【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

細谷博『太宰治』岩波新書、1998年

2008-06-30 00:08:03 | 文学
細谷博『太宰治』岩波新書、1998年

          太宰治 (岩波新書)  

 太宰文学の読み方の指南は野暮なようだけど,あえて著者はそれをかってでたと言う(p.5)。

 評論家の奥野健男氏にならって太宰文学を三期に分け,まず「すぐれて生々しい<語り>の実践」の「前期」,プロの作家として成長して行く「中期」,戦後の激しい社会変動の影響を受け新たな場所に踏み込んだ「後期」と追跡して行きます。

 太宰文学を特徴づけて著者は「軽み」「上手いキャッチ・コピー」「語りの巧さ」「美談の造形」「あそび」「やつし」などを指摘し,それらの背後にある「有頂天なりやすい性格」「自虐的体質」「道化による求愛」を摘出します。

 整った太宰治論です。かなり前に読んだ本ですが再読しました。

 深夜のラジオ番組で「爆笑問題」の太田さんが太宰をほめ,小説「晩年」を読めと強調していたのを切っ掛けに読んだ次第です。

司馬遼太郎『台湾旅行-街道をゆく-』朝日新聞社、1994年

2008-06-29 00:41:25 | 旅行/温泉
司馬遼太郎『台湾旅行-街道をゆく40-』朝日新聞社、1994年

            街道をゆく (40) (朝日文芸文庫) 

 李登輝総統がかくも偉大だったとは・・・・・。

 台湾は歴史的痛みをひきずってきた国でした。

 無主の国だった台湾。オランダが南部の港を占拠(1624),続いて明の鄭成功がオランダを駆逐(1661),鄭家の清朝への帰降後,清の版図に入る(1683)。明治維新後,日本政府が東部に進出(1874),清国が台湾を一省とする(1885),日清戦争で台湾は日本領に(1895)。

 日本時代は太平洋戦争での敗戦まで50年続く。爾後,中華民国となる。蒋介石(1975没),蒋経国(1988没)の乱暴な大陸系の統治があり,この間1947年に2.28事件が起こりました。

 1988年に漸く台湾人の李登輝が総統になりました。日本で学び,農学を専門とする学者であり,クリスチャンでもある人格者。絶妙のバランス感覚で,豊かな文明国をきりもりしていました。

 甲子園で準優勝した嘉治農林高校,戦前の日本で一番高い山は富士山ではなく新高山という話はよかったです。

 すぐれた紀行文です。

日本の12人の舞台女優

2008-06-28 00:15:07 | 演劇/バレエ/ミュージカル
関 容子『女優であること』文藝春秋社、2004年

            女優であること

 日本を代表する舞台女優に著者がインタビュー取材をしてまとめた本です。

 登場するのは「長岡輝子」「加藤治子」「丹阿弥八津子」「岸田今日子」「奈良岡朋子」「吉行和子」「佐藤オリエ」「三田和代」「冨士真奈美」「渡辺えり子」「波乃久里子」「富司純子」の12人。

 彼女たちの生い立ち、出自、舞台女優になって切っ掛け、所属した劇団のこと、団員たちとの交流、演劇にかける情熱、恋、家庭生活にまつわる話をたっぷり引き出して、上手にまとめています。

 舞台を愛し、女優に敬意を払い、そして文筆の力が結実した本です。

 文学座、俳優座、民藝、劇団四季のこと、芸名の由来の記述など面白く読みました。90歳をこえ、宮沢賢治の童話の朗読に意欲を傾ける長岡さんは、その人生経験が凄いです。与謝野晶子、堀口大學の授業を受けているし(pp.14-15)、ベルリンでマレーネ・デートリッヒの舞台を観ているし(p.21)、エノケンを知っています(p.27)。岸田今日子さんは作家の三島由紀夫との思い出を語っています(p.99)。奈良岡朋子さんの「イルクーツク物語」、佐藤オリエさんの「エリーダ~海の夫人」「ヘッダ・ガプラー」などは機会があれば観てみたいと思いました。

 文学座、俳優座、民藝、劇団四季などの劇団としての活動、演劇を志す娘を応援する父親の親バカぶり、など興味深いエピソードは盛りだくさんです。

藤原てい『流れる星は生きている[改訂版]』中央公論新社

2008-06-27 12:49:50 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
藤原てい『流れる星は生きている[改訂版]』中央公論新社、2002年

            流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)

