尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

金大中と金泳三-韓国民主化運動②

2015年12月14日 23時56分28秒 |  〃  (国際問題)
 金泳三(キム・ヨンサム)韓国元大統領の逝去をきっかけに、この記事を書いているが、今回は金大中(キム・デヂュン)元大統領の名前を先に出した。韓国の民主化運動、さらに日本での日韓連帯運動を書くときには、金大中の役割が大きいからである。

 金大中の名前は、もちろん国際問題に関心がある人には早くから知られていたが、多くの日本人には1973年8月の「拉致事件」を通して印象付けられた。現場から韓国外交官の指紋が検出され、警察当局は出頭を求めたが本人はすでに帰国していた。(情報部出身の外交官だったとされる。)大きな外交問題になったけれど、11月に金鐘泌(キム・ジョンピル)首相が来日して、田中角栄首相との間で「政治決着」を図った。これが日韓関係に刺さる「棘」となってしまった。本来は、拉致された国への帰還(原状回復)が必要なのに、日本はそれを求めずに関係修復を図ったからである。作曲家のユン・イサン(尹伊桑)が西ドイツ(当時)からKCIAによって拉致された時に、西独は強く原状回復を求めて実現させたのと対照的だった。(ちなみに、この経緯を通して、「北朝鮮」は日本は「原状回復を強く求めない国」と認識したという説がある。その認識が後の日本人拉致事件につながるというのだ。)

 一方、この頃から韓国での政治犯問題が大きな焦点となってきた。独裁に反対する韓国の学生や知識人、宗教人が逮捕、起訴される事態が起こったのである。特に、1974年4月に起こった「民青学連事件」では、独裁を厳しく批判してきた詩人・金芝河(キム・ジハ)にいったん死刑判決が下されたり、日本人ジャーナリストも起訴された。また尹潽善前大統領(朴大統領のクーデタ以前の大統領)や池学淳主教など著名人も起訴された。また、この頃、在日韓国人が留学や仕事等で韓国に滞在中に「スパイ罪」で摘発される事件が相次いでいた。このような事態を前にして、日本国内でも救援運動が盛り上がりを見せた。金大中事件の「政治決着」に見られるように、日本政府が人権よりも独裁政権を大事にしていると思ったのである。また、隣国の事態であること、歴史的な経過などもある。しかし、一番大きな点は、日本が戦争の犠牲によって手に入れた「民主主義」を、自らの犠牲的活動により獲得しようとしている人々への敬意や感動があったのだと思う。

 僕が人生で最初に参加した「集会」も、この民青学連事件の救援集会だった。それは有楽町駅前の「そごう」、つまり今のビックカメラの上にある「読売ホール」で行われた。劇団民藝の俳優たちが金芝河はじめ民主運動家の文章を読んだように覚えている。また、それ以後も徐兄弟事件の救援運動など多くの集会に参加した。しかし、日本で一番大きな盛り上がりを見せたのは、1980年の金大中救援運動なのは間違いない。今、これらの日韓連帯運動、あるいは韓国政治犯救援運動はほとんど忘れられている。(ウィキペディアにもほとんど出てこない。)解決した運動は忘れられるのである。しかし、僕の実感では、60年代のベトナム反戦運動に代わって、70年代の民衆運動を代表するものは、日韓連帯、韓国政治犯救援の運動ではないかと思うのである。

 さて、一回目の最後に書いたように、1979年10月に朴大統領暗殺事件が起こり、突然に独裁が終わった。それをもたらしたのは韓国民衆の反独裁運動だった。その後は、首相だった崔圭夏(チェ・ギュハ)が昇格したが、事実上は自由な民主主義の時代がやってくると思われた。1980年の春は「ソウルの春」と呼ばれ、金大中や金泳三も政治活動を活発化させた。しかし、1979年12月12日に、軍内では「粛軍クーデタ」を起こして全斗煥(チョン・ドファン)少将が実権を把握していた。そして、1980年5月17日に、全斗煥らは非常戒厳令の全国拡大措置を取り、民主運動を抑え込み国政の実権を握ったのである。これに対して、特に光州市(金大中の地盤の全羅南道にある)で市民の反発が強まり、反独裁デモが起こった。全斗煥らは軍を派遣して、残虐な弾圧を行った。(光州事件。2007年に作られた映画「光州5.18」があり、韓国で大ヒットし、日本でも公開された。DVDも出ている。)

 全斗煥は9月になって正式に大統領に就任した。そして全政権は、ソウルにいた金大中を光州事件の「黒幕」として「内乱罪」で起訴した。裁判では一審で死刑判決が出て、世界各地で批判が高まった。日本でも国民的な救援運動が起こったし、政府も懸念を表明せざるを得なかった。その後、アメリカを訪問した全斗煥大統領は、無期懲役への減刑を発表、1982年にはアメリカへの「病気療養」を名目にした出国を認めた。その後、全政権時代には、ラングーン事件や大韓航空機爆破事件などの「北朝鮮」によるテロが続いたが、1981年にソウル五輪(1988)の招致に成功した。反独裁運動はその後も続き、全斗煥大統領は1期7年での退任を決めて、後任に軍内で長く同志だった慮泰愚(ノ・テウ)を指名した。国民の直接選挙で大統領を決める制度を求める国民は、1987年6月に大規模な反独裁運動を起こした。(「六月民衆抗争」と呼ばれる。)ソウルの学生を初めとして、全国各地で100万人もの大規模な参加者があったと言われる。

 この事態を前にして、後継者だった慮泰愚は大統領直選制の受け入れを始め、広範な民主化を認める「6・29民主化宣言」を発表し、事態を収拾した。もはやソウル五輪を控えて大規模な弾圧は不可能だった。韓国は経済的にも発展して、中間層が大きな力を持つようになり、今までの強権政治では抑えようがなくなっていたのである。また、モントリオール五輪(アパルトヘイトに反対してアフリカ諸国がボイコット)、モスクワ五輪(ソ連のアフガン出兵に対して西側諸国がボイコット)、ロサンゼルス五輪(モスクワ五輪ボイコットに対抗して東側諸国がボイコット)と、当時3回連続して五輪が政治の影響を受けていた。そのため、韓国政府は当時まだ国交がなかったソ連や中国の参加も含めた全世界の五輪参加を目指していて、国民の声を無視して独裁政治を続けることは出来なかったのである。

 ということで、大統領選が実現するのだが、ここで長くなってしまったので、もう一回。関心がない人もいるだろうけど、同時代的には多くの人が知っていたことである。70年代のアジア各国では、韓国だけでなく、フィリピン、インドネシア、タイなど多くの国で独裁政治が行われていた。80年代半ば以後、フィリピンの民衆革命などで少しづつ民主化が進んできた。同時代の日本では、それらが大きく報道され、国民の関心が高かった。民主化を求める人々への同情、連帯の動きも強かったと思う。88年のミャンマーの運動は、長い時間がかかり、2015年に選挙により民主化が実現したと言えるだろう。1989年の中国の天安門事件に象徴される民主化運動だけは、その後の行く末が見えないけれど。日本での韓国政治犯救援運動は、非常に大きな長い運動でもあり、是非語り継いで行かないといけないと思うけれど、今ではあまり関心がもたれていないようなのは残念だと思う。
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