【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

「吉村昭記念文学館」(荒川区)

2019-12-18 20:55:32 | 文学
荒川区にある「吉村昭記念文学館」まで足をのばしました。わたしは、吉村さんの小説をかなり読みました。「長英逃亡」「落日の宴」「高熱隧道」「関東大震災」「三陸海岸大津波」「ニコライ遭難」「冬の鷹」「白い航跡」「破船」「戦艦武蔵」「陸奥爆沈」などです。

徹底した取材にもとづく小説作法、硬筆の文体などに惹かれました。「記念館」には吉村さんの書斎、原稿、年譜、ビデオなどが陳列され、偉大な作家の姿を彷彿とさせるものでした。書斎の再現は、生前、吉村さんが使っていた机、椅子、ぎっしり資料がつまった本棚が並んでいて、椅子には座ってもよい、というのでそこに座らせてもらいました。








原武史『松本清張の「遺言」』文春文庫、2018年

2018-12-23 20:17:01 | 文学
  

本書は松本清張の遺作『神々の乱心』を読み解いたもの。『神々の乱心』は清張の最後の長編推理小説です。『週刊文春』の1990年3月29日号から1992年5月21日号までに掲載され、未完のまま、清張の死によって断絶となりました。清張はあと10回分もあれば十分と生前に編集者に語っていたそうです。

『神々の乱心』は、本来、天皇につかなくてはいけない神々が、「乱心」をおこして、天皇以外の人物についてしまうという意味のようです。皇室を乗っ取ろうとする新興宗教の教祖の野望です。

 主人公は平田有信、吉屋謙介、萩園康之です。平田は月振会という謎の宗教団体の教祖で、埼玉警察部特攻警部の吉屋と、子爵の兄、高等女官の姉をもつ萩園が月振会に接近を試みますが、警察に睨みをきかせる枢密院顧問の江東茂代治が萩園家の外戚であるために、吉屋の内偵がうまくすすみません。他方、萩園は奈良県吉野の倉内坐(くらうちます)春日神社禰宜の北村友一を月振会に潜入させ、内部情報を得ようとします。

 「神々の乱心」を読み進めると、教祖の平田は、その妻の静子とともに、三種の神器を準備し、皇室ののっとりを図ろうとしていることがわかります。

 この小説は一見、途方もない荒唐無稽なフィクションのように読めます。しかし、清張は昭和史発掘や2・26事件に関する膨大な資料収集、聞き取り調査をすすめるうちに、実際、皇室内部に確執(貞明皇后と昭和天皇との確執)、秩父宮の擁立構想があったことに気が付いたようです。しかも、高松宮を昭和天皇と挿げ替えることを画策した島津ハルの事件(1936年)が宮中であり、清張はこの事件にヒントを得て、小説の構想を得たようです。

 そもそも三種の神器などは誰もそれをセットにしてみたことがなく、本物などありえない摩訶不思議なことにつけこんで、旧満州で暗躍していた人物が新興宗教をたちあげ、偽の三種の神器をかかげて皇室の内部の人間と連絡をとりつつ、その転覆を狙うというのですから、清張でなくては書けえなかった題材です。圧巻の推理小説です。残念ながら未完ですが、著者はこの小説の顛末を予想し、最後にいくつかの可能性を掲げています。

 『松本清張の「遺言」』の著者、原武史さんは、この小説とかかわる皇居、秩父、吉野、足利、満州を選び、そこから謎をといていく手法で、清張の意図と問題意識を解き明かしています。

わたしはこの本に触発されて、原書の『神々の乱心(上巻・下巻)』を読了しました。

ダンテ/平川祐弘訳『神曲』(河出世界文学大系3)河出書房新社

2017-03-31 21:58:34 | 文学

           
 ダンテの『神曲』読了(平川祐弘訳)。新年から読み始めたので、3カ月かかったことになる。やっと読み終えたというのが、偽らざるところである。


 読んでどれだけ理解が深まったかは心もとない。読みながら面白く、のめりこんだ実感はない。平川訳は各歌のまえに簡単ではあるが解説がついているうえ、脚注が豊富なの最も適当である。聞くところによると、壽岳訳は難解だという。ダンテ自身は、当時文学といえばラテン語で書かれていたものを、トスカーナ語(俗語)でわかりやすく書いたのであるから、わかりやすい訳で読んでも全く問題ない。

