元旦、一計も案ぜず
1月1日。HAPPY NEW YEAR!
シアトルのスペースニードルの花火を見ながら、シャンペンで乾杯。ここ何年か恒例になった感がある。その後は「いつものように」仕事に戻って、「そろそろ寝るか」とスコッチのナイトキャップ。就寝は午前4時で、起床は正午の「普通の日」。オレンジジュースとシャンペンの「ミモザ」で互いに新年のごあいさつ。後は普通に朝食をして、普通に「私たちの一日」に取りかかる。「普通の日常」ほど平和な時間はないだろうな。
あと7ミリというところで12月の降雪量の記録を更新し損ねたと思ったら、新年に入ったとたんにまた盛大な雪になって、あっというまに1センチ以上積もった。やれやれ、マザーネイチャーもイジワルだねえ。あと2時間早く雪を降らせてくれたら、記録更新だったのに。そういえば、3年前の1月は、12月中旬からの雨の連続観測が記録がタイになるという日に一滴も雨が降らず、次の日からまた雨。結局、31日までに雨を観測した日が29日という新記録を達成?した。もう、マザーネイチャーの気まぐれは普通じゃない。でも、雪景色が3週間の今は雨がうれしいなあ。
さて、「一年の計は元旦にあり」と言うから、ワタシも何か考えてみよう。たとえば、だらだらと饒舌になる一方のこのブログを「もっと簡潔明瞭にする」とか。でも、おしゃべりとんぼにとっては美酒愛好家が「禁酒」を宣言するようなものかな。去年の「新年の決意」もやっぱり短命だったから、今年はカレシ流に「一計も案ぜず」をもってワタシの新年の決意としようかなあ。
だけど、新年の「Wish list(願いごとリスト)」なら長いのができそう。いうなれば自分自身への「おねだりリスト」なわけで、人間は自分にはけっこう甘ちゃんだから、「かなえてやりたい!」という気になるかもね。愛すべき極楽とんぼの願いをかなえてやりたい一心でやれば、けっこういろんなことを達成できるかもしれない。まあ、「Wishful thinking(願望的思考)」で終わらなければの話だけど、そこはワタシの考えることだからなあ・・・。
とりあえず、目の前にでんとある仕事に取り組むことにしようっと。
楽してできる道楽はなし
1月2日。いつもとは違う、「正月らしい天気」と言うものがあるのかどうかは知らないけど、まぶしい晴天。3週間見慣れた雪がどんどん解けて行くのは気持がいい。まあ、「~らしい何とか」というのはその人の先入観に根ざした感じ方だから、「新しい年が始まって気持がいい」のが正月だと思っていれば、気分のいいことは何でも「正月らしい~」ということになるんだろうな。今夜からまたまた5センチくらい雪が降るという予報だけど、ご冗談でしょ、んっとにもう。
食べて飲んで冬眠するのに忙しくて、大晦日になってやっと手を付けた仕事。日本での仕事始め一番の期限まであと2日しかないのに、まだ3日分くらいの量が残っている。おまけに、同日、同時刻が期限の小さいファイルがひとつあったのをすっかり忘れていた。おいおい。「正月早々から」とは言いたかないけど、大丈夫なんかい、ワタシ・・・
明日は土曜日。久しぶりにお出かけしたいのに、カレシはのらりくらり。予約を入れておくはずが、「忘れてた」。まあ、ここのところの道路事情ではしょうがいないんだけど、1ヵ月ずっと極楽とんぼ亭のグルメ続き。シェフだって休みを取って、思いっきりサービスされる側になりたい。再来週の14日からは「DINE OUT VANCOUVER」という、トップクラスのレストランのほとんどが参加する毎年恒例のイベントが始まってしまう。なにしろ3コースの特別メニューが18ドルから38ドルと言う、いつもの3分の1以下の超格安な値段なもので、普段のメニューで食べるつもりでも、どこも「満員御礼」で予約を入れることさえできなくなる。もっとも、どこでもシェフはこのホリデイ明けの閑散期を利用して休暇を取るんだろう。だけど、やっぱりサーバーににこやかにかしずいてもらって、プロが作ったおいしいものを食べたいしなあ。カレシの男を立てて予約業務をまかせておいてはいかん。楽して食道楽はできないもん。
人間は温血漢なのだ
1月3日。きのうは午前3時の「閉店時間」までがっちり仕事をしたもので、かなり疲れた気分で就寝。相当にだれているようだから、ちょっとばかり喝を入れないといかんなあ。でも、午後1時近くなって起きてみたら、あ~あ、また屋根も道路もそっくり雪景色。雨になる、雨になるって、いったいいつになったら雨になるんだろう。あしたあたりは「雨か雪」で、その先はひと言「雨」だけど・・・
