尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「最後の博徒」、波谷守之という人-東映実録映画とは何だったのか⑥

2017年05月02日 23時31分16秒 |  〃  (旧作日本映画)
 東映実録映画に関する話の最後。1985年の山下耕作監督「最後の博徒」のモデルになった波谷守之(はだに・もりゆき 1929~1994)という人の話である。この人は不思議な因縁で東映実録映画に深くかかわっている。しかし、それは表面的な関わりではなく、裏の物語なので知らない人が多いと思う。映画では荒谷政之と名を変え、松方弘樹が演じている。波谷の親分、菅谷政雄に当たる菅田猛雄役は、鶴田浩二がやっていて映画の遺作となった。(鶴田は1953年に山口組員に襲撃される事件を経験している。話が複雑になるからくわしい事情はここでは省略するけど。)

 波谷守之という名前はずっと前から知っている。それは正延哲司「最後の博徒」という本を持っているからである。この本は正続ともに1984年に三一書房から出たが、僕が持ってるのは1989年の双葉文庫版である。ずいぶん長いこと読んでなくて、今回探し出してきて初めて読んだ。どうしてこの本を持っていたかというと、これは「冤罪事件」の本だからである。彼の巻き込まれた冤罪事件とは、それこそ「北陸代理戦争」のモデルとなった川内弘襲撃事件なのである。(その話は後で書く。)
 
 波谷は広島県呉市阿賀町で1929年に生まれた。この阿賀という地区は多くのヤクザものを生んだらしいけど、波谷も若くしてヤクザになることを決意した。敗戦時16歳だけど、広島市の親分について勤労奉仕を行っていたという。その親分は原爆で亡くなった。戦後になると、阿賀の土岡博の結成した土岡組に属し、また中国から復員した大西政寛も加入した。最初は強大だった土岡組だが、やがて呉市の政界と結びついた山村組が勢力を増し、土岡組と抗争が起こる。

 さて、この「山村組」こそ、「仁義なき戦い」第一作の「山守組」である。山村辰雄は山守義雄と名を変えられ、金子信雄が名演したのは忘れがたい。実際の山村も、ほぼあのような人物像だったようだ。広能昌三のモデル、美能幸三は縁あって山村組に所属し、1949年に土岡博を襲撃した。(土岡は映画では名和宏が演じた。)その夜、波谷は単身で山村宅に乗り込んだが、その日山村は不在だった。

 広島抗争は複雑なのだが、その頃大西は山村組に接近して、山村襲撃時の拳銃も大西のものだという。大西は映画で梅宮辰夫が演じた若杉のモデルで、実際に警察に密告され殺害された。その後、土岡は賭博罪で服役し、1952年に出所後に山村組所属の佐々木哲彦の若衆により殺害された。佐々木は映画では松方弘樹が演じた役(坂井)である。これにより、土岡組は壊滅状態になってしまい、呉市は山村組が制覇した状態になる。

 その時波谷は親分の復讐をしたくてもできなかった。1950年に起こした拳銃発射事件の懲役3年の実刑判決が1951年に確定していたのだ。親分の死は一か月月以上も知らなかったという。出所した波谷は復讐を計画したが、実行する前に逮捕される。その時、波谷は人生で1回目の冤罪に巻き込まれた。呉市は朝鮮戦争で膨張した山村組の天下になっていて、弁護士も見つからない。その時に唯一弁護に立ったのが、八海事件などで有名な原田香留夫だけだった。冤罪は晴らせたが、この裁判中に痛恨事が起こった。裁判支援をただ一人で続けた実父までが襲撃され死亡したのだ。

 波谷にとって、美能は親分土岡襲撃の仇敵である。だが、土岡の生前に波谷が頼んで、美能を許してもらったことがある。美能も懲役20年以上の刑が確定し、もうそれでいいと思ったのである。しかし講和条約恩赦で美能は1959年に出所する。その後、美能は山村組に反旗を翻し、それが「仁義なき戦い」3部「代理戦争」になる。「仁義なき戦い」に波谷をモデルとした人物は登場しないが、当時の関係者の中では若かった。あまりにも複雑になるので、省略されたのだろう。

