【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

伊籐セツ『[増補改訂版]クラーラ・ツェトキーン-ジェンダー平等と反戦の生涯-』(御茶の水書房、2018年)

2018-10-13 16:44:30 | 科学論/哲学/思想/宗教
     

 わたしの大先輩にあたる著者からいただきました。文字通り、重厚な大著です。読み通すのは大変ですが、まず、ここに紹介します。

・序章
<第Ⅰ部:おいたち・青春・亡命-ヴィーデラウ・ライプツィッヒ・パリ(1857-1890)>
・第1章 少女時代-ヴィーデラウ村
・第2章 青春-ライプツィッヒ
・第3章 亡命-パリでのオシップ・ツェートキンとの生活
・第4章 パリで亡命時代の文筆・演説活動(1857-1890)

<第Ⅱ部:ドイツ社会民主党と第2インターナショナル-シュツットガルト時代(1891-1914)>
・第5章 シュツットガルトでの生活と活動-フリードリヒ・ツンデル/ローザ・ルクセンブルクの出現
・第6章 ドイツ社会民主党の女性政策とローザ・ルクセンブルクとの交友
・第7章 『平等』の編集・内容の変遷、リリー・ブラウンとの論争、クラークの追放
・第8章 第2インターナショナルの女性政策とのかかわり
・第9章 「国際女性デー」の起源と伝搬-米・欧・露、その伝説と史実と-
・第10章 アウグスト・ベーベルの『女性と社会主義』-没後100年に寄せて-

<第Ⅲ部>戦争と革命
・第11章 世界大戦・ロシア革命・ドイツ革命と女性
・第12章 ドイツ共産党とコミンテルンの間で
・第13章 レーニンとクラーラの、「女性問題」と「3月行動」に関する対話
・第14章 レーニン時代のコミンテルンと国際女性運動
・第15章 スターリン時代への移行期のコミンテルンの女性運動のなかで
・第16章 晩年:私的・公的葛藤のなかで

・終章

・あとがき

・補章
1.旅
2.第20回(2013年)社会政策学会学術賞と本書への8本の書評
3.クラーラのはじめての手紙集の出版によせて
4.クラーラのローザ宛、1918年11月17日付け手紙について
5.2017年クラーラ・ツェトキーン生誕160周年、そして未来へ

 

水田珠枝『女性解放思想の歩み』岩波新書、1973年

2013-08-21 22:16:39 | 科学論/哲学/思想/宗教

           

  ルネサンスから現代までの女性解放思想の歴史をあとづけた試論。試論といっても、かなり本格的である。


  著者の視点は、自身が語っているように、女性問題を労働と性の矛盾の問題、そしてその矛盾を固定し、制度化した家族制度と、それにささえられた階級社会の問題としてとらえたことにある(p.204)。

  本書を通読してわかったこと、再確認したことは、この分野の研究がまだまだ貧しいこと、未開拓分野がたくさんあること、女性の人類史上における従属的地位の根源は、家父長的封建制度にあること、あるいは家族制度にあること、これらは歴史のなかで微妙に形をかえながらも一貫して存在していて、そこにメスをいれないと女性解放の問題、生活資料tの生産と生命の生産との矛盾は根本的に解決しないこと、過去に起こった女性解放運動は断片的で、継続性がなく、それゆえに根本的な変革につながらなかったこと、人間の平等をめざした思想(例えば、ルネサンス、フランス革命、社会主義)の担い手も女性に対しては不当に現状を是認する考え方、女性をおとしめる考え方から自由でなかったこと(ルソー、プルードンなど)、女性解放運動は具体的には参政権運動、売春禁止運動などで展開されたが、それが対象とする分野は広く、民法上の諸権利の要求、教育の機会均等の要求、母性保護の要求、性の自由の要求、労働に関する要求など、非常に広範であり、このことが意味することは、女性解放に関しては現在にいたるも問題はほとんど何も解決していないこと」などである。

  わたしは、この関連分野の古典は、エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」(1884年)、ベーベル「女性と社会主義」(1879年)、シモーヌ・ドゥ・ボーボワール「第二の性」(1949年)くらいしか知らなかったが、この本で紹介されている古典の豊富さに驚いた。ルソー批判のウルストンクラフト「女性の権利の擁護」(1792年)、ヴィオラ・クライン「女性-イデオロギーの歴史」(1946年)、ペティ・フリータン「女性の神秘」(1963年)、ファイアストーン「性の弁証法」(1971年)、グールストレム編「男性と女性の変化する役割」(1962年)、イーヴァ・フィグズ「家父長的態度」(1970年)、ジャーメイン・グリア「去勢された女性」(1970年)、シーラ・ローボサム「女性、抵抗および革命」(1972年)、ジュリエット・ミッチエル「女性の地位」(1971年)などの内容を知ることができ(この他、マリ・ドゥ・ジャル・ドゥ・グルネ、フランソワ・プーラン・ドゥ・ラ・バール、フェヌロン、メアリ・アステルなどの16、17世紀の古典の紹介も豊富)、著者には感謝したい。