玄関脇の窓に貼り付けた温度計は午後2時で0度。カレシは温度計がおかしいんじゃないかと、外に出て息を吹きかける。赤い針がぐぃ~っと動いてプラス10度。ほお、熱血漢なのねえ、あなた。でも、すぐにすぃ~っと0度に戻る。どっちが「おかしい」のやら。総じて暖まっていることは確かではあるけど・・・
温度の話で思い出したのが、最近日本人の間で増えていると言われる「低体温化」。バンクーバーっ子がまだ半袖で歩いている時期に長袖に上着を着こんで、寒そうに背中を丸めて歩いている若い女の子がいたらほぼ間違いなく短期滞在の日本人。たまにはマフラーまでしているのがいるけど、よっぽど寒がりなんだとしても、周囲が夏の軽装なのにきわだって奇異に見える。体型まで幼児化志向の極端なダイエットも原因のひとつだそうだけど、基礎代謝が低下するから結局は太りやすくなるというのは皮肉な話。もっとも、外から見ていると、日本の文化ってけっこうマゾっぽいところがあるんだけど・・・
日本人の平温は36.8度(ワタシはしっかり37度ある)のはずなのに、低体温化で36度とか、すごいのになるとやっと35度、もっとすごいのはそれ以下という「冷たい人」もいるんだそうな。ここまできたら「私って冷え性なのよねえ」なんて粋がっていられない。体温が1度低下すると免疫力が40%近くも下がってしまうんだそうで、免疫力が下がればアレルギーや成人病やがんになりやすい。運動能力が低下して血行不順。血の巡りが悪くなれば、脳まで酸素が行き渡らないから判断能力も低下して、ついでに心まで冷えて来るかもしれない。女性は不妊になりやすいし、早く老化が始まる・・・と、まったく良いことがぜんぜんない。哺乳類である人間は温血動物なんだけどなあ。まあ、たまには熱血動物もいるようだけど、これは別の次元の話・・・
休みすぎて働きすぎじゃあ
1月4日。やれやれ、「正月三が日」が終わらないうちにさっそくの「半徹夜」。まとまりがなくて、おまけにうねうねと蛇行する川のような文章と悪戦苦闘のあげく、午前5時に諦めて就寝。アドレナリンを放出しすぎたのか、あまりよく眠れなくて、とうとう午前11時前に起き出して、作業再開。半徹夜に付き合って、1時近くにやっと目を覚ましたカレシとの朝食もそこそこに、突貫作業で終わらせて、超特急でおまけの小さいファイルも片づけて、ささっと書いたメールにつけて送信ボタンを押したのは期限の日本時間1月5日午前9時の2分前。ふううう。なんだか、深層心理?に刷り込まれた「正月早々からそんなことをやってると・・・」が頭をよぎったような。
きのうの雪でひと騒ぎした後で、けさは強風警報が出てまたひと騒ぎだったらしい。でも、午後には雨。おお、待望の雨。だけど・・・な~んだ、また雪。こら、気象予報官、しっかりせんかいな。予報がぜんぜん当たらんじゃないの。まあ、でもすごいぼた雪だ。大きいのが重たそうにぼった、ぼったと降って来るから「ぼた(ん)雪」と言うのかと思っていたら、どうやら「牡丹雪」というのが正しいらしい。牡丹の花びらみたいなのが降るからだそうだけど、どうも北海道の雪のイメージじゃないなあ。ちょっと風流すぎ。もっとも、京の都かどっかそうやってほっこり雪を愛でていた頃の蝦夷地はまだ「Terra incognita(未知の土地)」だったろうけど。まあ、そこは京の雪と蝦夷の雪の違いってことでいいか。
ある新聞のコラム。日本から送られてきた来たカレンダーに居住地イタリアの祝日をマークしていたら、まあなんと日本の祝日の多さよ、と呆れたと言う話。今年についていえば、日本では週末以外の祝日がイタリアの倍の15日もあって、三連休となるとイタリアでは3回だけなのに、日本では5回。おまけに「五連休」というすごいのが2回もあるんだそうな。その上で、年末と年始に休みで、お盆にも休みなんてところも多いだろう。有給を取らなくたって、黙ってカレンダーをめくるだけでなんだかんだと1年に1ヵ月近くも休みがあるってこと。となると、日本人はいったいいつ働くのと疑問に思うけど、答はずばり「夜」。みんな、休みでない日には残業に次ぐ残業で働かなきゃ自分の仕事を片つけられないんだろう。で、みんながそうだから、それが社会人の「常識」になって、日本ほど祝日が多くない国の人たちがマイペースで仕事をしているの見ると、「んっとにいい加減な連中だ」とムカつくのかな。でも、やっぱりなんかおかしくない?
マザーネイチャーも、この3週間はちょっと根を詰めて働きすぎ。このあたりで休暇をとって、カンクンとかハワイとかフロリダとか、ゆっくりしに行ってみない?
