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宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

「いま、ここ」に生きるヴィパッサナー瞑想

2013年03月01日 | ヴィパッサナー瞑想
           
最近、久々にエックハルト・トールの“New Earth”に目を通した。かつて、一世を風靡した(・・・というより、精神世界を探求する上では、常に最大のテーマなのかもしれないが)、「ビー・ヒア・ナウ」(いま、ここ)の教え。この21世紀初頭の世界で、それを説いたエックハルト・トールの著書は驚異的なベストセラーになり、「現代のスピリチュアル・リーダー」と呼ばれるに至っている。もちろん、日本にも大きな影響をおよぼした。

それにしても、「いま、ここ」に生きるとは、どういうことなのか。
 
たとえば、いま取り組んでいる仕事に向かって、雑念を捨てて一心不乱に取り組む。必死で勉強したり、スポーツする。
 
マジメな努力家ほど、「いま取り組んでいる目前のテーマに集中して、がんばること」という風に解釈しやすいけど、そういうことではない。この場合、何かに取り組んで、がんばる必要は特にない。もちろん、がんばってもいいんだけど、その必要はない。そもそも、何かに取り組んでいる必要もない。というより、どちらかと言えば、何もしない方が良いくらいだ。

ヴィパッサナー瞑想の場合、「いま、ここ」に生きる上で取り組むべきテーマはたくさんあって、どれをやったらいいのか迷う。でも、「いろいろある中で、これが一番」とされているものは、古来からハッキリしている。なんといっても、それは、「息をすること」。
 
息を吸ったり、吐いたりすると、お腹が膨らんだり、引っ込んだりする(・・・まあ、なかには引っ込まないお腹の人もいるだろうけど)。ヴィパッサナー瞑想では、そのお腹の動きに意識を集中する。

さらに良いのは、息が出たり入ったりするときの「鼻に意識を集中すること」とされている。単に、空気が出たり入ったりしているだけ。まったく、意味がない。そこが良いのである。一切、何も考える必要がないからだ。

「これは、いわゆる呼吸法ではない」というのが、流派はさまざまに異なれど、ヴィパッサナー瞑想の指導者が一様に強調することのひとつだ。特別なやり方で、呼吸の行をやるわけではない。「いつもよりは、ゆっくりと呼吸するように心がける」という程度。ここでは、雑念を排除して観察力を強化するための、素材として「呼吸」が使われているだけ。
 
「いま、ここ」に生きるということが、どういうことなのか分からなくて迷ったら、ヴィパッサナー瞑想をするのが一番だろう。古代インドでお釈迦さまが世に広めた、この瞑想法を実践すれば、「いま、ここ」が単なるスローガンではなく、現実そのものとなる。それがどういうことを意味しているのかを、考える必要もなくなる。

スマナサーラ長老の言葉によると、

>皆様おはようございます、これからVipassana冥想にいたします。

>インドの古い迷信によりますと、午前中というのは、大変幸福な時期なのです、午後よりも…。
朝3時4時から昼までということで。

>まあその迷信にのって(笑)、 午前中一所懸命冥想してみましょう。昨晩はじめて指導受けた方々も、今日は歯を喰いしばって説明した通り頑張ってみて下さい。修行のポイントとして言いたいのは、一旦修行はじめたら「では終了しましょう」と私が言うまで、徹底的に実況中継に徹してください。

>一本の鉄の棒のようにキチンとやってみてください。どんな思考も考え方も入らないようにと厳密に自分の心を守ってみてください。家のことやら、仕事のこと、自分のことやら、過去、現在、未来、将来、まあ宇宙のこと等、そういう思考等は本当に「汚物だ」と思って下さい。


未来のことや、宇宙のことも、考えてはいけないらしい。そういう思考も「汚物だ」というから、コンサル星人としては困ったものだ。まあ、仕方ないか・・・。

スマナサーラ長老が勧めるのは、「実況中継」。「歩くこと」・「立つこと」・「座ること」という、ヴィパッサナー瞑想の3大基本動作をやりながら、結構な長時間にわたって、ひたすら実況中継する。

日本テーラワーダ仏教協会のサイトによると、

>「坐ります」「しゃがみます」「手を動かします」などと動作を実況中継しながら、楽な形で座ります。足を組む場合は「足を組みます」と足を組み、「背筋を伸ばします」と、実況中継しながら背中をまっすぐにします。「目を閉じます」と目を閉じます。三回くらい「吸います、吐きます」と実況しながら深呼吸します。

>次に「待ちます」と、自分の中に生じてくるものを待ちます。

>それから、「膨らみ」「縮み」「痛み」「しびれ」など、気になるからだの感覚を、実況し続けます。

>「雑念」「妄想」「眠気」「苛立ち」などの心の感覚も、実況します。どれかひとつのことに集中する必要はありません。ありのままの状態を実況中継します。


ひとつひとつは簡単だけど、ずっと続けるのは大変。ときとして、雑念が入ったり、妄想が浮かんでくるのは仕方がない。そうしたら、「雑念」と実況中継する。

マジメな人ほど、「せっかく瞑想に取り組んでいるのに、なんで、こんなに集中できないのか」と自分自身にイラ立ったりするけど、そんな必要は特にない。そんな雑念や妄想も含めて、淡々と、ひたすらに実況中継する。