 親分どころか父も殺された波谷だけれど、当時は呉市に戻ることもできない。そこで大阪を拠点にし、西日本各地の賭場をめぐる。波谷を「最後の博徒」と呼ぶのは、生涯に賭博以外の「シノギ」を持たなかったからである。普通はそれなりの正業(飲食店や風俗業の経営、土建業など)を持つか、違法な業態(麻薬、覚せい剤、銃などの密輸、みかじめ料など)をすることが多いだろう。まあ、賭博も「違法行為」には間違いないが、それでも「カタギに迷惑をかけない」生き方である。もちろん、イカサマをしない限り賭博は負けることもある。波谷はだから、時には大負けする。だが時には大勝ちする。

 正延著によれば、その賭け方は驚くほど大胆なものである。チマチマ賭けない。あまりにも多額の金を賭けるので、見ている方が正視できないような場となる。だが波谷の胆力は、負けてもそういう賭け方を続ける。そこに波谷のファンも現れ、多くの支援者を生んだ。そういう人々に支えられていくうちに、子分として付き従うものもできたが、普通の組にはしなかった。そして、呉に戻って父の敵を討つことが、真に父の意向に沿うのかと思うようになる。これ以上若い者を死なせていいのかと。

 そのころ、第二次広島抗争で収監中だった美能の出所が近づいていた。波谷は美能を呉に帰してはいけない、呉で組織を再建すればまた抗争が起きると考え、美能が収監されていた北海道に向かう。そこで何回も面会し、組織を再建せずにカタギになるように説得した。最終的に美能は波谷の説得に応じたのである。その時、刑務所内で書いていた美能の手記が、やがて飯干晃一によってまとめられ、映画の原作となる。仁義なき戦いシリーズの生みの親は、波谷と言ってもいい。

 やがて、波谷は菅谷政雄の盃を受けることになるが、それも普通の子分というよりも一種の相談役のような関係だったようだ。そして、川内弘殺害事件では、波谷組に所属しながらも他の組にも出入りしていた組員が実行犯の中にいた。その組員が本当の指令者を隠すために、波谷の指令と「自白」した。その「自白」がいかにいい加減なものかは、「最後の博徒」に詳しく書かれている。だが、裁判長は検事の偽証を真に受けて、波谷に懲役20年を言い渡し、その判決は控訴審でも維持された。

 毎日を記録することもなく「博徒」として生きてきた波谷には、「アリバイ」を思い出すことがなかなかできなかった。アリバイ主張は控訴審になってからだった。しかし、それは全く顧慮されなかった。そこで最高裁への上告審では、かつて彼を弁護した原田香留夫に加え、後藤昌次郎、西嶋勝彦、佐々木静子ら数々の冤罪事件を担当した弁護士も加わり、大弁護団が作られた。1984年4月24日、最高裁第三小法廷は原判決を破棄し、裁判を名古屋高裁に差し戻した。1985年12月に、名古屋高裁は波谷に無罪を言い渡した。アリバイの成立が認められたのである。

 冤罪で拘束されていた波谷は、もう一つの冤罪事件を明るみに出したことでも知られる。それは同じ場所で収監されていた、山中温泉殺人事件と呼ばれた事件である。1972年に起きたその事件では、一審、二審で死刑を宣告されていた。それなのに全国的には全く知られず、支援運動も全くなかった。波谷がそれを知り、多額の差し入れなどを命じていた。やがてその事件は知られていき、大きな問題となった。その結果、最高裁は事件を破棄し、差し戻した。1・2審死刑で最高裁が破棄して無罪となった事件は、6件目である。無罪が宣告されたのは、1990年7月27日のことだった。

 そこまで他人の冤罪に打ち込んだのは、間違いなく波谷自身も冤罪だったからだろう。このように、裏で「仁義なき戦い」にも「北陸代理戦争」にも不思議な因縁で関わったのが、波谷という人物だった。そのような人がいたというのも、戦後史、そして日本の冤罪事件史の一コマだということである。なお、映画の最後で、獄中の松方弘樹が面会に来た鶴田浩二に、カタギになるしかないという場面がある。つまり、波谷が菅谷に言うわけである。この場面は、裏にあった事実を知ると、非常に重いものがこもっている。そのシーンが鶴田浩二の長い銀幕人生の最後のシーンなのである。
コメント (1)
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