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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『ロストケア』、演技合戦の介護ミステリー

2023年04月06日 22時39分18秒 | 映画 (新作日本映画)
 葉真中顕(はまなか・あき)というミステリー系の作家がいる。2013年の『ロスト・ケア』が注目され、社会的な背景を巧みに生かすミステリー小説が多い。テレビドラマ化された作品はあるが、葉真中作品初の映画化が『ロストケア』という映画。(原作は「・」があるが、映画は「・」がない。)松山ケンイチ長澤まさみの壮絶な演技合戦が見どころだが、介護問題をめぐって現実に起きた事件などを思い出してしまう。なかなか大変な映画である。

 予告編で、長澤まさみ演じる検事が「あなたは42人を殺しました」と追求すると、松山ケンイチ演じる介護士が「私は42人を救いました」と答えるシーンが流されている。だから、見る前から「そういう映画だな」と判っている。原作も読んでるけど、ずいぶん前で細かいことは忘れてしまった。調べてみると、原作の舞台は東京都西部の八王子市あたり、検事も男性だった。

 映画では検事を女性という設定に変えて、長澤まさみをキャスティングした。興行的な理由でもあるだろうが、これが実に効いている。検事だから警察より広い部屋で尋問している。松山ケンイチと丁々発止のやり取りは緊迫感にあふれる。松山演じる介護士斯波(しば)は「確信犯」だから、むしろ大友検事は押され気味に見える。「安楽死」が認められない日本では、斯波の行為が刑法に触れることは間違いない。動機がどうであれ、それは動かない。だから検事の方が優位に尋問できるはずが、検事の主張はきれい事だと決めつける松山ケンイチの確信に満ちた口調が検事の内面を揺るがす。

 ロケは長野県諏訪市あたりで行われた。冒頭で諏訪湖が見えるので海辺かなと思ったが、長野県と出て来るから諏訪湖だなと思った。松山ケンイチの他に研修中の若い女性、ベテランらしい女性介護士が組んで、各家庭を回って介護している。いかにもテキパキと好ましい感じの介護である。だが松山ケンイチ演じる斯波には裏があることをすでに予期している。そういう目で見ると、なんだか出来すぎているようにも見える。ある出来事きっかけに、すべてが反転していく。最初は事故のようにも見えたが、統計的に怪しいと気付くのは検察事務官の椎名。『蜜蜂と遠雷』やテレビドラマ『silent』の鈴鹿央士が好演している。

 大友検事も母親を介護ホームに預けている。大分認知症も進んで来たようだ。だが、それだけの経済的余裕があって出来ることである。一方、斯波はこの社会には穴があって、一度落ちたら外に出られない。恵まれている人には判らないだろうという。そう言われると返す言葉がなかなかないだろう。確かにそういう側面があるが、だからといって「殺人」に手を染めるのは飛躍である。主人公がそう思って立ち止まるとドラマにならないから、行き過ぎぐらいの大犯罪になる。しかし、実は明確な物的証拠がないケースが多いから、斯波が全面否認したらなかなか起訴も難しかったかもしれない。その方が法廷ミステリーとしては面白い。でも斯波が「自白」するのは、社会に問題を突きつけたいという作者の意図だろう。

 原作は2013年刊行だから、2016年に起きた「やまゆり園事件」の前である。作家の想像力が同じような発想をする事件を予知したのだろう。映画は良く出来ているけど、テーマ性というよりは、初共演の松山ケンイチ、長澤まさみに注目する人が多いだろう。非常に迫力のあるぶつかり合いで、見応え十分。僕は訴追側でありつつ内心で動揺を隠せない検事役の長澤まさみが上手かったと思う。柄本明、藤田弓子、綾戸智恵、坂井真紀など共演陣も充実している。監督の前田哲は近年コンスタントに作品を発表している。『こんな夜更けにバナナかよ』『老後の資金がありません!』『そして、バトンは渡された』など話題作が続き、『大名倒産』が控えている。安心して見られる力量の持ち主だと思った。
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映画『零落』と『ちひろさん』、漫画の実写化2本

2023年04月03日 22時12分56秒 | 映画 (新作日本映画)
 『零落』と『ちひろさん』という映画を最近見て、どちらも僕にはとても面白かった。昨年の新作日本映画では、ここで書いた映画があまりベストテンに入らなかった。それは別にどうでもいいけれど、僕の好きなタイプの映画は人には受けないこともある。逆に『夜明けまでバス停で』『こちらあみ子』など、僕には疑問が残る映画ながらベストテン上位に入る作品もある。まあ、そういうもんだろうが、ここで取り上げる二本もあまり評判になってないし、好みは分かれるのかもしれない。

 二本の映画は、どちらも漫画の映画化。漫画の実写映画化はものすごく多いが、あまり成功しないことが多い。すごい人気作品だと、作品や主人公を実写で表現するとイメージが壊れると思う人も多いだろう。浅野いにお原作の『零落』は、竹中直人監督、斎藤工主演で映画化された。竹中直人は怪優イメージが強いが、俳優以外に様々な活動をしている。
(監督と出演者など)
 映画監督も10作目だという。最初の『無能の人』(つげ義春原作、1991)はヴェネツィア映画祭で国際批評家連盟賞を受けた傑作だった。つげ義春の映画化の中で一番成功していた。その後も『119』(1994)、『東京日和』(1997、荒木経惟夫妻をモデルにしている)あたりまでは面白かった。21世紀になっても時々監督作品があるが、あまり評判にもならず見てない映画が多い。先に挙げた作品では自分も出演しているが、今回は出ていない。

 斎藤工が演じる漫画家の深澤薫は大ヒット漫画「さよならサンセット」の連載が終了して、次の作品の構想も浮かんでこない。妻の町田のぞみMEGUMI)は漫画編集者で、担当の牧浦かりんが大人気になって多忙である。夫婦はすれ違いで、薫は離婚も考えている。「売れれば良いのか」という漫画界で、創作意欲の衰えた薫に居場所はあるのか。家を出て、風俗嬢を呼んでみるが…。そのうち「ちふゆ」(趣里)という風俗嬢と仲良くなっていき、あるとき田舎に帰省する彼女に付いて行く。アシスタントの女性、漫画界の様子なども描きつつ、大学時代に付き合った猫顔の女玉城ティナ)の呪縛が解けない。
(ちふゆ)
 深澤薫はその気になれば売れる漫画をいくらでも描けるけど、「孤独」を抱えている。その心の中へ入るのは他人には大変で、外から見ればずいぶん身勝手である。その身勝手な中に「真実」を見つけられるか。風俗嬢「ちふゆ」は彼の心に寄り添えるのか。それとも所詮は金のつながりなのか。薫の苛立ちが判らないと、この話は何も面白くないだろう。筋だけじゃなく、登場人物の顔なども原作漫画に似ているようだ。またカメラワークや演出もなかなか冴えていて、見応えがあった。この人の人生はこれでいいのかと思う場面が多いが、映画は人生訓じゃないのでそこに説得力がある。僕はこの手の暗め映画が好き。

 「ちふゆ」ならぬ「ちひろ」を名乗っていた元風俗嬢を有村架純が演じるのが『ちひろさん』。安田弘之原作の漫画の映画化で、こちらは映画には出て来ない人物も少しいるようだ。最近好調な今泉力哉監督作品だが、Netflix製作だから配信が中心の映画なんだろう。僕は新宿武蔵野館でやってるからそこで見たけど、これも面白かった。ここでも「孤独」が描かれている。ちひろさんはとある港町にある弁当屋「のこのこ弁当」で働いている。元風俗嬢ということを特に隠すわけでもなく、不思議に自然と客に接していて人気者になっている。そんなちひろさんの周囲に集まる群像を描いた映画。

 有村架純なら何も風俗で働かなくても生きていけそうなもんだけど、そこは家庭的な深刻な事情もあったらしい。何で辞めたかも描かれず、どうして港町(ロケは焼津)に来たのかも不明。映画ではすでに弁当屋で働いていて、ホームレス、ワケあり女子高生、問題家庭小学生などが集まってくる。何かいつのまにか「親密圏」がちひろさんの周りに出来ている。そして、昔の同僚バジルや元店長(リリー・フランキー)に会って、なんだか楽しそう…。そう見えるのは上辺だけなのか、彼女は居着くことが出来るのか。

 ここでも現代日本の「孤独」が描かれる。ただ『零落』は芸術家の堕ちてゆく身勝手な部分があるが、『ちひろさん』では壊れた家族の中に育つ苦しさが背景にありそうだ。こちらの映画も港町の風情、海に太陽が沈むシーンなどに魅せられた。僕はただ面白い映画ではなく、見る者の孤独に寄り添う映画が好きだ。主人公も身勝手なぐらいが良い。現実社会じゃないんだから、付き合いやすい人間ばかりじゃなくて構わない。
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映画『ラーゲリより愛を込めて』、シベリア抑留を描く感動編

2023年02月04日 23時03分30秒 | 映画 (新作日本映画)
 瀬々敬久監督、二宮和也主演の『ラーゲリより愛を込めて』を見た。公開2ヶ月近く経つが、今も興収ランキングベスト10に入っている。見れば判るけど、これは日本の戦争映画の中でも感涙度ベスト級の出来で、口コミで評判が伝わるんだろう。僕はこの映画は、監督や俳優ではなくテーマで見逃したくなかった。題名の「ラーゲリ」とはシベリアの収容所のことで、第二次大戦後に60万近い日本人「捕虜」がソ連によって抑留された出来事(「シベリア抑留」)を描いている。

 この映画の原作は辺見じゅん収容所(ラーゲリ)からきた遺書』(1989)で、発表当時大きな評判となった。大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞を同時に受賞している。辺見じゅん(1939~2011)は、もう覚えてない人が多いかもしれないが、国文学者、歌人にして角川書店創業者として知られる角川源義(かどかわ・げんよし)の長女である。つまり、角川春樹角川歴彦の同母姉になる。映画になった『男たちの大和』の原作者でもある。