「雑念や妄想を実況中継する」といっても、詳しくやるわけではない。ひとこと、「妄想が浮かびました」だけで済ませる。
 
「たった今、コンサル星人の脳内に、巨大なUFOが出現しました。巨大UFOが、まばゆい光線を点滅させながら、広場の上空をゆっくりと飛んでいます。おおっと、いま、UFOが着陸して、中から宇宙人が出てまいりました。クモのように手足が長い、長身の宇宙人。どうやら、こちらに向かって、右手を上げて挨拶しているようです。何かしゃべりたがっているようですが、内容は聞き取れません・・・」というようなのは、やりすぎだ。それだと、ヴィパッサナー瞑想の「実況中継」ではなく、別のジャンルになってしまう。ここは、シンプルに行くべき場面だろう。

驚くほどシンプルなのが、ヴィパッサナー瞑想の特徴。

「坐ります」、「しゃがみます」、「手を動かします」・・・。

こんなに簡単な「実況中継」を続けるだけで、みるみるうちに、集中力と観察力が強化されてくる。
 
集中力と観察力が強化されることによって、まどろんでいた意識が、急速に活性化してくる。いつもと同じ風景や音声が、みるみる鮮明になり、まるで別の世界。「意識の覚醒」もその延長線上にあるということが、実感として分かってくる。これでこそ、瞑想だ・・・。

(つづく)
 

釈迦の教えは「観察」だった

2013年02月16日 | ヴィパッサナー瞑想
 
ヴィパッサナー瞑想は、「観察」の瞑想。お釈迦様の教えは、これを抜きにして語れない。日本でも、認知度が上昇している。筆者も、もともと数年前に本ブログのコメント欄で知ったのが最初だけど、それ以来すっかりハマっている。

そんなにハマっているのに、なぜブログでこの話をあまりしないのかと言えば、それは「書くのが難しくて大変なテーマだから」の一言に尽きる(笑)。

それはさておき、「お釈迦様の教え」と聞いて、宗教好きな人が真っ先に思い浮かべることのひとつに、「八正道」(はっしょうどう)がある。

その有名な「八正道」にしても、最後の2つは「正念」(しょうねん)と「正定」(しょうじょう)。2つとも、要するに「ヴィパッサナー瞑想すること」と言っていい。

ある新興宗教の教祖は、「正念」を「正しく念力をかけること」と説明していた。これではまるで、ユリゲラーのスプーン曲げか、サイババの物質化現象。でも、そういう意味じゃありません。

ここでいう「念」というのは、「念力」の念ではない。どちらかと言えば、「念のため、確認させていただきます」というときの「念」に近い。

つまり、ここでは、「念入りに観察しましょう」というような意味ですので、くれぐれも誤解なきよう、念のため。

こんなことを書いてると、またしても、一部の新興宗教の信者諸氏を敵に回すことになるかもしれないのだが、それはそれで仕方がない。

信者というより、むしろ脱会した元信者や、隠れシンパの方がうるさくて厄介だったりするのが、このジャンルに特有の難しさだろう。そういう人たちが、「そんなハズはない。私が長らく愛読している○○先生の著書によれば、古代インドで釈迦はこのように教えていたのだ」というような文句を言ってくることがよくある。「自分は脱会したくせに、なんで?」と言ってみても始まらない。こればっかりは、世間の一般人が知る由もない、屈折した領域なのである(笑)。そんな彼らも、話をしているうちに、だんだん「どうやら、本物の釈迦の教えは、○○先生の著書に書いてあることとは、ずいぶん違っていたみたいだな」ということが分かってくる。「やっと分かってくれたか」とホッとしていたら、しまいには「○○先生の仏教が正しくて、釈迦がまちがっているのだ」と言い出した・・・。

またまた、話が脱線した。そんなことより、重要なのは、「観察」するということ。

というのも、「反省せよというのが、お釈迦様の教えです」とか、「感謝せよというのが、お釈迦様の教えです」・・・というような話が、なんといっても日本人にはウケがいい。

もちろん、「反省」や「感謝」は、日本が誇る古き良き美徳であり、大いに推奨されるべきものには違いない。でも、お釈迦様の教えを理解する上では、そういう日本人ならではの先入観がジャマになることもあるから要注意。

現代でも、インド人は「世界一、自己主張が激しい国民」という定評がある。日本人から見れば、欧米人も十分に自己主張が強い。「欧米に行ったら、日本的な謙譲の美徳は通用しません。積極的に自己主張しないと、ついていけませんよ」とよく言われる。でも、そんな欧米人でさえも、インドに進出すると、インド人の自己主張の強さに辟易する。「インド人が3人いれば、たちまち論争が始まって仕事がストップする」と、アメリカ人が呆れて書いていた。

基本的に、インド人は、「私が悪うございました~」という人たちではない。仏教は、そのインドに生まれて、アジア諸国に広がった。それだけに、どこもかしこもインド的な発想に満ちている。このため、ここは十分に頭を切り替えてかかる必要がある。

一番いいのは、やっぱり、クリシュナムルティやシャンカラ、古代ウパニシャッド哲学など、インドが生んできた聖賢たちの思想に接して、特有の考え方に慣れ親しむことだろう。そうすれば、基本的な理解に軸ができて、ブレないようになる。

それはともかく、釈迦を始めとするインドの思想で大事なのは、なんといっても「観察」の瞑想。

それでは、いったい、何を「観察」するのか。

ここでの最大の観察対象は、なんといっても、「自分自身」ということになる。

というのも、人間を研究する上で、自分自身こそが最も身近で研究しがいのある材料だからだ。

たとえば、他人が釘を踏んで「イテ~!」と叫んでいても、その痛さは本人にしか分からない。ケガをしていれば、まだ見た目で分からないこともないけど、見えないものは、もっと分からない。

