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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ』、渾身の永野芽郁に刮目せよ

2022年10月13日 22時26分41秒 | 映画 (新作日本映画)
 タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ』という映画がすごかった。平庫ワカの同名コミックが原作で、それは第24回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受けたのだという。僕はそれは知らなかったけど、若い女性二人の壮絶な結びつきがストレートに心に響く。もともと原作も短いものらしいが、映画も凝縮された描写で、今どき珍しい85分にまとまっている。フランスの女性監督セリ-ヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』という映画も同じ日に見たんだけど、そっちはさらに短い73分である。(ちなみに『トップガン マーヴェリック』は131分、『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』は147分。)

 シイノトモヨ永野芽郁)はある日、昼食のラーメン屋で何気なくテレビを見ていたら、親友イカガワマリコ奈緒)がマンションから転落して死亡したというニュースを報じていた。中学からの親友の死をシイノは受けとめられない。家を訪ねると、もう部屋は片付けられていた。葬儀はなく「直葬」なんだという。父から虐待を受けていたマリコの骨を家に置いておけるか。突然思い立ったシイノは実家を訪ねて、マリコの父(尾美としのり)とその後再婚した義母(吉田羊)に会いに行く。そして、突然骨箱を奪い取り、そのまま仕事も放って逃亡の旅に出るのだった。
(屋上で花火をする二人)
 この「遺骨泥棒」が最高。窓から遺骨を持って飛び降りると、裏の川を渡って逃げ出す。かつて見たことないようなトンデモな展開に絶句。まあ、そういうストーリーだとは知っていたが、映像の躍動感が半端じゃない。それを支えるのが、ブラック企業で働きながらタバコを吸いまくる永野芽郁の全力演技だ。(ニコチン抜きのタバコを数ヶ月前から吸う練習を始めたという。)さて、どこへ行くかと思ったとき、ふと思い出したのが昔見た「まりが崎」のポスター。ここ行きたいねと言い合った思い出の地。
(舞台となる種差海岸)
 実際は青森県八戸市の種差海岸で撮影された。特に説明はないんだけど、途中のバスなどで判る。そして、ここでもどん詰りに相応しき体験を散々することになる。たまたま釣り人のマキオ窪田正孝)に助けられるが、それでも遺骨はどうなるんだ。その間に過去がインサートされるが、死んだマリコが現れたり、今だから言えることを絶叫したり…。そこで判ることはマリコが壊れていたのと同じく、他に友人がいないシイノも壊れている。二人の関係は一体どんなものだったのか。
(シイノとマキオ)
 マリコの父は出て来るが、シイノの家族関係は描かれない。ラスト、マリコが最後に残した手紙をシイノが読むが、内容は伝えない。あえて描かないことで成立している映画である。原作も同様らしいが、映画化に当たって新しい設定を加えることも多い。しかし、この映画はそうはしなかった。だから、学校時代など不明な部分が多い。それで良いのである。余計な設定を加えて時間を増やすのではなく、ひたすら映像に寄り添うしかない映画だ。映画はマンガや舞台と違って、ロケが出来る。現実の映像を背景にして、壮絶な人間ドラマを見るのである。
(タナダユキ監督)
 監督・共同脚本のタナダユキは非常に快調。かつて『タカダワタル的』(2004)で注目され、その後劇映画に転じた。『百万円と苦虫女』(2008)で日本映画監督協会新人賞を受けた。この映画の蒼井優も何だか似たような感じだった。『ふがいない僕は空を見た』(2012)等があるが、一時は小説やテレビドラマが多かったという。2021年の『浜の朝日の嘘つきどもと』で復調をうかがわせたが、今回の『マイ・ブロークン・マリコ』は一番いいんじゃないか。永野芽郁が今までのイメージを破る役柄を熱演しているが、マリコ役の奈緒も良かった。今年の大収穫だと思うが、映画に見える日本の壊れ方もすごい。どこから手を付ければ良いのだろう。
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深田晃司監督の傑作映画『LOVE LIFE』

2022年10月02日 21時02分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 最近は古い映画ばかり見ていて、新作を見ているヒマがない。特に今年は日本映画の新作をあまり見てないんだけど、見たけれど書かなくてもいい映画も多かった。しかし、ヴェネツィア映画祭のコンペに出品された深田晃司監督の新作『LOVE LIFE』をやっと見たら、これは傑作だった。ヴェネツィアで無冠に終わったので、なんだか期待外れだろうと思っている人がいるかもしれない。でも、この映画ほど現代日本で生きる苦悩をじっくり考えさせる作品も少ないと思う。

 深田晃司(1980~)は濱口竜介監督と並んで、日本の新世代を代表する映画監督だ。濱口監督は『ドライブ・マイ・カー』で世界的に高い評価を得たが、僕はむしろ深田監督作品の方が好きかもしれない。『ほとりの朔子』『淵に立つ』『よこがお』『本気のしるし 劇場版』など、皆僕には心の奥深くに刺さってくるような映画だった。『本気のしるし』はメーテレ(名古屋テレビ放送)が製作したテレビドラマの再編集版で、珍しく原作(漫画)があった。『LOVE LIFE』もメーテレが出資しているが、今度はオリジナル脚本である。脚本の完成度が非常に高いと僕は思った。
(妙子と二郎、子どもの敬太)
 この映画に僕は深く心揺さぶられたが、その理由を説明するためにはストーリーを細かく書く必要がある。それはいわゆる「ネタバレ」ということになるが、ここでは避けたい。この映画は何の情報もなく、ただ初めて見るという方が絶対に面白いだろうから。映画は(というか「物語」全般は)、世界のある瞬間を切り取って成立している。すべてを描くわけにはいかない。ある幸せそうな夫婦が出て来て、母親は息子とオセロをしている。父親は部屋の飾り付けをしている。これは何だろうと思う。子どものお誕生日会かなと思うと、実は違っていた。それどころか、この3人の関係はちょっと普通とは違っていた。そういう人間関係に気を取られていると、映画はある時点で突然ガラッと様相を変えてしまう。
(ホームレス支援をする妙子)
 まあ、それでももう少し情報を書かないと、これ以上進めない。映画館のサイトに書かれている紹介をコピーする。「妙子木村文乃)が暮らす部屋からは、集合住宅の中央にある広場が一望できる。向かいの棟には、再婚した夫・二郎永山絢斗)の両親が住んでいる。小さな問題を抱えつつも、愛する夫と愛する息子・敬太とのかけがえのない幸せな日々。しかし、結婚して1年が経とうとするある日、夫婦を悲しい出来事が襲う。哀しみに打ち沈む妙子の前に一人の男が現れる。失踪した前夫であり敬太の父親でもあるパク砂田アトム)だった。再会を機に、ろう者であるパクの身の周りの世話をするようになる妙子。一方、二郎は以前付き合っていた山崎山崎紘菜)と会っていた。哀しみの先で、妙子はどんな「愛」を選択するのか、どんな「人生」を選択するのか……。」
(パクと妙子)
 夫の父(田口トモロヲ)が出て来て「部長」と呼ばれている。僕はてっきり民間企業の偉い人かと思ったら、実は市役所の元職員だった。二郎も同じ市役所の福祉職員で、妙子の身分はよく判らないけど、やはり市役所で福祉の仕事をしている。二郎は同僚の山崎と付き合っていたが、別れて子連れの妙子と結婚した。妙子は今もホームレスの支援、見回りなどをしているが、これはヴォランティアだろう。前夫のパクは父が韓国人、母が日本人で、韓国に生まれた「ろう者」である。なかなかそういう人と結婚するのは大変だと思う。仕事を見ても、同情心の篤い人だったからなんだろうなと判る気もする。韓国手話が出て来る(もっとも手話の違いは僕には判らない)点で、『ドライブ・マイ・カー』と共通点がある。
(ヴェネツィア映画祭で。監督、砂田、木村)
 この映画は矢野顕子の1991年に発表された同名アルバムにインスパイアされているという。矢野顕子は名前を知ってるぐらいなので、作品との関係はよく判らない。でも映画のような物語ではないだろう。ストーリー的にかなり無理があると思うが、物語というのは一種の「思考実験」である。ある設定に人間を投げ込んで、その対応を見て行く。その結果、「人間というものは哀しいものだ」「人はみな身勝手なものだ」などと僕は思ったけれど、「人間はそう簡単にダメになったりはしないものだ」という感慨も持った。この映画を見て、それぞれの人が何を思うかは違っているだろうが、何事か心揺さぶられると思う。

 主演の木村文乃(きむら・ふみの)がとても良かった。『くちびるに歌を』で五島列島の中学の音楽教師をしていた人。産休に入ることになって、代替教員に天才ピアニストだった新垣結衣を連れてくる。新垣結衣に気を取られて、木村文乃を忘れていたけどすごく良い。夫の永山絢斗(ながやま・けんと)も悪くはないけど、パク役で実際にろうの役者だという砂田アトムが圧倒的。有力な助演賞候補だろう。また二郎の母役の神野三鈴(かんの・みすず)は舞台で見ることが多い女優だが、細かな感情の表現が素晴らしい。撮影、音楽なども素晴らしい。

 それにしても、人間は何やってるんだろうという愚なる言行を繰り返すものだと思った。映画の間は他人事のように見ているけど、よく思い出してみると自分の人生だって同じではないか。でも、同時に人間は「許し合える」のかな、「やり直せる」のかなとも思った。違うかもしれない。この映画の感想ばかりは人それぞれで構わないだろう。でも映画的な完成度はとても高い。
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河瀨直美監督『東京2020オリンピックSIDE:A』、『SIDE:B』は何故つまらないか

