【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

パリの街、歩いて歩いて14万歩⑩(エッフェル塔)

2013-09-30 18:19:43 | 旅行/温泉

                 

 エッフェル塔はフランス革命100周年を記念し、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建設されました。建設にさいしては設計案のコンペティションが企画され、候補者はギュスターヴ・エッフェルの他にもいましたが(ステファン・ソーヴェストル、モーリス・ケクラン)、最終的にはエッフェルが著作権者となり、今では、彼の名前がこの塔の名前に刻まれています。

 建設は万博に間に合わせるという至上命令でスタートし、2年2か月という驚くべき速さで完成しました。総工費は650万フランといわれています。

 建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、当時としては世界一高い建造物でした。現在は放送用アンテナが設置されているので、324mです。

 展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mのところにあります。第2展望台までは階段でも昇ることができます。

 建設当時は賛否両論に分かれたそうですが、いま見るとしっかりした堅固なつくりで、スッカイツリーより魅力的です。現在では、パリを代表するシンボルとなっています。現代に届けられた贈り物です。

 1991年、この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録されました。
    
                               


パリの街、歩いて歩いて14万歩⑨(ヴェルサイユ宮殿)

2013-09-29 18:00:23 | 旅行/温泉


 パリでは約14万歩、歩きました(ホテル内は除く)。一日単位で一番多かったのは2万2000歩、ヴェルサイユ宮殿を訪れた日です。その広い、壮大な庭園を、炎天下、歩きました。あとから考えれば、自転車を借りたり、ミニバスに乗ることもできたのですが、それらを知らず、歩きとおすことになりました。

ベルサイユ宮殿に、オペラ座から行くには、メトロの8番に乗車、アンバリッドで、RER(高速郊外鉄道)に乗り換え、ヴェルサイユ・リブ・ゴーシュで下車。そこから徒歩で、15分ほどです。

 宮殿は2つの翼棟を持つ左右対称のバロック様式です。内部は3階建てです。王の大居室(正殿)や王妃の居室などある2階は自由に見学できます。どの部屋も壁や天井、床は大理石と金銀で装飾され目も眩むばかりです。大居室群にはそれぞれ天井に描かれたギリシャの神々にちなむ名前が付いています。
 宮殿の裏側に広がる100万m²の大庭園があります。幾何学模様の花壇、運河に噴水、彫像などが配置され、離宮とマリー・アントワネットの田舎家があります。


 浅田次郎は『王妃の館』で、このヴェルサイユ宮殿について、次のように書いています。少し長いですが、引用します。だいたい、あたっています。

 「政治的な機構としてはまちがいなかく不適当である。軍事上の目的はまったくない。宗教色も薄い。芸術表現としての価値はあるけれども、あまりにも独善的である。/ではなぜ太陽王は、50年もの歳月と膨大な国費を投じて、この怪物を造り上げたのだろうか。/建築家のル・ヴォーやジュール・アルドアン・マンサール、画家のル・ブラン、造園家のル・ノートル-当代随一の巨匠たちとそのプロジェクト・チームを直接指揮して、ルイ太陽王がヴェルサイユの野に造り上げたものは何だったのだろう。/自ら太陽王になぞらえた王の、その神格化の具現化という解釈は容易である。要するに、太陽神の宮殿を彼のセンスで造営すれば、こういう代物になる。と。/この解釈をもう一歩進めれば、いわゆる王権神授説に基づく絶対王政の権威的象徴、ということもできよう。神から王位を授かった者の住まう場所は、人間の常識を超えたこういうところでなければならない、と。/だが、しかし-物事には限度というものがある。/どう考えてもヴェルサイユの美は過剰であり、言い方を変えればただひとこと、「悪趣味」であろう。/有史以来最も壮大かつ豪華なるものを、という目標は結構であるけれども、壮大さも豪華さも人間の目と心で確認できる限度を超えれば、美的感動を促すことはできない。/で、今日ヴェルサイユを訪れる観光客は、宮殿の正面に立ったとたん、ただただ仰天するのである」。

近代日本画の巨人・竹内栖鳳展(東京国立近代美術館)

