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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年②

2013年05月18日 23時27分22秒 | 本 (日本文学)
 「村上春樹の語り方」はいろいろあるけど、研究者は別として、一般読者の語り方は大体3つのパターンに分かれるように思っている。
青春派 特に「青春小説」の場合。登場人物の恋愛や友人関係をめぐり、自分の場合などと引き比べたりしながら青春の哀感を味わう。ちょっとした教訓を得たりする。
深読み派 特に「パラレルワールド」ものの場合など。そのままではよく判らないから、自分なりに「深読み」して「世界の構造」をつかみ、現代社会へのメッセージを読み取る(つもりになる)。例えば、「巡礼の年」を「3・11後のメッセージ」として読み取り、「巡礼」を「鎮魂」とみなすとか。
ディテール派 文学を読むというより、小説内に出てくる本や音楽、お店やファッションなどを細かく「考察」する。そこから村上春樹文学を深めていく人もいるが、単に自分の趣味にあう記述を小説内に見出して自己満足するような場合もある。

 僕は特にこだわらずに思いついたことを書き連ねて行きたいと思うけど、村上春樹文学は「物語の魅力」であり、自分の内面の奥に潜む闇への旅でもある。だから「物語の構造」を自分なりに読み解く作業が必要になるのは間違いない。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」の2冊しか出ていない段階なら、青春エッセイの延長みたいに読んで、アメリカ小説を読むような気分を味わうことも可能だったと思う。でも「羊をめぐる冒険」以後は違う。「内面の穴」がどんどん深くなっていく。それを読者全員が「読み解く」必要もないと思うけど、どこか自分の内面と共感する部分がないと読む意味が薄れる。

 だけど、あえてディテールを読むとすれば、僕には「つくる」の人生を決めた「」という設定はすごく面白いと思った。今までの小説に駅が出てきたかどうかをちょっと調べたくなった。また「フィンランド」。「巡礼」はついにフィンランドにまで至るが、フィンランドに行くために休暇を取ると、上司からフィンランドに何があると聞かれる。「つくる」は「シベリウス、アキ・カウリスマキの映画、マリメッコ、ノキア、ムーミン」と答える。(235頁)皆は判るのだろうか。僕は「マリメッコ」が判らない。調べたら世界的なファッションやバッグのブランドだった。アキ・カウリスマキはインタビュー集で好きな映画監督と語っている。確かに村上春樹が好きそうな映画をつくる監督である。アキ・カウリスマキが好きだから、この小説はフィンランドに行きつくのではないかと思う。

 さて、前回に書いたように、この小説は「つくる」が16年前に絶縁された4人の友人を訪ねて、その真相を探るというのが主筋である。その構造はだからミステリーであり、主人公が時空を駆け回り真相をつかもうとする。その結果は書かないが、一応4人のその後は小説内でつかめるようになっている。そして、16年も経っているから、どんな人でも高校時代の友人とそう会うものではない。一応真相はつかめた、後は「つくる」が「沙羅」を得ることができるかどうかであると、まあそういうこともできなくはない。でも、僕にはそうは思えないのである。この小説が案外「難物」だと思うのはそこで、「真相」を探っていくと、自分が深い穴に落ちもがいて生きていたように、多かれ少なかれ他のメンバーもそれぞれの「深い穴」に直面していたことがわかる。その穴はとても深いし、「つくる」が再び落ちてしままわないとは誰にも言えない。僕には「巡礼」を経て「つくる」が完全に新しい歩みを始められるのかは、かなり疑問である。

 それを暗示するのは、沙羅と会う日の前に何度も電話してしまう「つくる」の姿である。何で電子メールにしないのかは僕には謎だが、今までの村上春樹の小説で使われた電話の役割を思い出すと、何か不吉な感じがする。村上春樹の小説、あるいは現実の世界では多くの問題が解かれずに先に進んでしまうが、この小説でも多くの問題が途中のまま小説は終わってしまう。ただ、はっきりしているのは、この小説にもまた「死」は出てくるが、初期の小説のように「自殺」する者はいないということだ。「ノルウェイの森」のように主要な登場人物の中に複数の「自殺」がある段階は終わったのか。「団塊の世代」の物語であった「ノルウェイの森」に対し、その子供たちの世代の物語である「多崎つくる」ではまた「死」の現れ方が違ってくるのは当然だ。

