尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ヴィスコンティ監督の「異邦人」ーカミュ「異邦人」をめぐって①

2021年03月12日 20時40分17秒 | 〃 (外国文学)
 柳町光男監督に「カミュなんて知らない」(2005)という映画がある。2005年のキネ旬ベストテンで10位に入っている。立教大学で撮影されているので、僕には懐かしい風景がいっぱい出て来る。今はなき「ここのつ」という蕎麦屋の店主役を柳家小三治がやっているのも面白かった。ところでユーロスペースでこの映画を見ていたとき、僕の後ろに座っていたカップルが「カミュって誰だっけ?」「ほら『変身』を書いた人じゃない」と言ってるのを聞いてしまった。ふーん、ホントに「カミュなんて知らない」んだなあと思ったものである。

 その映画は大学生が映画を製作する過程を映画にしている。テーマは少年犯罪で、動機を問われて「人を殺してみたかった」と答えた高校生が起こした実在の事件がモデルになっている。つまり、動機を問われて「太陽のせい」と答えたアルベール・カミュ異邦人」の主人公「ムルソー」こそが「知らない」と言われる中身だったのである。日本で起きた少年による「不条理殺人」を媒介にして、元祖不条理殺人の「異邦人」が思い出されているわけだ。

 「カミュなんて知らない」はずが、2020年になって世界的にカミュが思い出されることになった。パンデミックの中で「ペスト」が世界中で改めて読まれ始めたのである。僕は「異邦人」も「ペスト」も中学生の時に読んでいて、それ以来読んでない。その当時の「ペスト」は上下2分冊になっていて、字も小さいから、買い直して僕も読もうと思った。他の本を先に読んでいて、まだ積まれているけれど。この機会にカミュの他の本もまとめて読もうかと思って、まず「異邦人」を読んでみた。そうしたら問題がいろいろと出てきて、何回か掛かりそうな感じ。

 ところでルキノ・ヴィスコンティ監督による映画「異邦人」(1967)がデジタル修復されてリバイバル公開されている。ヴィスコンティ監督は1976年に亡くなっているが、今も人気が高くほとんどの映画がリバイバルされている。その中で「異邦人」と「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)だけが全然見られなかった。そこでまず映画について書きたい。映画「異邦人」は、僕は昔テレビで見た記憶があり、またどこかで映画も見たと思うが16ミリだったかもしれない。

 今回何十年ぶりに原作読んで、映画を見た。映画は基本的に「原作の完全映画化」だ。大長編の映画化だと、エピソードや登場人物を多少カットしないと時間が長くなる。ヘミングウェイ「殺し屋」みたいに短すぎると、映画化の際にストーリーを膨らませる。しかし「異邦人」程度の長さなら、まあほぼすべてを映像化出来る。しかし、もちろん違っていることもある。中でも最大の違いは、「ムルソーの名前」である。原作は一人称で描かれていて、ムルソーによる情報の取捨選択がなされている。その結果、ムルソー(姓)しか書かれていないという特殊な原作なのである。

 映画でも「一人称」の映画も存在する。しかし、映画には多額の資金が必要だから、有名な俳優をキャスティングしてヒットするようにする必要がある。客観的な描写にするならば、主人公に名前が必要だ。冒頭も違っていて、手錠姿で連れてこられ検事の調べを受けるところから始まる。その後、拘置所で名前が呼ばれるが「アルチュール・ムルソー」である。当初は英語版で公開されたからか、ウィキペディアには「アーサー・ムルソー」と書かれている。(今回はイタリア語版。)作者のアルベールと似ていて、アルチュール・ランボーも想起させるから、何か名前を付けるならふさわしい気がする。

 ムルソーはマルチェロ・マストロヤンニが演じた。1924年生まれだからムルソーには上過ぎるけれど、他には考えられないだろう。フェリーニの「甘い生活」で世界的スターになり、ピエトロ・ジェルミ監督の「イタリア式離婚狂想曲」ではアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。知名度と演技力から、他にはいないだろう。フェリーニ映画の印象が強いが、もともと戦後すぐにヴィスコンティに認められたという。ヴィスコンティの映画では「白夜」(1957)と「異邦人」しか出ていない。マストロヤンニが演じたことで、ムルソーが立派すぎてしまった感じはする。

