【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

ジェフリ・スカール、ジョン・カロウ『魔女狩り』岩波書店、2004年

2008-02-29 00:21:52 | 歴史
ジェフリ・スカール、ジョン・カロウ『魔女狩り』岩波書店、2004年
           魔女狩り (ヨーロッパ史入門)
 ヨーロッパの歴史に必ず登場する「魔女狩り」。しかし、誤った説が蔓延しているとのことです。というか、このテーマでの多くの業績が公にされつつある近年でも、研究レベルのコンセサスはないのだそうです。

 本書は「魔女狩り」が中世にさかんに行われ、何百万にもの女性が火あぶりにあったという俗説を糺しながら、研究の新しい機軸を示そうとしています。

 一口に「魔女」と言ってもいろいろなので、著者は「魔女」を、主として15世紀後半からの約200年間、新プラトン主義の哲学に根を持ち、占星術と錬金術が渾然一体となって世界を神秘的に結びついたシステムとみなしながら、「高度な魔術」を使い、悪魔と契約を結び、悪魔の手先となってその命令に従うことを約束した女性(高齢で、貧しいものが多かった、男性もいた)と定義して、議論を展開しています。

 そのうえで、「魔女狩り」がヨーロッパ近世に特有の現象であること(俗説で言われている「中世」ではない)、魔女迫害は多様でしたが、地方的な統治制度が残っていたところで猖獗をきわめたこと、しばしば喧伝される数百万の犠牲者という規模には程遠く、およそ4万人ぐらいではなかったかということを明らかにしています。

 なぜ、「魔女狩り」のようなことが起きたかについては、教会の「異端」に対する神経質な姿勢、この世界が悪魔的なものによって影響されるとする世界観、そして著者は必ずしもジェンダー的接近を支持しているわけではないのですが、「・・・男社会の支配こそが、女性を政治的権力や経済力からはるか遠くに追放することで、女性を魔術のような絶望的な手段へと追いやった」(p.97)と言う要因を否定していません。

 「進展著しい魔女研究を綜合し、魔女観の形成、社会統制、民衆文化、女性迫害などの多様な論点から、ヨーロッパ史の『闇』の本質に迫る」(帯の惹句)力作です。

リハビリ日数に上限 弱者切り捨て政策への糾弾

2008-02-28 00:29:10 | 医療/健康/料理/食文化

多田富雄『わたしのリハビリ闘争ー最弱者の生存権は守られたか』青土社、2007年
                    わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか / 多田富雄/著
 2006年3月、診療報酬の改訂がなされましたが、そこにはとんでもない内容が盛り込まれていました。公的医療保険で受けられるリハビリ医療に上限日数が設定されたのです。

 従来、全人的に行われてきたリハビリ医療に対して、症患系統別(「脳血管症患」「運動器症患」「呼吸器症患」「心血管症患」にそれぞれ180日、150日、90日、150日以内の日数制限)の条件が与えられたのです。リハビリ医療を受けていた患者で、この日数を経過した患者はそれ以上治療を受けても回復の可能性がないと判断され、診療が自動的に終了となります。もす続けたければ介護保険の範囲の介護リハビリを受けてくださいということになっているのだそうですが、これも医療リハビリと介護リハビリの違いを知らないとんでもない提言です。

 厚生労働省が先頭をきって患者切捨て、「
医療難民」の創出に手をくだしたというわけです。著者はこのようなことが認められてしまうと、末期癌の抗癌剤治療、糖尿病治療など改善の見込みがたたないと判断された治療が次々と中止されていくことになりかねないと怒りをあらわにしています。全く、そのとおりです。

 厚生労働省は、さらに曖昧に例外規定を設けて問題の所在をごまかそうとしている、医療リハビリを性格の全く異なる介護リハビリで対応させようとする、経過措置を導入して反対運動を封じ込めようとする、など医療行政の担い手としてあるまじきことを次々と行っている、と著者の怒りはとめどがありません。

 リハビリとは、機能の回復だけでなく、生命の質、全人格的尊厳の回復のためにあるのであり、またその内容はケースごとで個別的措置が必要なものです。それを、形式的な線引きと、一律的措置で行おうというのですから、これでは医療後進国への転落に他なりません。

 著者は免疫学の権威ですが、2001年5月に脳梗塞の発作に見舞われ、その後遺症で右半身の麻痺、高度の構音、燕下機能障害となり、まさにリハビリ治療を受ける最中にこの措置に直面したのです。

