(津軽海峡以南は細々しててよくわからないってば)・・・と、怪しげな地理問答を繰り広げながら、準備にかかった。
今日のメニュー:
アミューズブーシュ(ほたて)
まぐろのたたき、焼いた竹の子とししとう
二色豆腐(抹茶・うにくらげ)
コチュジャンビーフと粟のおかゆ
シーバス、白ワインのリダクション、温野菜とフルーツ
(サラダ)
(デザート:フルーツサラダのサングリア漬け)
[写真] ほたてをライムジュースに漬けておいてグリル。かっぱ橋で見つけたおもしろい形をしたミニ皿にのせて、赤い漆塗りのお皿に置いてみた。ほんのひと口の突き出し。
まぐろのたたき、焼いた竹の子とししとう
二色豆腐(抹茶・うにくらげ)
コチュジャンビーフと粟のおかゆ
シーバス、白ワインのリダクション、温野菜とフルーツ
(サラダ)
(デザート:フルーツサラダのサングリア漬け)
[写真] ほたてをライムジュースに漬けておいてグリル。かっぱ橋で見つけたおもしろい形をしたミニ皿にのせて、赤い漆塗りのお皿に置いてみた。ほんのひと口の突き出し。
[写真] ポケを作って残ったキハダをたたきにして白ゴマをまぶしただけ。竹の子をスライスして、ししとうといっしょにグリル。ちょっとだけ醤油をふりかけてできあがり。カレシが温室から採ってきたサラダ用の摘み菜の中から大きいのを2枚失敬して彩りに。
[写真] 前から使ってみたかった抹茶。絹ごしのソフト豆腐と液体卵白をフードプロセッサにかけて、半分には抹茶、もう半分にはうにくらげのペーストを混ぜて、シリコーンのマフィン型に入れて蒸した。ちょっとゆるいのは、もう少し卵白を使った方がよかったのか、もう少し硬めの絹ごしを使った方がよかったのか。薄めためんつゆに山椒を混ぜてソース。口当たりはよかった。思いつきとしては上出来、上出来。
[写真] ビーフの薄いスライスはコチュジャンとゴマペーストで味つけして、ちょっぴり焼肉風。興味半分で買ってあった粟(millet)は、時間がかかるのでいの一番に火にかけておいて、ひと口粥にした。豆腐のソースの残りでしいたけを煮て、おかゆに載せて、汁も少しかけて味つけ。(日本へ行って来てすっかり惚れこんだおかゆだけど、粟もいけるなあ。この次は七穀粥を試してみようか・・・。)
[写真] メインは厚みのあるシーバス(すずき)のフライパン焼き。冷蔵庫に半端に残っていたソヴィニョンブランに砂糖をひとつまみ加えてリダクション。蒸したベビーインゲンとミニかぼちゃにトロピカルフルーツを添えて。魚の甘みとワインの甘みとフルーツの甘みがちょうどうまくかみ合ったようなできばえ。
サラダまで食べたら、いつものようにデザートのスペースがなくなって、カレシがわざわざ買出しに出かけて作ってくれたブルーつサラダはひと休みしてからということになった。メロン、ドラゴンフルーツ、キウィ、バナナをさいころに切って、サングリアに漬け込んだもの。後の方が味がよくしみこむからいいと思うけど。
老後の設計ねえ・・・