 『神曲』について、この間、いろいろなことがわかった。ます、全体は「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」と3つにわかれ、「歌」で書かれている。「歌」なので、音読するのがよいという人もいる。

「地獄篇」は序歌を含め34歌、「煉獄篇」は33歌、「天国篇」33歌、あわせて100歌である。『神曲』はこのように100歌からなるが、それは全部で14233行で出きている。「地獄篇」4720行、「煉獄篇」4755行、「天国篇」4758行である。きわめてバランスよく構成されているのがわかる。

 全体の内容は、35歳のダンテが地獄、煉獄、天国を西暦1300年の大赦の年の復活祭に一週間かかって旅をしたというものである。罪を寓意する森の中でダンテが迷っていたおりに、ウェルギウスが登場し、案内人になり、地獄、煉獄で先導役をととめる。天国に入ると絶世の美女ベアトリーチェが案内役を交替する。天国篇の第十天(至高天)でベアトリーチェに代わり聖ベルナールが最後の案内役をつとめる。 

 ダンテは1265年生まれである。その名前ダンテは姓ではなく、名である。姓はアレギエーリなので、正式の名称はダンテ・アレギエーリである。

 いまの若い小説家は『神曲』など読んではいないのではなかろうか? しかし、かつての文豪は森鴎外にしても、夏目漱石にしても、上田敏や正宗白鳥にしても『神曲』を味わい、影響を受けているようだ。また、今道友信は『神曲』の講義を1997年から1998年にかけ、15回にわたって行っている。参加者には、大学の先生の他、経済同友クラブ理事長、コスモ石油株式会社の相談役などがおられる。また現在でも朝日カルチャー新宿校には『神曲』の講義があるようだ。どのような人が出席しているのだろうか。いずれにしても、根強いファンがいるのは確かなようだ。


葉室麟『無双の花』文藝春秋、2012年

2013-03-22 00:00:44 | 文学

             

   江戸時代、筑後柳川領主、立花宗茂の生涯。宗茂は豊後の守護大名大友宗麟の家臣で筑前宝満城を預かっていた高橋紹運の嫡子。筑前立花城の戸次(立花)道雪は宗茂を養嗣子とし、娘である千代(ぎんちよ)の婿としました。


   宗茂は島津の脅威をもちこたえ、武名を九州に轟かせます。秀吉の寵愛を受け、柳川13万2千石を拝領。独立した大名に取り立てられ、「西国無双」と評価されます。その後も、秀吉の「唐入り」で武勲をあげ、秀吉のおぼえめでたい存在となります。

   関ヶ原の戦いでは、秀吉に対する義を重んじ西軍に加担、戦後、改易の憂き目にあい、以後、少数の腹心とともに牢人の身に。

   妻の千代死後、家康に接近。徐々に信頼を得て、幕府の御書院大番頭(将軍の親衛隊長)として5000石を給され、さらに嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられ、奥州の南郷に1万石を与えられて大名として復帰。その後、元和6年、幕府から旧領の筑後柳川10万9200石を与えられ、旧領に復帰を果たしました。

   不仲が伝えられた正室千代、側室八千子との心のふれあい、由布雪下、十時摂津、掘勘解由など家臣との信頼の絆、敵方ながら互いに認め合う真田信繁(幸村)との友情など、読んでいて印象に残ります。家臣の雪下が亡くなる時には、幼少の頃に厳しく鍛えられた思い出を語り掛けたり、19年ぶりに柳川の地に戻った際には、千代の幻との会話の場面を描くなど(無双の花は、千代のこと)、内面の表現がうまいです。
  黒田如水や徳川家康、伊達政宗などの武将とのやりとりからは、「義を通す」宗茂の胆力と清廉さが伝わってきます。


岡崎武志『上京する文学』新日本出版社、2012年

2012-12-15 23:19:17 | 文学

         

