【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

自転車泥棒 (Ladri  di  Biciclette)ヴィットリオ・デ・シーカ監督、イタリア、1950年

2017-10-31 12:16:29 | 映画

                                

 
戦後のイタリア。生活苦に喘ぎながらも懸命に生きる家族、その中心にいる父と子を描いたイタリア・ネオ・レアリスモの代表的作品。登場人物は俳優ではなく、素人ばかり、主演の父親役をこなしたランベルト・マッジョラーニは無名の機械工であった。困窮のなかに生きる庶民の生活と感情とがリアルに、真摯に映し出されて、必見の映画である。

 アントニオは二年の失業の後、漸く仕事にありついた。職業安定所の紹介でえた市役所のビラ貼りの仕事であった。月給として固定給と特別手当、家族手当を受け取れるはずであった。家には妻のマリア(リアネッラ・カレーリ)と息子のブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)、生まれたばかりの赤ん坊がひもじい思いで待っていた。

 ビラ貼りの仕事は、自転車が要る。しかし、アントニオは自分の自転車を以前に質入れしていた。妻のマリアは窮余の策でシーツを代わりに質入れし、自転車を請け出した。翌朝、父親アントニオは子どものブルーノを連れて、ビラ貼りにでた。ところが、仕事中に大切な自転車を若者風の男に盗まれてしまう。夢中で後を追ったが、盗人を見失なった。警察に盗難届けを出すが、相手にされず、自分で捜すハメになった。

 翌朝、父親は古自転車市に捜しに行くが見つからない。自転車は分解されて売られている可能性があるので、父と子は、あちこちの部品売りを捜した。突然のにわか雨。父子で雨宿りをしていると、昨日の泥棒らしき男が自転車に乗ってふたりの前を通りすぎ、老人とひとことふたこと言葉をかわし、立ち去った。懸命に彼を追うが、男は雑踏のなかに消えてしまった。父親は老人を捕まえ、男の居場所を問い質したが、「ほっといてくれ、わたしは関係ない」と取り合わない。

 父親は苛々し、側にいた子どもを殴りつけてしまった。八つ当りである。ここまで一生懸命に、一緒に自転車を捜してきたブルーノは「なぜぶったの、ママに言いつけてやる」と理不尽な父親に無言の抵抗。父親は、一人とぼとぼとテベレ川の河岸にでた。突然、河に身をなげた者があるとの声。アントニオは自分の息子ではないかと慌てたが、幸い別人であった。アントニオがほっと一息ついていると、心細そうにこちらを見ているブルーノがいた。二人は気を取り直してカフェで一緒にチーズパイを食べ、ワインを飲んだ。

 父と子は女占い師のところに立ちより占いをしてもらった。自転車はすぐに見つからなければ、永久に出てこないとの占い結果に落胆。そこに、先ほどの若い男がまた自転車にのって通りすぎていった。父親は再び追い、若者を捕まえたが、仲間たちに逆に取り囲まれ「人違いだろ、証拠があるのか」の押し問答となってしまった。子どもは警官を呼んできた。結局、盗品の自転車は出てこず、埒があかなかった。

 父と子は道端に座りこみ、途方にくれていた。サッカー場まで来ると、そこには何千台もの自転車がならんでいた。アントニオは息子ブルーノに家に帰るようにうながすと、近くにあった自転車の一台を盗み逃げ出した。しかし、大勢の人達に追いかけられて捕まり、袋だたきにあった。帰宅しようとしていたブルーノが騒ぎの場に戻ると、父親は群衆の中で小突き回されていた。息子は、父にしがみつき、泣いた。自転車の持ち主はブルーノの姿のいじらしさに、警察沙汰にするのを見逃してくれた。「息子に感謝するがいい」の声を残して人々は立ち去り、傷ついた父子はそこに取り残された。後悔と失意でアントニオは声もなかった。


僕の村は戦場だった(Иваново детство)アンドレイ・タルコフスキー監督、ソ連、1962年

2017-10-30 12:00:57 | 映画

           
 
