尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

フランス映画「太陽のめざめ」-「非行少年」の更生は可能か

2016年09月20日 21時23分03秒 |  〃  (新作外国映画)
 「太陽のめざめ」というフランス映画を上映中。(東京ではシネスイッチ銀座で23日まで。)終了間近なので、やはり見ておこうかという次第。この映画は、ある「非行少年」をずっと追って行って、更生は可能かをフランス法制度の中で描いた作品である。中心となる判事を大女優カトリーヌ・ドヌーヴが貫録で演じているが、ほとんど娯楽的要素はなく、ひたすらリアリズムである少年を追っていく。結構つらい映画なので、関心の薄い人にはお薦めできないが、「少年犯罪」や「貧困と教育」などの問題に関心がある人には必見だと思う。

 冒頭で、ある6歳の少年を施設に保護するかどうかの審問が行われている。母親も持て余しているらしく、本人は学校へ通おうとしない。母親は小さな子どもを抱えて対応に困っているようだが、責任を追及されて逆上してしまう。10年後、16歳になったマロニー少年は、再び判事のもとにやってくる。粗暴で秩序に反する少年として。法廷ではなく、判事の執務室に関係者が集まり、検事や弁護士同席して意見を述べるというシステムが興味深い。このときは、「教育支援」を受けさせることにする。

 しかし、また問題を起こし、今度は「更生施設」送りとする。(これは検事が「少年院」を主張しているので、違う施設なのである。)山のふもとにあって、同じような境遇の少年が集まるが、ここでも帰属感が得られない。ここで一定の安定を見たため、学校に戻ろうとするが、学校の面接でまたキレてしまう。(義務教育段階でも「進級不可」があり、その後の受け入れには学校側の選択権があるようだ。ここは日本では考えられないところ。)だけど、この更生施設で、指導員の娘と知り合い、不器用な恋につながっていく。

 何とかなりそうなときに、再びダメになってしまうマロニー。さらにいろいろあるのだが、ついに母親が大麻中毒になり、弟が施設送りに。クリスマスを家族で過ごしたいと、マロニーは自動車を盗んで無免許運転で施設に忍び込み、弟を連れ出すのだが…。この日の行動がいろいろと後に尾を引くことになるのだが、それは書かないでおく。これらのすべてにカトリーヌ・ドヌーヴの判事が立ち合い、信じていると告げ、できる限り更生できるような決定を出す。だが、家庭的な問題もあり、キレやすい少年はまた判事のもとに戻ってくるのである。ラスト、判事は退任することになり、少年にも人生上の転機が訪れる。そこで映画は終わるが、果たして、どうなるんだろう。

 少年を演じるのは、ロッド・パラドという新人俳優で、職業訓練校生のときにオーディションを受けたという。なかなかカワイイ面立ちで、つい「マロニーちゃん」と声を掛けたくなるけど、粗暴な演技は堂に入っている。どうして世界中、この手の少年は同じ格好をしているんだろうと思わせるほど、ツボにはまってる。つまり、フードで顔を隠し、顔にボディピアスをして下を向いているが、突然目をむき出して突っかかってくる。僕も何度も相手をしてきたが、はっきり言って困ったヤツである。

 そこが映画のいいところで、時間をかけて少年を時系列で追うとともに、母親を初めとして関係者のようすも描き出す。そうすると、やっぱり「母親」の存在は大きいと思わざるを得ない。もちろん、母の成育歴をさらにたどると、きっと自尊感情をきちんと育てられない環境に生きてきたんだと思う。母じゃなくて、父の責任もあるけど、大体無責任な父はどこかへ行ってしまっていて、シングルマザーの母が新しい男を作って、子どもはネグレクトしているというような構図があるわけである。この映画も、「家族を求める愛の叫び」のような感じがするが、だからと言って、これほど粗暴では社会で受け入れてもらえないだろう。彼は変わり得るか。そこまでは描かないで映画は終わる。

 作ったのは、エマニュエル・ベルコ(1967~)という女性監督である。脚本も同じ。この人は女優としても活躍していて、2015年のカンヌ映画祭で女優賞を獲得している。日本では知名度が低いが、この映画はカンヌ映画祭オープニング作品ということで、注目すべき存在だと思う。ファンタジーなど全く交えずに、ひたすら現実に即して描くのが、日本からするとかえって新鮮である。

 この映画の判事は、日本で言えば、家庭裁判所の裁判官にあたるだろうが、日本では転勤が激しく、ある地域で子どもをずっとケアしていくことは不可能だろう。また、少年事件を刑事裁判にかけるときも、自分で判断して自分で裁判している。日本では検察に逆送致して、それから検察が地方裁判所に起訴するから、家裁では刑事裁判は少年事件でも行わない。(少年院送致は「教育処分」であって刑事罰ではない。)そのような法制度の違いが見て取れるのも興味深い。でも、「愛とは、見捨てないこと。」とコピーにあるのはどうなんだろうか。そりゃあ、判事は最終判断するだけだからいいけどさ、とつい思ったりもする、だって、現場で毎日接していれば、簡単に愛って言えないですよ。

 さらに、一番違うと思ったのは、教員がほとんど関わらないことである。まあ、16歳の時点では学校に行ってないから関わりようがないわけだが。でも、日本では義務教育段階では学校が抱え込んで指導していると思う。義務教育段階で「落第」がなく、「同年齢集団」として地域の少年は(よほどのことがない限り)学校で生活している。そういう子供たちが、今はほとんど高校へ行く(定時制も含めれば、倍率1倍を切る公立学校は全員合格になるから。)高校では落第や中途退学があるが、それでも生徒の問題行動には教員が関わることが多い。思うに、面接がいかにひどいからと言って、義務教育段階にある少年を受け入れ不可にしていいのだろうか。などなど、とにかくマロニー君を見ていると、かつて見聞きせざるを得なかった少年たちを思い出してしまい、こっちまでドキドキしながら見てしまった。
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