   わたしは東京生まれだが、父の仕事の関係で、生後数カ月で札幌市へ。以来、札幌市で幼少、青年期を過ごし、最初の就職もそこだった。子どもの頃、数回上京したが、汽車で24時間以上。大変な道のりで、東京は空間的にも、心理的にも遠かった。しかし、そこでは大好きな大相撲、プロ野球が行われ、正月には雪が積もっていない。子どもの頃のわたしに、東京への憧れや妬ましさが全くなかった、といえばウソになる。


   本書はわたしよりもはるかに強く、東京に関心をもち、実際に上京し、そこで作品を書いた作家たちの志をたどってまとめた興味深いもの。登場するのは、斎藤茂吉(山形)、山本有三(栃木)、石川啄木(岩手)、夏目漱石、山本周五郎(山梨)、菊池寛(香川)、室生犀星(石川)、江戸川乱歩(三重)、宮沢賢治(岩手)、川端康成(大阪)、林芙美子(山口)、太宰治(青森)、向田邦子、五木寛之(福岡)、井上ひさし(山形)、松本清張(福岡)、寺山修司(青森)、村上春樹(京都)[漱石は小説「三四郎」の主人公の上京について書かれている。向田は東京出身であるが、子どもの頃転勤で各地を回り、東京がふるさとであったと同時に、憧れの対象だった]。

   彼らが、(当時)いかに東京に憧れ、そこで暮らすことを夢見たか。想像力を強く働かせないとわからないが、電車や飛行機で簡単に行くことができる今とは比較にならないことだけは確かである。彼らは東京の何に興味をもち、驚いたのか、それがよくわかる。

   上野駅のまばゆさに驚いた茂吉(故郷の夜は漆黒の闇)、停車場、新聞社などの都会の装置(啄木)、大きな図書館(菊池寛)、「ふるさと」への想い(犀星)、軟式野球ボール(ひさし)、早稲田大学の寮(春樹)などなど。

   彼らの憧れと志の先にあったのは、近代の文化装置、銀座の匂い、妙なよそよそしさとその対極にある自由、ある種のいかがわしさ、シュールであるが退廃的でもある時代の空気だった。日本の近代文学の黎明期に、東京に憧れた文学者が果たした役割は大きく、彼らの作品はまぎれもなく骨太だった。


百目鬼恭一郎『現代の作家101人』新潮社、1975年

2012-11-30 22:50:53 | 文学

  1975年時点で現在進行形で執筆活動をしていた日本を代表する作家の評価。切り口は基本的に辛口で、手厳しいが、小説作法(文章、構成)がうまい作家は高くかっている。通俗小説に流れた作家への評価は概して辛辣。

  評価のよい作家はたとえば、福永武彦、村上元三、永井龍男、立原正秋など。「文章のたしかな表現力といい、構成の精巧さといい、およそ小説のうまさにかけては、福永の右に出る作家はそうざらにいないのではあるまいか。おまけに、福永の作品には、最近とみに希少価値となった、芸術的香気がただよっているのである」(p.165)。「村上の小説の作りかたは実にうまい。・・・また、プロっトの展開のしかたも、心にくいほどうまい」(p.199)。「永井の特質としてよくあげられるのは、ことばの選択に潔癖なこと、描写や会話が的確でムダのないこと、構成が巧みであること、などである。これだけでも『短編の名手』といわれる資格は十分なのに、永井は、他の作家にみられないもうひとつの特質をもっている。それは、彼が極端なくらい筆を省くということである」(p.144)。

  逆に、井上靖、加賀乙彦、渡辺淳一、三浦綾子、藤本義一、永井路子、梶山季之の評価はかなり厳しい。たとえば、井上靖については「井上の歴史小説は奇妙なほど静止していて、歴史の流れを感じさせない。・・・登場人物の型もつねにおなじ」(pp.41-2)、加賀乙彦については「軍国主義を屈服させるだけの強力な思想を、まだ作者自身が見出せ(ていない)。・・・この人は、もう少し小説作法を勉強する必要があるようだし、また、この人間不信のエリート意識を、もう少し捨ててもらいたいものだ」(p.66)、渡辺淳一については「題材は優れていながら、作品そのものは底の浅い感じを免れていない」(p.216)、三浦綾子については「(欠点のひとつは)、文章に味のないことだろう。・・・真実を吐露しさえすれば芸術になると素朴に信じている」、永井路子について「(彼女の)作品に不満が感ぜられるのは、一にかかって文学的な感銘の欠如のせいではあるまいか」(p.190)、といった具合である。

