宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

「川下り」による願望実現

2014年05月17日 | 精神世界を語る

雲黒斎ブログで「山登りと川下り」の話を見てきた。この人は、禅僧を思わせるような解脱の教えを、現代の言葉で語っている人で、「悟り」が話の中心になっていた。

でも、この話の提唱者である牧野内大史氏は、主に「引き寄せの法則」をやってた人で、もともと「川下り」というのは、その方面から出てきた話。

つまり、ナポレオン・ヒルの成功哲学、「思考は現実化する」じゃないけど、「イメージの法則を活用して、願望を実現する」というところに、本来の主眼がある。

本人のインタビューから一部をコピペすると(後でリンク貼ります。見つからなくなった・・・)、

>(質問者) 著書「イメージの法則」で1番伝えたかったことは?
  
>「イメージの法則」は、「川下り思考」について伝えたくて書いた1冊です。僕たちは子どもの頃から「がんばって自分を変えることができれば幸せになれる」と教えられてきました。努力は大切です。けれども、「自分を変えなくてはいけない」と思えば思うほど、人は自分を見失っていきます。

>ビジネスでもダイエットでも、山頂という目標があって、そのために必要な情報や地図、綿密な計画などをすべて揃えた上で、今度は「山登り」という自分を変える努力が必要になります。このような「山登り」の心理には、多かれ少なかれ現在の自分への否定があるんです。

>一方、人生はまったく正反対の視点からも見ることができます。それは「川くだり」です。

>僕たちはすでに山頂にいて、その頂上から水源の豊富な川の流れにのって、自然と可能性の広がる海へと出ていく。これが、川がただ流れていくように、自然と人生がうまくいく秘訣です。そのために必要な力は、自分の外側にあるのではなく、すでに自分の内側に備わっています。目標達成に疲れた現代人に最も必要なのは、自分自身とつながるコミュニケーションです。


この牧野内氏という人は、もともと企業向けの心理コンサルタントとして、成功哲学のような話をしてたんだそうな。

仕事はうまく行ってたが、あるときから急におカネがなくなり、ホームレス同然の生活となった。外で夜を過ごしていたら、ホームレスのおじさんが、「にいちゃん、これ使いな」と段ボールを貸してくれた。それをフトン代わりにして寝ていたら、なんともいえない、深い心の安らぎを感じた。それが、「川下り」の原点だという。

まあ、「ホームレス同然の生活になりました」というのと、本当に「ホームレスになりました」というのは、似て非なる問題ではある。筆者の受けた印象では、おそらく、この人は「ホームレス経験をした」というわけではなく、「ホームレスの人たちと一緒に、段ボールをフトン代わりにして寝てみたことがある」という程度なんじゃなかろうか。まあ、それはそれで構わないんだが・・・。

筆者も、フリーターになったり、失業給付で生活したことはあるけど、ホームレスになったことはない。現代の日本では、よほどのことがない限り、最低限の住む場所くらいは、たいてい確保できるようになっている。公園で段ボールを敷いて寝るのは、確かに気持ちいい。でも、問題は冬の寒さや、雨の季節だろう。取り締まりも厳しい。一年を通してホームレス生活をするのは、大変なことだ。

ホームレスには、いろんな人がいる。英字新聞を拾って読んでいるインテリもいる。大学生のとき、新宿でホームレスの爺さんが、どこで手に入れたのか、日本酒の一升ビンを持っていたことがあった。「坊やも飲むか?」と言われたので、分けてもらったところ、おいしいお酒だった。そこには確かに、分け合い、助け合いの精神が、ごく自然に生きていた・・・。

またまた話が脱線してきたけど、この牧野内氏という人は、願望実現するイメージ法を教える人。愛読者と思われる人のブログを引用すると、

>マッキーこと牧野内さんの本のユニークな点は、
願望達成を『川下り』に例えたことだと思います。

>川下りといえば、流れにのるだけで、
目的地につくイメージですよね。

>普通の願望達成の方法は、まず叶えたい夢や願望があって(目的地)、
それに向かって、一歩一歩努力し、近づいていくイメージでしょうか。

>牧野内さんは、それを『山登り』に例えていますが
願望達成の方法論としては、(マッキーさんのものとは)明らかに真逆です。

>『川下り』というのは、何をするのかというと
イメージを探求することなんです。

>本にも書かれてありますが、イメージを使うというと
「自分の引き寄せたい現実を強くイメージする」こと(「引き寄せの法則」で有名ですよね)を、思い浮かべるのですが、

>マッキーさんのイメージの探求は、特定の目標や願望を願うのではなく、イメージを(ただ)拡げていく方法なんです。 (中略)

