「村上春樹の語り方」はいろいろあるけど、研究者は別として、一般読者の語り方は大体3つのパターンに分かれるように思っている。
①青春派 特に「青春小説」の場合。登場人物の恋愛や友人関係をめぐり、自分の場合などと引き比べたりしながら青春の哀感を味わう。ちょっとした教訓を得たりする。
②深読み派 特に「パラレルワールド」ものの場合など。そのままではよく判らないから、自分なりに「深読み」して「世界の構造」をつかみ、現代社会へのメッセージを読み取る(つもりになる)。例えば、「巡礼の年」を「3・11後のメッセージ」として読み取り、「巡礼」を「鎮魂」とみなすとか。
③ディテール派 文学を読むというより、小説内に出てくる本や音楽、お店やファッションなどを細かく「考察」する。そこから村上春樹文学を深めていく人もいるが、単に自分の趣味にあう記述を小説内に見出して自己満足するような場合もある。
僕は特にこだわらずに思いついたことを書き連ねて行きたいと思うけど、村上春樹文学は「物語の魅力」であり、自分の内面の奥に潜む闇への旅でもある。だから「物語の構造」を自分なりに読み解く作業が必要になるのは間違いない。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」の2冊しか出ていない段階なら、青春エッセイの延長みたいに読んで、アメリカ小説を読むような気分を味わうことも可能だったと思う。でも「羊をめぐる冒険」以後は違う。「内面の穴」がどんどん深くなっていく。それを読者全員が「読み解く」必要もないと思うけど、どこか自分の内面と共感する部分がないと読む意味が薄れる。
だけど、あえてディテールを読むとすれば、僕には「つくる」の人生を決めた「駅」という設定はすごく面白いと思った。今までの小説に駅が出てきたかどうかをちょっと調べたくなった。また「フィンランド」。「巡礼」はついにフィンランドにまで至るが、フィンランドに行くために休暇を取ると、上司からフィンランドに何があると聞かれる。「つくる」は「シベリウス、アキ・カウリスマキの映画、マリメッコ、ノキア、ムーミン」と答える。(235頁)皆は判るのだろうか。僕は「マリメッコ」が判らない。調べたら世界的なファッションやバッグのブランドだった。アキ・カウリスマキはインタビュー集で好きな映画監督と語っている。確かに村上春樹が好きそうな映画をつくる監督である。アキ・カウリスマキが好きだから、この小説はフィンランドに行きつくのではないかと思う。
さて、前回に書いたように、この小説は「つくる」が16年前に絶縁された4人の友人を訪ねて、その真相を探るというのが主筋である。その構造はだからミステリーであり、主人公が時空を駆け回り真相をつかもうとする。その結果は書かないが、一応4人のその後は小説内でつかめるようになっている。そして、16年も経っているから、どんな人でも高校時代の友人とそう会うものではない。一応真相はつかめた、後は「つくる」が「沙羅」を得ることができるかどうかであると、まあそういうこともできなくはない。でも、僕にはそうは思えないのである。この小説が案外「難物」だと思うのはそこで、「真相」を探っていくと、自分が深い穴に落ちもがいて生きていたように、多かれ少なかれ他のメンバーもそれぞれの「深い穴」に直面していたことがわかる。その穴はとても深いし、「つくる」が再び落ちてしままわないとは誰にも言えない。僕には「巡礼」を経て「つくる」が完全に新しい歩みを始められるのかは、かなり疑問である。
それを暗示するのは、沙羅と会う日の前に何度も電話してしまう「つくる」の姿である。何で電子メールにしないのかは僕には謎だが、今までの村上春樹の小説で使われた電話の役割を思い出すと、何か不吉な感じがする。村上春樹の小説、あるいは現実の世界では多くの問題が解かれずに先に進んでしまうが、この小説でも多くの問題が途中のまま小説は終わってしまう。ただ、はっきりしているのは、この小説にもまた「死」は出てくるが、初期の小説のように「自殺」する者はいないということだ。「ノルウェイの森」のように主要な登場人物の中に複数の「自殺」がある段階は終わったのか。「団塊の世代」の物語であった「ノルウェイの森」に対し、その子供たちの世代の物語である「多崎つくる」ではまた「死」の現れ方が違ってくるのは当然だ。