1959年発表のベストセラー小説、ウラジーミル・ボゴモーロフの短篇「イワン」の映画化。当時30歳のタルコフスキーの長編処女作である。

 美しい緑の森からはカッコーの鳴く声がこだましている。蝶が舞い、牧歌的な田舎の風景が映し出されている。少年と母との心の対話。それは過去のことであった。美しく、幸せだった故郷はドイツ軍に踏みにじられ、焼け野原になってしまった。両親も妹も失ったイワン(ニコライ・ブルリャーエフ)はナチス・ドイツに激しい憎悪を持った。イワンはパルチザンに協力し、斥候の役をかってでた。敵の占領地域を偵察するという危険な、しかし勝つためには絶対に必要な任務であった。司令部の命令で偵察の役についたイワンは、湖沼でドイツ兵に遭遇。逃げるための舟を調達できず、命からがら泳いで味方の陣地にたどりついた。そこにはガリツェフ上級中尉がいた。イワンは司令部に自分の所在を連絡するように依頼。司令部からの迎えを待ち、疲労で眠るイワン。

 イワンの意識は、故郷の井戸の底へと下降した。「母さん!」と叫んではっと目を覚ますイワンは、12才。平和な故郷と母の夢に酔い、覚醒して現実にかえるのだった。

 司令部からホーリン大尉が迎えに来る。司令部のグリャズノフ中佐、ホーリン大尉、カタソーノフ古参兵は、まだいたいけな子どもにすぎないイワンをこの危険きわまりない仕事につかせたくなかった。彼らはイワンの身を案じ、後方に戻し、幼年学校へ通わせようとした。イワンはこの提案を受けつけず、愛国隊に入ったが、施設から抜け出してしまった。隊の衛生管理をあずかるマーシャとホーリン大尉との対話、彼女をめぐる彼とガリツェフ上級中尉との心理も細かく描かれている。その背景に映しだされるのはロシアの美しい白樺林である。戦闘のなかに生まれる男と女の人間の微妙な心理にも配慮が行き届いている。

 ドイツ軍の攻撃が激しさを増し、イワンは対岸の敵の情勢をさぐる命がけの偵察の役を強引にかってでた。ホーリン、ガリツェフ、イワンを乗せた小舟が河を渡り、敵の前線地域へ入った。対岸には、斥候に出かけたまま帰って来なかった二人の兵士リャーホフとモロゾフの絞首刑にかかった遺体が見せしめとして並べられていた。イワンは大人たちと別れ、姿を隠した。イワンを見た者は、その後誰もいない。

 戦いは終わり、祖国に平和が戻った。「カチューシャ」を歌って勝利を歓ぶ兵士たち。しかし、イワンは帰って来なかった。みるかげもなく破壊されたかつてのナチ司令部の建物。その中には、ソビエト軍捕虜の処刑記録が残されていた。それらの傷ましい記録を一枚一枚手にとって見ていたガリツェフ上級中尉は、そのなかにイワンの写真が貼りつけられたカードを認めた。そこにはイワンがドイツ軍に捕まり、絞首刑にあったとの記載があった。

 独ソ戦で両親を失った12才の少年イワンが、ナチスに対する憎しみに燃え、周囲がとめるのもきかず、かたくなに偵察行動に参加することを申し出た。そのイワンは任務の最中、勝利の事実を知ることもなく、ドイツ兵に捕まり、幼い命を落とした。少年イワンが命を犠牲にせざるを得なかった事実は、少年の記憶に残る平和な日々を綴る詩情豊かで美しい回想シーンと対照されて実にリアルに描かれている。

 戦争を背景に描かれた映画であるが、戦闘シーンはなく、逆に戦闘の合間の時間と空間を重視することで、戦争の悲惨が強烈に映しだされている。戦争がもたらした不条理をモチーフにしながら、同じテーマの他の作品には見られない構成の瑞々しさは、大きな感動と反響を呼んだ。第23回(1962年)ベネチア映画祭金獅子賞、サンフランシスコ映画祭監督賞。


出目昌伸監督「バルトの楽園」(2006年、106分)

2017-10-25 11:22:32 | 映画

                           

  第一次大戦下、青島(チンタオ)を領有していたドイツは、日本軍と交戦し、破れた。日本軍は約4700人のドイツ兵を捕虜とし、日本に連行し、12か所あった俘虜収容所に収監した。