6月13日。日曜日。というか、極楽とんぼ標準時では仮想的月曜日。正午前に起床したけど、日本はもうあしたの丑三つ時で、もうすぐまた1週間の仕事が始まる。日本では関東も梅雨入りしたんだって。道産子のワタシには「梅雨」がイメージできない。「大変ですね」と言ってみるけど、「梅雨の季節」を暮らしたことがないから、何が大変なのかもわかってない。子供の頃にNHKのテレビで「梅雨があるわけ」として、小笠原気団(だったかな)とオホーツク気団が日本の上で相撲を取っているイラストを見た。四つに組んでの長相撲で双方とも汗がたらたら。それが梅雨で、この取り組みは必ず小笠原がオホーツクを寄り切って終わる、と。そうか、オホーツクがなかなか土俵を割らずに踏ん張り続けたら、日本はいつまでも梅雨が明けないってことなんだ。道産子の意地だ!オホーツク、がんばれよ・・・なんて、イジワルだなあ、我ながら。
天気がいいから、カレシは外で園芸仕事。水を飲みに入ってくるたびに「蒸し暑いよ~」と悲鳴を上げる。汗っかきで何よりも蒸し暑いのが苦手中の大の苦手なカレシ。入ってくるたびに汗臭い。一日の作業が終わって、入ってくるなり待ちきれないようにシャワーに直行。春先に大枚の費用をかけてバスルームを改装したのはこのためなのだといわんばかりの鼻歌が聞こえてくる。シャワーが楽しみでせっせと庭仕事をしてくれるなら、適度の運動にもなることだし、200%の利益率だなあ。小町横町には還暦をすぎた夫に年金が満額になるまで仕事を続けて欲しいといっている奥さんがいた。この夫婦は共働きで、企業年金とやらもあるらしいから何とかならないことはないらしいけど、そうでなかったら、定年退職と年金受給開始までの間に空白がある(という)日本ではきついだろうなあ。
カナダでも年金改革の話が出ているけど、これから20年くらいにわたってベビーブーム世代が定年の65才を迎えるから、いずれは掛け金を二倍くらいにしなければ間に合わないという話で、年金の資金は今のところ安泰だそうな。働く人たちが払い込むカナダ年金の基金を運用委員会が投資しているんだけど、サブプライム以来の金融危機で投資益が出たというから大したもんだと思う。たぶん値下がりした優良株を買い漁ったんだろうな。保有資産の内容を見たらびっくりするような国際企業の株主だったりする。つまりは、カナダの勤労者が株主になっているようなもんだろうな。
件の還暦夫婦はけんかして、話し合って、すっきり分かり合えたようで、「働け、働けと煽りすぎた」と反省した奥さんはしばらく静かに見守ることにしたそうな。まあ、そこが長年の夫婦と言うもんだろう。カレシが引退してからこの秋で丸10年。まだ57才で公的な年金はないし、リストラとは言え訳ありだったから、組合年金は早期退職のペナルティで減額されて、手取りで入って来る金額はとっても夫婦2人が暮らせる額じゃなかった。共働きのおかげでほとんど影響はなかったから、そのまま引退するのに任せられたけど、女房に扶養されるのは嫌だとか何とか駄々をこねたあのときのカレシは何を考えていたんだろうな。最悪、チャンスとばかりさっさと日本へ英語教師の出稼ぎに行ったのかな。聞いたことがないからどんな将来を描いていたのかわからないけど、現実とはかけ離れた夢を見ていたのはたしか。65才を過ぎた今は年金も3つ、移民の人たちを相手にボランティアの英語教師をやって、みんなに感謝されて、思いがけず早くやってきた「老後」が楽しくなったらしいから、まずはめでたし、めでたし。
さて、少なくともあと2年と10ヵ月は現役ばりばりのワタシは、ま、とりあえず目の前の仕事を・・・。
パックマン式学習法?
