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宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

ヴィパッサナー瞑想

2011年09月11日 | ヴィパッサナー瞑想
   
最近の興味の焦点は、なんといっても「ヴィパッサナー瞑想」だ。
 
「お釈迦さまは、菩提樹下で瞑想して解脱したっていうけど、具体的には、どういう瞑想をしておられたんでしょうか?」という、素朴な疑問がある。その答は、「ヴィパッサナー瞑想」なのだ。これこそ、釈迦の瞑想だ。
 
麻原彰晃の「マハーヤーナ・スートラ」その他のおかげで、インドに由来する精神世界用語はかなりイメージを悪化させてしまったが(苦笑)、それとこれとは関係ない。昔も今も、意識の覚醒に近づくためには、瞑想の本場であるインドから学ぶものが多い。
 
というわけで、さっそく、ヴィパッサナー瞑想の本を書店で何冊か購入した。とはいっても、選ぶ余地はほとんどない。本の種類が少ないからだ。最近になって注目されてきている分野とはいうものの、普及度はまだまだのようだ。

とりあえず、地橋秀雄著「実践 ブッダの瞑想法」というDVDブックと、ウィリアム・ハート著、日本ヴィパッサナー協会監修「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」という本を購入した。都心の大手書店だったが、この2つしかなかったので、考えるまでもなかった。関西では「ヴィパッサナー瞑想」の知名度がかなり高いそうなのだが、東京ではまだまだだ。
  
前者は、カルチャーセンターで実際に瞑想指導している人の本で、DVD付なので助かる。後者は、「ゴエンカ流」という流派に属しているらしい。正直、この辺りの流派関係については、まだよく分からない。残念ながら、読者諸氏に教えてあげられるほど詳しくはなく、逆に教えてもらっているというのが実情なのである。まあ、もともとマニアックなタイプなので、これから探究が進むとは思うけど・・・(笑)。

そんなわけで、今こそ、真の瞑想修行のスタート地点に立ったと言える。

もっとも、「釈迦の瞑想」は、ヴィパッサナーだけではない。もうひとつ、「サマタ瞑想」というのもあって、2本柱となっているらしい。
 
「サマタ瞑想」というのは、徹底した精神集中の瞑想だ。意識を一点に凝集させ、完全なる精神統一を実現する。究極の意識状態を実現する、最高の瞑想だ。残念ながら、忙しい現代人には不向きな瞑想法とされており、ほとんど紹介されていない。

どうやら、「サマタ瞑想」のことは、とりあえず考えなくても良さそうだ。われわれにとって、「釈迦の瞑想」といえば、イコール「ヴィパッサナー瞑想」と考えて差し支えない。

ヴィパッサナー瞑想の内容は、見れば見るほどインド的だ。

これがアメリカ人だと、「思い通りの自分になるという、自己実現の瞑想」あたりが、最も好まれるテーマだろう。日本人だったら、「私が悪うございましたと過去を振り返る、反省の瞑想」なんてのが、根強い人気を誇っている。どちらも、国民性を反映している(笑)。

これらは、釈迦の瞑想とは関係がない。
  
ヴィパッサナー瞑想は、徹底した「観察と気づきの瞑想」だ。幸い、仏典やクリシュナムルティを読み込んできたおかげで、「観察」の考え方には深くなじんでいる。後は、観察の瞑想を実践するだけ。遅まきながら、真の瞑想に向けて、ようやく一歩を踏み出した。

「観察の瞑想」である以上、観察力を鍛えることが重要だ。とはいえ、日本人の探求者の多くはマジメすぎて、「もっと意識を集中しなければ」と焦ってしまうのが通例だという。

意識を集中するのは、サマタ瞑想だ。これに対して、ヴィパッサナー瞑想の目的は意識を集中することより、「観察」にある。
 
ヴィパッサナー瞑想の場合、雑念が起きるのは、一向に構わない。というより、雑念すらも、観察の対象だ。つまり、雑念が起きるのは、観察するネタができたわけだから、おおいに結構なことなのである。
 

釈迦の瞑想

2011年09月04日 | ヴィパッサナー瞑想
   
昔も今も、「意識の覚醒」を考える上で、釈迦は外して考えることができない人。古代インドの聖者の教えを研究する価値は、現代のわれわれにも確実にある。
 
「釈迦は輪廻転生が起きる原因を発見し、それを終わらせる方法を発見した」ということ、さらに「その原因とは、【根本的な生存欲】なのである」ということまでは、以前からよく書いている。

ここまでは、筆者にとって長く慣れ親しんできたテーマだ。これに関して、「輪廻転生は古代インドの迷信であり、私は釈迦の思想からそれを除外して考えている」という学者が、最近読んだ本にもいた。それも確かに、ひとつの世界解釈だろう。でも、それは「天国や地獄に興味がない」という人がコーランを読むのと同じで、かなり無理のある読み方と言わざるを得ない。まあ、それでも学べるものはあるんだろうけど、古代インド人の心になって読むことはできない。

釈迦は、単に「迷いを捨てる」というようなことを言っていたわけではない。ずばり、「輪廻転生を終わらせる」というのが、釈迦の教えの核心だ。これは、ひとり釈迦だけの問題ではなく、古代インド思想に共通する最大級のテーマで、釈迦以前にも数百年の伝統がある。この問題に最終的な解答を与えたというのが、古代インドの思想家の中でも、釈迦が別格あつかいされる最大の理由。

何度も書くけど、ここを誤解している人が世間には少なくないので、また書きます。「ボクは、永遠の魂修行を通じて、無限に進化していくのだ」というような、輪廻転生を前向きに捉える発想が、釈迦の教えにあるだろうか。はっきり言おう。ありません。

釈迦にとって、輪廻転生とは、果てしなく続く苦の連鎖。延々と続く、迷いのチェーン展開。目を覚ませば、それは終了する。

そこまではいいのだが、そこで筆がストップしていた。その次に来るテーマは、当然のことながら「目を覚ますための方法論」ということになる。それが筆者には書けずにいた。子供の頃から禅寺で座禅を組んだり、瞑想はいろいろとやってきたが、古代インド式の瞑想は、そういうものではない。残念ながら、その方面には詳しくなかった。そもそも、日本ではそれに関する情報があまりに乏しく、その方面に詳しくなるのは無理があった。
  
幸い、読者からのコメントにより、「ヴィパッサナー瞑想」を勧められた。これこそ、釈迦が菩提樹下で実践し、弟子たちにも教えていた瞑想だ。これで、意識を覚醒できる。やっぱり、ブログをやっていると、情報が集まってくるので助かります。
 
こういう実践的な面に関しては、やはり然るべき瞑想指導者のもとで、瞑想訓練を受けるべきなのだろう。それにもいずれ取り組むけど、とりあえずは事前研究(笑)。
 
というわけで、早速、「ヴィパッサナー瞑想」に関する参考図書を買いに、書店へと出かけた。最近になって注目を集めつつある分野とはいうものの、現時点では、非常に本が少ない。
 
(続く)