分るような、分らないような
1月5日。お、雪は降っていない。その代わり大雨の予報。これで雪がなくなってくれるといいけど。市民は市の除雪体制がなっていないと文句たらたらだけど、バンクーバーは3週間に1メートルも降るような「50年に1度」の天気に対応していないのだ。まあ、ぶうすか、ぶうすかと言っているのは前回(1964年)の「記録的大雪」を知らない世代。生まれてから便利さに囲まれて暮らして来たのが、初めて大きな「天災」に遭遇して、(税金を払ってるんだから)お役所が何とかしてくれるかと思ったら(自分に便利なことは)何もしてくれないのはけしからん、ということらしい。アメリカの銀行や自動車メーカーのワシントン詣でに似てるような、似てないような・・・
お向かいさんのマージョリーが雪かきしているのを見たカレシ、シャベルを持って応援に出かけた。独り暮らしのマージョリーは言語療法士で画家。同じ年代だから、水を含んで重くなった雪との格闘はきつい。ガレージの前をきれいに除雪して意気揚々と戻ってきたカレシだけど、降り始めからこの3週間、我が家の前と横の歩道はほったらかし。市条例は単世帯住宅の住人に(市有の)歩道の除雪を義務づけていないけど、歩行者のために「努力」を呼びかけている。なのに、「市が駐車禁止の条例を実行しないなら、こっちも市の歩道の除雪なんかしてやらない」とそっぽを向いているカレシ。(てことは、夫婦の一方が配偶者としての責任や義務を放棄したら、もう一方もそうしていいってことかな・・・な~んて。)はて、理屈が通っているような、いないような・・・
今日はごみの収集日で、「来るのかなあ」と半信半疑で容器を出しておいたら、昼過ぎにトラックが通って行った。前回の収集日はクリスマスイヴの日だったけど、大雪で結局来なかった。ごみ集めは週一だから普通なら次は31日だけど、祝日があるごとに1日ずつ移動するしくみなので、祝日が3日ある年末年始は一気に3日もずれる。普通なら3日になるはずなのに週末なものでさらにずれて月曜日の今日。実に19日目の収集になった。まあ、一昨年にストで夏の間3ヵ月も収集がなかったの考えたら、生ごみが腐らないからどうってことないはずだけど、ナノ秒世代はやっぱり「スケジュール通り」でないとイライラするのかなあ。だけど、自分の車庫の前でごみトラックに立ち往生されたらもっと困るんじゃないかという気がするような、しないような・・・
新年早々さっそく2009年度の不動産査定評価の通知が来た。あれ、去年と同じ数字にみえるけどなあと思ったら、下に小さな字で「2008年度の価額はXXX,XXXドル、2009年度の価額(2008年7月1日現在の評価額)はYYY,YYYドルなので、低い方を表示した」と書いてある。そうか。去年の夏の時点では約9パーセントも高くなっていたけど、金融危機で景気が急降下して評価額もがた落ち。固定資産税の課税基準になるものなので、値下がり前の数値を使うのは差し障りがありそうだから、ここは前年度の価額で凍結しようと、5月に選挙を控えた州政府が政治判断したらしい。ふむ、わかったような、わからないような・・・
よきサマリア人たち
1月6日。あんまり文句が多いもので、「ご要望にお応えして」と言ったかどうかしらないけど、雪が降り出して以来初めて我が家の前の道路を除雪プラウをつけたダンプカーが通って行った。かなりの雨だし、わりと交通量のある道路だから雪解けは早いので除雪自体はあまり意味がない。それどころじゃない。交差点にトラフィックサークルと言う減速させるための小型のロータリーがあるもので、押しのけた雪が角に積み上がってしまい、逆に立ち往生する車が増えてしまった。
雪に慣れていないせいで、(ワタシもそうだったけど)焦ってエンジンをガンガンふかしてしまう人が多い。オートマチックだとタイヤが高速でスピンして、車輪がはまっている雪の表面がつるつるになり、ますます動きが取れなくなってパニック状態になってしまう。今日は何度も窓の外でウンウ~ンとエンジンをふかす音をがして、カレシが救援に出て行くこと3回。「はい、ハンドルをこっち(あっち)へ切って、車輪をまっすぐに。アクセルは軽く踏んでね。はい、せ~の!」てな具合でけっこう手際よく指示を出して、車を押し出してやっている。雪はもうそれほどないから、ふつうの前輪駆動の乗用車なら何度か力一杯プッシュするだけで比較的簡単に脱出できる。
ときには歩いて下校中のカレッジ学生もおしくらまんじゅうに加わって、見ているとなかなかいい光景なんだけど、足元の悪い雪道でエンジンのかかっている車を押すのはきわめて危険なことで、焦っているドライバーが前進と後退を間違えたりしたら大怪我をしかねない。そのあたりはどうやら数年来のボランティア教師の経験がものを言っているらしく、びっくりするような大きな声で諭すように指示を出している。それにしても、この3週間ずいぶん「よきサマリア人」をやったねえと言ったら、「ボクだって困ったときに助けてもらいたいからね」とカレシ。うん、カレシが助けてあげた人たちも、きっとどこかで困っている人を見たら手を貸してあげると思うよ。
クリスマスには北極より雪があったというビクトリアで気温はプラス10度。気象衛星の映像を見ると、南西から延びて来る巨大な雨雲はまぎれもない「パイナップル特急」だ。ポーチの温度計の針も日が暮れてもまだじわじわと右回り。どんどん暖まっているということだろう。大雪警報の連続から一転して今度は大雨警報発令中。市役所は雪に埋まった市内に4万ヵ所ある雨水渠の排水口の除雪にスタッフを総動員。我が家の外にある排水口は、カレシが雪を除けて、パットが水の流れ道を作ったけど、様子を見に行ったら急流のような勢いで水が流れ込んでいた。バンクーバーの予想雨量はなんと70ミリというから、雨水渠が能力オーバーで洪水なんてことにならないといいけど・・・
