尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中曽根康弘をどう評価するかー2019年11月の訃報①

2019年12月11日 22時43分27秒 | 追悼
 遅くなってしまったが毎月の訃報特集。11月は1面に大きく掲載される訃報がないまま終わると思っていたら、月末になって1面トップに元内閣総理大臣、中曽根康弘の訃報が報じられた。101歳。1918.5.27~2019.11.29。首相経験者で100歳を迎えたのは、敗戦直後に皇族内閣を組織した東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)だけ。(首相当時は東久邇宮稔彦王、後に皇籍離脱。)1990年に102歳で逝去。よって、中曽根康弘は首相経験者最高齢ではない。
(首相当時)
 内閣総理大臣をほぼ5年務めた。1982年11月27日から1987年11月6日である。もう30年以上も前だから、50代以下だとイメージが湧かないだろう。消費税問題の記事で書いたけれど、僕の中曽根首相に対する一番のイメージは「ウソをつかれた」という感覚だ。1986年に衆参同日選をやらないようなふりをして突如解散した。「死んだふり解散」というぐらい。そして「大型間接税は導入しない」と公約して、総選挙を経ないまま自民党の竹下内閣で消費税が導入された。選挙当時に中曽根首相は「私がウソをつく顔に見えますか」とまで演説していた。この公約違反が後の保守政治を大きくゆがめたと思う。

 今の安倍首相などは何を問われても逃げてしまう。臨時国会を開くように野党が要求したのに(憲法上、開会しないといけない)、それを無視し続けやっと開いたら審議をしないで冒頭で解散してしまった。それに比べたら、中曽根首相は国会でも堂々と答弁したとは言えるだろう。1983年の社会党石橋政嗣委員長との国会論戦は、戦後国会史に残る防衛論争だと言われる。前任の鈴木善幸が「日米同盟」と発言して問題化したが、中曽根は「日本を不沈空母にする」と発言した。

 恐らくそれ以前の保守政治家は「改憲して日本は日本軍で防衛をする」を考えていただろう。しかし、中曽根は「日米安保」を心から信奉していたのだと思う。「経済大国」になった日本に対応する「大統領型首相」を目指し、戦後保守政治の分岐点となった。中曽根ー小泉-安倍という長期政権の系譜の出発点である。だから保守の立場からは評価する人が多くなるが、反対側の立場からは「中曽根からひどくなった」ことになる。業績のように語られた「国鉄民営化」も、「総評解体」(国労つぶし、官公労解体)が目的だったことは、その後本人も認めていた。
(レーガン、サッチャー、中曽根)
 それはアメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相と軌を一にした、「新自由主義」の暴風の始まりだった。訃報ではほとんど触れられなかったが、教育分野における「臨時教育審議会」(臨教審)が教育の新自由主義的改革、「競争の教育」の出発点だ。これは文部省(当時)に置かれた正規の組織である「中央教育審議会」を飛ばして、首相直属の教育行政を進めるという端緒ともなった。「臨教審」答申は文部省に反対され実現しなかったと報道した新聞もあるが、それは間違い。短期的には反発されたが、長期的に見ればその後に段々と実現していったことが判る。

 ウィキペディアを見ると、臨教審答申は以下のようなものだった。
第1次答申(1985年)「我が国の伝統文化、日本人としての自覚、六年制中等学校、単位制高等学校、共通テスト
第2次答申(1986年)「初任者研修制度の創設、現職研修の体系化、適格性を欠く教師の排除
第3次答申(1987年)「教科書検定制度の強化、大学教員の任期制
第4次答申(1987年)「個性尊重、生涯学習、変化への対応

 これを見れば、教育関係者なら誰でも判る。第一次答申は「教育基本法改悪」「国旗国歌の強制」「中高一貫校」など、第二次答申が「10年研修」や「教員免許更新制」、第三次答申が「右派の教科書」「大学教育の競争的政策の数々」、第四次答申が「英語重視」「総合学習」「アクティブラーニング」につながる。その後の教育は臨教審路線の実現してゆく過程だったのである。まあ「保守」の側はそれぐらい長いスパンで日本の教育を変えてしまう計画を持っていたわけだ。
(100歳を迎えた中曽根元首相)
 もう一つ、どうしても銘記しておくべきことは、「原子力発電」の最大の推進者だったことだ。50年代初期、吉田茂内閣(自由党)時代、中曽根は民主党系の政治家で「保守合同」以前はほとんど野党だった。それなのに、1954年に野党議員として「原子力研究」のための予算計上を要求した。与野党を問わず、国会議員には出来ることだが、今は与野党共に予算には党議拘束がある。一議員として勝手に政府予算の追加を求めることは認めらないだろう。それを当選4回、34歳の議員(当時の所属は改進党)として通してしまう。これが日本の原子力政策のスタートだった。原発事故そのものはともかく、自民党政権の原子力政策に最大の責任を有する政治家だった。

 「民営化」の評価には触れる余裕がない。かつて「三公社五現業」と言われた政府所有の企業体は、ほぼすべて「民営化」または「独立行政法人化」された。(林野事業のみ国有。)このうち、三公社はすべて民営化された。まず1985年に「日本電信電話公社」が「NTT」グループに、「日本専売公社」が「日本たばこ(JT)」に変わった。そして1987年に「日本国有鉄道」が「JR」グループに変わった。この政策には功罪あると思うが、ここではもう書かない。

 なおエピソードとして有名な旧群馬3区の事情について。中曽根康弘に加え、福田赳夫小渕恵三と3人の自民党首相が同じ選挙区で当選を重ねた。福田赳夫は1990年に引退したが、後継の福田康夫も首相になったから4人の首相を輩出した選挙区である。定員4人で、もうひとりは社会党の山口鶴男で社会党書記長、総務庁長官(村山内閣)となった大物政治家である。1967年から1986年まで計8回の衆議院選挙で同じメンバーしか当選していない。中曽根は1947年から群馬3区で連続当選し、小選挙区制になった後は比例代表区で当選した。実に当選20回である。ただし福田赳夫と同選挙区で争った選挙では、4勝10敗と敗れることが多かった。
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