小栗康平監督の10年ぶりの新作「FOUJITA」(フジタ)をようやく見たんだけど、どこか「判らん感」というか、「これでいいんか感」がつきまとい、もう一回見てしまった。最初に見た時は疲れていたので、途中で少し寝てしまったかと思ったんだけど、二回見たら大体寝ずに見ていたようだ。そうすると、多少残る違和感はどこから来るのだろうか。いうまでもなく、この映画は画家の藤田嗣治(レオナール・フジタ)を描いている。画面は美しく、研ぎ澄まされていて、絵画のようである。説明は少なく、画面は常にかなり暗く、ストーリーの語りで見せる映画ではない。だけど、アート映画として非常に完成度が高く、僕は傑作だと思う。見ていて、なんだかまた見たいような気にさせるのである。
小栗康平が藤田の映画を作っていて、オダギリジョーが主演して、フランスでも撮影した映画が作られたという話は、かなり話題となった。東京国立美術館では、藤田嗣治の全所蔵作品展(9.19~12.13)も開かれ、藤田を今どう見るかが問われている。藤田嗣治(1886~1966)という画家は、20年代のパリでは「エコール・ド・パリ」を代表する画家の一人として大評判を取った。40年代には日本に帰国して、今度は「戦争画」の大家となった。戦後は「戦争協力者」として指弾され、再びフランスに渡り、フランス国籍を取り彼の地で亡くなった。この程度のことは、絵に詳しくない人でも聞いたことがあると思う。「藤田」という画家は、いつも一種スキャンダラスな存在で、そこに何があったのか知りたいと思う人も多いだろう。そういう「藤田の人生」を知るための伝記映画を期待する人は、その期待が全く裏切られて、何か難解な「アート」を見せられて、憮然とした思いで映画館を出るだろう。
この映画は、前半はパリで、後半は日本の場面となっている。だけど、年代や場所は明示されない。その意味では、「フジタ」について観客がある程度は知っていることが求められている。どこで日本の場面に切り替わるのかも、説明されない。普通は映画では「字幕」で説明するのだが。だけど、僕は場面が日本に変わったことはすぐ判った。多くの人は判るのではないか。そのくらい、確かに「空気」が違うのである。この映画では、ほとんど説明がない。ただ、パリ時代の藤田の狂騒と女性たちを、そして戦時下日本のこわばりと物資不足の日常を静かに提示するだけである。だから、フジタの人生に潜む謎を解明して欲しいと望んでも、小栗の「解釈」は見えにくい。
前半では夜の狂騒、特に「フジタの夜」の花魁道中の再現などが、そのバカバカしさの壮大さで忘れがたい。フジタはパリで売り出すために、意識的に「浮世絵の国から来たフジタ」を演じている。だけど、冒頭はデッサンするフジタの様子。(オダギリジョーはフランス語を練習しただけでなく、絵の練習もしたという。)その後日本での会話で「一日14時間仕事をした」と語っているが、とにかく「絵を描くことが好き」なのである。そして、有名なモデル「キキ」を始め、「ユキ」と名付けられ妻ともなったモデルなど、たくさんの女たちが出てくる。キキが「モンパリ」を歌う場面など、名場面と言っていい。
日本に帰ると、すぐに「聖戦美術展」の巡回で「アッツ島の玉砕」を展示する姿が出てくる。これこそ、その壮大なる悲愴美で有名な「藤田の戦争画」の代表作。「玉砕」(全滅)しているんだから、取材もできないし、写真もない。その意味では、想像で描いた「歴史画」である。実際、ヨーロッパの画家の戦争場面などが参考にされている。藤田は大家として、日本人画家として、陸軍の協力する以外の道はなかっただろうが、同時にそれは当然だと考えていただろう。この戦争画は戦後アメリカに接収され、その後返還されたが、なかなかまとまって見る機会がない。今回の展示は見てみたが、今となると、僕は「倫理的側面」を抜きにした「絵としての面白さ」があることを認めざるを得ないと思った。
何でこのような戦争画を書いたのか。映画を見ても何も判らない、説明されていないと思う人もいるだろう。だけど、僕が感じたのは、要するに「パリで描いた裸婦」と「戦争画」は同じだということである。「内面の葛藤」などなかっただろうから、そういうものをフジタの映画に期待する方がムダなのだと思う。どっちも、今画家に求められている「受ける絵」を描いた。それは今見ても素晴らしく、見応えがある。だけど、戦争画に関しては、その戦争の目的や結果について、それを抜きにした判断は今はできない。70年以上経ったけれど、今でも「戦争責任」は切れば血の出るテーマである。だけど、これらの戦争画も数百年経ってしまえばどうなんだろうか。もしかしたら、違った感覚で見る日が来るのかもしれない。今の人には判らないことだけど。
