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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「アイドル」への道、長嶋茂雄の人生①青春・朱夏編

2025年07月08日 22時10分59秒 | 追悼

 2025年6月3日に長嶋茂雄が亡くなった。89歳。その人生を振り返ることは同時代の日本社会を考えることである。だから2回に分けてちゃんと考えてみたい。中国で人生を4期に分けるときの「青春・朱夏・白秋・玄冬」のまず「青春・朱夏」から始める。長嶋はいかにして長嶋になったのか。長嶋茂雄は自分で「長嶋をやっているのも大変なんですよ」と言ってたらしいから、ほとんど「長嶋茂雄が職業」とでもいう人生だった。あえて言えば、「元プロ野球選手」で「読売ジャイアンツ終身名誉監督」となる。監督は名誉職といえど「終身」である。(なお「株式会社読売巨人軍専務取締役」でもあったらしい。)

 生涯に何度もの「」が訪れるが、もっとも代表的なものを二つに絞るなら1959年6月6日の「天覧試合」と、1996年の巨人優勝時の「メークドラマ」だろう。それにしても歴史上ただ一回だけの天皇によるプロ野球観戦という出来事が今も語り継がれるのは、プロ2年目の長嶋によるサヨナラホームランがあったからだ。「伝統の一戦」巨人・阪神戦は抜きつ抜かれつで、9回裏を迎えた時には4対4の同点だった。そして先頭打者の長嶋が新人投手村山からホームランを放って決着したのである。ホームランもそうだけど、同点で先頭打者が回ってくること自体に「運命的」とでも言うべき強運を感じる。イマドキ言葉で言う「持ってる」人だった。

(「天覧試合」でサヨナラ本塁打)

 と言っても僕は特に長嶋ファンでも巨人ファンでもなかった。ジャイアンツは1965年から1973年まで有名なセリーグ「9連覇」をしたが、これは何と僕の小学校4年から高校3年までに当たる。物心ついてからずっと巨人が優勝していたのである。だから巨人ファンになる子どもも多かったわけだが、僕は違った。こんな応援しがいのないチームもない。つまり優勝がほぼ事前に予測出来てしまう球団なんだから。当時良く言われた「巨人・大鵬・卵焼き」の横綱大鵬も同じである。白鵬が登場するまで最多の32回優勝を誇った大横綱だが、強すぎるから僕はファンじゃなかった。応援というのは、弱い方に対して行うべきものだと僕は思っていた。

 「巨人が嫌いな人がいても、長嶋が嫌いな人はいない」は本当だろう。僕も巨人は嫌いだが、長嶋は嫌いではなかった。長嶋は誰もが知る時代のアイコンで、「世界のホームラン王王貞治が孤高の求道者だったの対し、長嶋は打つべき時に打つ「華」があったのである。通算安打2471本(9位、大リーグ通算では13位)、通算ホームラン444本(15位、大リーグ通算では16位)、通算打率3割5厘通算打点1522(7位、大リーグ通算8位)。首位打者6回、ホームラン王2回、打点王5回、MVP5回(2位、1位は王の9回)ともちろん立派な成績ではあるが、数字上は決してベスト級の選手ではない。しかし長嶋は後に「ミスタープロ野球」と呼ばれた。

 この呼び方を「何という冒涜」と嘆くのは蓮實重彦である。朝日新聞に寄せた追悼文で、蓮見氏はそもそも長嶋は(当時はプロ野球より人気があった)「六大学野球のスター」だったのだという。そして六大学野球観戦時に長嶋と目を合わせた(と思い込む)「特権的体験」を語るのである。そして、長嶋がプロ入りしたから、プロ野球が大衆的人気を獲得したのだと述べる。そこまで断言出来るかはともかく、昔は確かに「東京六大学野球」が人気を博していた。そして優勝回数は1位の早稲田から法政、明治、慶応までが40回以上なのに対し、立教13回、東大0となっている。そして立大は長嶋がいた1957年に初の春秋連覇を達成したのである。

(六大学野球で優勝=1957年11月3日)

