実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

技術ではなく(2)  実戦教師塾通信五百三号

2016-07-08 11:23:46 | 子ども/学校
 技術ではなく(2)
     ~仮面の克服~


 1 手書きの学級通信


ガリ版刷りの学級便り。若い人たちには意味プーの世界である。半透明のロウ原紙に、ヤスリ状の鉄板の上から鉄筆でガリガリと字を削(けず)り、印刷のもとを作っていく。当然イラストだって、自分で書いていく。これは、やなせたかしのイラストをどっかから持って来て、ガリガリやったんだと思う。詩は当時ヒットしていたエルトンジョンの『グッドバイ・イエローブリックロード』。それを、冒頭に掲(かか)げた。74年は、私が奇跡的に教員として採用された年だ。
 この詩は、小学生にはもちろん、保護者にも分りにくかったはずだ。しかし、すぐに反応あり。
「ママ、マサミの先生って、エルトンジョン載(の)せちゃってる」
という驚きの声は、その保護者から伝えられた。後々、そして今も、バリバリ青かった時の私の教え子は、この当時の学級便りに、思いを入れこんで語ってくれている。

 2 優先すべきこと?
 要領を得ない、私の学級担任が始まった。ある日の掃除中のことだ。教頭が見回りに来た。そして、
「先生、ここがこんなに散らかってるよ」
と、私に指摘した。記憶は明確でないが、私はありがたいと思わなかった。自分で片づけようとすると、当然なのだが、
「先生がやっちゃダメなんだよ。子どもらにやらせないとダメだ」
と、教頭は諭(さと)すのだった。気づかった子どもたちが動き出す。多分がまんがならなかったのだろう。教頭が、だ。どうせ私のクラスがスムーズでなかったのは、きっとこればかりではない。職員室にしばしば、保護者からクレームも行っていたはずだ。でも、私の中の不愉快な気持ちが、明確なものになった。
「こういうのって、『意地悪』じゃないのか」。
私を呼んで小さな声でささやくとか、あとで言えばすむこと、なのだ。掃除は明日もあさってもある。
 そして私は別なことに気づく。私が子どもたちに「当たらなかった」ことに、だ。
「オマエら、いつも言ってんだろ、分かんねえのかよ」
と言わなかったことに、だ。私はそっちの方向を選ばず、教頭のデリカシーの無さとか指導力を疑い、ムカつく方へ向かった。この時の私は正しかったと思う。私の「不愉快」は、子どもたちの不始末/不手際によって生まれたものではなかったからだ。残念ながら、多くの教員はここで、
○やるべきことはやらないといけない
と考え、子どもたちを注意する道を選んでしまっている気がする。それはそれでいいのだ。しかし、自分の感情の発生場所を見極(きわ)め、どう処理するかという「道/責任」を、放棄(ほうき)してはまずい。
 この場合、
「オレに恥をかかせる気か!」
と叫ぶ方が、子どもたちには分かりやすいかも知れない。大人の世界は大変だと思ってくれる子も、出て来るかも。しかし多くの教員は、『仮面』を作って行く。
○優先することはある。そしてそれは、やらないといけない
という『仮面』だ。本当は学校が「優先」と考えるように、現実は出来ていない。
 中学校で考える「優先」例で見てみよう。
「服装を直さないと卒業式には出さない」
というやつだ。服装が「優先」する。

「こういうものを原則とは言わない。正しくは、
『服装をどうにかせい、そして卒業式に出ろ』
である」(拙著『学校をゲームする子どもたち』第Ⅳ章)

どちらを優先すべきか、という現実ではないはずだ。指導すべきなのは「服装」も「卒業式出席」もだ。服装はなおさないといけない、そして、卒業式に出るのも当たり前だ、優先すべき順序はない。おそらくは、
「学校で『優先する』こと」
で頭がいっぱいになってこうなる。そんなことに気づけなくなる。

 学校に復帰して、私はまた一度、学校というものは時間が滞(とどこお)る場所だなあと思う。そこにいつも、
「子どもの事情やわがまま」
があるからだ。しかしそれは「許されない」のではなく、「どうしても出て来る」ものだ。だからと言って、この考えが「甘やかす」こととは違うぞ。
「『わがままに耳を傾ける』ことと『わがままを公認する』ことは違う」
のだ。聞くこともなく、怒ったり怒鳴ったりすることで、
「服従させる」
のがまずい。果てしない繰り返しの中で、子どもたちは徐々に安心を手に入れ、巣立って行く。
 「優先仮面」をかぶってはいけない。

