【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

『週刊:20世紀シネマ館』1955年、No.11

2010-09-30 00:12:47 | 映画
                              

  この号に収められている映画もいいものばかりです。「七年目の浮気」 「慕情」 「夏の嵐」 「フレンチ・カンカン」 「チャタレイ夫人の恋人」、いずれもかつて観ました。女優が目立ちます。マリリン・モンロー、アリダ・バリ、ジェニファー・ジョーンズ、ダニエル・ダリュー、もうこのような女優はふたりとでないであろう個性的なひとばかりです。男優もそうです。ジャン・ギャバンですから。

 「七年目の浮気」は、結婚7年目の恐妻家リチャード(出版社勤務)が妻と息子を避暑地に送り出したあと、一人暮らしを満喫しようとしますが、近くに住むブロンド美人(マリリン・モンロー)が気になり、浮気の虫がむずむずと動き始めるというお話。

 「慕情」は香港を舞台にした中国系女性の悲恋物語。「夏の嵐」は、敵方の将校を愛してしまった伯爵夫人の情念を描いた19世紀の歴史劇。

  「フレンチ・カンカン」 は、ベル・エポックのパリを舞台に描いた人生賛歌。監督のやさしい眼差しが生命の奔流をとらえ、生きる喜びを謳歌しています。ルノワール監督は、有名なi印象派の画家ルノワールの子どもです。
  「チャタレイ夫人の恋人」は、いわずと知れた文豪D.H.ロレンスの問題小説の映画化。第一次世界大戦で負傷したチャタレイ卿の夫人コンスタンスと森番のメラーズの背徳の愛。ダニエル・ダリューの美しさにしびれます。

■内容紹介 
① 「七年目の浮気」(ビリー・ワイルダー監督、マリリン・モンロー主演)
②「慕情」(ヘンリー・キング監督、ジェニファー・ジョーンズ、ウィリアム・ホールデン主演)
③「夏の嵐」(ルキノ・ヴィスコンティ監督、アリダ・バリ主演)
④「フレンチ・カンカン」(ジャン・ルノワール監督、ジャン・ギャバン監督)
⑤「チャタレイ夫人の恋人」(マルク・アレグレ監督、ダニエル・ダリュー主演)

■銀幕の主人公たち フランソワーズ・アルヌール
■この年の日本映画『夫婦善哉』 

[俳優物語]香港を愛し、別荘を構えたウィリアム・ホールデン
[監督物語]オペラをこよなく愛したルキノ・ヴィスコンティ
[監督物語]印象派の大画家を父にもつ、ジャン・ルノワール
[シネマ物語]芸術か猥褻か? 日本の“チャタレイ裁判” 1955年の名画グラフィティ(2)
■ シネマの神話『夏の嵐』の主人公リヴィアのモデルは、ヴィスコンティの母カルラ?『フレンチ・カンカン』撮影中、アルヌールに喧嘩を売った女優とは?/ほか


宮本輝『避暑地の猫』講談社文庫、1998年

2010-09-29 00:07:17 | 小説
               避暑地の猫

  舞台は軽井沢です。本通り、旧三笠通り、聖パウロ教会、万平ホテル界隈、雲場池、諏訪神社などの地名が懐かしいですね。

 この軽井沢に別荘を構える布施金次郎と別荘番として働く久保家の家族。富める者と貧しい物との歴然とした階級の違いがまずあります。金次郎の妻は、久保家の人々をとことん蔑み、彼らの生活を貶めようとするのです。

 くわえて、そこにはもっとおぞましい、どろどろとした人間関係が蠢いていました。別荘には、アトリエがあり、そこからつながった秘密の地下室があり、金次郎はそこで・・・・・。

 主人公の修平は、偶然をよそおって金次郎夫人を殺し、さらに金次郎の殺害を企てます。結果的にこの地下室で、金次郎、父と母は、撒かれた灯油に引火した地獄の炎のなかで死んでいきます。