2022年06月30日 20時09分36秒 | 映画 (新作日本映画)
 河瀨直美監督の『東京2020オリンピックSIDE:A』、『東京2020オリンピックSIDE:B』がそれぞれ6月3日、24日に公開されたが、やっぱり歴史的な不入りになっている。「東京五輪、映画も無観客」なんて言われてるらしい。多分2週目からは限られた上映になっちゃうだろうと予想して、どっちも公開第1週に見に行った。つまらないに決まってる映画をわざわざ見に行くのもなあと思うけど、一種の社会問題だから見たのである。大スクリーンで見られるのも今回限りと思えば貴重ではある。

 見たらやっぱりつまらなかった。『SIDE:A』を見たら、これは「NHKスペシャル」だと思った。つまりテレビのドキュメンタリーでやれば十分という感じだが、この前見た『教育と愛国』みたいな例もあるから、この感想はテレビに失礼かもしれない。『SIDE:B』になると、一体これは何なのだろうと考えさせられた。僕も含めて多くの人は森喜朗元首相の顔面大クローズアップなんか見たくないと思う。そんなことを書いたら、これも「ルッキズム」(見た目差別)や「エイジズム」(年齢差別)なんだろうか。いや、僕の違和感は大権力者に密着することにあって、例えば瀬戸内寂聴の映像だったら気にならないんだと思う。

 この映画はオリンピック映画だからというよりも、やはり河瀨監督作品だからつまらないのだと思う。日本では政治家や官僚が文化に触れる機会が少ない。小泉元首相はオペラに行くかもしれないが、安倍元首相は年末などに家族で映画を見ていたが大した映画を見ていない。(『永遠の0』は見ても『万引き家族』は見ないとか。)だから、多分「河瀬っていうカンヌでグランプリを取った女性監督がいる」と言われたときに、組織委関係者でちゃんと河瀨作品を見ていた人はいないだろう。もしちゃんと見ていたら、河瀨監督を選任しないと思う。事前にミスマッチが判りそうなもんだ。
(河瀬直美監督)
 2019年に国立映画アーカイブで「オリンピック記録映画特集」と「映画監督 河瀨直美」という特集上映が行われた。この時、河瀨直美のトークを何回か聞いて、この人はなかなか良い人だし面白い人だという印象を持った。だからあまり悪く書きたくないんだけど、その時に見た映画はやはりつまらなかった。全部見てるわけではないから断言はできないが、ある程度面白いのは『萌の朱雀』(1997)と『2つ目の窓』(2014)ぐらいだと思う。『沙羅双樹』『殯の森』『朱花の月』『2つ目の窓』『』と5回もカンヌ映画祭のコンペに選ばれ、『殯(もがり)の森』(2007)はカンヌでグランプリ(第2席)を取ってしまった。

 当然のこと、当時は期待して『殯(もがり)の森』を見に行ったんだけど、全くつまらないことに唖然とした。カンヌで評価されたんだから、何か美点はある。(ちなみに審査委員長は映画監督のスティーヴン・フリアーズ。委員にはミシェル・ピコリ、マギー・チャン、オルハン・パムクなどがいた。パムクはトルコの作家で、後にノーベル賞を取る。)それは判らないではない。いつものように奈良を舞台にして、認知症患者と介護士の触れあいを通して、民俗的な生と死の感覚を描き出す。というか、そういうことなんだろうと思うけど、映像は観客を置き去りにして暴走していくので付いていけないのである。

 その「主観的な世界」こそが河瀨作品の特徴であると思う。実の祖母を撮影する「私的映像」から始まった河瀨直美だが、一貫して主観的な私的世界を描いている。映画アーカイブの特集以後に公開された『朝が来る』(2020)は、今までの中で一番面白いと思ったけれど、原作があるのに自分が出張って劇映画でインタビューしている。ハンセン病差別をテーマにした『あん』(2015)を撮ったため、何か人権問題を扱う女性監督のように思っていた人がいたらしいが、その『あん』も原作があるのにドキュメンタリー的で、ハンセン病理解に関しては公的な啓発キャンペーンと同レベルだった。

 他の作品ばかり書いてきたが、今までの作品と今回の『東京2020オリンピック』は構造が同じである。何か意味ありげな映像が主観的に連続する。一つ一つは面白いところもあるが、全体を通してまとまりがない。『SIDE:A』では子どもを持つ女性選手に焦点が当てられる。カナダのバスケ選手は夫とともに来日した。日本の女子バスケ選手は出場を断念した。また難民の選手もいれば、イランからモンゴルに国籍を変更した柔道選手もいる。それぞれ重要な問題だと言われればその通りだが、ただ点描されてゆくだけで印象に残らない。例えば「女性アスリート」に絞って、テレビ放映する映像を作れば、それで十分なのではないか。

 結局「五輪映画」というものを我々はもう必要としていないということである。全部の競技を描いていたら何時間あっても終わらないし、見たい競技の映像は映画館に行かなくてもすぐ見られる。結局レニ・リーフェンシュタール(1936年ベルリン大会の『民族の祭典』『美の祭典』)、そして1964年東京五輪の市川崑監督『東京オリンピック』を越えるものはもう作られないのだろう。映像美もなければ、スポーツと人間への洞察もない。まあ、今回は無観客だったから、選手や競技場を大スクリーンで見られる意味だけはあるわけだろう。

 『SIDE:B』は森喜朗、菅義偉、小池百合子などの支持者以外は、敬遠した方が良いと思う。関係者には違いないから出て来るのは仕方ない。しかし、何度も顔だけがクローズアップされ、批判的な眼差しが全くない。森組織委会長辞任問題という大問題も、当然出て来ることは出て来るけど、事実関係は外国ニュースで伝えられる。ナレーションや字幕の解説なしに、この問題を扱うのは無理だ。直後に山下泰裕JOC会長の「そんな人ではない」などという発言まで出てくる。森喜朗という人は、首相時代から失言の連続で知られた人だ。そのことを指摘しなければ、批評的精神の欠如というしかない。結局、「権力者」の発言をつないでいるだけで、どうなってるんだという思いが募る。

 もう一つ、最後にあえて書きたい。この映画には両方通じて多くの競技が出てくるが、バレーボール、ハンドボール、卓球、馬術、サッカー、ラグビー、ホッケー、テコンドー、ゴルフ、ボクシング、カヌー、セーリング、ボート、射撃、ウェイトリフティング、トライアスロンなどは全く出てこない。(もしかしてちょっと出てたかもしれないが。)日本選手が活躍した競技を全部出せなどと言うわけではない。それはもともと不可能だが、それにしてはバスケットボール(3×3を含め)の出てくる時間が長い。確かに日本女子の銀メダルは歴史的快挙である。だけど、河瀨直美が2021年にバスケットボール女子日本リーグ会長に就任していることを思い出せば、これじゃ「えこひいき」じゃないかと言いたくなる。
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映画『私のはなし 部落のはなし』(満若勇咲監督)を見る

2022年06月21日 22時48分02秒 | 映画 (新作日本映画)
 記録映画『私のはなし 部落のはなし』を見に行った。東京で最初に上映されたユーロスペースは終わってしまい、キネカ大森まで見に行ったのだが、何しろ205分という長さが大変である。題材からしても、中途半端な描き方は出来ず、ある程度長くなるのもやむを得ないかと思うが、この長さ(途中休憩あり)は見る前に覚悟がいる。内容的に覚悟して見よということかもしれない。

 監督の満若勇咲(みつわか・ゆうさく、1986~)は大阪芸大在学中に『にくのひと』(2007)という映画を作った人である。この映画内で触れられているが、牛が肉になる過程に関心を持って屠場を取材したのだという。その映画は評判を得て東京で劇場公開が予定されたが、部落解放同盟兵庫県連から批判を受けて、封印されたという。当時の関係者が出て来るが、ずいぶん公開の道を探ったものの了解に達しなかった。その後テレビドキュメンタリーの撮影をしていたというが、2019年にフリーになった。そして大島新がプロデューサーとなって、この映画を製作したというから、持続した志に深く感じるものがある。
(満若勇咲監督)
 冒頭から何人もの人々が集まって、自分の人生、自分の思いを語り合う。その語りの魅力がこの映画だと思うが、そこが長いのも間違いない。「被差別部落」とは何なのか。解説の部分は黒川みどり氏(静岡大学教育学部教授)が担当して、歴史的な説明を行っている。ここで「部落差別」とは何か、あるいは「部落解放運動」をどう捉えるかなどを考え始めると、長くなってしまう。僕もそこまで深く関わったことはない。東京にも被差別部落はあるけれど、「同和教育」を実施したことはない。東日本では大体同じだろう。外国籍や障害の生徒に対するいじめ、からかいなど、身近にあって指導しなければならない課題は別なのである。
 
 ここでビックリしたのは、鳥取の「示現舎」の宮部という人が出て来ることである。戦前に作られた「部落地名総鑑」をネット上に掲載し、公刊もしようとした人である。それに対し、刊行差し止め、ネットからの削除と損害賠償を求める裁判が起こされて、2021年秋に東京地裁で差し止め、削除を認める判決が出た。賠償をめぐって一部が認められず、双方が控訴している段階。常識的に考えて「どうかと思う」人物だが、さらにあちこちの被差別部落を回って、ネット上に写真を載せたりしているというから、僕には差別行為としか思えない。しかし、映画は彼の部落訪問に同行しカメラに収めている。どう考えればいいのだろうか。