 3 「正義」の仮面

それから四半世紀が経(た)って、学級通信も様変わりする。ワープロによる編集となった。このあとはパソコンで作る時代になる。でも私の紙面編集は相変わらずだった。冒頭にはいつでも詩を載せた。これは当時よく耳にしたエンヤの曲。写真は中学校卒業間際(まぎわ)、教え子たちと正門前で撮(と)ったものである。当時の私の愛車ゼファー1100が、子どもたちの間にいるのが分かるだろうか。
 この写真を載せたのは、中学校にいた時、無能な教員とよくぶつかったことを書くからだ。いま学校に復帰して、こういうのはないが、いつかそんな局面を迎(むか)えなければいいがと思えることを、私は見ている気がしている。
 地域の静かな空気を受け継(つ)いだ子どもなのだろう、割りに「おとなしい/優しい」子どもが多い中学校でのことだ。それに便乗したとしか思えない強引な「指導」が、よく繰り返された。以前に一度書いたことだが、再録する。
 突然、全校生徒は体育館に集合するよう、校内放送が流れる。体育で使う大型のタイマーが破損している、という。体育主任と生徒指導主任が、延々(えんえん)と話す。犯人はこの場で名乗り出なさい/これでいいのか/○○中学校はもうおしまいだ等々。もちろん、他の職員も全員同席しているが、全校生徒と同様、わけも分からず集合した。私たちは犯人を知っている、などというトンチンカン話も続いて、集会が解散した。私はすぐ、この若干名(じゃっかんめい)の教員に問いただす。
「みんなの了解を得ずに、いきなり集会ですか」
『校長に言ったし、大事なことなんで』
「自分たちで一応調べたんですか」
『急いだ方がいいし、大事なことなんで』
「多くの関係ない生徒を巻き込んで、どうする気ですか」

たいして調べもせず、腹立ち紛(まぎ)れに子どもたちを集めて「怒った」のは明らかだった。そしてこういう連中は、こんなことで子どもたちの「正義感」が育つと思っている。
「先生たちがあんなに怒ってる」
「こういう事件を起こした生徒を許せない」
と、子どもが思うと思っている、いや、ねらっている。こんなことがないとは言わない。しかし、それは不動で揺るがない山のような、静かで優しい先生が怒った時のことに限ってだ。つまりそういう先生は、そういうことをしない。だからこういうことは、ほとんどあり得ない。
 多くの子どもたちが、「いやな時間」を過ごす。いつも「正義の使者」を気取り、「指導」を装(よそお)った「けちつけ」にいとまがない連中に、子どもは敬意の眼差しを向けてはくれない。
『じゃあ、先生はどうすれば良かったというのですか』
と、しょうもない教員が反撃して来る。この連中は、子どもたちに対し、
「たった数人(ひとり)の心得のない生徒のため、みんなにはいやな思いをさせてしまって」
という申し訳も思いつけない。みんなにはすまなかった、のひと言ぐらいは言ってください、そう私は結ぶ。

 こんなひどい事態を、私がいま見聞きしているのではない。本当は難(むずか)しい仕切りなんだと思う。しかし、
○みんなにも聞いて/見ておいて欲しい
ことが、子どもたちの「いやな時間」になっては、気持ちは通じない。申し訳なさも含め、こちらの思いをしっかり伝えることだ。それが、子どもへの誠意ある態度だ。
 「正義の仮面」よ、さらば。


   すっかり夏、の手賀沼ジョギングロード
 ☆☆
いやあ、昨日の猛暑、こういう時のプールは最高ですねえ! 手本を見せたくなったりして、少しばかり出しゃばったかな、という感じの昨日でした。一度目は失敗し(なんせン十年ぶりなもんで、という言い訳をお許しください)、
「コトヨリ先生~ 頑張れ~」
という黄色い声援の間に、
「出来ねえのかよ~」
というヤジとも落胆ともつかない男どもの声。二度目をする前の静かな空気がまた楽しい。夏はいいですねえ~

 ☆☆
都知事選、どうなりますかね。乱戦模様は、前回同様ですね。あの時は、細川/宇都宮両氏を一本化出来なかったことがずいぶん悔やまれました。今回の注目はもちろん、自民党の候補者がどうなるかということです。石田純一が名乗りをあげるというのも、面白いと思ってます。

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