【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

夏樹静子著『女優X-伊澤蘭奢の生涯』文藝春秋、1996年

2007-06-28 13:46:26 | 小説
夏樹静子著『女優X-伊澤蘭奢の生涯』文藝春秋、1996年。
              女優X(文芸春秋)
 大正から昭和にかけて、松井須磨子亡き後、華々しく新劇女優として活躍し、37歳で卒然と逝った伊沢蘭奢(新劇協会)の生涯です。

 表題の『女優「X」』とは、生母(蘭奢)と幼くして生別したひとり息子の佐喜男が自分の母が女優らしいと言うだけを知っていて思慕するものの、それが誰だかわからないこと、またビュイッソン原作、サラ・ベルナール主演の「マダムX」という無声映画があり、この内容が蘭奢の経験と重なるところがあるだけでなく、実際に舞台で彼女がその演劇で演じたこと、がベースになっています。

 蘭奢は女優を夢見て、夫、愛児、故郷津和野を棄て、東京に出、苦労しながら女優の道に入り、押しも押されぬ役者になったのです。

 人生そのものがドラマチック、当時の新劇界の様子もきめ細かく描写されています。著者は、蘭奢の話を「別冊文藝春秋社」の高橋一清編集長から聞き、この小説の創作を思い立ったと書いています(p.291)。

 そして、「処女作以来、『母と子』は私の一生のテーマと思ってきた」(p.293)とのことです。

 おしまい。

源孝志監督「大停電の夜に」2005年

2007-06-22 00:46:39 | 映画
源孝志監督「大停電の夜に」(132分)2005年。
       

 予備知識が全くないまま、観はじめました。「タワーリング・インフェルノ」のようなパニック映画を予想していましたが、全く違います。大都市東京で、その全域をおおう停電がおこり、地下鉄は動かなくなる、ネオンは全部消える、エレベータは止まってしますのですが・・・・。
 
 停電下の大都市で起こる人と人の関わり、みんな過去があってその過去が現在が作っています。人々、男と女の思いが、大停電のなかで静かにメロディーになって流れます。 監督は「東京タワー」の源孝志。また撮影は、2002年のセザール賞・最優秀撮影賞に輝いた日本人カメラマン永田鉄男が担当しています。

 一年で一番光り輝くはずのクリスマス・イブの夜に大停電が起こったらという設定です。停電という思いがけない事態。12人の男女それぞれが経験する一夜限りの特別な物語。ストーリーは、実に繊細なタッチで綴られます。

 12月24日、クリスマス・イブの夜を迎えた東京の街からすべての光が一瞬にして消え、東京が闇となりました。そう、戦争中のような。蝋燭だけがたよりになる光です。  
 そんななか、かつての恋人を待つバーのマスター(豊川悦司)と向かいのキャンドル・ショップの女の子(田畑智子)。妻と愛人の間で揺れるサラリーマン(田口トモロヲ)。秘めた想いに迷っていた主婦(原田知世)。エレベーターに閉じ込められた中国人のベルボーイ((阿部力)とOL(井川遥)。地下鉄の中の元ヤクザ(吉川晃司)と妊婦(寺島しのぶ)。天体望遠鏡を覗く少年と病院の屋上に佇む少女。行灯の前で向かい合う老夫婦(宇津井健と淡島千景)。12人の男女のそれぞれの秘めた人生のドラマが、人が人を想うことの危うさと貴さを静かに紡ぎ出します。

 映像が綺麗です。キャンドル・ショップの女の子が、今日でバーを閉めるというマスターを訪れ、自分で作ったたくさんのキャンドルに点火し、真っ暗なお店に光がともる場面は、ファンタジックです。

 札幌の友達がCDに焼いて送ってくれました。いい映画です。おしまい。

江後迪子『隠居大名の江戸暮らし-年中行事と食生活-』吉川弘文館、1999年

2007-06-17 00:51:35 | 歴史
江後迪子『隠居大名の江戸暮らし-年中行事と食生活-』吉川弘文館、1999年。
                 隠居大名の江戸暮らし