それでもやはり、小説全体を深い喪失感が覆っている。確かに人生は、また青春期は何かを喪失していく過程だが、村上春樹の小説ではその喪失感は非常に深く、立ち直れないまま「もう一つの世界」、つまり「死の世界」とも言えるが、そちらに引かれていってしまう登場人物も多い。いろいろな仕掛けを通して、何とか主人公は生の世界に戻る道を見つけるが、「海辺のカフカ」も「1Q84」もいかにして「あっちから戻ってくるか」に全力を掛ける物語である。この2大長編を通して、もう同じ構造の物語は書く必要がない世界へ到達したのかと思うと、やはりそうでもないのだなあと僕は思った。
この小説を敢えて現実に引き寄せる必要ないと思うけど、読みたければ「3・11」でも「グローバル化」でも何でもいいけど、「深い喪失」の物語として読み直すことはできなくはないだろう。でも、これは学校を舞台に成立した青春の物語である以上、あえて現実との交点を見つけるなら「いじめ」の物語に近いと思う。昔関係を断たれた(いじめられた)真相を今になって探り始めるというわけである。でも、その結果見えてきたものは何か。それは「世界の反転」だと思う。自分は世界の中の被害者であると思ってずっと生きてきたけど、よくよく探りまわった後では「彼ら」にも「深い穴」が開いていて、むしろ自分の方が加害者だったことがないとは言えないのかもしれない…。
これはユダヤ系のアメリカ作家ソール・ベロー(1976年ノーベル賞)の「犠牲者」と言う小説に似ている世界観である。現在の世界では、この「視点を反転させること」はとても大事だと思う。例えば「テロの犠牲者」であると主張する国(アメリカ、ロシア、中国など)がその対策と称して、アフガニスタンやイラク、チェチェンやウィグルで似たようなことを行ってしまうのを見ると、「犠牲者」はいつでも「加害者」に転化するのだと思う。もちろんイスラエルもそうだし、日本でも「日本は犠牲者」であると称して排外主義をあおる傾向が見られる。そういう世界の中に生きているということをベースにこの小説を読むと、これは単なる青春回顧の小説ではなく、主人公が一人称の物語(被害者)から複数性を獲得していく過程の物語として読めるように思う。
だけどそれが主人公にとって成功しているのかが判らない。この小説は解決を見ずに終わっているが(人生に「解決」はないが、とりあえず恋人に会う日のてん末は知りたい)、果たして彼らの人生はどうなるのだろうか。僕の推察はこうである。翌日のデートでは、結論はペンディングされる。何で「つくる」が完全に解放されないかというと、「つくる」はまだ「色彩」を巡礼し終わっていないからである。すなわち5人組問題は一応の「解決」を見ても、「灰田」が残っているではないか。巡礼をしてみれば、結局本当の色である「アカ」と「アオ」の問題ではなく、焦点は「シロ」と「クロ」にあったことが明らかである。であるならば、「白」と「黒」の間にいる「灰田」を見つけない限り、「つくる」は解放されないのではないか。また、それを言い出すなら、木元沙羅だって今までにいろいろあったはずである。今度は沙羅の「巡礼」が必要になるかもしれない。案外、続編がありうるかもしれないが、続編は読者が書くべきものかもしれない。
以上のように思ったのだが、問題はそれだけでは済まないかもしれない。「1Q84」では青豆に不思議な体の変容が起こる。まるで「マリア様」のような。では、今回の「つくる」の中で、「つくる」が夢想したことは現実化するのか、しないのか。巡礼を経て判ることは、この小説でもおなじような「奇跡」が起こっていた可能性ではないのか。そのように読むことは可能か。この問題は、小説内では「犯罪」と「夢」としてしか語られない。でも両者は結ばれているのではないか。そうなると、この小説も直接異界に接して成立している可能性があると思う。
僕は今までの自分の経験で、精神世界的なモノへの関心は全くないが、人間の「心の闇」の深さは非常に実感している。自殺もそうだが、異界に引きずり込まれるように自分の世界に「引きこもり」を始める人々は、ものすごく多いと思う。そういう生徒(卒業生)を何人も見てくると、村上春樹の小説はとてもリアルな課題を突き付けてくるものとして読める。そういう「思春期をめぐる冒険」(岩宮恵子というカウンセラーが書いた、「心理療法と村上春樹の世界」と言う副題を持つ本の題名)の本として、この物語が必要とした「巡礼」という発想は、今後他でも生きてくると思う。ただ先に書いたように、僕には今回の巡礼は「A面」で、裏に「B面」があるような気がしてならない。次の「巡礼」がどのようなものになるかは判らないが、「つくる」ではなくても村上春樹によってふたたび巡礼が書かれるのではないか。