ましてや、それよりもずっと細かい、微細な感覚のことは、さらに分からない。

人間は、感覚とか、感情とか、思考とか・・・そういったもので出来ている。でも、他人の感覚とか、感情とか、思考とか・・・を知ろうとしても、限界がある。

分かるのは、なんといっても、自分自身の感覚・感情・思考・・・その他。だから、それを観察することが、最も効果的な人間研究につながるのである。

以前、インド人の導師の講話を聞いた、ある新興宗教の元信者(・・・というより、『元幹部』と言わなきゃ本人に失礼かも)が、深く感動していた。「インド人の先生から、自分自身をよく観察しなさいと言われました」というのだ。

この人も「観察の瞑想」に目覚めたのかと思ったら、そういうわけじゃなかった。いわく、「今までの私は、教祖とかチャネラーとか、他人の言葉ばかり学んできました。これからは、自分自身の潜在意識から、内在する叡智を学んでいきます」という。

それ自体は結構なことだけど、ここでは、微妙にズレた理解になっている。というより、ちょっと先走りすぎな話になっている。

「自分自身を師とする」というようなのは、まだ先の話。まずは、「自分自身を観察対象とする」ということからスタートだ。

自意識過剰というわけではない。むしろ逆に、自分を「典型的な人間の1つのサンプル」というくらいに考えて、客観的に観察する。

もちろん、人にはそれぞれ個性があり、中には奇人変人もいれば宇宙人もいるとはいうものの(笑)、同じ人間である以上、基本的な感覚機能は共通している。「人間というのは、こういう感覚を受けて、このように反応するものなんだな」というのは、自分自身の感覚を冷静かつ客観的にチェックすることによってのみ、初めて見えてくるものがある。

「人間とは何か」という深い理解に到達するためには、それが一番の早道となる。他人のことは、しょせん分かる範囲に限界がある。まずは、自分自身を観察することだ・・・。

(続く)

改めて、ヴィパッサナー瞑想

2013年02月15日 | ヴィパッサナー瞑想

本ブログでは「ヴィパッサナー瞑想」の話をしなくなって久しいけど、忘れたわけではない。相変わらず、これに一番ハマっている。数ある精神世界談義の中でも、これは最高峰のテーマのひとつだろう。

相変わらず瞑想指導DVDが師匠だけど、最近、ウィリアム・ハート氏の著書『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門-豊かな人生の技法』を読んだ。「日本におけるヴィパッサナー瞑想の伝道者」とも言われるスマナサーラ長老の本も何冊か読んだ。

これらを見るにつけ思うのは、やはり、この分野も流派による違いが結構、大きいということ。当たり前と言えば当たり前か。予想通り、と言うべきか・・・。

筆者にとっては、それこそ「ヴィパッサナー瞑想とはこういうものだ」と思える代表的な技法の「ラベリング」を、ゴエンカ派はやらない。一方、スマナサーラ派は、ラベリングを通り越して、「実況中継」をするという。

(これらの内容については、過去ログもしくは今後のブログ記事をご参照・・・)。

ゴエンカ派は流儀に厳しいらしく、「ヴィパッサナー瞑想をやりたいのなら、必ず10日間のコースを修了すること。決して、自己流で試みてはならない」と、何度もクドイほど書いてある。筆者もやってみたいけど、10日間はチト長い。そのうち行けるかもしれないが、当分ムリっぽい。

そういうゴエンカ氏自身はインド生まれで、ミャンマー人の師匠から瞑想を習ったらしい。もともとインドで釈迦が始めた瞑想法だけど、本国のインドでは仏教とともに廃れ、東南アジアに伝わって現代まで残った。そして今、里帰りする形でインドにも伝えられている。

ちょうど、中国に生まれた囲碁が、日本で幕府の保護を受け「お城碁」として発展し、また中国に逆伝来したのに似ている。

そのとき、敬虔なヒンドゥー教徒の家庭に育ったゴエンカ氏は、「無神論の宗教である、仏教の瞑想法を学んで良いのだろうか」と悩んだという。

このエピソードを見ると、仏教、つまり、お釈迦様の教えが、今のインドの主流であるヒンドゥー教徒からは、「無神論」と位置づけられ、嫌われているのがよく分かる。

しかも、仏教は、神々に対して無関心なだけではない。インド人が何より好きな「輪廻転生」に対しても、冷淡なコメントが多くて、興味関心がいまひとつ。それは、インドで仏教が衰退した最大の理由として、しばしば挙げられている。

そんな仏教の無神論っぽさに抵抗を感じつつも、ゴエンカ氏はヴィパッサナー瞑想に魅了されていった。

ヴィパッサナー瞑想は、古代インドで釈迦が創始したとされている。大昔のことだけに、これを最初に考えた人が釈迦だったかどうかは誰にも分からないけど、少なくとも、釈迦が弟子たちに指導していた瞑想の中心がこれだったのは間違いない。

上にも書いたように、インドの民衆には仏教の人気が下火になったため、主に東南アジア人によって現代まで伝えられてきた。それが、いまやインドにも里帰りして、再び普及しつつある。

とは言っても、日本や中国に、それが伝わっていないわけではない。天台宗で言う「止観」、それから禅宗を見て、スマナサーラ長老が「日本には、意外と本来の形での仏教が残っている」と評したらしい。確かに、その通りと思う。日本の禅僧にも、釈迦に由来する思想は脈々と受け継がれている。

