以前、勤務先の高校で生徒会誌をズラッと並べて振り返ったことがあるんだけど、現在では考えられない「時代相」がまざまざと見えてきて面白かった。中でも、1960年代初期の年間行事予定が掲載されていて、その中に「純潔教育」と書いてあったのには、心底ビックリした。「防災」だの「防犯」だの、行事予定に必ず載せて届け出なくてはいけない項目があるが、その時代には「純潔教育」が正規の教育課程として学校全体で行われていたのだ。
60年代初頭が一番「純潔」が叫ばれた時代だというのは、例えば藤井淑禎「御三家歌謡映画の黄金時代 橋・舟木・西郷の「青春」と「あの頃」の日本」(2001、平凡社新書)で指摘されている。学校現場では現実に行われていたのである。ここで「純潔」というのは、主に「正式な結婚前には性的な関係をガマンする」という意味である。もちろん、特に女性の「処女性」が尊ばれるわけだが、「男女同権」の戦後では男子の放蕩無頼もダメだという認識が強くなる。三島由紀夫原作、若尾文子、川口浩主演の映画「永すぎた春」では、知り合ってからもなかなか結婚しないカップルの話だろうと思っていた。でも、川口浩は現役の東大法学部生で、東大前の古本屋の娘若尾文子と婚約したが、卒業までの一年にいろいろあるという話だった。その間に性的関係は不可なので、その一年が「永すぎる」わけである。
こういう意識は今はすっかり変わってしまって理解しにくい。「あいつと私」(1961、中平康監督)は、慶應をモデルに大学生の青春を描くが、1学期終了前に学校の裏山でパーティ(というか学芸会のようなもの)が行われる。そこに「童貞と処女のままで9月に会いましょう」とスローガンが書いてある。そんな時代だったのである。もっとも「美人女子大生がキスしてくれる」(有料、キスは頬にする)とか「女子大生の逆立ち」(パンティが見える。終了後に男子学生からお金を取る)などの企画もある。ガチガチのマジメ企画ではなく、その程度のお遊びは許されている。そこで得たお金は病気で休学中の級友の見舞いに当てると報告される。まだ多くの学生が結核で入院していた時代である。
「あいつと私」は別に書くとして、今回見た映画では「真白き富士の嶺」(1963、森永健次郎監督)が興味深かった。「真白き富士の嶺」(ましろきふじのね)と言えば、1910年に起きた逗子開成中学生によるボート事故の悲劇を歌った歌である。この映画は直接この事件を描いたものではないが、随所に曲が流れて感傷的なムードを盛り上げる。原作は太宰治「葉桜と魔笛」という小品。太宰は生誕百年時にほとんど読んだんだけど、こんな作品があったのか。調べると、新潮文庫「新樹の言葉」に収録されている。(ネット上でも読める。)太宰の映画化は、生誕百年時の「ヴィヨンの妻」「人間失格」「パンドラの匣」なんかしか思い浮かばないが、こんな映画があったんだ。原作は日本海海戦ころの島根県の話だが、60年代の湘南に移している。
(「真白き富士の嶺」)
妹の吉永小百合は難病で逗子の病院に入院していたが、退院するにあたって、宮口精二の父、芦川いづみの姉とともに東京から逗子へ越してくる。吉永小百合は本当は不治の病だが、小康状態の時に家に帰したのである。吉永小百合には秘密の手紙が来ている。「М・T」と名のる男の手紙で、誰も心当たりがない。姉は何とかこの謎の人物を突き止めたいと思う。自分は婚約者とも清らかな交際なのに、妹にはなんだかもっと深い交際もあったかのようで、嫉妬のような感情も起こるのである。しかし、ある日妹に詰め寄ると「もういいの」という。「М・T」からは絶交の手紙が来たのだと言う。それを読んで、姉が仕組んだことは…。原作はそこだけがメインで、心に響くシーンである。
芦川いづみは服飾学校の先生で、恋人の服飾デザイナー、小高雄二は車を持っていて、東京と逗子を何回か往復する。そういう描写も興味深いが、基本は「誰にも愛されずに死んでいく難病の少女」がテーマである。庭で水まきしている時に知り合う高校生、浜田光夫が、唯一現実の「異性の友人」に近い存在になる。高校生が「純潔」であることが当然であるような時代で、特に難病の少女には誰にも知りあう機会もない。そのことを哀れに思う感情が全篇に満ちていて、まさに同年代の吉永小百合の魅力もあって、観客が感傷にたっぷりと浸れる映画。
