【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

一海和義『知っているようで知らない漢字』講談社、1991年

2013-05-31 00:09:06 | 言語/日本語

   漢字に関して、常識的なこと、例えば、その読み方に、漢音、呉音、唐音、慣用音があることなどはもちろん、あまり知られていないこと、例えば、中国の簡体字と日本語で使われる漢字の略字の考えとの相違、漢字には助詞、前置詞、関係代名詞を使わないで長い言葉を作る機能があること(一つの極端な例:県立広洋高等学校創立三五周年記念秋季大運動会準備実行委員会企画小委員会広報部会大三回中間報告草案検討会議)まで、さまざまなことが、体系的に書かれています。今後、漢字がなくなるかどうかについても論じています。著者は、そこで、「終には必ず廃せられて、久しくは存する能わざるも、暫時必ず存せられて、遽か(ニワカ)には廃する可からず」という中国の代表的言語学者の意見を引いています。面白いです。

  構成は4部からなる。「Ⅰ うっかり読み誤りやすい漢字」「Ⅱ 同じ意味でもちがう漢字」「Ⅲ 漢字から仮名が生まれるまで」「Ⅳ あなたは漢字の変化についていけるか」。

  全体のコンセプトは、漢字文化に囲まれているわたしたちは、それでは漢字のことをよく知っているのかと問えば、案外何もしらないのではなかろうか、と疑問を発し、それをセミプロの視点で明らかにしていこうという姿勢です。漢字はなぜ漢字と言うのか。日本人は漢字をいつごろから使いだしたのか、使いこなせるようになったのか、漢字はどれくらいの数があるのか、日本でつくられた漢字(国字)はいくつあるのか、「蟲」の字と「虫」の字との関係は。「森」はどうして日本でだけ「モリ」を表し、中国ではその意味でつかわれないのか、画数が最も多い漢字は何か、漢字と仮名をどれくらいの割合でまぜると読みやすい文章になるか、などなど。

  わたしの姓名のなかの一字である「」は「崎」と微妙に違う。戸籍では「」が使われていますが、生まれてこのかた、「崎」を使ってきました。2つの漢字はどう違うのか。知らなかったのですが、この本でわかりました。

  要するにアマチュアの素朴な「疑問」によりそって、それらを「Q&A」形式で安易に説明するのではなく、ある程度、体系的に、論理的に答えようとしているのがこの本です。


「みつ石」(豊島区西池袋3-29-3;tel 03-3982-1129)

2013-05-30 12:58:48 | 居酒屋&BAR/お酒

      

 ここは職場に近いところにあります。ビルの地下1階のあまり大きくないお店で、「男の隠れ家」的存在です。


 大変に料理がおいしいとrこです。お刺身が新鮮で、盛り合わせが上手で、豪華にみえます。「ウニ:が必ずついていて、海苔でまいて食べます。画像の、〆サバは絶品。酢の締め方が絶妙で、かつ身崩れがなく、しっかりしています。〆サバはときどき、箸でつまむと、「だらん」としてしまうものもありますが、そういうことが全くなく、ほどよくしまっています。

 たくさんのメニューがあるわけではありませんが、それゆえに、出てくるものには、心がこもっていて、お客を満足させようという気持ちが伝わってきます。ハモの天麩羅もおいしかった記憶があります(季節ものかもしれません)。それと、たまご焼、ほたての串焼きもおいしいです。

 情報によると、ここではフグ料理もでるとか。きっと、絶妙と想像しますが、未体験です。食べロフには、合鴨のしゃぶしゃぶもお勧めとありました。予約が必要なようです。

 適度に混んでいます。時間の早めには入れますが、佳境では待たなければなりません。

 料理人であるマスターは、ヘミングウェイのような威風堂々さ、おかみさんが、美人です。


国立国会図書館(千代田区永田町1-10-1)

2013-05-29 00:01:35 | 読書/大学/教育

         

 先日、国立国会図書館に行ってきました。地下鉄で永田町で降りて、徒歩10分ほどです。このあたり、国会図書館があり、いわば政治の中枢部です。東京のど真ん中とは思えないほど、のんびりした感じで、空気もよく、植物も多いです。しかし、青磁の中枢部らしく、機動隊員が要所にたって見張っています。