2013-09-28 23:18:15 | 美術(絵画)/写真
      
 北の丸公園にある東京国立近代美術館で「竹内栖鳳展」が開催されています。10月14日までです。

 最近まで、竹内栖鳳は知りませんでした。だいたいのところ、日本画の知識は乏しいです。今回、初めてこの人の画をじかにみて、圧倒されました。展示場には、屏風に描かれたものがかなりあり、圧巻です。「虎・獅子図」「象図」などでは、動物の大きさもさることながら、その力強さが伝わってきます。「羅馬の図」はローマ時代の水道の遺構を描いたものですが、セピア色でけむった感じが屏風全体に広がっています。
 そうかと思うと、子どものころに写生した昆虫の画などの精緻さには驚かされます。竹内清風は、精緻なところがありながら、逆におおらかな画風ももっていますし、また出展されている「熊」のようなユーモアな一面も特徴としています。そうかと思うと、史実に題材をもとめた絵もあります。まさに、多様で、多彩。いろいろな可能性に挑んだ画家と、認識しました。

 パンフレットによると、竹内栖鳳は京都に生まれ、四条派の幸野煤嶺に学びました。また積極的に他派の筆法を取り入れ、定期的モチーフとその描法を形式的に継承することを拒否し、画壇の保守的体質を乗り越えようと努力したようです。その背景には、1900年のパリ万博のさいの渡欧経験が役立ったようです。
 しかし、西洋美術の手法を取り入れることに満足したわけではありません。栖鳳は実物観察という西洋武術の手法をもとに、西洋と肩を並べられるような美術を生み出そうという気概で、伝統絵画の根本的理念をほりおこそうとした画家のようです。
 
      

浅田次郎『王妃の館(下)』集英社文庫、2004年

2013-09-27 20:45:34 | 小説
     

 二つのツァーがヴェルサイユ宮殿を観光するところから下巻が始まる。以後、両ツアーはニアミスの連続。そしてシャトー・デ・ラ・レーヌで部屋を交互に利用するというやりかたにも、いたるところでほころびが出てくる。

下巻ではそういった切羽つまった状況がいろこくなるにつれ、ツァー参加者の個性が際立ち、訳ありの過去の人生がいやおうなしににじみ出てくる、しかけになっている。

一方、老コンシェルジュがディナーの折に話し始めた17隻のルイ14世の逸話は、この王の出自と過去、体に流れているスペインの血、太陽王としてフランスの誇りの象徴として存在し続けなければならないといういろいろな要素を織り込みつつ、展開していく。

実は、「光」ツアーには北白川右京という売れっ子作家がいて、彼は隠密でこのツアーに参加し、旅行中に完結ものの小説を書きかげなければならないという設定になっているのだが、老コンシェルジュの話は、巧まずして、仕上げなければならない小説の素材になっているフシがある。

不思議で、奇怪な、荒唐無稽な小説だが、最後は見事に落着。

パリの街、歩いて歩いて14万歩⑧(トラブルに遭遇)

2013-09-26 21:02:16 | イベント(祭り・展示会・催事)

 パリ旅行でいろいろな地域をまわってきての備忘録、ここで中入り、小休止。

 ひとつ注意しなければならないことがあります。スリ、盗難です。パリのメトロでの場内放送では、日本語で、スリに注意するよう、アナウンスが繰り返されています。ということは、そのような事件が多いからです。身近にも、何人か、そういう事件にまきこまれた人から話を聞いたことがありますし、「地球の歩き方」のようなガイドブックにも注意の喚起があります。

 実はわたしも、今回そういう目にあいました。未遂ですが、メトロのなかで、女の子に、ズボンの後ろのポケットに指をつっこまれ、財布をとられそうになりました。(そのようなところに財布を入れておくのは、パリではだめだということが身にしみてわかりました。)

 オペラ座からのメトロで、乗車した途端、子供の一団が乗り込んできて、いきなりそれほど大きくはない女の子がわたしの財布をねらってきたのです。その一団は、一見、普通の男の子と女の子の集団で、そんなことをする子供たちとはおもえませんでした。ただ、いやに無理矢理に押し合いへし合いするような様子で、乗り込んできたな、と思った次の瞬間・・・。

 ポケットに指を突っ込まれたとき、噂に聞いていたパリでの子どもの窃盗集団のことが脳裏をかすめ、「あー、これがスリか」と思ったのですが、次の瞬間には、その子どもを突きとばしていました。混んでいたので、子どもは倒れませんでしたし、わたしもそれほど強くおしたわけではなかったので、その子たちはひと騒ぎして別の車両に移動してしまいました。