 本人は本人なりに一応配慮はしているとのことで、子どもの写真は撮らないなどと言っている。ネットに載せることについても、情報自体は中立的なものであって、差別に悪用する人が悪いという主張をしている。情報がなければ差別しようがないだろうに、わざわざ差別心がある人に対して「差別する道具」を与えていることをどう思っているのか。これはドナルド・トランプの銃規制反対論と同じ構造をしている。銃は悪くなくて、銃で犯罪を起こす人が悪いという発想である。しかし、悪用する人が必ず出て来ると判っていて、その準備をする行為は犯罪ではないのか。毒ガスのサリンを作った人は悪くなくて、撒いた人(撒くことを命じた人)だけが悪いのか。裁判ではそうではない判断が出ているではないか。

 そのように思うけれど、実際に映画に出て来ているということは何なのだろう。他にも「差別心を持つ人」を取材して、重層的な取材になっているが、ある意味でそんな取材を受ける人がいるのも驚きである。相互に理解し合う場もなく、お互いに「恐怖」を持っているのがよく判る。歴史的には「同和」という言葉が行政用語として定着し、「同和対策事業」が進められたことの「功罪」が随所で出てくる。「同和」という言葉は「人心惟レ同シク民風惟レ和シ」という昭和天皇の即位時の詔勅から作られた言葉だという。昭和期になってからの、上からの「一視同仁」を表わす官製用語だったのである。
(映画「西九条」)
 中で昔作られた映画が出て来る。60年代末、京都の朝鮮人集落だった地域を18歳の共産党員が撮影したんだという。完成したときは、党と解放同盟の関係が破綻していて、解同の宣伝映画と批判されて党を除名されたという。封印されていた8ミリ映画はもう見られなくなり掛かっていた。何とか専門業者に依頼して修復作業を行って、その一部が出て来る。それを見ると、わずか半世紀ほど前の日本にこれほどの貧困地区があったのかと驚く。映画などで見る発展途上国のスラムという感じである。このような貧困がまだまだ残されていた時代には、国による対策事業は必要だっただろう。

 長くて見るのも大変だけど、社会問題に関心がある人だけしか見ないのはもったいない。こういうテーマだと、いわば「社会科教員」向けとなるが、記録映画としての出来映えからしても、是非多くの人が接する機会があれば良いと思う。だけど、まあいくら見ても「差別の本質」は何だか判らない。この「何だか判らない」空気のようなものに動かされることが、日本社会という気がする。
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李相日監督『流浪の月』、心の中の秘密の場所

2022年06月01日 22時23分16秒 | 映画 (新作日本映画)
 凪良ゆうの2020年本屋大賞受賞作を李相日(リ・サンイル)監督が映画化した『流浪の月』を見た。主演者(広瀬すず松坂桃李)や原作の名で見る人が多いと思うけれど、僕はまず李相日監督だから見るべきだと思った。初期の作品(『69』や『スクラップヘブン』まで)は、それなりに満足しつつも中途半端感があった。しかし、続く『フラガール』(2006)や『悪人』(2010)はほぼ満点だったし、その後の『許されざる者』『怒り』も完全には納得出来なかったが間違いなく力作だった。

 そこで今回の『流浪の月』も見なくてはとチェックしておいた。そして十分に満足したけれど、見るものを選ぶ作品だなとも思った。原作の設定を受け入れられない人もいるのではないか。映画としては力作だけど、いつも以上に(内容的にも、画面的にも)暗い。感触も少し今までと違っている。それは何だろうと思ったら、撮影を韓国のホン・ギョンポが担当していた。『パラサイト 半地下の家族』を撮影した人である。他にも『母なる証明』『バーニング劇場版』などを撮影していて、そう言われてみると何となくタッチが似ているような気がする。どこか日本じゃない場所で撮ったような画面が効果を上げている。

 最近本屋大賞受賞作はほとんど読んでなくて、今回も未読。何となく「誘拐」が絡むことは事前に知ってたけど、細かなストーリーは知らないで見た。映画は最近になく、過去と現在が複雑に絡み合って進む。主人公は家内更紗(かない・さらさ=広瀬すず)という25歳の女性。ファミレスでアルバイトしているが、上場企業に勤める中瀬亮横浜流星)と同棲している。広瀬すずも大人になったなあという感慨を覚えるラブシーンをやっている。更紗には「秘密」があり、それは15年前「男に誘拐された被害者」だったのである。亮は事件を知った上で、結婚を考えている。
(更紗と婚約者)
 10歳の更紗(白鳥玉季)は両親が亡くなり叔母の家にいたが、家に帰りたくない事情がある。公園で本を読んでいたら雨が降ってきて、同じように本を読んでいた19歳の佐伯文(さえき・ふみ=松坂桃李)が傘を差し掛ける。家に来るかと聞かれ、付いて行ってそのまま帰りたくないという。ずっと一緒にいて2ヶ月学校にも行かなかったら、テレビで女児行方不明のニュースになった。ある日、湖で文が逮捕され、「誘拐犯」と「被害女児」になった。逮捕シーンは居合わせた人がスマホで撮影し、SNSで騒がれて今も見られる。それから15年、更紗は深夜に入ったカフェでコーヒーを入れていた文と突然再会したのだった。
(再会した文と更紗)
 更紗は警察で「あること」を告白できず、だから文に負い目を持って生きてきた。実は文と暮らした2ヶ月だけが、人生で心安らぐ日々だったのだ。亮に対しては、好きになってくれたから愛していないのにセックスに応えて来た。文と再会し、つい毎日のようにカフェに足が向き、亮も怪しく思い出し、ネット上や週刊誌に「15年前の被害者を犯人が見つけた」といった記事が出回る。更紗はその写真は亮が撮ったと思い、家を出て文が住んでいるアパートの隣室に移り住むが亮は追ってくる。

 ここら辺の筋は書いていても、なかなか納得しにくい。映画はひんぱんに関係者の過去・現在を行き来し、それぞれの「孤独」を見つめる。世の中から納得されないながらも、更紗と文は「心の中の秘密の場所」で結びついていることが判ってくる。それは性的なものではない。むしろ性的でないことによって、二人は居場所をともにできたのだった。文は交際している谷あゆみ多部未華子)を大切にしていたが、それでも性的な結びつきはなかった。世間的には「ロリコン」「小児性愛」と非難され続けた文にも、実はトラウマと秘密があったことが判ってきて、この二人の関係が実は分かちがたいものだと当人たちも理解してゆく。
(子ども時代の更紗)
 暗い情念が画面からヒリヒリ伝わってくる映画。二人の関係が「ロリコン」というようなものじゃなかったとしても、やはり見ていて元気が出るようなものじゃなく、どこか秘密めいた関係であることは否めない。だから並みの「誘拐」じゃないことに納得は出来ても、こんな暗い映画は見たくないと思う人はいるだろう。それでも映画に引き込まれるのは、松坂桃李の(『弧狼の血 REVEL2』とは全く相反した)存在感の凄さ、そして子役の白鳥玉季の素晴らしい演技である。ポーの詩集を読んでいる文、それを声に出してと頼む更紗。二人の孤独な姿が心に染み入るシーンを観客だけが知る。

 主に長野県の松本で撮影されたようだが、何か人工的な空間のような映像が続く。それが「人の心の中にある秘密の場所」にふさわしい。文と更紗のようなものでなくても、人は「秘密の場所」を持っているものではないか。それが暗い映画なのに忘れがたいものにしていると思う。また、原摩利彦の音楽、種田陽平の美術の素晴らしさも特筆される。(なお、湖シーンのロケは長野県の青木湖、木崎湖、文と更紗がスワンボートに乗るのは東京大田区の洗足池だという。)ところで、「かない」と言ってるから「金井」かと思っていたら、ウェブサイトを見ると「家内」だった。「ドライブ・マイ・カー」の主人公は「家福」だったけど、そんな姓は実在するのかな。力作だし感動もしたが、ちょっとビターな後味が残る。
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必見!『教育と愛国』、斉加尚代監督の映画と本に感動

2022年05月27日 22時38分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 『教育と愛国』という記録映画をやっている。2017年に大阪のMBS 毎日放送で放送されたテレビのドキュメンタリーに追加取材を加えて映画版にしたものである。テレビ版「映像'17 教育と愛国 ~教科書でいま何が起きているのか~」はギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞したというが、全然知らなかった。東京で放送されたのかどうかも知らないが、毎日放送でも深夜枠でしか放送されないらしい。この映画は教育現場を取材しながら、教科書が政権寄りに変えられていった様子をていねいに取材してまとめている。とても判りやすく、かつ興味深く作られていて、内容的にはほぼ知ってる話なのに全然退屈しない。

 作ったのは斉加尚代(さいか・ひさよ)という毎日放送のドキュメンタリー担当ディレクター。今まで気付かなかったが、橋下徹元大阪市長と「バトル」したり、沖縄の地元紙に取材した「なぜペンをとるのかー沖縄の新聞記者たち」とか基地反対運動のデマを追求した「沖縄 さまよう木霊 基地反対運動の素顔」などを作った「有名人」である。その結果、ネット上で「反日」などとバッシングされると、今度はそのバッシングする人の実態に迫った「バッシングーその発信源の背後に何が」というドキュメンタリーまで作るという覚悟と度胸にビックリである。その沖縄や「バッシング」の取材をまとめた『何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から』という本が集英社新書4月新刊で出ている。これがまた超絶的に面白く、勇気の出る本だった。
(『何が記者を殺すのか』)
 今度の映画では冒頭に、元日本書籍の編集者池田剛という人が出て来る。日書は昔は相当に大きい教科書会社だったが、つぶれてしまった。この映画にも出て来る吉田裕氏(一橋大学名誉教授)が教科書執筆メンバーに参加した教科書には「慰安婦」など旧軍の加害に関して詳しく取り上げた。ちょうど「新しい教科書をつくる会」の執筆した教科書が登場した時で、日書版も批判されて採択数が激減してしまった。その結果、日本書籍という会社自体が存続出来なくなって、池田さんも失業して妻子と別れて暮らしている。そういう結果になったことに自責の念を抱き、吉田氏もまた以後は誘われても教科書は執筆していないという。
(斉加尚代監督)
 日本書籍という会社は知っていたし、その教科書も見ているはず。しかし、「つくる会」教科書(扶桑社)を採択してはならないという運動をしながら、扶桑社じゃなければいいやと他社の採択結果はほとんど気にしなかった。その間、確かに扶桑社(育鵬社)を採択する地区はあまりなかったのだが、一方で戦争記述に詳しいような教科書も「両成敗」のような感じでシェアを落としてしまったのである。映画は池田氏の感慨を追いながら、その後さらに教科書が政権によって、どんどん変えられていく様子が描かれる。特に第一次安倍政権で「教育基本法」が変えられ、第二次安倍政権の復活で「具現化」されていく。