  文章のうまさでは倉橋由美子(「文章が明晰で確かな表現力をもっている」[p.76])、佐多稲子(「事物を自分の確かな感受性を通うして描いている」[p.93])、阿川弘之(文体に気品があってむだがない、構成がきちっとしている、作風が率直で、ひねくれた影がなく、明るいユーモアがただよっている」[p.17])が褒められている。

  作家のモチーフを一言で言いあてるのがうまい。「良俗のワクの中で聡明に生きよ」(p.117)をモチーフとした曽野綾子、「一度だけ女として生きてみたい」をテーマとした大原富枝(p.58)、その文学的素地は江戸町人文学の荒唐無稽で残虐な美の世界である円地文子など(p.47)。

  作家の生い立ち、人生と作品との関連に着目しているのは当然であるが、それが具体的に示されているので、納得できる部分が多かった。たとえば、真面目な文学とふざけた文学をかき分けた遠藤周作の背景にあるのはマザーコンプレックスの裏返し、生まれも育ちも浅草の池波正太郎作品が江戸の町人気質をにじませていること、社会の裏通りを歩いた梶山季之の作品にみられる疎外された人間の悲壮感、など。

  本書の著者は一体どういう人物なのだろうか。小説をしっかり読んでいるのは確かであり、支持するかどうかは別としてその批評の視点はぶれていない。


木村久邇典『山本周五郎のヒロインたち』文化出版局、1979年

2012-11-26 00:30:19 | 文学

  作家山本周五郎が描いた代表的ヒロインを「武家の女」と「町家の女」にグループ分け、彼女たちの魅力を小説の筋立てにそいながら紹介し、周五郎文学の本質を詳らかにした本。

  「武家の女」は「貫く女(「箭竹・みよ」)」「あたたかい女(「不断草・菊枝」)」「つよい女」(おもかげ・由利)「尽くす女(虚空遍歴・おかや)」「わるい女(醜聞・さくら)」に、「町家の女」は「負けない女(「かあちゃん」・お勝)」「支える女(「ちゃん・お直」)」「くじけない女(「柳橋物語・おせん」)」「逃げない女(将監さまの細道・おひろ)」「愛する女(「つゆのひぬま・おぶん他」)」「復讐する女(「五瓣の椿・おしの」)」「かわいい女(「水たたき・おうら」)」「滅びる女(「おさん」)」の構成である。

  とりあげられた小説のなかで、わたしが読んだことがあるのは「五辡の椿」のみ。これまで周五郎は全くといってよいほど読んだことがないが、「五瓣の椿」だけが読んだし、その映画も観た。

  「慟哭の人」という周五郎の人と文学を解説した文章が冒頭にある。周五郎の小説を「義理人情」のそれとみる向きもあるが、著者は意見を異にしている、だから次のように書くのである。「まさに山本周五郎は、人間という生きもの、なかんずく日の当らぬ場所に体をよせいあい、一日一日の生を模索するまっとうな人間の営為の哀れさに、激しく感動する慟哭の作家であった」と(p.44)。

  本書は17人の女性をとおして17通りの女性の生き方を描き、それぞれの女性が登場する小説をたっぷりと紙幅をとってそのあらすじを書き、もういちどコメントを書くために整理しなおしている。これだけで、周五郎の小説を読んだ気にならしめてしまうほどだが、それは邪道で、原作にあたることをしないで読んだつもりになったのでは、それは著者の本意からはずれたことになるだろう。


開高健記念館(茅ヶ崎市東海岸)

2012-10-04 00:18:58 | 文学

             

 開高健は、大江健三郎、石原慎太郎とともに、1960年代、
新しい時代を担う文学界の若手旗手と称された作家である。その頃、わたしは大江健三郎にかぶれていて、開高健の小説は『裸の王様』(芥川賞)、石原慎太郎のそれは『太陽の季節』(芥川賞)を読んだ程度だった。慎太郎は好きになれなかったが、開高健には親近感をもっていた。『輝ける闇』は注目していたのだが、ついに読むことなく、今日まできてしまった。