 『臼杵藩稲葉家奥日記』から当時の大名の生活を洗い出しています。日記の3分の2は1801年(享和元年)から1853年(嘉永6年)までの江戸屋敷のもの。その他は、臼杵城のものなど。

 藩主は11代で24歳の雍通(てるみち)に始まり、12代尊通(たかみち)、13代幾通(ちかみち)、14代観通(あきみち)、15代久通(ひさみち)と5代にわたります。

 当時の大名は時々国元へ帰りましたが、一生の大半を江戸で過ごすのが普通でした。殿様の仕事と経費、行事と儀礼、食事と献立など、暮らしの実態が日記から類推し、ユニークな本になっています。

 「奥日記」からは雛節句、端午節句の様子、歳暮の祝儀、餅つき、また家督相続、結納・婚礼・縁組、着帯・出産、箸の祝儀、誕生祝い、元服、有卦、葬儀、法事・忌中、病気見舞いなど、暮らしぶりが細かく、よく見えるようです。お菓子のことが沢山かかれていたこと、干鯛、鮮鯛など鯛に関する記述が多かったことも印象に残りました。

 参勤交代は藩財政にとって大きな負担になっており、また幕府はそれを目的としたことはよく知られていますが、臼杵藩の1840年(天保11年)のそれは要員で470人、前年の所要経費1619両で藩財政の3.2%だっとあります(p.54)。

 また、武家の年中行事の詳細が描かれていますが、その内容は宮中の行事(「御朝物」「菱餅」「御買初」「三月九月節句」「端午節句」「中元刺鯖・蓮飯」「八朔」「玄猪」)を規範としていたらしいです(p.p.70-71)。

 目次は以下のとおりです。「『臼杵藩稲葉家奥日記』と大名の生活文化―プロローグ」「臼杵藩の江戸屋敷と公務」「江戸屋敷の行事と儀礼」「大名の生活と遊興」「幕藩体制の崩壊と暮らしの変化―エピローグ」 。

おしまい。

辻井喬『父の肖像』新潮社、2002年

2007-06-16 01:15:51 | 小説
辻井喬『父の肖像』新潮社、2002年。
        父の肖像
 
 「辻井喬」は、セゾングループ(旧西武流通グループ)の実質的オーナー、堤清二さんのペンネームです。

 近江商人の末裔、政治家であり、事業家だった父、堤康次郎(1894‐1964:小説では楠次郎)をモデルとした小説です。

 父に対する反発をバネに、わたし(著者)が父次郎の生涯を伝記風に仕立て、自らの宿命をたどっていきます。父を宿敵とみた最大の原因は、彼の女性関係でした。

 再婚した妻の桜(その後離婚)は、体が弱く子供を産めませんでした。しかし、彼女は次郎の最初の妻「山東より」の子、また彼が関係した女性、岩辺苑子と石山治栄の子をひきとり育てます。

 わたし(恭次)は次郎の故郷、滋賀で結婚した前妻の子で、養母桜のもとで成長しました。しかし、「わたし」は、実は父次郎が、彼に性の手ほどきをした平松摂緒の娘、佐智子に産ませた子であったのです(わたしの実の母を詮索する話が後半に出てきます。ただし、この部分はフィクションとのこと)。

 父、次郎は政界と実業界(不動産、観光業)で名をなしましたが、恭次は「不身持」の次郎の人格を嫌い、反抗心から詩を書き、東大の共産党組織に入り(後年、除名)、その後、結核で療養生活と不本意な時を過ごしました。

 著者は父に批判的ですが、翻って恭次(著者)自身の生き方はどうなのかを探ると、力強さや信念がありません。

 次郎の生きた時代、明治から大正、そして昭和前半までの政界の動き(例えば枢密院の役割、山形有朋・大隈重信・永井柳太郎、民政党と政友会の対立、2・26事件、次々と変わる首相)がリアルに描かれています。