筆者は、このヴィパッサナー瞑想にすぐ飛びつき、夢中になった。

それは、長いこと慣れ親しんできた釈迦やクリシュナムルティたちの教えに、ドンピシャリと当てはまる内容だったからというのは勿論だけど、それだけではない。

実のところ、筆者の目には、これが「注意欠陥・多動性障害」(ADHD)の理想的な治療法と映ったのである。

(続く)

無我の実感

2011年10月30日 | ヴィパッサナー瞑想
 
仏教的なモノの見方を身につける(正見)・・・と言っても、それになじめない人は、もちろんいる。

秋月龍ミン師がどこかで書いていたのだが、あるとき、山田無文老師が、仏教的な「無我」の教えを説いていた。アナタがたが霊魂だと思い込んでいるものは、実は霊魂などではない。錯覚の産物なのだ。我はない。ただ、全体あるのみ・・・という、無我の教え。仏教の根本教義だ。現代のスピリチュリズム風に言うならば、「究極のワンネス思想」ということになるだろう。
 
これを聞いた無学で素朴なお婆さんが、「人は死んだら、何も残らないんでしょうか。生まれ変わって、もう一度、人生を送ることはないんでしょうか」と老師に質問した。老師は、「生まれ変わることはない」と即座に断言した。仏教的には、まったく正しい回答だ。だが、それを聞いたお婆さんは、実に寂しそうな様子をしていたという。それを見た老師は、「もっとも、自分のために生まれ変わることはないのだが、世の人々を救うために、この世に再び生まれてくることはあり得る」と付け加えた。それを聞いて、お婆さんはやっと安心したという。

これについては、古代インドのお釈迦さまの説法も、実はそうだった。釈尊は、2通りの教えを相手に合わせて使い分けていたのだ。これを「対機説法」という。

つまり、本気で「意識の覚醒=解脱」を目指している、プロの求道者に対しては、「悟った人は、どこにも再生しない」という教えを説く。
 
でも、各地の村や町を巡回して、在家の素朴なお爺さん・お婆さんたちに教えを説くときは、そういう話をしなかった。その代わりに、「善いことをした人は、善いところに生まれ変わります。悪いことをした人は、悪いところに生まれ変わります」というような教えを説いていた。

これらは、初期仏典を見れば随所に出てくるので、仏典愛読者には毎度オナジミのエピソードだ。  
 
要するに、天国や地獄に生まれ変わったり、この世にまた生まれ変わったりする・・・というのは、アマチュア向けの親しみやすい教え。プロやマニアに対しては、「どこにも生まれ変わらない」という教えを説く。これが、釈尊の対機説法。
 
無我の教えを聞いて、「暗い」とか「寂しい」と思うような人には、この教えは向いていない。本人のためにならないから、別の話をすべきなのである。もっと、彼らにとってナジミやすい話をしてあげたほうが良い。「方便」というのは、そういうものだ。
 
でも、無我の思想は、本当にそんなに暗くて寂しいのだろうか。もちろん、別にそんなことはないのである。
 
むしろ、本物の求道者にとっては、すがすがしくて気分爽快になる教えと言ってよい(笑)。これを体得すれば、この世にいても悩みがなくなる。人間にとって、最終的な、究極のプレッシャーからも解放されるからだ。
 
無我は、理屈ではない。体感するものだ。

無我を実感するには、やっぱり、ヴィパッサナー瞑想。これによって、思考の停止と、気づきの増大を実感する。

これによって、心の平静が得られるばかりでなく、意識が途方もなく鋭敏になるという一挙両得だ。
 
これこそが、お釈迦さまによって示された、覚醒への道。ありがたや。合掌・・・。
 

八正道

2011年10月27日 | ヴィパッサナー瞑想
 
ヴィパッサナー瞑想においては、まず思考を停止することが第一条件となる。頭の中の思考や、心の中の反応を止めれば、何もない空っぽな意識状態を実現することができる。
 
ここで、ひとつの懸念が生じるかもしれない。それは、「意識を空っぽにする」ということによる弊害だ。空っぽになることで、外部からの作用を受けるのではないかという懸念。平たく言えば、「意識を空っぽにしたら、そのスキに悪霊が入り込むんじゃないの?」ということ(笑)。
 
でも、その心配は要らない。この瞑想では、思考を止めるのは前提条件にすぎず、真の目的がその先にあるからだ。それは、「観察する」ということ。全身全霊をあげて観察に集中しているから、外部からの作用が入り込むスキはない。さすがに、その辺りはよく考えられている。

というのも、ヴィパッサナー瞑想は、単なる瞑想法ではない。それは、釈迦の教えそのもの。仏典に何度も繰り返して書いてある、お釈迦さまの教えを、瞑想という形で実践するのがヴィパッサナーだ。「観察する」ということは、理論的にも教えの中核をなしている。

仏教理論と言えば、「八正道」(はっしょうどう)だろう。釈迦の教えの根幹をなす中核理論の一つだ。「正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」の八正道。

このうち、最初の「正見」(しょうけん)というのが、すべての基本となる。これは、単に「正しく物事を見よ」というような、抽象的な訓示ではない。「お釈迦さまの教えをしっかり学んで、仏教的なモノの見方を身につけましょう」というのが、その主旨。
 
では、ここでいう「仏教的なモノの見方」とは、どういうことを意味するのだろうか。それこそ、本ブログでも山ほど書いてきた(笑)、お釈迦さまの教えそのものだ。「生まれるのは苦しい、老いて苦しい、病気は苦しい、死ぬのは苦しい・・・」という、ちょっと暗めな(?)人生観を身につける。