 まわりの乗客は、しきりにわたしにいろいろ話しかけてきましたが、わたしはフランス語はわからないのですが、たぶん雰囲気からして、「注意するように」との戒めだったと思います。
 
 他人事だと思っていたことが、現実での遭遇となり、あわてましたが、未遂だったので胸をなでおろしました。

  手口はいろいろです。上記のように子どもの集団がワイワイと取り囲んで、すきをみて中のひとりが盗みを働くというのもあれば、署名を頼むようにみせかけて両手が留守になったところを狙うものもあり、スプレーをいきなり眼にふきつけてくるというもの、などもあるようです。くれぐれも注意です。子どもたちが悪いのはもとよりですが、日本人のなかに無警戒の御仁が多いのは事実です。このような事件が、花の都パリで、日常茶飯事として、社会現象化しているのは、悲しい限りです。


パリの街、歩いて歩いて14万歩⑦(パッシー地域;マルモッタン美術館)

2013-09-25 23:47:11 | 旅行/温泉

      
  昨夏、マルモッタン美術館に来たおりは、休館でした。時々、こういうガクッとくることがあります。

  リベンジの今年、ようやく中に入館できました。ここは、モネの画が多く展示されているので、有名です。
  マルモッタン美術館にオペラ座からメトロでいくには3番に乗り、アーベル・コールマタンで下車、そこで9番に乗り換え、ラ・ミュエトゥで降り、そこから10分ほど歩いたところ、ラヌルグ公園の向こう側にこの美術館はあります。
  このあたり(パリ16区)は高級住宅街として名高く、ブローニュの森が隣接しています。
  美術館の土台をつくったのは美術史家・収集家だったポール・マルモッタン(1856-1932)です。ナポレオン時代の調度品、絵画のコレクションが目玉です。美術館の建物はヴァルミー公爵が狩猟用に建てたものを(1840年)、ポールの父でジロンド県の役人であったジュール・マルモッタンがに購入し(1882年)、邸宅に改造したものです。ポールの死後、彼の美術コレクションはアカデミー・デ・ボザールに寄贈され、1934年以降美術館として一般公開されました。
  1957年、モネの医者であったジョルジュ・ド・ベリオの収集品が、ベリオの娘のド・モンシー夫人から寄贈されました。『印象・日の出』はこのコレクションに含まれていたのです。1966年モネの次男だったミシェル・モネより、父親の画家モネの作品多数が寄贈されました。美術館は4部門に分かれています(①ポール・マルモッタンによる執政政府時代および帝政時代の美術コレクション、②ジョルジュ・ウィルスタインの彩色写本コレクション、③印象はコレクション、④ドニ&アニー・ルアール財団コレクション)。
 
 印象派の名称が由来する、モネの「印象・日の出」の他、「ルーアンの大聖堂」「霧の中の電車」など充実しています。
  モネ、以外では、ルノワール、シニャック、そして女流画家だったベルト・モリゾの作品も並んでいました。

  この美術館は10時会館。9時半ごろラ・ミュッテに着いたので、ブローニュの森に少しだけ入りました。ものすごく大きい森なので、ほんのさわりだけですが、それでも20分ほどなかに入り込んだので、個人的にはブローニュの森で森林浴をしたつもりになっています。ここでも、市民がジョギングで汗を流す姿が多くみられました。


パリの街、歩いて歩いて14万歩⑥(ベルシー地域;シネマテーク・フランセーズ他)

2013-09-24 23:31:34 | 旅行/温泉

 パリは映画のメッカです。古い映画に、いいものがたくさんあります。世界で最初の映画は、フランス人のリュミエール兄弟によるものです。
                                                  

                 

 そのパリには、シネマテーク・フランセーズという映画博物館があります。ここはどうしても行きたかったので訪れましたが、今回は残念ながら中に入ることはできませんでした。シネマテーク・フランセーズは、ベルシー地域にあります。オペラ座からメトロ8番に乗り、マドレーヌ駅で14番に乗り換え、ベルシーで下車します。