 645ページ。第57回野間文芸賞、受賞作品です。

日本人の歴史認識の根底には「世間」が・・・阿部謹也著『日本人の歴史意識-「世間」という視角から-』

2007-06-11 00:51:53 | 評論/評伝/自伝
阿部謹也著『日本人の歴史意識-「世間」という視角から-』岩波書店、2004年。
                日本人の歴史意識―「世間」という視角から
 日本独自の生活の形である「世間」。本来は仏教用語で、サンスクリットのloka(ローカ)の訳語であり、「壊され、否定されてゆくもの」の意です。

 そこには「贈与・互酬の原則」「長幼の序」「共通の時間意識」が働いています。また、そこで隅々にまでゆきわたっているのは呪術です。

 「歴史」は、この「世間」にとっては外在的な与件、突発的な事件にすぎません。明治維新後日本は近代化に邁進したが、この「世間」は脈々と日本人の生活様式に、感覚に残存しています。

 一方「歴史認識」というのは、「社会現象を時間的契機において捉え、その推移に主体的にかかわりあってゆこうとする意識」です。

 著者はこのコンセプトを、『日本霊異記』をはじめ、多くの古典のなかに確認しています。他方、「世間」に支配的だった呪術は、西洋では12世紀には否定されていました。そのことは、『奇跡を巡る対話』に明確に伺えるそうです(著者は日本では呪術を否定した親鸞に着目しています)。

 歴史認識は、日本と西欧とでは全く異なります。西欧では個人の視点から、歴史を時間継起的に捉えていく眼があります。他方、日本では学者レベルでも、歴史はそのように把握されず、円環運動として、外在的にしか認識されません。

 著者はフーコーの内面の発見、ハインペルの歴史学、カーの歴史認識でこのことを例証しています。

 「『世間』のなかで暮らしながら歴史と直接向き合うためには『世間』と闘うという方法」「自分の周囲にある『世間』を歴史として対象化する方法」の2つがあると、著者は結んでいます(pp203-204)。

おしまい。

短編の名手、阿刀田高さんの本。『ナポレオン狂』講談社文庫、1982年

2007-06-10 12:03:07 | 小説
阿刀田高『ナポレオン狂』講談社文庫、1982年。

 短編の名手、800編以上の短編を書いた阿刀田さんの直木賞受賞作品です。
     ナポレオン狂
 阿刀田さんは、つい先日、井上ひさしさんの後をついで、ペンクラブ会長になりました。新潟県出身、長岡高校から都立西高校へ転校、早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業です。ブラックユーモアから何でも手がけていますが、古典の解読の分野でも仕事があり、1995年には、『新トロイア物語』で吉川英治賞を受賞しました。熱烈なタイガーズファンとか。
              
 阿刀田さんの短編は不気味なもの、どんでんがえしのあるものが多いように思います。この文庫本におさめられている短編もそうです。

 ロアルド・ダールの影響を受けたことを本人がどこかで書いていましたが、直木賞受賞のこの短編集を手にとりました(1979年第81回直木賞受賞)。「ナポレオン狂」はあきらかにダールの「女主人」をヒントにしていますね。ダールのこの小説も読みました。

 「ナポレオン狂」は、偏執と不気味が漂い、最後の一行「約束のみりん干しはいまだ届かない。村瀬氏(登場人物)が立ち去って以来、ただの一度も・・・・」が・・・・。あ、ここからは書かないほうがいいですね。これから読もうと思っているひとに悪いですから。

 「来訪者」も怖い話です。赤ちゃんのすりかえ犯罪です。この文庫に入っているものでは、他に「ゴルフの事始め」「「白い歯」「狂暴なライオン」「捩じれた夜」「透明魚」がお勧めです。

