千の天使がバスケットボールする

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「インフルエンザ21世紀」瀬名秀明著

2010-04-04 11:36:46 | Book
「ものをこわがらなすぎたり、こわがりすぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい」
   寺田寅彦(随筆「小爆弾二件」より)

本書の第5章は、1935年浅間山が噴火した日に寺田寅彦が沓掛駅で見かけた学生と駅員の会話から感じたエッセイで始まる。昨年の新型インフルエンザ狂想曲に踊った身内の者はあきらかに怖がり過ぎで、その迷惑をおおいに被った私は逆にこわがらなすぎだったということか。どちらも無知で不適切な言動だったと反省して手にとったのが、ぴったり500ページにも及ぶ薬学博士でもある作家・瀬名秀明氏による渾身の一冊である。ウィルスやその変異の解説も含め、ウィルス研究や防疫の最前線で働く研究者だけでなく厚生労働省や情報を発信するマスコミの立場の人々まで含めて、広範囲のその分野の専門家に取材して、ウィルスと関わざるをえない人間社会のあり方やその意識の持ち方までとらえた”渾身”という言葉もふさわしい内容である。

まず興味をかきたてられる抜群にうまいオープニングに、薬学を修めてはいるが瀬名秀明が作家だったということを改めて感じる。私たちは国名も国境も書かれていない自分の地球儀を思い浮かべ、2009年4月24日エジプト・カイロにゆっくり降下していく。作家はささやく。
「想像力と勇気の物語が始まる」
そうだ。本書はインフルエンザをテーマーにしたまぎれもなく想像力と勇気の物語である。

昨年の新型ウィルス騒動はいったいなんだったのか。新聞一面に大きく掲載されたWHO事務局長であるマーガレット・チャン氏の写真とともに不安をかきたてるようなフェーズ引き上げ報道、刻一刻と進捗状況をお世話にも派手に放送してくれるテレビや週刊誌。勿論、インフルエンザ関連の報道の価値と必要はあるのだが、自校の生徒がインフルエンザを発症するや涙ぐんでお詫びをする校長の姿まで要求するようになった日本社会を見て、私はまるで魔女狩りを連想するような違和感を感じた。本書でわかったのは闘っているのがインフルエンザであると情報は決して理論的には進まなかった事実である、政治的判断が優先されるのか、公衆衛生的判断か、医学的なエビエンスなのかで我々は翻弄されることだった。当初の豚インフルエンザという名称も新型インフルエンザにいつのまにか変わり、結局いつもの季節型インフルエンザとさほどかわらずおさまりつつある。

しかし、作家は昨年のインフルエンザ騒動もこんな風にいう。
インフルエンザとは元々星の運行によって人の運命が影響を受けることを示したイタリア語の「インフルエンツァ」が由来である。つまり、インフルエンザとは目に見えない”影響インフルエンス”なのであり、私たちは人間である以上、これらの言説の影響から逃れられない。もしもインフルエンザが流行しても誰もマスク売り場に駆け込まないような理想の社会がうまれたら、そのような社会では村上春樹の「1Q84」の決してヒットしないだろう。だからこそ、私たちは自分と愛する人や世界がつながっている地球儀を勇気をもって想像しなければならないと。

本書はその構成上から、多くの人々のインタビューに答えることなくして成立しえない。瀬名氏によると何人かの方だけは残念ながら都合がつかなかったそうだが、誰もが快く多忙な時間をさいて無償でインタビューに応じてくれたそうだ。これには、監修者として参加されたウィルス感染と糖鎖の研究をされている実父の生化学者である鈴木康夫氏の人徳もあるだろうが、登場される方たちの人間的魅力によるところもあるかと思う。北大の人獣共通感染症リサーチセンター長、喜田宏氏が弟子に伝えた言葉が心に残る。

「ゴールなんて理想でなければならない。自分が本当に完成の域に近づくということは、人のためになることだ。仕事は人がするものだ、必ず論文にはその人の品性が出てくるものだ」

一般のサラリーマン世界では、そうそう出会えそうにもない方たちばかりである。そんな彼ら彼女たちの日本人として誇れる仕事ぶりを知るだけでも、ちょっとお得感がある。実は瀬名秀明氏は、お父様がインフルエンザを研究していることもあり、これまでも何度か出版社からインフルエンザを題材にしたホラー小説の執筆依頼があったが、断り続けたそうだ。そんな本が出版されたら娯楽としてはよいかもしれないが、若年層には誤った観念の恐怖心の種を植え付てしまうのではないだろうか。彼自身もホラー小説であてることよりも本書を執筆したように、印税は取材費を除いてすべてインフルエンザとは直接関係のない慈善事業に寄附されるそうだ。

■瀬名秀明氏のこんなアーカイブも
『デカルトの密室』
『第九の日』