 まず、8月31日に行きました。ところが開いていません。ガイドブックでは、開いていることになっていましたが、理由はわかりません。後で、観光案内所により、シネマテーク・フランセーズがどうして開いていないのかを尋ねると、8月一杯は、ヴァカンスだからではないか、という返答がありました。そして、かなり確信的に、明日は大丈夫です、とつけくわえてくれました。しかし、この返答が間違いであることがわかりました。というのは翌日9月1日にもう一度、訪問したのですが、また休館だったからです。結局、2度足を運びましたが、映画博物館への夢は実現できませんでした。

 夢はかなわなかったのですが、思わぬ副産物がありました。ベルシー地区の散策です。この地域を歩き回りました。
 この一帯は、パリでは新興の地域です。シラク前大統領がパリ市長時代に、この地域の地域再開発計画を打ち上げました。珍しく高層ビルが並んでいます。体育館があり、公園があり、国立図書館(18建て、設計ドミニク・ペロー)があり、デザインがユニークな大蔵省の建物があります。ランニングしている市民を多く見かけました。
 ベルシー公園を横断し、シモーヌ・ドゥ・ボーボワール橋を渡り(この橋の両サイドの金網には下の写真のような鍵がくくりつけられています。若い男女が愛を誓ってくくりつけていくのだそうです)、セーヌ川沿いを歩きました。オステルリッツ駅を横目に、どんどん歩きました。その先にあるのは、昨年、訪れた自然史博物館です。動物園、植物園が隣接しています。気温は高め、汗ばむほどでした。 

                                     


パリの街、歩いて歩いて14万歩⑤(サン・ジェルマン・デ・プレ地域2:リュクサンブール公園他)

2013-09-23 23:57:59 | 旅行/温泉

 サン・ジェルマン・デ・プレ教会を出、ボナパルト通りを南へくだっていくと、サン・シュルピス教会、そしてリュクサンブール公園にたどりつきます。
                           
<サン=シュルピス教会>
 サン=シュルピス教会 (Église Saint-Sulpice)はフランス、パリ6区にあるカトリックの教会です。サン=シュルピス広場の東側に位置しています。奥行き120㍍、幅57㍍、高さ34㍍です。ノートルダム大聖堂よりわずかに小さく、パリ第2の大きさをもつ教会堂です。聖シュルピス(en)に献堂されている。
 この教会が建てられたのは、パスカル、ラシーヌ、デカルトが生きた時代です。1646年にルイ13世の王妃であるアンヌ・ドートリッシュの命により建築が開始されました。ルーブル美術館やヴェルサイユ宮殿を設計したルイ・ル・ヴォーが中心となって設計さらました。工事は何度も中断。1745年に完成しましたが、1762年には火災で一部が損壊、1770年には落雷によりファザード部分が破損するなど、完成は困難を極め、最終的にはエトワール凱旋門の設計に関わったシャルグランの手によって修復され、現在のネオ・クラシックの意匠をもつにいたっています。
 内部には、ドラクロワが1856年に描いた、フレスコ画があります。入口から入ってすぐ右手です。また、18世紀、精巧な日時計の指時針「サン・シュルピスのグノモン」が教会内部に作られました(1915年5月20日に歴史建造物の資格の対象となる)。
 ブリュメールのクーデターが起こる3日前にナポレオンの栄誉を祝う祝宴が700人を集めここで挙行されたことでも有名です。 

<リュクサンブール公園>
 サン=シュルピス教会に別れを告げ、さらに南にくだっていくと、リュクサンブール公園という、パリでも最も美しい大きな公園にぶつかります。このリュクサンブール公園(Jardin du Luxembourg)は、フランスのパリ6区に位置しています。
 1612年にマリー・ド・メディシスの命により、リュクサンブール宮殿に付随するものとして造園されました。第一執政期以降、元老院(上院)の敷地となっています。リュクサンブール公園は元老院の庭園ですが、一般人も開放されています。面積は22万4500平方メートル(22.45ヘクタール)、そのうち21ヘクタールが公開されています。パリっ子の憩いの場の一つです。それで、わたしもこの素晴らしい庭園にお邪魔することができました。

 リュクサンブール公園では、幼い子供とその両親向けに、フェンスで囲まれた広い遊び場があり、あやつり人形の劇場やメリー・ゴー・ラウンドもあります。人々は真っ青な空のもとで、ひとときを楽しんでいました。また、公園のテラス部部には、彫像が並んでいます。19世紀のルイ・フィリップのころからのものが並び、今ではその数が60ほどあります。かつてのフランスの王妃の像、有名な芸術家(ジョルジュ・サンド、ボードレール、ヴェルレーヌなど)のそれです。ギリシャ、ローマの神々の像、自由の女神の像もあります。
                         