  これらの本の紹介は、ルネサンス、宗教改革、市民革命、産業革命、資本主義の発展、ロシア革命、ファシズム、そして現代までの歴史と関連させながらなされているので、わかりやすく、説得である。岩波新書のなかでも名著に属すると思われる。


大塚久雄『社会科学の方法-ヴェーバーとマルクス-』岩波新書、1966年

2012-11-12 00:01:08 | 科学論/哲学/思想/宗教

         

  30数年ぶりの再読。

  社会科学の方法とは、どのようなものかを、マルクス、ヴェーバーの所説を丁寧にパラフレーズした本。「方法」という用語がつかわれているが、その内容はもう少し広く、「方法」の周辺にあるものも取り入れてある。1969年代に行われた講演をおこして印刷物になっていたものが一冊に編集されている。


  マルクス、ヴェーバーの理論に関わる多くの誤解を解きほぐすこと、ヴェーバーの見地を紹介すること、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」から当時のイギリスの社会を浮き彫りにすることなどが、最初の「社会科学の方法-ヴェーバーとマルクス-」の内容の眼目である。

  著者は『資本論』を読み込んで、マルクスが価値形態論などで物と物との関係を論じながら、あるところにまでその論述が進むと人間と人間との関係を登場させ、この過程を繰り返して一歩一歩具体的人間の姿を表象していこうとしている姿勢に共感をもっているようである。マルクスとヴェーバーの理論には意外と重なる部分がある。この点も著者が強調していることである。マルクスは社会構成体の土台(生産的諸関係)に重きをおいていたのは事実だが、上部構造の自律性を承認していたふしがある。ヴェーバーも経済的利害関係の規定的役割を認めていた。しかし、どちらかと言うと文化的領域の役割の解明に研究の重点があった。

   「ヴェーバー社会学における思想と経済」ではヴェーバー宗教社会学が宗教(思想)と経済との緊張関係が展開されているとし、そこにおける3つの柱を理念、内的-心理的な利害関係、外的-社会的な利害関係とにみ、理念と利害状況の緊張が利害状況のなかへ影を落とすと、それは内的-心理的な利害関係、外的-社会的な利害関係との緊張関係としてあらわれ、これが現実の歴史世界のダイナミックスの要素となるという示唆を与えている。

   「ヴェーバーの『儒教とピューリタニズム』をめぐって-アジアの文化とキリスト教-」では、文字どおり、儒教、道教を中心としたアジアの宗教西欧キリスト教に備わっている共通性(二重構造)と差異性が論じられ、それぞれの地域の社会構造に与えた影響、果たした役割を解説している。

   「経済人ロビンソン・クルーソウ」で著者は、デフォーが『漂流記』で描こうした対象、すなわち当時のイギリスの国富と未来をを担っている人(中産者的生産者層)々の生活様式を明らかにしている(その対極でジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』でかれらの闇の部分を描いたことを指摘)。経済人ロビンソン・クルーソウは、その頃大量に見出された経済的に合理的な行動をする人間の典型(金儲けだけが上手な単なる企業家でなく、もっと高いヴィジョンをもつ「経営者」)だったとのことである。

  若いころ読んだ時の傍線がかなりあった。いいところに線を引いているところもあれば、読み落としていたらしいところもあった。いい読書追体験だった。


寺内大吉・永井路子『史脈瑞應-「近代説話」からの遍路-』大正大学出版会、2004年

2012-03-18 00:32:31 | 科学論/哲学/思想/宗教

 「慟哭の明治仏教」「化城の昭和史」(以上寺内大吉著),「氷輪」「雲と風と」(以上永井路子著)を読んでみたいと思う気持ちを背中から強く押してくれる本です。

 ふたりの直木賞作家が生い立ちから「近代説話」に集うまでを自己紹介し,かつ文学をとおして歴史と仏教を語り合っています。

 日本の歴史に疎いわたしは,ふたりの知識の豊富さに驚かされました。興味深かったのは,路子への叔父三郎の影響,「近代説話」同人の活動,受戒,法華セン法などの仏教用語。

