千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「ジャスミン」辻原登著

2006-08-17 23:32:38 | Book
いい長編小説は読み終えるのが惜しい。
物語の最終ページまで残されたのは、あとほんの数葉。いみじくも「ジャスミン」の主人公である脇坂彬彦が、幼い頃中国へ渡った父を捜して会う旅路の最後でつぶやく言葉に、我が身から思わずもれたため息が重なる。清楚でありながらもそこはかとなく色気も漂う馥郁たるジャスミンの香りを胸いっぱいに酔わせながら、中国という大陸と日本の神戸という街を舞台にしたこの美しい物語を閉じることになる。

脇坂彬彦は、外資系の日本特別研究グループのチーフディレクターとしてODAの中国向けのプロジェクトのリサーチに携わってきた。神戸出身で京都の大学院で経済を修め、大学に残ることを奨められながらも経済学に限界を感じ、シンクタンクに就職する。デザイン事務所に勤務する異父妹のみつると、介護つきの施設で暮らす母がいる。最愛の妻を31歳で病気で失って7年経つが、彼はいまも妻を愛している。-ふたりで夢みたこと、楽しかったこと、ふたりがみるはずだった美しいことども、すべて彼女があの世にもっていってしまったという悲しみに閉ざされる時もある。

そんな時、中国大陸に消えた父が生きているという情報が入る。戦後帰国して彬彦をもうけながらも、かの地での戦後処刑されたはずの恋人から呼び寄せられるように再び大陸に渡った父は、二重スパイだったのだ。1987年、黄土高原のどこかにいまだ捕らえられているという父を捜しに、彼は船で上海に渡った。そこで喜劇俳優として映画出演していた父の友人である映画監督、謝寒と出会う。謝寒はかってのプロレタリア革命時、ふたりの少年といってもいい紅衛兵になった息子たちのひとりを内部抗争の果てに殺され、弟の方はリンチによって心を破壊された。
「政治の世界は野蛮な人間が勝つ。蒋介石も毛沢東も野蛮で狂暴で、田舎者だった」と彼は感じている。
彬彦が上海の撮影現場で父の足跡を辿る調査を開始したまさにその時、中国では天安門事件が勃発し、大きく揺れた。政府がやっきになって捜している事件の首謀者である民主活動家のひとり、彼の恋人で謝が撮影中の映画に女優として出演している李杏(リーシン)に彬彦はひとめで惹かれていく。
ジャーナリストとして活躍する友人の「圧政下にある外国で無事に過すには、当地の女と深い関係にならないこと」
そんな忠告が胸によぎるが、彬彦と李杏は事件の緊張の高まるなか、運命に導かれるようにお互いに求め始める。

ひとりで机に向かい手紙を書き綴る彼女に
「ほんとうは何をしていたのですか」と尋ねると、
「恋をしていたの。あなたと」と応える彼女を思わず抱きしめると、李杏の目が彼の近くに滑り寄り、たゆたい、まるで桟橋の小舟のように揺れている。

つかの間のひそやかで濃密な時間も、せまりくる時局の変化にふたりは霧の闇をついて江南のクリークを遡りながら逃亡するが、ついにひきさかれてしまう。早朝、残されたのは、ジャスミンの香りの余韻だけだった。中国政府に逮捕され、彬彦は失意のうちに帰国する。そして、5年の歳月が流れていった。

本書の作家、辻原登を体験してみようと思ったきっかけは、氏の短い書評にふれたことだった。ロシアのノーベル賞作家の小さな恋愛小説の書評の、辻邦夫氏を彷彿させるような深い教養と端整な文章に、この作家の小説を読んでみたいという思わせる魅力を湛えていたからだ。むしょうにモーツァルトのピアノ協奏曲を聴きたくなるように、ただひたすら美しい物語をたどりたい時もある。そんな夜更けに、本書ほど最適な本もなかなかないだろう。しかもただ甘く軽い恋愛小説ではない。作家の中国という大国の歴史観を背景に、政治、国家を大木にすえて瑞々しくはらせた幹を鑑賞するがごとく趣がある。

最後の結末を含めて、彬彦のように戦慄して贅沢なため息をつくのだった。
「文学」が、健在だったことを喜ぶ。


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2 コメント

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時代に引き裂かれた恋 (紹介席)
2006-09-05 22:57:47
舞台設定は無数に考えられます。ハッピーな結婚生活を送っている女性はたぶん読めないでしょう(^.^)b。
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芙蓉鎮 (樹衣子)
2006-09-06 23:13:33
この小説は、宮本輝さんに作風が似ていると感じました。

時代に引き裂かれる恋をテーマにした映画や、小説はたくさんありますね。おっしゃるとおり、舞台設定は無数かもしれません。そのような世界も残酷かも。



   -劉暁慶の独り言
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