【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

国立西洋美術館で「プラド美術館蔵 ゴヤ-光と影」展(西洋美術館・上野)

2011-12-13 01:06:26 | イベント(祭り・展示会・催事)



 上野の国立西洋美術館で「プラド美術館蔵 ゴヤ-光と影」展が開催されています(10月22日~2012年1月29日)。ゴヤ(1746-1828)は、ヨーロッパが絶対王政から市民社会に向かう時代に、人間と社会を批判的にみつめた作品を多数残しましことで知られています。
 マドリードのプラド美術館から「着衣のマハ」を含む油彩25点、素描40点、版画6点、書簡1点、それに西洋美術館が独自に所有しているものなど日本国内にある作品51点、合計123点の贅沢な展示会です。

 40年前にはは「着衣のマハ」と「裸のマハ」の2枚が来たそうです(現在、プラド美術館はこの2枚の作品が国宝級のものであるので、同時に出品することは、リスクがあるので、しないのではと言われています)。マドリードにあるプラド美術館では、もちろん2枚の画は並んで掲げられています。数年前に、観てきました。

 ゴヤはこの2枚の画をどのような経緯で描いたのかはわかっていません。そのことについて残された記録がありません。それで、いろいろな推測がなされ、ある人はアルバ伯爵夫人であるといい、ある人は2枚は双子の女性といい、ある人は2枚の画を私邸に所有していた時の宰相ゴドイが通常は裸のマハの上に着衣のマハを重ね、ときどきそれをよけて女性の身体をみて愉しんでいたとか、諸説さまざまです。

 2枚が並んでいるとどうしても「裸のマハ」に視線がいってしまいがちです。「着衣のマハ」に集中できません。それが「着衣のマハ」1枚しかないとなると、心穏やかにこの画を鑑賞できます。帯の美しさ、着ている服のなめらかさ、これだけでも妖艶なポーズ、髪の毛のモダンな感じなどです。ちなみにマハとは、マドリードの下町にいた粋な女性、という意味合いです。

 「自画像」(1815年)、「日傘」(1777年)、「ガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスの肖像」(1798年)など、注目作品がたくさんありますが、今回は素描が多いのも特徴です。素描は、ゴヤが他人に見せることを意図して描かれたものではないので、率直な豊かな表現がみられます。

 全体の構成は、下記のとおりです。
1.「かくある私-ゴヤの自画像」
2.「創意と実践-タピスリー用原画における社会批判」
3.「嘘と無節操-女性のイメージ:<サンルーカル素描帖>から私室の絵画へ」
4.「戯画、夢、気まぐれ-<ロス・カプリーチョス>の構想段階における自由と自己検閲」
5.「ロバの衆:愚鈍な者たち-<ロス・カプリーチョス>における人間の愚行の風刺」
6.「魔物の群れ-<ロス・カプリーチョス>における魔術と非合理」
7.「国王夫妻以下、僕を知らない人はいない」-心理研究としての肖像画
8.「悲惨な成り行き-悲劇の眼差し」
9.「不運なる祭典-<闘牛士>の批判的ヴィジョン」
10.「悪夢-<素描C>における狂気と無分別」
11.「信念と断罪-宗教画と教会批判」
12.「闇の中の正気-ナンセンスな世界の幻影」
13.「奇怪な寓話-<ボルドー素描G>における人間の迷妄と動物の夢」
14.「逸楽と暴力-<ボルドー素描H>における人間たるものの諸相」


 

 


「特別展 円空 こころを刻む-埼玉の諸像を中心に-」(さいたま市・歴史と民俗の博物館)

2011-12-12 00:03:53 | イベント(祭り・展示会・催事)

         