おしまい。

旧約聖書、新約聖書を理解したい。ついでに関連する西洋絵画も。

2007-06-06 00:48:35 | 美術(絵画)/写真
中丸明著『絵画で読む聖書』(文庫)新潮社、2000年。
              絵画で読む聖書

 ユニークな本です。

 どこがそうかというと、まず日本人には分かりにくい、旧約聖書、新約聖書のストーリーの全体像が理解できるように解説してくれて、それが妙に(?)、成功しているからです(それでも一度読んだだけでは頭に入らないところがあるのはやむをえない)。
 次に、その語り口ですが、名古屋弁(カナン弁)を多用して、雰囲気をだしながら、時々、脱線し、また饒舌になり、飽きさせません。名古屋弁は最初は気になりましたが、だんだん慣れてきて、おしまいでは違和感はなくなりました。
 そして、最後ですが、聖書にからむ西洋絵画が並べられ、そのストーリーとの対応が示されているので、絶妙の名画解説になっています。

 というわけで、分厚い本ですが、楽しく読めました。旧約はアダムとイブから始まって、カインとアベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの系図を太い流れとしておさえ、ヨセフが4人の女に産ませた、ひとりの女の子を除く12人にイスラエル12部族の領土分割したのだということを理解すると何だかわかったような気がします。

 新約聖書のほうは、福音書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝、それに外伝があることをおさえ、ペテロとパウロの布教活動、ローマ帝国の皇帝との関係を固めていけば何とか基礎的な流れが掴めそうです。

 キリストの誕生日が12月25日などとは聖書のどこにも書いていない、旧約聖書には他民族の伝説物語の焼き直し? ガリレオの地動説は1983年に、進化論は1996年にヨハネス・パウルス2世によってその正しさが認められた、など興味を惹く逸話が盛りだくさんです。

 「歴史はシュメールにに始まる」という言葉がでてきますが(p.60)、宗教問題にはユダヤ人、アッカド人、アッシリア人、カッシート人、ヒッタイト人などの民族問題と表裏一体のようです。

 処女懐胎で受胎告知を受けたマリアを母にもつイエスはユダヤ人の範囲を超えて救済に尽くしたために反ユダヤの汚名をきせられ、ゴルゴダの丘で磔刑に処されました。アーメン。
 
おしまい。

黒沼ユリ子『ヴァイオリン・愛はひるまない』海竜社、2001年

2007-06-04 00:29:40 | 音楽/CDの紹介
黒沼ユリ子『ヴァイオリン・愛はひるまない-プラハからメキシコへ-』海竜社、2001年
            
 「自分史」です。ヴァイオリンを初めて手にした8歳から60歳くらいまでです。

 11歳で学生音楽コンクール小学校の部で一位入賞。16歳で第25回日本音楽コンクール一位。18歳でプラハへ。ダニエル教授、ヘンリック・シェリング、そして夫になったメキシコ人との出逢い。結婚してメキシコへ。アカデミア・ユリコ・クロヌマの立ち上げ、創立15周年、20周年の記念コンサート。離婚、そして渡辺高揚との再婚。

 90歳の母をメキシコに迎えます。本の冒頭の写真はその並び方が本の内容と対応しています(イングリード・フジ子・ヘミングと協演している写真は貴重)。

 マヤ人とメキシコの文化を綴ったところは、力が入っています。「ヨーロッパ文明が唯一の人類が築いた最高の文明のように考えていたわたしにとって、マヤ文明をはじめメキシコの古代の様々な文明を知ったことによって・・私にも、ヨーロッパ人の自己崇拝主義というか自己中心主義が目に見えるようになったり、白人の有色人に対する根深い優越感というものが・・・根拠のないものであり、ヨーロッパ人がこの500年ほどの間に作り出した植民地主義の結果であることが、実感としてやっと理解できるようになった」(p.218)と。

おしまい