 その開高健の記念館は茅ヶ崎にある。知らなかったが、ある情報誌で偶然に知ったので、そこを訪れた。茅ヶ崎駅南口を出て、歩くと30分ほど。ラチエ通りに面している。開高健が晩年に暮らしていた住居がそのまま記念館になっている。

 毎週、金曜日から日曜日まで開館。しっかりした門扉があり、小さな階段を上がると、左手すぐ記念館がある。個人の住宅だったところだから、それほど大きくない。しかし、なかに入ると開高健の大きな人生がつまっている。数々の写真、書籍、自筆原稿、ベトナム戦争従軍のさいにかぶっていたヘルメットを含む遺品、釣りで使うルア。開高健が、そこにいるような充実感だ。

 NHKの「あの人に会いたい」という番組があったが、その番組に開高健が登場したビデオが放映されていた。小説家としての活動、釣り、ベトナム戦争従軍について、在りし日の開高健がインタビューに応えている。ふっくらした童顔、その開高健が熱く、自らを語っている。

 お酒が好きだった人で、上記のインタビューでもワインを飲みながらのようだ。また、開高健はサントリーウィスキーの広告にコピーを書いていた、ように記憶している。


 奥に書斎がある。入ることはできないが、雰囲気をながめることができる。

 山形、沖縄、北海道から、訪問者はひきもきらず絶えないとか。

 


駒尺喜美『紫式部のメッセージ』朝日新聞社、1991年

2012-07-10 00:25:59 | 文学

駒尺喜美『紫式部のメッセージ』朝日新聞社、1991年
           

 冒頭に著者が紫式部に宛てた「手紙」があり、ここに著者の問題意識が示されている。

 すなわち、「源氏物語」が男のための恋の手引書と勘違いされていますが、これは不幸なことである。あなたが書こうとしたのはそういうことではなかったはず。結婚は女性にとって不幸なこと、女性の幸せは不幸と抱き合わせであること、理想の男性である光源氏を登場させて男性の圧倒的優位のもとにある男女関係の力学を示したこと、宇治十帖はそういった男女関係の必然の帰結であること、あなたはそれを物語ったのですね、と。

 著者によれば、紫式部は男性を全く信用していず、女性との関係を大切にしていた、「源氏物語」の主人公は光源氏ではなく女性たちである、源氏が愛した女性のなかで葵の上、六条の御息所は年上でもあり、落ち着けない、あまり心休まらない女性。義母の藤壺に憧れ、関係を結ぶ、中流階級の女性を意味で見下しつつ、その階級の典型である空蝉、夕顔とはしたいように(空蝉には逃げられるが・・)関係した。

 紫の上(若紫)は玉の輿にのったようにうらやまれるが、その実、嫉妬と哀しみのなかで痩せ、衰弱し、死んでいく。強引で、思いやりのない源氏を、式部はこの物語のなかで年配の女性に語らせ、地の文で自らの苦言を呈している。

 あらゆる点で男性中心の権力構造をもった社会、そのなかでの男女の関係、家族のあり方に紫式部は何度、口惜しい想いをしただろう。そのことを直接に書いたのであればその物語は歴史に残らなかったであろう。男性中心社会でも物語が読みつがれ、生き残り葬られないよう、光源氏という理想の男性を描く工夫を凝らしながら、しかし当時の社会では結婚は女性にとって意味がなく(今でもそうかもしれない、結婚は女性にとってわりにあわない)、それは男性の従属物になることであり、そのことで悩み、苦しみ、衰弱し、亡くなり、出家していった不本意な女性はたくさんいる。彼女立ちに想いを寄せて、式部は「源氏物語」を書いたのである、と。

 源氏の死後の話である宇治十帖は、式部がより直接的に彼女の思いを綴った部分である、薫、匂宮は悪い人ではないがやはり男女関係では思慮のたりない男性であって、大君、中の君、浮舟の人生に象徴されるように、男女は本質的に理解しあえず、女性は構造的な男性社会のなかで理不尽な生と性を余儀なくされている。

 著者の読み解きは、誠に明快。


加山郁生『性と愛の日本文学』河出書房新社、1997年

2012-04-17 00:24:43 | 文学

             