 仏教の側から歴史,現代史を読み解く仕事は重要かもしれません。仏教が葬儀だけにかかわるのではなく病める人を癒す役目があり,もっと積極的に後者を自覚すべきという永井さんの指摘は有意義でした。


橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社新書、2011年

2011-10-22 00:09:04 | 科学論/哲学/思想/宗教

                            ふしぎなキリスト教

 本書はキリスト教についての対談集ですが、通読してキリスト教について体系的に理解することができました。大澤さんがいろいろな疑問(素朴な質問、専門的な質問)を橋爪さんに向けるという形をとっています。質問が的確だし、回答が丁寧、比喩もつかってわかりやすいです。

 学んだことをいくつか箇条書きします。ユダヤ教とキリスト教との違いはない(一神教)、ほとんど同じ、違うところはキリストがいるかどうか(預言者がいらなくなった)、だけとのこと。
 Godと人間は「契約」(「条約」のようなもの)で結びつくよそよそしい関係、しかしキリストは「愛」をのべて大転換が起こったそうです。
 原罪とは「人間の存在自体が間違った存在」だということ、行為に先立つ存在の性質を言います。神の契約を守れない人間は、キリストを救い主だと受け入れることで特別に赦されたのです。
 この世が不完全なのは楽園でないからであり、それが人間に与えられた罰です、そのような不完全な世界で神の意志に反しないようにつとめていくのが彼らの役目、信仰とは不合理なことをあくまでも合理的に、つまりGodとの関係によって解釈していくこと、試練とは現在を将来の理想的な状態への過渡的なプロセスと受け止め、言葉で認識し、それを引き受けて生きること。
 偶像崇拝が禁じられているのは、それをつくったのが人間だからです。また、イエスが処刑されたのは神の子となって神を冒瀆したからですが、罪状の認定はかなり微妙らしいです。というのはイエス自身は自分を神の子とはおもっていなかったからです(正当な裁判があったかどうかも怪しいところである)。
 他にとくに興味を引いたのは、キリスト教には神の法(その一部が自然法)を認めており、これは宇宙をつくった設計図で、人間はこれを理性によって発見できる(数学、論理学として)ことになっている点です。
 また東方教会(ギリシャ正教)と正方教会(ローマ・カトリック)への分裂でキリスト教の役割が大きく異なることになり、前者では世俗の権威(皇帝)と宗教的権威(教皇)とが一元化されたようですが、後者では分裂しました。
 また前者では聖書(旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれていた)の翻訳が認められましたが、後者ではそれが認められなかったことも、キリスト教のふたつの流れに大きな影響を与えたようです。

 本書を読んでキリスト教への大きな疑問のいくつかが氷解しました。

 付言すると、Amazonのレビュー欄では本書に対する読者の反響が大きく、低い評価を与えている人もかなりいます。それらに耳を傾けると、本書にはキリスト教に対する誤った理解、間違いがあるようです。わたしは聖書をまともに読んだことがないし、クリスチャンでもないので、著者たちが聖書やキリスト教について一部誤解しているとの見解については、その当否を見極めれません。ただ、上記でわたしが本書から学んだこととして書いた点にかかわる否定的コメントはなかったようです。


瀬戸内寂聴・梅原猛『生ききる』角川新書、2011年

2011-10-12 00:09:02 | 科学論/哲学/思想/宗教

          
 1000年に一度、あるいは未曾有の大地震が東北三陸海岸を襲ったのが今年の3月11日(昨日で7カ月)。これを契機に何かしなければと思った人たちはたくさんいるのだが、梅原猛さんは瀬戸内寂聴さんに声をかけ、いま言わなければならないことを話し合う一世一代の対談を申し出、それを本にし、印税は全て被災地支援にと提案しました。

 その頃、寂聴さんは療養中で、呻吟していましたが、この提案を「身悶えする」ほど喜んで受けました。身体は回復しました。

 寂聴さんは東北に縁があり、得度したのが中尊寺で、その後岩手の古刹天台寺に晋山しました。梅原さんは仙台で生まれ、やはり東北の漁民の血をひいているといいます。

 寂聴さん90歳、梅原さん86歳の対談がこうして成立しました。

 該博なおふたりゆえ、対談の内容は濃いです。人生論、哲学、仏教論、日本文化論、源氏物語論など広範囲です。古事記、日本書紀、能、文学、観阿弥、世阿弥、法然、親鸞、人形浄瑠璃、西田幾太郎、保田与重郎、ハイデガー、ラフカディオ・ハーン、岡本太郎、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などのキーワードが自由自在に出てくる面白い対談です。(梅原さんの思想には同意できないところもありますが、ここではそれを問わないことにします)