小栗康平は1945年生まれだから、戦後70年の今年はまさに70歳、もう古稀である。1981年に「泥の河」を自主製作してベストワンとなった。この映画の鮮烈な抒情と映像美を覚えている人は、いつも似たような「判りやすい物語」を求めてしまう。宮本輝原作のこの映画は、国内の映画賞をほぼ独占した他、モスクワ映画祭銀賞を得た。次が李恢成原作の「伽倻子のために」(1984)でフランスのジョルジュ・サドゥール賞。3作目の島尾敏雄の代表作「死の棘」(1990)では、ついにカンヌ映画祭グランプリ。と、ここまでは知られた原作の映像化で、世界でも評価された。でも、だんだん「静かな語り口」で語られる映画世界に不満を覚える人も多くなっていたのではないだろうか。
1996年の「眠る男」では、ついに眠り続ける男を韓国の名優、アン・ソンギに演じさせて、ひたすら見つめるような映画。これも判らないと言われたが、僕はものすごい傑作だと思った。「世界」の中で生きている人間という存在をこれほど見つめた映画も滅多にないと思う。2005年の「埋もれ木」だけは公開当初に見逃し、評価もそれほど高くなかった。僕も明らかに失敗作だと思うが、ファンタジックな美しさはあった。でも、あまりにも安易な幻想に途中で付いていく気が失せた。だから、原作とか実在人物という「しばり」があった方がいいんだろうと思う。だけど、安易な解釈はせず、ただ見つめるように「世界」を多義的に語る事が得意なんだろう。この「FOUJITA」も、初めからフジタの伝記だなどと思わず、パリで活躍したある日本人画家の神話を提示するアート映画と思えば、非常に満足できる出来映えだ。
映像の絵画的な美しさは快感で、ロングショットで人物を捉える画面も素晴らしい。最近はデジタル技術の発展で、手持ちカメラで動いている画像が多く、臨場感はあるけど、僕にはわずらわしいところもある。こういう静かな映画で語られる世界の方が、僕には映像世界に浸れる喜びがある。小栗康平という人も、やはり大した監督だと思った次第。一度はどこかで見ておいた方がいいと思うけど、アート映画に慣れていないとつまらないかも。もう公開期間も少なくなってきたが、劇場の大スクリーンで見て欲しい映画だ。
小栗康平が藤田の映画を作っていて、オダギリジョーが主演して、フランスでも撮影した映画が作られたという話は、かなり話題となった。東京国立美術館では、藤田嗣治の全所蔵作品展(9.19~12.13)も開かれ、藤田を今どう見るかが問われている。藤田嗣治(1886~1966)という画家は、20年代のパリでは「エコール・ド・パリ」を代表する画家の一人として大評判を取った。40年代には日本に帰国して、今度は「戦争画」の大家となった。戦後は「戦争協力者」として指弾され、再びフランスに渡り、フランス国籍を取り彼の地で亡くなった。この程度のことは、絵に詳しくない人でも聞いたことがあると思う。「藤田」という画家は、いつも一種スキャンダラスな存在で、そこに何があったのか知りたいと思う人も多いだろう。そういう「藤田の人生」を知るための伝記映画を期待する人は、その期待が全く裏切られて、何か難解な「アート」を見せられて、憮然とした思いで映画館を出るだろう。
この映画は、前半はパリで、後半は日本の場面となっている。だけど、年代や場所は明示されない。その意味では、「フジタ」について観客がある程度は知っていることが求められている。どこで日本の場面に切り替わるのかも、説明されない。普通は映画では「字幕」で説明するのだが。だけど、僕は場面が日本に変わったことはすぐ判った。多くの人は判るのではないか。そのくらい、確かに「空気」が違うのである。この映画では、ほとんど説明がない。ただ、パリ時代の藤田の狂騒と女性たちを、そして戦時下日本のこわばりと物資不足の日常を静かに提示するだけである。だから、フジタの人生に潜む謎を解明して欲しいと望んでも、小栗の「解釈」は見えにくい。