 著者は多くの日本の現代文学を読んでいる人だと思います。

 「性愛」という観点から何か書きたく、その形を大分類して本にしたようです。

「女の魔性に跪く男の愛‐谷崎文学の世界‐」
「発禁書と猥褻裁判」
「エロス・官能・まぐわいの歌」
「少年少女から男と女への変容」
「官能する文学」
「お洒落なエロス・共感するエロス」
「凄絶な生きざまの愛と性」
「ちょっと危ない愛と性」
「男も骨灰になるまで」
「死ぬほど愛して」

 以上のの各章。この分類そのものと、それぞれにどの小説のどの文章を配置するかに努力のあとが・・・。
  
 しかし、それだけに止まっているので深みがなく、評論としても貢献がないように思えました。

 「これはこれで<性と愛>の観点から見た、ひとつの日本近代文学史となりえているのではないか」(p.273)と著者は書くが、表面的になぞっているといった感じは否めません。


江口渙『わが文学半生記』青木文庫、1968年

2011-02-28 00:02:20 | 文学

  「正」と「続」を読む順が逆になってしましたが(「続」については本ブログ2月26日付)、両者の関係は著者が語っているようにほとんど関係ないので、気にしませんでした。

 「正」は、「続」よりも各段に面白いです。内容は著者が、若いころに夏目漱石、芥川龍之介、久米正雄、菊地寛、宇野浩二、広津和郎ら文人と出あったり、交流したりしたことを回想したものです。

 気取った文章ではなく、平易に描かれていますが、臨場感たっぷりで、本の各ページに著名な作家がいるように思えてしまうほどです。

 漱石宅で著者が胃の調子や自分の作品のなかでどれが一番よいかを聞いたときのこと、漱石の葬式のおりの家族の様子、弟子たちの動きなどが、とおり一遍の表現ではなく現在進行形で書かれています。

 高村光太郎のアトリエに芥川、久米といったときの様子、ほとんど来客を無視していた千恵子のこと。与謝野鉄幹、晶子が中心になった句会に、芥川と一緒に参加した時のこと、その会での高村光太郎の様子、関連して芥川がせっせと俳句や短歌を詠んでいたいたこと。宇野浩二の「苦の世界」と関わりがないでもないヒステリー女。上野清凌亭で芥川が自分の女性ファン(亭の接待の女性)を自慢していた様子、その女性が後の佐多稲子だったこと。谷崎潤一郎を芥川と一緒に訪れると、そこで日本の古典論議がおこったったこと(源氏、枕草子、伊勢物語、竹取、宇治拾遺、今昔、大鏡、増鏡、蜻蛉日記、土佐物語、古今集、新古今集などなど)、阿蘇山登山ですべってころりんの河東碧梧桐のこと、面白いエピソードはあげればきりがありません。

 わたしなど、森鴎外と夏目漱石とでは鴎外のほうが先に死んだと思っていましたが、そうではなく漱石が先でした。漱石の葬式の場面に鴎外が来ていたとの記述があるからわかった次第です。

 また芥川が鴎外を見かけたのも漱石の葬式が最初のようです。そう書いてありました。

 著者は、文学論もしっかり書いています。久米正雄は通俗小説家になってしまいましたが、若いころの俳句が一番で、その世界では大きな貢献したとか、菊地寛の「父帰る」の文学的位置もしっかりおさえています。

 有島武郎と波多野秋子の情死についての論稿も一編、入っていました。著者は有島にもあって、よく知っていたらしく(情死の前日に逢っています)、有島が「めんくい」であり、秋子にとりこまれ、肺をわずらって死にたがっていた秋子とはかなり前から心中が予定されていたこと、そのことを有島の思想(ベルグソンの純粋持続による生命の飛躍の哲学とホイットマンの徹底的個人主義の思想)とも結びつけて解き明かしています。

 本書は珠玉の回想録で、文学史上の価値は高いのではないでしょうか。

 


永畑道子『夢のかけ橋-晶子と武郎有情』新評論、1988年

2010-12-22 00:21:27 | 文学
 有島武郎と与謝野晶子との間に恋愛感情があったことは、あまり知られていません。しかし、このテーマを著者の永畑道子さんが長く仮説としてあたためていたようで、彼女はこの仮説が真実であるという信念をまげず取材を続け、この作品で真相を詳らかにしました。