6月14日。月曜日。あ~あ、6月ももう半分かあ。よく寝たはずだけど、なんかだら~んとした気分。困るなあ。今日が納期の仕事が2つあるってのに。明日が納期になっているのもひとつ。水平線上に入道雲みたいに見えるのは、ああ、仕事、また仕事。新聞に、メールやインターネットの普及によって公私の境界がぼやけたために、カナダ人は時間に追われて心身ともに健康度が低下しつつあるという報告が載っていた。セカセカ大国日本から来た人たちに怠け者だ、働かないと苦言をいただいてしまうくらいぐうたらなはずのカナダ人でさえこうなんだから、当のセカセカ大国の小町横丁にイライラ、カリカリして一触即発の精神状態になっている人が溢れるほどいるわけがわかるような気がするな。
極楽とんぼはその名の通り、在宅の自営業なのをいいことに、けっこうのんべんだらりとやっているつもり。燃え尽きるまでの10年はそれこそ押しも押されもしないワーカホリックで、今になってみたら信じがたいくらいの集中力で仕事をしていた。だって、仕事をすればするほどおもしろいくらい次々と入ってきて、勤め人時代には想像さえしなかったような収入があって、それがまた駆動力になって仕事に夢中になって・・・不思議なことに仕事はストレスになるどころか、自分という人間が存在して生きていることを確認するために唯一のエネルギー源になっていたんだと思う。まあ、結果的には仕事の外でいろんなことが積み重なって精神的に潰れてしまったけど、その後で業界の流れの変化に合わせるように仕事の流れも変わって、精神的に新しいエネルギー源になった。だからこの年になって徹夜した~とはしゃいだりできるのかな。仕事があるのがわかっていながらだら~んとした気分でいて危機感がないかな。あんがい、これが年の功というやつだったりしてね。
今日のカレシは英語教室の生徒に宿題に出した作文の添削に忙しい。そうやって英語を覚える上でどういうところが難しいのかを調べるんだとか。アジア系の生徒はたいていが日本人と同じように母国で英語の授業を受けて来ているから文法ではカナダ人より知識がある。だけど、英語の文法には教科書では説明しきれない観念的なものがたくさんあって、そういうのはカナダ人はろくに教育を受けていなくても間違うことはないけど、英語を母国語としない人にはなかなか吸収しにくいところがあるのはたしか。宿題から浮上した課題は「前置詞」。うん、これは難しい。日本語の「てにをは」と似ているけど、前置詞は数も多いし、それぞれに守備範囲がやたらに広い。それでも英語ネイティブはまず間違った使い方をしないんだそうな。へえ。最近の日本人は日本語の「てにをは」がワタシにだっておかしいとわかるくらいごちゃごちゃになって来ているけどなあ。
それにしても、教科書で説明しきれないようなことを教えるのって難しいだろうな。おまけに学習速度も人それぞれ、学び方も人それぞれ。先生ってのはけっこう大変な仕事だなあ。ワタシは昔から教えられるのがへたなもので、みようみまねの我流で学ぶしかない。まあ、好奇心だけは人の何倍もあるから、パックマンよろしく「知識」を追っかけて、あっちへパクパク、こっちへパクパク。ときには大物もパクリ。ときには欲張りすぎてパクリとやられる。なんか子供っぽい学び方でもあるけど、見るもの聞くもの何でも抵抗したり、拒絶したりせずに、まずは「へえ~」と受け止めてみるところがいいのかもしれない。うん、パックマン式学習法も楽しからずや。そうやってパクパク食べまくって、お金をもらえているんだから、学ぶというのは食い道楽冥利につきることでもあるかな、うん。
たかが高学歴、されど高学歴
6月15日。火曜日。ぐずぐず寝ていたら、目覚めが午後1時近くになってしまった。それから二人して何となくだらだらして、起きたらもう1時過ぎ。おいおい、いちゃいちゃもいいんだけど、1日の大きな塊が終わってるじゃないの。今日は夕方に納品があるんだったら・・・。
