渋谷のユーロスペースで長編記録映画「陸軍登戸研究所」を見た。戦争の裏面を追求した映画で、人間ドラマの面もあり、多くの人に見て欲しい映画。2012年度キネマ旬報文化映画ベストテン第3位。ただし時間が3時間もあり、ちょっと長いなあというのが正直な感想でもある。

「陸軍登戸研究所」は川崎市多摩区(現在の地名)にあった陸軍の秘密戦、諜報戦のための研究所である。「登戸」は「のぼりと」と読む。広大な敷地を持っていて、現在は明治大学生田キャンパス(農学部)になっている。生田キャンパスのあちこちに当時の建物が残っていたらしいが、だんだん取り壊されていき、保存運動が起こった。2010年に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として整備され、平和教育に役立つ場所として保存・活用されている。
(登戸研究所資料館)
映画はまず研究所設置の時代背景と研究所の機構を説明する。第一次世界大戦以後、戦争の歴史は新しい段階、つまり「総力戦」の段階に入った。科学力が戦争を決める時代、いわゆるABC兵器(A=原子力=アトミック、B=生物(細菌)兵器=バイオ、C=化学(毒ガス)=ケミカル)の時代である。日本でも毒ガスや細菌兵器が開発され、日中戦争で実戦に使用された。
しかし、ここで研究されていたのは、もっとSF的ともいうべき奇想天外な兵器が多い。例えば「怪力光線」とか「スパイ用カメラ」などである。「怪力光線」は電子レンジの兵器化みたいなもので、動物段階ではある程度実現していたらしい。また青酸系の新毒物も開発され、中国で捕虜などに「人体実験」したという。こういう恐るべき開発をしていた場所なのである。そういうことが数々の証言で明らかになっていく。一番「実用化」されたのは「風船爆弾」だろう。何しろ関係者がいろいろいて、この映画でも半分ぐらいは風船爆弾関係の証言である。簡単に言えば巨大な風船を作るのである。日劇(今の有楽町マリオン)や国技館、東京宝塚劇場なんかは風船爆弾製造用に軍に接収されてしまった。
(風船爆弾の説明)
和紙をコンニャクのりで貼りつけていくのである。これは女学生の過酷な労働が支えていた。風船爆弾を放すのも大変で、事故で死者も出た。偏西風に乗せてアメリカまで届けようという作戦だが、どんどん上に上ると気温が下がり風船もしぼんで下に下がる。そうすると載せてあったバラストを捨てて上昇する装置が付けてあった。それは当時の最新技術だったそうで、ただの巨大風船ではなかった。実際にアメリカに到達して死者も出た。唯一、アメリカ本土で住民に戦争犠牲者が出た。だけど、ただそれだけのことだ。秘密兵器だの、最終兵器だのというほどの「成功」でもない。ただ、原爆製造工場へ通じる送電線を切ったため、原爆の完成が3日遅れたという話である。
次に「成功」したのが、中国(国民政府)の贋札作りである。中国以外も作ったというが、一番の目的は蒋介石政権の経済かく乱である。これも関係者がたくさん出てきて、ずいぶんあけすけな証言をしている。技術の問題であること、直接に死者を出す作戦ではないことから話しやすいのかもしれない。香港占領後は、本物の印刷機を押さえたため、「本物の贋札」を作っていたらしい。戦後になっても戦犯指定はされず、かえって米軍に協力を求められたという。どうやら朝鮮戦争で、中国、ソ連、北朝鮮などの秘密書類(パスポートなど)を偽造していたらしい。
こういうような戦争裏面史が証言により次々と語られていく。もともとは監督の楠山忠之が日本映画学校で課題に取り上げたのをきっかけに、7年越しに取材を重ねた映画である。取材対象を見つけるのが大変だったと思う。「陸軍登戸研究所の真実」を書いた伴繁雄という当時の研究所で活躍した人物がいて、その妻が何回か取材に応じている。夫の中に過去に苦しめられる姿を見つめ、やがて本人の意識も変わっていく。そういうドラマが重い感銘を残した。若い学生が取材者として活躍していた。
僕はこの資料館を2010年に見学した。実際に見た感想としては、「これでは勝てない」ということだった。相手が原子爆弾を開発している時に、風船爆弾を作っても勝てるはずがない。勝ち負け以上に、世界と日本の間には「絶望的なズレ」があった。日本軍は「怪力光線」を「兵器」にすることしか考えなかった。しかし、米軍は第二次大戦中にレーダーを実用化した。日本も殺人光線を考えるヒマがあったら、レーダーの開発を進めるべきだった。このように「戦術」アップは考えても、「戦略的発想」がない。。今の続く日本に続く弱点を考えさせられた場所である。