 呪われた偽善のもとに秩序は崩壊し、人間の魂の奥底にある不気味な悪魔の咆哮が炸裂します。軽井沢という独特のエリアに咲いた「悪の華」。

 鋭い心理描写と推理のタッチで、主人公をとりまく人と人のつながり、男と女の関係が、ときに甘美に、ときにグロテスクに活写されています。

 『避暑地の猫』のタイトルは、何を意味しているのでしょうか。「解説」で古谷健三氏が書いています、やや長いですが引用します、「・・・ここには、医師に嫌われているペルシャ猫、身の危険をいち早く察知するトラ猫、百万円の謝礼のついた迷子猫と具体的に何匹かの猫が出てくるが、これらの神秘的な生き物は、よくみると、ことごとく修平の姉に焦点を結ぶように思われる。この姉こそ悪の化身であり、そのみかけの美しさで他人をたぶらかす悪魔である。しかも、修平とは違って自分の悪に無自覚で、自身の言葉をもたない。・・・それに対して、修平は猫であることを自覚し、その自覚のゆえに苦悩を知る、人間の言葉を話す猫だといえる。このようにみてくると、修平はこの悲惨な事件の主役というより、証人であり、目撃した地獄の語り手であって、彼が事件の中心にいるのはその鏡の役をはたすためであることがわかる。つまり、彼の努めは親をはじめとする、すべての悪人の罪を意識化することにあり、したがって一度体験した地獄をいま一度言葉でたどり直すという苦しみをなめる」と(p.243)

黒岩比佐子『歴史のかげにグルメあり(新書)』文藝春秋、2008年

2010-09-28 00:05:27 | 歴史

                                  歴史のかげにグルメあり

 もともとは『文学界』という雑誌に「歴史のかげに"食”あり」というタイトルで12回にわたって掲載されたものです。このタイトルのなかの「食」が「グルメ」に変わったのですが、本書の内容に照らしていえばもとの「食」のほうがいいように思いました。たぶん、買い手を惹き付けるために、変更したのでしょう。よくあることです。

 歴史のひとつひとつの事情にまつわる「食」に目をつけたのは面白いところです。

 全部で12章からなっていますが、ポイントは次のとおりです。
 ペリーが日米和親条約の前に供されたのが本膳料理でしたが(そのメニューが24-26ページに出ている)、ペリーはこれがあまり気に召さなかった、徳川慶喜がイギリス公使パークスを饗応した食事はフランス料理(そのメニューは43-44ページ)であり、維新後、外交使節の饗応はフランス料理というのが定番となった。明治天皇がイタリアの皇族の来日に際して開いた午餐会でも、井上馨が鹿鳴館でもった晩さん会でも主役はフランス料理だった(そのメニューの一例は75ページ)。帝国ホテルの食事は開業以来、正統フランス料理(そのメニューの一例は87-88ページ)。大津事件で遭遇したロシアのラスト・エンペラー、ニコライ皇子は長崎の知事官邸で本格的日本料理を食し(そのメニューは105ページ)、伊藤博文は日清講和会議を河豚の本場、下関の春帆楼で開いた。
 日露戦争で軍神とも評され健啖家であった児玉源太郎はその勝利をシャンパンの洗礼で祝った。明治天皇のガーター勲章奉呈晩餐会の様子、”食道楽”村井弦斎は日露戦争で捕虜となったロシア人をその「美食の殿堂」(現平塚市)で暖かく迎えた、稀代の食通であった西園寺公望の文士招待会のエピソード、アナーキスト幸徳秋水の「菜食論」。

 これらの食の一部は現在も体験できるようで、著者は横浜の老補「濱新」で「ペリー饗応の膳」を、帝国ホテルのレストランでランチを、下関の割烹旅館「春帆楼」で「ふぐ」のコース料理を嗜んだとあります(「あとがき」、pp.237-239)。


なかのひろたか 作・絵『ぞうくんのさんぽ』福音館書店

2010-09-25 00:30:16 | 詩/絵本/童話/児童文学
                                                                 
                          
   絵本第3弾。
  子どもは動物が好きです。とくに、ぞうです。大きくて、愛嬌があり、まるまるしているところ。もちろん、子どもは他の動物にも興味をもちます。とら、ライオン・・・。そしてカバ、ワニ。

 この絵本には、そのぞう、かば、わにが出てきます。そして、小さなかめも登場。動物たちの登場のしかたが面白いです。

 わたしの子どもはこの絵本も大好きでした(3-4歳の頃)。手許に残っている本の表紙は、何回もくりかえし読んだたため、手あかでかなり汚れています。

 天気がよいのに誘われて、ぞうくんが散歩にでます。途中で、かばくんに会うます。二匹は連れだって・・・ではなく、かばくんはぞうくんが背中に乗せてくれるなら、一緒にいってもいい、と言います。ぞうくんは了解。