 国立国会図書館に入るには、利用者カードを作らなければなりません。無料ですが、そのことを知らなかったの、直接、本館に向かうと、カードの作成を職員に要請されました。隣の新館の1Fでその手続きをします。わりと簡単ですが、本人と確認できるものが必要です。たまたま運転免許証をもっていたので、ことなきを得ましたが、そのようなものがないと仮の登録しか発行してくれません。これは図書館に入るためだけにやくだつだけで、本は借り出せません。わたしは免許証があったので、登録カードを作ってもらえました、手続きに約10分ほどです。この日は、あまり混んでいなかったのでよかったです。老若男女、いろいろな人がきています。

 駅の改札のように、カードでタッチして本館に入ります。本はほとんど見ることはできません。わずかに事典、統計書のようなものがある程度。本は基本的に、書庫にあり、必要な本をカウンターで請求して借り出します。さきほどのカードで、検索できるテーブルは広めにとってあります。機器の使い方がわからない人のために、アルバイトなのでしょうか、職員が歩き回って、相談に答えてくれるようになっています。

 本を借りて、外にもとだすことはできない。関内閲覧に限られていて、それも3冊まです。普通の本を読むには、便利とはいえません。調べ物、古い図書などを利用したい場合には、必ず蔵書されているので、それをコピーできます。インターネットをとおして、一部、電子化されたものを読むことができます。

  国会図書館が出来たのは、1948年6月5日です。旧赤坂離宮に構えました。現在は、東京本館、関西館、国際子ども図書館の3館体制からなります。
 モットーは「心理がわれらを自由にする」。「知識の泉」となることが目的。本を集めることを専門としています。そのために納本制度があります。
 本、雑誌、楽譜、地図、映画フィルム、CDなど、発行者は納本の義務が法的に定められています。納本点数は、昨年度だと約100万点だそうです。


「ウィリアム・シェイクスピア」(無名塾) 於:吉祥寺シアター

2013-05-25 23:25:35 | 演劇/バレエ/ミュージカル

          


  「ウィリアム・シェイクスピア」(無名塾)が今日まで「吉祥寺シアター」で公演されていました。無名塾の中堅、若手の俳優が中心になり、メンソウルという劇団の応援もあって、作り上げられた舞台です。

 脚本と詩の才能のあった若きシェイクスピアは、その才能を開花さようと大きな希望をもっていました。しかし、その才能だけで、食べていくことができるのだろうか? 不安がよぎります。弟のギルバートからも苦情が出ています。しかたなく、ウィリアムは、許嫁のアンナとの結婚を前提に、家業を継ぎ、織物職人になろうと、人生の軌道修正を考えますが、試作品のできはよくありません。それでもアンナとの結婚にこぎつけます。ところが、意地悪な領主の罠にはまり、ウィリアムはとんだ事件に撒きこまれてしまいます。どうしたらよいのか・・・。ウィリアムとアンナは考えます・・・。その結末は??

 原作のカスパー・ヨハネス・ボイエはデンマークの人で、いまから200年以上も前に作られた作品です。力の入った演技です。シアターはそれほど広くなく、わたしの席も前から2列目で、迫力あるセリフ、演技がビンビンと伝わってきました。

 ユニークだったのは、開演の15分前ほどから若い俳優が舞台に現れて、柔軟体操や、演技の確認などをしていたことです。そこから既に始まっているような作りです。とくに、アンナ役の鷹野梨恵子さんは本当に体がやわらかく、バレリーナのようです。腹筋をしている男優さんもいました。このような演劇は、初めての経験でした。


原作:カスパー・ヨハネス・ボイエ
音楽:フリードリヒ・クーラウ
脚色・演出:杉本凌士

<配役>
・ウィリアム・シェイクスピア(松崎謙二)
・アンナ(鷹野梨恵子)
・ジョン・シェイクスピア(平田康之)
・リチャード・ハザウェイ(中山研)
・グルバート・シェイクスピア(別所晋)
・バービッジ(本郷弦)
・グリーン(井手麻渡)
・トーマス・ルーシー・チャースロト(川村進)
・アラン(仲田育史)
・シンシア(加藤裕人)
・ソーバリ(樋口泰子)
・アルフ(円地晶子)
・オベロン(吉田道広)
・テイタニア(江間直子)