 本書は、著者の渾身の糾弾の書です。「朝日新聞」「文藝春秋」「現代思想」「世界」などへの投稿記事が中心です(一部、書き下ろし)。


トレイシー・シュバリエ/木下哲夫訳『真珠の耳飾りの少女』白水社

2008-02-27 11:10:45 | 小説
トレイシー・シュバリエ/木下哲夫訳『真珠の耳飾りの少女』白水社、2004年
         真珠の耳飾りの少女 (白水Uブックス)
 昨日、紹介したピーター・ウェーバー監督「真珠の耳飾りの少女」(スカーレット・ヨハンセン主演,2003年)の原作です。

 映画と原作とで大きく違うところは,原作では映画のラスト以降、さらに10年後(1676年)の話が入っていることです。フェルメール,画商のフォン・ライヘンは、この10年間では亡くなっています。

 「真珠の耳飾り・・」の絵の完成後,フェルメール家から追い出された主人公フリートは,ご主人の死を聞いて,かつて女中をしていたフェルメール家を弔問するようになっています。妻のカタリーナから例の真珠の耳飾りを受け取り,処理に困ったフリートはこれを質屋(?)に入れ,お金(20ギルダー)を受け取ります。原作ではそういった逸話が最後に展開されています。

 他にも微妙に異なる個所がありますが,あまり気になりません(映画では耳朶にイアリングのための孔をあけるのはフェルメールですが,小説では最初左の耳朶は自分で,右はフェルメールです)。

 全体はもちろんフィクションなのですが,著者は相当に資料を丹念に調べて書いています。訳もよくできています。出色の小説です。

真珠の耳飾りの少女(Girl With A Pearl Earring)英,2003年

2008-02-26 00:32:17 | 映画

真珠の耳飾りの少女(Girl  With  A Pearl  Earring)英,2003 100
          真珠の耳飾りの少女 通常版

  17世紀に生きたフェルメール(16321675)は,日本人に非常に人気のある画家です。現存する彼の絵はわずかに37点(36点という説あるいは真作は34点という説もあります),しかもそれらは,世界中の美術館に点在しています。そして、彼の生涯はほとんど知られていません。

 この映画は「真珠の耳飾の少女」として知られる一枚の有名な絵画をめぐるエピソードがベース。トレイシー・シュヴァリエの原作を映画化した作品です。 絵画そのものをおもわせる色調と構図,また1665年頃のデルフト(オランダ)の美しく落ち着いたたたずまい,ストーリーにあった印象的なメロディーも含めて,イギリス映画らしい気品が漂います。

 開巻は少女グリート(スカーレット・ヨハンソン)の貧しい家庭。台所で彼女が鮮やかな色のたまねぎ,ビーツ,ニンジン,キャベツを包丁で切るシーンで始まります。

 フォン・ライファンはフェルメールに絵を注文するパトロンでした。しかし,ヨハネス(以下、フェルメールをヨハネスと呼ぶことにします)自身は,注文で画を描くことに関心がありません。妻のカタリーナは,夫に不満がありました。生活が汲々としているのに、なかなか絵を完成させないからです。

 画を売って生活をたてることに頓着のないヨハネス。あるとき、ヨハネスは窓から差し込む光線の美しさのなかで窓掃除をしていたグリートに気づきました。これがグリートをモデルに新しい作品(水差しを持つ女)を描くきっかけになりました。彼は,グリートに顔料の調合を手伝わせたり,カメラ・オブスクラを覗かせて絵の世界を教えます。
 ヨハネスの創作意欲をかきたてたグリートの存在は,やがてヨハネス夫妻に嫉妬という亀裂を生み出すことになりました。ヨハネスの絵のモデルとなったグリートは,頻繁にアトリエに出入りするようになります。

 ヨハネスは,グリートをモデルに再び新しい絵を描きはじめました。ヨハネスは構図に必要と,妻の真珠の首飾りをつけるようグリートに頼みます。ヨハネスの申し出に躊躇し,「心まで描くの?」とそれを断わるグリート。パトロンにとにかく絵を買ってもらいたい義母は,妻の外出中に白い真珠の耳飾りをグリートに渡します。 ヨハネスはこれを彼女の耳につけます。
 
