葉山には有名な県立近代美術館があるので、そこへ出かけました。現代的な建物です。常設展示はなく、柚木沙弥郎の「鳥獣戯画」展、「みえるもののむこう」展が開催されていました。
庭にはオブジェが多く展示されています。そのなかのひとつがゴルバの作品です。下の写真3枚目が彼の作品です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/0c/bf3cf6682554a49e1058c1ca9756e47f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/65/c8d8e75f859900b5cba2db288cb0d241.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/7b/a4fd84fab679f666aa28fc474119b184.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/69/9a3d39dc497aa163f7ac4a44f2951679.jpg)
東京国立博物館・平成館で「特別展 黒田清輝-日本近代絵画の巨匠-」が開催されていました。今日までです。
黒田清輝と言えば、「読書する女」「湖畔」などで有名です。この展覧会でもこの2点が美術の教科書に出ていた絵画ということを謳っていました。
全体をみると黒田の大きな、広い画業を知ることできます。黒田は若くして法律を学びにパリに渡りましたが、向こうで画家としての途を進む決意を固めました。そのことを父親に伝える書簡が展示されています。
黒田は、コランに師事し、頭角を現します。とくに西洋絵画の基本にある人間の肉体の美しさの表現を学ぶようになります。それまでの日本絵画になかったコンセプトでした。しかし、裸婦像は日本の土壌ではなかなか受け入れられず、スキャンダルになったり、批判の対象にもなりましたが、地道にその意味を日本の画壇に浸透させていきます。
展示会には、黒田がコランらから学んだ裸婦の絵画やデッサン、またミレーなどの影響を受けた庶民の生活をモチーフにした作品、さらに肖像画、花々を描いた作品が、大変たくさん展示され、さながら黒田の芸術活動の全体がわかるように構成されていました。
昭和20年5月に焼失した旧東京駅には、黒田の天井画があったそうです。空襲で焼けていまはありません。この他、大作が焼けて無くなってしまったようで、残念でした。
「ホイッスラー展」が横浜美術館で開催されています。
ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)は、アメリカ・マサチューセッツ州出身。幼少期をロシアで過ごしました。21歳の時に画家になることを志しパリに渡り、グレールのアトリエに通う一方、クールベと出会い、そのレアリスム(写実主義)に影響を受けます。ホイッスラーの初期の油彩画やエッチングなどの主題の選択や表現には、クールベの影響が色濃く表れています。
その後、ロンドンとパリを主な拠点とし、モネなど印象派の画家たちとも親交があった他、日本美術からインスピレーションを得て独自のスタイルを確立したジャポニスムの画家として世界的に知られています。
会場には1865年以降の作品「 シンフォニー」「 ハーモニー」「 ノクターン」が宝石のように並んでいます。
日本では四半世紀ぶりとなる大規模な回顧展になっています。3月1日までです。
上野の国立博物館・平成館で開催されていた「日本国宝展」が今日で終わりました。この国宝展は14年ぶりだそうです。日本の各地に点在している国宝が大挙して集まりました。
5日の金曜日に行ってきました。金曜日は普通の日と異なり夜の8時まで開いています。少しはすいているかと思ったのですが、たいへんな人気ぶりで、混雑していました。
NHKの「日曜美術館」で知識を得たので、その記憶を頼りに回りました。100点近くの国宝が並んでいるのですから、道案内がないと「ただ観た」にとどまります。「日曜美術館」では、主に下記の展示物が紹介されていました。雑踏の合間をくぐりながら、観てきました。
全体は「第一章 仏を信じる」「第二章 神を信じる」「第三章 文学・記録にみる信仰」「第四章 多様化する信仰と美」「第五章 仏のすがた」で構成されていました。
・仏足石
・玉虫厨子(奈良・法隆寺)
・扇面法華経冊子(東京国立博物館)
・土偶 合掌土偶(八戸市埋蔵文化財センター[是川縄文館])
・日本書記(京都国立博物館)
・栄花物語(九州国立博物館)
・日本霊異記(京都・来迎院)
・六道絵(滋賀・聖衆来迎寺)
・観音菩薩坐像・勢至菩薩坐像(京都・三千院)
・善財童子立像(奈良・安倍文殊院)
・元興寺極楽坊五重塔(奈良・元興寺)