生きるのは苦しい。たとえ、一時的には楽しくても、人はいつか老いて死ぬ。最終的には必ず苦しい。

この人生だけではない。輪廻転生の全体を通して、人はつらくて苦しい。

輪廻転生。それは、ハテしなく続く苦の迷走。酔っ払った人がヨタヨタと千鳥足で歩くように、グルグルとチェーン展開している、迷える者の連鎖反応だ。目を覚ませば、それは終了する。

ここで、「ちょっと待ってよ。ボクは、明るく楽しく前向きに生きているよ?」という人が登場することがよくある。「そんな暗くて小難しいことばかり言ってないで、楽しもうよ」という、明るい声だ。確かに、一理ある。でも、ここはそういう場面ではない(笑)。ここは、じっとガマンのしどころなのだ。「ボクは、おいしいものを食べて、美女とたわむれたいな?」という仏弟子には、わざわざ夜のお墓に連れていって、美女の腐乱死体を見せる。ゾッとして、背筋も凍る場面だ。でも、それが輪廻転生から卒業するための第一歩。そうやって、まずは、「この世は、本当はあんまり楽しくないところなんだな・・・」ということを教えることから始めなければならない。
 
そんな苦労を重ねつつ、「輪廻転生。それは、ハテしなく続く苦しみなのだ。目を覚せば、それは終了するのだ」というのを実感する。そして、「これがあるから、それがある。それがなければ、これがない。要するに、苦しみには原因がある。原因を元から断てば、苦しみもなくなる・・・」といったような、仏教的なモノの見方をきっちりと身につける。「正見」というのは、そういうことを意味している。

それはともかく、ここでの主役は、七番目の「正念」(しょうねん)だ。ヴィパッサナー瞑想との絡みで、これが言いたいから「八正道」の話をしているのである。

以前、この「正念」でいう「念」というのを、「念力」と解釈し、「正しく念力をかけましょう」という意味に取っている人を見かけたのだが、そうではない。これだと、釈迦の瞑想は、超能力開発の修行ということになってしまう。まさしく、オウム真理教の世界だ。

そうではなくて、どちらかと言えば、これは「ちゃんと準備ができたかどうか、念入りにチェックしましょう」というようなときの「念」に近い。つまり、入念に、観察するのである。「観察」こそが、ここでのテーマ。
 
何を念入りに観察するのかといえば、最大の観察対象は、自分自身の感覚だ。

感覚は、身体の中でいつも生じている。「イテテ・・・」とか、「気持ちイイ!!」といった、強い感覚もあれば、意識していなければ気づかない程度の、微細な感覚もある。「その微細な感覚をチェックして、気づきましょう」というのが、この瞑想の主眼と言ってよい。

こういう、気がつかないほどの小さな感覚を、ひたすらに観察する。そのことによって、意識が途方もなく鋭敏になり、研ぎ澄まされてくる。

気づきから、観察へ。観察から、洞察へ。

洞察を深めることにより、究極の真理が見えてくるというのだ・・・(!)。
  


瞑想の目的

2011年10月18日 | ヴィパッサナー瞑想
 
最近は、ますますヴィパッサナー瞑想だ(笑)。もちろん本当は、独習はよくない。ベテランの指導者のもとで基本を身につけるべきなので、そのうち時間を作って取り組みたいと思う。

ただ、筆者は瞑想の実践こそしていなかったが、釈迦やクリシュナムルティの思想に長いこと慣れ親しんできている。ヴィパッサナー瞑想は、まさしく彼らの思想の応用編、というか実践編であるにすぎない。このため、指導DVDを最初に見たときから、「初めて見るのに、なつかしい」という感じだった。
 
つまり、あのインドの宗教哲人や導師たちが口々に説く、「たった今、この瞬間のみに生きよ」、「思考を止めよ」、「おのれを無にせよ」、「観察せよ」・・・と言った数々の教え。これらは一見、雲をつかむような、抽象的な観念に思える。でも、そうではない。それは、こういった意識の状態を実現するための、具体的な方法論があるからだ。ヴィパッサナー瞑想こそが、まさしくそれに当たる。それは、テキストをひと目、見た瞬間に分かった。
 
精神を統一して、「思考を止める」というのが、最大の目的だ。思考とは、心の中をグルグルと渦巻いている、過去の記憶との応答。ああでもない、こうでもない・・・。それは、反射的に出てくるものだ。自分の意思でコントロールできるものではない。「思考」というより、「反応」と言ったほうがいいかもしれない。冷えたビールを見た瞬間、「飲みたいな」と反応する。ものすごいスピードだ。
 
またまた新興宗教の信者さんたちからお叱りを受けるかもしれないが(笑)、日本には、「反省せよというのが、お釈迦さまの教えです」とか、「感謝せよというのが、お釈迦さまの教えです」・・・とかなんとか、いろんなことを言ってる人たちがいるけど、それらはピントがずれている。もちろん、反省や感謝は、古き良き日本人の美徳であり、おおいに結構なことなのだが、ここはそういう場面ではない。

ここは、まず思考を止めるべき場面。過去の良いことや、悪いことを思い出して感動しているヒマはないのだ。むしろ、ここでは、それは余計な思考だと言える。

でも、思考を止めることだけが目的ではない。重要なのは、「観察」だ。思考を止めた上で、とことん「観察」を研ぎ澄ませていく。観察力がどこまでも強化される。

意識の覚醒は、この延長上にある。つまり、思考が止まって、観察が研ぎ澄まされることこそ、覚醒に直結する道だ。意識の覚醒が目標ならば、「この道を、まっすぐに進んでいこう」といったところだろう。究極の観察力に到達すれば、お釈迦さまのように、何でも見抜ける人にまでなれるのだ。それが、「観自在力」だと言える。

