実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

久之浜復興  実戦教師塾通信二百六十四号

2013-03-23 22:02:54 | 福島からの報告
 復興住宅


 1 修了式


 22日の朝、私はいわき中央台に向かった。前日までの暖かさから、少し寒さの戻った、よく晴れた朝。まだ10時前だというのに、ランドセルと学用品の入ったカバンを持った子どもたちとたくさんすれ違う。嬉しさを穏やかにためた子どもたちの顔。そうだった、今日は学校で一年で最後の日、修了式の日だったと私は思い出す。学校関係者は、この日が「終業式」でなく、一年の締めくくりである「修了式」だという思い入れがあるのだ。オマエたち、明日から春休みだな、一年間で唯一宿題のない、長期の休み、春休みじゃないか、そんな風に思って、私は子どもたちの幸せを少しもらった気分になる。
 そして思わず、二年前の、あれは4月の5日だったか、6日だったのか、朝、私たちがすれ違った何組かの親子のことを思い出す。私たちはあの時、無惨に壊滅した豊間の海岸へ、瓦礫を処理するチームとして向かっていた。あの頃福島は、津波の被害ばかりでなく、打ち続く原発の事故が原因で、例えば避難先の駐車場で、
「福島の車はすぐに出て行け」
という貼り紙をされた。あるいは、避難先の学校から、
「福島から来たことを隠しますか」
という「気遣い」をされたりしていた。3月の修了式を待たずに「退職」し、福島から逃げるように去っていった多くの教師たち。
 なのに、というか、やはりというのか、晴れ着で着飾ったピカピカの一年生が、全身に、緊張と嬉しさを満たしていたあの日の朝の姿。「入学式だ!」と、海岸に向かう私たちが小さく叫んだあの時を、私は忘れない。侮辱され、捨て去られようとしているこんな屈辱的な現実を前に、あの姿が悲しいまでに美しく見えたことを忘れない。方や、子どもたちの明日に、少しのためらいもなく(いや、なかった筈はないのだが)、喜びをたたえた若い父親と母親。あの姿、あの日を私は忘れない。
 この日(修了式)の日は、あの時の子どもたちが、今はきっと2年生を終える日なのだ。元気でいるかい、頑張ろうな、そんなことを思いながら、お昼前に学校を終える子どもたちを見るのだ。


 2 久之浜復興住宅

 いやあ、昨日は東京スカイツリーに行ってきたんだよ、集会所に入るなり会長さんは私にそう言った。勤め先の皆さんと貸し切りバスで、浅草界隈を堪能してきたという。途中の道路案内標識に「柏」という表示を見て、こっちがコトヨリさんの家の方なんだなあって思ったんだよ、と言う会長さんに、私の顔はほころんでしまう。
 話が復興住宅の話に及ぶと、この日、集会所に集まっていた皆さんの顔は、一様に陰りを帯びる。復興住宅の説明会と懇談会に出ているメンバーのほとんどが、被災が軽微な、自宅持ちの人たちだというのだ。津波と地震で自宅をなくしてしまった人たちのために建てられる復興住宅の話し合いのはずではないのか。その津波の被害を免れた人たちが、一体どうしてこぞって参加しているのだろう。そしてその人たちが、そこでクレームを発信しているという。不思議に思えないわけがない。
 実は、以前報告したように、久之浜地区の復興住宅は、津波で流されたクリナップ工場の海岸沿いの跡地に建てられる。この工場は解体が決まっていたところに、津波がやって来た。皮肉なのことに、解体の執行が自然災害だったわけだ。
 そんな場所にどうして復興住宅なんだ、という意見は出るのだが、それが津波の被害を直接被った人たちから出るのではない。6号線を隔てて、津波の被害を受けなかった農地の地主さんたちが抗議するのだ。うちの田んぼを買い取って、そこに建てればいいものを、という抗議だ。この地主さんたちの多くが、津波の被害を受けていない。
 会長さんの説明によると、その理由は、市長が「迅速な復興住宅の建設」をうたったせいである。農地を宅地に転用するには、2年近い手続きの期間を必要とするのだ。復興が遅れる。
「でもだよ、復興住宅の完成が一年や二年遅くなってもたいしたことじゃねえよ」
と会長さんが言う。私もそう思う。
「それより、安心して住みてえってのがこっちの気持ちだ」
会長さんがそう続けた。
 そして、もう一つのミステリーは、この説明会・懇談会の案内を、いわき沿岸の人たちが居住している、この第一仮設住宅(自治会長)に回さないことだ。どうしてそんなバカなことがあるんですか、と私は聞かずにいられない。会長さんは、
「向こう(市)は、その辺を考えて連絡しねえみてえなんだな」
と言う。私はそれ以上聞けないものを感じてしまう。


 3 仲村トオル

 この日、私はこの第一仮設に、三つほど用があった。ひとつは、母の遺品になるのだが、スカートをいくつか、皆さんに、と渡すこと。二つ目は、今月末に配信される特別企画ドラマ『母。わが子へ』(TBS系)のことを知らせることだった。主演の仲村トオル本人から、このことは去年から聞いていて、ずいぶんの入れ込みを感じてはいた。それが、3月11日のインタビュー(読売)の記事を読んで、その入れ込みをあらためて感じ、皆さんにお知らせしたいという気持ちになったという、そのことだ。
 私が持参した記事をみなさんが順に読むと、去年のバレンタインデー前にここ第一仮設を訪れてチョコを配った仲村トオルのことを、それぞれ懐かしく言うのだった。私はこの記事の切り抜きを、この集会所の皆さんに見てもらえれば、と思って持って行ったのだが、会長さんは、懐かしい話の区切りに、
「じゃあ、これは回覧板で回すことにすっぺ」
と、言うのだ。
「みんなあの日を思い出すぞ」
「でもみんな頭の方が頼りねえ。一週間も前に回すと、忘れっかんな」
などといつもの調子で言いながら、サインペンで一筆加えると、さっそく印刷機に向かうのだった。
         

 仲村トオルといえばもうひとつ。「ニイダヤ水産」のたっての願いで、会社のTシャツの背中に、仲村トオルのサインを入れるということが現実のものとなった。シャツの日付の通り、今年になって原型は出来ていた。なんだかんだで、二カ月遅れとなったが「頑張ろう!俺!」の「ニイダヤ水産」ユニフォームと言えるTシャツ完成。その出来ばえに、社長は少し得意気だ。
     

頑張ろう「ニイダヤ水産」! 頑張ろう仮設の皆さん! 頑張ろういわき! 頑張ろう福島!


 ☆☆
それにしても、第一仮設住宅の話はこれだけではありませんでした。この日、会長さんに誘われるまま食事して、そこで聞かされた話をここで報告は出来ませんが、もともと仮設のひとたちは「ここに来る筈ではなかった」ひとたちです。みんな大変な思いをして生きているのだな、と実感した日でもありました。
そして、三つ目の用事ですが、次回に報告します。

 ☆☆
「くさの根」の板さん、辞めました。自分のお店を持つ前に少しお金を貯めるということで、大きい店に決まりました。ニイダヤ社長と門出を祝いました。
以前、ニイダヤ再開のお祝いをした『紫』でやったのですが、奥の座敷では、どこかの会社が退職祝いの会をやってました。
春ですね。

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