>顕在意識、潜在意識という言葉は
聞かれたことがありますよね。

>じつはその奥に、「純粋意識」という意識のもっとも深い部分が、あるそうです。

>イメージを探求するのは、この「純粋意識」とつながるため…

>ユングは、この意識層を「集合的意識」と呼んでいました。

>この意識まで、下りていくことが出来たら、
願い事は、まるで宇宙がサポートしてくれているように、簡単に叶うのだそうです。

>最初に、願い事ありきでイメージングをするのではないのですね。


率直に言って、これは筆者の苦手な分野だ。

苦手な理由は、いくつかある。ひとつには、筆者は、地球の物質環境や、そこでの人生を基本的に嫌っており、「人生は苦しい。地球人類はダメだ。地球はもう嫌だ」とよく言うので、このような思考実現・願望達成の教えの信奉者たちからは、「ネガティブだ」と言って非難されることが多いからだ。

もう一つの理由は、もっと単純で、かつてモーレツな営業会社で営業マンをやっていた頃に、「願望達成のイメージ・トレーニング」とやらを散々やらされたおかげで、それがトラウマになっているからだ(笑)。

「思考は現実化する」という教えは、もちろん正しい。それ自体は、否定できるものではない。

でも、やっぱり、なんか違うと思うんだな。自分や他人の人生、そして何よりも、地球人類の過去の歴史を観察してきた結果、単純な願望実現論は、地球の現実とは大きくズレているように思われる。それにしては、あまりにも地球の現実は過酷であり、人類の大半は悲惨なのだ。

ただし、だからと言って、「思考は現実化する」というのが、間違っているとは思わない。それどころか、それは、まさしく正しい。

それはつまり、程度の問題だということ。地球の物質世界は、思考や願望を反映して、現実化するように出来ている。でも、それはストレートに実現するものではなく、非常に現実化しにくいように出来ている。だが、長期的には、いずれ実現するように出来ている。

でもって、過去の地球に比べて、現在の地球は、だんだん、思ったことが現実化しやすい世界になってきている。というより、思考が現実化するのに、かつては、あまりに長い時間がかかったが、現在では、そのスピードが大幅に加速している。

・・・というのが、筆者の主観。

ますます脱線してきた。話を戻すと、要するに、この「川下りのイメージング法」には、大いに魅力があると言いたい(笑)。

というのも、従来の思考実現・願望達成の教えは、たいていの場合、「もっと強い願望を持て」と教える。

「金持ちになりたい。金持ちになりたい。なりたい。なりたい。なりたいなりたいなりたいなりたなりたなりたなりなりなりななななな・・・・・(以下略)」と、心の中で強く強く、願う。その、強烈に増幅された意識のパワーによって、意志薄弱な世間の一般人が実現できないことを、強引に引き寄せて現実にするのだ。

そういうのが、典型的な「山登り」の生き方だろう。でも、この「川下り」は、そうではない。それはむしろ逆に、もっと自然体になることから始まる。


(続く)

「山登り」と「川下り」 ・・・ その4

2014年05月17日 | 精神世界を語る

第二段階へと向かう「山登り」のベクトル(上向きの矢印)と、第三段階へと向かう「川下り」のベクトル(下向きの矢印)は、逆方向に向かっている。これを見る限りでは、山登りの道をどんなに進んでも、第三段階へは、たどりつけそうにない。

でも、山には、頂上ってものがある。

頂上を通りすぎたら、そこからは下り坂。あとは、降りていくだけ・・・という地点があるはずだ。それと同じように、雲黒斎氏によれば、第二段階へと向かって進む人には、いつか方向が逆転するときが来るという。

ただし、それは、「山登りの頂点を極めたら、その先に見えてくる」というようなものではない。

ベクトルの向きの逆転は、「自我の崩壊」がキッカケになって起きるという。「絶望」、「降参」とも言われる。「降参のススメ」だ。

「一生懸命に山登りしてきたけど、残念ながら、力が尽きた。これ以上は、登れない。もうダメだ~」という感じ。「諦めるとは、明らめるということなのです」といったところか。

>しかしながら、このピンクのベクトルの果てに、第三段階へ向かう道があったりします。

>「自我の肥大化の果て」といってもいいかも知れません。

>以前お話したとおり、「ロープ登り」は錯覚で、実は「水槽潜り」だったりするわけで、このベクトルが進めば進むほど、水槽内の「水圧」は高まっていきます。

>人は、その水圧を様々な苦しみとして経験するわけですが、その苦しみを乗り越え、さらにさらに頑張っていきますと、その苦しみはあるとき一気に逆転してしまうことがあります。