 今回の福島原発災害は「人災」「文明災」というのが共通認識です。原発はそく廃止すべしと訴えています。

 仏教の力を説くのは寂聴さん。亡己他利(もうこりた)の考え方、遊行僧(行基、空也、一遍)の救済事業に仏教の原点を見ています。梅原さんは以外にも(失礼)、中曽根内閣のときに「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」のなかで靖国神社への公式参拝にずっと反対していたそうです(pp.182-183)。

 梅原さんは震災を契機に初めて「愛国者」になったと話しています。

 わたしがかねてから疑問に思っていた源氏物語の現代語訳、すなわち与謝野源氏、谷崎源治、円地源氏、瀬戸口源氏のそれぞれの違いについて、寂聴さんは要約してくれていて、勉強になりました(pp.128-130、pp.140-143)。

 結論のようなまとめはありませんが、推して測るには、日本が「カネ」と「モノ」に目に眩んだ国になってしまったので、一昔前のように心、思いやり、利他が「よみがえる」国にしなければならない、どん底に直面しているが、かならず立ち上がれる、正直な人が生きていける日本になってほしい、と落ち着きました。


高木仁三郎『市民の科学をめざして』朝日新聞社、1999年

2011-06-21 00:02:49 | 科学論/哲学/思想/宗教

                      
  科学の内容、在り方を市民サイドで考える「自前の科学」「市民の手による科学」を提唱し、独特の科学論を編み出し、実践した高木仁三郎が死の直前に刊行した本です。                    
 本書によると高木学校が「市民の手による科学」の「場」になるはずでしたが、たちあげ直前に高木は病気で入院し、手術。学校は頓挫の危機に直面しましたが、共感をもつ人々の熱意によって学校はスタートしました。その経緯、学校設立のさいの様子は本書の最後の部分「おわりに 『市民の科学』のこれから-高木学校によせて」(「次の世代と結ぶ」「学校が始まった」)に詳しいです。

 この学校は現在も健在で、市民サイドの精力的な科学研究活動、成果の広報活動を行っています。

 本書の第一部では「市民の科学」として専門化批判の組織化の必要性が唱えられています。すなわち原子力や環境問題などすぐれて専門的知識が問われる分野では自称、他称の専門家が幅をきかせていて、素人は議論に入り込む余地がありません。また批判できる能力をもった研究者は孤軍奮闘しているものの、それゆえに大きな力になりにくいのが現状です。専門的批判の組織がまたれるゆえんです。

 ドイツではそうした組織があり(フライブルク、ダルムシュタットのエコ研究所、ブレーメンのコラート・ドンデラー事務所など)、政府、産業界はその活動、見解を無視できないほどに成長しています。

 高木はドイツの例をひきつつ、すぐに同じレベルのものはつくれないとしても、この種の研究組織が喫緊の課題であるとしてオルタナティブとしての市民の科学を実現する「原子力資料情報室」を構想し、創始しました。本書の「第3章:原子力資料情報室」「第4章:プルトニウムと市民のはざまで」で、この組織を紹介しています。

 著者の言によれば「1975年に東京での原子力資料情報室の創設に参加し・・・そこでの仕事は、政府や原子力計画を批判的に検討し、きちんとした根拠に基づいて、原子力問題に関する情報と見解を一般の人人々に理解しやすいかたちで提供するというものでした」ということになるのです(p.75)。

 「第二部 市民にとってのプルトニウム政策」では、原子力研究の専門家である高木が、プルトニウムとは何かから始めて、政府の原子力利用の長期計画の問題点、高速増殖炉の危険性、プルサマール計画の内容(二酸化プルトニウムを二酸化ウランと結合して燃結したいわゆるMOX燃料を通常使われている沸騰水型および加圧水型の軽水炉で燃やす計画)、諸外国のプルトニウム政策の実践について論じています。

 さらに、この部の前章での議論の延長で、第2章ではプルトニウム軽水炉利用の中止(根拠はプルトニウムそのものの危険性、MOX利用が核拡散を促進すること、核テロリズムの脅威が存在すること、など)を指摘しています。


小出裕章「原発のウソ」扶桑社、2011年

2011-06-20 00:04:36 | 科学論/哲学/思想/宗教

               原発のウソ
 福島原発事故後、関係書が普及しているようですが、これまでは事故前に出版されたものが大半でした。最近、事故後の経過をふまえた関連書籍が刊行されるようになってきました。本書はそのうちの一冊です。