 かばくんを背中にのせてぞうくんが歩いて行くと、今度はわにくんに会います。同じように、わにくんを散歩に誘い、ぞうくんはわにくんも背負います。

 そして、さらに歩いていくと・・・。小さなかめくんにあいます。そして、ふたたびかめくんを散歩に誘い、かめくんを、わにくんの上に乗せると・・・。それまで、ちからもちを誇っていたぞうくん。「重い」といって、かばくん、わにくん、かめくんを背負ったぞうくんはひっくりかえって、眼のまえにあった池におちてしましいます。

  でも、四匹の動物たちは池のなかで、水につかって、いい気持ち。

  このお話は、重量級のかばくん、わにくんをのせて散歩していたぞうくんがほんとうに小さなかめくんを乗せたとたん、重さにたえきれず、こけてしまうというところに面白さがあります。また、こける場面を描いた絵がリアルなこと・・・。
 

清川妙『名画で恋のレッスン』清流出版、1995年

2010-09-24 00:05:43 | 映画
                  
 男女の愛をテーマにした映画を紹介した本です。「名画」とありますが絵画ではありません。

 1971年創刊の女性誌編集長に依頼された最初の原稿,「嵐が丘」の紹介文を激賞され,以来20数年,映画紹介の仕事にたずさわってきたとのことです。

 「嵐が丘」のこの文章は、この本に掲載があり,まずそれから読みましたが、確かによく書けています。エミリー・ブロンテのこの原作を読みたくなるほどです。

 65本の映画が並んでいます。「シェルブールの雨傘」「ティファニーで朝食を」「八月の鯨」「眺めのいい部屋」「赤毛のアン」「カサブランカ}などなど。(65本のうちわたしが観たものは35本)

 掲載されている映画はどのようにして選択されたのでしょうか?(何故,名作「逢びき」が出てこないのか?) 

 女性の視点が随所に感じられました。「シェルブールの雨傘」で登場人物の服装の色に着目している点,「赤毛のアン」で「アンの髪に,ことさら目をとめて観た」(p.183)とある点,など、女性らしい観点が随所にあります。

 原題が付されていないのは(本文中に記載のものは若干あるが),やや不便です。 

清川妙『出会いのときめき』清流出版、2002年

2010-09-23 22:20:46 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
              
            
  品のよさとはこのようなものなのかもしれません。

 「この本の中に,なによりもこめたかったのは年を重ねて,いまをよく生きていくことの愉しさである」と,著者は書いています(p.202)。歌(著者は「万葉集」研究の専門家)と花を愛でる心持が,この人の人生に彩りをそえています。好かれる人に違いありません。

 書くことが本当に生きがいなのだから,ケストナーの言葉,本とは「建てたばかりのことばの家」に気づき,引用できるのだろうと思いました。そして著者の心の優しい在り方が,いい人との出会いを育んだのではないでしょうか。

 「鈴蘭」について書かれたところでは,5月1日がフランスで鈴蘭の日で,この日パリでは森で摘んだ鈴蘭が売られるとありましたが,映画「クリクリのいた夏」のワンシーンを思い出しました。

 梅の花夢(いめ)に語らくみやびたる花と我(あ)れ思(も)う酒に浮かべこそ[旅人](p.145)。
               
 

ノーマ・フィールド/大島かおり訳『天皇の逝く国で』みすず書房、1994年

2010-09-22 00:11:23 | ノンフィクション/ルポルタージュ
        
                
            
  深い感銘が余韻として残ります。

  1988年1月、昭和天皇がなくなりました。当時、「自粛」という言葉で、われわれの行動を規制するような動きがありました。

 NHKは終日、クラシックを流し、民放放送もそれこそ「自粛」していたように思います。少なくとも深夜放送はありませんでしたし、「お笑い」もありません。

 わたしは天皇逝去のその日(1988年1月7日)まだ札幌市に住んでいて、偶然にもブーニンのピアノ・コンチェルトを聴きにいく日でした。既に予約券を手にしていたからです。確か、ブーニンも演奏前に弔意を表明しましたが、わたしにはその弔意には、率直に言って、違和感がありました。