 徳島県鳴門市になった坂東俘虜収容所では、松江豊寿所長(松平健)が捕虜になったドイツ兵に温情をもって接し、地元民と捕虜の融和を図ろうとする方針をとっていた。

 この収容所にはパン屋があり、印刷所があり、ソーセージを肴にビールを飲む自由さえあり、比較的人間らしい生活をしていた。

 小規模のオーケストラもあった。日本では年末に、ベートーベンの「第九」が演奏される習慣があるが、その先鞭をつけたのはこの俘虜収容所での演奏と言われている。

 この映画にはいろいろな逸話が挿入されている。ドイツの捕虜たちは松江所長の温かい人柄に惹かれていくが、軍部からは、手ぬるいと批判を受け対立したこと、日本とドイツの混血少女・「志を」が、ドイツ人の父を探してやってくるが調べによって志をの父が戦死していたこと、捕虜たちが作った製品や菓子、演奏などを披露する世界でも類を見ない『俘虜製作品博覧会』が開催されたこと、そこで出会ったカルルと「志を」の間に親子のような交流が生まれたこと、第一次世界大戦でドイツ敗北の報を聞いたハインリッヒ総督(ブルーノ・ガンツ)が所内で自殺未遂をおこたこと、終戦によって解放されたドイツ人たちは松江所長や地元民への感謝を込めて日本で初めてベートーヴェンの『第九』を演奏したこと、など。
 

   フィクションがあるようだが、こうした逸話がこの映画の魅力になっている。

 映画のタイトルにある「バルト」はドイツ語で「ヒゲ」のこと。所長の松江が立派なヒゲをつけていたので(画像参照)、それを象徴的にタイトルに使ったようである。


「天守物語」(泉鏡花原作、中原和樹演出) 於:上野ストアハウス

2017-10-15 13:46:11 | 演劇/バレエ/ミュージカル

                                                   

 「もんもちながらプロェクト」の「天守物語」を観ました。場所は上野の「上野ストアハウス」。118席ほどの小劇場です。


  泉鏡花原作です。鏡花の戯曲の中でも屈指の名作とされる作品がこの「天守物語」。白鷺城(姫路城)の最上階に異形の者たちが住むという伝説をベースに、鏡花はその他の怪異譚を巧みに織り交ぜ、美しい異界の人と、この世の人間との恋物語を造形しました。

 時は不詳ですが、封建時代。時期は晩秋。日没前より深更の頃。播州姫路城の天守、第五重ということになっています。

 この作品はかつて玉三郎さんが演じたり、歌舞伎でもとりあげられています。

 主な役は下記のとおりです。
・森川結美子(富姫)
・笠川奈美(亀姫)
・南谷朝子(舌長姥)
・朱の盤坊(山野靖博)
・越前屋由隆(姫川図書之助)
・千葉総一郎(小田原修理)
岩崎さとし近江之丞桃六


 


是枝裕和監督「三度目の殺人」(124分、2017年)

2017-10-14 10:44:02 | 映画

                                   

 「MOVIXさいたま」で是枝裕和監督「三度目の殺人」を観る
。現在、公開中なので、内容をあまり詳しく書くと「ねたばれ」となるので、それは避けたい。しかし劇場での映画は話がどんどん進んでいくので、観ている人がストーリにおいてけぼりにされ、理解が曖昧なまま終わってしまうこともある。最低の準備はしておいたほうがよい。とくに、映画の標題の意味、主要登場人物、人間関係など。


 三隅(役所広司)は解雇された工場の長を川べりで鈍器でなぐり殺し、ガソリンをかけて焼く。逮捕され、裁判にかかる。弁護士は腕利きの重盛弁護士(福山雅治)。ところが容疑者の自白は二転三転。最初は三隅の単独犯で前科(殺人)もあったこともあり、検察側は死刑求刑の線で動いているが、重盛はおとしどころとして無期懲役にもっていきたい。

 ところが三隅の殺人は、実は、社長の妻(斎藤由貴)の依頼という線が浮かびあがってくる。そして最後に、三隅は自分は殺人に手をくだしていないと、言い出す。すでに公判は進行中。とんでもない線がうかびあがってきたのだ。いずれにしても、「三度」、殺人の様相が変わる。これがタイトルの意味であろう。


 弁護士・重盛は名うての弁護士ではあるが、真相などはもともとわからないもの、要は法廷での裁判闘争次第という考え方の人物である。

 映画はおよそ上記のストーリーで、緊張感をもって進んでいく。是枝監督はこれまで「誰もしらない」「そして、父になる」で、家庭問題をあつかってきたが、今回は殺人事件でだいぶ感じが違う。もっとも、重盛弁護士、三隅容疑者、そして工場長のいずれにも娘がいて、家庭の事情(問題)を抱えているのだが・・・。工場長の娘・美津江役の広瀬すずさんがうまい。末恐ろしい俳優だ。


