千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「猿橋勝子という生き方」米沢富美子著

2009-07-04 19:35:56 | Book
1979年1月31日の参院本会議で、時の総理大臣・大平正芳は、市川房枝女史に問い詰められた。
「総理はお嬢さんに、昔から『おなごは勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい』と言っておられたそうだが、今もそのお考えか。もしそうなら、婦人問題企画推進本部長は落第だと申し上げざるを得ない」
今年の父の日に寄せられた読売新聞、橋本五郎編集長が紹介していたこの挿話に、私は亡き祖母を思い出した。
勉強なんぞ全く無縁だった私が、所謂進学高校に入学して授業についていくのが精一杯だった頃、祖母は心配して田舎に行くたびに「女は器量が大事。勉強はそろそろ(少し)でよい。めがねをかけたおなごはおいねえ」と孫娘を案じていた。大学に進学して身長が160センチをこえると今度は「大女は嫁のもらいてがなくなるから、臼を背負わせようか」と、またまた心配した。いくらなんでも、相撲取りでもあの臼を抱えられないよ、おばあちゃん・・・。祖母は、10代で祖父と結婚して農家の後を継ぎ、百姓仕事のかたわら次々と6人のこどもを産み、私をはじめ多くの孫にも恵まれた。祖母は運もよく、幸福に恵まれた人だったと思うが、遠い時代の田舎に生きたひとりの女性としての祖母の人生を考える時もある。
猿橋勝子さんという地球科学者がいた。1920年生まれで祖母とほぼ同世代。女性に大学の門が閉ざされていた時代に、一旦は就職しながらも学問への夢をあきらめきれず、41年創立されたばかりの帝国女子理学専門学校(現 東邦大学理学部)に、物理学を学ぶために一期生として入学した。本書は、女性が理系の研究職に進むことすら困難な時代に、海水の放射能汚染や炭酸物質の研究で世界的な業績をあげ、後年は女性科学者を励ます「猿橋賞」を創設した猿橋さんの軌跡を、「非結晶物質基礎物性の理論的研究」 で第4回猿橋賞の受賞者であり、女性の物理学者の先駆者でもある米沢富美子さんによる評伝である。

プロローグは怪獣映画でおなじみの『ゴジラ』製作誕生のきっかけになった、日本の遠洋マグロ漁船・第五福竜丸が1954年に太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁における米国の水爆実験の被災を受けた事件である。著者は、物理学者らしく冷静に爆心地から東京と静岡間の距離がありながらも、さまざまな抵抗を受けて減衰しながら8分かけて進んだ音波が「地を揺るがすような轟音」となって第五福竜丸を襲った事実を、「想像の域を超えている」と感想を述べている。船には、白い灰がまるで雪のように降り積もった。後に「死の灰」と呼ばれるようになる放射能で汚染されている粒を分析して、この粉のような白い灰が一瞬にして粉末にまで破壊され富士山の10倍の高さまで巻き上げられて散ったサンゴ礁だということを解明したのが、猿橋勝子だったのだ。やがて、ビキニ水爆で生成された高濃度の放射性物質は、日本近海にまで及ぶようになあるが、米国は断固としてこれを認めない。猿橋は、日本の科学技術の威信をかけ、米国カルフォルニア大学のスクリップス海洋研究所に就き、海水中の放射能物質の分析の精度が、どちらが高いか競うことになった。勝敗は、放射能汚染、ひいては核実験の危険性を問う日米の争いである。ここで証明されたのは、微量分析の技術では、猿橋は世界のトップクラスということだった。