 


パリの街、歩いて歩いて14万歩④(サン・ジェルマン・デ・プレ地域1:サン・ジェルマン・デ・プレ教会他)

2013-09-21 22:08:22 | 旅行/温泉

 カフェやおしゃれなブティックが建ち並び、独特の殷賑を誇るサン・ジェルマン・デ・プレ界隈。ショッピングをしているパリジェンヌたちもよく見かけます。しかし、小道に入ると静かな雰囲気で、落ち着いた街並を楽しめます。この地域の魅力です。

<ドラクロワ美術館>
 パリ滞在、数日もたたない一日、そのサン・ジェルマン・デ・プレを歩くことにしましました。目指すはまず、ドラクロワ美術館。オペラ座から8番メトロで「ストラスブール・サンドゥニ」駅で4番メトロに乗り換え「サン・ジェルマン・デ・プレ」で下車。地図に場所を確認し、すぐわかると思ったのですが、なかなか見つかりません。このあたりに住んでいる人に聞いても、見つからないのです。「すぐそこです」と言われたのですが、どうしても見つかりません。と、そこへツーリストらしい一団。この人たち、もしかすると、ドラクロワ美術館に行くのではというカンが働き、ついていくと、案の定、そこへ。見つからないはずでした。ほんとうに小さい場所で、わかりにくい看板がかかっているだけなのです。大きな美術館との固定観念が悪い方向に働いたのでした。
 ともあれ、サンジェルマン・デプレ教会の裏手、静かなFurstenberg通りの小さな広場に、19世紀のロマン派画家ドラクロワ美術館がありました。この記念館へのアクセスは、広場の角にある緑の扉が目印だそうです。扉をくぐるとフランス国旗がかかった建物があり、そこが美術館の入口でした。
                       

 1857年から63年まで、ドラクロワが最期の6年間を過ごした住居です(建物の2階部分)。入口から入り階段を上ると、左手がチケット売り場で、右手が展示室になっています。ドラクロワの肖像画がそこにあります。風景画や肖像画が並び、シックな深緑の壁紙が印象的な部屋から左に入ると、リトグラフ作品が展示された部屋に続き、壁の一部が白い扉になっていますサンジェルマン・デプレ教会の裏手、喧噪から離れた静かなFurstenberg通りの小さな広場に、19世紀のロマン派画家ドラクロワのアパートがあります(アパートへのアクセスは、広場の角にある緑の扉が目印。扉をくぐるとフランス国旗が掲げられている建物があり、そこが美術館の入口です)。1857年から63年まで最期の6年間を過ごした住居(建物の2階部分)とアトリエを見学することができ、ドラクロワの晩年の様子をうかがうことができます。
  入口から階段を上ると、左手がチケット売り場、右手が展示室となり、ドラクロワの肖像画が出迎えてくれます。風景画や肖像画が並び、シックな深緑の壁紙が印象的な部屋から左に入ると、リトグラフ作品が展示された部屋へと続いています。この先がアトリエで、そこに入ると大きな空間が広がり、ドラクロワの作品を中心に、大作が並んでいます。実際にドラクロワが使っていたパレットや筆の展示もあります。こういうものを眺めていると、歴史上の、また美術の教科書のなかの存在だったドラクロワを身近に感じました。

<サン・ジェルマン・デ・プレ教会>

 ドラクロワ美術館を出るとすぐに、大きな教会があります(奥行65㍍、幅21㍍、高さ19㍍)サン・ジェルマン・デ・プレ教会です。セーヌ川左岸が好きなパリジャンにとっては心の灯台と呼ばれる教会です。かつては壕と防塁に囲まれ、偉容を誇っていた大修道院ですが、いまは小規模化しています。
 起源は6世紀にまで遡ります。メロヴィング朝のクローヴィスの子、シルドベルド王がスペイン遠征をおこなったさいに、サラゴサで殉教したサン・ヴァンサンの遺物をもち帰り、パリ司教サンジェルマンがこれを納めるために建立したのが、この教会ができるきっかけでした。8世紀以降、ベネディクト派の修道院として隆盛をきわめましたが、9世紀にノルマンジーの侵攻を受けて荒廃してしまいます。990年から再建が始められました。12世紀に入ると、手動院の収容能力をあげるために拡張され、1163年に一応の完成をみました。その後、17世紀に大拡張があり、最盛期を迎えましたが、革命で倒壊しました。その後、何度も修築、改築があり、現在にいたっています。
 ロマネスクの天井に交差するゴシック様式のリブ・ヴォールトは17世紀になって付け加えられたものです。ここには、哲学者デカルトが眠っています。