 ヨハネスが彼女の耳たぶにピアスの穴を開けるシーンがあります。痛かったのでしょうか,この時に流れたグリートの涙は何とも官能的です。ヨハネスは,大きな瞳と紅い中開きの厚い唇,透きとおるような肌の少女,青いターバンを頭に巻き,振り返りのポーズをとるグリートの絵を完成させます。

 事の次第を知った妻のカタリーナはヨハネスに完成した絵を見せるように迫ります。彼がキャンバスを覆っていた布切れを取ると,そこに現れたのはカタリーナの真珠の耳飾りを着けたグリートのポートレートでした。「汚らしい」と金切り声をあげ,泣き崩れる妻。 グリートにはもう居場所はありません。

 ラストは,フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の絵がアップ。原作と異なるところは多々ありますが、映画は映画として完結しています。いい映画を観たという気持ちになれます。

 今から340年ほど前に描かれたこの作品は,現在,オランダのハーグにあるマウリッツハイス美術館に展示されています。

監督: ピーター・ウェーバー,原作: トレイシー・シュヴァリエ,脚本: オリヴィア・ヘトリード,撮影: エドゥアルド・セラ,美術: ベン・ヴァン・オズ,音楽: アレクサンドル・デプラ  出演: スカーレット・ヨハンソン,コリン・ファース,トム・ウィルキンソン,キリアン・マーフィ,エシー・デイヴィス,ジュディ・パーフィット


マーサの幸せレシピ(BELLA MARTHA)

2008-02-25 00:26:38 | 映画

マーサの幸せレシピ(BELLA MARTHA)ドイツ 2001年 105
        
 綺麗な色の食材、包丁,フライパン,なべ。リズムがあり,メリハリの利いたシェフの職人的動きとマナー。料理とかかわる作品なので,料理関連用語が飛び交っています。ニョッキ,トリュフ,ラビオリ,レモン・タイム,クリーム・プリュレ,コニャック,バジリコ,ローズマリー,バジリコ・ソース,フォアグラ等々。音楽の風味も心地よいです。

 マーサ・クラインは,ハンブルクでフリーダという中年女性が店長が営むフランス料理店の一流シェフです。30才代の独身で,長身の美人。几帳面な性格で,真面目一点ばり。仕事場では,同僚との同調を嫌い,彼らが談笑していても、会話に加わることはありません。

 そんなマーサに2つの事件が起こります。ひとつは姉のクリスティンがマーサの家に娘を連れて車で向かっていた途中に事故ってしまい,8才の子どもを残して他界したこと。クリスティンはイタリア人の夫,ジュゼッペ・ロレンツォと縁が切れていました。夫はイタリアにいるらしいのですが,行方不明です。姪のリナの父親が見つかるまで,マーサはリナを引きとり,一緒に暮らすことになります。しかし,リナの心の傷は深く,マーサにはなかなかなつきません。
 もうひとつは,マーサの勤めるレストランにマリオという男性のシェフが入ってきたこと。マーサは厨房の主であるはずの自分にこのことで何の相談もなかったことが不満でした。マリオは時間にはルーズ,根っから明るいイタリア人気質です。厨房に音楽を流し,リズムをとり,踊りだします。すぐに同僚達の人気者になりましたが,マーサはそれがまた燗にさわるのでした。「あんな男を厨房に入れて雇うなら,わたしをやめさせてくれ」と,マーサは店長のフリーダに噛みつきます。

 マリオはマーサが厨房に連れてきた元気のないリナと打ち解け,リナは彼が食べたイタリア料理の残りを美味しそうに食べるのでした。リナは,マリオがすっかり気に入り,マーサに彼を家に呼ぼうと提案。食材を一杯かかえて家にきたマリオは,リナとふたりで,イタリア料理をつくり,三人での楽しい食事となりました。

 マーサはリナ,そしてマリオとの関わり(葛藤と愛情)の中で人間らしさを身につけていきます。リナを引き取ったことで,マーサの生活環境はガラリと変わりました。仕事をしながら,リナの学校の送り迎え。しかし,お互いが心をなかなか開かない性格が手伝って,心の交流に支障があったことに加え,マーサは仕事をしている間,リナをひとりで家に置いておけず仕事場である厨房に連れてきていたのですが,これが問題をこじらせました。リナは,寝坊,睡眠不足。学校をさぼるようになっていました。
 心配したマーサは,リナに厨房に来ることを禁じます。納得のいかないリナはマーサに背中をむけ,父親がいるというイタリアにひとりで旅立とうとします。連れ戻されたものの,マーサとの関係はぎくしゃく。そんな折突然,イタリアに住むジュゼッペがリナを迎えにきました。マリオが苦労して連絡をつけたのでした。マリオは今ではすっかりマーサを愛し,マーサも人間を温かく包むマリオの人柄に信頼を抱きはじめます。