 


ロング・ウォーク・ホーム(The Long Walk Home) リチャード・ピアース監督、アメリカ、1990年

2017-10-03 23:10:11 | 映画

                                              
    
 
舞台は1955年のアラバマ州モンゴメリー。この州は人口に黒人がしめる比率が高い。この映画は、この保守的で頑固で変わろうとしない地域に起こった黒人のバス・ボイコット事件*とこの運動に対するミリアム(シシー・スペイセク)、オデッサ・コッター(ウーピー・ゴールドバーグ)たちの生活、考え方を描いた作品である。このボイコット事件は、アメリカの公民権運動に火をつけた事件である。

 ノーマン・トンプソンには、妻ミリアムと二人の女の子、サラ、メリー・キャサリンとの幸せな家庭があった。比較的裕福なトンプソン家は、黒人のメイドを二人雇っている。そのうちの一人オデッサは主人公の一人であるが、キャサリンは彼女の記憶をさかのぼる、オデッサは「人生を私に目覚めさせてくれた人、とくに目立つ人ではなかったが、何か事件が起こったりすると、周りの人たちを感化する独特の魅力を持っていた」と。

 黒人のバス・ボイコット事件は、ある黒人の女性がバスで白人に席を譲らなかったことで逮捕されたことに抗議し、黒人たちがバスの乗車を拒否するという内容のものであった。オデッサは当然、この運動に同調し、仕事さきのトンプソン家までかなりの道を徒歩で通うことになる。妻のミリアムは、自身が黒人のメイドに世話になって成長したという事情があり、人種差別撤廃に理解があった。彼女は長距離を歩いて通うオデッサを気の毒に思い、夫に内緒で週に二回ほどスーパーに行くときに、オデッサを車で迎えた。ところが、ある日、夫が風邪で出勤しなかったさいこの秘密事が発覚し、口論になる。一度はひきさがったミリアムではあったが、納得できない彼女は車の相乗り活動に参加するようになった。心ある白人はこの運動に加わっていたが、これはある意味では危険な行為であった。それというのも、この地域の白人による黒人蔑視は、相当にひどいものであったからであった。

 映画ではそのようなシーンがいくつか紹介される。まず、映画の前半に、ボイコット事件が発生する前のことではあるが、次のような場面がある。ミリアムがメイドのオデッサに娘達を公園で遊ばせて欲しいと子守りを頼み、彼らが公園で遊んでいると、通りがかりの警官が「この公園は黒人の立ち入り禁止」と退去させた。この件は、ミリアムが議員をつうじてこの警官に謝罪させて落着したが、人種差別が日常茶飯事であるこの社会の断面はこのシーンに浮き彫りにされていた。ボイコット事件が起きてからも、トンプソン家での食事の集まりで夫の母、弟の話しは偏見にみちている、「黒人をのさばらせたら、つけあがる。怠け者のくせに要求ばかりする。黒人を甘やかしたら、今にとんでもないことになる」等々。

 バス・ボイコット運動の輪が広がるにつれ、白人は危機感を深め、ノーマンは黒人排斥の市民評議会に参加し、また相乗りを暴力で阻止する集まりに参加するようになった。そこでノーマンはミリアムが子どものメリー・キャサリンを連れ、ワゴン車でこの運動に協力している現場を見て驚く。白人側と黒人側が対峙し、協力者であるミリアムは義弟に殴られ、他の男にワゴン車の窓を割られた。白人側の「アフリカに帰れ、歩いて帰れ」の罵声、そしてことが暴力沙汰になろうとしたおり、黒人は女性たちを中心に手をつないで連帯の歌を静かに合唱し、歌が罵声を凌駕して行く。ミリアムも涙しながら黒人と手をとって抵抗の輪に加わるのであった。

 バス・ボイコット運動には五万人が参加。翌年、最高裁は「黒人がバスのどの席に座るのも自由である」との判決を出す。「真実は必ずよみがえる、虚偽は決して長続きしない、諸君は実りを刈り取ることができる、道理は必ず通る世の中になります、正義は最後には勝ちます」、キング牧師の演説の声がエンディングに響く。