一難去って・・・
1月7日。あまりひどく降っていたようには見えなかったけど、郊外はほんとうに60ミリとか70ミリとかいうすごい雨が降ったらしい。道路が崩れたり、深い水たまりができたりして通行不能になったところがあるし、詰まった雨水渠が文字通りパンクして水が噴出したところもあるそうで、一難去ってまた一難のてんやわんやの状態には変わりはない。河川の水位上昇で注意報も出ているらしい。まだこれから朝までに30ミリくらい降るというけど、もういいんじゃないかと思うなあ。
道路状態は十分に平常に近づいたと判断して、エコーで買出しに出かけた。3週間の冬眠から機嫌よくお目覚め。モールまで行ってみたら、同じようなことを考えた人が多いと見えて、週の中日の午後なのにけっこう混んでいる。まだ「店員募集」の張り紙や看板を出しているブティックもけっこうあって、「稀代の不況」ってどこの話なんだと思ってしまう。(不動産の相場が3割も急落したというから、たしかに不景気なんだろうけど、どうもまだ1982年の大不況のときのような深刻さがない・・・。)野菜をどんと買い込んで、スーパーでもカートでどんと買い出し。かなりの金額になったので、レジの人が「きのうだったら10%割引になったのにねえ」と残念がってくれた。
兵糧倉がいっぱいになったところで、さて、仕事。期限は明日の午後というのに、のっけからすごい悪文に出くわして、さっぱり進まない。なにしろ、「第1条」なもので、いろんなことにいちいち「以下何とか」という括弧の断り文が付いていて、それでなくても読みにくいのに、その括弧の中にさらに括弧で「以下何とか」と入っていたりするからよけいにややこしい。「本書は」で始まって「。」に到達するまでに何と660文字もある。原稿用紙なら1枚半以上という、ひと息で読もうとしたら酸欠になりそうな長さだ。おかげで、区切りになりそうなところで改行したり、括弧文を外してみたりの悪戦苦闘で、全文を解読するのにふだんの4倍もの時間がかかってしまった。さすが饒舌のワタシも開いた口がふさがらない。この後まだ1万5千文字もあるぞ。あ~あ・・・
午後9時。かなりの雨の音がする。窓の外を見たらすごい濃霧。雨と霧が同時なんて見たことがないぞ。温度の上がり方が急すぎるのかな。けさ起きたときは3度だったのが日が暮れる頃には6度になっていた。愛用の天気予報サイトを見ると午後9時現在で「気温8度、湿度100%」。う~ん、ほんとは湿度150%くらいだったりして・・・
結婚て何なんだろう
1月8日。ああだこうだと愚痴を言いながら、括弧の中にまた括弧の仕事をやっつけて納品。パンパンと手を打って、厄払い。やれやれ。それにしても、どうしてまたこう次から次と仕事が飛び込んでくるんだろうなあ。それも金融関係のでっかいのばっかり。不景気が世界に蔓延しつつあるんじゃないの?カレシは「ノーと言えばいいだろう」というけど、ごひいき筋にそんなつれないことができますかって。
アメリカで、重い腎臓病の奥さんに腎臓をひとつあげた夫が、奥さんの不倫で離婚することになって、「腎臓を返せ」と訴えていると話題になった。腎臓を返したら、新たに移植するか透析を続けない限り奥さんは死ぬ可能性がある。それでも「返せ」というのは、憎悪の感情には止めどがないとういことなのかな。ほんとうに、結婚て何なんだろう。だいたい、人間は何のために「結婚」するんだろうな。ワタシはてっきり「恋愛」の延長線上に「結婚」があるんだと思っていたけど、どうも必ずしもそうではないらしい。小町を見ていると、「恋愛と結婚は別」という意見がけっこう多い。結婚は「(自分の?)生活」なんだそうで、生活するにはお金がいる、だから相手の収入は重要な条件という流れになるらしい。まあ、恋愛と結婚が別ものだと思うから、並行処理ってこともありなんだろうなあ・・・
自分が生まれ育った国の人と結婚してもストレスが多いのに、小町に尽きることなく出てくるのが国際結婚女性の悩み。言葉の壁、文化の壁、人種の壁のせいで、何もかもいや・・・。「安易に国際結婚して後で泣く日本女性が多い」と言われても、たしかに「紅毛碧眼人と結婚して、外国暮らしをしたい」と「安易に」結婚する人もいるんだろうけど、「国内結婚」の方が、条件がいいとか、年齢的にもう次のチャンスがないとか、まるで「結婚」そのものが目的のようで、あんがい安易なところがありそうに見える。ふむ、だから恋愛と結婚は別なのか・・・
まあ、結婚が安易だったか周到だったかなんて、本人にしかわからないこと。「こんなはずじゃなかった」と泣いている人に「結婚する前にわからなかったの?」なんて言っても救いにはならない。マゾでもなければ、今どきの若い人は苦労するとわかっている結婚なんて初めっからしないでしょうが。小町にも「好きだけど、○○が・・・」と躊躇している人がけっこういるし。まあ、人生には、諸条件を検討して、周到に準備して、石橋を叩いて最善の決断をしたつもりでも、実際にやってみないとわからないことはごまんとあるから、その点では、うまく行かなくて失敗して泣いている人は少なくとも「やってみた」勇敢な人なんだと思う。
ワタシだって、いろんなことをとにかくやってみて、みごとに失敗して、満身創痍とまではいかなくても傷だらけ。だから、やってみる勇気のある人たちに共感するし、失敗してもそれを学習のチャンスにして次の成功につなげようとする人はえらいと思う。失敗は成功の元と言うけど、失敗してみて初めて成功したときの感動がわかるんじゃないのかな。いわゆる「負け組」というのは、自分の失敗から何も学ばずに他人のせいにしては同じ失敗を繰り返す「懲りない人たち」や、「マニュアル」と「保証書」が付いて来ないと不安で動けない臆病な人たちのことじゃないのかなと思うんだけど、人間の適応能力や学習能力は千差万別。結婚て何なんだろうという話からだいぶ反れたけど・・・