 「第1章:福島原発はこれからどうなるのか」では、政府、東電の公表データが遅く、誤りが始終あることに苦言を呈しています。データの迅速で、正確な開示と提供は不可欠です。そのうえで、今回の事故はいわば「地球被曝」であり、もしかすると環境汚染の規模でチェルノヴィリを超えるかもしれない危険性を孕んでいること、作業員の悪化する被曝環境が懸念されること、連鎖的メルトダウンが発生し、歴史上経験のない大惨事という最悪のシナリオを覚悟しなければならない状況であることが書かれています。

 予断が許されない状況なのには、早くも「何とかなるのではないか」という楽観論がでています。不思議な国です。

 別の章「第3章:放射線から身を守るには」
では、症状が出始める最低被曝のしきい値などはなく(「直線、しきい値なしモデル」)それくらい放射線は恐ろしいものであること、文科省が福島県下の学校に示した子どもの被曝の安全基準が甘すぎること、汚染された農地の再利用が不可能であること、などが記述されています。

 事故が起きた場合の莫大なコスト(原子力損害賠償法の設定では1200億円[2009年])、高速増殖炉は破綻確実であること(1kWも発電していない「もんじゅ」に既に一兆円を超えるカネを投資)、原子力利用になって高くなる電気料金(コスト負担に耐え切れず日本のアルミ精錬産業が潰れる)、貧弱なウラン資源、見通しのない放射性廃棄物の処分、これらの負担の大きさから判断すると、著者の言うように、原発廃止は必然の理です。

 原発を止めても支障はなく、代替エネルギーの開発に投資することが賢明という著者の提言は、即刻実現にうつすべきです。

 それでも、国民が請け負わざるをえない「負の遺産」は大きすぎるのですから。


澤佳成『人間学・環境学からの解剖-人間はひとりで生きてゆけるのか-』梓出版社、2010年

2010-12-21 00:13:19 | 科学論/哲学/思想/宗教
  •                 人間学・環境学からの解剖
     未曾有の困難に直面し、混迷を深める現代社会、人間はこの現状のもとでどのように生きなければならないのか。この難しい哲学的な問題に正面から対峙し、問題の所在を解明(解剖)し、未来への展望を指示した本です。著者からの献本です。

     当然、取り扱われる問題は広範です。人間とはそもそも何なのか、生きることの意味、生きることと深く関わる自由、責任、義務とは何か。これらの問題を、抽象的にではなく具体的に論じていること、西洋の哲学者の書を読みこなして問題にアプローチしていることが本書の特徴です。

     例えば前者では水俣病とその裁判、ワーキングプア、格差と貧困、自殺、児童虐待、蔓延する自己責任論、世界的規模で進行する環境破壊などが取り上げられ、後者ではアリストテレス、へーゲル、ホッブス、ルソー、スミス、ロック、マルクス、エンゲル、ミルの自然観、人間観、社会観、哲学が検討されているといった具合です。

     問題を多面的に論じながら、生物学的なヒトが人間になるためには文化行為や人間相互のかかわり(社会性)が不可欠であること、ボランティア活動が社会性の回復に寄与する営為であること、自由の概念は時代の求めに応じて変遷があること、労働の意味を探求しながら疎外、所有、権利について考察していること、人間存在の生のありかたを破壊するものとして環境問題を根源的に解明していることがうかがえます。

     内外の新しい学説、考え方をとりいれていることにも配慮があり、小原秀雄氏の「自己家畜化」説(人間は文化や文明をつくり、そのシステムに身を投じることで自分たちの身をまもってきたが、現在はそのシステムに完全に依存する存在になってしまったという説)、平田清明の個体的所有論、瀧川裕英氏の責任概念(「負担責任」と「応答責任」)、フロムの「市場的構え」、アマルティア・センの「交換権原」の低下(「飢餓発生の主因」を突然起こる権利の剥奪状況とみる)、アイザイア・バーリンの「消極的自由」と「積極的自由」などの諸説が活用されています。

     若い人が人間は一人では生きていけないこと、人間らしい生き方と幸福な社会の在り方を根源的に考えるのには最適な図書といえます(大学の講義という教育実践を踏まえて書かれた本のようです)。

司馬遼太郎/井上ひさし『国家・宗教・日本人』講談社、1999年

2010-08-26 00:25:15 | 科学論/哲学/思想/宗教
                 
            
 昨日に引き続き、渋谷の「つまみや」で買った古本です。

 知の巨人・司馬遼太郎さんと偉大な劇作家・井上ひさしさんの対談。おふたりとも既に亡くなられましたが、本書では、日本がいま直面している課題、国家とは何か?、宗教とは何か? 日本人とは何か?について、歯に衣をきせることなく議論しています。

