最近の興味の焦点は、なんといっても「ヴィパッサナー瞑想」だ。
「お釈迦さまは、菩提樹下で瞑想して解脱したっていうけど、具体的には、どういう瞑想をしておられたんでしょうか?」という、素朴な疑問がある。その答は、「ヴィパッサナー瞑想」なのだ。これこそ、釈迦の瞑想だ。
麻原彰晃の「マハーヤーナ・スートラ」その他のおかげで、インドに由来する精神世界用語はかなりイメージを悪化させてしまったが(苦笑)、それとこれとは関係ない。昔も今も、意識の覚醒に近づくためには、瞑想の本場であるインドから学ぶものが多い。
というわけで、さっそく、ヴィパッサナー瞑想の本を書店で何冊か購入した。とはいっても、選ぶ余地はほとんどない。本の種類が少ないからだ。最近になって注目されてきている分野とはいうものの、普及度はまだまだのようだ。
とりあえず、地橋秀雄著「実践 ブッダの瞑想法」というDVDブックと、ウィリアム・ハート著、日本ヴィパッサナー協会監修「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」という本を購入した。都心の大手書店だったが、この2つしかなかったので、考えるまでもなかった。関西では「ヴィパッサナー瞑想」の知名度がかなり高いそうなのだが、東京ではまだまだだ。
前者は、カルチャーセンターで実際に瞑想指導している人の本で、DVD付なので助かる。後者は、「ゴエンカ流」という流派に属しているらしい。正直、この辺りの流派関係については、まだよく分からない。残念ながら、読者諸氏に教えてあげられるほど詳しくはなく、逆に教えてもらっているというのが実情なのである。まあ、もともとマニアックなタイプなので、これから探究が進むとは思うけど・・・(笑)。
そんなわけで、今こそ、真の瞑想修行のスタート地点に立ったと言える。
もっとも、「釈迦の瞑想」は、ヴィパッサナーだけではない。もうひとつ、「サマタ瞑想」というのもあって、2本柱となっているらしい。
「サマタ瞑想」というのは、徹底した精神集中の瞑想だ。意識を一点に凝集させ、完全なる精神統一を実現する。究極の意識状態を実現する、最高の瞑想だ。残念ながら、忙しい現代人には不向きな瞑想法とされており、ほとんど紹介されていない。
どうやら、「サマタ瞑想」のことは、とりあえず考えなくても良さそうだ。われわれにとって、「釈迦の瞑想」といえば、イコール「ヴィパッサナー瞑想」と考えて差し支えない。
ヴィパッサナー瞑想の内容は、見れば見るほどインド的だ。
これがアメリカ人だと、「思い通りの自分になるという、自己実現の瞑想」あたりが、最も好まれるテーマだろう。日本人だったら、「私が悪うございましたと過去を振り返る、反省の瞑想」なんてのが、根強い人気を誇っている。どちらも、国民性を反映している(笑)。
これらは、釈迦の瞑想とは関係がない。
ヴィパッサナー瞑想は、徹底した「観察と気づきの瞑想」だ。幸い、仏典やクリシュナムルティを読み込んできたおかげで、「観察」の考え方には深くなじんでいる。後は、観察の瞑想を実践するだけ。遅まきながら、真の瞑想に向けて、ようやく一歩を踏み出した。
「観察の瞑想」である以上、観察力を鍛えることが重要だ。とはいえ、日本人の探求者の多くはマジメすぎて、「もっと意識を集中しなければ」と焦ってしまうのが通例だという。
意識を集中するのは、サマタ瞑想だ。これに対して、ヴィパッサナー瞑想の目的は意識を集中することより、「観察」にある。
ヴィパッサナー瞑想の場合、雑念が起きるのは、一向に構わない。というより、雑念すらも、観察の対象だ。つまり、雑念が起きるのは、観察するネタができたわけだから、おおいに結構なことなのである。