 個人的な体験はそれとして、本書は、天皇の逝った前後に起こった事件をとりあげ、日本の精神文化、エートスに触れ、歴史認識のねじれた構造をあぶりだしています。著者の言葉を借りると、「この本は、ヒロヒトの死につての省察の試みである。そして15年戦争(太平洋戦争)におけるあまたの死と、世界最大の経済的成功のもとでの、生きながらの死とでも言うべき日常の質についても、思いをめぐらしている。これはまた、忘却の気楽さと誘惑にあらがっている人びと、現在を過去に照らし、過去を現在に照らして考える姿勢を貫いている人びとにたいして、敬意を捧げるための本であもある」と(「はじめに」)。

 原題は、In the Realm of a Dying Emperor で、Realm というのは「かつては現人神であり政治的主権者であった昭和天皇の王国を指すのと同時に、戦後も日本人の心の深層を依然として支配しつづけてきたその『象徴』天皇制の影響する領域全般をも意味している」ということだそうです(p.351、「訳者あとがき」)。

 具体的には、3つの事件、すなわち1987年の沖縄国体で日の丸を焼いた知花昌一さん、山口に住む中谷康子さんが起こした自衛官合祀違憲訴訟で最高裁判決での敗訴(1988年)、長崎市長の本島等さんの天皇の戦争責任についての発言をとりあげ(1988年12月、定例市議会で)、それぞれの事件が象徴する日本の政治と文化の問題性を明るみに出していく手法をとっています。

 叙述は当事者との入念なインタヴューと行動いよっているので迫力があります。昭和という時代の終焉をこれほどに象徴した事件はなかったでしょう。著者の嗅覚に敬服します。

 沖縄の戦争体験を語ることを拒絶してきた人たちが、ようやく言葉をだすようになった経緯の記述、違憲訴訟に敗訴したその当事者の楽天性の描写、本島発言後の予測しなかった反響の大きさのコンテクスト、どれもこれも印象深く、決して忘れることはないでしょう。

 この本には、上記事件に関わる多くの人々の他に、著者自身とその家族、縁戚関係者が登場します。祖母、祖父、母、叔母です。著者の個人的歴史を、日本社会の市民のありふれた物語と絡め、ないまぜて紡ぐという独特の手法が、この本の魅力です。

 見事な翻訳をおこなった大島氏の言うように本書は、まことに「・・・2つの国(アメリカと日本-引用者)のはざまで、どちらにもからめとられない批判的な目をもちつづける著者のこの日本論は、それが書かれた時点後の世界とわが国両方での変化と流動化にもかかわらず、依然として問題ぶくみでありつづけている私たちのアイデンティティへの問いとしても、まことに大きい衝迫力をもっている」のです(p.353)。

軽井沢散歩⑤ 居酒屋編

2010-09-20 00:49:37 | 居酒屋&BAR/お酒
 軽井沢には、いいお店がたくさんあります。「るるぶ」などのガイドブックで捜すのもひとつの方法ですが、今年、当地で「軽井沢 Style Plus」という小冊子が発行され、ここからお店をひろうことができます。

 この小冊子には、読み物の他、パワースポット、イベント情報、MAP、グルメ・お店の最新情報が満載です。
 
 そのなかから、「厨(くりや)」というお店に立ち寄りました。聖パウロ通り沿いにある隠れ家的存在の居酒屋です。画像がそれですが、わたしの写真の腕がわるく、店をでたときに真っ暗ななかで撮ったのであまりはっきり映っていません。残念。軽井沢のお店は、東京とくらべるとおしなべて閉店時間がやや早めなのですが、ここだけは深夜まで開いているようです。

 上記の小冊子には、「居心地の良さに時間を忘れる気軽に行きたい居食屋さん」とあります。近隣の常連客が多いようです。席の数はあまりおおくありません。人気の秘密は100種以上のメニューだそうで、季節料理、家庭料理、和総菜など豊富です。夕食をとりながら、飲めるという処です。お酒も200種以上あるとか。

軽井沢散歩④(信濃追分)

2010-09-19 00:24:08 | 旅行/温泉
 JR軽井沢駅から、西へ8キロほどのところに、堀辰雄文学記念館があります。画像(わたしが撮影)のように、駐車場のほうから記念館に向かって見事な涼やかな落葉松の並木道が続いています。右手に管理棟、その東南に堀辰雄が生前暮らしていた家屋、また書庫が芝生の上にあります。