入り口をはいると「仏足石」の巨大な石が・・・。これを観ながらさらに進みますと、中学の美術の時間に学んだ「玉虫の厨子」があります。かなり背が高いものです。これはお経を入れてしまっておくものだったようです。それはそうかもしれません。厨子ですから。四面に絵がついています。
「扇面法華経冊子」にはお経が書いてあり、扇の面には絵が描いてありますが、これはお経とは何にも関係のない絵だそうです。きれいなものが尊ばれ、それをもっていると浄土に行けるという観念がありました。
「善財童子立像」は、今回の展示会のチラシに刷り込まれ、目玉になっています。快慶の作。後ろをふりかっている童子です。髪を角髪(みずら)に結い、その服は風に吹かれてめくりあがっています。動的な作品です。これはある絵に描かれていたものを、木彫りにしたものです。絵では、振り返っている目の先には、文殊菩薩がいます。
どの作品にも歴史がきざまれ、人間の祈り、想い、営みが込められているようにおもいました。
「川瀬巴水展-郷愁の日本風景-」が高島屋横浜店で開催中です。ここに回ってくる前は、千葉で開催されていましたが、千葉ではやや遠く、横浜に来るまで待っていました。NHK日曜美術館で紹介があったので、以前から、関心がありました。
川瀬巴水(1883-1957)は、大正から昭和にかけて活躍した著名な版画家です。(著名と言っても、わたしはNHKの番組で紹介されるまで知りませんでしたが)
巴水は幼少から絵が好きで、画家の途を志しましたが、本格的に取り組んだのは27歳ごろです。伊藤深水が手掛けていた作品に接して、木版画に開眼、1917年(大正7年)のことです。
以来、日本のあちこちを旅し、スケッチし、東京に戻って版画を彫ることを繰り返しました。また、東京に風景を多く残しました。震災のおりには、増上寺で世話になったということで、このお寺には特別の思い入れがあるようです。
一時は、関東大震災で、200冊前後のスケッチ帖を失い、落胆のどん底にありましたが、擦り師の渡辺庄三郎に励まされ再起しました。
あのスティーブ・ジョーズも、川瀬の作品をコレクションしていたようです。
落ち着いた、いまではもう過去のものとなった日本の風景が、巴水の画には投影されています。わたしは、「鎌倉大仏」「芝増上寺」が好きです。絶筆となった「平泉金色堂」も印象的でした。会場では、巴水の画業を紹介するビデオが流されていて、この画家の素顔がよくわかりました。大変、多くの人が観に来ていました。
この川瀬展と併設で、石渡江逸版画展もあります。石渡江逸が、川瀬巴水の弟子です。画風が似ていますが、「師譲りの薄暮の郷愁を受け継ぎ、風景を情緒豊かに」描いています。
TVーASAHIの朝番組に「ゆうゆう散歩」というのがある。歌手の加山雄三さんがあちこちに散歩に出かけ、そこの名所をおとずれたり、食べ物屋さんでつまんだり、町工場で職人さんと話をしたりする。主に東京の各地をを散歩するのだが、ときには新潟や京都にでかけたりする。もう78歳というのに、加山さんは背筋をぴんとさせて歩き、リズムもよい。話し方、コミュニケ―ションの取り方も若々しい。うらやましいくらいだ。
番組の終わりには、色紙にその土地への想いをつづり、また心に残った風景を水彩画にする。いつもはいい風景をまず写真にとって、その写真をみながら描いている。「自由に、気軽に、理屈じゃなく」がモットーである。
「関心・感動・感謝」の人生の三冠王をめざして、ひたすら歩いて、もう1年半ほどになる。その絵(40点)が一冊の本になった。この番組はだいたい見ているので(生で見られないときは、録画)、この本におさめられている絵はほとんど知っている。
「さくら伝説」というのは、古来、桜の樹の下には、桜鬼という魔性の女は棲んでいて、その鬼が人の心を狂わせ、多くの死体がその根元に埋まっているといものである。著者はそういう桜の樹を長年さがしていて、あるとき奈良仏隆寺でそれにでったという。その樹はおよそ900歳とのことであった。まことに大きな堂々たる不滅の命を生きる桜の樹である。それに酔うことは、輪廻転生への無意識のあこがれをもつこと。
著者はまたいつのころからか、男女の悲恋の物語を考えていた。念頭にあったのが、京の島原にいた揚巻という名の太夫と助六という色男。ふたりはこの世をはかなんで心中をとげた。心中したはずの助六と揚巻が後の世に、歌舞伎の演目「助六由縁江戸桜」となった。著者の想像力はとどまるところを知らず、仏隆寺の千年桜と助六、揚巻の悲恋の物語で、助六と揚巻の心中した場所としてこの桜の樹を選ぶという形で、つなぎあわせ、新しい話をつくりあげた。それが女主人公響子とその夫である帯刀杜夫の怪しい男女間の愛の物語である。
著者はそれを「桜の精気に惑わされ、官能の極点を求めて死に急ぐ男と女の物語」と書いている。小説の展開にそって、千年桜と松坂慶子が写真で登場する。美の化身は、妖しくも美しい。
