実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

白鵬  実戦教師塾通信三百八十九号

2014-06-08 11:14:47 | エンターテインメント
 白鵬-稀代の横綱


 1 「本当のこと」

「紗代子さん、あなたを愛しています」
私は相撲取りであり横綱でありますが、ひとりの男であり夫でもあるのです、のあとにこの締(し)めくくりである。白鵬は何度、日本人を感動させただろう。やっぱりあなたはただ者ではない、と思うばかりだ。
 以前の白鵬は、負けをひきずったという。しかし今では、帰宅して子どもの顔を見ればすぐに気持ちが切り替わるそうだ。
「子どもの力、家族の力という目に見えないものがある」(角川書店『相撲よ!』より)
という。よく子どもたちが、
「おばあちゃんといるのが楽しい」
と言う。あれは、そこに、
「揺(ゆ)るぎない場所/時間」
があるからだ。外、または自分の世界とは違う時間が、そこに変わることなく流れているからだ。子どもたちがそれで落ち着く。それと似ているかもしれない。「家」の最大の役割というか、姿を白鵬は感じて言っている。
 そんな安定した状態で今場所は相撲を取れなかった。流産を知ったのは13日目だったという。もともと彼女の安否(あんぴ)を気づかって名古屋に来ていたわけである。『相撲よ!』には、
「私は五人兄弟なので、子どもは五人欲しいね」
と言っているが、
「これだけは授(さず)かり物なので、どうなることかわからない」
ともある。今回の出来事に白鵬がどんな態度で臨(のぞ)んだか、心中はわずかながら察することができるように思う。
 記者会見を中止することで、様々な憶測(おくそく)や勘繰りが生まれることは分かっていた。しかし、
「モンゴルの新聞によって、10回くらい結婚させられている」(同書より)
白鵬にとっては、たいしたことではなかったのだろうか。周囲の大騒ぎは彼女にも伝わっていただろう。二人がお互いを思いやる言葉を交(か)わしたことが、容易(ようい)に想像できる。
 海老蔵が泣いたという。そこで海老蔵は、
「本当のことがわからないと、外野の言うことが本当だと思えてしまう」
とも言っている。いろいろなことを教えてくれる横綱である。
        
        左端に幼(おさな)い頃の白鵬がいる(同書)


 2 「仕合」
 白鵬が「そんじょそこらの横綱ではない」ことを検証するために、取り組みを振り返っておきたい。
「取り乱す」
とは「通常の所作(しょさ)が出来ない」ことである。私がオヤと思ったのは、勝ち方だった。相手がまだ土俵下だったか、まだ礼をする状態にない時、白鵬がもう行司(ぎょうじ)の勝ち名乗りを待っている。これが一回ではなかった。驚いた。以前もこんなことがあったが、それは一年か二年前、最初の当たりで松鳳山が脳震盪(のうしんとう)を起こした時だ。あの時は松鳳山がまだ痙攣(けいれん)が納まらず起き上がれない状態のまま、勝ち名乗りを受けてしまった。いつもなら相手に手を添(そ)えることを忘れない横綱は、多分「取り乱した」。自分の力による相手の異変に驚いた。行司も驚き、そのまま勝ち名乗りを上げてしまった。という出来事だと思っている。それが複数回。今場所はそのほか「だめ押し」も目立った。
 いつもの横綱は、相手に仕(つか)える気持ちが満ちている。武道を志(こころざ)す私達が「試合」=「仕合」、つまり「つかえあう」と名付ける所以(ゆえん)である。この所作が身についている横綱が、今場所はそれを疑わせるような場面が複数あった。舞の海がやはり感じたようで、それを、
「強さを見せつけるような」
相撲だと言った。私には、横綱の気が散っているようにしか見えなかった。これを取り上げようとしたら、普通は「横綱の品格」という問題になるのかもしれないが、白鵬の場合は違う。私には、
「一体何があったのだ?」
という思いであった。でも分かった。今場所の横綱は、
「相撲のことを考える余裕(よゆう)がなかった」
「『勝ちに行く』しかなかった」
のだ。
 しかし、なんという懐(ふところ)の深さだろう。
            
                 同書から
 前にも言ったがもう一度言う。今生きている人の中で「日本人は誰か」と聞かれたら、私は迷わずに、ドナルドキーンと白鵬をあげます。


 ☆☆
マー君、9勝目ですね。アスレチックスは徹底(てってい)して「低めを打たない」作戦だったそうで、でも、マー君は、
「我慢比べなら負けないぞ」
と思ったという。いやあ、なんつーか、です。
楽天は、そのマー君と星野監督がいない。大変だ~
でも監督はゆっくり、そしてちゃんと治して欲しいですね。

 ☆☆
この間、雨あがりを歩いていたら、美容院の入り口からずっと外を見ている若いスタッフ(夫婦?)がいるのです。見ている先には、多分、今し方までお客さんだったおばあちゃんがいました。背中が大きく曲がって、両手で支(ささ)える歩行器に必死にしがみついている彼女は、もう倒れんばかりでした。そのおばあちゃんを心配そうに二人は見ているのです。私も思わず立ち止まって、遠くからでしたが、ずっと見てしまいました。おばあちゃんの頭は、それはそれはきれいに仕上がっていて、これからどこかへ出かけるのだろうかなどと、私の想像をかきたてました。よかったですねと思った私です。いいものを見せてもらったと思う私です。

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