いかにして思考を止めるかと言えば、たとえば、歩いている最中に、歩くことに意識を集中する。単に漠然と集中するだけでなく、差し出す右足・左足、ツマ先が着地したり、カカトが離れたり・・・といったことに、いちいち集中する。「ツマ先が着地した、カカトが離れた・・・」と、アタマの中で実況中継する。なぜ実況中継するかと言えば、そうしなければ、すぐに雑念に心が飛んでしまうからだ。こればっかりは、誰が何度やってみても、しばらく時間がたてば確実にそうなる。それを防ぐには、これしかない。まさしく、瞑想の本場・古代インドが生んだ人類の知恵と言える。

釈迦が瞑想するときは、「鼻孔」に意識を集中していた。鼻から、空気が出たり入ったりする。そこに、意識を集中する。おなかが膨らんだり、凹んだり・・・に意識を集中するのも良いのだが、それよりも狭く深い分、意識が集中しやすい。というより、おなかという自分の身体の一部より、鼻から出たり入ったりしている空気のほうが、まったく無味乾燥で、なんの意味もない分、「なんだか、おなかが痛くなってきたな?」というような雑念とも無縁でいられる。

これには、思考を止めて意識を集中するだけでなく、同時に「観察」を鍛えられるという、一石二鳥の効果がある。上のような「歩く瞑想」をやっていると、不思議なことに、足に意識を集中しているにもかかわらず、周囲の景色が鮮明になってくる。思考が止まっている分、いつもは見落としているものが、イヤでも目に入ってくる。これに比べれば、ふだんの自分が見ていた景色は、ピンボケ動画のようなものだった。
 
いまや、心が静まり返ってきている。なんだか、以前はこだわっていたことが、どうでも良くなってく一方だ。何を聞いても、「ああ、そうですか」という感じ。変われば変わるものだ・・・。
 

観察をとぎすます

2011年10月05日 | ヴィパッサナー瞑想
 
ヴィパッサナー瞑想は、単に思考を停止して、精神統一するだけではない。「観察をとぎすます」ということに、この瞑想の主眼がある。
 
瞑想指導のDVDは、「歩く瞑想」から始まった。この歩き方は、独特だ。ゆっくりと歩きながら、一歩一歩すすんでゆく足に、意識を集中するのである。

右足を前に出すときは、「右足」と心の中で唱える。左足を前に出すときは、「左足」と唱える。ゆっくりと歩いていれば、「右足のツマ先が地面から離れた」、「左足のカカトが地面に触れた」・・・という風に、きめ細かく唱えることができる。こういうのを、「ラベリング」というらしい。ひとつひとつの行動に、言葉によってラベルを貼るのである。

スマナサーラ長老によれば、それは「実況中継」だという。「歩いている自分」に観察を集中し、「歩いている、歩いている・・・」と、自分の現在の行動を実況中継する。

なぜ、このようなことをするのか。

それは、ただ単に意識を集中して観察を心がけただけでは、人の心はすぐ雑念にとらわれてしまうからだ。

物質世界では、光速よりも速いものはないと言われている。最近でこそ、「ニュートリノが光速より速く動いた」という実験結果が出ているが・・・。もっとも、もしも実験結果が正しかったとしても、ホンのわずかな差でしかない。一般的には、やはり光速が物質世界の最高速度と見て、まず間違いないだろう。

でも、光速よりも確実に速く動くものがある。それは、人の心だ。

人の心は、物質世界にありながら、非物質の世界に属している。だから、物質世界の限界である光速など、軽々と突破してしまうのだ。心は、常に動いている。感覚から入ってくる刺激に、すぐ反応する。焼肉や刺身を見た瞬間に、「食べたいな」と反応する。その反応の速さたるや、物質にはありえないスピードだ。

それを発見したのは、古代インドのお釈迦さまだ。釈迦は、ヴィパッサナー瞑想でとことん自分の心を観察した結果、「なんだか、光速よりも反応が速いみたいだな?」ということを見抜いた。

そんなに速く動く心を、自分の意のままにコントロールするのは、並大抵のことではない。つまり、心は、自分ではないのだ。それは体と同様、世を忍ぶ仮の姿。そんな心をも、ヴィパッサナー瞑想では観察する。

とはいえ、あまりに速く動くので、観察するのは難しい。これは、高度な観察力を発達させた、上級者向けのメニューと言える。初級者は、まず「歩く瞑想」その他で、観察力を磨く練習をしなければいけない。スポーツや楽器と同じで、何事も練習あるのみ。まずは、「足が地面を踏む感触」その他を、徹底的に観察するのだ。

要は、雑念に反応して心が飛んでいってしまわないように、アタマの中を「歩いている、歩いている・・・」で常に一杯にしておくのである。これこそ、古代インドが人類にもたらした、至上の知恵と言えるだろう。
 
これでこそ、雑念を排除して集中できるというものだ。 
 


ヴィパッサナー瞑想 3

2011年10月01日 | ヴィパッサナー瞑想
 
ますます、ヴィパッサナー瞑想がマイブームだ。知人は「ヴィパッサナー瞑想」と聞いて、「オウム真理教みたいだな」という感想を述べていた。やはり、オウム真理教が残した爪あとは深い。この分野のイメージを、あまりにも悪くしてしまった(笑)。
  