 京都旅行の記事が続いたため、この間、ブログにUPできなかったイベントがいくつかありました。今週前半は、それらを掲げていきます。

 そのひとつが 「特別展 円空 こころを刻む-埼玉の諸像を中心に-」(埼玉県・歴史と民俗の博物館)です。10月8日~11月27日の間、開催されていました。円空(えんくう、寛永9[1632] - 元禄8[1695])は、江戸時代前期の行脚僧です。木彫りの「円空仏」とも呼ばれる独特の作風を持った仏像、神像を残しました。今回の展示は約170体でした。

 円空の仏像は全国各地にあるようですが、埼玉あたりはその数が多いそうです。生涯に12万体の仏像を彫ったと伝えられています。現存するものでも、北は北海道・青森から、奈良県、三重県、南は愛媛県まで5000体を超えます。わたしの住んでいる蓮田東部もそうらしいですが、久喜、春日部、宮代などでも、円空仏が今でもずいぶん発見されているようです。江戸から日光へ向かう途中に滞在し、製作したとのことです。

 展示会での注目は、春日部市観音院の聖観音菩薩立像で、高さ約2㍍です。久喜市幸福寺の不動王坐像、同市西願寺の如来形坐像、宮代町個人蔵の阿弥陀如来坐像も重要です。

 円空というと鉈(なた)などで大胆に木材をカットして仏像をつくった人のようにいわれ、多作ですが、作品のひとつひとつはそれぞれの個性をもっています。

 今回の展示物をみると、細かな細工がたくさんあり、認識をあらためました。その仏像の特徴は、口元が微笑んでいる仏が少なからずあること、衣装の雲紋、そして廃材を使ったものがたくさんあること、などです。


 
 

 


川畠成道『耳を澄ませば世界は広がる』集英社新書、2011年

2011-12-10 00:09:06 | 音楽/CDの紹介

         
 ヴァイオリニストである著者が自らの演奏経験(人生)を振り返って、核になるもの、アイデンティティを語っています。

 薬害で視覚障害となり、8歳からヴァイオリンを始めた川畠さん。眼が見えないハンディゆえに、「聴く」ことの感覚は研ぎ澄まされ、暗譜能力がより確かなものになりました。

 「聴く」という意味は、自分の心のなかに湧きあがる音楽を聴くということであり、耳を澄ますということです。音楽をとおして、演奏をとおして自分を「川畠成道語」で、素直にだすというのが信条のようです。

 ひとことで言えばそうなのですが、自分が本当に表現したいものは何か、それをどのように伝えればよいのか、これは意外と大変な仕事のようです。

 その川畠さんの音楽の原点はバッハであるといいます。ベートーヴェン、モーツァルトもバッハからの距離で理解するようにしているそうです。

 そして好きな演奏家として、クライスラー、イザイ、ミルシュテインの演奏家の名前をあげています。

 最近、結婚されたのですが、結婚によって演奏が大人っぽくなった、と言われることもあるそうです。

 本書の構成は以下のとおりです。
・序章:世界には目を閉じた方がわかることもある
・第1章:自分を知る
・第2章:クラシック音楽について
・第3章:世界と自分をつなぐ道具
・第4章:聞こえてくる
・第5章:旅の音
・第6章:気楽な音楽
・第7章:聞く力
・終章:わたしの『四季』


夢枕獏『神々の山嶺(下)』集英社文庫、2000年

2011-12-09 00:01:05 | 小説

          
 ナラダール・ランドセラとアン・ツェリン、この二人が下巻の最初の部分のキーパーソンです。
誘拐、拉致された岸涼子の救出、ビカール・サンこと羽生丈二の捜査に力となったからです。

 しかし、所在のわかった羽生丈二にはアン・ツェリンの娘ドゥマと結婚しふたりの子供もいました。傷心のまま涼子は、帰国。現地にとどまった深町は、羽生丈二のエヴェレスト南西壁冬季無酸素単独登攀にカメラマンとしての同行を許されます。