 イタリアに行って離れてしまったリナのことを忘れられないマーサ。マリオとともにリナを連れ戻しに行きます。マーサはマリオと結婚し,フランス料理店をやめ,リナと三人で新しい出発を期すのでした。

 マーサは自身の人生のレシピに欠けていたものを、ここで得ることができたのでした。

     マーサの幸せレシピ

監督: サンドラ・ネットルベック,製作: カール・バウムガートナー,クリストフ・フリーデル,脚本: サンドラ・ネットルベック,撮影: ミヒャエル・ベルトル,音楽: キース・ジャレット,アルヴォ・ペルト,デヴィッド・ダーリン,

出演: マルティナ・ゲデック,セルジオ・カステリット,ウルリク・トムセン,マクシメ・フェルステ


二本指のピアニスト

2008-02-24 00:49:00 | ノンフィクション/ルポルタージュ

ウ・カプスン(兎甲山)『二本指のピアニスト』新潮社、2007年
                           二本指のピアニスト
 両手にたった二本づつの指しかない女の子がショパンの「幻想交響曲」をピアノで弾くまでの感動の物語です。
 傷痍軍人と結婚し、ふたりの間にようやくできた女の子ヒア、しかしその子には両手に指が2本づつしかありませんでした。

 養子に出すようにとの周囲の意見をふりきって、著者はこの子を立派に育てあげました。

 そればかりか、夫の反対に抗し、指の力をつけようとピアノを習わせます。親子一体となっての猛特訓でショパンの「幻想交響曲」を弾き、人前で演奏し、コンクールで優勝するまでの実力をつけました。今では世界中から公演の依頼があるそうです。

 シドニーパラリンピック、世界原子力会議にも招かれて演奏。ピアノ演奏ができるまでの過程は、壮絶で、なみなみならないものがあります。(申師任堂[シンサイムダン]という鞭を使ったとも書いてあります[p.99])。

 ヒアは7歳くらいの知能でとまっているばかりか、喧嘩で脳出血で倒れたこともありました。

 著者も乳がんを患い、障害者だった夫は50歳台で肺がんで亡くなります。壮絶な人生が、たんたんと書かれています。

 著者がこれだけできたのは頑固で一途な性格にくわえ、わたしは彼女にキリスト教への信仰の強さがあったからだと思います。声高にそう言っているわけではありませんが、それとなく伝わってきます。

 目次は次のとおり。
 第1章:病名は、あざらし型奇形
 
第2章:めずらしい結婚
 第3章:苦渋の選択
 第4章:ピアノとの闘い
 第5章:二本指のピアニスト誕生
 第6章:紆余曲折の果てに
 終章


銚子市のまちおこし

2008-02-22 00:11:18 | 地理/風土/気象/文化
信田臣一『クジラが元気をくれるまち』寿郎社、2001年
          クジラが元気をくれるまち―千葉県銚子市発「まちおこし」のヒント
 銚子のまちのことがよくわかる本です。漁業と醤油のまちであり,現在ではキャベツとメロンでも有名な銚子は,江戸時代には江戸につぐ第二の人口を誇っていました。

 東北,和歌山から船が入り,利根川から貨物が江戸へ。水運のまちとしてにぎわっていました。

 「親潮」のめぐみ,漁獲に恵まれたものの,昨今は経済的に低調です。そこで民主導の地域おこしが「世紀越え」の前後から始まったのです。

 イルカとクジラのウォッチング,「日本一早い初日の出 」。歴史を振り返るなかで,銚子のシンボルである犬吠埼灯台の調査が進み,「犬吠埼灯台資料館」の建設計画も決定(この本出版当時は計画でしたが、現在ではすでに完成しています)。これからは「観光」と,力が入ります。

 しかし、水産業が今後も基幹となることに変りはありません。「地域活性化」のために,「水産業」と「観光」の両輪をどのように利用していくかが地域活性化の要です。「フィッシャーマンズワーフ」は,それに向けたひとつの提言です。

小林昇『山までの街』八朔社、2002年

2008-02-21 00:06:44 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
小林昇『山までの街』八朔社、2002年
          山までの街 / 小林昇/著
 「山までの街」とは福島市のことです。