 昭和20年8月9日、ソ連参戦。当時、満州の新京の観象台宿舎にいた著者は、観象台の同僚に非常召集を勧告され、夫と別れ小さな子ども三人(6歳の正広、3歳の正彦、生後1ヶ月の咲子)を連れて同地を後にします。

 奉天を経て宣川へ。さらに平壌、開城を通過、38度線を越えて、釜山着。そこから海路で九州の博多、そして故郷の諏訪へ。

 この長くて、辛い、引き上げの一部始終を克明に記録したドキュメンタりーです。

 40名近い団を組んでの逃避行の最中では、団員相互のトラブル、軋轢、飢餓、詐欺、瞞着、栄養失調、疾病、怪我の連続。死者も次々に。想像を絶する生き地獄、奈落の底での逃避行です。

 よくぞ生きて帰ってきたとの感が深く伝わってきます。

 生きること、故郷へ帰ること、子どもたちを守ることの執念に驚愕しました。

 表題の「流れる星は生きている」は、疎開団に来た金さんという人が口ずさんでいた歌の一節です。

榊原英資『インドIT革命の驚異(新書)』文藝春秋,2001年

2008-06-25 00:44:49 | 経済/経営
榊原英資『インドIT革命の驚異(新書)』文藝春秋,2001年

            インドIT革命の驚異 (文春新書)

 インドは1947年の独立から1991年の経済自由化まで、長く停滞した後進国でした。それはソ連型の重工業優先の国民経済の建設、社会主義を標榜した混合経済、閉鎖経済の国でした。公共企業の比重が高く、自前の産業を育成するため、さまざまな輸入規制を設定し、民間企業への規制、内向的な輸入代替政策という独自の路線を歩む開発独裁の国でした。

 しかし、この国は1991年に債務不履行(デフォルト)寸前の危機に直面し、路線の変更を余儀なくされます。外圧に押されるかたちで経済の自由化が進められ、踵を接してIT立国、ソフトウェアの輸出国に転換しました。新経済政策でインドは蘇ります。

 今では奇跡的にIT産業が成長、輸出が伸び、インドは成長への確実な離陸を遂げました。

 IT革命の中心都市バンガロール、ハイデラバードにはソフト会社が立ち並び、インドの優秀なソフトウエア技術者がアメリカのシリコンバレーで活躍しています。また、インドのIT化を牽引するのはウィプロ社です。

 1999年にはIT省(情報技術省)が設立されました。絶対的な人口数、IT化に向けての産・官・学の連携、数学、計算分野でのインドの伝統的な強み、それらがうまくかみ合って今日のインドがあります。

 本書は、停滞から成長へのインド経済の跳躍の全貌を明らかにしています。もちろん成長の影には絶対的貧困があり、電力、通信などのインフラの立ち遅れ、など解決しなければならない問題は山積しています。そのことの指摘もしっかりなされています。

 最後に重要な問題提起もあります。冷戦構造が終結し、アメリカが経済の先頭にたっている感がありますが、その支配力には翳りがみられ(アメリカのヘゲモニーの終焉)、現在はたまたま先頭にいるだけ、これからは中国、インドなどを中心としたアジアが必ず台頭してくる、「鎖国国家」日本は「(アメリカを支える)ナンバー2戦略」を見直し、インドとの選択連携を視野に入れた外交戦略をとるべきであるとのこと。「そのためには、日本がアジアの多様で複雑な文化と歴史を自家薬籠中のものとし、多彩な外交を展開しなくてはならない」(p.211)と結論を述べています。

山田和夫『映画100年-映画が時代を語るとき』新日本出版社、1995年

2008-06-24 00:15:38 | 映画
山田和夫『映画100年-映画が時代を語るとき』新日本出版社、1995年

                

 1895年12月のリュミエール兄弟のシネマトグラフから100年間の映画の発展をたどっています。視野が大変に広いです。

 メリエスのトリックの発見,演劇的伝統に縛られた西欧の映画とそれから自由であったアメリカの映画など興味深い指摘があります。また「戦艦ポチョムキン」が映画史で果たした役割,ハンガリー革命のなかでの「映画国有化宣言」(1919年),トーキー化によるハリウッドの系列化,ナチス・ドイツ,スターリン体制,ハリウッド非米活動委員会の「赤」狩り,中国文化大革命のもとでの映画芸術退潮の教訓,ジェラール・フィリップの日本映画の評価,フランス,ソ連,ニューヨーク,ロンドンのヌーベル・バーグ,インド,ラテン・アメリカ,ベトナム,アフリカでの映画の発展,ウルグアイ・ラウンドとアメリカ映画界の野望についての論述など,実に詳しいのです。