 冒頭は敗戦直前の「満州国」北部、ハルビン。そこで結婚式が行われ、山本幡男(やまもと・はたお)、もじみ夫妻も子どもたちとともに出席している。配役はそれぞれ二宮和也北川景子。直後にソ連軍による空襲があり幡男は妻子と別れることになるが、自分は絶対に日本に帰ると「約束」した。その後の経緯は描かれないが、次にはシベリアに送られる列車の中である。幡男はそこで「愛しのクレメンタイン」(Oh My Darling Clementine)を口ずさんでいる。「雪山讃歌」の曲となり、またジョン・フォード監督『荒野の決闘』のテーマ曲となったアメリカの民謡だ。この曲が映画では何度も繰り返される。
(ラーゲリのセット)
 その列車の中で様々なタイプの軍人が点描される。「臆病者」を自覚する松田(松坂桃李)や軍人であることに固執する相沢(桐谷健太)である。ロシア語ができて通訳を引き受ける幡男だが、そのことで誤解もされる。所内では旧軍の上官の横暴が続く一方、ソ連軍の強制労働のため、極寒のシベリアで死者が多数に上る。ともすれば自暴自棄になる人が多い中、幡男はあくまでも「希望」を持つことを説き、「帰国」(ダモイ)の時は必ず来ると語るのだった。そして実際にダモイの列車がやって来るが、最後の最後で何人かは留められて戦犯裁判に掛けられた。

 それでも屈することなく、山本幡男は所内で野球や俳句を広めて、皆の心をまとめていく。何度もソ連兵によって営倉に入れられるが屈しないのは、ポール・ニューマン主演の『暴力脱獄』を思わせるぐらいである。日本軍による中国戦線の残虐行為、収容所内の「民主化闘争」の問題など、過不足なく描いていくが、映画の眼目は所内で人間性を失わないで生き抜く山本幡男の勇気と誠実を描くことにある。しかし、そんな彼を病魔が襲った。病院での診察を求めて、松田は一人で作業を拒否して「ストライキ」を始める。やがてそれが皆に広がり、ソ連軍もついに彼を病院に送るのだが…。
(野球に興じる)
 その後、死期を悟った山本幡男は渾身の力を振り絞り、「遺書」を残す。二宮和也の鬼気迫る演技が胸を打つ名場面だ。しかし、収容所内では日本語の文書はスパイ行為とみなされ、見つかれば没収される。それを防ぐために遺書を分割して、4人で記憶して日本へ伝えることを考えたのである。(実際は6人で運んだ。)その間に妻もじみの様子が点描される。子どもたち4人を連れ何とか帰国でき、生活に苦労しながらも夫の「約束」を信じて生き抜いてきたのである。
(実在の山本夫妻)
 そして最後の帰国船が着く直前に、幡男の死去を知るのである。その後、4人が折々に山本家を訪れ「遺書」を伝えていく。これは実話であり、見る者に深い感動を与えるシーンだ。様々な戦争映画が日本で作られたが、感涙度では有数ではないか。ただ原作ではもっとたくさんのエピソードが語られていたと思う。(読んでるけど、細部は忘れた。)ウィキペディアに「山本幡男」の項目があり、「アムール句会」を開いたり演芸大会を企画したり、映画以上に文化活動に活躍したようである。この「遺書」は人間は最後は「まごころ」だと子どもたちに伝える。

 シベリア抑留に関する複雑な事情を語り始めると長くなりすぎるから省略する。この映画も原作をさらに切り詰めていて、そこから来る「わかりやすさ」とともに、何だか「簡潔すぎる」感じも抜けない。2021年に撮影されたが、もちろん国内ロケが中心。よくよく見れば、ここはシベリアかという風景である。それは目をつぶるとしても、山本幡男を中心に「人間の善なる部分」を描くことの限界性もある。だけど若い世代に伝えていくためには、ここからのスタートで良いのだろう。シベリア抑留の体験記や一般的解説書は多数あるが、最近は入手しにくいと思う。最初から石原吉郎の詩や香月泰男の絵の世界じゃ伝わらないだろう。
(クロ)
 なお、犬のクロが出て来て、帰国船を追ってくるシーンがある。これが実話だというので驚いた。この犬の名演が見事で、最優秀名犬賞をあげたい。シベリア抑留の死者はまだ全員が判明しているとは考えられない。故・村山常雄氏がロシア語の名簿を大苦労してまとめた「シベリア抑留死者名簿」のサイトがある。それを見ると、山本幡男もあるし、尾形眞一郎(伯父、父の兄)の名も掲載されている。ついでに書くと、映画にも出て来る長男、山本顕一氏はフランス文学者で、立教大学名誉教授だった。自分の在学時代に教授だったわけだが全く知らなかった。(辺見著が出るまで誰も知らないんだから当然だが。)まだお元気で、ニューズウィーク日本語版に、『二宮和也『ラーゲリより愛を込めて』の主人公・山本幡男氏の長男が語る、映画に描かれなかった家族史』があるのを見つけた。
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映画『ケイコ 目を澄ませて』、聴覚障害の女性ボクサー

2023年01月21日 22時43分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』の評判が高い。2ヶ月近く映画に行ってなかったけど、上映も終わりつつあるので解禁することにした。間違いなく2022年の日本映画でも出色の傑作で、特に主演岸井ゆきのの圧倒的熱演は必見。映像の持つ熱量を信じて作られた作品である。毎日映画コンクール作品監督主演女優の他に撮影月永雄太)、録音川井崇満)の技術部門2つでも受賞した。見れば判るけど、確かにこの両部門は非常に素晴らしい技量を示している。

 この映画は聴覚障害者である小河恵子岸井ゆきの)という女性ボクサーを描いている。実際に小笠原恵子という聴覚障害の女性プロボクサーがいたそうで、その自伝『負けないで!』という本を原案にしている。フィリピンのブリランテ・メンドーサ監督の『GENSAN PUNCH 義足のボクサー』という映画が去年公開されたが、そこでは義足でプロを目指す日本人ボクサーを描いていた。日本ではプロのライセンスを得られずフィリピンで練習をしているのである。その映画も実在人物をモデルにしているようだが、こちらは実際に聴覚障害のプロ女性ボクサーの話である。世の中には凄い人がいるもんだ。
(ケイコと会長)
 ケイコは東京都荒川区に育ったと最初に字幕で説明される。東京23区の北東部である。生まれつき聴覚に障害があるという。冒頭でもう試合をしていて、どのような事情でボクシングを始めたのか、それ以前の人生はどのようなものだったかなどは直接は描かれない。弟と一緒にマンションに住んでいて、昼間はホテルの客室清掃の仕事をしている。

 そんな暮らしの様子が淡々と描かれるが、そこに至った事情は判らない。2つの試合に勝って、記者が取材に来る。ジムの会長三浦友和)が答えているが、突然入りたいと言ってきて熱心に毎日通ってくる。プロになりたいのかと聞くと、テストを受けると言って合格した。学校時代はいじめられていたらしいなどと会長が答える。素質はないけど、素直なんですよという。
(ケイコと会長)
 説明的要素はほぼ会長による取材対応だけで、映画はひたすらケイコの練習、試合を映し出す。岸井ゆきのは相当にトレーニングを積んで撮影に臨んでいる。だが映画の特徴は「ボクシング映画」としての完成を目指さない。ボクサーを描く映画は多いけど、試合を重ねてチャンピオンになるか、挫折するかという経過をドラマティックに追うのが普通だ。それに対して、女子ボクサーを描く場合、「スポーツ映画」とはちょっと違うことが多い。何故ボクサーになるのか、そこへ至る孤独や絶望を扱うのである。

 まして、この映画の主人公は聴覚障害者である。主に手話で意思疏通を図っている。言いたいことが伝えられず、また周囲の会話を理解出来ない。だからコンビニでも困るし、警官に職務質問されても説明出来ない。その困惑と孤独を岸井ゆきのの鋭い目つきと鍛えられた肉体で見せるのである。圧倒的な存在感に見るものが押されてしまうぐらいだ。この「肉体」を映像として提示するわけだが、映像の原初的な迫力を思い出させてくれる映画だった。そして主人公の姿を撮影や録音が的確に捉えて映像化する。
(三宅唱監督)
 この映画は東京東部でロケされている。「荒川区出身」と出るが、むしろトレーニングをしているのは足立区の荒川土手だろう。(荒川区は荒川に接していない。荒川区が誕生した当時は今の隅田川が荒川で、新たに開かれた荒川放水路が荒川と呼ばれるようになったのは1965年のことである。)また手話で話す友人と会うのは浅草。北千住駅前と思われる映像も出て来る。会長のジムは奇跡的に空襲を免れた古い地区にあるとされる。このような東京東部の映像が映画を落ち着かせる役割を果たしている。

 監督の三宅唱(1988~)は世界で注目される若手有望監督の一人である。商業映画としては『きみの鳥はうたえる』があった。脚本は三宅唱と酒井雅秋。ケイコの弟をやってる佐藤緋美は浅野忠信とCHARAの子だそうである。ケイコの母が中島ひろ子、会長の妻が仙道敦子と懐かしい顔ぶれが演じている。なお、アカデミー賞を取った『コーダ』は聴覚障害者が当事者を演じていたのに対し、この映画では健常者が演じている。近年は民族性、性的指向、障害などで「当事者性」を重視する傾向が強い。それも必要だと思うけれど、「俳優」には自分と違う役柄を演じる演技力が求められる。当事者性を強調し過ぎると、人を殺したことがある人しかギャングを演じられないなんてバカげたことになりかねない。
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映画『ある男』、確かな映像で原作を映画化した傑作

2022年11月26日 22時38分21秒 | 映画 (新作日本映画)
 石川慶監督『ある男』が公開された。原作は平野啓一郎ある男』で、ほぼ原作通りの物語になっている。小さな部分で変更もあるが、テーマ性は原作を踏まえている。2018年に刊行された原作は、2021年に読んで非常に大きな感銘を受けた。原作の考えさせられる部分を映画はよく映像化していて、傑作だと思う。今年の日本映画は収穫が乏しかったが、この映画はベスト級の力作だ。