①青春派 特に「青春小説」の場合。登場人物の恋愛や友人関係をめぐり、自分の場合などと引き比べたりしながら青春の哀感を味わう。ちょっとした教訓を得たりする。
②深読み派 特に「パラレルワールド」ものの場合など。そのままではよく判らないから、自分なりに「深読み」して「世界の構造」をつかみ、現代社会へのメッセージを読み取る(つもりになる)。例えば、「巡礼の年」を「3・11後のメッセージ」として読み取り、「巡礼」を「鎮魂」とみなすとか。
③ディテール派 文学を読むというより、小説内に出てくる本や音楽、お店やファッションなどを細かく「考察」する。そこから村上春樹文学を深めていく人もいるが、単に自分の趣味にあう記述を小説内に見出して自己満足するような場合もある。
僕は特にこだわらずに思いついたことを書き連ねて行きたいと思うけど、村上春樹文学は「物語の魅力」であり、自分の内面の奥に潜む闇への旅でもある。だから「物語の構造」を自分なりに読み解く作業が必要になるのは間違いない。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」の2冊しか出ていない段階なら、青春エッセイの延長みたいに読んで、アメリカ小説を読むような気分を味わうことも可能だったと思う。でも「羊をめぐる冒険」以後は違う。「内面の穴」がどんどん深くなっていく。それを読者全員が「読み解く」必要もないと思うけど、どこか自分の内面と共感する部分がないと読む意味が薄れる。
だけど、あえてディテールを読むとすれば、僕には「つくる」の人生を決めた「駅」という設定はすごく面白いと思った。今までの小説に駅が出てきたかどうかをちょっと調べたくなった。また「フィンランド」。「巡礼」はついにフィンランドにまで至るが、フィンランドに行くために休暇を取ると、上司からフィンランドに何があると聞かれる。「つくる」は「シベリウス、アキ・カウリスマキの映画、マリメッコ、ノキア、ムーミン」と答える。(235頁)皆は判るのだろうか。僕は「マリメッコ」が判らない。調べたら世界的なファッションやバッグのブランドだった。アキ・カウリスマキはインタビュー集で好きな映画監督と語っている。確かに村上春樹が好きそうな映画をつくる監督である。アキ・カウリスマキが好きだから、この小説はフィンランドに行きつくのではないかと思う。
さて、前回に書いたように、この小説は「つくる」が16年前に絶縁された4人の友人を訪ねて、その真相を探るというのが主筋である。その構造はだからミステリーであり、主人公が時空を駆け回り真相をつかもうとする。その結果は書かないが、一応4人のその後は小説内でつかめるようになっている。そして、16年も経っているから、どんな人でも高校時代の友人とそう会うものではない。一応真相はつかめた、後は「つくる」が「沙羅」を得ることができるかどうかであると、まあそういうこともできなくはない。でも、僕にはそうは思えないのである。この小説が案外「難物」だと思うのはそこで、「真相」を探っていくと、自分が深い穴に落ちもがいて生きていたように、多かれ少なかれ他のメンバーもそれぞれの「深い穴」に直面していたことがわかる。その穴はとても深いし、「つくる」が再び落ちてしままわないとは誰にも言えない。僕には「巡礼」を経て「つくる」が完全に新しい歩みを始められるのかは、かなり疑問である。
それを暗示するのは、沙羅と会う日の前に何度も電話してしまう「つくる」の姿である。何で電子メールにしないのかは僕には謎だが、今までの村上春樹の小説で使われた電話の役割を思い出すと、何か不吉な感じがする。村上春樹の小説、あるいは現実の世界では多くの問題が解かれずに先に進んでしまうが、この小説でも多くの問題が途中のまま小説は終わってしまう。ただ、はっきりしているのは、この小説にもまた「死」は出てくるが、初期の小説のように「自殺」する者はいないということだ。「ノルウェイの森」のように主要な登場人物の中に複数の「自殺」がある段階は終わったのか。「団塊の世代」の物語であった「ノルウェイの森」に対し、その子供たちの世代の物語である「多崎つくる」ではまた「死」の現れ方が違ってくるのは当然だ。