 映画の発展が社会変革と密接に結びついていることがよくわかります。

 著者には2002年10月の中津川映画祭でお会いし,この本にサインをいただきました。

北杜夫『どくとるマンボウ回想記』日本経済新聞社、2007年

2008-06-23 00:46:13 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
北杜夫『どくとるマンボウ回想記』日本経済新聞社、2007年

             どくとるマンボウ回想記

 先日、北杜夫さんが『徹子の部屋』に娘さんと出演していたのを録画で見ました。久しぶりに姿を見たのですが好々爺になっていました。

 この本でももうそろそろこの世とおさらばする、ということを書いています(p.222)。マンボウ氏一流の言い回しですね。「老年のせいか、・・・幼い頃のことがよく頭をよぎる」(p.216)とも書いています。

 「わが人生をふり返ってみて、さして満足もしないが、それほど後悔するわけでもない。なにより幸せだと思うのは、高校に入る頃から父をずっと尊敬し、これまた変わり者であった母をもまた好きであったことである。また、好きな文学の道を歩いてきて、何とか暮らせたのも幸せと言ってよかろう。さしてこれと言った仕事もできなかったが、それ以上をべつに望むことは全くない」(p.3)。ちょっと寂しいです。

 本書は「日本経済新聞」の「わたしの履歴書」に執筆した記事を中心にまとめたものです。文字通り、人生の回想記です。

 斉藤茂吉の二男として生まれ、育ち、人見知りで、じっとしていることが好きだった子どもが、旧制松本高校を経て東北大学医学部に入学し、作家として身をたて、躁うつ病に悩まされながらも、いい友人、先輩にめぐまれ、妻、娘、孫に囲まれ、今、幸せに過ごしています。

 自作について語っている箇所があり、「楡家の人々」、「幽霊」「木精」「白きたおやかな峰」「輝ける碧き空の下で」に愛着をもっているようです。それと「どくとるマンボウ航海記」と「茂吉四部作」「怪盗ジバコ」。そのうえで「わたしの文学の特色は、一つは抒情性であり、もうひとつはユーモアである」(p.119)と記しています。

 子どもの頃からの豊富な写真(35葉+自著の写真3葉)、最後に奥さんと向かいあった写真があり、ほほえましく拝見しました。

日本文化についてはばひろく議論

2008-06-21 01:00:00 | 地理/風土/気象/文化
『おっとりと論じよう(丸谷才一対談集)』文藝春秋、2005年

            おっとりと論じよう―丸谷才一対談集

 日本文化についてテーマを設定して丸谷才一さんがそれぞれのテーマに相応しい識者と縦横に議論をしています。

 「桜うた千年」では岡野弘彦氏、大岡信氏と、「夏目漱石と明治の精神」では山崎正和氏と、「言葉は国の運命」では井上ひさし氏と、「『昭和二十年』を語ろう」では鳥居民氏、井上ひさし氏と、「新しい勘三郎の時代」では中村勘三郎氏、関容子氏と、「日本美100」では鹿島茂氏、三浦雅士氏と。

 桜をうたった短歌を「待花」「初花」「見花」「曙花」「夕花」「月花」「惜花」「落花」に分けて古くからのすぐれた歌を撰んでいる「桜うた千年」。「ま荻散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく(永福門院)」を褒めて丸谷さんが「うまいよね。・・・やっぱり自然は藝術を模倣するんだな」(p.33)と言っているのが印象的でした。

 「工業主義をさっぴいた近代文明」と「近代人の不安、諦観」との両極によって引き裂かれていた漱石は、同時に近代日本語を完成させた作家でもあったことを確認している「夏目漱石と明治の精神」。ここでは「国語」というのは上田万年(カズトシ)が作った言葉ということを知りました(p.74)。

 日本語の語感を大切にしたいという思いを共有しつつ、昨今の政治家の言葉の貧困、昭和天皇の貧しい言語能力(p.105)と日本人の議論べたを指摘する「言葉は国の運命」。(付記:「もののあはれ」の「もの」とは、大野晋氏によれば、「道理」のことだそうです)[p.118]。