>苦しみの極限を超えて「陰極まって陽になる」という状態。

>そのとき何が起こるかと言いますと、肥大化した自我(潜りすぎたピンポン球)が、その水圧に耐えられず(もしくは思いがけない衝撃によって)、水中で破裂してしまうんです。


つまり、「もっと上の自分になろう」と思って、がんばってきた人は、だんだん自我が肥大してきている。ふくらみきった風船が、いつかは「パン!」と割れるのと同じで、そんな肥大した自我も、いつかは崩壊するときが来る。

それには、キッカケが必要だ。そのために必要なものは、「絶望」だという。絶望は、しようと思ってするものではない。人生が、ときにもたらす苦い果実だ。ただし、見る角度によっては、それは、なんとも有難いものなのだ。なんたって、「大悟」のキッカケになるんだから。

雲黒斎流に言えば、それは「ヒャッホー」(小悟)を超える、「ヒャッハー」(大悟)をもたらす。

>沢山苦しんで、必死で頑張って、やるだけやったにも関わらず、どうにも出口を失った、最終最後の「絶望」を知った者に訪れる究極のギフトです。

>でもやっぱり、人はそうそう絶望なんてできないんですよね。

>もちろん「絶望的」な人がいっぱいいることは知っています。でも、残念ながら「的」なんですよね。

>まだ、なにか救いの道があるような気がする。

>まだまだ努力できそうな気がする。

>困難だからこそ、誰かに頼らず自分で何とかしなきゃって思う。

>私がだめでも、誰かがなんとかしてくれる。

>ミラクルが起きるかも。

>どこかに、そういう未来があるような気がしているうちは、「絶望」ではありません。


・・・当たり前だけど、まだ希望が残っているうちは、「絶望」ではない。自殺者といえども、「死ねば、なんとかなる」と思ってるうちは、完全な絶望ではない。

もはや、あらゆる希望がなくなり、どうにもならなくなったときには、白旗をあげることができる。

見る角度を変えれば、これを目的にして生きている人だって、結構いるだろう。もちろん、表面意識ではなく、潜在意識が望んでいる、隠れた目的なのだが。

ひょっとすると、「よし、ボクはここで、ウツ病で自殺寸前の人になって、自我を崩壊させることにしよう」というような、一種の「人生計画」を組んで、この世に生まれてきたのかもしれない・・・。

>そうやって、「陰」が極まったとき、自我は崩壊して「陽」に転じます。

>とても変に聞こえるかもしれませんが、実は「絶望」は、みんなが腹の底で望んでいる状態なんです。

>だって、「一切の望みがない」んですから。

>・・・でもまぁ、僕たちはわざわざ好き好んで絶望したいわけじゃないし、かつてのお釈迦様みたいに、思いつく限りの努力を徹底的にやり尽くすなんてこともなかなかできないわけで。

>やっぱりどこかの段階で、ブルーのベクトルを知るに至ることがほとんどなんだと思います。

>「絶望(降参)」に一番近い意識変容の入り口が、「力尽きる」という状態です。

>「絶望」との大きな違いは、「個」の意識(自我)がまだあり、未来に対する期待も存続していること。

>具体的な例を一つあげるなら、大きな失態や損失を通して、それまで築いてきた人生が一気に崩れ、地位や肩書きなど、長らく自分のアイデンティティとして大きな役割をになっていた要素が自分から剥がれ落ちるような出来事。

>それを通して、どっぷり自己同一化していた「夢(自分像)」から覚めるような感じです。

>社会的地位を失うことで、役割や肩書きに付随していた利益(プラス要素)を喪失するとともに、重圧や責任などといったストレス元(マイナス要素)もそぎ落とされます。

>この失態や損失といった出来事が、「苦悩の原因」となるか、「変容(ヒャッハー!)のきっかけ」となるかは、事後の「プライド」の有無にかかってきます。

>プライドは、言ってみればロープにしがみつこうとする力ですから、一度ロープから手を放しても、水面に行き着く前に、再度「水槽(社会システム)」の中に留まってしまうんです。

>なので、変な話ですが、プライドもろとも崩れ去ってしまったほうが、苦悩から解放される道につながったりします。

>「個」を失うことなく、ロープから半強制的に切り離されるのですから、第三意識段階に対する事前知識がない場合、その変容の最中に、ある種の恐怖や痛み、悔しさなどを多く感じながらの「ヒャッハー!」を迎えることになります。

>スピリチュアリティに関心の無かった人に訪れる変容としては、このカタチがもっとも多いのではないかと、僕は思っています。