 神々にもっとも近い秘境、8000メートルを超えるエベレスト登攀。半ばから後半はこの登攀の記録、遭難した羽生のメモです。

 装備の準備、ルート確保、アイスフォールの回避、雪崩、落石への対応、ビバーク地点選定、テント張り、ハーケンによる足場の設定、瞬間によぎる恐怖との闘い、想い、それらが散文詩のように綴られています。

 羽生が先行し、深町がそのルートをなぞるように進んで行きます。標高6700メートルの地点で深町は、それ以上登ることを断念。彼はそこからカメラをとおして、人間の力では不可能と考えられた南西壁で虫のように動く羽生のカタツムリの速度での前進を捉えます。しかし、その羽生が視界から消えました。羽生の遭難、そして死。

 翌年11月、深町はチベット側からノーマル・ルートでエヴェレストの頂上をめざしました。下山中にG・マロリーと羽生の遺体を発見します。

 人はなぜ山に登るのか?この問いに対する答を探しもとめた著者入魂の作品です。上下あわせて1000ページを超えます。著者は山に対する想いをすべて描き切ったと語っています。

 柴田錬三郎賞受賞。


夢枕獏『神々の山嶺(上)』集英社文庫、2002年

2011-12-08 10:42:37 | 小説

          
 この小説は山岳小説の分野に入るのでしょうが、若干ミステリーの味付けがあります。世界で最高峰のエヴェレストに最初に登頂したのはイギリス隊のヒラリー(ニュージーランド人)とテムジン(シェルパ)です(1953年)、もっと前に登頂に成功した人物がいたのではないか、という推理です。

 そのクライマーの名はジョージ・マロリー。アーヴィンとともにエヴェレストの頂にたどりついたかもしれないマロリーは、アーヴィンとともに下山中に遭難し(1924年)、いまとなっては登頂に成功したのかを確認するべくもありません。

 ところが、マロリーがその時に持っていたカメラがあり、フィルムも装填されていたとすると、登頂直後の撮影記録があるかもしれず、となるとアルプス登山史が大きく塗り替えられる可能性があるのです。

 エヴェレスト登頂をかつて目指した経験のある(敗退、2名遭難死)カメラマン深町誠は、カトマンドゥの裏街の登山用具店で、偶然に古いコダックを手に入れました。それはもしかすると、それはマロリー所有のカメラかもしれないのです。

 深町はそのカメラを登山用具店に持ち込んだ男を、そしてカメラの過去を追い始めます。カメラの過去を追う過程で、深町は羽生丈二という、孤高の天才クライマーの存在を知ります。

小説はこの羽生丈二の人となり、登攀の哲学、人間関係に焦点を絞り、この得体のしれない人物像をあぶり出します。鬼スラの制覇、北アルプス屏風岩での後輩岸文太郎の遭難死、彼自身のグランドジョラスでの遭難と奇跡の生還、ライバル長谷常雄のカラコルムK2での死、次々に厳しいエピソードが出てきます。

 深町はその後、羽生が本名を伏せ、ビカール・サンという通称でネパールに住みついていることを確信し、古いコダックのカメラを持ち込んだのはそのビカール・サンであったことを突き止めます。さらに深町は、羽生と交際があり不慮の遭難死をした岸の妹涼子とともにカトマンズにとび、そこでつてを辿って行方をくらましたビカール・サンこと羽生丈二に邂逅します。

 羽生はその地に不法滞在し、エヴェレスト南西壁無酸素単独登攀を虎視眈々とねらっていました。上巻はそこで終わっています。


テネシー・ウィリアムズ/小田島雄志訳『欲望という名の電車』新潮文庫、1998年

2011-12-07 00:05:05 | 演劇/バレエ/ミュージカル

           
 「欲望という名の電車」は演劇の世界では不朽の名作と言われ、世界各国で上演され、日本でも例外でありません。女優になったからには、この作品のブランチ役を一度は演じたいと思っている人は多く、その表明をあちこちで目にします。