 東大経済学部を1939年に卒業後,東京海上に就職するもなじめず,招かれて福島高商(後の福島大学)の教員となり,そこでの15年を回顧して書かれた書物です。

 著者はフリードリッヒ・リスト研究のわが国の第一人者ですが,その研究はこの福島でのテキスト・クリティークから始まりました。リストの母国であるドイツでも評価の低かった「農地制度論」を精読し,その経済学説上の意義を世に知らしめた功績は大きいものがあります。

 召集後の著者の「戦地」(とくにヴェトナム)経験の記述がありますが,そのような経験が全くないわたしにとって想像を絶するものでした。

 福島大学経済学部で、著者の同僚であった熊谷尚夫,大石嘉一郎,富塚良三については,わたしも名前を知っていますが,彼らの「人と学問」がよく書けていて,親近感がもてました。

 著者は1955年から立教大学経済学部に移ります(82年退職)。

 文学的力量を感じさせる文章,多くの自作短歌のレベルは素人のそれではないですね。

食べるとは、こう言うことなのだ

2008-02-20 00:38:49 | 医療/健康/料理/食文化

辺見庸『もの食う人びと』共同通信社、1994
      もの食う人びと (角川文庫)

 著者はもちろん作家ですが、この本を読んで同時に冒険家のように思いました。好んで危険なところに出向くからです。

 バングラディッシュ最南端のロヒンギャ難民キャンプ、ミンダナオ島カガヤンデオロ市から南東のキタンラド山中、ブランデンブルク刑務所、カトウィッツ郊外のビエチョレク炭鉱、ソマリアのモガンディシオ、クロアチア共和国ザグレブ、ウラジオストクの艦隊基地、チェルノブイリ原子力発電所等々、といった具合です。

 世界中の「食」を体験したルポルタージュが本書です。この旅の動機を著者は次のように書いています、「私は、私の舌と胃袋のありようが気にくわなくなったのだ。長年の飽食に慣れ、わがまま放題で、忘れっぽく、気力に欠け、万事に無感動気味の、だらりとぶら下がった、舌と胃袋。だから、こいつらを異境に運び、ぎりぎりといじめてみたくなったのだ。この奇妙な旅の、それが動機といえば動機だ」と
(p.7)


 ダッカの残飯、ピター、猫用缶詰、ソムタム(タイ独特の大衆食品)、キャッサバ、ジュゴンの歯の粉末、スズメ、フォー(ベトナムのウドン)、バインザイ、ドイツの囚人食、ドナー・ケバブ、サチカオルマ(唐辛子、タマネギで味付けした羊肉の鉄板焼き)、ボグッラッチ(ポーランドの田舎スープ)、旧ユーゴ難民向け援助食料、アドリア海のイワシ、コソボの修道院の精進料理、聖なる水、ソマリア
PKO各国軍部隊の携帯食、ラクダの肉と乳、インジェラ、塩コーヒー、バター・コーヒー、マトケ(料理用バナナを葉で包んで蒸しマッシュ、エンバ[ソース]
をつけて食べる)、ロシア海軍の給食、チェルノブイリのボルシチ(汚染食品)、ラプーフ(フキ)、択捉留置場のカーシャ、ウハ・スープ、等々。

 
文章は、簡潔、豪胆、直截。鋭利な言葉の矢が、「世界の各地で起こっている苛酷な生活」に対しての感性がすっかり錆びついてしまっている読者(わたし)に向かって飛んでくるかのようです。


小池真理子『恋愛映画館』講談社、2004年

2008-02-19 00:54:20 | 映画

小池真理子『恋愛映画館』講談社、2004年
           恋愛映画館
 12
人ずつの女優(ベアトリス・ダル,ホリー・ハンター、イザベル・ユベール、メリル・ストリープ、ジェーン・パーキン、グレン・クローズ、シャーロット・ランプリング、カトリーヌ・ドヌープ、アヌーク・エーメ、モニカ・ヴィッティ、樋口可南子、桃井かおり)と男優(ヴィンセント・ギャロ、ロバート・デ・ニーロ、アラン・ドロン、ミシェル・ピコリ、ジェラール・フィリップ、ダーク・ボガート,豊川悦司、佐藤浩市、松田優作、藤竜也、三國連太郎、佐分利信)について書かれています。