                     


パリの街、歩いて歩いて14万歩③(広場3:ヴァンドーム広場)

2013-09-20 20:05:55 | 旅行/温泉

            

  ホテルは、オペラ座の近くにとりました。パリの街にあまり慣れていない人にお勧めです。地下鉄が利用しやすく、北にはサン・ラザール駅があり、有名な大きなデパート、ラファイエットが利用し安いです。さらに、スーパーで日用品をもとめるのに便利なMONOPRIX(モノプリ)があります。ルーブルまで徒歩で30分もあれば十分、行けます。オペラ座そのものが観る価値あります。10ユーロ(?)を払うと、中に入って、その意匠を鑑賞できます。
 宿泊したホテルから、ヴァンドーム広場までは徒歩で12・3分。そのヴァンドーム広場を紹介します。

<ヴァンドーム広場>
 
ヴァンドーム広場(Place Vendôme)は、パリの1区にあります。オペラ座から徒歩で15分ほど、テュイルリー宮殿の北、マドレーヌ寺院の東に位置する矩形の広場です。

 ヴァンドーム広場は、1702年に、ルイ14世を称えるために敷設されました。設計者はヴェルサイユ宮殿の建築を手がけたアルドゥ・アン・マンサールです。

 当初、広場にはルイ14世の騎馬像がありましたが、フランス革命時に取り壊されました。その後、ナポレオン1世はアウステルリッツの戦勝を祝賀、記念し、自身の像とトラヤヌス記念柱を模したコラム(円柱)を広場の中央に建てました。このコラムにはブロンズの延べ板が螺旋状に巻きつけられていました。ヨーロッパ連合軍から戦利品として獲得した大砲を材料にしていたそうです。しかし、ナポレオン1世の像は彼が失脚した後、ひきずりおろされました。パリ・コミューン期の1871年、文化大臣だった画家クールベは、コラムをばらばらにして再度組み立てるよう提案しました。この提案は却下されましたが、帝権の象徴を分解することが決議され(1871年4月12日)、コラムは倒されました(5月8日)。再建の予定はありませんでしたが、ブロンズの延べ板は保存されました。その後、パリ・コミューンがアドルフ・ティエール率いる共和派によって制圧されたおり、議会はナポレオン像とコラムの再建を決定しました。

 現在、コラムの頂上に置かれているのは、19世紀後半に再建されたナポレオン像で、ローマの方向を睨んで立っています。

 ヴァンドーム広場は、それを囲繞するファッショナブルで、デラックスなホテル群でも有名です。「ザ・リッツ」ことオテル・リッツ・パリ、パーク・ハイアット・ヴァンドーム、オテル・ド・ヴァンドームなどなど。また、多くの著名な服飾デザイナーや宝石商が広場にサロンを開いています。


パリの街、歩いて歩いて14万歩②(広場2:ヴォージュ広場)

2013-09-19 22:42:14 | 旅行/温泉

  バスチーユ広場から歩くこと20分ほど。早朝にスタートしたこの日でしたが、気温はかなり高く、汗がふきだしていました。途中で水を買い、地図をたよりに目的地のヴォージュ広場へ。このあたりには、ビクトル・ユゴー記念館があり、目的地はそこでした。

 

                      

<ヴージュ広場>

 ブルボン王朝の創始者アンリ4世が造らせたパリで最も古い広場のひとつです。パリを世界で最も美しい都に、という王の望みが込められていました。1605年に企画され、1612年、ルイ13世の時代に完成しました。「ヴォージュ」とは、フランス東部の地方の名称です。当時、ヴォージュ県が最も速く税金を納めていたため感謝の意を表して、この名称がつけられました。