 1995年の『現代』に4号にわたって連載された対談集です。オウム事件の直後であったので、対談にはそのことについても論じられています。

 構成は次のとおり。「宗教と日本人」「『昭和』は何を誤ったか」「よい日本語、悪い日本語」「日本人の器量を問う」。

 司馬さんは日本は今、「煉獄」のなかにあるようであり、日本の発展は終わってしまって、現在の日本は「ほころびだらけの近代史」の延長上の停滞状況にあると語っています。井上さんは今の日本は「なんでもありだがなにひとつ確かなものはない」が、なんとか「美しき成熟」にもっていかなければならないと言っています。

 該博なご両人なので、オウム真理教の独善性を糾弾しながら宗教の真の意味、人類の基本思想を論じ、明治憲法下の「統帥権」という「鬼胎」の指摘から始めて、天皇機関説、京大滝川事件と絡めながら憲法問題を論じています。語りがなくなり、薄っぺらな単語を連発する会話を嘆きつつ、新しい日本語の可能性を展望しています。

 沈没しそうな日本丸、この対談は15年前。事態はいっそう悪くなっていますね。

内田義彦『社会認識の歩み』岩波新書、1971年

2010-07-05 00:24:43 | 科学論/哲学/思想/宗教
            
          


   学生の頃に読んで感激した本です。最近、そういうものを再読したい気持ちになっています。著者には、『資本論の世界』という岩波新書もあり、この本にも同様、感銘を受けました。次はこの本、と思っています。

 そこで本書ですが、やはり名著といわれるだけあり、奥が深いです。

 内容は、社会認識はどのように育てるべきなのか、育つものなのか、それは個人の社会認識としてもそうなのですが、社会科学の歴史のなかでもどのように発展してくるものなのかということを、社会科学の古典を読みながら解明していくとういうものです。

 このような問題設定の背景には、日本での社会科学の認識の形成は表面的であり、かつ個人にとっても社会科学的認識が育ちにくい土壌、あるいはそのような認識が育つ芽を摘んでしまうような事情があり、そういった否定的背景を超えていかなければならないという主張があるようです。

 第Ⅰ部「社会認識を阻むもの」では、参加する、テイク・パート・インという用語をとりあげ、「一人一人が決断と責任をもって共同の仕事に参加するという行為の継続のなかでこそ、一人一人のなかに社会科学的認識のそもそもの端緒ができる」(p.19)のですが、日本ではそういうことがないと断じ、その延長で方法とか方法論があまりに日常の世界と切り離されたところで、それも学問の諸分野にべったりとくっついいて書かれているので、方法的に考えるということが日常の世界と完全に切れたところで理解されていると分析し(p.25)、さらに社会科学の概念、用語が日常語と乖離しすぎていることを指摘しています。

 第Ⅱ部「社会認識の歩み」ではマキャヴェリ「君主論」、ホッブス「リヴァイアサン」、スミス「道徳感情の理論」、ルソー「不平等起源論」「告白」「エミール」などを取り上げ、具体的に社会科学の古典の読み方を指南しています。

 マキャヴェリでは「賭け」をキーワードにおき、運命を逆手にとる自由な人間について論じています。ここでは古典の「断片」に着目し、そこれを手掛かりに読み込みを行うことの重要性を論じています。

 ホッブスでは「努力」とう語から始まって、欲求・意欲と嫌悪、意欲と愛、嫌悪と憎悪、善と悪の対概念を解説し、希望と絶望、信頼と不信、意欲と自惚れ、あわれみ、冷酷、競争心と羨望などを読み解き、国家の理解を自然状態の人間を読むことからスタートした姿勢を評価しています。

 スミスとルソーでは、それぞれの人物がいかなる歴史的状況のもとで、いかにして歴史的にみたか、その作業に注目すべきことを説き、スミスがルソーの問題意識の読み変えを行っていたこと、そのルソーがホッブスを実によく読んでいたことを指摘しています。

 今から40年ほど前の1971年に岩波市民講座での同名の講義をもとに、その年に書き換えてまとめたものが新書になったとのことです。

作家・五木寛之さんによる奈良の古刹の紹介

2010-03-11 00:24:59 | 科学論/哲学/思想/宗教
五木寛之『百寺巡礼 奈良』講談社文庫、2008年
         
           

 著者の『百寺巡礼』シリーズの一番最初の巻です。奈良の古刹10が登場します。「室生寺」「長谷寺」「薬師寺」「唐招提寺」「秋篠寺」「法隆寺」「中宮寺」「飛鳥寺」「當麻寺」「東大寺」。
 以下、著者の示したポイントで、わたしが受け止めたことを書き連ねます。