Raffaello(ラファエロ)展  (国立西洋美術館)

2013-05-24 21:00:59 | 美術(絵画)/写真

             

    

 Raffaello(ラファエロ)展が国立西洋美術館(上野)で開催されています。


 今から500年ほど前に、フィレンツェ、ローマで活躍したラファエロの絵画が油彩を中心に20点ほど、展示されています。

 会場の構成は4つに分かれ、「1 画家への一歩」2 「フィレンツェのラファエロ-レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロとの出会い」「3 ローマのラファエロ-教皇をとりこにした美」「ラファエロの後継者たち」となっています。

 画像の「大公の聖母」は日本では初公開です。この絵は18世紀にトスカーナ大公(現トスカーナ州の前身国家の君主)が愛蔵していたもので、生涯、この絵をはなさなかったのでこの絵の題名になっています。漆黒の背景は、ラファエロがそうしたのではなく、後代に他の人が背景が劣化したので塗ったというのが定説です。X線を使って透視すると風景が描かれているのがわかるようです。
 それにしても、慈悲深い、高貴な女性で、みていてあきることがありません。視線が下方に注がれ、気品にあふれています。やわらかな表情、しっかりとキリストを抱く手の安定感、構図もすぐれています。

 ラファエロの画は他にも、「無口な女」「聖ゲオルギウスと竜」「エゼキエルの幻視」「友人のいる自画像」「聖家族と仔羊」などが来ています。

 ラファエロはイタリア中部の町ウルビーノで生まれ、宮廷画家だった父などから絵を学びました。その後、ペルージャのペルジーノ、フィレンツェのダ・ビンチ、ミケランジェロの影響を受け、彼らの表現力を吸収しました。37歳の若さでなくなりましたが、多くの有名な弟子を育てました。

 会場はラファエロを一目見ようと大勢の絵画ファンが訪れています。切符売り場から並んでいます。6月2日までの開催です。


読書マラソンの現在(5月23日)

2013-05-23 22:58:00 | 読書/大学/教育

 読書マラソン(Amazon)でのわたしの全国順位が、100位以内に入ってきました。4月3日に125位で、一進一退が続き、5月8日に110位、19日に104位、そして21日にちょうど100位、今日現在96位です。(約130万人前後が走っていると推定しています。)

 参考までに、これまでの、経過をまとめます。

・2012年5月4日(1567位)
・2012年6月16日(933位)
・2012年8月19日(498位)
・2012年9月21日(390位)
・2012年11月22日(232位)
・2013年3月3日(197位) 
・2013年4月3日(125位)
・2013年5月21日(100位)
・2013年5月23日(96位)    


速水御舟(『別冊太陽・日本の心161』)、平凡社、2009年

2013-05-21 22:12:42 | 美術(絵画)/写真

        

 日本画の画家、速水御舟(1895-1935)はその作風が多彩で、いろいろな可能性を生涯、追求し
た。この冊子には、御舟の多くの作品が収められているが、一瞥しただけでもそれがわかる。
 
 「京の舞妓」は細密画の極致、「名樹散椿」(重要文化財)、「翠苔緑芝」には琳派の影響が色濃い。「炎舞」(重要文化財)は、装飾、写実、象徴のそれぞれの要素が見事に調和している。

  画集としても素晴らしいが、執筆陣が豊かで、御舟の多面性が浮き彫りにされている。山種美術館館長の山崎妙子は、御舟の画家としての人生を要領よくまとめている(「画塾からの出発」「細密描写をつきつめる」「古典を昇華する」「同時代の表現者として」)。このなかで山崎は伝統的絵画にまなびながら、次第に南画的手法を試み、さらに青の時代とよばれる群青色を多用した画風を経て、細密画へと進んでいくプロセスを紹介している。また「速水御舟と岸田劉生」では、ふたりの画風の関連性を読み解いている。

  須田悦弘は談話としてであるが、「御舟のリアリティ」でその不思議な「リアル」について問題提起している。御舟が日本画に道に進む切っ掛けをつくったのは歴史画家・松本風湖であり、大きな影響を与えたのは新日本画の創造に挺身した今村紫紅だった。