「王の広場」とも呼ばれ、南北に王の館、王妃の館が配置され、それらを含め36のパヴィヨン(館)に囲まれています。

この広場は、当時、社交場であり、貴族の決闘の場にもなりました。また、時代を経て、馬術競技が行われていたこともあったようです。
 広場を囲む36の館には、多くの貴族や政治家や作家が住みました。なかで最も著名な人物は、19世紀最大の作家ヴィクトル・ユゴーです。ユゴーが暮らしていた6番地は(1832-1848年)一般公開され(無料です)、ヴィクトル・ユゴー記念館になっています。ユゴーや家族の肖像画が掲げられ、書斎がそのまま残されています。

 このような歴史をもつヴォージュ広場は、現在は広場というより、緑が綺麗な市民の憩いの公園のような感じです(バスチーユ広場から徒歩で20分位だったろうか)。広場の中央には、ルイ13世の銅像が立っています。散策している人もいれば、ジョギングをしている人もいます。また、広場を囲む建物の一階はアーケード付の回廊となっていて、画廊、骨董品屋、レストランが並んでいます。
 浅田次郎の小説『王妃の館』は、ここが舞台です。

 ヴォージュ広場のあとは、ピカソ美術館に行きましたが、補修中で入れませんでした。次年度の3月まで休館です。


パリの街、歩いて歩いて14万歩①(広場1:バスチーユ広場)

2013-09-18 22:58:49 | 旅行/温泉

 8月下旬から9月上旬にかけてパリに行ってきました。パリは3回目です。1回目は2007年にツアーでフランス(マルセイユ、ニースなど)をまわったときに。この時、パリは一泊で、ルーブルを少し見て、あとはオペラ座のまわりを散策し、ラファイエットで簡単な買い物をした程度でした。2回目は昨年の夏。この時は、個人旅行で、パリの街を主として、美術館巡りしました。ルーブル美術館、オランジェリー美術館、オルセ美術館、ロダン美術館、ギュスタフ・モロー美術館、クリュニー中世美術館など。本ブログに記事を詳細に掲載しました(2012年9月7日ー19日)。
 そして、3回目の今回も個人旅行で、ポイントはとにかくメトロを利用しつつ、歩き回ったことです。万歩計を毎日つけていました。帰国後、パリで歩いた歩数を足し算したところ(ホテル内は除く)、14万歩ほどになりました。
 今回の紀行文は、その歩いた場所、地域別に、10回ほど記事にしていきます。まず、最初は「広場」です。バスチーユ広場、ヴォージュ広場、バァンドーム広場、と続きます。シャンゼリゼ通りをはさんで凱旋門の反対に位置するコンコルド広場には今回、行きませんでした。

                         

<バスチーユ広場>

 パリの歴史を感じさせる広場として一度は訪れたかったのがバスチーユ広場。オペラ座から8番のメトロに乗り、バスチーユ(Bastille)で下車します。乗り換えなしです。

 フランス革命の象徴のひとつがバスチーユ監獄への民衆の蜂起です。1789年7月14日の事件として知られています。パリに着いた翌日の朝、まずバスチーユ広場(Place de la Bastille)を訪れました。交通の便がよいところに位置しています。

 バスチーユ牢獄(1370年から1383年にかけて建設)は、当初、パリ防衛のための要塞でした。17世紀にルイ13世の宰相リシュリューによって、国事犯の収容所に改造され、政治犯のほか宗教犯や民衆を扇動した作家の収容所になりました。さらに、国王が自由に発行する「勅命逮捕状」で逮捕された人間が収監され、次第に悪政の象徴となっていきました。

 18世紀後半、バスチーユ牢獄は中庭と武器庫を取り囲むように建つ高さ24mの8つの塔と防壁によって形成されていました。囚人は主にこの塔の5階~7階に収容され、直径4.6mの部屋に家具を備えた部屋が与えられていました。この時期、アンシャン・レジームに対する民衆の怒りが頂点を極め、1789年7月14日、パリ市民は圧政や国王の権力の象徴であったバスチーユ牢獄を襲撃(このとき、収容されていたのはわずか7人といわれ、この7人も政治犯ではなかったようです)。

 14日払暁、バスチーユ牢獄を取り囲んだ8000人の群集は牢獄側に対して投降を呼びかけ、交渉をかさねましたが、不調に終わり、昼過ぎに一部の群集が中庭に侵入。これに守備兵が発砲して応戦したため銃撃戦となりました。一部のフランス軍が群集側に加勢しバスチーユ牢獄側は降伏、夕刻、牢獄は陥落し囚人たちは解放されたということです。