前半では夜の狂騒、特に「フジタの夜」の花魁道中の再現などが、そのバカバカしさの壮大さで忘れがたい。フジタはパリで売り出すために、意識的に「浮世絵の国から来たフジタ」を演じている。だけど、冒頭はデッサンするフジタの様子。(オダギリジョーはフランス語を練習しただけでなく、絵の練習もしたという。)その後日本での会話で「一日14時間仕事をした」と語っているが、とにかく「絵を描くことが好き」なのである。そして、有名なモデル「キキ」を始め、「ユキ」と名付けられ妻ともなったモデルなど、たくさんの女たちが出てくる。キキが「モンパリ」を歌う場面など、名場面と言っていい。
日本に帰ると、すぐに「聖戦美術展」の巡回で「アッツ島の玉砕」を展示する姿が出てくる。これこそ、その壮大なる悲愴美で有名な「藤田の戦争画」の代表作。「玉砕」(全滅)しているんだから、取材もできないし、写真もない。その意味では、想像で描いた「歴史画」である。実際、ヨーロッパの画家の戦争場面などが参考にされている。藤田は大家として、日本人画家として、陸軍の協力する以外の道はなかっただろうが、同時にそれは当然だと考えていただろう。この戦争画は戦後アメリカに接収され、その後返還されたが、なかなかまとまって見る機会がない。今回の展示は見てみたが、今となると、僕は「倫理的側面」を抜きにした「絵としての面白さ」があることを認めざるを得ないと思った。
何でこのような戦争画を書いたのか。映画を見ても何も判らない、説明されていないと思う人もいるだろう。だけど、僕が感じたのは、要するに「パリで描いた裸婦」と「戦争画」は同じだということである。「内面の葛藤」などなかっただろうから、そういうものをフジタの映画に期待する方がムダなのだと思う。どっちも、今画家に求められている「受ける絵」を描いた。それは今見ても素晴らしく、見応えがある。だけど、戦争画に関しては、その戦争の目的や結果について、それを抜きにした判断は今はできない。70年以上経ったけれど、今でも「戦争責任」は切れば血の出るテーマである。だけど、これらの戦争画も数百年経ってしまえばどうなんだろうか。もしかしたら、違った感覚で見る日が来るのかもしれない。今の人には判らないことだけど。
小栗康平は1945年生まれだから、戦後70年の今年はまさに70歳、もう古稀である。1981年に「泥の河」を自主製作してベストワンとなった。この映画の鮮烈な抒情と映像美を覚えている人は、いつも似たような「判りやすい物語」を求めてしまう。宮本輝原作のこの映画は、国内の映画賞をほぼ独占した他、モスクワ映画祭銀賞を得た。次が李恢成原作の「伽倻子のために」(1984)でフランスのジョルジュ・サドゥール賞。3作目の島尾敏雄の代表作「死の棘」(1990)では、ついにカンヌ映画祭グランプリ。と、ここまでは知られた原作の映像化で、世界でも評価された。でも、だんだん「静かな語り口」で語られる映画世界に不満を覚える人も多くなっていたのではないだろうか。
1996年の「眠る男」では、ついに眠り続ける男を韓国の名優、アン・ソンギに演じさせて、ひたすら見つめるような映画。これも判らないと言われたが、僕はものすごい傑作だと思った。「世界」の中で生きている人間という存在をこれほど見つめた映画も滅多にないと思う。2005年の「埋もれ木」だけは公開当初に見逃し、評価もそれほど高くなかった。僕も明らかに失敗作だと思うが、ファンタジックな美しさはあった。でも、あまりにも安易な幻想に途中で付いていく気が失せた。だから、原作とか実在人物という「しばり」があった方がいいんだろうと思う。だけど、安易な解釈はせず、ただ見つめるように「世界」を多義的に語る事が得意なんだろう。この「FOUJITA」も、初めからフジタの伝記だなどと思わず、パリで活躍したある日本人画家の神話を提示するアート映画と思えば、非常に満足できる出来映えだ。
映像の絵画的な美しさは快感で、ロングショットで人物を捉える画面も素晴らしい。最近はデジタル技術の発展で、手持ちカメラで動いている画像が多く、臨場感はあるけど、僕にはわずらわしいところもある。こういう静かな映画で語られる世界の方が、僕には映像世界に浸れる喜びがある。小栗康平という人も、やはり大した監督だと思った次第。一度はどこかで見ておいた方がいいと思うけど、アート映画に慣れていないとつまらないかも。もう公開期間も少なくなってきたが、劇場の大スクリーンで見て欲しい映画だ。