 それでもやはり、小説全体を深い喪失感が覆っている。確かに人生は、また青春期は何かを喪失していく過程だが、村上春樹の小説ではその喪失感は非常に深く、立ち直れないまま「もう一つの世界」、つまり「死の世界」とも言えるが、そちらに引かれていってしまう登場人物も多い。いろいろな仕掛けを通して、何とか主人公は生の世界に戻る道を見つけるが、「海辺のカフカ」も「1Q84」もいかにして「あっちから戻ってくるか」に全力を掛ける物語である。この2大長編を通して、もう同じ構造の物語は書く必要がない世界へ到達したのかと思うと、やはりそうでもないのだなあと僕は思った。

 この小説を敢えて現実に引き寄せる必要ないと思うけど、読みたければ「3・11」でも「グローバル化」でも何でもいいけど、「深い喪失」の物語として読み直すことはできなくはないだろう。でも、これは学校を舞台に成立した青春の物語である以上、あえて現実との交点を見つけるなら「いじめ」の物語に近いと思う。昔関係を断たれた(いじめられた)真相を今になって探り始めるというわけである。でも、その結果見えてきたものは何か。それは「世界の反転」だと思う。自分は世界の中の被害者であると思ってずっと生きてきたけど、よくよく探りまわった後では「彼ら」にも「深い穴」が開いていて、むしろ自分の方が加害者だったことがないとは言えないのかもしれない…。

 これはユダヤ系のアメリカ作家ソール・ベロー(1976年ノーベル賞)の「犠牲者」と言う小説に似ている世界観である。現在の世界では、この「視点を反転させること」はとても大事だと思う。例えば「テロの犠牲者」であると主張する国(アメリカ、ロシア、中国など)がその対策と称して、アフガニスタンやイラク、チェチェンやウィグルで似たようなことを行ってしまうのを見ると、「犠牲者」はいつでも「加害者」に転化するのだと思う。もちろんイスラエルもそうだし、日本でも「日本は犠牲者」であると称して排外主義をあおる傾向が見られる。そういう世界の中に生きているということをベースにこの小説を読むと、これは単なる青春回顧の小説ではなく、主人公が一人称の物語(被害者)から複数性を獲得していく過程の物語として読めるように思う。

 だけどそれが主人公にとって成功しているのかが判らない。この小説は解決を見ずに終わっているが(人生に「解決」はないが、とりあえず恋人に会う日のてん末は知りたい)、果たして彼らの人生はどうなるのだろうか。僕の推察はこうである。翌日のデートでは、結論はペンディングされる。何で「つくる」が完全に解放されないかというと、「つくる」はまだ「色彩」を巡礼し終わっていないからである。すなわち5人組問題は一応の「解決」を見ても、「灰田」が残っているではないか。巡礼をしてみれば、結局本当の色である「アカ」と「アオ」の問題ではなく、焦点は「シロ」と「クロ」にあったことが明らかである。であるならば、「白」と「黒」の間にいる「灰田」を見つけない限り、「つくる」は解放されないのではないか。また、それを言い出すなら、木元沙羅だって今までにいろいろあったはずである。今度は沙羅の「巡礼」が必要になるかもしれない。案外、続編がありうるかもしれないが、続編は読者が書くべきものかもしれない。

 以上のように思ったのだが、問題はそれだけでは済まないかもしれない。「1Q84」では青豆に不思議な体の変容が起こる。まるで「マリア様」のような。では、今回の「つくる」の中で、「つくる」が夢想したことは現実化するのか、しないのか。巡礼を経て判ることは、この小説でもおなじような「奇跡」が起こっていた可能性ではないのか。そのように読むことは可能か。この問題は、小説内では「犯罪」と「夢」としてしか語られない。でも両者は結ばれているのではないか。そうなると、この小説も直接異界に接して成立している可能性があると思う。

 僕は今までの自分の経験で、精神世界的なモノへの関心は全くないが、人間の「心の闇」の深さは非常に実感している。自殺もそうだが、異界に引きずり込まれるように自分の世界に「引きこもり」を始める人々は、ものすごく多いと思う。そういう生徒(卒業生)を何人も見てくると、村上春樹の小説はとてもリアルな課題を突き付けてくるものとして読める。そういう「思春期をめぐる冒険」(岩宮恵子というカウンセラーが書いた、「心理療法と村上春樹の世界」と言う副題を持つ本の題名)の本として、この物語が必要とした「巡礼」という発想は、今後他でも生きてくると思う。ただ先に書いたように、僕には今回の巡礼は「A面」で、裏に「B面」があるような気がしてならない。次の「巡礼」がどのようなものになるかは判らないが、「つくる」ではなくても村上春樹によってふたたび巡礼が書かれるのではないか。
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年①