 原作に関しては、読んだときに「大傑作、平野啓一郎『ある男』を読む」を書いたので、詳しい物語はそちらを参照。僕も細部を忘れていたが、原作では主人公の弁護士が震災ボランティアの法律相談に一生懸命になって妻との関係が悪くなるという設定だった。映画ではその部分は全く出て来ない。この数年で震災のリアリティが失われたのかと感慨深い。石川慶監督(1977~)は前作『蜜蜂と遠雷』で長大な原作を上手に刈り込んで見事に映画化した。その実績からも期待大だったが、いつものように自ら編集も担当しキビキビした映画になっている。脚本は向井康介で、最近見た『マイ・ブロークン・マリコ』の人である。
(原作)
 冒頭に絵が出て来る。ラストにも出るが、それはルネ・マグリット複製禁止』という絵だという。下に示すが、二人の男の後ろ姿が描かれている。人間であることは判るけれど、個別認識が出来ない。「人間とは何か」、そう問われれば様々な答え方が出来る。生物学的に、哲学的に、また社会的存在として…等々。だけど普通一般的には、「」と「名前」を個別に記憶して、それぞれ自分の周囲の人間を認識しているものだ。政治家や芸能人、スポーツ選手、あるいは歴史的人物など、直接会ったことはなくても名前で覚えている。その「名前」というものは人間にとって何なんだろうか。
(「複製禁止」)
 離婚して息子を連れて宮崎県の実家に帰った里枝安藤サクラ)は、家業の文房具屋を手伝っている。絵の材料を買いに来る男と知り合い、次第に心を通わせてゆく。やがて里枝は谷口大祐窪田正孝)と名乗る男と結婚し、娘も生まれる。しかし林業をしている大祐は木の下敷きになって亡くなり、一周忌に伊香保温泉の旅館主という兄がやって来る。写真を見てこれは弟ではないと言って、では誰だったのかと探索が始まる。このぐらいは書かないと、先に進めない。
(里枝と「大祐」)
 全編からすればプロローグにあたるこの出だしが素晴らしい。ちょっと古びた文房具屋が懐かしい。昔は学校の近くに必ずあったものだ。一人で店番していると里枝は自然と涙ぐんでくる。安藤サクラの涙は『万引き家族』をしのぐらしい素晴らしい。そして鏡やガラス窓、水面などを通して捉えられた映像の素晴らしさ。それは映像的に見事なだけではなく、テーマとしっかり結びついている。「人間とは何か」は「反射」としてしか我々には判らないのである。全編通じて柔らかな光の中で撮られた映像は近藤龍人の撮影。『私の男』『万引き家族』などの撮影を担当した。
(幸せだった在りし日)
 里枝は離婚訴訟で世話になった城戸弁護士妻夫木聡)に依頼して、「谷口大祐」の真相を調べることにする。結局、原作も映画も城戸を「探偵役」にしたミステリー的な物語になる。探索を進めてゆくと「戸籍」、「死刑制度」、「ヘイトスピーチ」など様々なサブテーマが出て来る。それらは結局「スティグマ」を負わされた人間という問題に行き着く。城戸弁護士も「在日三世」としてヘイトスピーチに無関心ではいられない。そして「谷口大祐」ではない「男X」はあまりにも巨大なスティグマを背負って生きてきたことが浮かび上がってくる。その人間像を多くの人物を通して描き分けていく。
(城戸弁護士の事務所)
 谷口の兄(眞島秀和)やボクシングジム会長(でんでん)など脇役が生きている。また、子役、特に大きくなった長男(坂元愛登)が良かった。彼は亡くなった「父」を慕っていたが、何度も苗字が変わることで自分は何者かに悩んでいる。また「主役」である城戸弁護士を演じる妻夫木聡の抑制された演技は、全編を引き締めている。それに比べると、いつもの名演(怪演)をしている詐欺師小見浦を演じる柄本明がやり過ぎに感じられるぐらいだ。ただ彼も城戸を「イケメン弁護士」と呼び、自らの顔を「不細工」だと言う。「名前」じゃなければ「顔」にこだわるのである。

 ちょっと残念だったのは、主なロケ地が宮崎じゃなかったことだ。文房具屋や林業のシーンは山梨県笛吹市でロケされた。ラストのクレジットを見て主要なロケ地は山梨だったのかと思った。伊香保の旅館の次男が山梨にいたのでは近すぎる。だから映画でも宮崎になっているが、多くの人気俳優を長時間拘束するには九州は遠すぎたのか。宮崎と山梨では光も樹種も少し違うと思うけど、そこは上手に撮られている。すべてを映像で語る映画になって落ちた部分もあるから、映画を見た人は原作も読んで欲しいと思う。だが、原作をキビキビとしたセリフと編集で語り尽くした映画の魅力も捨てがたい。生きることの難しさ、日本社会の問題を突きながらも、終わった後の後味が良いのは子役が良かったからだと思う。
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荻上直子監督『川っぺりムコリッタ』、不思議な魅力

2022年10月24日 22時30分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 荻上直子(おぎがみ・なおこ)監督の『川っぺりムコリッタ』という映画をやっている。ホントは去年公開の予定が、コロナ禍で今年に延期されていた。題名が判らんと思って見るのが遅れたが、これがなかなか不思議な魅力で面白かった。僕はこの監督の映画が苦手で、2017年の前作『彼らが本気で編むときは、』をうっかり見逃してしまった。フィンランドで撮影した『かもめ食堂』(2006)はヒットしたけれど、あの映画もところどころ不気味な描写があって「癒し映画」なんて思えなかった。

 『川っぺりムコリッタ』も何だか変なところは多いんだけど、全体としてはなかなか気持ちよく作られている。冒頭で山田(松山ケンイチ)という男が水産工場にやってくる。そこで雇われるのだが、社長が「更生出来るから」と言っている。どうやら前科者で、住まいも会社があっせんした「ハイツムコリッタ」というところが用意されている。大家の南(満島ひかり)に会うと、聞いていると鍵を渡される。平屋建ての長屋みたいな部屋で一風呂浴びていると、隣室の住人島田(ムロツヨシ)がお風呂貸してとやってくる。それから毎日のように「ご飯ってね、ひとりで食べるより誰かと食べたほうが美味しいのよ」と言って押しかけてきて、一緒にご飯を食べることになってしまう。
(山田と島田は一緒にご飯を食べる)
 このムロツヨシの強引さが魅力で、何だか判らないながら段々なじんでくる。会社ではイカをさばいているが、結構大変そう。それでも次第になじんできたある日、家に役所からの通知が届いた。小さいときに出ていった父親が死んで発見されたという。どうでも良いと思ったが、隣室の島田がお骨は大事と言うから、ある日市役所に骨を取りに行った。部屋には同じような身元不明の遺骨がたくさん並んでいた。そして部屋に遺骨を置いておくけど、どうしたら良いのか。一方、島田の作る家庭菜園に協力したり、大家の南さんの事情、向かいに住む墓石売りの溝口(吉岡秀隆)、南や溝口の子どもたちなど、少しずつ人間関係も出来てきたのだが…。
(皆ですき焼きを囲む)
 登場人物はみんな過去に大きなドラマがあるが、それは現時点では描かれない。映画内ではシチュエーションだけで、過去を持つ人々が何となく仲良くなっていく様子を見つめている。不思議な出来事がいっぱいあって、どう理解していいのかというシーンもあるけど、人間は何となく仲良くなっていけるんだなあと思える。会社でも重労働ながら、時々イカの塩辛を貰ってきて、島田と一緒に食べている。山田の過去は説明されず、「母親はクズだったし、父親も野垂れ死にだし。ろくでもないのってうつるのかなって」と思っている山田も、最後に皆で父の葬儀をしている。見ていて不思議に心が和むのである。ま、いろいろあっても、トマトやキュウリは美味しいよなあと思える映画。「食べること」と「生きること」、そして「死ぬこと」について感じる映画。
(荻上直子監督)
 ムコリッタというのは、仏教用語で漢字で書けば「牟呼栗多」になるという。時間の単位で「少しの間」というような意味。具体的に言えば、「1昼夜=30牟呼栗多」というから、約48分間ぐらいになるらしい。しかし、そういう具体的な時間を意味しているわけじゃないだろう。この映画はオールロケで撮影されているが、撮影地は富山県である。最近富山県でロケされた映画が多い。富山出身の山内マリコ原作の『ここは退屈迎えに来て』『あの子は貴族』、富山に場所を移した『ナラタージュ』『羊の木』等の他、調べると『真白の恋』、『追憶』、『RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ』『ほしのふるまち』『人生の約束』など多数にのぼる。ロケ誘致を進めてきて成功している。この映画も富山県の「空気感」がうまく生かされて魅力的。
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タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ』、渾身の永野芽郁に刮目せよ

2022年10月13日 22時26分41秒 | 映画 (新作日本映画)
 タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ』という映画がすごかった。平庫ワカの同名コミックが原作で、それは第24回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受けたのだという。僕はそれは知らなかったけど、若い女性二人の壮絶な結びつきがストレートに心に響く。もともと原作も短いものらしいが、映画も凝縮された描写で、今どき珍しい85分にまとまっている。フランスの女性監督セリ-ヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』という映画も同じ日に見たんだけど、そっちはさらに短い73分である。(ちなみに『トップガン マーヴェリック』は131分、『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』は147分。)