 鳥居民著『昭和二十年』(草思社)が昭和二十年の日本を対象とした歴史書でありながら、空間的には世界中を駆け巡り、時間を超えた実証が行われ、政治家、諸階級、人民のいろいろな思いが込められた類書にない出来栄えのものであることを教えてくれた「『昭和二十年』を語ろう」。

 勘三郎襲名から新しい歌舞伎の可能性を展望した「新しい勘三郎の時代」。

 最後に日本の美を代表するものを文学、美術工藝、映画、漫画、風景、祭り、藝能、その他から100を選んだ鼎談が「日本美100」。
 3人が日本の美を象徴する候補を100づつもちより、計300の候補を200に絞り、10点10項目、9点10項目・・・の持ち点で評価し点数が高いものからランキング。満点30点は「源氏物語」、29点は「平家物語」「奥の細道」「歌舞伎・仮名手本忠臣蔵」。興味深いところでは「万葉集]が14点で38位。「大相撲」が11点で53位。「北海道・積丹半島の神威岬」が8点で77位。

昭和の怪物伝

2008-06-20 00:20:52 | 評論/評伝/自伝
大宅壮一『昭和怪物伝(新書)』角川書店、1973年

           昭和怪物伝 (1957年)

 著者は「怪物」を次のように定義しています、「・・・怪物は一定の外的状況に対して、その反応を予期することのできない人間のことである。怪物は単なる悪党ではない。むしろ善人ではない。両方の面を具えているというよりも、見る人によって、どちらともとれるようでなければならない。・・・もっとわかりやすくいえば、要するに怪物とは”一筋縄ではない”人間のことである」(pp.7-8)、「・・・”怪物”とは、一口にいうと、平凡人の頭では簡単に因数分解できそうもないようなメンタリティをもった人物のことである。したがって、善人とか悪人とかいう道徳的な基準によったものではない」(p.297)と。

 登場する人物は・・・
・ 久原房之助(実業界[久原商事、久原鉱業]から政界へ進出した怪獣)
・ 三木武吉(河野一郎(政界の要職を歴任し、日ソ魚業交渉、日ソ国交回復交渉で辣腕をふるった大人物)
・ 平塚常次郎(北洋漁業を一手におさめた日本水産界の大立物)
・  馬島(産児制限、日ソ交渉の脚色演出家、明るく解放的な黒幕)
・ 藤山愛一郎(肩書きがゴマン、金と力の人間)
・ 佐藤和三郎(バルブ株で大当たりの相場師で兜町の名物男)
・ 水野成夫(獄中転向→仏文に造詣深く→フジテレビ社長)
・ 阿部真之介(善良な毒舌家で恐妻家)
・ 下中弥三郎(「平凡社」を創設したアジア主義のアナキースト)
・ 谷口雅春(宗教株式会社「生長の家」の教祖)
・ 東郷青児(「二科の総統」で宣伝のためには手段を選ばぬワンマン画家)
・ 勅使河原蒼風(マス・コミを最大限に利用した草月流の稀代の演出家)
・ 岡本太郎(画壇の異常児)
・ 森繁久弥(育ちよく、サービス精神おおせいなセミ・プロ的芸人)
・ 石橋湛山(ジャーナリスト出身で強情、非妥協的な反骨の政治家)。

 昭和30年に『文藝春秋』に連載されたものを中心にまとめられた人物評論です。

 著者自身も、怪物的ジャーナリストです。

マガジンハウス編『写真集 原節子』マガジンハウス、1992年

2008-06-19 00:41:55 | 映画
マガジンハウス編『写真集 原節子』マガジンハウス、1992年
           08021705

 1930年代半ばから60年代半ばまで日本映画に咲いた大輪の花・原節子。

 伝説の女優ともいわれますが,わたしにとってはまさにそうでした。というのもこの女優の名前は知っていましたが,彼女の登場する映画を観たのは今世紀に入ってからです。

 この本のなかで中野翠さんが書いていますが,わたしも最初は「原節子」ってそんなに美人?と思いました。「何と言っても顔が重い! どちらかというと男の顔である。」(中野翠「美貌と知性」)。

 でも,中野さんと同じように彼女の作品を数々観ますと,存在感の大きい大女優であり,もうこのような女優は日本に今後二度と出ない,それほど凄い女優だ,と思うようになりました。

 わずか,「42才で別に引退宣言するでもなく,ひっそりと映画をやめ,・・・そしていま,彼女は殆ど伝説の人である」のです(佐藤忠男「原節子の魅力」)。

 素敵な写真がたくさんおさまったこの本。お宝物です。


     