 映画ではビビアン・リーとマーロン・ブランドの主演による「欲望という名の電車」(エリア・カザン監督、1951年)が有名です。近々、青年座のこの「欲望という名の電車」を観劇に行く予定なので、原作を読みました。小田島雄志さんの名訳です。

 あらためて、素人が脚本を読むことの難しさを感じました。一読すれば筋はわかります。しかし、脚本ですから対話と簡単なト書きがあるだけです。脚本を本で、これを舞台化するのは、なみななみならぬ創造力、想像力が必要と思われ、実際にそういう方たちは演出家として存在するわけですから、その人たちの才能にあらためて敬服する思いでした。脚本だけ読んで、俳優さんがセリフを暗記し、形としてそこにコミュニケーションが成立してもそれだけでは舞台になりません。

 場所はアメリカはニューオリンズ市のフレンチ・クォーター。<極楽>という名の街路に面した、ある街角の二階建ての建物のあたり。貧困の街区です。5月のたそがれどき。
 そこにブランチ・デュボアが妹のステラ・コワルスキーを訪ねてやってきます。ブランチは南部の大農園の娘でしたが、身をもちくずし、アル中気味です。
  妹の夫スタンリー・コワルスキーは粗野な性格の持ち主です。カードと酒に狂いステラにつらくあたるのですが、彼女はこの男に全身を捧げて生活しています。そのような妹夫婦の日常にあきれつつ批判的でありながら、ブランチはステラのアパートに身をよせるうちに、スタンリーのカード仲間ミッチに次第に関心を持つようになります。
 ミッチは母と2人暮らしの純情な独身者で、真面目にブランチとの結婚を考え、彼女も彼に、年若の夫を失った暗い過去を打ち明けて、将来への希望を語るのでした。

 しかし、スタンリーは街の仲間から、ブランシュが実は身もちをくずした女で、17歳の少年をたぶらせたかどで故郷を追われた女だということを噂に聞き、この事実をミッチにつげぐちするのでした。
 ブランチの誕生日に、ミッチは来ず、スタンリーは彼女に贈り物として故郷へ帰る片道切符を渡します。
 その夜ステラがにわかに産気づき、スタンリーと病院に出かけたあと、ブランチは訪ねてきたミッチに結婚を迫るのですが、彼はもはやその言葉に耳をかそうとさえしません。
 夜更けて戻ってきたスタンリーは、ブランチが1人泥酔しているところを暴利力的に迫ります。さて、この顛末は??

 そこにあるのは人間と人間の、あるいは人間の内面の確執と葛藤の世界。具体的には、ブランチとスタンレリーによって象徴されるアメリカ南部の没落地主階級の文化と貧民街の労働者の粗暴な生命力との対立、ブランチのなかの過去と現在、幻想と現実、死と生(性)の葛藤です。これらが未解決のまま、傷口もあらわに読者のまえに投げ出されています。


奇跡の秋(京都紀行④ 浄土宗・大本山 くろ谷 金戒光明寺)

2011-12-06 00:09:09 | 旅行/温泉


 今回の京都旅行最後の日。まず御苑にでかけ、その大きさに感嘆したあと、左京区黒谷町にある浄土宗のお寺金戒光明寺」まで歩いていきました。実際に歩いてみると距離は、かなりあります。

 「金戒光明寺」は浄土宗大本山で、法然上人がはじめて草庵を営んだ地です。15歳で比叡山に登った上人が承安5年(1175年)、43歳の時、念仏の教えを広めるために、山頂の石の上で念仏を唱えた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたとことで、この地に草庵をむすんだそうです。浄土宗の最初の寺院で、知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山のひとつです。

 境内のロケーションは、御影堂、阿弥陀堂、山門、三重の塔からなっています。御影堂には、法然上人75歳の御影(坐像)が奉安されています。昭和19年(1944年)に再建されました。

                        