 この映画では、その「つくる会」の伊藤隆氏(東大名誉教授)にも2回取材している。ここが非常に興味深いのだが、「歴史に何を学ぶのか」と問われて、「歴史に学ぶものはない」と断言する。しかし、ご本人は「左翼ではない」「反日ではない」ものを求めている。自分だけは歴史に「価値」を持ち込んでおいて、他の人には歴史には何も学ぶものがないと決めつける。だから「歴史」がつまらなくなるのである。二度目の取材で「なんで日本は戦争に負けたのか」と問われて、「それは弱かったからでしょ」などと答えている。中国大陸を侵略したまま、米英と戦争を始めたことを「弱かった」と表現するのか。

 他に気付いたことを挙げると、「両論併記のダブルスタンダード」である。南京虐殺の被害者数などで、文科省の検定では「通説がない」と言って、両論併記的な記述を強いてきた。しかし、最後の方に出て来る安倍元首相は「自衛隊を違憲だと書いているような教科書を子どもたちに渡せない」などと演説していた。「自衛隊違憲論」の学者が一人でもいる限り、両論併記せよという対応をしなければダブルスタンダードというものだ。それにしても、この間の「教育改革」は安倍元首相および支え続けた「大阪維新」のもたらしたものだということがよく判る映画だった。

 この『教育と愛国』も本になっていて、『教育と愛国――誰が教室を窒息させるのか』(岩波書店、2019)が出ているが、そっちは読んでない。毎日放送は「プレバト」を作っているぐらいしか知らなかったが、大変立派な仕事をしていることを知った。しかし、斉加氏の新書によれば、なかなか社内でも大変なようである。僕はこの映画を火曜日に見ようと思ったら、ヒューマントラストシネマ有楽町がまさかの満席だった。どういう人が見に来ているのかよく判らないが、確かに求めている観客もいるのである。今日はシネリーブル池袋で見たが、午前が大雨だったからか空いていた。テアトル系ではちょっと前に大川隆法が作った『愛国女子』なる映画も上映していた。間違って似たような映画を求めてきた観客がいないかと心配。
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軽快な選挙コメディ映画「決戦は日曜日」

2022年01月29日 23時06分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 昨日は夜が紀伊國屋寄席ということで、それまで何をしてもいいわけだが、移動が多いと面倒だし交通費もムダだから新宿で映画を見ようと思った。まずは見たかったけど上映劇場が少ない「決戦は日曜日」。日本では珍しい選挙を描いたコメディ映画である。突然倒れた父を継いで立候補することになった娘を宮沢りえがやっている。全身真っ赤なスーツに白いタスキで、選挙区を回っている姿が実にハマっている。内容も日本という社会を考えさせるヒントがいっぱいある。

 監督・脚本の坂下雄一郎のオリジナル脚本で、5年間かけたという。冒頭のクレジットにまず「窪田正孝」と出るのでビックリ。候補者役の宮沢りえが主演だと思い込んでいたが、二番目。それは俳優のキャスティングという以上に、日本の選挙では候補者は「神輿」であって、支えているのは秘書たちだという構造の問題でもあるだろう。候補者とともに、若き秘書の代表格として地元の私設秘書、谷口勉(窪田正孝)が重要な役割を果たすのである。

 防衛大臣も務めたことがある「民自党」の重鎮、川島昌平が入院した。(この名前は川島雄三と今村昌平だから、映画ファンならニヤリ。)それが衆院解散直前で、急きょ後継を決めようとなるが県連がもめる。そこで娘の川島有美を担ぎ出すことになった。政治に関心がなく、親が出してくれたお金でちょっとした店をしていたというだけの独身女性。政治の裏、地元事情、後援会関係者など何も知らず、過去のSNSには問題がいっぱい。(居酒屋で19歳の男性と知り合って飲んだとか。)炎上系ユーチューバーに突撃されて、切れまくってしまう姿が動画で流れる。果たしてこの候補者、選挙に出て大丈夫なの?
(運動中の川島有美)
 いちいち後援会幹部という老人たちがこれじゃダメだと口をはさむ。有美はそんなに嫌なら辞めたらと言い放ち、後援会が手を引くと演説会もガラガラ。そこに週刊誌が父親の口利き疑惑を報じた。秘書が集まって対策を練るが、要するに「全部事実だが、いかにシラを切るか」という打ち合わせ。有美は私に嘘をつけということかと激怒、もう辞めると言い出す。事務所の屋上に上って飛び降りるとゴネる。困ったわがままお嬢さんだと皆困惑するが、谷口秘書はそのうち彼女の気持ちももっともだと思うようになる。古参秘書と後援会幹部の思惑は今までの利権構造を保持するのに最適な「操れる議員」探しに過ぎなかった。
(「為書き」のある選挙事務所)
 そんなホンネを知ってしまった有美は…。ついに谷口と組んで「自分の落選運動」を始めてしまう。外国ヘイト発言をしたり、父の闇献金を暴く秘密動画を流出させたり。だけど父親以来のコアな保守層には逆に受けてしまう。さすがに闇献金動画はピンチと思われたが、その日に「北朝鮮のミサイル発射宣言」があって話題がそっちに流れてしまう。やるだけやっても、党公認という力で世論調査の支持が落ちていかない。こりゃあ、困った、困ったという普通と逆の選挙映画となって、ついに投開票日の日曜を迎える。

 ストーリーは軽快に進行し、面白いんだけど…。物語には何か不足を感じてしまう。例えば、「応援演説」がない。父は有力者でも、娘は新人だから党幹部の応援があるだろう。そこにカメオ出演の若手有名俳優が小泉進次郎ばりの判るような判らないような演説をするなんてシーンがあれば笑えるだろう。また他党の問題も描かれない。宗教団体をバックにした「公平党」とかが出れば面白いのに。そういう問題以上に大きいのは「敵役」がいないことだろう。怪しげな秘書や後援会幹部はいる。でも「日本の選挙の仕組み」「選挙に行かない日本の有権者」といった問題になってしまう。父親に問題があるが、有美は父を否定できない。
(関係者あいさつ風景)
 そもそもこんなに政治に無知な娘が立候補するのは無理がある。今は一応「公募」とかあるだろう。僕が思いついたのは、有美をシングルマザーにするということだ。かつて父の勧めで「政略結婚」させられた秘書がいた。でも夫には前から付き合っていた女がいて、わがままお嬢に切れて関係が復活、子どもも出来て離婚。そんな元夫の秘書が後継を狙って最有力と言われて、アイツだけにはやらせないと有美も公募に応じる。女性候補を増やしたい党中央の意向もあって、有美が公認されたが元夫も無所属で立候補。昔からの利権を握っていて、後援会はそっちに流れてしまう。

 有美はひたすら私怨で元夫を追いつめ、どんどん過激化していってフェミニスト的主張をする。保守系の方向で問題発言するのではなく、逆に民自党中央が嫌がる発言をさせるのである。その結果、後援会も党中央も離れてしまい、絶体絶命。そこで開き直って「私怨で選挙に出て何が悪い」と発言して、これが受けてしまう。高齢層は元夫に入れるが、無党派の女性有権者に大受けしていって。野党票を奪うまでになってしまい、落選するつもりが支持が増えてしまう。なんてのはどうでしょう。

 選挙映画は日本には数少ないが、特にアメリカには多い。この映画も含めて、大方の選挙映画は戦前のフランク・キャプラ監督「スミス都へ行く」が物語のベースにある。政治のクロウトが操作可能なイノセントな候補者を立てて操ろうとするが、真実を知ってしまった候補者はどうするか。日本ではジェームズ三木監督「善人の条件」(1989、唯一の監督作品)も同じような設定。中村登監督「顔役」(1958)という風呂屋の伴淳三郎が山形市議選に出る映画もあったが、劇映画で選挙を本格的に扱うのはそのぐらいか。ドキュメンタリーならいろいろあって「選挙」とか「選挙に出たい」もある。中では「香川1区」が一番面白い。

 監督の坂下雄一郎は「東京ウインドオーケストラ」「ピンカートンに会いに行く」などがあるが、いずれも見ていない。技術スタッフでは撮影の月永雄太が最近の好調が続いている。「朝が来た」「モリがいた場所」などを撮った人だが、今回も宮沢りえの赤をうまく生かした映像が素晴らしい。選挙事務所で秘書たちを描き分けた演出と美術も見事。ところで、本来は何でこんな選挙なんだという怒りが見るものに湧いてきていいと思うが、そこまでの鋭さはないのが残念。でも誰もが見たことがある選挙を題材に取り上げたことで、見る価値がある。候補者の宮沢りえも見応えがあった。
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映画「香川1区」、政治ドキュメンタリーの傑作