家なき人たち
1月9日。週末はずっと雨の予報。まだまだかなりの量が降るらしい。郊外のカレシの祖父母の養鶏農場があったチリワックというところでは浸水した家が何十戸もあって、肥やしなどに汚染されて、水が引いてもすぐには戻れないらしい。テレビニュースには、建物が湖の中の島のように孤立した中をカヌーを漕いで行く人の姿が映っていた。母なるフレーザー川流域のチリワックはメトロバンクーバーの胃袋を支える肥沃な農業地帯。土地が肥えているのは大昔から川が氾濫して栄養素を蓄積してきたからなんで、元から洪水の起きやすい低地なのだ。1948年の初夏(カレシの未来のお嫁さんが太平洋の向こうの日本で産声を上げて間がない頃)に起きた大洪水はカナダの歴史上2番目の規模(カナダ史上最大の洪水は同じフレーザーバレーで1894年)だったそうで、冠水面積は約200平方キロというから、東京23区の三分の一、大阪市なら9割が水浸しになったのと同じくらい。
カナダ統計局は今日、カナダの12月の失業率が6.6%になったと発表した。予想された通り、製造業が集中するオンタリオ州は7.2%、ケベック州は7.3%とアメリカ並みの水準になっている。BC州は5.3%でまだましな方か。全国最低のアルバータ州は高まっても4.1%というから羨ましい。失業が増える中で55才以上の雇用数が増えたそうだけど、同時に仕事を探す人も急増して、この年齢層の失業率は5.6%に跳ね上がった。でも、カナダは所帯を持つカップルの7割か8割が共働きで、両方がフルタイムの場合が多いから、二人揃って失業しない限りはなんとか不況を乗り切れるだろうと思う。
そんなふうに思うのは、日本で職を失い、住むところも失った派遣労働者の中に40代や50代の男性がかなりいるように見えたから。ふつうなら家庭を持っている年代なのに、ひとりぼっち。家族はどうしたんだろう。この人たちは結婚しなかったんだろうか。労働者の4割近くといわれる不安定な「非正規雇用」だったから結婚できなかったんだろうか。ふつうに結婚して子供もいたけど、会社が倒産したりして失業したために家族が離散してしまったんだろうか。生活できないからと奥さんに離婚されたんだろうか。転職、転職と軽く言うようになったけど、それはきっとホワイトカラーの世界の話じゃないのかな。一生懸命に働いて来て身の回りのものがバッグひとつに収まってしまう人生なんてさびしすぎる。
ちなみに、東京の隅田川河畔のホームレスの人たちに10年以上も毎週食事を配って来た慈善団体に東京都が中止命令を出したそうな。その理由というのがすごい。付近の学校に通学する子供たちが食事をもらいに来るホームレスと遭遇するのが心配だからという親たちからの苦情。まさか「臭いものには蓋」、「醜いものは見たくない」式の美意識が苦情を言わせているわけではないだろうなあ。だけどなあ・・・
ふところ具合、おなか具合
1月10日。え、また雪混じり?恐怖の白い粉だ、もう。予報は「高台ではみぞれも」と言っていたから、我が家はその「高台」になるわけか。そういえば、家から2ブロックも行けば急に「坂道」と言う感じになるけど、標高は50メートルもあるかなあ。まあ、でも白いものが混じった雨がぼたぼたと落ちてくるから、天気予報における「高台」ってことなんだろう。それにしても、よく降るなあ、この雨。さすがのバンクーバーっ子も、3週間も雪と悪戦苦闘したのを忘れたかのようにうんざりした顔だから、げんきんなもの。
今日はほぼ1ヵ月ぶりにディナーにおでかけ。大雪に閉じ込められて、レストランもお客が来れなくなってかなりの被害を受けたらしい。なにしろ、除雪されて車が通れる状態になってもその車を止めるところが雪に埋まったままだからどうにもならない。周辺の住人が長靴で歩いて行けるカフェのようなところはいいかもしれないけど、ドレスアップして行くようなところはすぐ前で降りてヴァレに後を任せることさえままならないから、みんな窓の外を見て、ダメだ、やめとこ・・・。
まあ、久しぶりのおかげかいつもより気分をわくわくさせながら東条さんのところへ出かけた。最近はとみにサーバーの質が向上したように思う。値段が高い分おそらく時給も高めだろうから、ワーホリを使うにしても厳選できるのかもしれない。物腰から見てローカルではないとわかる人とでも、英語で普通に客とサーバーの「おしゃべり」が成り立つから妙に異国にいる気がしなくていい。カレシはサービスが「unctuousだ」と評するけど、日本料理店で根っからの日本人が根っからの日本式でやっているんだからってことでいいじゃないの。
いつもの「おまかせ」を頼んで、フロアを仕切っているらしい、着物姿の陽気なアヤコさんに「and up」のレベルになると皿数が増えるのか食材の質が上がるのか聞いてみたら、「両方よ」という返事。つまり、皿数が決まっていなくて、寿司屋のカウンターのように満腹になったらお勘定ということらしい。いつか懐具合がうんとご機嫌なときに試してみたいもんだ。アヤコさんはまた「前も同じおまかせだったでしょ」と来る。何度同じでもおいしいと思うからちっともかまわないんだけど、どうやら内容が同じだと文句を言う人がいるらしい。よそのくるくる変わる「お味見メニュー」に慣れてしまったからかなあ。結局は、シェフに違うものを作ってもらったようで、特にナミガイの手巻きは絶品。生で食べたのは初めてだけど、こりこりした歯ごたえが何とも言えなかった。うん、やっぱりおいしいものを食べるとおなかも心もハッピー。ああ、満足、満足・・・。