 狂気,色香,デカダン,世紀末,媚び,退廃,猥雑などの用語(特に色香)が目立ちますが,著者はこれらの価値基準で俳優を選び,評価しているのです。

 メリル・ストリープについて。「確かに、顔色ひとつで名演技を残すことのできる女優である(p.32)」「この女優には、本人ですら気づかない永遠のエロスが息づいている(p.38)」。
 アラン
・ドロンについては「(彼の)美しさの底には,卑屈さが覗き見える。彼という役者の肉体からは,いつもそこはかとない,隠しようもない卑しさが漂うのだ」と書いています(p.120)。

 また、文学については「古典に限らず,文学の永遠のテーマは”姦通”なのだ。恋焦がれるあまり人のものを奪う・・・今も昔も,人はその苦悩から逃れることができず,そのくせ,その苦悩だけが真の悦びを生むのである」と書いています。著者の文学観でしょうか??

 「そうかな?」と思うような叙述がたくさんありますが、それは著者の読者に対する挑発かもしれません。

 かなり主観的で「偏った」俳優論ですが、それは著者が意図的に仕組んだ「毒」と思いました。


奨励会[将棋]の厳しさと著者の視線の温かさ

2008-02-17 00:36:53 | スポーツ/登山/将棋
大崎善生『将棋の子』講談社文庫、2003年
          将棋の子 (講談社文庫)
 日本将棋連盟には厳しい「掟」があります。23歳の誕生日までに初段、26歳の誕生日までに4段に昇格しなければならないというものです。この規則に抵触すると奨励会退会者となり、将棋指導員として将棋の普及の資格を保有する者となるか、あるいはその資格を放棄して完全なアマチュアに戻るかのどちらかを選択するしかありません。普及指導員の肩書きを持てば、免状を推薦する資格などを保有できますが、アマチュアの大会に参加することはできません[p.318]。

 本書はこの奨励会の関門を通過した者、挫折した者の物語です。主人公は札幌市出身の成田英二(以下、他の棋士も含め敬称略)。小学生の頃から抜群の棋力をもち、アマ三段。全国高校選手権で優勝。昭和52年、奨励会に受験、4級合格。

 しかし、そこからが苦行が始まります。持ち前の呑気な性格。終盤には強いのに序盤、中盤に型がなく、周囲のアドバイスにあまり耳をかさず、自分流を貫いたこともあって、ついに26歳の誕生日までに4段に昇格できず、奨励会退会となりました。

 英二支援のため一家は東京に引っ越してきたのですが、父も母も英二のことを心配しながら死去。英二は将棋を諦め北海道へ。栗山町、北見市ででパチンコ店、札幌に戻って古新聞業。さらに、サラ金に手を出し、債務者になりました。

 著者は小学校の頃に札幌市の北海道将棋会館で見かけ、その後、東京の日本将棋連盟・将棋会館の道場でまみえますが、奨励会退会後の成田とは音信不通でした。

 その成田が札幌市の白石将棋センターに連絡先を指定していることを知った著者は何十年ぶりかで彼に会いに札幌に出かけます。この本の「第一章」の話はそこから始まっています。

 主人公は成田ですが、他に奨励会の地獄の門で苦吟した中座真、岡崎洋、秋山太郎、関口勝男、米谷和典、加藤昌彦、江越克真将のエピソードを織り込んでいます。

 最後、成田は著者との出会いが間接的な契機となって、将棋教室の指導員に。著者は書いています、「将棋は厳しくはない。本当は優しいものなのである。もちろん制度は厳しくて、そして競争は激しい。しかし、結局のところ将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない。それを教えるための、そのことを知るための奨励会であってほしいと私は願う」と[p.326]。

  本ブログの「ブックマーク」に日本将棋連盟のURLを張り付けました。成田さんは、「棋士の紹介」の「指導棋士」の一覧に確かに登録されています。

将棋界の未完の大器の夭折に涙

2008-02-16 00:39:41 | スポーツ/登山/将棋

大崎善生『聖(さとし)の青春』講談社文庫、2002年
         聖(さとし)の青春 (講談社文庫)
 感動の一冊です。持病の腎ネフローゼと闘いながら、棋界の名人を目指し精進した村山聖八段の伝記風読み物、ノンフィクション小説です。

 聖は5歳の時、原因不明ですが発熱しました。ネフローゼと診断されます。幼い頃から病床での生活が始まります。父が息子のためにと紹介した将棋に開眼。抜群の集中力をもった子で、将棋のルールをたちどころに覚え、めきめき頭角をあらわしました。