 武郎の多くの書簡で今ではかなり明らかになったことですが、武郎から晶子への書簡は与謝野家にはのこっておらず、仮説の実証には困難も多々あったと推測できます。武郎と晶子との関係は、武郎の小説に取り入れられ、日記に綴られ、晶子の短歌にも読みこまれていました。大正9,10年の頃です。

 晶子は武郎との恋の道を指して、「この道は海へ落ちる道」と歌いました。ふたりの恋はすれちがい、それは「夢のかけ橋」として歴史に残されました。

 直後、武郎は雑誌記者、波多野秋子と煉獄の恋におちいります。秋子には夫があり、武郎と秋子はその情事の現場を夫に踏み込まれたこともありました。当時は姦通罪がいきていたこともあり、抜き差しならない窮地に陥ったふたりは遂に死への道につくことになります。

 大正13年(1923年6月9日)、軽井沢。作家有島武郎と雑誌記者波多野秋子は新橋で逢い、そこから上野へ、そして6時間かけて深夜、雨で濡れそぼる軽井沢駅にふたりはおりたちました。

 武郎の別荘、浄月庵。午前2時ころにふたりは縊死しました(この浄月庵は現在、タリアセン、塩沢湖の近くに移築されている)。ふたりが発見されたのは死後約一カ月、7月7日でした。

 著者は本書で、有島武郎をめぐる大きな2つの愛を架橋し、文学史上のスキャンダルの真相を見事にあぶりだしています。

辻井喬『わたしの松本清張論-タブーに挑んだ国民作家-』新日本出版社、2010年

2010-12-07 00:33:42 | 文学

                               私の松本清張論 
 『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞して以降、小説家としてはもとより、広範な領域で仕事をした松本清張の人と文学とを、セゾン文化財団理事長であり、作家でもある辻井喬さんが論じています。

 推理小説作家、ノンフィクション作家、歴史作家、旅の作家、古代史研究家、短編小説の名手。著者はこれらの清張文学の位置づけ方がいずれも隔靴掻痒の感があるとして、最終的には清張を大衆性を備えたもう一人の「国民作家」ととらえなおし、清張が従来の純文学に欠落した部分を補い日本文学に新たな可能性を与えたことを高く評価しています。

 何が彼をそうさせたのかと言えば、それは、著者によれば清張が「集合的無意識」から自由であったこと、「社会派」になろうとしたのではなく、作品そのものが社会を映し出す質をもっていたこと、批判的精神をもった民衆文学であったこと、虐げられたものの眼、差別されるものの眼を大切にしていたことなど、いくつかの要因をあげています。その対極で、日本の近現代文学が歴史社会全体を表現する言葉と文体をもっていなかったことを指摘しています。

 国民的作家として司馬遼太郎と並び称されながら、清張が文壇では孤独であったこと、清張を拒否した三島由紀夫問題にも触れています。清張文学の位置を見極めようとしているのが、本書のテーマであることがよくわかります。

 著者は好きな作品を解説しています。それらは『火の記憶』『張り込み』『点と線』だそうです。

 最後に、清張の政治活動として、1975年の共創協定を反ファシズムの視点からとりもった経緯(その後の協定の空文化の顛末も含めて)が紹介されています。(著者による詳細な註釈付<年譜>有り)


伊藤一彦/堺雅人『ぼく、牧水-歌人に学ぶ「まろび」の美学-』角川書店、2010年

2010-12-05 19:48:40 | 文学

                  ぼく、牧水!

 若山牧水研究者で「若山牧水記念館」館長の伊藤一彦さんはかつて県立宮崎南高校で教鞭をとっていましたが、その時の教え子に堺雅人さんがいました。

 牧水を「理想の大人」と仰ぎみる堺さんは俳優。NHK朝ドラの「オードリー」、大河ドラマ「篤姫」(徳川家定役)でブレイクし、今度は映画「武士の家計簿」で主演をつとめます。高校時代、堺さんは演劇部に所属していたが、いっぷう変わった生徒で、伊藤先生はカウンセリングの仕事をしていて、堺さんはカウンセリングルームをしばしば訪れて、話をしたといいます。