  その後、親友だった吉田幸三郎の妹、弥(いと)との結婚、京都での修行、ローマ美術展への参加と約1年に及ぶ欧州旅行。この海外での美術作品への接触が、御舟に計り知れない影響を与えた。こうした御舟の人生行路に関しては、真田邦子の「<評伝>美でもなく、醜でもなく」が詳しい。

  気鋭の女流日本画家松井冬子が美術史家の山本裕二と「いま、御舟の絵に向きあう」として、対談している。山種美術館に赴いて、名作「名樹散椿」「炎舞」「黒牡丹 牡丹花」「緋桃図 桃花」「春昼」などを前にして、作品の質を論じあっている。

  本冊子の終わりのほうで、次女の吉田和子が「<特別寄稿>父と過ごした日々」を寄せている。

  御舟の全貌がわかる逸品。


東慶寺(鎌倉市山之内1367)

2013-05-20 23:56:25 | 旅行/温泉

         

 円覚寺のあとは東慶寺(とうけいじ)です。このお寺は、臨済宗円覚寺派の寺院です。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺です。


 山のなかをうまく利用して建てられています。若緑の木々の葉が、まぶしいです。薫風がとおりすぎていきます。

 ここのお寺の本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条貞時、開山(初代住職)は覚山尼(かくさんに)。覚山尼は、北条時宗の夫人で、貞時の母にあたります。時宗の死後、出家して尼となりました。

 東慶寺は、かつては代々尼寺で、尼五山の第二位の寺でした(現在は男僧の寺)。また、近世を通じて「縁切寺(駆け込み寺)」として知られていました。江戸時代には離婚請求権は夫の側にしか認められていませんでしたが、夫と縁を切りたい女性は、この寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があったそうです。幕府公認でした。多くの女性が東慶寺を目指したようです。この制度は、女性からの離婚請求権が認められるようになった明治5年まで続いたそうです。

 当寺は文化人の墓が多いことでも有名です。鈴木拙、西田幾太郎、岩波茂男、和辻徹郎、安部能成、小林秀雄、田村俊子、高見順たちが眠っています。なぜ、そのようなのか、理由はわかりません。


円覚寺(鎌倉市山之内409)

2013-05-19 23:00:03 | 旅行/温泉

 

 北鎌倉の古刹をまわってきました。少し急ぎ足で歩くと汗ばむほどの陽気。最初は円覚寺です。
 
 円覚寺(えんがくじ)は山号を瑞鹿山(ずいろくさん)、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山です。鎌倉五山の第二位に列せられ、本尊は宝冠釈迦如来です。開基は北条時宗、開山は無学祖元です。

 鎌倉時代の弘安5年(1282年)に執権だった時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建しました。鎌倉時代を通じて北条氏によって保護されました。

 JR北鎌倉駅前にすぐ、円覚寺の総門があります。

 このお寺は
弘安10年(1287年)以降たびたび火災に遭っています。中でも応安7年(1374年)の大火、大永6年(1526年)の里見義豊の兵火、永禄6年(1563年)の大火、元寇16年(1703年)の震災などの被害は大きく、大正12年(1923年)の関東大震でも仏殿などが倒壊する被害を受けました。創建当時は、総門、山門、仏殿、法堂、方丈が一直線上に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置でしたが、いまは法堂は失われています。

総門
舎利殿を望む
 

「【特別展】百花繚乱-花言葉・花図鑑-」(山種美術館)

2013-05-18 23:51:07 | 美術(絵画)/写真

 

 山種美術館(渋谷区広尾)で【特別展】百花繚乱-花言葉・花図鑑-」が開催されています(4月6日~6月2日)。お目当ては、速水御舟(1984-1935)の「名樹散椿」(重要文化財)です。テレビ番組の「美の巨人」で、この絵が紹介されていて、興味津津となりました。


 山種美術館の特徴は、日本で最大の日本画コレクションと言われています。昭和41年創設。コレクションには、この速水御舟の他、川井玉堂、奥村土牛、菱田春草、酒井抱一、鈴木基一など多数です。梅原龍三郎、小出楢重などの洋画も多数所蔵されています。