西部戦線異常なし(All Quiet on Western Front) リュイス・マイルトン監督、アメリカ、1930年

2017-10-02 21:28:00 | 映画

                

 
原作はレマルクの同名の小説。戦争経験のない老教師に扇動された血気盛んな青年ポール(リュー・エアーズ)が前線で非人間的状況、死の恐怖に遭遇するうちに、戦争そのものに疑問を持つが、最後は戦地であっけなく死んでしまうという悲惨な物語。戦争の非人間的性格、残酷さ、悲惨さを浮き彫りにし、戦争の無意味さを知らしめた作品である。蝶にむかってのびた兵士の手が一発の銃声で力を失っていくさまを捉えたラスト・ショットは、静かな反戦の表現として人々の脳裏から永遠に消えない。

 ドイツのある学校で、軍国主義で凝り固まった老教師カントレク先生は、教室で学生を前に「軍服をきる名誉」「淑女が誇る軍人」「祖国が求める若者像」など愛国精神を鼓舞していた。この話しに煽られて祖国と自由のためとわれさきにと志願兵となった学生たちは、かつて彼らの地域の郵便配達夫であった軍曹にいきなり「今まで学んできたことは全部忘れろ、夢も忘れろ、兵隊として一人前の男にしてやる」と一喝され、意地の悪い猛訓練を受けた。泥のなかでの匍匐前進などの訓練を経て、ポールたちは補充兵として前線に送り込まれ、鉄条網の敷設にあたった。ここで敵の襲撃を受け、仲間が一人死ぬ。次いですぐさま戦線の部隊に入れられ、実戦にかりだされた。食糧は不足、非人間的な扱いは日常茶飯事。生きた心地はなく、恐怖ばかりが現実を支配すると局面に遭遇した。戦場で同僚が一人また一人と倒れていった。友人の死も、人間のそれとしては扱われなかった。「ただの死体」と見られるだけであった。戦争とは一体なぜ起こるのか。兵士は敵と味方で個人的恨みは無い。結局、得をしようとするお偉方の喧嘩なのだ。そうだとしたら、ロープで囲ったなかで王様、大臣、将軍に棍棒をもたせて戦わせたらいい。それは兵士たちの声であった。

 ポールは白兵戦のなか、窪地のなかに飛び込んで来た敵のフランス兵にでくわすが、自分を守るために相手を刺し殺してしまった。うめき死んでいく男のポケットに家族の写真を見つけた。「許してくれ」と叫ぶポール。ポールは戦争の無意味さ、惨めさ、怖さを知った。休戦で故郷の学校に戻ると例の老教師に「祖国のためにつくすことの意味を生徒たちに伝えてくれ」と期待されたが、ポールはもはや「話せません、死は惨めで恐ろしい、国のためでも僕は御免だ」と叫ぶだけであった。病気の母、妹と過ごすひとときの休暇、だが戦闘意欲を煽ることしかしない学校、戦地の実状もしらず、無益なお喋りをしている人たちに愛想をつかし、ポールは残っている休暇を捨てて戦線に戻った。しかし、ポールはここで男らしくて優しい兄貴格の古参兵カチンスキーを敵機の爆撃で失った。疲れて塹壕に戻り、外を見ると眼の前に蝶がとまっていた。ポールは手をさしのべた。その時、敵兵による鋭い銃声が響いた。弾丸はポールにあたり、若い命は果てる。差し伸べた手が力を失い、死が暗示された。この日の戦況報告は「西部戦線異常なし」。

 休暇で家族のもとに帰ったおり、かつて妹と一緒に蝶を採集し、それが標本として飾られている部屋で二人が懐かしい過去を降りかえる場面があるが、ポールは最期の一瞬、そのことでも思い出したのだろうか? 反戦的な言辞が前面に語られるわけではないが、全編をつうじて戦争の悲惨さが見るものにひしひしと伝わってくる秀作である。第3回(1929年-30年)アカデミー賞作品賞、監督賞受賞。


フライド・グリーン・トマト(Fried Green Tomats) ジョン・アブネット監督、アメリカ、1991

2017-10-01 20:49:09 | 映画

          
 
1920年代から30年代の女性の友情と60余年後の老女と中年の女性の交流、そして老女の友情が現代の倦怠期のさなかにある女性の行き方を変えて行くという、興味尽きない映画である。二人の俳優、ジェシカ・タンディとキャシー・ベイツの絶妙な演技が印象的。