英語のニュースサイトにオーストラリア政府から勲章をもらったという日本人シェフの話が載っていて、調べてみたら、値段はお高いけど「せっかくだから」と思い切れなくはないレベル。予約が1ヵ月前にはいっぱいになるとあって、カレシがさっそくシドニーまで電話してみたら、予約受付の専門部署があって日中のビジネス時間しか開いていないというのでびっくり。「なんだか鼻がどえらいほうに向いてるなあ、ここ」とカレシ。まあ、世界のベストレストラン50店とかに入っているというから、そんなもんなんじゃないの?やめとくか?うん、やめとこ・・・
半径5メートルの陰陽論
1月11日。まあまあの日曜日。適当にサボっているうちに、また仕事がだんだん詰まってきた。日本はまたハッピーマンデーとやら言う三連休ということで、いつもの週末仕事と違って1日余裕があるから、その分だけよけいに「まだ大丈夫」という気分になってしまうんだろうなあ。考えてみたら、前回燃え尽きてしまってから10年。まあ、このだらけ気分が一種の燃え尽き症候群だとしても、日常はけっこう平穏で、精神的なプレッシャーは特に感じないほど低くなっているから、まあ、納期さえすっぽかさなければ、気にすることはないか。
読売新聞のサイトに失業した派遣労働者たちの再就職が「心の壁」で難航している場合があるとう記事があった。求人倍率の高い業種はけっこうあるのに、今までと同じ業種にこだわる人がけっこういるらしい。選ばなければ仕事はあるはず・・・そうなんだけど、現実はそんな簡単なものじゃないだろうなあ。日本には「年齢主義」がまだ厳然としているし、資格や経験がなければできない仕事もあるし、人間の性向はそれぞれだから得手、不得手というものもある。特に失敗に寛容でない社会であればなおさらのこと、未知の業種に踏み込むのは躊躇われるかもしれない。数字だけを見て「選り好みをするな」と叱咤するのは簡単だけど、そういう人たちは、もしも自分が失業したら選り好みをせずに何でもやるよ!と断言できるのかなあ。
ネットだの何だのでいわゆる「ジョーホー」が玉石混交で溢れかえっていることへの反動なのかもしれないけど、どうもこの頃は「自分の認識=世間の常識」という思い込みの強い人間が増えているような気がする。なんでも今「半径5メートル」という言葉がはやっているそうで、主婦の日常をテーマにした歌に始まったらしい。半径5メートル「以内」がその人の宇宙だとしたら、なんだか萎縮したようで、宇宙は果てしなく広いのになあと思ってしまう。だけど、それはワタシがそう思うだけかもしれなくて、ひょっとしたら自分の五感で直接確認できる範囲の宇宙が快いということかもしれない。
この宇宙はあらゆるものがダイコトミーなんだとワタシは考える。東洋の陰陽の思想もそうだけど、何にでも2つの面があって、だけども宇宙の中にいて、外から客観的に見ることができなければどっち側が表でどっち側が裏かなんてことはわからない。でも、裏がなければ表は存在しないし、逆もしかり。でも、いつのまにか陰=悪、陽=善という思想にすりかわってしまったようなのはどうしてだろう。陰陽では「過去に向かう精神性」が陽で、「未来へ向かう精神性」は陰ということになっているから、そのまま善悪論に置き換えると、「過去」と取り組むことが良いことで、「前向きであること」は好ましくないということになって、「過去のことは水に流して忘れる」思考とは相容れなくなるんじゃないのかなあ。
たしかに「善と悪」は明快でわかりやすい区分だろうけど、陰陽を表す太極図の白と黒の境界線は直線じゃないし、白の中には黒い点があり、黒の中には白い点がある。絶対的な白も黒もないから、自己の人生哲学(価値観)に基づいて最善と思われる判断をするしかない。ふむ、よせばいいのに、軽率なイヴと軽薄なアダムが知恵のりんごを食べたてしまったばっかりに、人間として生きることがなんとややこしいことになってしまったことか・・・
冗漫は枝葉末節尾ひれつき
1月12日。雪もほとんど消えて、4週間ぶりにシーラとヴァルが掃除に来てくれた。前回は、まだ道路には雪道に深いわだちができていたし、路上駐車は無理ということで、「臨時休業」にしてもらったから、ものぐさな極楽とんぼ夫婦の家はきっと2倍の汚れだっただろう。(とんぼは仕事をして、食べて飲んで、寝るだけの毎日だった・・・はホントかなあ)
雨の方もやっと降り止めになったのか、今週の天気予報はお日様マーク。気温は9度くらいまで上がるらしい。地面も何もとにかくいったん乾かさなくちゃね。夕方になってまた霧が出てきて、その中でしとしとと霧雨。外へ出ると、肌寒いのにじと~っとした感じがする。湿度は93.3%だから、この前の100%のときには、空中でげんこつを作ったら水が滴り落ちてきたかも。日本の梅雨の季節の湿度が100%あるのかどうかはわからない。だけど、あったとしても、気温がうんと高いときと、やっとプラスの時とでは肌での感じ方は違うだろうな。家の中は暖房が入って乾燥がちだから、加湿器代わりにちょうどいいのかもしれないけど。
ひと仕事やっつけて送ったら、「ファイルが1個抜けてま~す」。あちゃ、見落とし。半ページ程度だったのでその場で処理できたからいいけど、これ「senior moment(ちょいボケ)」じゃないだろうな。ふむ、なんか先が思いやられるなあ。猛ダッシュで片づけて送り出したと思ったら、今度は別方向から「追加で~す」。あちゃ、こっちのファイルはどんどんでかくなる。そんなになんだかんだとだらだら書き足すなよ~。ほら、「簡潔は機知の真髄、冗漫は枝葉末節よけいな飾り」というでしょうが。大臣のポローニアスがハムレットのママに「若殿は気が触れておじゃりまする」と言ったときの前置きのせりふだけど、ええっと、誰の話をしていたんだっけ・・・?