 阿弥陀堂は、慶長10年(1605年)、豊臣秀頼によって再建されました。金戒光明寺では一番古い建物です。

 山門は応仁の乱で焼失しましたが、万延元年に落成した建物です。三重塔は重要文化財、徳川秀忠菩提のために建立されました。後小松天皇の「浄土真宗最初門」の額がかかっています。

 直実鎧掛けの松もありました。熊谷直実が鎧を洗い、それを掛けたという松です。
                

 さらにここには平成23年(2011年)法然上人800年を記念して「紫雲の庭」が整備されました。庭には上人の生涯と浄土宗の広がりが枯山水で表現されています。
              

       


寒空に「秩父夜祭」の熱気

2011-12-05 00:26:58 | イベント(祭り・展示会・催事)

 日本三大曳山祭のひとつ(京都祇園祭、飛騨高山祭)、秩父夜祭が繰り広げられました。わたしがでかけた日は朝から土砂降り。大丈夫かなと思いましたが、昼からは見ごとに雨があがり、祭の開催に支障はありませんでした。
               

              

 この祭は、300年以上の伝統があり、初冬にもたれること、開催中、花火が寒天の空に景気よく打ち上げられるので有名です。さらに、屋台が見事です。6基あるのですが、重さは12-20トンほど。これらが提灯をつけさまざまな意匠でデコレーションされ、法被と鉢巻のいでたちの若い衆がこれらに乗って威勢よく、掛け声をだし曳かれていきます。屋台は長縄で曳かれ、この曳き手は若い男女がかなりの数からなっています。

 日中街中をまわった屋台は秩父神社に集結し、7時ころ市民会館駐車場にもうけられた御旅所(屋台を一時的に安置するところ)に向かいます。その頃、羊山公園で花火が打ち上げられます。

                    

 これらの豪華な屋台は町内ごとに(本町、中町など)大きさや彫刻が微妙にことなります。昔、秩父は養蚕がさかんで、絹が輸出品となり、大きな収益があがりました。蓄積された富が屋台にきそってつぎ込まれ、いまの豪華な造り物につながっています。

 観光客はざっと26万5千人とか。今年は土日にあたっていたので、例年の2-3割増しということでした。沿道には、焼魚、焼そば、チョコレートバナナ、熱燗のお酒、ビールなどを売るお店がひしめき、寒いはずの秩父の空気は熱気でムンムンでした。


奇跡の秋(京都紀行③ 即宗院)

2011-12-03 00:09:24 | イベント(祭り・展示会・催事)

 東福寺には塔頭として、25の寺院があります。そのうちのひとつ即宗院を訪れました。東福寺のほうは、観光客がかなりいましたが、ここを訪れる人はわずかです。あまり知られていないのでしょう。
 知らないで過ぎるには惜しいです。閑静で、空気がよく、時間さえあれば長くとどまっていたい場所です。紅葉も少しばかり見られました。また、西郷隆盛がここに居たことがことがあるとは。認識を新たにしました。
 パンフレットから引用しながら、紹介します。

                  

              

 臥雲山即宗院は、薩摩藩東福寺城の守護大名だった六代目島津氏久(1328-1387)の菩提のため、南北朝元中4年、剛中玄柔和尚を開基として創建されました。院号は氏久の法名「齢岳玄久即宗院」によります。一時、永禄12年(1569)に焼失しましたが、慶長18年(1613)島津氏久によって再建されました。

 明治維新のおりには、西郷隆盛と月照上人がここにある茶亭に隠れ、幕軍の難を逃れつつ幕府転覆の策を謀り、ここから密令を発して諸藩の連携をはかり、維新の大業を完遂しました。

 そのことを記念するかのように、西郷隆盛自筆による薩摩藩士東征戦忘之碑がたっています。

                                  


奇跡の秋(京都紀行② 東福寺)

2011-12-02 00:18:28 | 旅行/温泉

              
 東福寺は、京都駅からJR奈良線を使い「東福寺」駅下車、徒歩10分程です(帰路は京阪電車「鳥羽街道」駅を使い「東福寺」で奈良線に乗り換え「京都」駅へ)。いい陽気、そして青空のもと、広大な面積をほこるお寺に入りました。