 高校で出会い、同じ大学(早稲田大学)に籍をおいた二人が、若山牧水(牧水も早稲田出身)について縦横無尽に語り合って、できあがったのが本書です。

 3カ所で、三日間、酒を酌み交わしながらの対談という企画。牧水のひととなりが浮かび上がってきます。

 牧水を知らない日本人はいないでしょうが、その歌は教科書に出てきた2,3のものを除いてあまり知られていません。

 本書のタイトルは、名ばかり有名で、「実像」が知られていない牧水が、ムックリ起き上ってつぶやいた声と受取ってもらってもいい、と末尾に書かれています(p.237)。

 自然に心にわきあがってくる気持ちを歌にした牧水は、酒、自然、女性を愛した歌人でした。その精神は「あくがれ」(在所を離る(あくをかる))という意味で、ここではないどこかをもとめて旅をする歌人、それが牧水でした。

 旅から帰ってそこにいる、しかし心はもう次の旅に向かっている、その引き裂かれた感情は、「まろび」ながらの「なまくら」ぶりであったようです。「どうでもしながれ」の哲学とも言えるようです。

 悲恋の相手、園田小夜子との愛、牧水のそいとげた喜志子との愛、北原白秋、石川「啄木との親交のエピソード、牧水の多くの歌がはさみこまれ、牧水の実像が生き生きと伝わってきます。一彦先生の短歌論、雅人君の演技論も楽しいです。


ノーマ・フィールド『小林多喜二-21世紀にどう読むか』岩波新書、2010年

2010-10-20 00:10:00 | 文学
                              
                              


 忘れられた作家、小林多喜二(1903-33)をノーマ・フィールドさんがとりあげました。切っ掛けは祖母が愛していた小樽と関わりのある作家だったからのようです。

 彼女の多喜二との出会いは、あまりよくなかったらしいです。英訳で読んだ『蟹工船』を「暗くて無様な小説、と退けた」と書いてあります。そのうちに多喜二のタキ(田口瀧子)宛の手紙を読み、「・・・自分の認識がとんでもなく偏った、狭いものではないか、という疑いの種が蒔かれた」とつないでいます(以上「あとがき」)。

 本書を読むと人間多喜二が、ときおり、読者の眼のまえにいるような気をおこさせます。小奇麗ということからはおよそかけ離れ、髪の毛はボサボサ、陽に焼けた小男で秋田訛りのガアガア声(立野信之の印象)、演説でもはじめのうちは、あのう、あのう、という間投詞がはさまってくちごもっているが、次第に調子が出てくると北海道訛りが出てきて、そのうち聴取を惹きつけていく(武田麟太郎)といった様子が描かれています(pp.194-195)。これらの描写は実像に近いでしょう。

 小樽高商時代の実像、拓銀に入ってからの銀行マンとしての多喜二についても(実直で真面目、仕事は能率よくこなしていた)、資料をもとにその人柄が浮き彫りにされています。新しい手紙がみつかったり(多喜二は筆まめだったが、手紙をもらった友人、知人は官憲に眼をつけられることを恐れて、焼却してしまったという話も紹介されている)、拓銀が倒産したおり(1998年)に出てきた資料から、多喜二は「依願退職」ではなく、「依願解職」であることがわかったり、1928年3月15日の逮捕、投獄から約2年後に保釈され、神奈川県の七沢温泉で作品を書いていた場所が2000年3月に判明した、など新しい事実が盛り込まれていることも本書の魅力です。

 そのような著者独特の語りを基調に、『蟹工船』『東倶知安旅行』『防雪林』『一九二八年三月十五日』などの名作が読み解かれ、政治と文学、政治と男女の愛といった普遍的なテーマも論じられています。

 志賀直哉、川端康成、伊藤整との関わり、また当時の中央の雑誌『新潮』『改造』『中央公論』『週刊朝日』『読売新聞』などの商業紙誌が多喜二に執筆の場所、機会を与えたり、比較的好意的な論評をしていたことには驚かされました。

 多喜二は特高によって虐殺されましたが(享年29)、彼を愛した人は過去にも現在にもたくさんいることがよくわかりました。

 「いまどき、プロレタリア文学など時代錯誤」という風潮を払拭する出来栄えです。