2013年05月18日 00時34分09秒 | 本 (日本文学)
 言わずと知れた村上春樹の新作長編小説、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」。発売後すぐに100万部を突破したけど、僕は一月ほどして読んだ。その感想と言うか、思ったことを2回にわたり書いてみたい。書店に行けばズラッと置いてあるから、本のデザインも知ってる人が多いと思うので載せない。この小説は(多くの村上春樹の小説と同じく)ミステリーの味わいがあるので、筋書きの細部に関する記述はできるだけ避けたいと思う。でも何の解説も読まずに「まっさら」の状態で読みたいと思ってる人は、もう大体読んでいると思う。どうしても避けがたい部分はストーリイに触れざるを得ないので、ご注意を。今日はまず概説と僕の村上春樹体験から。

 今や世界的な超人気作家であるハルキ・ムラカミであるから、その新作となれば手に取らざるを得ないと多くの人が思う。でも最初にその題名を見たときには、軽い驚きを覚えた人が多いのではないか。大体一回では覚えきれない。それに今までにも増して、翻訳調の題名である。実際、英語題名が書いてある。〈Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage〉

 370頁ほどの本で、短いと言うこともないが、最近は長大な作品が続いていたから、まあ長さ的には読みやすい。文庫本で一冊になる程度の分量の長編はいつ以来だろう。(と思ったけど、「1Q84」のひとつ前の「アフターダーク」が一冊だった。この小説は忘れてた。)中味もまあ基本は普通のリアリズムで書かれてる。つまり猫語を話せたり、カーネル・サンダースおじさんが話し出したりしない。またリトルピープルがウロチョロしたり、月が二つあったりもしない。(ホントはかなり異常な出来事もあるんだけど、それは小説内でもリアルではない出来事とされている。)だから最近の小説の中では判りやすいという人もいるかもしれない。また内容も昔の(「風の歌を聴け」や「ノルウェイの森」のような)「純粋青春小説」と言える。(主人公は36歳の独身男性で、38歳の独身女性と交際をしている。この年齢は今や「青春期」に入ると言ってよい。)

 でも僕にはこの小説はかなり手ごわいような気がする。しかし題名に関しては、「そのまんま」だった。書評などで知ってる人も多いと思うけど、一応解説しておくと、多崎つくるは小さい時から駅が大好きな名古屋の少年だった。高校時代、学校の授業のボランティア活動で、ある児童施設で活動した。その時同じ施設を選択した5人のメンバーは、かなり違うタイプであるにもかかわらず、非常に気が合う友達となる。他の4人は皆、名前に色の字が付いていた。具体的に書けば、赤松、青海、白根、黒埜である。初めの二人は男、後の二人は女。つまりアカ、アオ、シロ、クロ&多崎の男3人、女2人のグループである。これは思春期にあっては、ちょっと不安定な感じも否めない。つまり誰かが誰かを好きになったら、一人が余ってしまうではないか。しかし、そういう話は微妙に避けられていたのか、卒業まで5人組が続く。ただ他の4人は名古屋の大学に進むが、どうしても駅の設計を学びたい多崎つくるだけが頑張って勉強し東京の工科系大学に進学する

 卒業後も帰省するたびにあっていた5人だったが、大学2年の夏、帰省した「つくる」は誰も電話に出てくれない状態にビックリする。そのあげく4人から絶縁を宣告される。原因が思い当たらない「つくる」は大きなショックを受け、生きる意欲を失ってしまう。一応大学には行っていたものの、死んだように毎日を送り、風貌も変わってしまう。ようやく日常生活に復帰できたものの、世界から拒絶された傷から回復することはなかった。卒業して駅の設計を行う会社に勤め、女性との交際も何回かあったが、心を開く生き方からは遠いままに今まで生きてきた。その間4人の誰とも合わず、消息も全く知らない。