 11歳のとき(昭和55年)に第14回中国こども名人戦で優勝。以後、4回連続優勝しました。13歳のときに家族の反対を押し切り、森信雄7段(当時4段)に弟子入り、紆余曲折があって奨励会入りします。

 奨励会在籍2年11ヶ月で4段、17歳。以後、彗星のごとく現れた「怪童」、大型新人として、同僚の棋士と競いました。平成7年のB1級の田丸戦をねじふせA級入り、25歳。

 終盤に抜群の読みの力をもっていた聖は、序盤、中盤も手厚く戦えるようになり、名人まであと一息のところにありました。この間、羽生さん、谷川さんとは名勝負に値する数々の棋譜を残しています。

 「本能的な感覚のよさに加え、20代になってからは序盤が非常にうまくなりました。研究に基づいた理論的な面と、感覚の鋭さがうまくかみ合って強さとなっていました。村山さんが少し悪いかなと思うような局面での、勝負手を見つけ出す本能的な嗅覚は、真似できない独特の凄さがありました」と羽生さんは述懐しています(p.327)。

 しかし、聖は膀胱癌に侵され、手術後肝臓に転移、ついに29歳の若さで、A級在籍のまま、惜しまれて他界しました。病床での最期のウワ言は、「2七銀」(p.379)。

 日本将棋連盟は、彼の功績を讃え、9段を追贈しました。

 毎回の対局は壮絶としか言いようがなく、著者はその様子を綿密な取材と、自身の体験にもとづく感性で叙述しています。

 将棋への執念と病魔との闘いを描いた後半部分は、涙なしには読めませんでした。通算成績は356勝201敗(うち12局が不戦敗)、勝率・653(不戦敗を除く)。羽生さんとは6勝6敗。谷川さんとは4勝12敗(不戦敗の各1を除く)。

  「
村山聖」の名前は、決して忘れまい。合掌。

 本書は第13回新潮学芸賞受賞、将棋ペンクラブ大賞受賞作です。

  このサイトも是非見てください。
http://www.kyouiku.town.fuchu.hiroshima.jp/kyonanko/satoshi/satoshi.htm

 


水原明人『江戸語・東京語・標準語』講談社新書、1994年

2008-02-15 00:43:08 | 言語/日本語
水原明人『江戸語・東京語・標準語』講談社新書、1994年
                       江戸語・東京語・標準語 / 水原明人/著
 著者は元放送作家です。第4章「標準語の普及とラジオ放送」で,ラジオ放送の担い手であるアナウンサーが標準語の普及に果たした役割について,体験からにじみ出た記述があります。

 本書は江戸時代から,明治,大正を経,さらに昭和の戦前,戦後にいたる日本語の歴史的変遷を追跡しています。

 明治に入って「東京の山手に住む,教養ある人達のことば」が標準語として定着するさまは,一面滑稽ですが,国語行政には必要だったのでしょう。

 昭和以降のラジオ放送(NHKの誕生は1926年)は,この傾向を強めましたが,他面で標準語の押しつけ,方言の撲滅というマイナス効果を生みました。

 戦後,東京言葉そのものが変質し,放送業への民放の参入があり,今日では,標準語の有り方に見直しの動きがあります。「固有の土地の歴史,生活,体臭を持った方言と,ある一定の広い地域に通用する共通語と,全国共通語をさらに磨き上げた標準語と,さまざまなことばを使い分けることは,我々の言語生活の基本的なあり方である」(p.225)と著者は結んでいます。

 著者は以前(たぶん現在も)、東京家政大学(十条)での市民向け講座で、「落語を通して江戸の生活と文化を知る」ことをテーマにレクチャーをしていました。2005年度にこの連続講座に参加したことがあります。その時に、本書の存在を知りました。

ピアニストはピアニストの演奏をどう見ているのか?