2022年01月10日 22時36分22秒 | 映画 (新作日本映画)
 大島新監督の「香川1区」が東京で先行公開されている。地元の香川初め全国では1月21日頃から上映されるところが多いようだ。これは大島監督の前作「なぜ君は総理大臣になれないのか」(2020)の続編として作られた映画である。立憲民主党の小川淳也衆議院議員に密着しながら、2021年10月31日に行われた衆議院議員選挙を記録した映画である。当然ながら対立候補の平井卓也候補(自由民主党)や町川順子候補(日本維新の会)も取材している。この映画を見ようとする人なら、おおむね選挙結果は知っているだろう。ハリウッド製劇映画ならともかく、結果の判っているドキュメンタリーってどうなの? と思いながら見たけれど、それは全く心配なかった。156分もある映画だが、全く退屈せずに見られる政治ドキュメンタリー映画の傑作である。

 前作「なぜ君は総理大臣になれないのか」は公開当時に見逃してしまって、キネマ旬報文化映画ベストワンに選出されてから見に行った。文化映画部門ではあるが、親子そろってベストワン監督になるのは史上初ではないか。(大島新監督の父、大島渚は1971年の「儀式」がベストワンに選出されている。)しかし、僕は前作はあまり面白くなかった。小川淳也という政治家を知らなかったという人が結構いたが、僕は一応名前も知っていたし注目もしていた。偽装統計問題で活躍したのだから。そもそも与野党問わず、何回も当選している政治家は大体知っている。もちろん小川議員の家族構成なんか知らなかったが、基本的には驚きはなかった。

 大島監督の妻が小川議員と高校同窓で、その縁で長年撮りためていたということだったと思う。そのため珍しいぐらいの政治家密着ドキュメントになったけれど、折々に撮影したブツ切れ感が否定できない。メインになるのは2017年衆院選だが、そこで小川は民進党(当時)の方針に従って「希望の党」から出馬し、比例区で当選した。安保法制に賛成する「希望」から出たことで、「裏切り者」と言う有権者もいた。そこら辺が興味深かったが、その問題はすでに「解決」してしまった。「希望」に「排除」された「立憲民主党」が優勢となってしまったのである。そういう政治家に「なぜ君は総理大臣になれないのか」は大げさに過ぎて僕には理解出来なかった。(例えば石破茂の密着なら「なぜ君は総理大臣になれないのか」も判るが。)
(今回も「本人」ノボリを背負って自転車で)
 だが、今回の「香川1区」は非常に面白かった。一つには選挙が2021年秋に行われることが事前に判っていたことがある。2014、2017年の総選挙は安倍政権が突然仕掛けたものだった。大島監督は他の仕事もあるわけだから、急に選挙になっても困ってしまう。ところが今回はコロナ禍で解散出来ないまま任期満了が近づいて、秋までには必ずあるのである。そこで2021年4月18日、小川が50歳の誕生日を迎える日から撮り始めて、選挙戦、投開票日と起承転結の構成が抜群なのである。

 しかも対立候補の平井卓也は菅義偉内閣で初代デジタル大臣を務めた。1年でデジタル庁を立ち上げた「実績」を大いに誇るものの、パワハラ、暴言、接待疑惑をマスコミで追求された。NTTに接待を受けて「割り勘にした」というが、勘定を払ったのは週刊文春の取材を受けた後だったというのだから、脇が甘いにもほどがある。しかし、平井氏といえば、地元香川県で3代に渡る世襲政治家であり、四国新聞西日本放送を傘下に持つ四国のメディア王である。四国新聞はデジタル庁発足を6面に渡って特集したのに対し、小川議員に対しては取材もせずに記事を書くというトンデモぶりである。
(香川1区は高松市と小豆島)
 そこに「日本維新の会」から町川順子という候補が突然出馬を表明した。小川は維新の議員総会に「乱入」して、出馬取りやめを要請する。それを音喜多議員にツイッターで投稿され、他党候補を妨害したと批判された。小川議員は「野党が一本化を最後まで追求するのは当然」というスタンスだが、「悪意をもって報じられるとは思っていなかった」と言う。大島監督は「維新は自民票も取るのでは」と問うが、小川は「それもあるが結局野党票をもっと取る」と述べる。この問題は当然知っていたが、実は町川氏は玉木雄一郎議員(国民民主党代表、香川2区)の秘書だった人で、小川とも面識があった。玉木も出て来るが、町川の出馬には困惑している感じだ。映画は平井デジタル相や町川候補にも直接取材していて、非常に興味深い。

 こうやって書いていると終わらない。いよいよ選挙公示日を迎え、選挙戦本番である。小川陣営はボランティアが集まってくる。「小川淳也を心から応援する会」(オガココ)というグループもあって、選挙事務所は若い感覚で装飾される。いわゆる「為書き」が目立たないようになっている。「為書き」というのは、有力者が「祈当選 為○○○○君」などと書いた紙である。これだけ有力な人が応援しているという示威だが、大臣、知事、大都市市長など有力者にも序列がある。映画で俳優をどんな順番で載せるのかみたいなものである。そんなものが大きく貼ってあるのは古い感じがする。平井陣営の事務所は為書きでいっぱい。町川陣営ではなんと出陣式に神官を招いてお祓いをしている。
(大島新監督)
 平井陣営も不祥事報道に追いつめられたか、次第にピリピリしてくる。街頭演説では「相手陣営はPR映画なんか作って盛り上がってる」などと演説する。聞いていた監督は「PR映画はないんじゃないですか」と問い詰めるが相手にされない。次第に演説撮影も妨害されるようになり、警察に通報される。もちろん選挙演説の撮影は何の問題もなく(一般人がスマホで撮ってたくさんSNSに上げている)、かえって警察に心配される。岸田首相を迎えて大決起集会があるというので、撮影に行くと入れてくれない。首相演説は絶対に映画に入っただろうに、もう大島監督は「敵対陣営」「危険人物」なんだろう。

 それも道理で、監督のもとには「秘密情報」も寄せられる。一つは政治資金パーティの問題で、2万円×10人分の20万円を貰いながら、出席は3人までと明記されている書類である。パーティ券代は出席の対価だから、出席出来ない7人分は「寄付」で扱わなければおかしいと指摘される。さらに「期日前投票」をした人が本当にその候補に入れたかどうか、別会場で確認しているという情報である。自民党県議が持っているビルの2階に、確かに期日前投票をした人がどんどん吸い込まれている。監督が投票を頼まれた人を装って聞いてみたところ、確かに企業の上役などに投票依頼された人が実際に入れたと報告に行くらしい。

 小川候補の両親にも聞きに行くし、小豆島に運動に行く二人の娘も取材する。最初は「妻です」「娘です」というタスキをしていた家族は、最後になって本人の名前入りタスキをしている。「妻」「娘」では男性中心で従属している感じがするので、自分の名前を出すことにしたのである。そして、ようやく投開票日。まさかの「開票速報開始直後の当確」だった。長女も挨拶して「今までは大人の社会に出ると、正直者は馬鹿を見るということなんだなと思っていたけど、今日は正直者が報われることを知った」というようなことを涙ながらに語る。動員された平井陣営に対し、ボランティアがどんどん増えていった小川陣営には、勢いの差があった。特に小川陣営の応援ということではなく、選挙戦を撮影していればそのことが理解出来る。

 とはいえ、立憲民主党は全体としては議席を減らし、党首選が行われた。小川淳也も何とか出馬したが敗れ、現在は政調会長をしていることは周知の通り。なかなか総理への道は遠いが、やはり正直、公正が売り物というのではリーダーは難しいかもしれない。ホンのちょっと出て来る玉木雄一郎の方がリーダーっぽいではないか。「清濁併せのむ」器がなければ、プーチンや習近平に対応出来るのかと思う有権者もいると思う。まあ、もう一皮二皮向ける必要があると思うが、まずは野党が弱いところをじっくり巡って、今回の選挙の教訓を伝授して欲しいと思う。
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原一男渾身の372分、「水俣曼荼羅」を見る

2021年12月29日 23時40分36秒 | 映画 (新作日本映画)
 原一男監督監督の「水俣曼荼羅」をようやく見た。11月27日公開だから、もう一ヶ月経つが何しろ上映時間が372分と6時間を越える。途中に休憩が2回はさまって、計3部に分かれる濃密な時間である。そうそう見に行けるものではない。料金も3900円均一だし、時間も長大だから、観客を選ぶ映画だ。こういう公開方法が良いのかどうか判断は難しいが、6時間超も見続けることの充実感も間違いなくある。前作の「ニッポン国VS泉南石綿村」も215分に及ぶ長い映画だった。「水俣曼荼羅」はそれをしのぐ長さだが、これは原一男監督の最高傑作なのではないか。長いだけの価値はある。

 水俣病をめぐっては、多くの裁判が起こされ、特に1973年の第一次訴訟の原告全面勝訴判決は有名だ。その後も幾つも訴訟が続き、1995年には村山政権のもとで「最終的解決」が図られた。しかし、それに従わず訴訟を継続したグループもあって、2004年10月に水俣病関西訴訟の最高裁判決が下った。映画はその日から描かれるが、環境省交渉に出て来る環境大臣が小池百合子だったのは忘れていた。以後、いくつもの裁判が出て来て、そのたびに環境省や熊本県との確認交渉が行われるが、役人の対応はいつも一緒。中でも蒲島郁夫熊本県知事が自身の政治資金パーティと重なっているとして欠席した時には唖然とした。

 第一部では病像論を見直すとして、脳に有機水銀が蓄積して感覚障害が起きるメカニズムが説明される。その後、何人かの患者を取り上げて、その人生を振り返る。中では土本典昭監督が70年代初頭に発表した水俣シリーズも引用される。チッソの株主総会に一株株主として出席して「怨」の旗を掲げた有名なシーンも出てくる。(この映画は土本監督に捧げられている。)しかし、当時は「水俣市」に起きた病気だと皆が思っていた。同じ不知火海に面して漁業を行っているんだから天草にも被害が及ぶとは思ってなかった。また水俣では生きていけぬと大都市圏に移住した患者が多くいたということも気付かなかった。関西訴訟は関西圏の患者たちが訴えた裁判だった。

