実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

仲間再び(下)  実戦教師塾通信四百三十一号

2015-02-27 13:46:37 | 福島からの報告
 仲間再び(下)
     ~「もう会えなくなると思うと」~


 1 3,11

 集会所を温(あたた)め、お茶を用意して、おばちゃんたちは私たちを待っていた。大型のタッパーには作りたてのごま和えとサラダ、そして、キュウリと山芋のぬか漬けが用意されていた。
「この間、美味しいって言ってたっぺ」
だからまた作って来たんだよ、とごま和えを勧めるおばちゃんの言葉に、
「先生、愛されてますね」
と言いながら、仲間がお茶請(う)けを小皿に盛る。座りなよと言われ、立食の形だったみんなは、部屋の隅(すみ)にあったパイプ椅子を用意する。二重の車座。
 おばちゃんたちが、あの日の話を始める。「始める」というより「始まる」と言った方が正しい。集会所にひとりやふたりしかいなくても、やはりおばちゃんたちはあの日を話す。つらくて口を閉(と)ざすひとと、つらくて話さないといられないひとがいる。おばちゃんたちは後者なのかも知れない。
 久之浜を津波が襲(おそ)って、動けない旦那さんを置いては逃げられなかったおばちゃんが、旦那さんと二階まで逃げた時のことだ。私はもう百回聞いたと言っても大げさではない。そのたびに圧倒される。しかし、何度聞いてもやっぱり、私なんかには分からない。一方、そのたびに「命からがら」とか「生きた心地がしない」経験に、いくらかでも近づけるのかも知れないとも思っている。
 防災無線のない中で、二階に逃げた、いや置き去りにされたと言った方がいいのかも知れない、あたりから消防や人々の声がだんだんと遠ざかっていったのだろうか。私はいつもその話に、すぐ下の一階を渦巻く瓦礫(がれき)と波の音ばかりが聞こえて、そばにいるはずの旦那さんの声を聞いた気がしない。
 目の前で津波に流される家のひとつから火が噴(ふ)き出し、それが隣の家にぶつかって、爆発するように隣の家も燃えだす。大きな炎の渦が流されていく。
「怖かった」
おばちゃんは、たったひとりで恐怖に耐えながら、二階からこの修羅場を身じろぎもせずみていた。どす黒い雲と波をじっとみつめ続けるおばちゃんの姿が、いつも暗い中に浮かびあがる。一体どうやって旦那さんを二階まであげたのだろう、この日も結局分からなかった。おばちゃんが忘れているのか、記憶から消しているのか。
「次の日、波が行っちまったあと、若い人がみっけてくれてさ」
一階部分は壊されたが助かった。高台の避難所まで運ばれた。おばちゃんが担(かつ)ぎ込まれると、
「良かった良かった」
「だめだと思ってた」
と、無事だったみんなが声をかけた。
 気がつくと、集会所にいる仲間の何人かが、何度も顔を手で拭(ぬぐ)っている。被災地は初めてだという仲間は、この日ふたり。また、こうしておばちゃんたちから話を聞くのは、みんな初めてだ。話してもらえて良かった。
「体調を崩(くず)してさ」
というおばちゃんは、顔を手に持たれかけるように話した。一週間後に控えた引っ越しの段取りやら荷造りや、そして気疲れもあるのだろう。いつもと違うおばちゃんは、あの日の話に力が入っていたように思えた。
「久之浜は、あれから一カ月と少し、警戒区域になって屋内退避(おくないたいひ)だったんですよね」
と私は言った。原発から30キロ圏内に、久之浜の一部がかかっていた。しかし、おばちゃんがよく分からないといった顔をする。そうか。私はこの日初めて知った。おばちゃんたちは何も考える余裕などなかった。命からがら逃げ延びた。きっと、
「原発とかなんとかではなかった」
のだ。今も薬に頼る夜が多いという。
「思い出すとさ、寝られないんだよ」
というおばちゃんの夜は、毎日やって来るのだ。
 かんぽの宿で津波に襲われたおばちゃんが話す。消防車がおばちゃんたちのマイクロバスに横付けし、津波をブロックしている間に、消防士がおばちゃんたちを救い出す、あの話だ。仲間がまた手で顔を拭う。私はそうだと思い出し、正月にブログで報告した話をする。二度の脳梗塞で寝たきりになった、柏の人の話だ。
「津波で助かったおばちゃんが『あの時死んでれば良かった』って言ってるって、その人に言ったんだ」
「そしたら、そのひとが、『それは違う』ってよ」
「神様が『生き残れ』って残したんだって」
「『そう言っといてれ』って言われたよ」