 シイノトモヨ永野芽郁)はある日、昼食のラーメン屋で何気なくテレビを見ていたら、親友イカガワマリコ奈緒)がマンションから転落して死亡したというニュースを報じていた。中学からの親友の死をシイノは受けとめられない。家を訪ねると、もう部屋は片付けられていた。葬儀はなく「直葬」なんだという。父から虐待を受けていたマリコの骨を家に置いておけるか。突然思い立ったシイノは実家を訪ねて、マリコの父(尾美としのり)とその後再婚した義母(吉田羊)に会いに行く。そして、突然骨箱を奪い取り、そのまま仕事も放って逃亡の旅に出るのだった。
(屋上で花火をする二人)
 この「遺骨泥棒」が最高。窓から遺骨を持って飛び降りると、裏の川を渡って逃げ出す。かつて見たことないようなトンデモな展開に絶句。まあ、そういうストーリーだとは知っていたが、映像の躍動感が半端じゃない。それを支えるのが、ブラック企業で働きながらタバコを吸いまくる永野芽郁の全力演技だ。(ニコチン抜きのタバコを数ヶ月前から吸う練習を始めたという。)さて、どこへ行くかと思ったとき、ふと思い出したのが昔見た「まりが崎」のポスター。ここ行きたいねと言い合った思い出の地。
(舞台となる種差海岸)
 実際は青森県八戸市の種差海岸で撮影された。特に説明はないんだけど、途中のバスなどで判る。そして、ここでもどん詰りに相応しき体験を散々することになる。たまたま釣り人のマキオ窪田正孝)に助けられるが、それでも遺骨はどうなるんだ。その間に過去がインサートされるが、死んだマリコが現れたり、今だから言えることを絶叫したり…。そこで判ることはマリコが壊れていたのと同じく、他に友人がいないシイノも壊れている。二人の関係は一体どんなものだったのか。
(シイノとマキオ)
 マリコの父は出て来るが、シイノの家族関係は描かれない。ラスト、マリコが最後に残した手紙をシイノが読むが、内容は伝えない。あえて描かないことで成立している映画である。原作も同様らしいが、映画化に当たって新しい設定を加えることも多い。しかし、この映画はそうはしなかった。だから、学校時代など不明な部分が多い。それで良いのである。余計な設定を加えて時間を増やすのではなく、ひたすら映像に寄り添うしかない映画だ。映画はマンガや舞台と違って、ロケが出来る。現実の映像を背景にして、壮絶な人間ドラマを見るのである。
(タナダユキ監督)
 監督・共同脚本のタナダユキは非常に快調。かつて『タカダワタル的』(2004)で注目され、その後劇映画に転じた。『百万円と苦虫女』(2008)で日本映画監督協会新人賞を受けた。この映画の蒼井優も何だか似たような感じだった。『ふがいない僕は空を見た』(2012)等があるが、一時は小説やテレビドラマが多かったという。2021年の『浜の朝日の嘘つきどもと』で復調をうかがわせたが、今回の『マイ・ブロークン・マリコ』は一番いいんじゃないか。永野芽郁が今までのイメージを破る役柄を熱演しているが、マリコ役の奈緒も良かった。今年の大収穫だと思うが、映画に見える日本の壊れ方もすごい。どこから手を付ければ良いのだろう。
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深田晃司監督の傑作映画『LOVE LIFE』

2022年10月02日 21時02分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 最近は古い映画ばかり見ていて、新作を見ているヒマがない。特に今年は日本映画の新作をあまり見てないんだけど、見たけれど書かなくてもいい映画も多かった。しかし、ヴェネツィア映画祭のコンペに出品された深田晃司監督の新作『LOVE LIFE』をやっと見たら、これは傑作だった。ヴェネツィアで無冠に終わったので、なんだか期待外れだろうと思っている人がいるかもしれない。でも、この映画ほど現代日本で生きる苦悩をじっくり考えさせる作品も少ないと思う。

 深田晃司(1980~)は濱口竜介監督と並んで、日本の新世代を代表する映画監督だ。濱口監督は『ドライブ・マイ・カー』で世界的に高い評価を得たが、僕はむしろ深田監督作品の方が好きかもしれない。『ほとりの朔子』『淵に立つ』『よこがお』『本気のしるし 劇場版』など、皆僕には心の奥深くに刺さってくるような映画だった。『本気のしるし』はメーテレ(名古屋テレビ放送)が製作したテレビドラマの再編集版で、珍しく原作(漫画)があった。『LOVE LIFE』もメーテレが出資しているが、今度はオリジナル脚本である。脚本の完成度が非常に高いと僕は思った。
(妙子と二郎、子どもの敬太)
 この映画に僕は深く心揺さぶられたが、その理由を説明するためにはストーリーを細かく書く必要がある。それはいわゆる「ネタバレ」ということになるが、ここでは避けたい。この映画は何の情報もなく、ただ初めて見るという方が絶対に面白いだろうから。映画は(というか「物語」全般は)、世界のある瞬間を切り取って成立している。すべてを描くわけにはいかない。ある幸せそうな夫婦が出て来て、母親は息子とオセロをしている。父親は部屋の飾り付けをしている。これは何だろうと思う。子どものお誕生日会かなと思うと、実は違っていた。それどころか、この3人の関係はちょっと普通とは違っていた。そういう人間関係に気を取られていると、映画はある時点で突然ガラッと様相を変えてしまう。
(ホームレス支援をする妙子)
 まあ、それでももう少し情報を書かないと、これ以上進めない。映画館のサイトに書かれている紹介をコピーする。「妙子木村文乃)が暮らす部屋からは、集合住宅の中央にある広場が一望できる。向かいの棟には、再婚した夫・二郎永山絢斗)の両親が住んでいる。小さな問題を抱えつつも、愛する夫と愛する息子・敬太とのかけがえのない幸せな日々。しかし、結婚して1年が経とうとするある日、夫婦を悲しい出来事が襲う。哀しみに打ち沈む妙子の前に一人の男が現れる。失踪した前夫であり敬太の父親でもあるパク砂田アトム)だった。再会を機に、ろう者であるパクの身の周りの世話をするようになる妙子。一方、二郎は以前付き合っていた山崎山崎紘菜)と会っていた。哀しみの先で、妙子はどんな「愛」を選択するのか、どんな「人生」を選択するのか……。」
(パクと妙子)
 夫の父(田口トモロヲ)が出て来て「部長」と呼ばれている。僕はてっきり民間企業の偉い人かと思ったら、実は市役所の元職員だった。二郎も同じ市役所の福祉職員で、妙子の身分はよく判らないけど、やはり市役所で福祉の仕事をしている。二郎は同僚の山崎と付き合っていたが、別れて子連れの妙子と結婚した。妙子は今もホームレスの支援、見回りなどをしているが、これはヴォランティアだろう。前夫のパクは父が韓国人、母が日本人で、韓国に生まれた「ろう者」である。なかなかそういう人と結婚するのは大変だと思う。仕事を見ても、同情心の篤い人だったからなんだろうなと判る気もする。韓国手話が出て来る(もっとも手話の違いは僕には判らない)点で、『ドライブ・マイ・カー』と共通点がある。
(ヴェネツィア映画祭で。監督、砂田、木村)
 この映画は矢野顕子の1991年に発表された同名アルバムにインスパイアされているという。矢野顕子は名前を知ってるぐらいなので、作品との関係はよく判らない。でも映画のような物語ではないだろう。ストーリー的にかなり無理があると思うが、物語というのは一種の「思考実験」である。ある設定に人間を投げ込んで、その対応を見て行く。その結果、「人間というものは哀しいものだ」「人はみな身勝手なものだ」などと僕は思ったけれど、「人間はそう簡単にダメになったりはしないものだ」という感慨も持った。この映画を見て、それぞれの人が何を思うかは違っているだろうが、何事か心揺さぶられると思う。

 主演の木村文乃(きむら・ふみの)がとても良かった。『くちびるに歌を』で五島列島の中学の音楽教師をしていた人。産休に入ることになって、代替教員に天才ピアニストだった新垣結衣を連れてくる。新垣結衣に気を取られて、木村文乃を忘れていたけどすごく良い。夫の永山絢斗(ながやま・けんと)も悪くはないけど、パク役で実際にろうの役者だという砂田アトムが圧倒的。有力な助演賞候補だろう。また二郎の母役の神野三鈴(かんの・みすず)は舞台で見ることが多い女優だが、細かな感情の表現が素晴らしい。撮影、音楽なども素晴らしい。

 それにしても、人間は何やってるんだろうという愚なる言行を繰り返すものだと思った。映画の間は他人事のように見ているけど、よく思い出してみると自分の人生だって同じではないか。でも、同時に人間は「許し合える」のかな、「やり直せる」のかなとも思った。違うかもしれない。この映画の感想ばかりは人それぞれで構わないだろう。でも映画的な完成度はとても高い。
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河瀨直美監督『東京2020オリンピックSIDE:A』、『SIDE:B』は何故つまらないか

2022年06月30日 20時09分36秒 | 映画 (新作日本映画)
 河瀨直美監督の『東京2020オリンピックSIDE:A』、『東京2020オリンピックSIDE:B』がそれぞれ6月3日、24日に公開されたが、やっぱり歴史的な不入りになっている。「東京五輪、映画も無観客」なんて言われてるらしい。多分2週目からは限られた上映になっちゃうだろうと予想して、どっちも公開第1週に見に行った。つまらないに決まってる映画をわざわざ見に行くのもなあと思うけど、一種の社会問題だから見たのである。大スクリーンで見られるのも今回限りと思えば貴重ではある。

 見たらやっぱりつまらなかった。『SIDE:A』を見たら、これは「NHKスペシャル」だと思った。つまりテレビのドキュメンタリーでやれば十分という感じだが、この前見た『教育と愛国』みたいな例もあるから、この感想はテレビに失礼かもしれない。『SIDE:B』になると、一体これは何なのだろうと考えさせられた。僕も含めて多くの人は森喜朗元首相の顔面大クローズアップなんか見たくないと思う。そんなことを書いたら、これも「ルッキズム」(見た目差別)や「エイジズム」(年齢差別)なんだろうか。いや、僕の違和感は大権力者に密着することにあって、例えば瀬戸内寂聴の映像だったら気にならないんだと思う。

 この映画はオリンピック映画だからというよりも、やはり河瀨監督作品だからつまらないのだと思う。日本では政治家や官僚が文化に触れる機会が少ない。小泉元首相はオペラに行くかもしれないが、安倍元首相は年末などに家族で映画を見ていたが大した映画を見ていない。(『永遠の0』は見ても『万引き家族』は見ないとか。)だから、多分「河瀬っていうカンヌでグランプリを取った女性監督がいる」と言われたときに、組織委関係者でちゃんと河瀨作品を見ていた人はいないだろう。もしちゃんと見ていたら、河瀨監督を選任しないと思う。事前にミスマッチが判りそうなもんだ。
(河瀬直美監督)
 2019年に国立映画アーカイブで「オリンピック記録映画特集」と「映画監督 河瀨直美」という特集上映が行われた。この時、河瀨直美のトークを何回か聞いて、この人はなかなか良い人だし面白い人だという印象を持った。だからあまり悪く書きたくないんだけど、その時に見た映画はやはりつまらなかった。全部見てるわけではないから断言はできないが、ある程度面白いのは『萌の朱雀』(1997)と『2つ目の窓』(2014)ぐらいだと思う。『沙羅双樹』『殯の森』『朱花の月』『2つ目の窓』『』と5回もカンヌ映画祭のコンペに選ばれ、『殯(もがり)の森』(2007)はカンヌでグランプリ(第2席)を取ってしまった。