 僕は1974年10月の長嶋引退セレモニーを覚えてはいるけれど、あまり大きな記憶がない。大学浪人生だったからである。そして翌1975年に図らずも立教大学に入学し、蓮實重彦氏の「映画表現論」という講座を受講することになる。この講義は後に黒沢清らに大きな影響を与えたというが、今は別の話になる。立教大学では当然長嶋ファン、巨人ファンが多かったかというと、全くそんなことはなかった。むしろ1975年は広島カープが史上初の優勝をした年なので、授業が終わったあとで皆で見に行こうとしたぐらいである。もちろん満員で入れなかったが、当時は東京ドームじゃない時代だから場外にまで大声援が聞こえてきたのを覚えている。

 2024年に立教大学に長嶋茂雄を顕彰するプレートが設置された。(「篠懸の小径」にある。)長嶋による学生へのメッセージもあり、よくぞ間に合ったと思う。今までなかったのが不思議といえば不思議だが、むしろ立教大学としては長嶋だけを特別視していなかったのではないかと思う。横綱大鵬は15日間取り組みをして優勝するわけだが、当然当時も他に横綱、大関、関脇、小結などがいたのである。何人の人がそれらの力士の名を記憶しているだろうか。同じように野球はチームスポーツだから、長嶋一人では優勝出来ない。だから他にも有力選手がいたわけだが、訃報のニュースでは全く触れられないのが実に不可解だった。

 (立教大学に設置された記念プレート)

 当時「立教三羽烏」と呼ばれたのが、長嶋と投手の杉浦忠(後、南海)、遊撃手の本屋敷錦吾(後、阪急、阪神)だった。当時の立大野球部では砂押監督の体罰を伴う猛練習が続き、1955年には砂押監督排斥運動が起きた。そういう環境を嫌って長嶋と杉浦が合宿所を抜け出し中日に入りかける事件もあった。ノーヒットノーラン達成の杉浦と最多ホームラン(8本)の長嶋は在学中から注目され、ドラフト制度がなかったので鶴岡一人監督率いる南海ホークスが接触していた。両者ともに南海入団が確実視されていたが、長嶋は最後に翻した。心配になった鶴岡監督が杉浦に訪ねると「心配ですか?僕がそんな男に見えますか?」と言ったという。

(杉浦忠)

 この言葉はWikipediaから引用したが、基本的な事実は当時の子ども野球ファン(ほぼ男子全員)なら大体知っていたのである。杉浦は入団から27勝、38勝、31勝、20勝と活躍を続け、2年目には優勝に貢献してMVPとなった。当時の少年ファンにとって、長嶋だけが特権的に大選手だったわけではないのである。半世紀以上も経つと、「巨人の長嶋、王」だけが特別視、神聖視されていくが、その時代には他の選手のファンも(特に関西では)多かったはずである。

 では「長嶋茂雄とは何だったのか」。「最初の現代的アイドル」だと評する人がいて、なるほどと思った。IT革命というと今ではインターネットだけを指すが、歴史的には何度も「情報技術革命」が起こってきた。新聞、電話、映画、ラジオと続々と登場し、「有名人」が多数誕生する。それらの人々は「スター」と呼ばれた。星だから手が届かないのである。ただ憧れの対象になるだけである。しかし、50年代末から60年代にかけての「テレビの登場」は全く違う新しい社会を切り開いた。何しろ毎日毎日テレビに有名人が出てくるのである。そこでは「隣にいるような」「身近な友だちのような」感覚が重要になってくるのだ。

 そして当時プロ野球は驚くことに、毎日テレビで(ラジオでも)放送されていた。東京では巨人戦である。毎日長嶋と王を見ていたのである。(しかし、中学生ともなると塾が始まり、野球は見られなくなるけれど。)そして孤高の王貞治は「スター」だったのに対し、陽性でお祭り男的な長嶋は確かに「アイドル」に近かった。そして打たないときも愛嬌があり、守備も巧みで、打たなければならない時には(相当の確率で)ヒットを放つ。プロスポーツ選手が「現代的アイドル」になった最初なのかもしれない。


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