 そんな会話の間をぬって、
「もう会えなくなるのがと思うどよ」
別なおばちゃんがつぶやく。
「もうこごに来てくんねえがと思うどよ」
とつぶやく。ふいをつかれたような気がした。そんなことはないと言おうとするが、言葉が出なかった。おばちゃんはそんなことを言いたいんじゃない、だから私も、また来ますよと言ったところで、それがなんの答えにもなってない気がした。返す言葉が見つからなかった。あとで仲間が、
「あの言葉、胸のふか~いところにずーんと来ました」
と言っていた。そうだった。深いところにずっしりと。
 長い沈黙が集会所に流れた。私も顔を拭いそうになる。誰かなにか言ってくれ、私は何度も思った。

「そっか。『死ねば良かった』ってことじゃねえんだな」
さっきのおばちゃんが、ずいぶんと間を置いてそう言うのだった。このおばちゃん、耳が遠い、足も不自由で歩行器で歩いている。でもみんな分かってる。今になってさっきの会話の答えである。嬉しい。ありがたい。
 それで私もやっと気がつく。この瞬間、おばちゃん頑張るよ、オレたち頑張るからと、私(たち)は思ってる。そして、いつも思っているのだったと気がつく。これなのか、おばちゃんたちが生き残ったということは、と気がつくのだった。
 後ろから様子を見ていたおじちゃんが、おばちゃんたちの脇に来て話し始めた。みんなオレたちのことを覚えていてね、忘れないでねを繰り返す。いつも冗談を言ってばかりの人なのだが、まじめに話し続ける。嬉しくてね、やっとここを出られるんだよ、あとで顔いっぱい笑いを作ってまた言うのだった。
 いつも通り、おばちゃんもおじちゃんも、みんな集会所の中でお別れする。
「おばちゃんと固い握手」
「またごま和え食べに来るね」
良かった。外まで見送られたら、ホントに最後みたいでホントに困った。でも良かった。いつも通り、みんな集会所の中で、またねのあいさつをする。


 2 幸せです
 社会福祉協議会(社協)の所長さんお勧めのカラオケ「シダックス」が、この日の反省会会場だ。私の愛用する旅館「ふじ滝」は、いつも現場の人たちでいっぱいのこの頃である。
 ほとんどが教え子の仲間たちとは、今回も昔の話がからんだ。いきなり私の結婚(の失敗)に突っ込みが入るとは、そして、
「その時の教訓を生かしてるとは思えないね」
とはどうよ。自分こそどうなんだ、と言いたくなるようなこいつは、中学校の時、信じられないくらい男からもてた。こいつが普段使ってる車はゴミでいっぱいである。
「でも、私にはみんなゴミじゃないの」
と、相変わらず淡々と言うのだった。周りから見ると、
「夫婦じゃないの」
と思える空気を存分に漂(ただよ)わせる相手?の乗ってきたのは、この日も赤い車だった。ていうか、ムスタングだった。
 ってまあ、そんなことはどうでもよろしい。この日のお醤油のやりとりの中で、みんな今回もたくさんのことを受け取った。この日の朝、
「4年もたってしまっているのに、今さらのような気持ちで」
「とっても緊張してます」
と言った仲間も、お醤油を受け取る時の皆さんの笑顔を語るのだった。ひなちゃんはいつの間にかソファの上で寝ている。そして、みんなのストレートな語り口が続く。
「また海岸に戻って暮らしたいと思うのかな」
「私たちバツイチどうしで」
「マサトの誕生日、私たちのサプライズで泣いて」等々。
ちなみに「マサト」とは私のことです。あの時、帰りの会で計画されていた私のハッピーバースデーに迂闊(うかつ)にも涙したのだが、ここには様々な伏線(伏線)があって、とだけ言っときます。それにしても、サプライズなら、あの時とあの時もと様々な出来事が、居並ぶみんなの顔を見ては蘇(よみがえ)った。そんなことを思っている時、
「先生、幸せでしょう」
「こんなに教え子に囲まれて」
という言葉が舞い降りた。教え子ではないが、教え子の相棒が私にそう言うのだった。こんな幸せな先生はいないんですよ、分かってますかと言われた気がした。
 ありがとう。そしてありがとうみんな。私は幸せです。


 ☆☆
ひと区切りの物資支援です。この場を借りて、今まで支援してくださった皆さんに御礼申し上げます。大変な時を過ごしている被災地の皆さんの力になれればと思いながら、逆に力をいただいてきました。仲間のみんなも同じだったようです。あわせて感謝したいと思います。また、このブログの読者の皆さんにも力をいただいたと思っています。ありがとうございます。
もうすぐ5回目のあの日がやってきます。「覚えていてね」を胸に刻(きざ)みたいですね。

 ☆☆
川崎の事件の容疑者つかまりましたね。警察も相手が未成年ということで、相当慎重に進めたことがうかがえます。いつか改めて書きたいと思ってますが、とりあえず、周囲に包まれた、この目隠しのようなベールの正体がはっきり見えます。そして、若者が迷路に入り込んだ時どうしたらいいのか、ということがこの事件では問われないといけない、そう思います。

 ☆☆
イチロー、いよいよキャンプインですね。嬉しい。応援します、じぇったい。

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