 今回の展示会の構成は、「人と花」「花のユートピア」「四季折々の花-春爛漫、夏の香り、秋の彩り、冬の華、春の訪れ」となっています。会場に入るとまず、狩野常信の「明皇花陣図」の彩りの明るい、構成のしっかりした絵が目に飛び込んできます。これは目をひきます。そして、鈴木守一、菱田春草、森村宜永などの細密で、日本画の素晴らしさを秘めた作品群が並んでいます。

 速水御舟の作品、「名樹散椿」は、二曲一双の屏風絵。苔山の上に五色八重の散椿があり、この椿は生命力あふれ、枝ぶりはのたうつようです。京都の地蔵院にあった散椿を御舟が観察して(昭和4年春)、描いたといわれています(この撒椿は400年の古木で枯れてしまい、現在は2代目が植えられています)。背景は金地、重く、鈍く、一切の破綻がありません。この金地は、金砂子の撒きつぶしという技法によるとか。「名樹散椿」の他には、「桔梗」「椿の花」「春の宵」が展示されていました。
 最近、わたしは奥村土牛の作品に惹かれ初めていますが、「木蓮」「吉野」「桔梗」などを鑑賞できました。
 梅原龍三郎、横山大観、上村松篁、狩野芳崖などの、いわゆる大家・巨匠の作品に接することが出来たのも幸運でした。
 酒井抱一(「扇面夕顔図」「立葵図」)、鈴木基一(「牡丹図」「菊図」)、谷文晁(「武蔵野水月図」)らは、作家乙川優三郎氏の小説に登場し、名前も人となりも多少わかっていたので、親しみがもてました。

 どれもこれも日本画への感興をかきたてるものばかりですが、荒木十畝「四季花鳥」にはため息がでるほどの美しさです。花々と鳥の組み合わせ、配色の妙味。

 古から日本人は草花、鳥、虫、動物、自然の造形物に敏感な感性をもって目をむけてきました。その粋がここに集まっているような印象です。

  


近藤誠『「余命3カ月」のウソ』KKベストセラーズ、2013年

2013-05-17 23:46:46 | 医療/健康/料理/食文化

                

  癌の本人告知は、以前は慎重に行われていた。しかし、今はわりと簡単に医者はそれを患者に伝える、そんなことを聞いたことがある。わたしも地元のある病院で、待合室で診療の呼び出しをまっていたら、かなり年配の男性が診療室から出てきて、付添い人に「オレ、癌だってよー」と話していて驚いたことがある。そんなに簡単に、医者は「あなたは癌です」などと言うのだろうか、と。


   本書を読むとそれは別に驚くことではなく、現在、医者はわりとすぐに「余命は3カ月です」と宣言するらしい。これは一種の強迫であり、著者の説明によると、もしこれを「1年は大丈夫です」と伝えて3カ月で患者がなくなってしまうと医者としての面目がたたず、また生存データを見せて「癌の進行は個人差が多いのでゆっくり治療しましょう」などと言うと、患者を治療に追い込めないのだと言う。

   この本で著者が声を大にして述べていることは、「癌には転移するものと、しないものがあり、前者が本物の癌、後者は「がんもどき」で、癌はこの『がんもどき』が大変多い」「医者に騙されてはいけない、『余命3カ月』などとただちに宣告する医者はヤブである」「早期発見によって延命できると考えるのは錯覚」「逆に早期発見によって手術を勧められ、その結果内臓を失い、苦しんで死にいたるケースが多い」「癌検診は百害あって一利なしと心得よ」「検診はなぜか日本だけで盛んに行われている」「検診による医療被曝に注意せよ」「抗がん剤はやめたほうがよい、宿命詐称がある」「結局『余命は3カ月です』と患者に伝えるのも、抗がん剤を投与するのも、医 者と製薬会社の『もうけ』第一主義によるものである」ということである。徹底的に患者によりそって、問題提起している。

   著者は年来、「がんは切らずに治る」「抗がん剤は効かない」「がんは原則として放置したほうがいい」と言い続けていたが、その延長上に、この本がある。癌への対処の仕方は、したがって、医者に騙されない9つの心得(①元気なのに、「余命は3カ月」はありえない、②人はがんですぐには死なない、③検診は受けない、受けても忘れる、④リンパ節まで切り取っても、がんは治らない、⑤検診で受ける放射線量に要注意、⑥治療法はひとつ、ということはない、⑦セカンドオピニオンは違う病院の違う診療科で、⑧「免疫力」より「抵抗力」、⑨無治療が最高の延命策)を遵守し、癌とつきあいながら(癌とたたかうのではない)限られた人生をよく考えて誠実に生きること、がよいと提唱している。