 ところが36歳になって木元沙羅という女性と知り合い、とても惹かれるようになる。でも彼女は「つくる」には何か心に引っ掛かりがあるはずだという。「つくる」は大学時代の話をしたところ、沙羅は4人の消息を調べ上げ(インターネット上のツールを使えば、仕事を現役でやってる世代の人間は大体判るはずだと沙羅はいい、実際数日で居場所をつかんでしまう。)そして是非、昔の友人にあって確かめるべきだという。そこで「彼の巡礼の年」が始まるわけである。この「巡礼の年」というのはリストのピアノ曲集の名前だという。その一曲は、昔ピアノが得意なシロがよく弾いていた曲である。と言う設定で、まさに「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」以外の題名はありえないストーリイだと判った。題名に音楽が使われるのは「ノルウェイの森」や「国境の南、太陽の西」があったが、21世紀に出版された「海辺のカフカ」や「1Q84」と同じく、クラシック音楽の比重が強まっている感じがする。

 年代的には特定できる年はないように思ったけど、「つくる」の父親は「団塊の世代」だとある。村上春樹は1949年1月12日の生まれで、まさに団塊の世代、つまり世界的なベビー・ブーマー世代の一人である。その子供なんだから、まあ大体日本で「第2次ベビーブーム」と言われる世代のはず。巡礼の年が2012年だとしたら、1976年生まれである。僕は若い世代を考えるときは、自分の教えた生徒の年代で考えるのだが、だからまあ大体「江戸川区の中学で2度目の担任をしたときの生徒」だということになる。なるほど、彼らの世代の物語か。

 その頃の僕は、出るたびに村上春樹の新作を買って、その日に読んでいた。最初に読んだのは「1973年のピンボール」で、「風の歌を聴け」は最初は買ってない。(僕の持ってる本を見たら、「風」は4刷で、「1973」は初版だった。)「1973年のピンボール」は今でも一番好きな小説かもしれない。井上ひさしの文芸時評で紹介されていて読みたくなった。さかのぼって「風の歌を聴け」を読み、それらの本の乾いた叙情と青春の喪失感、そして僕の好きなアメリカ小説の匂い(カポーティ、ヴォネガット、ブローティガン、サリンジャーやなんかのムード)を感じて、とっても気に入った。以後全部読んでるわけだが、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「ねじまき鳥クロニクル」なんかは読むまでにある程度の時間があった。(本が)重くて長いから、仕事が忙しいとなかなか手に取れない。

 同じような事情が主な理由だが、その頃から大江健三郎の新作を読まなくなってしまった。「同時代ゲーム」までは丹念に追い続けてきたのだが。ある意味では入れ替わりである。僕の若い頃は、文庫で読める若い作家は、大江健三郎や開高健などに限られていた。三島由紀夫や安部公房はと言えば、50年代の作品は文庫にあるが60年代の作品はまだ入っていなかった。つまり単行本が出れば、3年もすれば文庫になるという時代ではまだなかったのである。だから「若い作家の代表」は、僕にとって大江健三郎であり、「われらの時代」や「日常生活の冒険」などを愛読したものだ。

 大江健三郎と村上春樹では、全然違うタイプの作家であると思っている人が多いかもしれない。しかし案外この二人は共通点があるのではないかと言うのが、僕の考えである。大江健三郎の文章はなかなか難物だから仕事が忙しくなると読んでいられなくなった、と僕は自分で考えていた。実際買ってることは買ってるのでいずれ読むという気はずっとあるのである。でも、ある時気付くと、僕にとって現在形で追い続ける作家が大江健三郎から村上春樹に入れ替わったのではないか、と思うようになった。そしてその意味するものは何か。二人ともドストエフスキーの「悪霊」に大きなインスパイアを受けている作家だと思うのだが、その「悪霊」の対象が違うのだ。

 大江健三郎が「洪水はわが魂に及び」などで度々考察しているのが、連合赤軍事件である。一方、村上春樹にとっての、現実の「悪霊」事件は圧倒的にオウム真理教事件であると思う。つまり村上春樹を読み始めたときはまだオウム事件は起こっていないわけではあるけれど、もっと大きな目で見た場合、「大江健三郎から村上春樹へ」という僕のシフトチェンジは、「連赤からオウムへ」という時代精神の傷の変容、その裏の社会構造の変化を象徴しているのかもしれないと思う。つまり見田宗介氏の分析にいうところの「夢の時代」から「虚構の時代」への変化である。僕にとって村上春樹を読んできたという意味はそういうものではないかと思うのである。今日はまずここまでで。
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