 当然のこと、当時は期待して『殯(もがり)の森』を見に行ったんだけど、全くつまらないことに唖然とした。カンヌで評価されたんだから、何か美点はある。(ちなみに審査委員長は映画監督のスティーヴン・フリアーズ。委員にはミシェル・ピコリ、マギー・チャン、オルハン・パムクなどがいた。パムクはトルコの作家で、後にノーベル賞を取る。)それは判らないではない。いつものように奈良を舞台にして、認知症患者と介護士の触れあいを通して、民俗的な生と死の感覚を描き出す。というか、そういうことなんだろうと思うけど、映像は観客を置き去りにして暴走していくので付いていけないのである。

 その「主観的な世界」こそが河瀨作品の特徴であると思う。実の祖母を撮影する「私的映像」から始まった河瀨直美だが、一貫して主観的な私的世界を描いている。映画アーカイブの特集以後に公開された『朝が来る』(2020)は、今までの中で一番面白いと思ったけれど、原作があるのに自分が出張って劇映画でインタビューしている。ハンセン病差別をテーマにした『あん』(2015)を撮ったため、何か人権問題を扱う女性監督のように思っていた人がいたらしいが、その『あん』も原作があるのにドキュメンタリー的で、ハンセン病理解に関しては公的な啓発キャンペーンと同レベルだった。

 他の作品ばかり書いてきたが、今までの作品と今回の『東京2020オリンピック』は構造が同じである。何か意味ありげな映像が主観的に連続する。一つ一つは面白いところもあるが、全体を通してまとまりがない。『SIDE:A』では子どもを持つ女性選手に焦点が当てられる。カナダのバスケ選手は夫とともに来日した。日本の女子バスケ選手は出場を断念した。また難民の選手もいれば、イランからモンゴルに国籍を変更した柔道選手もいる。それぞれ重要な問題だと言われればその通りだが、ただ点描されてゆくだけで印象に残らない。例えば「女性アスリート」に絞って、テレビ放映する映像を作れば、それで十分なのではないか。

 結局「五輪映画」というものを我々はもう必要としていないということである。全部の競技を描いていたら何時間あっても終わらないし、見たい競技の映像は映画館に行かなくてもすぐ見られる。結局レニ・リーフェンシュタール(1936年ベルリン大会の『民族の祭典』『美の祭典』)、そして1964年東京五輪の市川崑監督『東京オリンピック』を越えるものはもう作られないのだろう。映像美もなければ、スポーツと人間への洞察もない。まあ、今回は無観客だったから、選手や競技場を大スクリーンで見られる意味だけはあるわけだろう。

 『SIDE:B』は森喜朗、菅義偉、小池百合子などの支持者以外は、敬遠した方が良いと思う。関係者には違いないから出て来るのは仕方ない。しかし、何度も顔だけがクローズアップされ、批判的な眼差しが全くない。森組織委会長辞任問題という大問題も、当然出て来ることは出て来るけど、事実関係は外国ニュースで伝えられる。ナレーションや字幕の解説なしに、この問題を扱うのは無理だ。直後に山下泰裕JOC会長の「そんな人ではない」などという発言まで出てくる。森喜朗という人は、首相時代から失言の連続で知られた人だ。そのことを指摘しなければ、批評的精神の欠如というしかない。結局、「権力者」の発言をつないでいるだけで、どうなってるんだという思いが募る。

 もう一つ、最後にあえて書きたい。この映画には両方通じて多くの競技が出てくるが、バレーボール、ハンドボール、卓球、馬術、サッカー、ラグビー、ホッケー、テコンドー、ゴルフ、ボクシング、カヌー、セーリング、ボート、射撃、ウェイトリフティング、トライアスロンなどは全く出てこない。(もしかしてちょっと出てたかもしれないが。)日本選手が活躍した競技を全部出せなどと言うわけではない。それはもともと不可能だが、それにしてはバスケットボール(3×3を含め)の出てくる時間が長い。確かに日本女子の銀メダルは歴史的快挙である。だけど、河瀨直美が2021年にバスケットボール女子日本リーグ会長に就任していることを思い出せば、これじゃ「えこひいき」じゃないかと言いたくなる。
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映画『私のはなし 部落のはなし』(満若勇咲監督)を見る

2022年06月21日 22時48分02秒 | 映画 (新作日本映画)
 記録映画『私のはなし 部落のはなし』を見に行った。東京で最初に上映されたユーロスペースは終わってしまい、キネカ大森まで見に行ったのだが、何しろ205分という長さが大変である。題材からしても、中途半端な描き方は出来ず、ある程度長くなるのもやむを得ないかと思うが、この長さ(途中休憩あり)は見る前に覚悟がいる。内容的に覚悟して見よということかもしれない。

 監督の満若勇咲(みつわか・ゆうさく、1986~)は大阪芸大在学中に『にくのひと』(2007)という映画を作った人である。この映画内で触れられているが、牛が肉になる過程に関心を持って屠場を取材したのだという。その映画は評判を得て東京で劇場公開が予定されたが、部落解放同盟兵庫県連から批判を受けて、封印されたという。当時の関係者が出て来るが、ずいぶん公開の道を探ったものの了解に達しなかった。その後テレビドキュメンタリーの撮影をしていたというが、2019年にフリーになった。そして大島新がプロデューサーとなって、この映画を製作したというから、持続した志に深く感じるものがある。
(満若勇咲監督)
 冒頭から何人もの人々が集まって、自分の人生、自分の思いを語り合う。その語りの魅力がこの映画だと思うが、そこが長いのも間違いない。「被差別部落」とは何なのか。解説の部分は黒川みどり氏(静岡大学教育学部教授)が担当して、歴史的な説明を行っている。ここで「部落差別」とは何か、あるいは「部落解放運動」をどう捉えるかなどを考え始めると、長くなってしまう。僕もそこまで深く関わったことはない。東京にも被差別部落はあるけれど、「同和教育」を実施したことはない。東日本では大体同じだろう。外国籍や障害の生徒に対するいじめ、からかいなど、身近にあって指導しなければならない課題は別なのである。
 
 ここでビックリしたのは、鳥取の「示現舎」の宮部という人が出て来ることである。戦前に作られた「部落地名総鑑」をネット上に掲載し、公刊もしようとした人である。それに対し、刊行差し止め、ネットからの削除と損害賠償を求める裁判が起こされて、2021年秋に東京地裁で差し止め、削除を認める判決が出た。賠償をめぐって一部が認められず、双方が控訴している段階。常識的に考えて「どうかと思う」人物だが、さらにあちこちの被差別部落を回って、ネット上に写真を載せたりしているというから、僕には差別行為としか思えない。しかし、映画は彼の部落訪問に同行しカメラに収めている。どう考えればいいのだろうか。

 本人は本人なりに一応配慮はしているとのことで、子どもの写真は撮らないなどと言っている。ネットに載せることについても、情報自体は中立的なものであって、差別に悪用する人が悪いという主張をしている。情報がなければ差別しようがないだろうに、わざわざ差別心がある人に対して「差別する道具」を与えていることをどう思っているのか。これはドナルド・トランプの銃規制反対論と同じ構造をしている。銃は悪くなくて、銃で犯罪を起こす人が悪いという発想である。しかし、悪用する人が必ず出て来ると判っていて、その準備をする行為は犯罪ではないのか。毒ガスのサリンを作った人は悪くなくて、撒いた人(撒くことを命じた人)だけが悪いのか。裁判ではそうではない判断が出ているではないか。

 そのように思うけれど、実際に映画に出て来ているということは何なのだろう。他にも「差別心を持つ人」を取材して、重層的な取材になっているが、ある意味でそんな取材を受ける人がいるのも驚きである。相互に理解し合う場もなく、お互いに「恐怖」を持っているのがよく判る。歴史的には「同和」という言葉が行政用語として定着し、「同和対策事業」が進められたことの「功罪」が随所で出てくる。「同和」という言葉は「人心惟レ同シク民風惟レ和シ」という昭和天皇の即位時の詔勅から作られた言葉だという。昭和期になってからの、上からの「一視同仁」を表わす官製用語だったのである。
(映画「西九条」)
 中で昔作られた映画が出て来る。60年代末、京都の朝鮮人集落だった地域を18歳の共産党員が撮影したんだという。完成したときは、党と解放同盟の関係が破綻していて、解同の宣伝映画と批判されて党を除名されたという。封印されていた8ミリ映画はもう見られなくなり掛かっていた。何とか専門業者に依頼して修復作業を行って、その一部が出て来る。それを見ると、わずか半世紀ほど前の日本にこれほどの貧困地区があったのかと驚く。映画などで見る発展途上国のスラムという感じである。このような貧困がまだまだ残されていた時代には、国による対策事業は必要だっただろう。

 長くて見るのも大変だけど、社会問題に関心がある人だけしか見ないのはもったいない。こういうテーマだと、いわば「社会科教員」向けとなるが、記録映画としての出来映えからしても、是非多くの人が接する機会があれば良いと思う。だけど、まあいくら見ても「差別の本質」は何だか判らない。この「何だか判らない」空気のようなものに動かされることが、日本社会という気がする。
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李相日監督『流浪の月』、心の中の秘密の場所

2022年06月01日 22時23分16秒 | 映画 (新作日本映画)
 凪良ゆうの2020年本屋大賞受賞作を李相日(リ・サンイル)監督が映画化した『流浪の月』を見た。主演者(広瀬すず松坂桃李)や原作の名で見る人が多いと思うけれど、僕はまず李相日監督だから見るべきだと思った。初期の作品(『69』や『スクラップヘブン』まで)は、それなりに満足しつつも中途半端感があった。しかし、続く『フラガール』(2006)や『悪人』(2010)はほぼ満点だったし、その後の『許されざる者』『怒り』も完全には納得出来なかったが間違いなく力作だった。

 そこで今回の『流浪の月』も見なくてはとチェックしておいた。そして十分に満足したけれど、見るものを選ぶ作品だなとも思った。原作の設定を受け入れられない人もいるのではないか。映画としては力作だけど、いつも以上に(内容的にも、画面的にも)暗い。感触も少し今までと違っている。それは何だろうと思ったら、撮影を韓国のホン・ギョンポが担当していた。『パラサイト 半地下の家族』を撮影した人である。他にも『母なる証明』『バーニング劇場版』などを撮影していて、そう言われてみると何となくタッチが似ているような気がする。どこか日本じゃない場所で撮ったような画面が効果を上げている。