仕事の方は、まあ似たりよったりのものを何度もやって来たから楽々で進んで、3時過ぎには納品。今日はカレシは英語教室、ワタシは即興演劇教室で、二人ともお出かけの忙しい日。それっとキッチンに上がって、アサリのむき身をフリーザーから出して水につけ、大鍋いっぱいの水を火にかけ、ベビーズッキーニをスチーマーにセットして、玉ねぎとイタリアンハーブと白ワインとクリームと少し解凍したアサリでパスタソースを作る傍ら、沸騰した大鍋にリングィーニを放り込む。ささっと作って、ささっと食べて、ばたばたっと出かけるのがここんところの火曜日の風景。
ちょうど仕事が途切れたところで、水筒1本だけぶら下げて学校へ。3時間たっぷり飛んだり跳ねたり、大声を出したりして、汗をかいて気分もすっきり。帰り道でスキップしてみたり・・・誰も見てなかっただろうなあ。帰ってきてみたら、ああ、また仕事。でも、今度はゆったりのスケジュールだから慌てることはないけど、もうひとつと「被る」なあ。(よくわからないけど、どうも最近の日本語では重複することを「被る」というらしいので、ちょっと使ってみた。なんかしっくりしないけど、まっ、いいか・・・。)
日本で日本語に関する文庫本を2冊買ってきた。1冊は『バカ丁寧化する日本語』(野口恵子著)で、もう1冊は『真逆の日本語』(井上明美著)。どっちも最近の変てこ日本語、特に敬語について解説?したもので、読むほどにいろいろと考えさせられる。いっそのこと、丁寧語だけを残して、階級年齢性別差別的な敬語、謙譲語、謙遜語なんていうものを撤廃して、日本語を男女老若前後上下おしなべて平等に「民主化」したら、意思を伝達する前にまず上下関係を確認するために腹を探り合わなくてもいいし、判断や語句の選択を間違ってヒジョーシキ!とやられることもなくていいだろうと思うんだけどな。それにしても、「知的な/教養ある自分」を演出しているだけかもしれないとしても、今どき風の日本語のバカ丁寧化には猫かぶりの心理があるような胡散臭さが漂っている。使い方がはちゃめちゃでは逆効果じゃないのかなあ。ま、はちゃめちゃが多いからこうして本がかけるんだろうけど。
ここんところ小町横町の井戸端でまたぞろ再燃している「学歴論争」がおもしろい。この「学歴」という言葉にこれほど敏感に反応して盛り上がるのはどうしてなんだろう、とついおもしろくなってのぞいてしまう。まず登場したのが『学歴の低い上司』というトピックで、あっというまに上位ランク入り。ほとんどが「大卒以上」を募集条件にしている職種で、同僚はいずれも一流大学・大学院の出身。トピックの主も一流私大卒。ところが、業務の知識が豊富で適任だと思った(女性)上司が実は地方の名もない短大卒だとわかってモヤモヤ。何かにつけて「偉そうに」と反発してしまう・・・。次いで現れたのが『四年制大を出ていないって低学歴?』。大学卒でない人を「やる気か能力がなかった人間」と評するのは小町独特の価値観なのか、と言う質問。
まあ、「学歴/高学歴とは何ぞや」という定義をしないままだから、書き込む人それぞれの偏見が丸見えで、横並びで大学に入って、出てきた人間ほどこだわりたがるからおもしろい。日本全国にどれだけ大学があるのかしらないけど、どこそこ卒は「高学歴」だけど、それ以外はただの「学歴」とか、偏差値がどうのこうのとか、まあ、にぎやかなこと。根拠のないものさしで上下や優劣をあげつらって他人を見下したり、卑下したりする裏には、何らかの劣等感や自己嫌悪、嫉妬といった負の感情があるように思うんだけど、きっとこの人たちは楽しかるべき子供時代を受験勉強に没頭して過ごしてしまって、そういう「大変な思い」をしなかった人たちが少しでも自分より上だったりすると、努力が報われていないと感じるのかもしれないな。自分はあんなに大変で、つらかったのに、と。
こういう議論で必ず誰かが持ち出すのが、「アメリカは日本よりもっと学歴偏重だ」という、砂場のけんかみたいな屁理屈。アメリカの「学歴」は何を勉強してどんな学位を持っているかが重視されるのに対して、日本の「学歴」は卒業証書に書いてある大学の「名前」のことだと思うんだけど、そんなことを言ったら、「無学歴の人間が偉そうに!」と言われるかな。無学歴って、ある意味で白紙みたいなものだから、人生のあちこちで見聞きしたことを自由に書き込めて楽しいけどなあ。