研究者には、独創的な発見をするタイプと、こつこつと地道な実験結果を緻密に積み上げるタイプがいる。猿橋は、後者である。学生の理系離れが心配され、特に日本では理系で活躍する女性研究者はまだまだ少ないが、実はこういった研究職はむしろ女性に向いていると思う。猿橋は、厳しくも研究者として彼女を導いた三宅泰雄という恩師にも恵まれたが、何よりも努力家でありひたむきな人だった。理論的研究をすすめるのは、数学が弱いと感じれば夜間の予備校に通い、化学を勉強し直そうと考えれば洋書を借りて読破する。ここまであの時代に女性が研究者として頑張れた原動力はどこからわいてくるのだろうか。科学への興味と関心、研究へのあくなき探究心、「核兵器がもたらす災害を最も知るのは科学者であり、それを全人類に伝える」ための科学者としての使命と義務感、そして世間の女性への偏見と差別が拍車をかけた面もなきにしもあらずと推測する。猿橋は、男女平等を声高に叫ぶのでなく、たとえ自分への処遇や研究環境が望ましくなくとも、成果を見せることで女性を差別する根拠がないことを相手に気づかせるという哲学をもっていた。そして、もうひとつの哲学は恩師から学んだ「科学者は、同時に哲学者でなければならない」。世界唯一の被爆国の日本人として、科学が諸刃の剣であり、その功と罪を実感していたのだろう。

「女性科学者に明るい未来をの会」を1980年設立。さらに私財1500万円を投じて1990年に「公益信託・女性自然科学者研究基金」で会の財政基盤を安定させた。現在、28名の女性科学者が「猿橋賞」を受賞することによって、人生がかわり研究者として飛躍することができたという。猿橋は、81年にエイボン女性大賞を受賞し、米国で出版された「20世紀・女性科学者たち」の10名に選ばれた。

大平首相は厳しい追及に政治家ではなく、父としてこう答えた。
『女に学問は要らない。早く嫁に行け』という言葉は、ご批判をいただく余地が十分にあると思いますが、早く嫁に行って、全体として女の幸せを追求してもらいたいという父親の気持ちをお汲み取りいただきたい。 婦人は男性より物事に誠実でございます。道義の感覚に鋭敏でございます。とりわけ子供をもうけるなどという手応えのある人生経験は男にはできないことでございます。私は女性を尊敬致しております。」

猿橋勝子は、生涯独身だった。その理由を、著者は同世代の若者がみな戦争にとられてしまったからだと考えている。米沢富美子さんのお母様は、数学が抜群にできその才能をのばすために先生がたから勧められた女子高等師範学校進学の夢も、親戚の長老の「女に学問は不要」というたったひと言で泣く泣くあきらめた。独身で研究に没頭した猿橋と娘に自分の夢を託した母。その背景は、どちらも「女に学問はいらぬ」という日本の古き社会的風潮だ。もしも叶うなら、あの時代に田舎で生まれ土に還った祖母に今会って伝えたい。「女に学問はいらぬ」と言った私への慈しみへの感謝の気持ちと、やっぱり女も学問はあった方が素敵だということを。

■こんなアーカイブも
女性の理系研究者は稀少


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
米沢先生は尊敬しています (みぃちゃん)
2011-12-06 21:57:58
初めてコメントさせてもらいます

米沢先生は,私が最も尊敬する学者の一人でもあります~~~米沢先生のお母さんは,奈良の女子高等師範を勧められたそうですが,その夢が実現しなかったことで,娘さんに夢を託したそうです......(;O;)

もしお母さんの事がなければ,米沢先生は,研究者として歩む事も,訴える事も出来なかったと思います><
米沢富美子さんのこと (樹衣子*店主)
2011-12-07 22:18:17
>みぃちゃんさまへ

ご訪問とコメントをありがとうございます。

米沢さんの「二人で紡いだ物語 」をお読みになっていますか。とても良い本だと思います。

>もしお母さんの事がなければ,米沢先生は,研究者として歩む事

あの時代でしたらそうだったかもしれませんね。けれども、恵まれた頭脳をもちあれほどエネルギッシュな方なのでお母様こととは関わらず、やはり研究者になっていたのではないかとも思いますね。

コメントを投稿