 最近本屋大賞受賞作はほとんど読んでなくて、今回も未読。何となく「誘拐」が絡むことは事前に知ってたけど、細かなストーリーは知らないで見た。映画は最近になく、過去と現在が複雑に絡み合って進む。主人公は家内更紗(かない・さらさ=広瀬すず)という25歳の女性。ファミレスでアルバイトしているが、上場企業に勤める中瀬亮横浜流星)と同棲している。広瀬すずも大人になったなあという感慨を覚えるラブシーンをやっている。更紗には「秘密」があり、それは15年前「男に誘拐された被害者」だったのである。亮は事件を知った上で、結婚を考えている。
(更紗と婚約者)
 10歳の更紗(白鳥玉季)は両親が亡くなり叔母の家にいたが、家に帰りたくない事情がある。公園で本を読んでいたら雨が降ってきて、同じように本を読んでいた19歳の佐伯文(さえき・ふみ=松坂桃李)が傘を差し掛ける。家に来るかと聞かれ、付いて行ってそのまま帰りたくないという。ずっと一緒にいて2ヶ月学校にも行かなかったら、テレビで女児行方不明のニュースになった。ある日、湖で文が逮捕され、「誘拐犯」と「被害女児」になった。逮捕シーンは居合わせた人がスマホで撮影し、SNSで騒がれて今も見られる。それから15年、更紗は深夜に入ったカフェでコーヒーを入れていた文と突然再会したのだった。
(再会した文と更紗)
 更紗は警察で「あること」を告白できず、だから文に負い目を持って生きてきた。実は文と暮らした2ヶ月だけが、人生で心安らぐ日々だったのだ。亮に対しては、好きになってくれたから愛していないのにセックスに応えて来た。文と再会し、つい毎日のようにカフェに足が向き、亮も怪しく思い出し、ネット上や週刊誌に「15年前の被害者を犯人が見つけた」といった記事が出回る。更紗はその写真は亮が撮ったと思い、家を出て文が住んでいるアパートの隣室に移り住むが亮は追ってくる。

 ここら辺の筋は書いていても、なかなか納得しにくい。映画はひんぱんに関係者の過去・現在を行き来し、それぞれの「孤独」を見つめる。世の中から納得されないながらも、更紗と文は「心の中の秘密の場所」で結びついていることが判ってくる。それは性的なものではない。むしろ性的でないことによって、二人は居場所をともにできたのだった。文は交際している谷あゆみ多部未華子)を大切にしていたが、それでも性的な結びつきはなかった。世間的には「ロリコン」「小児性愛」と非難され続けた文にも、実はトラウマと秘密があったことが判ってきて、この二人の関係が実は分かちがたいものだと当人たちも理解してゆく。
(子ども時代の更紗)
 暗い情念が画面からヒリヒリ伝わってくる映画。二人の関係が「ロリコン」というようなものじゃなかったとしても、やはり見ていて元気が出るようなものじゃなく、どこか秘密めいた関係であることは否めない。だから並みの「誘拐」じゃないことに納得は出来ても、こんな暗い映画は見たくないと思う人はいるだろう。それでも映画に引き込まれるのは、松坂桃李の(『弧狼の血 REVEL2』とは全く相反した)存在感の凄さ、そして子役の白鳥玉季の素晴らしい演技である。ポーの詩集を読んでいる文、それを声に出してと頼む更紗。二人の孤独な姿が心に染み入るシーンを観客だけが知る。

 主に長野県の松本で撮影されたようだが、何か人工的な空間のような映像が続く。それが「人の心の中にある秘密の場所」にふさわしい。文と更紗のようなものでなくても、人は「秘密の場所」を持っているものではないか。それが暗い映画なのに忘れがたいものにしていると思う。また、原摩利彦の音楽、種田陽平の美術の素晴らしさも特筆される。(なお、湖シーンのロケは長野県の青木湖、木崎湖、文と更紗がスワンボートに乗るのは東京大田区の洗足池だという。)ところで、「かない」と言ってるから「金井」かと思っていたら、ウェブサイトを見ると「家内」だった。「ドライブ・マイ・カー」の主人公は「家福」だったけど、そんな姓は実在するのかな。力作だし感動もしたが、ちょっとビターな後味が残る。
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必見!『教育と愛国』、斉加尚代監督の映画と本に感動

2022年05月27日 22時38分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 『教育と愛国』という記録映画をやっている。2017年に大阪のMBS 毎日放送で放送されたテレビのドキュメンタリーに追加取材を加えて映画版にしたものである。テレビ版「映像'17 教育と愛国 ~教科書でいま何が起きているのか~」はギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞したというが、全然知らなかった。東京で放送されたのかどうかも知らないが、毎日放送でも深夜枠でしか放送されないらしい。この映画は教育現場を取材しながら、教科書が政権寄りに変えられていった様子をていねいに取材してまとめている。とても判りやすく、かつ興味深く作られていて、内容的にはほぼ知ってる話なのに全然退屈しない。

 作ったのは斉加尚代(さいか・ひさよ)という毎日放送のドキュメンタリー担当ディレクター。今まで気付かなかったが、橋下徹元大阪市長と「バトル」したり、沖縄の地元紙に取材した「なぜペンをとるのかー沖縄の新聞記者たち」とか基地反対運動のデマを追求した「沖縄 さまよう木霊 基地反対運動の素顔」などを作った「有名人」である。その結果、ネット上で「反日」などとバッシングされると、今度はそのバッシングする人の実態に迫った「バッシングーその発信源の背後に何が」というドキュメンタリーまで作るという覚悟と度胸にビックリである。その沖縄や「バッシング」の取材をまとめた『何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から』という本が集英社新書4月新刊で出ている。これがまた超絶的に面白く、勇気の出る本だった。
(『何が記者を殺すのか』)
 今度の映画では冒頭に、元日本書籍の編集者池田剛という人が出て来る。日書は昔は相当に大きい教科書会社だったが、つぶれてしまった。この映画にも出て来る吉田裕氏(一橋大学名誉教授)が教科書執筆メンバーに参加した教科書には「慰安婦」など旧軍の加害に関して詳しく取り上げた。ちょうど「新しい教科書をつくる会」の執筆した教科書が登場した時で、日書版も批判されて採択数が激減してしまった。その結果、日本書籍という会社自体が存続出来なくなって、池田さんも失業して妻子と別れて暮らしている。そういう結果になったことに自責の念を抱き、吉田氏もまた以後は誘われても教科書は執筆していないという。
(斉加尚代監督)
 日本書籍という会社は知っていたし、その教科書も見ているはず。しかし、「つくる会」教科書(扶桑社)を採択してはならないという運動をしながら、扶桑社じゃなければいいやと他社の採択結果はほとんど気にしなかった。その間、確かに扶桑社(育鵬社)を採択する地区はあまりなかったのだが、一方で戦争記述に詳しいような教科書も「両成敗」のような感じでシェアを落としてしまったのである。映画は池田氏の感慨を追いながら、その後さらに教科書が政権によって、どんどん変えられていく様子が描かれる。特に第一次安倍政権で「教育基本法」が変えられ、第二次安倍政権の復活で「具現化」されていく。

 この映画では、その「つくる会」の伊藤隆氏(東大名誉教授)にも2回取材している。ここが非常に興味深いのだが、「歴史に何を学ぶのか」と問われて、「歴史に学ぶものはない」と断言する。しかし、ご本人は「左翼ではない」「反日ではない」ものを求めている。自分だけは歴史に「価値」を持ち込んでおいて、他の人には歴史には何も学ぶものがないと決めつける。だから「歴史」がつまらなくなるのである。二度目の取材で「なんで日本は戦争に負けたのか」と問われて、「それは弱かったからでしょ」などと答えている。中国大陸を侵略したまま、米英と戦争を始めたことを「弱かった」と表現するのか。

 他に気付いたことを挙げると、「両論併記のダブルスタンダード」である。南京虐殺の被害者数などで、文科省の検定では「通説がない」と言って、両論併記的な記述を強いてきた。しかし、最後の方に出て来る安倍元首相は「自衛隊を違憲だと書いているような教科書を子どもたちに渡せない」などと演説していた。「自衛隊違憲論」の学者が一人でもいる限り、両論併記せよという対応をしなければダブルスタンダードというものだ。それにしても、この間の「教育改革」は安倍元首相および支え続けた「大阪維新」のもたらしたものだということがよく判る映画だった。

 この『教育と愛国』も本になっていて、『教育と愛国――誰が教室を窒息させるのか』(岩波書店、2019)が出ているが、そっちは読んでない。毎日放送は「プレバト」を作っているぐらいしか知らなかったが、大変立派な仕事をしていることを知った。しかし、斉加氏の新書によれば、なかなか社内でも大変なようである。僕はこの映画を火曜日に見ようと思ったら、ヒューマントラストシネマ有楽町がまさかの満席だった。どういう人が見に来ているのかよく判らないが、確かに求めている観客もいるのである。今日はシネリーブル池袋で見たが、午前が大雨だったからか空いていた。テアトル系ではちょっと前に大川隆法が作った『愛国女子』なる映画も上映していた。間違って似たような映画を求めてきた観客がいないかと心配。
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2021年キネマ旬報ベストテン・日本映画編

2022年03月13日 20時37分45秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画雑誌「キネマ旬報」の2021年ベストテンの紹介。昔は1月初めに一般ニュースで流れたが、ここ数年発表しなくなった。そこで例年は紹介して寸評していたと思うが、今年はいろいろあって忘れていた。3月11日に日本アカデミー賞の表彰式があって、少しテレビを見ていたら、やはり書いておこうかなと思った。賞には運不運があるし、絶対という基準は存在しない。しかし、優秀主演女優賞が、天海祐希有村架純永野芽郁松岡茉優吉永小百合なのはどうなのか。