2008-02-14 00:58:29 | 音楽/CDの紹介
青柳いづみこ『ピアニストが見たピアニスト-名演奏家の秘密とは』白水社、2005年
                         ピアニストが見たピアニスト
   著者はピアニスト。安川加壽子、バルビゼに師事。マルセイユ音楽院を首席で卒業しています。1989年、論文「ドビュッシーと世紀末の美学」で学術博士号を取得しています。このブログでの彼女の著作の紹介は、昨年11月5日に『無邪気と悪魔は紙一重』、11月25日に『翼のはえた指-評伝・安川加壽子』と2冊あります。本書はピアニストである彼女のピアニスト論です。

  読み手からみますと、その演奏家の名前を知っているか知らないか,またその演奏家の演奏をよく知っているのか,ただ聴いたことがあるだけなのかとでは,関心に差が出てきます。

 リヒテル,アルゲリッチに関しては、彼らの演奏をよく知っていますし、レコード,CDを何度も聴いたこともあり,この本の解説のその部分には惹きこまれました。

 ミケランジェリ,ハイドシェックについては、名前を耳にしたことがある程度です。バルビゼ,フランソワは知りませんでした。

 正規の音楽教育を受けていないリヒテルは「高い椅子」に座って,「オーケストラのような演奏をしていた」(p.6)と言います。強靭な暗譜力、格闘するような演奏です。

 アルゲリッチのステージでは何が起こるかわからず,瞬間的エネルギーで憑かれたように弾きまくります。オケラがついてこれないほどのスピードで。しかし,信じられないほどの孤独に苛まれていたとか。

 完璧な演奏を追求したミケランジェリは,初期にはオペラを歌うように弾きました。尋常ならぬ聴覚をもった彼は,やがて冷徹に弾くように変わります。「自己消滅」でもするかのように。

 バイオリン奏者のフェラスとよいコンビで,自己抑制的だったバルビゼ,異能であり「フランスのエスプリ」と理解されるものがすべて詰まっている天才肌のフランソワ(p.227),ベートーベンのスペシャリストで「いちばんの魅力は,ちょっと不気味なほの暗い雰囲気の喚起にある」(p.237)ハイドシェック。

 本書はピアニスによるピアニストの演奏解釈論。ポリーニ,コルトー,シャンピにも目配りがあります。

 個性的な文体ですが,読みにくくはありません。

植物学者・牧野富太郎の生涯

2008-02-13 00:32:55 | 評論/評伝/自伝
大原富枝『草を褥に』小学館、2001年
          草を褥に―小説牧野富太郎 (サライBOOKS)
 わたしが小学校低学年の頃だったと思いますが、夏休みの「自由研究」で押し葉をし、草の名を調べるために牧野富太郎の『野草図鑑』を買ってもらいました。以来、牧野富太郎の名は頭から消えず、偉大な植物学者だということは分かっていましたが、それだけのことでした。この本を読んで、この学者がどういう人だったのかが良く理解できました。

 土佐の富裕な造り酒屋の息子で(1862年生まれ[文久2年])、子どものころから聡明。佐川郷校名教(メイコウ)館(今の小学校)で学びますが、公教育はそこで打ち止め、学歴に全くこだわらず、一途に自然との対話のなかで植物の研究に打ち込み、日本を代表する植物学者となり、画期的な研究業績を残しました。植物の画も沢山書いていますが、どれも生き生きと素晴らしいものです。

 彼は植物学者の申し子のような人でしたが、経済観念は全くありませんでした。実家を破産させただけでなく、多額の借金をつくっても、そのことに頓着がなく、家族は貧窮の連続でした。富太郎は優れた研究者でありながら、破天荒な生活を続けていたのです。

 しかし、膨大な借金で絶体絶命の窮地に陥っても、不思議とその支払いに名乗りをあげてくれる人が出てきました。さらに、妻となり、6人の子を育てた(13人妊娠したが)寿衛子が献身的に家計をきりもりし、かつ大正の初期から待合(渋谷)の経営にたずさわることで富太郎を経済的に支え、さらにそのことによってつくった資金で700坪の土地を購入。富太郎の研究の場を確保しました(現在、東大泉にある「牧野記念公園」)。

 妻・寿衛子が書いた手紙が残っていて、著者は「一連の寿衛子の幼いが思いのこもった手紙が存在したために、わたしはこの作品を書くことが出来た」と書いています(p.101)。そして「もう足かけ数年もこの素材に打ち込んで来たわたしには、彼女はもう他人のようには思えないのであった」とその心境を語っています(p.208)。効果的に引用されている寿衛子の手紙は、地味で虚飾のないものですが、それゆえに却って胸に響きます。

 富太郎享年94、寿衛子享年55。表題は富太郎が晩年に好んで使った「草を褥に木の根を枕 花と恋して90年」という言葉からです。

おしまい。