 上の写真の生駒さん夫妻は映画内に出て来る多くの人の中でも特に印象的。水俣病で結婚も難しいと思っていたのに、見合いで結婚出来た。嬉しくて、水俣市の湯の鶴温泉に泊まったが、何もなかった「初夜」。また3部で出て来る胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんは、ストックホルムで開かれた国連環境会議に出席するなど常に自らをさらして闘ってきた人と思われている。彼女が作った詩が入賞し、歌になった。それには自立への強い意志が書かれていた。しかし、その後は彼女がいかに多くの男性に一目惚れしてしまうか。相手を順に訪ねるという原一男ならではのユーモラスなシーンがある。思いもよらぬ人間性の深さを見せてくれる。
(坂本しのぶ)
 長いけれど、途中から出て来る患者や医者、支援者などになじみが出て来ると、あっという間。長さは感じずに見てしまう。裁判の行く末を確認する意味でも、この長さは必要かなと思う。だが、長すぎて見る者を遠ざけるならば、途中まででまとめて発表するやり方もあっただろう。どっちが良いかは僕には判断出来ない。原一男はこれまでは主に「ゆきゆきて、神軍」と「全身小説家」、つまり奥崎謙三井上光晴の密着ドキュメンタリーを作った監督として、世界に知られてきた。

 しかし、これからはアスベスト公害水銀中毒、二つの長大なドキュメンタリーを撮影した監督として認知されるべきだろう。特に水俣では自らダイビング装置を買って、水中撮影して水俣湾のヘドロを見せている。その努力には驚くしかない。最後に天皇、皇后の水俣訪問がテレビで出て来て、石牟礼道子を取材する。どうもその位置づけがはっきりしないまま終わるのが残念な気がしたが、全体としてはドキュメンタリー映画を見る魅力に引き込まれる映画だ。
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濱口竜介監督「偶然と想像」、オムニバス映画は成功したか

2021年12月28日 22時25分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 2021年のベルリン映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)を獲得した濱口竜介監督の「偶然と想像」がようやく公開された。濱口監督は次作「ドライブ・マイ・カー」が先に8月末に公開され、小さな映画館に移りながら今もロングラン上映されている。諸外国での評価が非常に高く、ニューヨーク映画批評家協会賞では何と作品賞(外国語映画賞ではなく)を受賞している。3時間もあるアート作品だが、まだ見てない人は年末にチャレンジを。村上春樹もチェーホフも縁遠いという人にこそ是非見て欲しい映画。

 「偶然と想像」は121分の映画だが、ほぼ40分ずつの短編3作が集まった、いわゆる「オムニバス映画」である。オムニバス映画は異なった監督が担当した作品を集めていることが多い。昔のイタリア映画には「世にも怪奇な物語」「ボッカチオ'70」などデ・シーカやフェリーニなどが担当したオムニバス映画がいっぱいあった。日本では今井正監督が樋口一葉を映画化した「にごりえ」、和田誠監督「怖がる人々」など一人で全部作ったオムニバス映画が思い浮かぶ。今回の濱口監督も一人で全部作ったわけだが、エリック・ロメールの作品、特に「パリのランデブー」に触発されて作ったということだ。

 僕はこの映画は、人生の「偶然」を洒脱に描いた面白い映画ではあるものの、あまり好きな映画じゃないなと感じた。そういう映画はいつもは触れないことにしているが、今回は重要な映画だから感想を書いておきたい。まず第1話 『魔法(よりもっと不確か)』は「撮影帰りのタクシーの中、モデルの芽⾐⼦(古川琴⾳)は、仲の良いヘアメイクのつぐみ(⽞理)から、彼⼥が最近会った気になる男性(中島歩)との惚気話を聞かされる。つぐみが先に下⾞したあと、ひとり⾞内に残った芽⾐⼦が運転⼿に告げた⾏き先は──。」はっきり言って、僕はこの芽衣子という主人公が全く判らなかった。ここまで判らないと魅力を感じようがない。人間は「未練」や「心残り」を抱えて生きているのもだが、心を「支配」されるのは嫌だなと思ってしまった。
(古川琴音と中島歩)
 第2話 『扉は開けたままで』は「作家で⼤学教授の瀬川(渋川清彦)は、出席⽇数の⾜りないゼミ⽣・佐々⽊(甲斐翔真)の単位取得を認めず、佐々⽊の就職内定は取り消しに。逆恨みをした彼は、同級⽣の奈緒(森郁⽉)に⾊仕掛けの共謀をもちかけ、瀬川にスキャンダルを起こさせようとする。」大体、渋川清彦がフランス語の教授で、かつ小説を書いていて芥川賞を受賞したという設定が不可思議。日常的な会話を語らせるのではなく、あえて演劇的なセリフを棒読み的に続ける濱口演出に無理があると思う。それ以上に「嫌な話」だから共感出来ない。短編なのに、良い感じで終わらないのが困る。
(渋川清彦と森郁月)
 第3話 『もう⼀度』は「⾼校の同窓会に参加するため仙台へやってきた夏⼦(占部房⼦)は、仙台駅のエスカレーターであや(河井⻘葉)とすれ違う。お互いを⾒返し、あわてて駆け寄る夏⼦とあや。20年ぶりの再会に興奮を隠しきれず話し込むふたりの関係性に、やがて想像し得なかった変化が訪れる。」これは3話の中で一番面白かった。同窓会で久しぶりに会いたい人がいるが来ていない。やはり会えないかと思ったら、帰る前に偶然出会う。と思ったら…という「偶然」の二重性、三重性が効いている。その結果、思いもよらぬ人生の深いところをのぞき込んだ感慨が心に染み通っていく。
(河井青葉と占部房子)
 これで思ったのは、「ハッピーアワー」「ドライブ・マイ・カー」のように濱口作品は長大さを必要とするのではないか。ワークショップを積み重ねるなかで、次第に「熟成」していく人生ドラマが濱口作品の魅力だった。短編の場合はエリック・ロメール作品、特に「レネットとミラベル 4つの冒険」のように、楽しい中にも社会性があって後味が良くないとダメだと思う。嫌な話があると、次に影響してしまう。嫌な話なら、どんどんドツボにはまるように深い穴に落ちないと。3話にバラバラ感があるのが、どうも難点である。1話や2話を見ている時には、ああいい映画を見ているなあという気持ちが湧いてこないのである。
(ベルリンの濱口監督)
 僕が驚いたのは飯岡幸子(いいおか・ゆきこ)の撮影。話には乗れない1話、2話だが、映像には見入ってしまう。どうやって撮ったのかと思う素晴らしいシーンが多い。音楽はシューマンの「子供の情景」を使用している。東京フィルメックスのサイトを見ると、濱口監督は「シューマンのピアノ曲はシンプルで優しく、どこか不安。この音楽をかけると、感情のうねりをフラットにすることができる、感情をなだめてくれる、見るための準備をしてくれる」と語っている。なるほどなあ。また3話に出てくる仙台駅前のエスカレーターの使い方は忘れがたい。「エスカレーター映画」として「恋する惑星」に匹敵する魅力を放っている。
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映画「草の響き」、佐藤泰志原作5度目の映画化

2021年11月03日 22時30分14秒 | 映画 (新作日本映画)
 選挙関係で「後で書く」と書いた問題が幾つもあるが、それはもっと後に回す。最近は昔の映画を見ることが多く、シネマヴェーラ渋谷の「神話的女優」特集で「カサブランカ」を何十年ぶりに見られた。イングリッド・バーグマンの絶頂期だなあと見つめるしかない。国立映画アーカイブの五所平之助監督特集もちょっと見てる。しかし、そういう古い映画ではなく新作。映画「草の響き」について上映が終わる前に書いておきたい。

 「草の響き」は1990年に自ら命を絶った作家、佐藤泰志の5度目の映画化作品である。函館出身の佐藤に関しては、再評価、映画化によって文庫で再刊されるようになった。それを読んで「佐藤泰志の小説を読む」(2016.10.5)を書いた。「草の響き」って小説があったっけと思ったが、「君の鳥はうたえる」(河出文庫)に収録されていた。今までの映画化には「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」「君の鳥はうたえる」がある。いずれも僕の好きな映画だが、函館オール・ロケの映画になっている。

 原作を読めば判るけれど、函館出身だけど函館を書いた作品は少ない。実は東京に住んで70年代の中央線沿線を舞台にする作品の方が多い。「君の鳥はうたえる」「草の響き」の原作は函館が舞台ではないのだが、それを函館に移して映画化している。そういうやり方があったかという感じ。原作は映画向きとは思えないが、それを膨らませている。現代の若者たちも登場させて、作品世界を広げた。しかし、基本は主人公と妻と友人。この3人という構図が佐藤作品には多い。映画「君の鳥はうたえる」ではそれが柄本佑染谷将太石橋静河だった。「草の響き」では東出昌大(工藤和雄)、奈緒(工藤純子)、大東駿介(佐久間研二)である。