 いくら日本アカデミー賞が業界大手のお祭りと言っても、「茜色に焼かれる」の尾野真千子が入ってないのはおかしすぎる。キネマ旬報毎日映画コンクールの主演女優賞はともに尾野真千子だった。毎日映画コンクールのノミネートは、有村架純(花束みたいな恋をした」)、加賀まりこ(「梅切らぬバカ」)、門脇麦(「あの子は貴族」)、瀧内公美(「由宇子の天秤」)で、有村架純以外は共通していない。作品本位で映画を見れば、2021年の女優賞は尾野真千子で決まりだなと見ればすぐ判る。

 キネマ旬報の日本映画ベストテンは以下の通り。今年の10本はすべて紹介した作品だったので、リンクを貼った。別にベストテンに拘っているわけではないが、長年見てているから僕が面白いなと思って紹介した映画は大体上位に来る。 

日本映画ベストテン
ドライブ・マイ・カー(濱口竜介) ②茜色に焼かれる(石井裕也) ③偶然と想像(濱口竜介) ④すばらしき世界(西川美和) ⑤水俣曼荼羅(原一男) ⑥あの子は貴族(岨出由貴子) ⑦空白(吉田恵輔) ⑧由宇子の天秤(春木雄二郎) ⑨いとみち(横浜聡子) ⑩花束みたいな恋をした(土井裕泰)

 毎日映コンの作品賞ノミネートは、「茜色に焼かれる」「空白」「すばらしき世界」「ドライブ・マイ・カー」「由宇子の天秤」だった。日本アカデミー賞の優秀作品賞は「キネマの神様」「孤狼の血LEVEL2」「すばらしき世界」「ドライブ・マイ・カー」「護られなかった者たちへ」である。僕は2021年の劇映画ベスト5は毎日映コンの5作品だと思う。「孤狼の血LEVEL2」はまだ理解出来るけど、「キネマの神様」が入って「茜色に焼かれる」や「空白」が落ちているのは作品以外の事情なんだろう。

 僕は濱口竜介監督の「偶然と想像」は話が嫌なので選ばない。シャレた設定だとか、語り口がうまいとか言っても、話の内容に共感できないのでは困る。僕は「ドライブ・マイ・カー」以上に、「ハッピーアワー」が濱口監督の最高傑作だと思っている。「ドライブ・マイ・カー」は村上春樹原作だから良いとか、だからダメという人もいるけど、多分見てないんだろう。稽古シーンは興味深いが、「ワーニャ叔父さん」を上演ということで想定通りのラストになる。僕のベストは「すばらしき世界」で、これは役所広司の演技とテーマ性に共感したのである。技術面(撮影、照明、録音など)に難があるが「由宇子の天秤」にも感心した。
(「ドライブ・マイ・カー」が8冠だった日本アカデミー賞)
 次点以下は ⑪BLUE/ブルー(吉田恵輔) ⑫護られなかった者たちへ(瀬々敬久) ⑬孤狼の血LEVEL2(白石和彌) ⑭子供はわかってあげない(沖田修一) ⑮まともじゃないのは君も一緒(前田弘二) ⑯騙し絵の牙(吉田大八) ⑰街の上で(今泉力哉) ⑱愛のまなざしを(万田邦敏) ⑲シン・エヴァンゲリオン劇場版(庵野秀明) ⑳草の響き(斎藤久志)

 それ以下の作品を挙げてみると、21位「サマーフィルムにのって」、23位「アジアの天使」、24位「ヤクザと家族」、36位「燃えよ剣」、42位「椿の庭」、49位「キネマの神様」「老後の資金がありません」、72位「いのちの停車場」、95位「竜とそばかすの姫」、106位「そして、バトンは渡された」…といった具合である。

 吉田恵輔監督(1975~)は「空白」と「BLUE/ブルー」があって、芸術選奨新人賞を受けた。今までに「純喫茶磯辺」「さんかく」「銀の匙」「ヒメアノール」「愛しのアイリーン」などを作ってきた。長年ボクシングをやってきたということで、「BLUE/ブルー」はボクシング映画である。見るのが遅くなって、ここでは書かなかったが、ボクシング映画は大体面白い。強いけど目をやられた東出昌大と弱いけどボクシングが好きな松山ケンイチ、二人の青春。「子供はわかってあげない」の沖田修一監督(1977~)と並ぶ代表的な中堅監督だが、どちらも今ひとつ作品世界にパンチがなかった。吉田監督の「空白」は今までを打ち破るド迫力の人間ドラマだったが、まだちょっと人間配置が図式的か。今後に注目である。

 キネマ旬報では「文化映画」が貴重である。まあ僕は最近は劇映画以外はあまり見なくなってしまったが。今年は文化映画ベストワンの「水俣曼荼羅」が一般のベストテンの5位にも入っている。今までに記憶がないぐらい非常に珍しいことだとと思う。しかし、「ドライブ・マイ・カー」と「水俣曼荼羅」を同じように比較して順位を付ける基準は存在するのだろうか。よく判らないけれど、まあ原一男監督の集大成的な大作であることは間違いない。なお、2020年ベストワンだった大島新監督の新作「香川1区」は、12月24日公開だったから、2022年扱いになる。

文化映画ベストテン
水俣曼荼羅 ②くじらびと ③いまはむかし~父・ジャワ・幻のフィルム ③陶王子2万年の旅 ⑤サンマデモクラシー ⑥明日をへぐる ⑦東京クルド ⑦東京自転車節 ⑨終わりの見えない闘いー新型コロナウイル感染症と保健所ー ⑩きみが死んだあとで ⑩緑の牢獄

 「すばらしき世界」「あの子は貴族」「いとみち」が女性監督による映画だった。ベストテンに3本入るのは、例年より多いと思うが、11位から20位までには一本もない。若手女性監督はかなりいるけれど、商業的に大きな映画はなかなか任されにくい状況があるだろう。どうしても小さな独立プロ作品が多くなる。興行的に難しく、見る機会も少なくなる。しかし、小説や漫画では女性の方が活躍しているぐらいだから、10年後には女性監督が倍増しているだろう。もっとも女性監督だから必ず面白いというわけもなく、結局は作品本位の評価ということになる。
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軽快な選挙コメディ映画「決戦は日曜日」

2022年01月29日 23時06分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 昨日は夜が紀伊國屋寄席ということで、それまで何をしてもいいわけだが、移動が多いと面倒だし交通費もムダだから新宿で映画を見ようと思った。まずは見たかったけど上映劇場が少ない「決戦は日曜日」。日本では珍しい選挙を描いたコメディ映画である。突然倒れた父を継いで立候補することになった娘を宮沢りえがやっている。全身真っ赤なスーツに白いタスキで、選挙区を回っている姿が実にハマっている。内容も日本という社会を考えさせるヒントがいっぱいある。

 監督・脚本の坂下雄一郎のオリジナル脚本で、5年間かけたという。冒頭のクレジットにまず「窪田正孝」と出るのでビックリ。候補者役の宮沢りえが主演だと思い込んでいたが、二番目。それは俳優のキャスティングという以上に、日本の選挙では候補者は「神輿」であって、支えているのは秘書たちだという構造の問題でもあるだろう。候補者とともに、若き秘書の代表格として地元の私設秘書、谷口勉(窪田正孝)が重要な役割を果たすのである。

 防衛大臣も務めたことがある「民自党」の重鎮、川島昌平が入院した。(この名前は川島雄三と今村昌平だから、映画ファンならニヤリ。)それが衆院解散直前で、急きょ後継を決めようとなるが県連がもめる。そこで娘の川島有美を担ぎ出すことになった。政治に関心がなく、親が出してくれたお金でちょっとした店をしていたというだけの独身女性。政治の裏、地元事情、後援会関係者など何も知らず、過去のSNSには問題がいっぱい。(居酒屋で19歳の男性と知り合って飲んだとか。)炎上系ユーチューバーに突撃されて、切れまくってしまう姿が動画で流れる。果たしてこの候補者、選挙に出て大丈夫なの?
(運動中の川島有美)
 いちいち後援会幹部という老人たちがこれじゃダメだと口をはさむ。有美はそんなに嫌なら辞めたらと言い放ち、後援会が手を引くと演説会もガラガラ。そこに週刊誌が父親の口利き疑惑を報じた。秘書が集まって対策を練るが、要するに「全部事実だが、いかにシラを切るか」という打ち合わせ。有美は私に嘘をつけということかと激怒、もう辞めると言い出す。事務所の屋上に上って飛び降りるとゴネる。困ったわがままお嬢さんだと皆困惑するが、谷口秘書はそのうち彼女の気持ちももっともだと思うようになる。古参秘書と後援会幹部の思惑は今までの利権構造を保持するのに最適な「操れる議員」探しに過ぎなかった。
(「為書き」のある選挙事務所)
 そんなホンネを知ってしまった有美は…。ついに谷口と組んで「自分の落選運動」を始めてしまう。外国ヘイト発言をしたり、父の闇献金を暴く秘密動画を流出させたり。だけど父親以来のコアな保守層には逆に受けてしまう。さすがに闇献金動画はピンチと思われたが、その日に「北朝鮮のミサイル発射宣言」があって話題がそっちに流れてしまう。やるだけやっても、党公認という力で世論調査の支持が落ちていかない。こりゃあ、困った、困ったという普通と逆の選挙映画となって、ついに投開票日の日曜を迎える。

 ストーリーは軽快に進行し、面白いんだけど…。物語には何か不足を感じてしまう。例えば、「応援演説」がない。父は有力者でも、娘は新人だから党幹部の応援があるだろう。そこにカメオ出演の若手有名俳優が小泉進次郎ばりの判るような判らないような演説をするなんてシーンがあれば笑えるだろう。また他党の問題も描かれない。宗教団体をバックにした「公平党」とかが出れば面白いのに。そういう問題以上に大きいのは「敵役」がいないことだろう。怪しげな秘書や後援会幹部はいる。でも「日本の選挙の仕組み」「選挙に行かない日本の有権者」といった問題になってしまう。父親に問題があるが、有美は父を否定できない。
(関係者あいさつ風景)
 そもそもこんなに政治に無知な娘が立候補するのは無理がある。今は一応「公募」とかあるだろう。僕が思いついたのは、有美をシングルマザーにするということだ。かつて父の勧めで「政略結婚」させられた秘書がいた。でも夫には前から付き合っていた女がいて、わがままお嬢に切れて関係が復活、子どもも出来て離婚。そんな元夫の秘書が後継を狙って最有力と言われて、アイツだけにはやらせないと有美も公募に応じる。女性候補を増やしたい党中央の意向もあって、有美が公認されたが元夫も無所属で立候補。昔からの利権を握っていて、後援会はそっちに流れてしまう。