 女人高野の「室生寺」。寺伝によると室生寺は681年に天武天皇の願いで小角(おづぬ)によって創建されました真言宗室生寺派大本山。女人高野と称されるようになったのがいつからかはわからず、鎌倉時代以降ではないかといわれている程度です。700段の石段があり、大変です。

 「長谷寺」は奈良の南西にあり、創建については諸説があるそうです。真言宗の豊山派総本山。寺伝では688年天武天皇の勅願で僧・道明が「銅板法華説相図」を現在の五重塔の近くに安置(本長谷寺)、その後聖武天皇本尊の命を受け僧・徳道が722年に今の本堂に伽藍を造営、十一面観音菩薩立像を祀った(後長谷寺)とのことです。本長谷寺と後長谷寺が統一されて今の長谷寺になりました。この本尊は1538年に良覚によってつくられた10メートルほどのものであり、木造仏で日本最大級で、観音と地蔵が合体した特殊な像とのことです。

 「薬師寺」は東塔と西塔で有名です。698年ごろに創建。最初は藤原京に建立されましたが、後に平城遷都にともない現在地に。法相宗(唯識という思想を研究する学派)の大本山です。

 「唐招提寺」は鑑真和尚の精神とともにあります。律宗(南部六宗)のひとつで、戎律の研究と実践に励む学派)の本山です。

 「秋篠寺」は780年光仁天皇の発願で善珠大徳という興福寺の僧が開いたと言われています。創建当時は法相宗、その後真言宗も兼ねることになった道場です。苔が美しく、また秘仏大元帥明王で有名です。著者はここにある伎芸天の姿に惹かれたようです。

 「法隆寺」はもちろん聖徳太子の名前と結びついています。現在の法隆寺は聖徳太子の死後再建されたものです。親鸞がここを訪れたという仮説のもとで、親鸞の思想にも触れています。

 「中宮寺」は聖徳宗の尼寺です。聖徳太子が母の穴穂部間人太后の死後に造営されました(621年ごろ)。弥勒菩薩である半跏思惟像、天寿国繍帳」(日本最古の刺繍)で有名です。後者には太子の言葉である「世間虚仮、唯物是真」の文字があるとか。

 「飛鳥寺」は日本で最初の瓦葺の建物です。588年に建設が始まり、蘇我氏の仏教の勝利宣言のお寺です。一塔三金堂の様式で東大寺や薬師寺と異なります。

 「當麻寺」は612年用明天王である麻呂子皇子(當麻皇子)が創建。著者は中将姫の姿を讃えています。

 最後に「東大寺」。かつて100メートルにも及ぶ塔が2つあったそうですが、現在は痕跡があるのみです。著者はこのお寺が国家的事業としてその威容を内外に示した理由を、この国が独立国であることを主張したかったことの証にもとめています。卓見というべきでしょう。

紅葉が美しい秋の京都

2010-03-04 00:26:55 | 科学論/哲学/思想/宗教
五木寛之『百寺巡礼 京都Ⅱ』講談社文庫2008年

           
         



 「三千院」「知恩院」「二尊院」「相国寺」「萬福寺」「永観堂」「本法寺」「高台寺」「東福寺」「法然院」(わたしが訪れたことがあるのはこれらのうち6箇所)が載っています。

 著者が訪問した頃は素晴らしい紅葉の季節であったようです。わたしも一度だけかつて京都の紅葉を体験しました。知恩院の紅葉のライトアップはさながら浄土の世界のようでした。

 その知恩院にはふたつの顔があると言います。ひとつはこのお寺は法然が12世紀に開いた念仏道場を起源とするということ、もうひとつは江戸時代に徳川家康が寺領を寄進し、将軍家の菩提寺として栄えてきたということ。ここは2,3度訪問しましたが法然の廟所の存在は知らず、不明のいたすところ。

 また、本書では永観堂、東福寺の紅葉が称賛されています。永観堂は本当の名前は禅林寺、開山は真紹(しんじょう)という真言宗の僧でしたが、後に(平安後期)永観という僧が住持となり、永観堂と呼ばれるようになったそうです。

 東福寺は行ったことがあるようなないような(上記のわたしの訪問した寺の数には入れていない)。三宗兼学の道場で、創建は鎌倉時代です。

 直近で訪問したのは相国寺です。義満が造営し、「相国」の名前をつけたのは春屋妙葩、「相国」は中国語で「大臣」の意、義満が左大臣だったから、と言います。鳴き龍、十牛図、伊藤若冲、水上勉の「雁の寺」で有名です。