 中年女性のエブリン・カウチ(キャシー・ベイツ)は更年期が近く、体調が思わしくない。夫のエドは大の野球好き。帰宅してもテレビ観戦しながら夕食をとるのが習慣で、エブリンのフラストレーションは溜まっていた。自己啓発セミナーにも顔をだして活路を見出そうとするが、それもままならなかった。もともと太っているうえに、甘いものに目がなく、だらしなく食べては自己嫌悪におちいっていた。そんな彼女が夫のおばさんの見舞にいった老人ホームで偶然であった82才の老女ニニー(ジェシカ・タンディ)の昔話をきくうちに、生きる元気を取り戻し、ついには彼女を家にひきとって一緒に住みたいと夫に切り出す。

 老女の昔話とは、性格が異なる二人の女性の終生変わらぬ友情についてであった。舞台は1930年代前半のアラバマ州。ここにあった「ホイッスル・ストップ・カフェ」が全盛だった頃の話しである。タイトルの「フライド・グリーン・トマト」とは、このカフェのメニューにあった料理である。

 勝気な、男まさりのイジーと、心優しく敬虔なクリスチャンのルース。カフェを経営するのは、対照的な性格のこの二人の女性。白い壁、板張りの床、天井には扇風機、カウンターのショーケースにはパイ。屋外では使用人のビッグ・ジョージがバーベキューを焼く。

 イジーとルースは仲のいい友達であったが、悲しい過去があった。かつてルースはイジーの兄バディに心を寄せていた。その彼が列車事故で死亡した。イジーは兄のバディと一番仲がよく、他には使用人の黒人ビッグ・ジョージにしか心を許さなかった。心の支えを失ったイジーはふさぎこみ、親と口をきかなくなるが、ルースに慰められ、自分を取り戻した。ルースはジョージア州に住むフランクと結婚。ルースの結婚式に出席しなかったイジーは暫くたってルースの新居を訪ねたが、夫婦関係はうまくいっていない様子。精彩のない彼女の顔には、夫の暴力によるアザがあった。

 イジーは不幸なルースを夫から引き離しにかかった。だがこの時、ルースは妊娠していた。フランクから逃げる様にアラバマ州のイジーのいるスレッドグット家に引き取られたルースは、男の子を出産した。名前はイジーの亡くなった兄の名前をとって、バディとつけられた。生活のためイジーとルースは、鉄道駅の近くに食堂を開店した。「ホイッスル・ストップ・カフェ」であった。駅カフェはグリーン・トマトを揚げて出す料理、フライド・グリーン・トマトをメイン料理とし、人気があり、流行った。

 ある夜、ルースの別れた夫フランクは、子ども取り戻そうとルースの家に来た。フランクは彼の行動を止めに入ったスモーキーを殴りつけたが、シプシーにフライパンで頭を思いきり叩かれ意識を失なった。ジョージア州の保安官スムートが失踪したと思われたフランクの調査にやって来た。イジーとビッグ・ジョージにフランク殺しの嫌疑がかかり、法廷にたたされたが、証人にたった牧師の機転でこの事件の審議は却下となった。実はフランクを殺したのはビッグ・ジョージで、彼は意識を失って倒れたフランクの肉をバーベキューに使ってしまい、そのためフランクの行方が分からなくなってしまったのだった。映画にはそのことの暗示がある。その後、バディが鉄道事故で腕を失ったり、ルースが若くして亡くなったり、鉄道の廃線とともに駅カフェもさびれ、閉鎖された。

 果敢に人生を切り開いていったイジーとルースの話しをニニー(イジーを想起させる)はエブリンに気負うことなく淡々と語った。厳格な家庭に育ち、枠のはまった性格に加え、悶々とした生活を送っていたエブリンは、ニニーの話しに共感し、励まされた。「この世で一番大切なものは友」と言うニニー、「もうホラー映画のデブではない」と元気を取り戻したエブリン、二人の間に深い信頼関係が示されて映画は終わる。「見知らぬ老女の話に感動するエブリンの資質は、世間的な規範に縛られずに生きたイジーやルースの資質素のもの。『女は家庭』の中で埋もれていたその力を引き出したのが、家庭の枠を超えた女友だちの友情だった」。ニニーは実はイジーの兄のクレオと結婚、そして妹オディスを老人ホームで世話をし、彼女の死を老人ホームで見とったのであった。