 この家屋は昭和26年に建てられ、硝子戸のはまった廊下には木の机と椅子が置かれています。

 家屋の横に白壁の家があり、展示室になっていますが、もとは妻だった多恵さんが暮らしていたそうです。辰雄愛用の、鉛筆、ペン皿、セーター、ベレー帽が展示されています。

 辰雄は大正12年に19歳でここに軽井沢にきて、49歳でなくなるまで、その大部分を軽井沢と追分ですごしました。代表作のほとんど(『菜穂子』『聖家族』『ルウベンスの偽画』『風たちぬ』『ふるさとびと』など)は、ここを舞台にしています。

 今年の春にその多恵さんが亡くなったということで閲覧室では「堀多恵・作家堀辰雄の妻として生きたその生涯」展が開催されていました。辰雄と多恵は昭和12年に出会い、翌年、室生夫妻の媒酌で結婚しました。この企画展では、堀多恵の人生がよくわかるように、多数の写真、書簡、発行本、遺愛の品々が紹介されていました。

宮下/桐山/吉村『軽井沢ものがたり』新潮社、1998年

2010-09-18 01:50:55 | 旅行/温泉
               
             
  軽井沢紹介読本です。写真家の宮下常雄氏が撮った軽井沢の写真に、文章は、桐山秀樹氏の「避暑地軽井沢の百年」、吉村祐美氏の「軽井沢を愛した作家たち」の2本です。

 軽井沢紹介では、つい最近ここを訪れたので、行ったところはよくわかるのですが、まだ未踏の地域、場所は、イメージがわかず、今後の予定に入れることにしました。

 「避暑地軽井沢の百年」は軽井沢の歴史が書かれています。避暑地の文明開化として、カナダの聖公会司祭で、宣教師だったアレクサンダー・クロフト・ショーが明治の中ごろにこの地を開き、最初の別荘をたてたこと、その後外国人別荘地がひろがっていったこと、他方、万平ホテル、三笠ホテルが建てられたことが順次、解説され、旧碓氷峠のあたり、熊野皇大神社、金毘羅神社、三笠神社、長倉神社などの紹介があります。

 「軽井沢を愛した作家たち」には、堀辰雄、室生犀星、芥川龍之介、川端康成、立原道造、福永武彦、宮本輝らの一連のこの地に関わる小説、またゆかりの別荘、碑などが詳しくとりあげられ、有名な文人たちがいかに軽井沢をこよなく愛し、また創作活動をここで行なったかが偲ばれます。

 付録として「特選!サイクリングコースと散歩コース」が桐山氏の文章でつづられています。

山根一眞『小惑星探査機・はやぶさの大冒険』マガジンハウス、2010年

2010-09-16 20:00:00 | 自然科学/数学
                        
                              


   今年6月13日午後7時51分(日本時間)、満身創痍の小惑星探査機「はやぶさ」(全長約31メートル、直径約2.5メートル、重量140トン)が宇宙から帰還しました。

 厳密に言えば、探査機そのものは大気圏突入後燃焼、小惑星「イトカワ」(Sタイプ[石灰質中心]惑星)の表面から採取したカケラが入っているかもしれないカプセルのみが切り離され、オーストラリアのウーメラ沙漠に着地したのです。

 2003年5月9日に内之浦宇宙空間測候所で打ち上げられて以来、7年ぶりです。当初は4年で帰還の予定でした。トラブルが相次ぎ、一時、帰還が諦められたこともありました。宇宙航空研究開発機構(JAXA)、宇宙科学研究所(ISAS)の快挙、ひいては日本の宇宙科学界全体の誇りになる快挙です。

 なぜなら、「はやぶさ」はその探査飛行で既に始めての成果を次々に出してきましたし、また最大の目的であったサンプルリターンに成功していれば、太陽系宇宙誕生の秘密が明かされるかもしれないからです。

 本書はその全行程をドキュメンタリータッチの読み物にしてあります。

 帰還にさいしては報道で大きくとりあげられ、衆目の知るところとなりました。一般には小惑星(太陽の周りをまわっている小惑星は、現在わかっているだけで27万個)「イトカワ」からの採石(といってもミクロン単位のゴミほどにも小さい粒子)があったのかなかったのかが焦点となっていますが、今回の「はやぶさ」ではイオンエンジンが推進力であること、地球からの軌道を離れるのにスィングバイという方式でのいわば省エネ方法を使ったこと、地球に送ってきた膨大な量の写真など大きな成果が既に出ています。ここに注目しないといけません。