 恋人というか「母の葬儀翌日に情交関係を持った」と非難されることになるマリーは、アンナ・カリーナが演じている。2019年に亡くなったアンナ・カリーナを思い出すときは、どうしてもゴダール作品になる。「女は女である」「女と男のいる舗道」「気狂いピエロ」などである。「異邦人」のことは忘れていたが、アンナ・カリーナだから原作以上に同情的になる。つまり映画は原作のエッセンスを改編した部分はないが、「不条理殺人」を犯したムルソーがいかに不当な裁きを受けたかという点が強調されている。今の僕の問題意識では、果たしてそれで良かったのだろうかと思う。

 原作をどう評価するかは後回しにして、それ以外の問題を先に書きたい。映画では「太陽のせい」をどのように描くか。ナイフに当たる陽光がムルソーの顔を照らす。そのギラギラッとした瞬間が心を狂わせる、と解釈できなくもないように。かつて黒澤明監督「羅生門」で、撮影監督の宮川一夫が木漏れ日を印象的に映し出した。「異邦人」の撮影は先月亡くなった名手ジュゼッペ・ロトゥンノである。撮影もあって、非常にうまく原作を映像化したなと感心した。

 どこでロケしたのかなと思って調べたら、昔の映画パンフの情報をネット上で紹介しているサイトがあった。それによると、アルジェリアの首都アルジェ、つまり原作通りだった。原作(1942年)から25年、独立戦争はあったものの当時のアパートなどがまだ残っていたという。独立当時のベン・ベラ政権は65年にクーデタで倒され、映画化時はブーメディエン政権だった。まだイスラム主義的な影響が強い時代ではないから、ロケが可能だったのだろう。今年公開された「パピチャ 未来へのランウェイ」に出て来るが、アルジェリアでは90年代に軍部とイスラム政党の間で激しい内戦があった。フランス人作家が書いた無神論者を描く原作は今では難しいのではないか。

 映画の前半は、細かく検討すると原作から抜けている箇所も多い。例えば、冒頭の取り調べシーンが終わると、ナレーションで「きょう、ママンが死んだ」と流れて、もう養老院のあるマランゴ行きのバスに乗っている。原作も説明が少ないが、映像だけだとさらに判りにくいから、時々ナレーションで説明される。原作ではアラブ人の姿がほとんど出て来ない。しかし映画のロケでは、否応なくアラブ人の姿がとらえられる。最初の方でムルソーが町を眺めて過ごす描写があるが、アラブ人は出て来ない。だが映像にはアラブ人が働いている姿が目に入る。「ムルソーが何を見ていないか」(あるいはカミュが何を書かなかったか)が映画で見て取れる。

 後半の裁判シーンでも原作では判らなかったことが判る。まず「陪審員」は全員が「高齢のフランス人男性」である。女性やアラブ人がいないのは予想出来るが、若い人もいない。傍聴者には女性もいるが、全員がフランス人である。「アラブ人殺害事件」を裁いたわけだが、一人も現地住民の傍聴者がいない。また裁判官が高いところにいるのは当然だが、検察官がその次に高く、弁護士は一段低いところにいる。(戦前の日本でも同様。)裁判官は弁護人の反対尋問を全然認めない。今ならこの訴訟指揮だけで、上訴審で破棄判決が出るだろう。

 ヴィスコンティは晩年に作った耽美的、頽廃的な「滅びの美」の印象が強くなったが、元々はミラノ公爵家出身ながら共産党員となって「赤い貴族」と呼ばれた。ネオレアリズモの旗手として、演劇や映画で活躍してきた。「異邦人」は原作をリアリズムで映像化した手際の良さは見事だが、原作を知っている人には、あまり刺激がない面もあるだろう。海外では映画賞などには恵まれなかった。日本では68年のキネ旬ベストテンで8位になっている。意外なことに、これが初のベストテン入選だった。以後はすべて入選し、「ベニスに死す」「家族の肖像」で2回ベストワンになった。「若者のすべて」「山猫」がベストテンに入ってないのはおかしいが、どっちも11位だった。
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