地井武男『ちい散歩・地井さんの絵手紙』新日本出版社、2008年

2008-06-18 00:31:24 | 旅行/温泉
地井武男『ちい散歩・地井さんの絵手紙』新日本出版社、2008年

           ちい散歩地井さんの絵手紙 / 地井武男/監修

 俳優の地井武男さんの東京散歩です。「風」「絆」「伝承」のカテゴリーでまとめられています。

 歩いた箇所は、浅草、千駄木、柴又、永福町、向島、広尾、四谷、蒲田、代々木上原、自由が丘、戸越銀座、葉山、横浜~山手、白金、護国寺、浦安、北千住、高田馬場、下高井戸、下北沢、調布、高輪、白山、高円寺、田端、千歳烏山、上野公園、御徒町、茗荷谷、浅草橋、小金井公園、用賀、錦糸町、砂町、芝公園、人形町、駒込、亀戸、小岩。

 「テレビ朝日」の朝10時のこの番組をたまに見ることもありますが(今もこの番組は続いています)、この本に掲載されている頃
(2006年4月~2007年3月)には、わたしはこの番組の存在を全く知りませんでした。

 見開きでスポットの地井さんの文章で紹介され、地井さんの水彩画がついています。楽しいです。しかし、わたしの未知の地域(行ったことがない)が断然多いです。魅力を感じます。

 地井さんは小学校低学年の頃に親から絵を習わせられたとのことです。俳優だけに撮影所に強い思い入れが感じれます。石原裕次郎は「永遠の太陽」とか(p.31)。

 そして旧い東京の臭い、風情、人情が好きで、現代のビルとの相克を嘆いています。白金の「自然教育園」はいいらしいです(p.34)。相撲も好きなようです(p.54)。「田端文士村記念館」は懐かしく読みました(p.59)。

 6月8日(日)、新宿の紀伊国屋(南店)で地井さんのサイン会でこの本をもとめました。がっちり握手して帰ってきました。

石光眞清『望郷の歌』龍星閣、1985年

2008-06-17 00:19:47 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
石光眞清『望郷の歌』龍星閣、1985年

 著者の体験にもとづく手記です。「城下の人」「曠野の花」とともに3部作になっています。「この三著は著者が自ら体験した事件と生活記録で、人生の機微にふれてあますところないが、同時に著者が生きて来た『日本』自らの生活史」であるとのこと。「もともと発表する意思で書かれたものでなく、死期に臨んで著者自ら焼却を図ったものである」とあります。


 内容は・・・・
 日清戦争から帰還して10年、日露開戦で満州から東京赤坂の家族のもちに戻った途端、再び召集。日露戦争に従軍し、壮絶な戦闘を経験。遼陽、沙河の凄惨な死闘。敬愛する橘大隊長の死、臼杵大尉の自殺。難攻不落といわれた旅順陥落。凄まじい戦闘ではどちらが勝っているかわからない(p.71)という状況のなかで日露休戦条約締結、満州から引き上げてきたが、よい仕事に就けず紹介で再び満州へ。ここで海賊会社を創立、海上保険公司を企むが失敗。放浪の生活を余儀なくされる。不本意なまま帰郷、運よく世田谷で郵便業に就き、ようやく得た幸福を家族とともに味わう。

 表題の「望郷の歌」とは、放浪生活から戻って、生まれ故郷の熊本で百姓をして暮らしたいという強い願望をもった時期のことのようです(この夢は母の強い反対で実現せず)。ハレー彗星到来の国民の慌てぶりが率直に書かれています(pp.254-257)。

 国家への忠誠と良心への忠実さの結果、歴史の波に揉まれて、波瀾と曲折の人生を歩んだ著者の筆は抑制があり、淡々としています。いささかのケレンもありません。

オサケにまつわる話が満載

2008-06-16 00:16:06 | 居酒屋&BAR/お酒
椎名誠『ひとりガサゴソ飲む夜は・・・』角川書店、2005年

              ひとりガサゴソ飲む夜は・・・・・・

 夕刊フジに連載されていたコラム記事(2002年7月~2004年6月)を一冊の本にまとめたもの。

 エッセイですがどの話もオサケと肴とそれにまつわる文化、生活に関するものばかりです。読んでいて酔ってきます。

 ビールが主ですが日本酒、焼酎、ウイスキー、泡盛、ワインはもとより、ウオトカ(ロシア)、ピンガ(ブラジル)、ピスコ(チリ)、ジン、テキーラ(メキシコ)、老酒(中国)、マオタイ(中国)、チャン(チベット)、馬乳酒(モンゴル)、ロキシー(ネパール)、ボウモア(アイラ島)、マッコロリ、ラオラオ(ラオス)などありとあらゆるお酒がでてきます。