 また、大きなトラブルを次々と克服したことも特筆しなければなりません。その手法に関しても科学的貢献がありました。トラブルとは具体的には、イオンエンジンAの故障と停止(2003年5月27日)、3基のリアクションホイール(姿勢制御装置)のうちの一基の故障(2003年8月15日)、行方不明になった超小型探査ロボット「ミネルバ」(2005年11月12日)、イトカワへの一回目のタッチダウンで「はやぶさ」の状況が不明になったこと(2005年11月20日)、燃料漏れで姿勢が安定せず、通信が途絶したこと(2003年11月26日)、イオンエンジン自動停止状態(2009年11月4日),等々です。

 数えきれないトラブルに対して冷静な、粘り強い、チームワークのよい探査活動への従事が、成功につながったことが、本書を読むとよくわかります。

 「小惑星へ行こう」の呼びかけ賛同者88万人の名前をIC技術で作成した50枚のチップをイトカワに置いてきたという話、2度目のタッチダウンで「レーザー高度計」から「近距離エーザー高度計」への緊張感ある転換、そして着地の話、2005年9月燃料切れで息もたえだえの「はやぶさ」との通信途絶と奇蹟的回復の話、「はやぶさ」地球帰還直前にスーパーエンジニアである川口さんが神社詣でをした話、どれもこれもドラマチックな話の連続で興味つきません。

軽井沢散歩③ [旧三笠ホテル]

2010-09-15 23:06:23 | 旅行/温泉

  画像は、旧三笠ホテルの前にあった、このホテルの説明書きの看板です。JR軽井沢から旧軽のほうにずっとあがっていき、右手に折れると旧軽銀座ですが、まっすぐ、三笠通りを約1.5キロほど行くとこのホテルの前にでます。自転車ではやや登りになることもあって10分くらいでしょうか。

 このホテルは、山本直良(1870-1945)の創業です。山本直良は、有島武郎の妹・愛子の夫であり、また作曲家山本直純の祖父です。有島の影響があり、白樺派の文人がよくここに集いました。三笠マークのMとHが組み合わさったデザインのついたカーテンボックスは弟の有島生馬によるものです。

  昭和37年、三笠山のふもとに土地を25万坪を購入した山本直良は、当初、牧場を営むつもりでしたが、土地に問題があり断念、そこで万平ホテルの主人の知恵をかり、ホテルを建てることに。設計は、岡田時太郎です。

 ホテルの営業は、明治39年から。客室は30。電灯によるシャンデリア照明、英国製タイルを張った水洗便所、英国製のカーペットなど、当時としては最高のつくりでした。

  チョコレート色の板壁、オフホワイトの太い窓枠、赤い屋根がついた八角形の塔屋が眼をひきます。部屋のなかは、わたしが札幌で知っていた有島記念館、豊平館と同じような明治の木造建築のかおりがただよっています。

 1980年に国の重要文化財に指定されました。


軽井沢散歩② [犀星別荘など]

2010-09-14 23:14:49 | 旅行/温泉
 軽井沢の地が避暑地して利用されるようになった起点は、カナダの聖公会の司祭で、宣教師として明治6年に来日したショーの功績が預かって大きいです。明治19年の夏、もうひとりのイギリス・スコットランド生まれのディクソンとともに長野経由でここに来たときにこの地の気候の素晴らしさに感嘆し、翌年から避暑地生活を始めたということです。そのショーと関係した記念礼拝堂、ショーハウスがこの軽井沢の北西の地にあります。
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  このあたりは、木々が深く林になっていて、幾分涼しく感じられます。見所としては、室生犀星の文学碑、そこからかなりある正宗白鳥の碑、犀星の旧家、さらに駅のほうに下っていくと明治30年[1897年]に設立された軽井沢合同キリスト教会(ユニオン・チャーチ)があります。
 室生犀星の文学碑は、ショーハウスの前を通過し、少し歩くと二手橋(にてばし)にでるので、その橋をわたり、矢ケ崎川にそって左に曲がっていくと、ややさがったポイントにあります。犀星が昭和34年に『かげらふの日記遺文』で野間文芸賞を受賞したおりの賞金で作成されたとのこと。文学碑は浅間山の溶岩を使って石垣とし、黒い御影石に碑文がはめこまれています。碑文の詩は、『鶴』の巻頭詩「切なき思ひぞ知る」です。
 石垣の中央に洞窟があります。また碑の側には一対の俑人があり、犀星が京城(現ソウル)でもとめたものです。
 正宗白鳥文学碑は、ここから歩いて坂をのぼり、山道をかなり行ったところ。一之字山、吉ケ沢のあたりです。碑はやはり黒い御影石でできていて、十字架の形です。ギリシャの詩(花さうび[花バラ])が白鳥の自筆で刻まれています。碑の下には、白鳥の愛用した万年筆が収められているとのこと。
 犀星の別荘もこの近くです(大塚山[だいづかやま])。有名なテニスコートからひとつ上の道をいくと遅い道があり、ここに入って100メートルくらいのところに瀟洒な建物があり、そこが犀星の別荘です。庭も綺麗で、犀星がその作成にたずさわったとのことです。落ち着いた時間が流れています。いつまでもそこに居たいような・・・。堀辰雄、立原道造もしばしばここに住む犀星を訪問しました。