 キャストを見て判るように、この映画では和雄の存在感が大きい。原作は主人公のモノローグだというが、自律神経失調症と診断されて、運動療法としてひたすら走る男の物語である。東出昌大はやっぱり大した役者だなあという感じで、現実世界とズレてしまった男を演じている。もともと東京で働いていて、病気になって妻と帰ってきたという設定。妻はやがて妊娠し友人もいない街で心細いが、和雄の病状は一進一退。走ることには熱中し、ほとんど自己目的化している感じ。夫婦がともに暮らしていくのは難しいことも多い。東京で編集者として働いていた男が、どうして心の失調に悩むようになったのか。そこら辺は詳しくは語られないが、函館の風景をうまくいかして、心にしみ入る映像になっている。
(走る和雄)
 いつも走っている海近くの公園では、高校生3人が遊んでいる。スケボーを教え合ったり、花火を打ち上げたり。この3人が男2人、女1人なので、和雄たち3人の過去がインサートされているのかと最初は思ってしまったが、そうではなかった。現在を同時に行きている若者たちで、その証拠に男子2人はやがて和雄と一緒に走り始める。この走る療法は佐藤泰志の実体験らしい。「自律神経失調症」と診断されているが、うつ病みたいな感じもする。もともと症状的には似ているが、僕には違いがよく判らない。
(妻役の奈緒)
 監督は斎藤久志、脚本は加瀬仁美、撮影は石井勲だが、僕はよく知らないがなかなか達者な仕事ぶりだと思った。妻役の奈緒は最近いろいろと出ているが、映画「先生、私の隣に座っていただけませんか?」の漫画誌編集者より、こっちの方が良かった。3人の若者の一人、彰という役をやってるKayaはやけにスケボーがうまいと思ったら、実際のスケーターだという。函館と言っても、朝市や市電は出て来ない。奈緒は函館山ロープウェーで働いている設定らしいが、他は一切観光地らしい風景が出て来ない。港町の中にある日常の町並みが興味深い。
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瀬々敬久監督の映画「護られなかった者たちへ」

2021年10月19日 22時53分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 「護られなかった者たちへ」という映画を見た。チラシには「佐藤健(容疑者)×阿部寛(刑事)×瀬々敬久(監督)」と書かれている。佐藤健や阿部寛だけでなく、瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ)監督もウリになるのか。時間がちょうど合って近所に見に行ったんだけど、内容が内容なので一応書いて置くことにする。何しろ「東日本大震災」「生活保護」を真っ正面から描く映画なのである。でも後味が悪い映画かなと思った。佐藤健や清原果耶目当てに見に行くと引いちゃうかもしれない。要注意の映画である。

 瀬々敬久監督はピンク映画から出発したが、一般映画を撮るようになってからの壮大な映像世界が見応えがある。4時間38分の「へヴンズストーリー」や189分の「菊とギロチン」など作家性の強い映画だけでなく、「64」「楽園」「友罪」「」など多彩な映画をヒットさせた。どれも壮大で見応えがある映像である。今年もすでに「明日の食卓」があったし(見逃し)、来年以降も公開作が控えている。要注目の監督の一人だ。
(佐藤健×阿部寛)
 宣伝からコピーすると、「東日本大震災から10年目の仙台で、全身を縛られたまま放置され“餓死”させられるという不可解な殺人事件が相次いで発生。被害者はいずれも、誰もが慕う人格者だった。捜査線上に浮かび上がったのは、別の事件で服役し、刑期を終え出所したばかりの利根(佐藤健)という男。刑事の笘篠(阿部寛)は、殺された2人の被害者から共通項を見つけ出し利根を追い詰めていくが、決定的な証拠がつかめないまま、第3の事件が起きようとしていた―― なぜ、このような無残な殺し方をしたのか? 利根の過去に何があったのか?」

 物語はミステリーとして進行する。10年前と行ったり来たりしながら、ベースは阿部寛林遣都の刑事二人組が事件を追うのが主筋。だから詳細は書けないが、発端は大震災にある。阿部寛の刑事も震災で家族を失っているが、10年前の避難所のシーンが長い。そこでは佐藤健が心を閉ざしているが、カンちゃんという子どもと遠島けい倍賞美津子)の二人が気に掛けてくれる。それぞれ誰も家族がいない3人で、助け合って生きていく。
(3人で助け合う)
 10年経ってどうなったか。利根(佐藤健)はかつて避難所で助け合ったカンちゃんを探す。大人になった丸山幹子清原果耶)は公務員になって生活保護の現場で働いている。事件の被害者も生活保護に関わる仕事をしていたことが判って、刑事は話を聞きに行く。そして幹子の仕事を描きながら、「生活保護」の問題点をあぶり出していく。そして遠因に大震災があり、避難所で知り合った三人には一体何が起こったのかを刑事が追う。阿部寛演じる笘篠刑事は相当に強引な捜査をしているが、阿部寛、佐藤健の演技合戦は見どころ。ずいぶん走っている。
(清原果耶演じる丸山幹子)
 この物語は中山七里の原作がもとになっている。仙台が舞台になっていて、映画も仙台を中心にロケされている。原作はもっと生活保護の状況を詳しく描いているらしい。映画ではロケの風景の中で大きな人間ドラマが展開される感じ。そこが「映画を見た」という満足感を与えるけれど、僕が見るところ話が図式的で納得できないのである。図式的という言葉は「イデオロギー的」といった感じで使われることが多いが、ここで言うのは作家側が意図した「物語の構図」をはみ出さないというような意味。

 「餓死」という死因の殺人事件は珍しいと思うが、そこがポイントとなる。だけど、いくら何でもこの物語はやり過ぎではないか。まあ永山則夫が言ったように、殺人は「仲間殺し」だということなのか。カンちゃんは天気予報してる方がいいよという難役。一生懸命やってるけど、僕は無理があると思った。むしろ事件の「主犯」は「生活保護を受給しにくくしている政治家」であるはずだ。それは誰なのか。ちょっとは言及されるけれど、そこはやはり弱い。コロナ禍のいま、この映画はとても重要な問題を告発している。それだけに個人の問題のように進行して「悲劇のドラマ」のように終わるのが残念だった。
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映画「由宇子の天秤」、正義の秤は揺れ動く

2021年10月10日 21時15分04秒 | 映画 (新作日本映画)
 春本雄二郎監督・脚本・編集の「由宇子の天秤」という映画は要注目。春本雄二郎(1978~)監督は「かぞくへ」(2016)という映画を作った監督だが、僕は見ていない。「由宇子の天秤」はそれ以前から書いていたオリジナル脚本を満を持して映画化したもので、ベルリンやプサンなど世界各地の映画祭で好評を得た。152分もある長い映画だけど、長さは感じない。今年の日本映画の収穫と言って良い作品だと思う。

 ドキュメンタリー映像を作っている木下由宇子瀧内公美)はある女子高生自殺事件を追っている。遺族に取材を積み重ねるが、遺族は学校の対応以上に報道被害に怒っている。しかしテレビ局側は身内批判のような部分を削って欲しいという。関係者の閉ざされた心を解きほぐして何とか真相を追求してきた由宇子は精一杯抵抗するのだったが…。一方、由宇子の父政志光石研)は学習塾を開いて男手一つで由宇子を育ててきた。今では時々由宇子も教えていて、ある日テストをしているとカンニングしている生徒が目に付く。それが小畑萌(めい=河合優実)で、その夜塾で倒れて家に送っていくことになる。
(テストをやっている萌)
 萌は同じく父と二人暮らしだが、部屋はものすごく散らかっていて、ガスも止められている。そして由宇子は萌から驚くべき告白を聞いてしまう。それは塾の存立に関わる出来事で、取材した相手のようにネットで取り沙汰されると自分の仕事にも関わるかもしれない。自殺の真相を追究してきた由宇子だが、自分の身に降りかかっても正義を貫けるのだろうか。この前に見た「空白」は実に鬱陶しい映画だったが、それでも登場人物は主観的には間違ってはいない行動をすることで衝突する。しかし、「由宇子の天秤」の登場人物の多くは、それはまずいでしょという行動を取っている。そこが人間なのかもしれないが。
(木下塾の父と娘)
 ミステリー的に何が真相か、どんでん返しを仕掛けつつ進行するが、やはりカタストロフィに至ってしまう。仕事においても塾での問題においても。「正義の天秤」はどちら側に揺れるのか。自分の問題かどうかに関わらず、由宇子は判断を誤っている。それは何故だろうか。3年前の女子高生自殺事件に関しては、二次的な証言としてしか描かれないから観客に真相は見抜けないと思う。しかし、塾で起きる萌の問題では由宇子の判断の誤りは決定的だと思う。その様子を野口健司のカメラがじっくりと映し出す。
(春本雄二郎監督)
 春本雄二郎は松竹京都で「鬼平犯科帳」など時代劇の助監督を務めてきたという。すでに3作目「サイレン・バニッシズ」が完成していてプサン映画祭で上映されたらしい。「由宇子の天秤」には疑問点もあるが、大変な注目株だと思う。製作に片渕須直監督が参加している。優れたシナリオとともに、撮影や照明(根本伸一)の貢献も大きい。滝内公美は「彼女の人生は間違いじゃない」「火口のふたり」も難役だったけれど、今回の方がはるかに大変なんじゃないだろうか。由宇子には疑問もあるが、それを演技と感じさせない。

 萌役の河合優実(2000~)は最近いろんな映画に出ているが全く違った印象で驚く。「喜劇愛妻物語」ではうどん打ちの高校生、「佐々木、イン、マイマイン」では佐々木の死体を発見する苗村、「サマーフィルムにのって」ではハダシ監督の友人ビート板。今回はひたすら恵まれない女子高生だから判らなかった。「」というタイプは教師をしてれば時々出会うと思うが、捉えどころがなくウソばかりにも見えるし、逆に信じてあげなければとも思わせられる。対応が難しいタイプで、由宇子も困惑するが対応は失敗した。