カイユボット展が東京駅八重洲口に近いブルジストン美術館で開催されている(10月10日ー12月29日)。
カイユボット(1848-1894))は印象派の画家ですが、あまり知られていません。日本では近年、人気がでてきたようです。それで展覧会が開催されたのでしょう。
しかし、本国のフランスでは、モネ、ルノワールと並ぶ代表的な印象派の画家です。1876年の第2回印象派展以降、5回にわたってこの展覧会に参加しました。画家として有名なのはもちろんですが、当時まだ評価の定まらなかった、印象派の仲間の作品をコレクションしたことでも知られています。
作品の対象としては、近代都市パリの風俗、風景、イエールやジュヌヴィリエといったパリ近郊の自然が選ばれました。新興ブルジョアジーと労働者にも、まなざしを向けました。
展示場のなかの作品では、「自画像」「室内、窓辺の女性」「ギュスターヴと犬のベルジェール、カルーゼル広場」などが印象にのこりました。よく知られた「ヨーロッパ橋」もありました。
展示場の床に、当時のパリの地図があり、どこで印象派展が行われたなどの案内がありました。現在のパリの街並みとほとんど変わっていないことが確認できます。
それと弟マルシャル・カイユボットが撮影した写真もたくさんありました。貴重です。
パリにある七つの美術館の訪問記。
その七つの美術館とは、ドラクロワ美術館、ピカソ美術館、エスパス・モンマントル=サルヴァドール・ダリ美術館、ブールデル美術館、クリュニー美術館、マルモッタン美術館、モロー美術館。このうち五つの美術館には行ったことがあり(訪れていないのはピカソ美術館、ブールデル美術館)、親近感を覚えるし、著者の語り口に実感をともなって、その場所を思い描ける。
ドラクロワ美術館はなかなか見つからない場所にある、クリュニー中世美術館の荘厳な建物、マルモッタン美術館との関係でとりあげられているジヴェルニーのモネの家の庭園のすばらしさ、モロー美術館の内部の独特の空気、このあたりはみなソウソウうなずきながらの読書だった。
それぞれの美術館がその特徴、雰囲気、そこに展示されている個々の作品をとおして、的確に、いきいきと描かれている。同時にそれらの美術館がある地域の様子も細かく描写され、これによってまたそれぞれの美術館の個性が際立つしかけになっている。
新たにいろいろ新しい知識も得た。モンマントルのテルトル広場にいる似顔絵描きは登録制である、ダリ美術館はパリっ子がそこをパーティで貸し切りで使うこともあるらしい、マルモッタン美術館の傍にあるラヌルグ庭園にある像は羅・フォンティーヌ像である、ブールデルはベートーベンに傾倒していた、マレ地区はユダヤ人の街でファラフェルという食べ物がお勧め、などなど。
パリの街をしりつくした著者が伝える、パリの香りがいっぱいの素敵なガイドブックだ。
山種美術館(広尾)で、速水御舟展が開催されていました。10月14日に閉幕でしたが、その一日前の日曜日に行ってきました。
岡倉天心が東京美大を辞し、谷中で院展(日本美術院)の活動を開始したのは明治31年。その後、岡倉は渡米、そして死去。院展の活動は一時低調化しますが、大正3年(1914年)、横山大観を中心に復活。再院展が再出発しました。その再院展で、当初から活動したひとりが速水御舟です。
山種美術館は、日本美術院の画家たちの作品を多く、所蔵しています。来年は、その再興院展が100年を迎えます。
今回の展示会では、同時代に活躍した日本画の大家の作品に過囲まれて、御舟(1894-1935)の作品がずらりと一覧できる贅沢なもの。幼少のころの作品、もっとも成熟した活動をしていたころの作品がずらりと展示されていました。「翠苔緑芝」は、再興院展出品作です。「炎舞」は、重要文化財です。他に「白芙蓉」「百舌巣」「春昼」「夜桜」。御舟以外では、菱田春草「雨後」、前田青邨「大物浦」、横山大観「富士」、安田靫彦「平泉の義経」、今村紫紅「早春」、小茂田青樹「春庭」、奥村土牛「姪」、小倉遊亀「舞う」などが展示されていました。
筆者は新聞、雑誌の連載小説の挿絵で有名。
この本は、エンピツ画の実践のための本なので、実際に画をかき始めると得るものは多い、のではなかろうか。これから画を描こうと思っている人にも、よい指南書になっている。
画は画であるが、人に何かを伝えたいという点では、「ことば」と同じ機能をあわせもっているので、そのことの自覚が必要と言っている。何かを話したい、思いを伝えたいというパッションは誰にであるので、画もそこから出発してよい。そして伸び伸びと書くことが大切と説く。
そのうえで、メチエ(技法)がある。ないよりはあったほうがよい。「顔の描き方」「見るということ」「鉛筆について」「木炭」「模写について」「色の設定」と。実践的アドバイスが続く。
なかに、豊富な著者のエンピツ画が挿入されている。これらも、楽しい。