「難病」映画、特に「難病少女映画」というものは昔からずいぶんたくさんあるが、「難病少女」は「恋愛も知らずに死んでいかないといけない」ということが、観客の同情のポイントである。「難病」ということで、さまざまな現実社会の問題は考える必要がなくなってしまうから、ただひたすら泣ける。でも、生きている人間は現実の問題、青春を左右する経済力や進路、性などの問題に直面せざるを得ない。「知と愛の出発」(1958、斎藤武市監督)という映画は、まだ若々しい芦川いづみのセーラー服姿がまぶしいファンにはうれしい青春映画だが、「性に関するコード」が今では全くずれてしまっている。
(「知と愛の出発」)
長野県の諏訪湖のほとりに住む高校生・芦川いづみは、仲良しの病院長の娘(白木マリ)に同性愛を迫られ逃げ出す。白木は自分のボートで帰ってしまい、たまたま湖にいた同級生、川地民夫に助けられ親しくなる。川地民夫は後に奇矯な役柄が多くなるが、この映画では「成績優秀な美少年」的な役をやっている。田舎ではトップで東大を目指していて、地元の有力者の父親は勉強以外に時間を割くことを許さない。その厳格ぶりは今見るとコメディである。(特に、息子と親しくなった芦川の父が中学教員と知り、「日教組か」と決めつけるセリフがおかしい。)
芦川の父、宇野重吉は娘を進学させる資力を亡妻の病気治療でなくし経済的に苦しい。大学を目指していた芦川は反発して、自分で何とかすると夏のホテルで働き始める。同級生の中原早苗もアルバイトしているが、ある夜の帰りに、不良大学生グループに車で連れ去られレイプされてしまう。この事件は何と中原早苗の実名入りで地元新聞に報道されてしまう。(こんな人権無視があるのかと思うが、それなりの現実があったということだろう。)「傷物」になった中原は追いつめられて自殺してしまう。スティグマ(烙印)を押された女は当時の社会ではもう生きていけなかったのである。
それよりすごいのは、友人であるはずの芦川いづみの言動である。たまたま同時に盲腸で入院した芦川は、中原早苗から輸血されたと信じ、「汚れた血が入った自分もまた汚れてしまった」と絶望するのである。(実際は川地が血を提供した。)「レイプされたことで、女性の血が汚れてしまう」という発想は今では誰にも理解不可能だろう。だけど、20世紀前半には、そういう「性科学者」の怪しげな「学説」が結構はびこっていた。川村邦光の本などで知ってはいたが、改めてビックリする。絶望した芦川は白木マリの病院の医師、小高雄二に犯されそうになり、かえってメスで小高を傷つけてしまう。これがまた「女子高生、四角関係のもつれ」などといった扇情的な報道をされてしまう。
最後は芦川と川地が徹夜で登山して、大自然の力に感動して新生に向かう。これは娯楽映画のパターンだけど、この映画の性意識や「世間」の無理解ぶりには絶句である。世の中が「純潔」を守る清純派ばかりだと、物語に葛藤が作れない。だから、片方に「清純派」がいれば、その片方に「お色気たっぷり」の「発展家」が必要である。芦川いづみも、60年代になると、ある程度そういう役柄も出てくるが、持ち味的にはしっかり者の「清純」派である。「真白き富士の嶺」では、自立した職業人になっている。そういう「自立」感が芦川いづみの持ち味で、単に清楚なだけの「カワイ子ちゃん」ではない。
前近代的な共同体規制が強い時代には、「結婚は家どうし」のもので、家長である父親が決めた相手と結婚するものだった。そういう社会では、「処女性」は結婚という取引の商品価値に関わるものだから、絶対に守らなければならない。経済の高度成長が進むと、男女の交際空間は圧倒的に広がるが、だからこそ「自らの強い意志で純潔を守る」ことが大切にされる。もっとも「欲望に負ける」場合もあるから、そういう女性に同情しつつも実際は興味本位で描く映画もたくさん作られた。その場合、処女を失った女性の側が不幸に落ちていくのが、「お約束」の展開である。
「まだフェミニズムがなかった頃」は、左翼陣営でも「純潔」が価値として浸透していた。ハリウッド映画は、3S(スリル、スピード、セックス)で青年たちを堕落させる「アメリカ帝国主義の陰謀」なのである。だから、左翼運動の青年たちは(タテマエ上は)「清い交際」しか認められない。50年代から60年代にかけて、清楚で可憐なスターたちが画面上でいくたびも清らかな交際をしていた。しかし、それはその時代には、前時代の性意識がすでに崩れつつある状況を反映していたのだろう。60年代末の世界的な「若者の反乱」「肉体の解放」を経て、70年代の青春映画のスター、秋吉久美子や桃井かおりなどになると、あっけなくヌードになって性関係を結んでしまう。それがリアルな設定になったのである。スターがヌードになっても、もう何の問題もなくなった。今では誰も「純潔」なんて言葉を使わないだろう。