忙しくしなければならないときにいつも大賑わいの小町を通りかかってしまうと、おもしろすぎてつい仕事そっちのけで井戸端に座り込んでしまうから困る。「私の周りにはそんな人いません」という、「ありえない」の変形と思われる表現が出てくると、「おいおい、トピ主はいるっていってるじゃん」。某元総理大臣の「私はあなたとは違うんです」の変形のようでもある。人さまの悩みをおもしろがるのは良くないことだけど、だいたいが「なんでそれが悩みなの?」と言いたいような、あまり考えなくても答が出そうな「悩み」が多いから、青空スタンドから野次を飛ばしても実害はなさそう。それにしても、狭苦しそうなネット裏には思い込みと思い入れが人一倍強そうな人たちが大勢いて、監督になった気分で指示を飛ばしているのに、風通しも見通しもいい青空スタンドはなぜかいつもガラガラの感じなのはどうしてだろう。
ん、仕事のほう、どうなってんの・・・?
極楽とんぼ亭和風ツナステーキ
1月13日。カレンダーを見ただけで頭痛がしそうな仕事の積みあがりよう。 こんなときはカレシの英語教室のスケジュールとすり合わせするのもおっくうになることだってある。
それでも、せっかく前の夜にカレシがオヒョウを使ってセヴィチェに挑戦したもので、こっちも解凍も調理も簡単な魚介類を、ということになってキハダマグロのステーキにした。
刻んだしょうがとネギを醤油とお酒にまぜて、ステーキの焼き上がり直前にかけまわした。 残っていたひとかけの大根をおろして、ソースの塩気抜き。 生しいたけはステーキの横でいっしょに焼いてしまった。 こういう「和風」は手間も時間もかからないからいたって楽。
カレシには初挑戦の魚の扱い。 オヒョウをトレイから取り出したら、「紙がくっついていて取れない」という。 吸水紙は表面はビニールだからそんなはずはないと思って見たら、それは「魚の皮」よ、あなた。 剥がした方がいいかとテープでも剥がすような調子で聞くから、皮を下にしてナイフを入れて剥がしたらいいよと指導したのに、小さなペアリングナイフで皮を引っ張りながらこしょこしょ。 なるほど、そういう手もあったか・・・。
オヒョウを漬け汁から取り出して、レシピに「よぶんの漬け汁を取り除いて、ソースにfold inする」とあるけど、どうすることかと聞くから、さくさくとすきこむように混ぜるのと言ったら、「ソースが緩んでしまわないかなあ」と。 あの、余分の漬け汁を落としたオヒョウをソースにさっくり混ぜ込むって書いてあるんじゃない?カレシは説明を読み直して「あ、そうだ」。あのねえ、英語ってあなたの母語じゃなかったの~?
それでも、せっかく前の夜にカレシがオヒョウを使ってセヴィチェに挑戦したもので、こっちも解凍も調理も簡単な魚介類を、ということになってキハダマグロのステーキにした。
刻んだしょうがとネギを醤油とお酒にまぜて、ステーキの焼き上がり直前にかけまわした。 残っていたひとかけの大根をおろして、ソースの塩気抜き。 生しいたけはステーキの横でいっしょに焼いてしまった。 こういう「和風」は手間も時間もかからないからいたって楽。
カレシには初挑戦の魚の扱い。 オヒョウをトレイから取り出したら、「紙がくっついていて取れない」という。 吸水紙は表面はビニールだからそんなはずはないと思って見たら、それは「魚の皮」よ、あなた。 剥がした方がいいかとテープでも剥がすような調子で聞くから、皮を下にしてナイフを入れて剥がしたらいいよと指導したのに、小さなペアリングナイフで皮を引っ張りながらこしょこしょ。 なるほど、そういう手もあったか・・・。
オヒョウを漬け汁から取り出して、レシピに「よぶんの漬け汁を取り除いて、ソースにfold inする」とあるけど、どうすることかと聞くから、さくさくとすきこむように混ぜるのと言ったら、「ソースが緩んでしまわないかなあ」と。 あの、余分の漬け汁を落としたオヒョウをソースにさっくり混ぜ込むって書いてあるんじゃない?カレシは説明を読み直して「あ、そうだ」。あのねえ、英語ってあなたの母語じゃなかったの~?