 ところで冒頭で取材する学校は公立だろうか私立だろうか。教育委員会や自治体の責任問題に全く言及されないから、恐らく私立学校なのかもしれないと思って見た。自殺生徒が非常勤講師の先生と交際していたらしいという情報も出てくる。非常勤講師は部活は持たないし、授業が終われば帰るから残業もない。非常勤講師の母親は、子どもが学校の勤務が大変で、学年主任も取り合ってくれないと言ってたと証言する。

 その時点で僕は疑問を持ったが、私立の場合はちょっと違うのかなと思ったりもした。その僕の疑問は実は真相につながる疑問だったと後で判る。僕には驚きの展開はなかったが、登場人物の描き方がとても自然で、まさにドキュメンタリーのようだった。ただ、小声でしゃべる登場人物が多くて、僕には聞き取れないところもあり、「サウンド・オブ・メタル」のようにバリアフリー字幕があればいいのにと思った。
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映画「空白」、「不運」と「宿命」の連鎖

2021年10月04日 22時32分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 吉田恵輔監督・脚本の「空白」という映画を見た。予告編を見て、この映画は見たくないなあと思ったけれど、評判の出来だから見ておかないと。見たくないなあと思ったのは、設定の痛ましさと間の悪さに居たたまれない感じがしたからだ。ある女子中学生がスーパーで万引きをして、店長が腕を取って連行しようとする。中学生は店外へ逃げて行くから、店長は追っていく。逃げて、追って、逃げて、追って…中学生は国道を渡ろうとして、駐車車両の後ろを飛び出す。そこへ車がやって来る。中学生の父親は娘が万引きをしたとは信じない。娘が万引きするはずがない、娘にいたずらする気だったんだろう、絶対に許さないと付きまとう。

 予告編だけ見ると、どこだか判らなかった。東京近郊かと思うと、冒頭に海が出て来て、父親添田充(そえだ・みつる=古田新太)が海で漁師をしている。海辺の話だったのか。事故はテレビで大きく取り上げられ、「蒲郡中二事故」とテロップにあるから、愛知県蒲郡(がまごおり)だった。そう言えば穏やかな三河湾の向こうに竹島(相模湾の江ノ島のような島)が見えている。いつも荒々しく強権的な添田に相応しくないような風土だ。

 そこから学校へ画面が移ると、添田花音(かのん=伊東蒼)が多分入学式用の花を作っている。でもゆっくりすぎてはかどらないので、担任の今井若菜(趣里)から注意されている。一方、「スーパーアオヤギ」では店長青柳直人松坂桃李)がパートの草加部麻子寺島しのぶ)と話している。花音の両親は離別しているようで、娘は時々母親松本翔子田畑智子)に会っている。そして夕食中に父に話があると言うが、父はスマホに電話が掛かってきて忙しそうなので「今はいい」と言う。そんな日常が点描されていく。

 そして悲惨な事故が起きる。万引きを疑って追っていくのはやむを得ないと思うし、急に飛び出てくるんだから車は事故を防ぎようもない。父が娘の死を嘆くのも当然だし、娘が万引きしたとは信じたくない。もしやったとしたらクラスでイジメがあったと疑うのも当然だと思う。前日に話があると言ったのは、その相談だと思い込む。そして父はスーパーへ、学校へ乗り込んで行く。テレビはワイドショーで熱心に取り上げ、キャラが濃い父親に密着する。取材で店長の謝罪を撮るが、その後の笑ったシーンだけを流す。学校も校長は逃げ腰で担任だけが思い悩む。しかし、父は娘の何を知っていたのか。母はそのことを突きつける。

 スーパーには客がいなくなるし、店長は追い詰められる。松坂桃李は「弧狼の血 Level2」ではヤクザや県警幹部を相手に一歩も引かないというのに、ここでは荒ぶる古田新太になすすべもない。しかし、どうすればよかったのだろうか。これは「不運」としか言いようがないが、そこで人々は「宿命」を背負って歩き出すのである。父はやがて娘を少しずつ理解していくが、もはや遅すぎる。父の死でスーパーを継いだ店長も燃えつきていく。こっちは悪くないんだから闘うしかないという草加部さんの「正しさの押しつけ」では救われない。一つの悲劇から、人々の宿命が見えてくる。だけど、一体何をどうすればよかったのか。

 ここまでの荒々しさは経験しなかったが、親の対応には困ることもある。はっきり言って学校で対応できる範囲を超えているが、父親をむげにあしらうことも出来ない。こういう映画を見ると、何だかトラウマのように保護者対応の大変さが思い出されてつらくなる。花音と青柳は自ら闘う生き方を出来ないことで共通していたのかもしれない。しかし、今の日本では彼らは「加害者」と「被害者」としてしか出会えない。それも万引きにおいては花音が「加害者」で、追って行って道路に飛び出さざるを得なくさせたことにおいては青柳が「加害者」になる。50年前の水俣のように、加害者と被害者がはっきりと見えない時代を我々は生きている。

 吉田恵輔監督(1975~)は今年「BLUE/ブルー」というボクシング映画を作ったが、これは見落としている。(配信中。)「銀の匙 Silver Spoon」(2014)、「ヒメアノール」(2016)、「愛しのアイリーン」(2018)といったコミックの映画化で評価されたが、他にはオリジナル脚本が多い。「純喫茶磯辺」(2008)、「さんかく」(2010)を前に見ているが、まだまだ初期作という感じだった。原作ものも含めて、間の悪い出来事が積み重なり、主人公が暴走していくような映画が多いと思う。「空白」の古田新太はその代表と言える。

 企画・製作・エグゼクティブプロデューサーの河村光庸はスター・サンズで「愛しのアイリーン」「新聞記者」などを作ってきた。撮影の志田貴之は今まで吉田監督と組んできた人だが、手持ちカメラが少し気になった。音楽の世武裕子はいつにもまして素晴らしいと思った。今年を代表する問題作だと思うが、古田新太はほとんどホラー。面白がって見られるレベルを超えているので、無理して見ない方がいいかも。そんな中で母の田畑智子、パートの寺島しのぶが人間理解の上で重要な役どころを好演している。寺島しのぶが「こんなオバチャン」と自嘲していたが、もうそんな風に言われてもおかしくないのに時間の経過を感じてしまった。
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「孤狼の血 LEVEL2」はやっぱり面白いけど、

2021年09月02日 22時50分12秒 | 映画 (新作日本映画)
 白石和彌監督の映画「孤狼の血 LEVEL2」が公開された。東京は猛暑の8月から突然秋冷の9月になって、体も付いていけないような日々。そんな疲れた日々にあっても、絶対に寝ないで見られる熱い映画である。まあ疑問点も多いんだけど、あまり考え込まずに松坂桃李の活躍を楽しんで見れば良いのかもしれない。

 第一作の原作柚月裕子弧狼の血」(2015)は高く評価され、日本推理作家協会賞を受けた。映画化された白石和彌監督の「弧狼の血」(2018)もキネマ旬報ベストテン5位に選ばれた。原作も映画も広島県呉原市(架空)で起こる暴力団抗争と警察の対応を描いている。主人公の大上役所広司)は時には法律を無視しても暴力団と手を結び、町の治安を守ろうとする警官だった。ところが大上は前作の最後で殺されてしまった。

 前作では大上に付く若い警官日岡松坂桃李)がいた。日岡は最初は大上に疑問を持ちながらも、次第に大上の手法に共感するようになっていく。実は日岡には「秘密のミッション」があったのだが、大上の秘密ノートを受け継ぐ警官になってしまった。前作のラストでは日岡が裏で仕組んで尾谷組五十子組長石橋蓮司)を襲撃して殺害した。原作はその後日岡を主人公にして2作書かれているが、映画は基本的設定は前作を受けつつオリジナルストーリーとして作られた。1988年の前作から3年後である。

 殺害された五十子組長を慕う上林成浩鈴木亮平)が出所してくるところから始まる。上林(うえばやし)はさっそく刑務官の妹がやっているピアノ教室を訪れ報復をする。3年前の事件はすでに手打ちになっていたが、上林はそれを認めず五十子組内で思うままに暴れ始める。「ピアノ講師殺人事件」の捜査本部に日岡も呼ばれ、同僚として定年間近の瀬島中村梅雀)と組む。日岡たちは上林の獄中の様子を聞き、事件に関与している疑いを強めるが証拠が挙らない。日岡は親しくしている「華」のママ近田真緒西野七瀬)の弟近田幸太村上虹郎)を五十子組にスパイとして送り込んでいる。上林はあまりにもひどいと近田幸太(チンタ)から情報を得るが…。
(日岡と瀬島)
 原作も前作も「仁義なき戦い」(というか「県警対組織暴力」)みたいな話である。そのために広島を舞台にしてるわけで、もう「パスティーシュ」(模倣)というか「オマージュ」である。大真面目にやっているから「パロディ」ではなく、和歌で言う「本歌取り」みたいなものである。設定に現実性があるかどうかという批判をしても意味はない。しかし、2作目の上林はいくら何でもモンスター過ぎると思う。完全にサイコパスであり、多くの人が対応を誤って怪物を育ててしまった。しかし、そういう上林を大迫力で演じた鈴木亮平はすごいと思う。正直言って見ていて怖かった。
(上林とチンタ)
 間違いなくジャンル映画の傑作だが、この面白さは演技やスタッフの力量の確かさに支えられている。また白石監督の演出技量にも感嘆するしかない。日岡と関わる近田真緒を演じた西野七瀬は元乃木坂46メンバーとのことだが、大変良かったと思う。これはむしろSFで言うパラレルワールドだと思って、何故か広島県で「仁義なき戦い」が続いてるという世界の話として見た方がいいと思う。広島各地でロケされている。映画内では残虐シーンが多いので、嫌いな人は見ない方がいいと思う。
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