60年代初頭が一番「純潔」が叫ばれた時代だというのは、例えば藤井淑禎「御三家歌謡映画の黄金時代 橋・舟木・西郷の「青春」と「あの頃」の日本」(2001、平凡社新書)で指摘されている。学校現場では現実に行われていたのである。ここで「純潔」というのは、主に「正式な結婚前には性的な関係をガマンする」という意味である。もちろん、特に女性の「処女性」が尊ばれるわけだが、「男女同権」の戦後では男子の放蕩無頼もダメだという認識が強くなる。三島由紀夫原作、若尾文子、川口浩主演の映画「永すぎた春」では、知り合ってからもなかなか結婚しないカップルの話だろうと思っていた。でも、川口浩は現役の東大法学部生で、東大前の古本屋の娘若尾文子と婚約したが、卒業までの一年にいろいろあるという話だった。その間に性的関係は不可なので、その一年が「永すぎる」わけである。
こういう意識は今はすっかり変わってしまって理解しにくい。「あいつと私」(1961、中平康監督)は、慶應をモデルに大学生の青春を描くが、1学期終了前に学校の裏山でパーティ(というか学芸会のようなもの)が行われる。そこに「童貞と処女のままで9月に会いましょう」とスローガンが書いてある。そんな時代だったのである。もっとも「美人女子大生がキスしてくれる」(有料、キスは頬にする)とか「女子大生の逆立ち」(パンティが見える。終了後に男子学生からお金を取る)などの企画もある。ガチガチのマジメ企画ではなく、その程度のお遊びは許されている。そこで得たお金は病気で休学中の級友の見舞いに当てると報告される。まだ多くの学生が結核で入院していた時代である。
「あいつと私」は別に書くとして、今回見た映画では「真白き富士の嶺」(1963、森永健次郎監督)が興味深かった。「真白き富士の嶺」(ましろきふじのね)と言えば、1910年に起きた逗子開成中学生によるボート事故の悲劇を歌った歌である。この映画は直接この事件を描いたものではないが、随所に曲が流れて感傷的なムードを盛り上げる。原作は太宰治「葉桜と魔笛」という小品。太宰は生誕百年時にほとんど読んだんだけど、こんな作品があったのか。調べると、新潮文庫「新樹の言葉」に収録されている。(ネット上でも読める。)太宰の映画化は、生誕百年時の「ヴィヨンの妻」「人間失格」「パンドラの匣」なんかしか思い浮かばないが、こんな映画があったんだ。原作は日本海海戦ころの島根県の話だが、60年代の湘南に移している。
(「真白き富士の嶺」)
妹の吉永小百合は難病で逗子の病院に入院していたが、退院するにあたって、宮口精二の父、芦川いづみの姉とともに東京から逗子へ越してくる。吉永小百合は本当は不治の病だが、小康状態の時に家に帰したのである。吉永小百合には秘密の手紙が来ている。「М・T」と名のる男の手紙で、誰も心当たりがない。姉は何とかこの謎の人物を突き止めたいと思う。自分は婚約者とも清らかな交際なのに、妹にはなんだかもっと深い交際もあったかのようで、嫉妬のような感情も起こるのである。しかし、ある日妹に詰め寄ると「もういいの」という。「М・T」からは絶交の手紙が来たのだと言う。それを読んで、姉が仕組んだことは…。原作はそこだけがメインで、心に響くシーンである。
芦川いづみは服飾学校の先生で、恋人の服飾デザイナー、小高雄二は車を持っていて、東京と逗子を何回か往復する。そういう描写も興味深いが、基本は「誰にも愛されずに死んでいく難病の少女」がテーマである。庭で水まきしている時に知り合う高校生、浜田光夫が、唯一現実の「異性の友人」に近い存在になる。高校生が「純潔」であることが当然であるような時代で、特に難病の少女には誰にも知りあう機会もない。そのことを哀れに思う感情が全篇に満ちていて、まさに同年代の吉永小百合の魅力もあって、観客が感傷にたっぷりと浸れる映画。
「難病」映画、特に「難病少女映画」というものは昔からずいぶんたくさんあるが、「難病少女」は「恋愛も知らずに死んでいかないといけない」ということが、観客の同情のポイントである。「難病」ということで、さまざまな現実社会の問題は考える必要がなくなってしまうから、ただひたすら泣ける。でも、生きている人間は現実の問題、青春を左右する経済力や進路、性などの問題に直面せざるを得ない。「知と愛の出発」(1958、斎藤武市監督)という映画は、まだ若々しい芦川いづみのセーラー服姿がまぶしいファンにはうれしい青春映画だが、「性に関するコード」が今では全くずれてしまっている。
