宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

エゴの解体に向かう人類 ~ エックハルト・トール

2009年08月23日 | エックハルト・トール
 
エゴのアイデンティティにも、いろいろある。最も分かりやすいのは、自分の身体という「形」だろう。でも、エックハルト・トールによれば、最も重要なエゴの構成要素は、「思考や感情のパターン」だという。

いわく、「すべての心の活動の核心は、繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンでできていて、人はそこにもっとも強く自分を同一化している。それがエゴそのものである」。
  
「繰り返ししつこく反復される思考と感情のパターン」は、しばしば、「頭の中の声」となって表れる。人によっては、驚くほど長い期間にわたって延々と頭の中で垂れ流されている、「古いレコード」の声だ。

かつて、エックハルト・トールも、頭の中の声が鳴り続けていた。しまいには、口に出してブツブツ言うようになった。トイレの鏡の前で、隣の人が奇人変人を見る目で自分を見ていたため、ようやくそれに気づいたという。
 
「頭の中の声」の代表的なものは、現状に対する不平不満だろう。口には出さないまでも、心の中で愚痴っぽくなっているのだ。これは、誰にでもあるだろう。よほど満ち足りた人生を送っていれば、違うかもしれないが・・・。
 
心を静めるためには、現在の状況をあるがままに受け入れる必要がある。とはいっても、それは心的な抵抗を伴う。世の中、「気の持ちようでなんとかなる」というような問題ばかりではない。逆に、「なんとかならないか」と思うような問題が多い。受け入れがたい状況を、あえて受け入れる。それは、口で言うほど簡単なことではない。

多くの場合、「気づき」が絶望的な状況でもたらされてきたのは、そのためだ。エックハルト・トール自身がそうだった。「もうダメだ。何もかも終わった・・・」という、救いようのない絶望感。それまでは現在の状況を受け入れることに抵抗していたエゴが、そこで初めて、観念して屈服する。それは、まさに無条件降伏。

今までは、エゴを解体するために、このようなプロセスが必要とされてきた。「艱難辛苦、汝を玉にす」という、中国の格言を思い出す・・・。かつては、確かにそれが必要だった。でも、エックハルト・トールによれば、今は「気づき」を得るために、必ずしもそこまでの絶望や苦悩が必要とされてはいない。  
 
いわく、「しかし、いま地球では、かつてなかったほど大きな意識の流れが生じているので、もう激しい苦しみを通過しなくてもペインボディから自分を引き離すことができるようになった」。

つまり、いまは地球人類の意識が、急速に「気づき」とエゴの解体に向かっている。この流れに乗りさえすれば、わざわざ大変な目にあうまでもなく、「いまに在る」という目覚めへとスムーズに移行できるという。
 
この世界という幻想の中で、目覚めること。それが、われわれの今の目的。われわれが夢の中で目覚めたら、エゴが創りだした地球上のドラマは終焉し、もっと穏やかな、すばらしい夢が立ち現れる。それこそが、新しい地(ニューアース)なのだ・・・。
 

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「ほんとうの自分」とは何か ~ エックハルト・トール

2009年08月23日 | エックハルト・トール
 
エックハルト・トールの本には、「エゴの自分」と並んで、その奥にある「ほんとうの自分」というのが、よく出てくる。

でも、「ほんとうの自分」とは、いったい何なのか。実のところ、それを語るのは難しい。
  
エゴは、見せかけのアイデンティティを維持しようとしている。所有するモノ、自分の身体、さらには思考や感情・・・。社会的な立場や評価、所属する集団、家族や親戚なども、これに加わってくる。
 
「自分とは、○○なのである」、「自分とは、△△なのである」、「自分とは、××なのである」・・・というような思い込みがなければ、エゴという幻想は維持できない。エゴのアイデンティティは、そういう数々の定義づけから成り立っている。
  
これに対して、「ほんとうの自分」は、定義するのが難しい。というより、それは、すべての定義を取り除いたところにある。
 
モノや身体は、自分ではない。思考は、自分ではない。感情は、自分ではない・・・。こうした、「自分とは何か」という無意識の定義づけをひとつずつ取り除いていく中から、「ほんとうの自分」が浮かび上がってくる。
 
エックハルト・トールいわく、「自分が何者でないかを見きわめる中から、おのずと自分は何者かという現実が立ち現れる」。
 
このため、古代インドの昔から、「ほんとうの自分」は、いつも「○○は、自分ではない」、「△△は、自分ではない」、「××は、自分ではない」・・・といった、否定形で語られてきた。

「エゴ」を釈尊流に言えば、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)。五蘊とは、色・受・想・行・識。ざっくりと言えば、色は物質的な身体、他の4つはいろいろな精神のはたらきを意味する。これらは、人間を構成する5つの要素。いつも壊れては再生している。人間は、これらの要素の寄せ集めで出来ている。

これらを、「色(身体)は自分ではない」、「受(感受作用)は自分ではない」、「識(認識作用)は自分ではない」・・・と、ひとつひとつ否定していく。残るものは何もなく、カラッポ。
 
われわれが「自分」だと思い込んでいるもの。実は、それは自分ではなかった。これこそ、釈尊が繰り返し説いていた、「非我」。
 
エゴのアイデンティティを、ひとつひとつ取り除いていったら、後に残るものは何もない。このとき、エゴは消滅する。それが、ほんとうの自分。「ほんとうの自分」とは、「エゴの消滅」そのものだった・・・。
  
 
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