 高台寺はもちろん「ねね」のお寺、「繊細で優美な雰囲気が漂っています」(p.205)。伏見城から移築したものが多いとか(観月台など)。

 法然院は哲学の道にそってあり、観光寺院ではなく訪れる人は少ないらしいですが、「周囲の豊かな自然にとけこみ、ひときわ品格を感じる寺」(p.245)です。もともとは浄土宗のお寺でしたが、戦後独立しました。谷崎潤一郎夫妻、稲垣足穂の墓があると紹介されています。

 「三千院」は若いころ訪問したので印象は薄いです。本書では大和坐りの勢至菩薩坐像(往生極楽院)の紹介がありますが、観た記憶がないです。

 「二尊院」「萬福寺」「本法寺」はこれから行ってみたいところです。二尊院の釈迦如来と阿弥陀如来は神々しくていいようです。本法寺は日蓮宗のお寺であるが「なべかぶり日進」の逸話が強烈でした。「萬福寺」の隠元和尚の話も印象に残りました。


五木さんの案内で京都のお寺を廻る

2010-02-22 01:29:00 | 科学論/哲学/思想/宗教
五木寛之『百寺巡礼[京都Ⅰ]』講談社、2008年
               
                      



 五木寛之さんの「百寺巡礼」シリーズの一冊です。実際にでかけたお寺でないと感興がわかないと思い、京都編を手にとってみました。

 10のお寺がとりあげられていますが行ったことがないのは「浄瑠璃寺」と「真如堂」のみ。あとの「金閣寺」「銀閣寺」「神護寺」「東寺」「東本願寺」「西本願寺」「南禅寺」「清水寺」は歴訪しました。

 著者の次の感慨に共感がもてました。それは、京都という街の不思議な魅力。歴史が古いだけでなく、日本列島でもっとも新しいものに貪欲な都市ということ(p.4)。何箇所かにこの指摘があります。

 また、学んだことが多かったです。金閣寺は足利義満の私邸である(もともとは寺でない)北山第のなかの舎利殿ということ。また義政がつくった銀閣寺も山荘であり、観音堂であるということ(観音の「観」は智慧をあらわし、「音」は世間の響きのこと)。

 神護寺に関わっては、最澄と空海との関係、東寺ではその威容とこのお寺の位置づけ、空海との関係、立体曼陀羅の世界、本願寺に関連しては西と東とで秀吉と家康との相克、南禅寺は南朝の発端となった亀山法皇が離宮であった禅林寺殿を禅寺に改めたことに由来するということ、そして隣接する金地院に東照宮が祀られている理由、宗派にこだわらずお参りできる懐深い清水寺といった具合です。

 なかに応仁の乱のことが語られていたり、日本史の復習にもなりました。

 そして、浄土真宗が一神教であありながら他の八百万の神も認めていること、ただひたすら念仏せよという法然の考え方(易行念仏)など宗教のことを知ることができたのも収穫です。


宗教の歴史を一挙に概観

2010-01-31 01:04:08 | 科学論/哲学/思想/宗教
島田裕巳『教養としての日本宗教事件史』河出書房新社、2006年
          教養としての日本宗教事件史
 日本の宗教の歴史を24の事件で追いながら一気に解説した本です。スタートはもちろん仏教伝来、ゴールは「お一人様化」した真如苑。

 著者は宗教とは相当にスキャンダラスで(「まえがき」)、かなり危険なものである(「あとがき」)と書いています。スキャンダラスで危険なその中身が本書の全編に詰め込まれています。

 24の事件ということですが、古くは蘇我氏と物部氏との相克、大仏開眼供養会、鑑真和尚の本望、空海と最澄との宗教的闘い、日蓮の宗教がめざしたもの、法然・親鸞・蓮如の関係、栄西・道元の禅宗、織田信長の蛮行、キリシタンの果たした役割、人を神として祀るということ(道長、秀吉、家康)、宗教バブルとしてのお蔭参り、廃物希釈に飲み込まれた大寺院(内山永久寺)、戦前の天理教と天皇制、靖国神社問題、新興宗教の実体、天皇の人間宣言の意味、明治神宮に関わるエピソード、現代の皇室の在り方などなどと言った感じで進んでいきます。

 啓蒙書ですが、知らない世界なので、読みながらわかりにくいところ、疑問が次々でてきました。

 密教とは何? 天台宗、真言宗、日蓮宗などそれらの教義のどこがいったい違うのか? 法華経とは?

  その点、本書は駆け足での説明なのでこれらの疑問にきちんと答える叙述を見つけるのが難しいです。ないものねだりになってしまうのです。

 日本の思想史、文化史を正確に理解するには宗教の分野の歴史的展開をおさえておかないと不十分なものになってしまいます。そのことを読後、強く感した次第です。