(「知と愛の出発」)
長野県の諏訪湖のほとりに住む高校生・芦川いづみは、仲良しの病院長の娘(白木マリ)に同性愛を迫られ逃げ出す。白木は自分のボートで帰ってしまい、たまたま湖にいた同級生、川地民夫に助けられ親しくなる。川地民夫は後に奇矯な役柄が多くなるが、この映画では「成績優秀な美少年」的な役をやっている。田舎ではトップで東大を目指していて、地元の有力者の父親は勉強以外に時間を割くことを許さない。その厳格ぶりは今見るとコメディである。(特に、息子と親しくなった芦川の父が中学教員と知り、「日教組か」と決めつけるセリフがおかしい。)
芦川の父、宇野重吉は娘を進学させる資力を亡妻の病気治療でなくし経済的に苦しい。大学を目指していた芦川は反発して、自分で何とかすると夏のホテルで働き始める。同級生の中原早苗もアルバイトしているが、ある夜の帰りに、不良大学生グループに車で連れ去られレイプされてしまう。この事件は何と中原早苗の実名入りで地元新聞に報道されてしまう。(こんな人権無視があるのかと思うが、それなりの現実があったということだろう。)「傷物」になった中原は追いつめられて自殺してしまう。スティグマ(烙印)を押された女は当時の社会ではもう生きていけなかったのである。
それよりすごいのは、友人であるはずの芦川いづみの言動である。たまたま同時に盲腸で入院した芦川は、中原早苗から輸血されたと信じ、「汚れた血が入った自分もまた汚れてしまった」と絶望するのである。(実際は川地が血を提供した。)「レイプされたことで、女性の血が汚れてしまう」という発想は今では誰にも理解不可能だろう。だけど、20世紀前半には、そういう「性科学者」の怪しげな「学説」が結構はびこっていた。川村邦光の本などで知ってはいたが、改めてビックリする。絶望した芦川は白木マリの病院の医師、小高雄二に犯されそうになり、かえってメスで小高を傷つけてしまう。これがまた「女子高生、四角関係のもつれ」などといった扇情的な報道をされてしまう。
最後は芦川と川地が徹夜で登山して、大自然の力に感動して新生に向かう。これは娯楽映画のパターンだけど、この映画の性意識や「世間」の無理解ぶりには絶句である。世の中が「純潔」を守る清純派ばかりだと、物語に葛藤が作れない。だから、片方に「清純派」がいれば、その片方に「お色気たっぷり」の「発展家」が必要である。芦川いづみも、60年代になると、ある程度そういう役柄も出てくるが、持ち味的にはしっかり者の「清純」派である。「真白き富士の嶺」では、自立した職業人になっている。そういう「自立」感が芦川いづみの持ち味で、単に清楚なだけの「カワイ子ちゃん」ではない。
前近代的な共同体規制が強い時代には、「結婚は家どうし」のもので、家長である父親が決めた相手と結婚するものだった。そういう社会では、「処女性」は結婚という取引の商品価値に関わるものだから、絶対に守らなければならない。経済の高度成長が進むと、男女の交際空間は圧倒的に広がるが、だからこそ「自らの強い意志で純潔を守る」ことが大切にされる。もっとも「欲望に負ける」場合もあるから、そういう女性に同情しつつも実際は興味本位で描く映画もたくさん作られた。その場合、処女を失った女性の側が不幸に落ちていくのが、「お約束」の展開である。
「まだフェミニズムがなかった頃」は、左翼陣営でも「純潔」が価値として浸透していた。ハリウッド映画は、3S(スリル、スピード、セックス)で青年たちを堕落させる「アメリカ帝国主義の陰謀」なのである。だから、左翼運動の青年たちは(タテマエ上は)「清い交際」しか認められない。50年代から60年代にかけて、清楚で可憐なスターたちが画面上でいくたびも清らかな交際をしていた。しかし、それはその時代には、前時代の性意識がすでに崩れつつある状況を反映していたのだろう。60年代末の世界的な「若者の反乱」「肉体の解放」を経て、70年代の青春映画のスター、秋吉久美子や桃井かおりなどになると、あっけなくヌードになって性関係を結んでしまう。それがリアルな設定になったのである。スターがヌードになっても、もう何の問題もなくなった。今では誰も「純潔」なんて言葉を使わないだろう。