「陸軍登戸研究所」は川崎市多摩区(現在の地名)にあった陸軍の秘密戦、諜報戦のための研究所である。「登戸」は「のぼりと」と読む。広大な敷地を持っていて、現在は明治大学生田キャンパス(農学部)になっている。生田キャンパスのあちこちに当時の建物が残っていたらしいが、だんだん取り壊されていき、保存運動が起こった。2010年に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として整備され、平和教育に役立つ場所として保存・活用されている。

映画はまず研究所設置の時代背景と研究所の機構を説明する。第一次世界大戦以後、戦争の歴史は新しい段階、つまり「総力戦」の段階に入った。科学力が戦争を決める時代、いわゆるABC兵器(A=原子力=アトミック、B=生物(細菌)兵器=バイオ、C=化学(毒ガス)=ケミカル)の時代である。日本でも毒ガスや細菌兵器が開発され、日中戦争で実戦に使用された。
しかし、ここで研究されていたのは、もっとSF的ともいうべき奇想天外な兵器が多い。例えば「怪力光線」とか「スパイ用カメラ」などである。「怪力光線」は電子レンジの兵器化みたいなもので、動物段階ではある程度実現していたらしい。また青酸系の新毒物も開発され、中国で捕虜などに「人体実験」したという。こういう恐るべき開発をしていた場所なのである。そういうことが数々の証言で明らかになっていく。一番「実用化」されたのは「風船爆弾」だろう。何しろ関係者がいろいろいて、この映画でも半分ぐらいは風船爆弾関係の証言である。簡単に言えば巨大な風船を作るのである。日劇(今の有楽町マリオン)や国技館、東京宝塚劇場なんかは風船爆弾製造用に軍に接収されてしまった。

和紙をコンニャクのりで貼りつけていくのである。これは女学生の過酷な労働が支えていた。風船爆弾を放すのも大変で、事故で死者も出た。偏西風に乗せてアメリカまで届けようという作戦だが、どんどん上に上ると気温が下がり風船もしぼんで下に下がる。そうすると載せてあったバラストを捨てて上昇する装置が付けてあった。それは当時の最新技術だったそうで、ただの巨大風船ではなかった。実際にアメリカに到達して死者も出た。唯一、アメリカ本土で住民に戦争犠牲者が出た。だけど、ただそれだけのことだ。秘密兵器だの、最終兵器だのというほどの「成功」でもない。ただ、原爆製造工場へ通じる送電線を切ったため、原爆の完成が3日遅れたという話である。
次に「成功」したのが、中国(国民政府)の贋札作りである。中国以外も作ったというが、一番の目的は蒋介石政権の経済かく乱である。これも関係者がたくさん出てきて、ずいぶんあけすけな証言をしている。技術の問題であること、直接に死者を出す作戦ではないことから話しやすいのかもしれない。香港占領後は、本物の印刷機を押さえたため、「本物の贋札」を作っていたらしい。戦後になっても戦犯指定はされず、かえって米軍に協力を求められたという。どうやら朝鮮戦争で、中国、ソ連、北朝鮮などの秘密書類(パスポートなど)を偽造していたらしい。
こういうような戦争裏面史が証言により次々と語られていく。もともとは監督の楠山忠之が日本映画学校で課題に取り上げたのをきっかけに、7年越しに取材を重ねた映画である。取材対象を見つけるのが大変だったと思う。「陸軍登戸研究所の真実」を書いた伴繁雄という当時の研究所で活躍した人物がいて、その妻が何回か取材に応じている。夫の中に過去に苦しめられる姿を見つめ、やがて本人の意識も変わっていく。そういうドラマが重い感銘を残した。若い学生が取材者として活躍していた。
僕はこの資料館を2010年に見学した。実際に見た感想としては、「これでは勝てない」ということだった。相手が原子爆弾を開発している時に、風船爆弾を作っても勝てるはずがない。勝ち負け以上に、世界と日本の間には「絶望的なズレ」があった。日本軍は「怪力光線」を「兵器」にすることしか考えなかった。しかし、米軍は第二次大戦中にレーダーを実用化した。日本も殺人光線を考えるヒマがあったら、レーダーの開発を進めるべきだった。このように「戦術」アップは考えても、「戦略的発想」がない。。今の続く日本に続く弱点を考えさせられた場所である。
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