まあ、多少の紆余曲折はあったものの、できあがったセヴィチェはトマト味に適度のスパイスが効いていておいしかった。カレシはご機嫌で教室へでかけて、めでたし、めでたし。
ご当地英語
1月14日。久しぶりに「晴れ時々曇り」のマークがずらり。てんわわんやだった「冬狂想曲」も、芝生のそこここに残った薄汚れた雪の塊が名残をとどめるだけ。神さま、どうかこのまま春になりますように。夕べはかなりの濃霧だった。水曜日は飲料水の配達の日だからと、空きボトルをゲートのところへ置きに行ったら、なにやら肩をトントン。思わず背筋がぞぞ~っ。だって、顔の周りに見える霧が新しいLED街灯の色でなんとも不気味に見えるんだもの。おまけに午前3時。でも、落ち着いてよ~く見たら庭のレンギョウの枝。この季節、葉がついていないから骸骨の指みたい。おい、ハロウィンじゃないんだからさっ。
どんどん大きくなっていたファイル、追加ごとに文字の色が違ってレインボーカラー。原稿を書いたのは複数の人たちらしいけど、う~ん、この人たちの思考もレインボーカラー。日本語はSOV言語だから、結論が最後に来るのはしかたがないとしても、そこに到達するまでにあまりあっちこっちと寄り道されると、SVO言語で考えているこっちは息切れがする。いつものステップでは、最初の名詞を主語と見て訳しておいて、次に末尾の結論の部分を訳し、それから間にごちゃごちゃと詰め込まれた情報を整理するけど、あれもこれもとにかく詰め込む人が多くて、こっちは迷子にならないのが精一杯。迷宮の中で切り口の主語が結論の主語でなくなってしまったら、振り出しに戻るしかない。はあ、なんだかすごろくをやっているような感じだなあ、これ。
レインボーファイルを片づけたのは期限の30分前。その前の前にやった別のところのファイルがチェックを終えて戻ってきた。フィードバックはありがたいんだけど、本原稿の日本語への思い入れが強いのか、関係代名詞を「~であるところの」と訳し込んだ文部省英語とまではいかなくても、日本語が透けて見える「翻訳調」に変身していたりする。それも、英語しか読めないカレシが「何だ、これ?」というのから、「言ってることはわかるけどなあ」というのまで、まさに十人十色。もっとも、日本語の表現に忠実に訳すか、原文の意を汲んで英語らしい表現で書くかは諸説紛々で、翻訳とんぼとしては、日本語訳に「日本語らしさ」を求めるのであれば、英語訳に「英語らしさ」を求めてしかるべきだろうと思う。
でも、チェックするのは日本に住んでいて、日本語で考えて、日本語をしゃべっている日本人だから、「英語らしさ」まで考えていなくてもしょうがない。だけど、日本語の情報を英語に訳すのは、その情報を日本人が英語で読むためじゃなくて、日本語を知らない英語人に読んでもらうのが目的じゃないのかなあ。まあ、たとえ、ない時間を費やして説明して理解されても、どうせ発注元の「英語ができる人」が、「この翻訳者、英語がわかってないなあ」とぼやきつつ、日本語らしく「修正」するんだろうな。最終稿が納品されて契約が完結した後は「どうぞお好きなように(自己責任でね)」がとんぼの基本方針だけど、日本人の「英語」への思い込みは想像以上に凄まじいものがあるらしい。もっとも、英語ってのはまるで軟体動物のような不思議な言語で、広まった先々で「ご当地英語」に変身するらしいから、「日本英語」があってもおかしくないか・・・
霧の中の極楽とんぼ
1月15日。相変わらず日が暮れると霧がじわじわと濃くなるなあ。バンクーバーの上空は大気の流れが悪くなって、上空と地上で温度が逆転する現象が起きているんだそうな。うちのあたりは日中でもプラス5度がやっとなのに、ノースショアの標高約千メートルレベルのスキー場などでは15度もあって、暑いからと半袖姿になっている人たちもいる。高台から撮った写真を見ると、ホイップクリームのようなふわりとした白い霧から木々や高層ビルが頭をのぞかせていて、「絵のようだ」としかいいようのない、なんとも幻想的な風景。霧の中で育ったワタシはちょぴり原風景への郷愁みたいなものも感じてしまうから、やっぱり霧が好きなんだなあ。(そういえば、子供の頃に「霧の中のジョニー」というヒット曲があった。「Johnny remember me」という女の声がまるで遠く霧の中にいるみたいに聞こえる、あれ・・・)
ベッドの中に8時間はいるのになんだか寝たりないような、頭が重いような感じで起きて、それでも今日中が期限の仕事の仕上げにかかった。日本は金曜日だから、夜中を乗り切れば日本は週末の安全圏。今週はぶっ通しで極端にうねうねと回りくどくて、いつまでも「。」にたどり着けない文書と格闘して来たもので、脳みそがぐしゃぐしゃになっているのかもしれない。眼精疲労のひんがら目と液状化した脳みそ・・・うは~。
時計をにらみながらキーを叩き、電子レンジでちゃっちゃと作った思いつきミートローフをカレシに食べさせて英語教室に送り出し、またキーボードも壊れんばかりにキーを叩いて、ぎりぎりに送り出してため息ひとつ、と思ったのも束の間。ふと思いついて調べてみたら、マニラは東京より1時間早い時間帯ではないか。あちゃあ、1時間遅れだった。まいったなあ、ほんと。でも、校正者が鉛筆削って待っている翻訳会社と違って、先はメーカーだからかなり大目に見てくれるのでありがたい。それにしても、あっちこっちとてんでに時差が違うところの人たちと仕事をしていると、体内時計まで狂ってしまいそうな気がするなあ、ホントに。
ニューヨークのハドソン川に不時着した旅客機。パイロットの腕のすごさのおかげとしかいいようがない。相当のスピードで降りてきて、降下角度が少しでも鋭角だったら頭から水中に突っ込む危険だってあったのに、まるでミズスマシみたいな華麗な着陸。空軍時代から合わせて40年も飛んでいると言うこの機長には最高の勲章をあげても足りないな。水上の離着陸は15年くらい前に出張通訳にでかけて2度経験した。乗ったのは林業会社が持っていた、なんと1942年製というグラマングース。でかいプロペラエンジンを2基おでこにつけたような飛行艇で、いかにも重たそうなしろもの。離陸用の水路に下りたとたんにドッボンと窓の上まで沈んだのに肝を潰したけど、細長い湖の真ん中に着水したときは、一瞬潜水艦に乗っているのかと思ったくらい深く沈んで、そえrからすい~っと浮き上がった。こういう冒険的な思い出はいいんだけど、不時着なんて怖い思い出は誰だってほしくないよなあ。でも、乗員乗客が全員無事でほんっとに良かった。機長に拍手!