それでもやはり、小説全体を深い喪失感が覆っている。確かに人生は、また青春期は何かを喪失していく過程だが、村上春樹の小説ではその喪失感は非常に深く、立ち直れないまま「もう一つの世界」、つまり「死の世界」とも言えるが、そちらに引かれていってしまう登場人物も多い。いろいろな仕掛けを通して、何とか主人公は生の世界に戻る道を見つけるが、「海辺のカフカ」も「1Q84」もいかにして「あっちから戻ってくるか」に全力を掛ける物語である。この2大長編を通して、もう同じ構造の物語は書く必要がない世界へ到達したのかと思うと、やはりそうでもないのだなあと僕は思った。
この小説を敢えて現実に引き寄せる必要ないと思うけど、読みたければ「3・11」でも「グローバル化」でも何でもいいけど、「深い喪失」の物語として読み直すことはできなくはないだろう。でも、これは学校を舞台に成立した青春の物語である以上、あえて現実との交点を見つけるなら「いじめ」の物語に近いと思う。昔関係を断たれた(いじめられた)真相を今になって探り始めるというわけである。でも、その結果見えてきたものは何か。それは「世界の反転」だと思う。自分は世界の中の被害者であると思ってずっと生きてきたけど、よくよく探りまわった後では「彼ら」にも「深い穴」が開いていて、むしろ自分の方が加害者だったことがないとは言えないのかもしれない…。
これはユダヤ系のアメリカ作家ソール・ベロー(1976年ノーベル賞)の「犠牲者」と言う小説に似ている世界観である。現在の世界では、この「視点を反転させること」はとても大事だと思う。例えば「テロの犠牲者」であると主張する国(アメリカ、ロシア、中国など)がその対策と称して、アフガニスタンやイラク、チェチェンやウィグルで似たようなことを行ってしまうのを見ると、「犠牲者」はいつでも「加害者」に転化するのだと思う。もちろんイスラエルもそうだし、日本でも「日本は犠牲者」であると称して排外主義をあおる傾向が見られる。そういう世界の中に生きているということをベースにこの小説を読むと、これは単なる青春回顧の小説ではなく、主人公が一人称の物語(被害者)から複数性を獲得していく過程の物語として読めるように思う。
だけどそれが主人公にとって成功しているのかが判らない。この小説は解決を見ずに終わっているが(人生に「解決」はないが、とりあえず恋人に会う日のてん末は知りたい)、果たして彼らの人生はどうなるのだろうか。僕の推察はこうである。翌日のデートでは、結論はペンディングされる。何で「つくる」が完全に解放されないかというと、「つくる」はまだ「色彩」を巡礼し終わっていないからである。すなわち5人組問題は一応の「解決」を見ても、「灰田」が残っているではないか。巡礼をしてみれば、結局本当の色である「アカ」と「アオ」の問題ではなく、焦点は「シロ」と「クロ」にあったことが明らかである。であるならば、「白」と「黒」の間にいる「灰田」を見つけない限り、「つくる」は解放されないのではないか。また、それを言い出すなら、木元沙羅だって今までにいろいろあったはずである。今度は沙羅の「巡礼」が必要になるかもしれない。案外、続編がありうるかもしれないが、続編は読者が書くべきものかもしれない。
以上のように思ったのだが、問題はそれだけでは済まないかもしれない。「1Q84」では青豆に不思議な体の変容が起こる。まるで「マリア様」のような。では、今回の「つくる」の中で、「つくる」が夢想したことは現実化するのか、しないのか。巡礼を経て判ることは、この小説でもおなじような「奇跡」が起こっていた可能性ではないのか。そのように読むことは可能か。この問題は、小説内では「犯罪」と「夢」としてしか語られない。でも両者は結ばれているのではないか。そうなると、この小説も直接異界に接して成立している可能性があると思う。
僕は今までの自分の経験で、精神世界的なモノへの関心は全くないが、人間の「心の闇」の深さは非常に実感している。自殺もそうだが、異界に引きずり込まれるように自分の世界に「引きこもり」を始める人々は、ものすごく多いと思う。そういう生徒(卒業生)を何人も見てくると、村上春樹の小説はとてもリアルな課題を突き付けてくるものとして読める。そういう「思春期をめぐる冒険」(岩宮恵子というカウンセラーが書いた、「心理療法と村上春樹の世界」と言う副題を持つ本の題名)の本として、この物語が必要とした「巡礼」という発想は、今後他でも生きてくると思う。ただ先に書いたように、僕には今回の巡礼は「A面」で、裏に「B面」があるような気がしてならない。次の「巡礼」がどのようなものになるかは判らないが、「つくる」ではなくても村上春樹によってふたたび巡礼が書かれるのではないか。