実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

大川小学校最高裁判決 実戦教師塾通信六百七十四号

2019-10-18 11:23:56 | 子ども/学校
 大川小学校最高裁判決
   ~「勝訴」だったのか~


 ☆初めに☆
第三者委員会の経過と報告に失望した大川小学校の遺族が、仙台地裁に提訴したのが2014年。主文の、
「原告に対し………記載の各金員及びこれらに対する………支払済みまでの金員をそれぞれ支払え。」
に始まる最高裁の判決は、地震に対する行政の備えが不十分だったとする一方、震災後の行政の対応に対しては多くが「仕方なかった」というものでした。原告の遺族の方々にも悔いが残った判決でしょう。 
 ☆ ☆
163頁(資料もあわせると800頁近い)の判決文からは、今まで伝えられて来たものより、現場での激しい葛藤が伝わってきます。しかし、そこでの決断は「困難ではあった」が「しなければならなかった」という判決は、しっかり受け止めなければならないと思いました。


 1 「バットの森」
 前回の判決が出た時、村井宮城県知事は控訴理由で「判決を受け入れるとあらば、宮城県のみならず全国の現場への重い負担が考えられる」と言った。今回の最高裁判決に対して、ニュースでは「学校現場の責任重く」と伝えられた。
 これは具体的には、最高裁でも採用した「三次避難の場所」のことを指している。大川小学校から700mのところにある「バットの森」がそれだ。楽天イーグルスの誕生を記念し、宮城県内で作られた公園のことである。石巻市では2007年、釜谷地区に作られた。

これが二審の判決で「三次避難の場所として適当」と、降って湧いたように登場する。今まで原告も被告も注目して来なかった場所なのだ。実際、それまでのニュースや資料の中には出ていない。小さい子や老人の足だと大川小学校から20分を要し、新北上大橋そばを抜けたあとは低地を歩く。その上「バットの森」はあまり使われていなかった。村井知事は、これらの事情を指して「重すぎる」と訴えたと思われる。

 2 「学校保健安全法」
 高裁/最高裁が、この「バットの森」を三次避難の場所として選んだ背景に、10年前の「学校保健安全法」改正がある。判決では26条/29条/30条を多く取り上げた。簡単に説明するため第26条に絞り、省略しつつ紹介する。
「学校は子どもたちの安全確保を図るため、事故・加害行為・災害等で生ずる危険を防止し適切に対処できるよう、学校の施設設備や管理の整備充実などに努める」
というものだ。近年多発している学校内外での事件や悲惨な交通事故に鑑(かんが)み、この改正が行われたと読者も推察したのではないだろうか。教職員が保護者や警察と共に子どもたちの登下校を見守り、あるいは放課後パトロールする姿は、法律が裏付けられているように見える。
 しかし、学校保健安全法は「災害」にも適用される。昨年の年が明けた一月、私たちが大川小学校を訪れた時、遺族の佐藤和隆さんが「学校保健安全法」の適用範囲を強く主張していたことが思い出される。
 判決は、学校保健安全法の自然災害の部分に言及する。たとえば、二次避難から次への避難の検討を行政/学校はしないといけなかった。遅く見積もっても東日本大震災がある前年に可能なことだった。その年の4月から、法改正に伴う教職員の各研修事業があったからだ。それを受けた学校での防災計画等の見直しはされるべきであった。大川小学校が避難場所として適切なのか検討されないといけなかった、というものである。
 「学校現場の責任重く」という報道は、このことを指している。

 3 学校現場の認識
 私が残念だったのは、学校保健安全法に関することではなかった。津波への危機感をやはり持っていたにも関わらず、現場がそれを生かせなかったことだ。校長/教頭は、日頃から「津波が来た」時のことを考えていた。大川小学校の標高の低さ、目の前にある北上川の堤防が津波に耐えられるかどうかという不安だ。
 以前、石巻市支所の職員が来た時の説明に校長は納得せず、三次避難の場所を話し合ったという。そしてここでも何度か書いたが、震災2日前の3月9日の地震の際、校長は堤防の様子を職員に見に行かせており、校長・教頭・教務の三人が三次避難の場所について協議している。教頭は震災の日、裏山に避難することを近隣住民に打診した。しかし釜谷地区の区長に「ここまで来ないから大丈夫」と反対され意見を下ろした。大川小学校に着任して間もない教頭が、古くからの住民の考えを受け入れた形だ。だが、「古い住民」は「新しい川(海)」を知らなかった。
 判決によれば、昭和初期の河川工事があるまで、北上川は釜谷地区ではない石巻湾に注いでいて、釜谷地区を流れる川は追波川という地域河川に過ぎなかった。しかし河川工事により追波川は北上川の一部となり、大川小付近の流域面積は大幅に広がった。慶長/明治/昭和の三陸大津波が太平洋に襲来した時点と現在とでは、北上川河口の地形は大きく変わっている。
 つまり「ここまで来ないから大丈夫」ではなかった。

 4 遺族の無念
 震災の日は有休のために現場にいなかった校長が、大川小学校にやって来るのが震災後10日余りを過ぎていたこと。その日は校長室から出ることもなく捜索現場に声もかけなかったこと。「間借り」した小学校での「開校」連絡を遺族にはしなかったこと。
 行政に対しても遺族は不満でいっぱいだった。石巻市長の「自然災害の運命として受け入れる」発言。説明会開催の遅れ。時間のリミット設定と「もう説明会はありません」という宣言。
 さらに、助かった子どもたちへの聴き取りメモの廃棄。そして、メモを廃棄した職員の「そんなに大切なものだとは思いませんでした」という言葉。
 これらはひとつの流れとなって「不誠実」の姿を遺族の上に投影した。だが判決は、大体において「違法ではない」「(隠蔽という)証拠がない」とした。判決の基調は「みんな大変だったのですよ」というものだ。
 この手応えのなさは「法の壁」によるのだろうか。そんなことはない。遺族/被害者に「謝罪しなさい」という判決などいくらでもある。今回の裁判所の尽力(じんりょく)を否定するものではない。しかし、法律を盾に「人の心は立ち入れない」とするのだとしたら、この先もっと、人々は「謝る」ことも「感謝」もしなくなってしまうのだ。



 ☆後記☆
台風19号、みなさんいかがでしたか。私の近所でも亡くなった方がいたことを新聞で知って驚いています。何人かお見舞いしましたが、逆に心配してくれた方もいらっしゃいました。

 台風の翌日に見えた富士山です。高くなった木の右側です。

今年のF1Grand Prix、やっぱり予選と決勝が同じ日でした。なんか、台風とラグビーに消された感じです。

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