 有美はひたすら私怨で元夫を追いつめ、どんどん過激化していってフェミニスト的主張をする。保守系の方向で問題発言するのではなく、逆に民自党中央が嫌がる発言をさせるのである。その結果、後援会も党中央も離れてしまい、絶体絶命。そこで開き直って「私怨で選挙に出て何が悪い」と発言して、これが受けてしまう。高齢層は元夫に入れるが、無党派の女性有権者に大受けしていって。野党票を奪うまでになってしまい、落選するつもりが支持が増えてしまう。なんてのはどうでしょう。

 選挙映画は日本には数少ないが、特にアメリカには多い。この映画も含めて、大方の選挙映画は戦前のフランク・キャプラ監督「スミス都へ行く」が物語のベースにある。政治のクロウトが操作可能なイノセントな候補者を立てて操ろうとするが、真実を知ってしまった候補者はどうするか。日本ではジェームズ三木監督「善人の条件」(1989、唯一の監督作品)も同じような設定。中村登監督「顔役」(1958)という風呂屋の伴淳三郎が山形市議選に出る映画もあったが、劇映画で選挙を本格的に扱うのはそのぐらいか。ドキュメンタリーならいろいろあって「選挙」とか「選挙に出たい」もある。中では「香川1区」が一番面白い。

 監督の坂下雄一郎は「東京ウインドオーケストラ」「ピンカートンに会いに行く」などがあるが、いずれも見ていない。技術スタッフでは撮影の月永雄太が最近の好調が続いている。「朝が来た」「モリがいた場所」などを撮った人だが、今回も宮沢りえの赤をうまく生かした映像が素晴らしい。選挙事務所で秘書たちを描き分けた演出と美術も見事。ところで、本来は何でこんな選挙なんだという怒りが見るものに湧いてきていいと思うが、そこまでの鋭さはないのが残念。でも誰もが見たことがある選挙を題材に取り上げたことで、見る価値がある。候補者の宮沢りえも見応えがあった。
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映画「香川1区」、政治ドキュメンタリーの傑作

2022年01月10日 22時36分22秒 | 映画 (新作日本映画)
 大島新監督の「香川1区」が東京で先行公開されている。地元の香川初め全国では1月21日頃から上映されるところが多いようだ。これは大島監督の前作「なぜ君は総理大臣になれないのか」(2020)の続編として作られた映画である。立憲民主党の小川淳也衆議院議員に密着しながら、2021年10月31日に行われた衆議院議員選挙を記録した映画である。当然ながら対立候補の平井卓也候補(自由民主党)や町川順子候補(日本維新の会)も取材している。この映画を見ようとする人なら、おおむね選挙結果は知っているだろう。ハリウッド製劇映画ならともかく、結果の判っているドキュメンタリーってどうなの? と思いながら見たけれど、それは全く心配なかった。156分もある映画だが、全く退屈せずに見られる政治ドキュメンタリー映画の傑作である。

 前作「なぜ君は総理大臣になれないのか」は公開当時に見逃してしまって、キネマ旬報文化映画ベストワンに選出されてから見に行った。文化映画部門ではあるが、親子そろってベストワン監督になるのは史上初ではないか。(大島新監督の父、大島渚は1971年の「儀式」がベストワンに選出されている。)しかし、僕は前作はあまり面白くなかった。小川淳也という政治家を知らなかったという人が結構いたが、僕は一応名前も知っていたし注目もしていた。偽装統計問題で活躍したのだから。そもそも与野党問わず、何回も当選している政治家は大体知っている。もちろん小川議員の家族構成なんか知らなかったが、基本的には驚きはなかった。

 大島監督の妻が小川議員と高校同窓で、その縁で長年撮りためていたということだったと思う。そのため珍しいぐらいの政治家密着ドキュメントになったけれど、折々に撮影したブツ切れ感が否定できない。メインになるのは2017年衆院選だが、そこで小川は民進党(当時)の方針に従って「希望の党」から出馬し、比例区で当選した。安保法制に賛成する「希望」から出たことで、「裏切り者」と言う有権者もいた。そこら辺が興味深かったが、その問題はすでに「解決」してしまった。「希望」に「排除」された「立憲民主党」が優勢となってしまったのである。そういう政治家に「なぜ君は総理大臣になれないのか」は大げさに過ぎて僕には理解出来なかった。(例えば石破茂の密着なら「なぜ君は総理大臣になれないのか」も判るが。)
(今回も「本人」ノボリを背負って自転車で)
 だが、今回の「香川1区」は非常に面白かった。一つには選挙が2021年秋に行われることが事前に判っていたことがある。2014、2017年の総選挙は安倍政権が突然仕掛けたものだった。大島監督は他の仕事もあるわけだから、急に選挙になっても困ってしまう。ところが今回はコロナ禍で解散出来ないまま任期満了が近づいて、秋までには必ずあるのである。そこで2021年4月18日、小川が50歳の誕生日を迎える日から撮り始めて、選挙戦、投開票日と起承転結の構成が抜群なのである。

 しかも対立候補の平井卓也は菅義偉内閣で初代デジタル大臣を務めた。1年でデジタル庁を立ち上げた「実績」を大いに誇るものの、パワハラ、暴言、接待疑惑をマスコミで追求された。NTTに接待を受けて「割り勘にした」というが、勘定を払ったのは週刊文春の取材を受けた後だったというのだから、脇が甘いにもほどがある。しかし、平井氏といえば、地元香川県で3代に渡る世襲政治家であり、四国新聞西日本放送を傘下に持つ四国のメディア王である。四国新聞はデジタル庁発足を6面に渡って特集したのに対し、小川議員に対しては取材もせずに記事を書くというトンデモぶりである。
(香川1区は高松市と小豆島)
 そこに「日本維新の会」から町川順子という候補が突然出馬を表明した。小川は維新の議員総会に「乱入」して、出馬取りやめを要請する。それを音喜多議員にツイッターで投稿され、他党候補を妨害したと批判された。小川議員は「野党が一本化を最後まで追求するのは当然」というスタンスだが、「悪意をもって報じられるとは思っていなかった」と言う。大島監督は「維新は自民票も取るのでは」と問うが、小川は「それもあるが結局野党票をもっと取る」と述べる。この問題は当然知っていたが、実は町川氏は玉木雄一郎議員(国民民主党代表、香川2区)の秘書だった人で、小川とも面識があった。玉木も出て来るが、町川の出馬には困惑している感じだ。映画は平井デジタル相や町川候補にも直接取材していて、非常に興味深い。

 こうやって書いていると終わらない。いよいよ選挙公示日を迎え、選挙戦本番である。小川陣営はボランティアが集まってくる。「小川淳也を心から応援する会」(オガココ)というグループもあって、選挙事務所は若い感覚で装飾される。いわゆる「為書き」が目立たないようになっている。「為書き」というのは、有力者が「祈当選 為○○○○君」などと書いた紙である。これだけ有力な人が応援しているという示威だが、大臣、知事、大都市市長など有力者にも序列がある。映画で俳優をどんな順番で載せるのかみたいなものである。そんなものが大きく貼ってあるのは古い感じがする。平井陣営の事務所は為書きでいっぱい。町川陣営ではなんと出陣式に神官を招いてお祓いをしている。
(大島新監督)
 平井陣営も不祥事報道に追いつめられたか、次第にピリピリしてくる。街頭演説では「相手陣営はPR映画なんか作って盛り上がってる」などと演説する。聞いていた監督は「PR映画はないんじゃないですか」と問い詰めるが相手にされない。次第に演説撮影も妨害されるようになり、警察に通報される。もちろん選挙演説の撮影は何の問題もなく(一般人がスマホで撮ってたくさんSNSに上げている)、かえって警察に心配される。岸田首相を迎えて大決起集会があるというので、撮影に行くと入れてくれない。首相演説は絶対に映画に入っただろうに、もう大島監督は「敵対陣営」「危険人物」なんだろう。

 それも道理で、監督のもとには「秘密情報」も寄せられる。一つは政治資金パーティの問題で、2万円×10人分の20万円を貰いながら、出席は3人までと明記されている書類である。パーティ券代は出席の対価だから、出席出来ない7人分は「寄付」で扱わなければおかしいと指摘される。さらに「期日前投票」をした人が本当にその候補に入れたかどうか、別会場で確認しているという情報である。自民党県議が持っているビルの2階に、確かに期日前投票をした人がどんどん吸い込まれている。監督が投票を頼まれた人を装って聞いてみたところ、確かに企業の上役などに投票依頼された人が実際に入れたと報告に行くらしい。

 小川候補の両親にも聞きに行くし、小豆島に運動に行く二人の娘も取材する。最初は「妻です」「娘です」というタスキをしていた家族は、最後になって本人の名前入りタスキをしている。「妻」「娘」では男性中心で従属している感じがするので、自分の名前を出すことにしたのである。そして、ようやく投開票日。まさかの「開票速報開始直後の当確」だった。長女も挨拶して「今までは大人の社会に出ると、正直者は馬鹿を見るということなんだなと思っていたけど、今日は正直者が報われることを知った」というようなことを涙ながらに語る。動員された平井陣営に対し、ボランティアがどんどん増えていった小川陣営には、勢いの差があった。特に小川陣営の応援ということではなく、選挙戦を撮影していればそのことが理解出来る。

 とはいえ、立憲民主党は全体としては議席を減らし、党首選が行われた。小川淳也も何とか出馬したが敗れ、現在は政調会長をしていることは周知の通り。なかなか総理への道は遠いが、やはり正直、公正が売り物というのではリーダーは難しいかもしれない。ホンのちょっと出て来る玉木雄一郎の方がリーダーっぽいではないか。「清濁併せのむ」器がなければ、プーチンや習近平に対応出来るのかと思う有権者もいると思う。まあ、もう一皮二皮向ける必要があると思うが、まずは野党が弱いところをじっくり巡って、今回の選挙の教訓を伝授して欲しいと思う。
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