尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小石川後楽園-小石川散歩③

2014年11月24日 23時27分15秒 | 東京関東散歩
 小石川散歩の3回目は「小石川後楽園」。僕は小石川という地名をこの庭園で知ったんだけど、所在地の地名は今は「後楽」という。春日通りの北に、今「小石川1丁目」から「小石川5丁目」までの町名があるが、本来の小石川はもっとずっと広い地名なんだろう。岡山に有名な日本三名園の「後楽園」があるが、1923年に国の史跡、名勝に指定される時に、岡山と区別するために「小石川後楽園」と言うようになったという。今は国の特別史跡特別名勝に指定されている。もっとも「昭和の子ども」にとって、後楽園と言うのは野球場であり、遊園地である。それと別に「小石川後楽園」というものがあると知ったのは、ずいぶん後のこと。初めて行ったのも数年前である。

 ここは前に取り上げた六義園(りくぎえん)と並び、大名庭園の中でも名園中の名園だと思う。非常に素晴らしい日本庭園の美を味わうことができる。今は外国人観光客も非常に多く、数か国語のパンフが置いてある。今回は、10月の終り頃と11月23日に行った。その間の紅葉の違いなどを比べてみたい。(東京都心の紅葉はもう少し後の方が良かったようだ。)まずは10月末の写真。
   
 池に景色が映り、とても美しい。しかし、東京ドームやシビックセンターなどが背景に写ることを避けられない。では、11月23日の写真。
   
 この写真は中へ入って少し右の方、駐歩泉の先あたりで池を見る構図で撮ったもの(紅葉の4枚目を除き)だが、ここが一番構図が決まるのではないか。都立の庭園は9つあるが、面積は浜離宮が圧倒的に大きい。でも水の部分が多い。その次が六義園で、次いで後楽園。じっくり回ると、かなり時間もかかる。ここは、江戸時代の水戸藩上屋敷(元は中屋敷)で、水戸藩初代の徳川頼房が作り始め、2代目光圀の時代に完成した。幕末の斉昭時代のものもあり、歴史的に貴重なものがあるが、安政の大地震、関東大震災、空襲と3回の被害を受け、案外古い建物は残っていない。中では、「得仁堂」(とくじんどう)が光圀が18歳の時に「史記」を読んで、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)の木造を安置したというところ。その近くには、朱塗りの「通天橋」や、石造りの「円月橋」がある。
   
 これらは何となく中国風の感じがあるが、それは明の遺臣・朱舜水の意見によるという。園の名も朱舜水の命名で、中国の「岳陽楼記」と言う本の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から付けられた。幕末の水戸藩に生まれた藤田東湖は、水戸学の集大成として大きな影響力を持ったが、安政の大地震に際して、母を援けるために屋敷に戻って圧死した。後楽園の一番奥の方に、東湖の記念碑が建っている。中国の西湖に見立てたという堤とか、道々に敷かれた石畳などが中国風だという。もう僕などにはよく判らないが。
   
 最後に、入口のところや園内のあちこちの写真を載せておく。広くてノンビリできるということでは、六義園と後楽園かなと思う。だけど、JRの水道橋、飯田橋のちょうど間で、少し遠い。地下鉄の後楽園が近いが、入り口に近いのは、都営地下鉄大江戸線の飯田橋駅だと今回知った。もっとも大江戸線は入り口から駅までが遠い。
   
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