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軽井沢散歩①[タリアセンなど]

2010-09-13 00:36:57 | 旅行/温泉
今年の軽井沢は9月に入っても、一向に涼しくならないようです。ようやく先日の台風9号の余波を受けたあたりから、吹く風は秋らしくなってきましたが。

 その軽井沢で数日、過ごしました。かつては芸術家、文人は、ここで過ごし、創作活動を続けました。タリアセンの高原文庫のあたりにいくと、往時を偲ぶことができます。ちなみにタリアセンとは、ウェールズ語で「輝ける額」の意味で、芸術の妖精を暗喩しているとか。

 高原文庫に行くと、堀辰雄の使った山荘(1412番山荘)、野上弥栄子の書斎兼茶室(1933年築)があります。また立原道造の歌碑が入口のあたりにあり、また文庫のなかには中村真一郎の歌碑があります。そして、展示室には、あまたの文人の写真(石川辰三、室生犀星、堀辰夫、中村真一郎、川端康成、立原道造、遠藤周作、北杜夫、谷川俊太郎、等々)、手紙、ハガキ、原稿などが陳列されています。

 高原文庫を出ると、すぐ前に、喫茶店がありますが、その左側には、有島武郎が住んでいた館、浄月庵があります。実はこの建物は、旧三笠ホテルのすぐ近くにあったもので、大正12年に、有島が女性雑誌記者・波多野秋子と情死した場所にあったものを移築したものとか。情死した場所には現在、終焉の碑があり、これも見てきました。移築された建物は、なかに入ることができ、喫茶部(「一房の葡萄」)があります。

 このあたり一帯は、塩沢湖のほとり。上記の高原文庫、浄月庵のほかに、ペイネ美術館、深沢紅子の野の花美術館、旧朝吹邸があり、ゆったりとした気分になれます。
 ペイネ美術館は1933年にアントニン・レーモンドの設計によります。自身のアトリエ「軽井沢・夏の家」が美術館施設として利用されています。現時点では、みつはしちかこさんの絵本原画展のような催し物があります。
 時間があれば、塩沢湖でボートを漕ぐこともできますが、今回はパスでした。

甲府市までのバス・ツァー

2010-09-12 00:36:59 | 旅行/温泉
最寄りのスーパーマーケットの企画で、山梨県へのバス・ツアーのくじ引きといううものがありました。用紙に名前などの必要事項を記入して、抽選結果を待ちます。その抽選で、当たりました。

 一日のバス旅行で、甲府市まで行きます。ジュエリー工房(Ambrose 彩楽)、ワインセラー見学、ブドウ園でのブドウ狩り、昼食はバイキング、温泉(石和温泉:華やぎの章慶山)、ハーブ庭園にも入って、帰ってくるというコースです。

 朝早くに家を出て、午前6時にバスに乗車、一路、甲府市に向かいました。所要時間は2時間弱。距離はかなりあります。

 待望のブドウ狩り。ブドウ棚はかなり低いので中腰状態です。デラウェアが見事にたくさんなっていました。専用のはさみでブドウをつるから外すのです。街で買うものとくらべると、実がかたくひきしまっています。取り放題ということでしたが、2房も食べれば十分満足です。後はお土産でひと籠、巨峰と桃の入ったリーズナブルなひと籠を買いました。

 バイキングはやや期待外れでしたが、温泉を久しぶりにエンジョイして帰ってきました。