   本文中では、昨年、食道癌が切っ掛けで、手術後わずか4カ月で肺炎から急性呼吸窮迫症候群(ADRS)を引き起こして亡くなった中村勘三郎さんの例もとりあげて、その処置が適切でなかかったのでは、と疑問をなげかけている。

   構成は以下のとおり。「第1章:偽りだらけの余命宣言」「第2章:余命とは何か」「第3章:がんとはなにか」「第4章:余命を縮める抗がん剤の正体」「第5章:予防医学が余命を削る!」「第6章:限られた余命を、どう生きるか」


吉村昭『味を訪ねて』河出書房新社、2010年

2013-05-16 23:13:20 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

          

  小説の取材活動などで全国を歩いた著者が、編集者に乞われて執筆した「食」に関するエッセイをまとめたものです。


  小説同様、著者の無駄も、余計な粉飾もない硬筆の文章がよいです。しかし、一面、とくに前半は、味に関して、「実にうまい」「すこぶるうまい」などの余白のない表現が目立ちます。

  暗い、貧しく、国民全体が飢えていた戦争時代を経て生きた著者らしく、戦後の洋食との出会い、ビフテキ体験には共感がもてました。気取った食を排し、旅で行く先々の地方(市場)の食材を愛で、質実の道に徹しています。

  同時に、著者は東京に生まれ、育ったので、戦後のこの地の雰囲気を楽しんでいます。上野、浅草、根岸など。地方の豊かさにも目を向けています。宇和島のうどん屋、長崎のカステラと蒲鉾、米沢の味噌、岩手県田野原村のじゃがいも、福井県小浜の小鯛の笹漬、あちこちの蕎麦。

  
そして何と言ってもお酒だ(ビール、焼酎、泡盛、日本酒、ウィスキーなんでも)。日本酒がおいしくなったことに祝杯をあげて、本書を閉じています(「日本酒花盛り」)。
  新潟県の「久保田」「八海山」「白瀧」「雪中梅」「〆張鶴」「鶴亀」がお好みのようです。


ヒラリー・ハーン ヴァイオリン・リサイタル)[東京オペラシティコンサートホール]

2013-05-15 23:12:59 | 音楽/CDの紹介

               

 ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn)ヴァイオリン・リサイタルが東京オペラシティコンサートホールで開催されました(伴奏ピアニストはコリー・スマイス)。わたしにとって、彼女のコンサートは2回目です。前回も、同じ場所でありました。
 ヒラリー・ハーンは気鋭のヴァイオリニスト。1979年、アメリカのヴァージニア州レキシントンの生まれ。3歳でボルティモアに移り、4歳になろうと言う時にピーボディ音楽院のスズキ・メソード・プログラムでヴァイオリンを始めました。10歳でフィラデルフィアのカーティス音楽院に入学、以後17歳までイザイの門下生としてヤシャ・ブロツキーに師事しました。
 世界の一流オーケストラとの定期的な共演を行っています。この16年間で合計14枚のソロ・アルバムをリリースしています。


 演奏曲目は以下の通りです。
・アブリル ”First sigh” from "Three sights"
・ラング Light Moving
・モーツアルト:ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ホ長調 K.302
・大島ミチル:Memories
・バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より「シャコンヌ」
 
・バレット:Shade
・シャープ:Storm of the Eye
・フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 作品13
・シルヴェストロフ:Two Pieces for Violin and Piano

 前半と後半とに分かれ、前半ではシャコンヌ、後半ではフォーレの曲がメインです。これらとモーツアルトを除くと、今回は現代音楽的な曲目が目立ちました。たとえはよくないかもしれませんが、映画で言えばブニュエル、絵画で言えばダリのように、聴衆に不安やいらだちが醸し出され、理解が容易でなくなります。ヒラリーの挑戦のようにも聞こえました。アンコールで弾いた、ジェームズ・ニュートン・ハワードの「133...at last」、デヴィッド・デルトルディッチ「Farewell」にもそれがうかがわれました。