でも、それとこれとは関係ない。これこそ、釈迦が菩提樹下で実践し、弟子たちにも指導していた瞑想法。昔も今も、意識の覚醒への鍵は、なんといってもこれだ。
  
もちろん、ほかにも瞑想の技法はいくらでもある。なかでも注目のマトなのは、モンロー研究所のヘミシンクだろう。筆者は、自分ではヘミシンクをやっていないが、坂本政道氏やブルース・モーエン氏を初めとする関係者が、ヘミシンク・ワークによって得た体験談を聞くのは大好きだ。ほかにもいろいろある。時間は限られているから、全部は実行できない。とりあえず、目についたモノから始めるのが一番だ。
 
ヴィパッサナ-瞑想は、思考を止めて、観察に徹する瞑想だ。まさしく、これは古代インドからの伝統。釈迦やクリシュナムルティの教えに長いこと慣れ親しんできた者にとっては、非常になじみ深い。インドの偉大な導師たちは、「思考を止めよ」、「観察に徹しろ」と口々に語ってきた。ヴィパッサナーは、それを瞑想で実践するものだ。だから、筆者にとっては、「初めて見るのに懐かしい」という感じ。これが釈迦の本来の瞑想法なのは、疑う余地がない。

日常生活において、「思考停止」という言葉は、あまり良い意味で使われない。でも、精神世界の探求者にとっては、「思考を止める」というのが、とりあえずの目標だ。
 
どの本を見ても、ヴィパッサナー瞑想は「歩く瞑想」「立つ瞑想」、「座る瞑想」の3つだと書いてある。どれも、目指すところは共通している。

たとえば、座る瞑想では、呼吸に意識を集中する。出たり入ったりする息に、意識を集中するのだ。一見、「呼吸法」に見えるのだが、そうではない。重要なのは、呼吸そのものではなく、呼吸に意識を集中することによって、思考を止めることにある。

このため、座る瞑想においては、息を吸っておなかが膨らんだり、息を吐いておなかが凹んだりすることに意識を集中する。「おなかが膨らんでいる、膨らんでいる」、「おなかが凹んでいる、凹んでいる」と心の中で唱える。単に観察するだけでなく、いちいち言葉を貼り付けるのだ。こういうのを、「ラベリング」と言うらしい。

これというのも、雑念を入れないためだ。単に意識をおなかに集中するだけでは、ほかの事に気持ちがそれてしまう。人間の意識は、変わりやすい。物質世界のあらゆるものよりも、変わるのが速い。光速よりも速いのである。だから、「おなかが膨らんでいる、膨らんでいる」という言葉によって、ほかの対象をシャットアウトし続けなければならない。古代インドの修行者たちが生み出した、瞑想の知恵だ。

もっとも、釈迦によれば、おなかに意識を集中するのは、まだ甘いらしい。釈迦が座る瞑想をするときには、鼻孔に意識を集中していたという。鼻孔から息が出たり入ったりすることに、意識を集中する。出たり入ったりする息は、単なる空気だ。良いも悪いもない、文字通り、空気のように当たり前の存在。だから、雑念を排除するのには最も都合が良い。

筆者は、まずはカルチャーセンターの瞑想講師だという、地橋氏の指導DVDを見てヴィパッサナーを学んだ。

それによると、まずは「歩く瞑想」が初心者には親しみやすいという。
   

かなりヤバくなってきた、世界経済

2011年10月01日 | ヴィパッサナー瞑想
 
2011年も、10月に突入した。

10月28日は、コルマン・インデックスで「マヤ暦・最後の日」と位置づけられている。

いよいよ、景気が悪くなってきた。特に、ヨーロッパが荒れている。ギリシャの財政危機に、各国の足並みがそろわない。ギリシャを支援するのに、加盟各国すべての国会承認が必要だというから厄介だ。特に問題なのは、スロバキアだという。チェコスロバキアが分裂してできた小さな国だ。「こんな小さな国が、なんで外国を支援しなきゃいかんの」ということで、反対している議員が多いらしい。そうこうしている間に、イタリア・スペインといった、ギリシャとはケタ違いの大国も経済が危なくなってきた。

アメリカも、オバマ大統領は大胆な景気刺激策を打とうとしているが、議会での審議が進まない。「日本は意思決定がのろい」と以前から言われてきたが、欧米諸国も日本みたいになってきてしまった。やたらと時間がかかり、何も決まらない。

こうなると、がぜん輝いてくるのが、共産党独裁国家の中国だ(笑)。「もはや、民主主義の限界だ」という声まで出てきている。残念ながら、意思決定が遅いのは、たしかに民主主義の弱点だ。でも、その中国も、史上最大の大干ばつによる食料価格の高騰で、四苦八苦している。

やはり、コルマン・インデックスの予測どおりになってきたのだろうか?