 またゲテモノを酒とともに食べています。猿、蛇、コブラ、クモ、ゴライアスガエルという体長30センチの蛙、ゴカイ、モグラ、カラス、ネズミ、コーモリ、トカゲ、等々(このあたりp.172 参照)。

 そして世界中を、日本中を旅してまわっています。

 さりげないユーモア、ナンセンスなものも含めて幅広い知識が感じられます。

 著者はもともと肝臓は強いらしいですが、長年の蓄積で尿酸値が高くなっているので肝臓守備隊三銃士(セサミンEプラス[サントリー]、純海[ハーバー研究所]、ウコン)の世話になっているとのこと。

トルコの名ガイド

2008-06-15 15:41:33 | 旅行/温泉

 昨年、トルコに旅行したときに、付き添ってくれたガイドさんが日経新聞コラムに紹介されていました。このガイドさんは大変に知識が豊富なばかりでなく、トルコを愛し、いい国にしたいという思いを全身から発散させていて、それが全然鼻につかず、誠実で、人間的にあたたかな人でした。この記事をみて懐かしく思い出しました。この短い記事に書いてある、そのままの人です。

「交遊抄」トルコの案内役    (高橋秀夫:クラブツーリズム名誉会長)

 二ハット・オズチュブクチュウ氏に出会ったのは1988年。近畿日本ツーリストの部長時代、トルコを視察で訪れたときだ。二十歳年下の現地ガイドだったが、5日間、朝から晩まで一緒にいてこれほど気持ちのいい案内役は初めてだった。アンカラ大学で考古学を専攻した彼はトルコの歴史や文化に精通し、ガイドとしては抜群に話がうまい。しかしそれ以上にトルコ観光の将来を思う気持ちや人を思いやる誠実さに魅せられた。2ヵ月後、彼は突然わたしを訪ねてきた。日本の旅行業の現場で学ぶよう勧めたのだが、決断の早さと行動力には驚いたものだ。帰国後は観光振興に尽力し、94年にはトプカプ宮殿を会場とした大イベント「ジャパンフェスティバル」を見事に成功に導いてくれた。後で聞いたのだが、彼は来日当初、日本語がわからないために封書の切手はりの仕事を与えられ、その単純作業に意味を見出せずに帰国を考えたという。今では切手はりを通じて日本の文化に引かれ、封書が顧客をつなぐことを学んだと懐かしんでくれる。今でも年1回は会っている。日本の父親と慕ってくれるが、彼の真摯な姿勢に毎回学ばされているのはわたしの方である。
                      (日本経済新聞・2008年5月29日朝刊)

                     トルコの国旗


魂の弁証法 三田誠広『エロイカ変奏曲』

2008-06-14 12:19:30 | 小説

三田誠広『エロイカ変奏曲』角川書店、1982年

         

 ベートーヴェンの作品として「エロイカ変奏曲」があります。正式の名称は「プロメトイスの主題による15の変奏曲とフーガ」。この曲の構成、内容を軸にしながら、男女の愛の葛藤を「魂の弁証法」として編んだ小説です。

 筋はおよそ以下のとおり。
 2度の離婚暦がある美貌の女性ピアニスト真木五月(26歳)に手塚トキオというライターがインタビューで、彼女の本をもとめるという企画がもちあがります。五月は最初オーストリアの指揮者とそのあと日本人の若いバイオリニストと結婚、そして離婚。現在、畑山祐一郎という物理学者と恋愛関係にあります。

 手塚は五月の成功潭ではなく、内面の孤独をひきだそうとします。インタビューの過程で、手塚は五月に「エロイカ変奏曲」に込められた「魂の弁証法」(明るさ、力強さ、そして美しさ、そういった陽性のイメージと、不安、不気味さ、恐怖といった暗いイメージとの結合)を、また「芸術にとりくむ姿勢」を教えられます。

 15の変奏曲の構成を借用しつつ、男女の愛、芸術と物理学との葛藤を「魂の弁証法」になぞらえ、「宿命」を予感しつつ、エンディングへ。その結末は???

 著者の三田誠広氏は、『僕ってだれ』で第77回芥川賞を受賞しています。