 ヒラリーの人気は並み大抵ではありません。シャコンヌは得意な曲で、大胆で優美で、気品のあるバッハでした。スタンディング・オベーション。フォーレも自家薬籠中で、落ち着いた、聴きごたえのある演奏でした。

 演奏後にはサイン会があり、ここでも長蛇の列。わたしは加わることなく、サインをしているヒラリーさんのところに接近し、その美貌に見とれていました。


 


加賀乙彦『雲の都(4)・幸福の森』新潮社、2012年

2013-05-13 23:18:29 | 小説

           

  『雲の都』の第4部、「幸福の森」。


  この巻では主人公悠太自身、そしてその周囲の人々の流転が激しい。時代は三島由紀夫が自衛隊の東部方面総監の部屋に押し入り、バルコニーから隊員に向けて決起の演説をした後に切腹自殺した事件、赤軍過激派グループの浅間山荘事件を経て、中国での天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、東欧社会主義国の解体と激動の20世紀後半。

  悠太は念願だった国際的バイオリニスト千束と結婚。一男一女を設ける(夏香、悠助)。自身は大学を辞め、小説家として一本立ち、執筆活動にのめりこんでいく。家庭生活は可もなく、不可もないが、千束は悠太の母親とはそりがあわず、家事はお手伝いさんにまかせっきり。音楽活動は頭打ちの状況。

  父悠次、母初江が亡くなり、千束の母も逝く。悠太と千束はそれぞれ別々に軽井沢に仕事場をもち、そこを拠点に追分村芸術村が建設されていく。

  間島五郎美術館の移転、付属の絵画学校、千束の芸術劇場、付属の富士音楽学校などなど。桜子は美術館建設で夢を実現するも、息子の武太郎をみまった不幸の連続(そして自殺)に直面し、加齢もあって急速に老けていく。最期は、鬱病となり、台風が近づくなかクルーズに乗船し、自ら命を絶つ。

  火之子は安智星と離婚し、韓国・釜山に渡っていた。夏江、悠太は火之子の招きで、釜山を訪れる。そこで火之子は、自死した夭折の画家で、父親だった五郎による人生に対する絶望の感情を綴った手紙を読み、真実を知って号泣。慰める悠太は、一時の不実の感情で、火之子と結ばれる。


長内敏之『「「くにたち大学町」の誕生』けやき出版、2013年

2013-05-12 14:32:52 | 歴史

             

  「国立」の街が、満洲の長春の街区に酷似していることに着目し、この街の成り立ちの経緯を調べ、いくつかの問題提起を行った珍しい本。


  本書では、国立の成立には、医者であり、満鉄総裁でもあった後藤新平が深く関わっていたと推測されている(「都市研究会」の人脈)。新平は若いころに都市計画あるいは測量に関心をよせ、台湾、満洲でいくつかの都市建築を指揮した経験をもっていた。その国立市は西欧の近代都市(ベルリンのウンター・デン・リンデン、パリのシャンゼリゼ通りなど)を範とする人造の田園都市であり、神田にあった一橋大学が関東大震災を契機に、当時の谷保村に移転する案が煮詰められ、「くにたち大学町」として具体化された。
  この「くにたち大学町」の特徴である道路が囲む矩形の構成は台北の三線道路に構造的に酷似し、また都市計画図は加藤与之吉が創ったといわれる満洲の長春や奉天の都市計画図が、新平から箱根土地株式会社の堤康次郎と中島陟(設計)に受け継がれたのではないかというわけである。


  著者はこの関係とともに、堤康次郎と当時の佐野善作学長との間にかわされた「覚書」にも注目し、「くにたち大学町」の成立の経緯を細かく分析している。この覚書には、上下水道の敷設、駅舎や停車場の用地提供、広い並木道の構想が示されているという。さらに取り壊された、ユニークな姿をもっていた旧国立駅舎は誰によって設計されたのかと問い、それは建築家ライトの影響を受けた河野傳ではないかと推定している。

  著者はさらに、このように「くにたち大学町」が歴史的価値、文化的価値をもつものであるので(日本最初のロータリー?、富士山を通景、大正から昭和にかけての建築物群)、それらが次世代に引き継がれなければならないと結論付けている。