 本堂(仏殿)[昭和9年築の重層入母屋造の大建築]、三門(室町初期に再建されたもの)、禅堂(1347年再建。わが国最古最大の中世から遺る坐禅道場)、東司(わが国最古の遺構)、六波羅門(六波羅探題の遺構移築されたもの)、五社成就宮とまわりました。そして通天橋(方丈と開山堂を結んでかかる)をわたって、普門院のほうへ。通天橋があり、紅葉の名所として知られています。
        
 方丈の「八相の庭」は有名です。方丈は明治23年に再建されました。ここには、東西南北に四庭が配された「八相成道」(釈迦の生涯の八つの重要な出来事)に因む「八相の庭」(昭和の名作庭家、重盛三玲の作)があります。鎌倉時代庭園の質実剛健さとともに、現代芸術の抽象的個性が取り入れられ、ユニークな禅宗庭園です。
 南庭は広さ210坪の枯山水です。「蓬莱」「方丈」「州(えいじゅう)」「壷梁(こりょう)」と呼ばれる4つの島が長石を基軸に配され、渦巻く砂の紋によって八海が示されています。
 北庭にはウスマギゴケの緑との対比も色鮮やか市松模様の敷石がユニークです。サツキの丸刈りとの調和がいいいです。
              
 

        
 東福寺の創設は古く鎌倉時代までさかのぼります。ときの摂政関白、藤原道家が南部東大寺と興福寺から「東」と「福」の字をとり、九条家の菩提寺として造営しました。

 開山には聖一国司を仰ぎ、当初は天台宗、真言宗、禅宗の三宗兼学として壮大な堂塔伽藍は配置されていましたが、鎌倉時代末期の相次ぐ火災で、ほとんどが焼失してしまいました。その復興の手が加えられ、1347年、前関白一条経道により仏殿が再建され、京都五山のひとつにふさわしい禅宗寺院として偉容を取り戻しました。

 その後は、足利、豊臣、徳川家によって保護修理が加えられ、奇跡的に都の兵火をのがれ、中世以来の堂塔伽藍を継承しています。明治14年、方丈、仏殿、法堂などを全焼失しましたが、再び再建されました。 

 


奇跡の秋(京都紀行① 西明寺+神護寺)

2011-12-01 00:01:55 | 旅行/温泉

 奇跡の秋、京都版です。

 先々週、京都に2泊3日で旅に出ました。主な箇所は京都の西北、高雄周辺、それに永観堂、青蓮院などで、紅葉狩りです。軽井沢もそうでしたが、京都の紅葉もいまひとつでした。自然が相手ですからいたしかたありません。京都も今年の11月は暖かめで、気温の寒暖差も絶好の紅葉になるには力不足でした。地元の人は11月になっても25度を超える真夏日があった、と言っていました。

 それでも山のほうに入ると、市内よりは2-3度低く、訪れた高雄周辺はさすがに樹々は色づいていました。

 ここに紹介するのは西明寺です。西明寺は空海の弟子、智泉が天長年間に神護寺の別院として建立されたお寺です。その本堂は徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進により再建されたとか。

       

 あたりの空気は清澄で、森のような緑に覆われ、気持ちが洗われるようでした。ところどころ素晴らし紅葉があります。

       

       

 わたしは「もみじ家」本館で昼食をとってまず西明寺に行ったのですが、この間徒歩で約20分です。いったん引き返し、清滝川にかかっている高雄橋(赤橋)を渡り、左手にいくと神護寺に向かうかなりきつい登り道があります。途中の硯石までもかなりきつい登りですが、ここからさらに400段ほど階段があります。神護寺には以前、お参りをし、かわら投げもしたことがあるので、お寺の門まで健康のために登って、そこで証拠写真(?)を撮って、直で引き返してきました。