日月神示の本には、「資本主義が破綻し、各国のブロック経済化が進む」と書いてあった。それは、まさしく1929年の世界恐慌から、各国のブロック経済化を経て、第二次世界大戦へと至った道だ。世界中の人々が断末魔の地獄絵図の中、左翼の社会主義者だけは「資本主義が崩壊した」と手をたたいて喜んでいたが、やがて彼らも、大戦争の想像を絶する惨禍に、顔から血の気が引いていった。

「資本主義の崩壊」を気楽に唱えている人々は、こういう歴史的な前例を見ていない。彼らが「人類史上、画期的な社会改革」として唱えていることは、たいてい歴史上に前例のあることばかりなのだから、本当は歴史に学ぶべきなのだ。
 
やはり、世界経済の破綻は好ましくない。世界中の人々が、お金を求めて狂奔せざるを得なくなり、人類の意識がさらに物質的な現実へと縛られることになる。自体を収拾するのには、長い年月を必要とする。これこそ、ネガティブな勢力が望んでいるシナリオだ。
 
もう、そんな時代ではないだろう。ここは、政治経済での苦労などは最小限にとどめて、意識の覚醒に全力を上げたい局面だ。
 
でも、経済危機の解決策は、すぐには見つからない。
 
まあ、こればっかりは、なるようにしかならないだろう。

今、できることといったら、やっぱり来るべき覚醒に向けて、せっせと意識を向上することくらいだ(笑)。

コルマン博士も、「10月28日は、人類の意識進化が完成する日なのであって、何か特別な事件が起きる日という風に受け取ってほしくない」という主旨のことを述べている。
 
意識の覚醒というのは、心の中の問題ではない。われわれの住む世界は、人類の意識を鏡のように反映している。意識が覚醒すれば、当然のごとく、世界も変容する。
  
つまりそれは、「世界が変容する」という問題なのだ。人類の覚醒を促すために、宇宙からのパワーもさんさんと地球に降り注いでいる。

これこそが、真の意味で「人類史上、画期的な改革」だ。政治や経済の制度をいくらイジったところで、根本的な解決は得られない。
   

ヴィパッサナー瞑想 2

2011年09月20日 | ヴィパッサナー瞑想
 
最近のマイブームは、なんといっても「ヴィパッサナー瞑想」だ。まあ、読者のコメントに影響されやすいのが、本ブログの特徴と言ってしまえばそれまでだが・・・(笑)。
 
そんなことより、ヴィパッサナー瞑想こそ、古代インドで釈迦と仏弟子たちが実践していた瞑想だ。これで、意識を覚醒できる。覚醒への鍵を握っているのは、昔も今もこれだ。地球のアセンションとは、この地球上で、大勢の人間が意識を覚醒することだ。意識の覚醒さえできれば、他のことなど、なんとかなると言ってよい。瞑想が、その鍵を握っている。

ヴィパッサナー瞑想は、主にスリランカやビルマなどの南方系の仏教で伝えられてきた、初期仏教に最も近い瞑想法。いい悪いは別にして、文化が異なる中国や日本では、インド伝来の仏教もちょっと違うものに変質してしまっていた。それは仕方がない。でも、仏典の研究が進み、情報革命が進行した今は、むしろ日本でこそ、釈迦の時代の仏教の内容が知れ渡りつつある。
 
人生は、苦に満ちている。誰が見てもそうなのだが、仏教的な観点に立てば、特にそうだ。ヴィパッサナー瞑想は、苦を消滅させるための方法として、古来から重視されてきた。
 
確かに、「人生は苦だ」と言うだけでは、単に事実を指摘しているだけであって、苦を消滅させるまでには至らない(笑)。やっぱり、苦を消滅させる方法を学ばなくては、この学びが完結することはないだろう。
 
いきなり瞑想に取り組むのも、もちろん有効だろう。でも、釈迦の教えをジックリと学んだ後で取り組めば、味わいがまったく違ってくるように思う。精神世界には、「知識は要らない」といって知的な理解を軽視する人も少なくないのだが、それは正しい姿勢と言えない。少なくとも釈迦は、教えの内容を知的に理解して記憶することを、非常に重視していた。あくまでも、その上での瞑想の実践だと言える。この2つは車の両輪であり、どちらが欠けても良くない。
 
知識や理解は、精神世界を探求する上でジャマになるものではない。むしろ、それを大いに助けるものだ。探求者にとってジャマなのは、「知識」ではなく、「思考」なのだ・・・。
 
もっとも、「教えの内容」については、すでに本ブログでもさんざん書いてきた。これからは瞑想の実践が重要だ。

まずは、カルチャーセンターで瞑想指導をしているという地橋秀雄氏の「実践 ブッダの瞑想法」のテキストを読み、DVDを見た。瞑想は、実践する行だ。できれば、実地で指導を受けるのが良いのは分かっているのだが、昔と違って今は、このようなDVDで間接指導を受けられるので便利。前書きによると、「DVDのほうが学びやすい」という、受講者の声もあるらしい(笑)。
 
釈迦の瞑想には、「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」がある。サマタ瞑想というのは、思考を止めて、徹底的に精神を集中する瞑想だ。地橋氏は、「サマタ瞑想は難しく、多忙な現代人にはそぐわない」として、ヴィパッサナー瞑想に特化することを勧めている。予備知識ゼロで最初に読んだときは、「そういうものなのか」と思ったのだが、他にもいくつか異なる著者による解説に接した今となっては、この点に関して、いろいろと思うところがある。まあ、それはさておき・・・。
 
ヴィパッサナー瞑想においても、もちろん、精神集中することは重要だ。でも、そこに主眼があるわけではない。「集中」を主目的としているのは、サマタ瞑想なのだ。これに対して、ヴィパッサナー瞑想の主眼は、「観察」にある。もっとも、どちらにしても、「思考を止める」ということには変わりない。
 
早い話が、「思考」を止めて、「観察」を徹底的に強化するのが、ヴィパッサナー瞑想だと言える。
 
ヴィパッサナー瞑想は、大きく分けて「歩く瞑想」、「立つ瞑想」、「座る瞑想」から成り立っている。
 
(続く)