尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

辻原登「卍どもえ」、女と男の性愛と陥穽

2021年05月16日 22時07分09秒 | 本 (日本文学)
 一昨日から辻原登卍どもえ」を読みふけっていた。2017年から2019年にかけて「中央公論」に連載され、2020年1月に刊行された本。辻原登は僕が大好きな作家で、今まで何回も書いてきた。何でこんなに面白いんだろうと思う作品が多い。読み始めたら途中で止められない。450ページもある単行本が重くて一年間放っておいたが、もっと早く読めば良かった。

 辻原作品では歴史に材を取ったものも多いが、今度の「卍どもえ」は現代が舞台になっている。現代と言っても2007年ごろだが、時間をさかのぼったり世界を駆け回ったり、ずいぶん作品世界が広い。登場人物も多くて、誰だっけと前を読み返したりするが、それぞれの人物が流れるように人生の変転を経験していく。その様が美味しい蕎麦をツルツル食べちゃうように読み進めてしまう。最後になって、男の人生には「陥穽」(かんせい=落とし穴)が潜んでいることが判る。

 一方、女の人生にも思わざる出会いが起こる。それは新しいセクシャリティの目覚め、もっとはっきり言えば「同性愛」、つまりレズビアンの世界である。男性作家が女性の同性愛を描くといえば、谷崎潤一郎」で、題名はそこから来るのだろう。真性のレズビアンよりも「バイセクシャル」が多く、女と男ばかりでなく、女どうしの複雑な駆け引きや心の揺らぎも興味深い。ただセクシャリティだけでなく、むしろ経済や社会状況などの描写こそ面白いかもしれない。
(辻原登)
 辻原作品で現代を描くときは「寂しい丘で狩りをする」「冬の旅」「籠の鸚鵡」のように「犯罪」が描かれることが多い。しかし、「卍どもえ」は成功者の世界を描く。アート・ディレクター瓜生甫(うりゅう・はじめ)とその妻ちづるが第一章の中心人物である。瓜生甫は博報堂に勤めた後、独立して青山に自分の事務所を開いて成功した。今はスクーバダイビングに熱中していて、夫婦仲は悪くはないが生活はすれ違い。セックス相手も複数いる。一方、千鶴は同窓会で教えて貰ったネイルサロンで塩田可奈子と知り合い、新しい性愛の世界を知る。

 第2章になると、中子脩毬子夫妻が登場する。中子夫妻が逗子の高級住宅地に新築した家に瓜生夫妻が招待される。中子毬子は近畿日本ツーリストに長く勤めていて、瓜生が海外で仕事をするときに旅行の企画を頼んで知り合った。住宅の新築に建築士を紹介した間柄である。毬子の夫、脩はかつて商社に勤めていて東南アジアではずいぶん遊んだ過去もある。二人はロスで知り合い結婚したが、ある事件で脩は商社を退職した。その後フィリピンで英会話学校を作る仕事で成功して、今度は大阪にも分校を開く予定。

 こんな筋書きみたいなことをいくら書いても面白さは伝わらない。現実に起こった出来事、地下鉄サリン事件や渋谷の松濤温泉爆発事故(2007年6月19日)、さらにロッキード事件日中戦争などが登場人物と意外な関係を持っている。瓜生は世界陸上ドイツ大会のエンブレムを狙っている。(それは思わぬ展開を見せ、似たようなケースを思わせる。)中子はフィリピンの上院議員の娘と関係を持ち、いずれは共同経営者にしようと思っている。男は「野心」に燃えて、欲望も昂進するのだが…。男の世界の裏で、女たちも結託し性愛だけでなくはかりごともめぐらす。
 
 東京(青山、渋谷、赤坂等)、横浜(ホテル・ニューグランド、市営地下鉄)、大阪京都に加え、フィリピンタイアメリカモロッコなど日本、世界のあちこちが出て来る。さらによく食べ、よく飲む。デートのガイドブックとしても使えそうな情報も多い。横浜駅東口から山下公園まで水上バスが出ているなんて僕は知らなかった。大井競馬場トゥインクルレース(ナイター競馬)も行ったことがないから興味深かった。

 いつものように(「寂しい丘で狩りをする」に次ぎ)映画の話題も多い。「フライド・グリーン・トマト」や成瀬巳喜男の「浮雲」「流れる」などは、作品と密接に関係している。それ以外にも何十本も出てくる。そもそも「雑談」が多い。数多い登場人物が話題豊富で、映画や旅、お酒などの話をひっきりなしにしている。時間軸も地理的情報も人間関係も複雑だが、その雑談的おしゃべり、特に映画の話題が興味深い。だが、やはり一番描かれているのは、「人間にとって性愛とはどんなものか」ということだ。お金や情報も大事だが、最後は「人間の尊厳」が人を支えている。
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