 この監獄は今、現存していません。革命後、解体されました。現在、そこは広場となっていて、1830年の7月革命で命を失った人々を追悼する記念碑がたっています。

 記念碑のそばにはオペラ・バスチーユがあります。1789年7月革命200周年の前夜祭があった1989年7月13日にむけて建設されました。近代的装いの建築で、偉容を誇っています。設計はカルロス・オット。1983年国際設計コンクールで優秀な成績をおさめたカナダ人です。

 わたしは、この後、ヴォージュ広場に向かって歩き始めました。


岡崎武志『蔵書の苦しみ』光文社新書、2013年

2013-09-17 22:08:38 | 読書/大学/教育

                       
               
  世の中にはもの凄い蔵書家がいるものだ。蔵書の数が数万冊という人も少なくない。古くさかのぼれば、数十万冊という大家もいるようだ。


  著者もそのひとりだったが、年齢を重ねるうちに溜まった本を、古書販売し、蔵書をスリム化する気持ちになったようで、国立での「一人古本市」の経験をこの本の最終章「蔵書処分の最終手段」で書いている。数千冊売れたというが、それでも全蔵書の5-7%くらいと言う。本書では自らの体験をベースに、蔵書にまつわる悲喜劇をエッセイ風に考察している。蔵書が家を崩壊させる、古本買取のドラマ、蔵書することは読書にとっていいことなのか、どうしたら蔵書とつきあっていけるのか、適切な蔵書量というのはあるのか(あるらしく500冊と書いてある)、蔵書(なかばコレクター)するのは男性に多いようだが、その理由は、などいろいろな側面からの考察が面白い。

  戦時中に空襲で、蔵書をまるごと喪失した話、神戸の大震災で蔵書を失った話もでてくる。まことに、話題豊富な本である。「整理術」として役立つ部分もあるが、単なる「ぼやき」「自己満足」「自慢話」の部分も少なくない。

  わたし自身、ここ数年で本をかなり処分した。この本に出てくる蔵書の大家にくらべればわたしの蔵書数など知れたものだが、しかし放っておけば1万冊くらいにはなりそうで、置き場もないし、もう絶対に読まない本も多いので、現在進行形でドンドン処分している。

  この本には、各章の末尾に「教訓」」が書かれ、蔵書に悲鳴をあげている人、蔵書によって他人(家人)に迷惑をかけている人には参考になる。

  古書の世界のことを知ることができたのも、この本のご利益だった。たとえが作家・小沼丹の小説はなかなか入手できないようで、高値がついているようである。また、古本は安値で買いたたかれ場合が多いが、良心的なところもあり、紹介されている。頭に「ぶ」のつく、新古書店はダメだそうである。


「舟を編む」(石井裕也監督)2012年

2013-09-13 23:35:57 | 映画

            
 三浦しをん原作の同名の小説の映画化。原作の紹介は、本ブログの8月10日版に掲載されています。

 大手総合出版社の辞書部で日本語辞書「大渡海」の編纂がはじまった。編集部の荒木公平は、この事業にふさわしい人材を、第一営業部に所属していた、まじめだけが取り柄の馬締光也。27歳を抜擢する。
 辞書の作製にたずさわるのは、外部の監修者・松本先生、嘱託の荒木、他にわずかの契約社員のみ。
 辞書作製は重要な仕事だが、採算のUPには繋がらず、地味な「お荷物」的存在である。この小説は辞書「大渡海」の製作を題材に、それに関わったひとたちの人たちの地味な仕事を、熱いドラマに仕立てたものだが、映画はかなり原作に忠実に作成されているが、これはこれで独立した作品のようにも思える。というのは、小説を読みながら、この映画に登場する俳優を知らない段階で、わたしが勝手に想定した俳優とかなり違う人が出演していたが、何の違和感もなく作品化された映画を鑑賞できたからである。映画の説得力はすごい。

・馬締光也(松田龍平)
・林香具矢(宮崎あおい)
・荒木公平(小林薫)
・西岡正志(オダギリジジョー)


ブログコンセプトの変化+読書マラソン

2013-09-12 23:37:04 | 読書/大学/教育

  7月上旬から、本ブログの投稿内容が、説明抜きで、だいぶ変わりました。統計学関係で、とくにそれを学説史的アプローチしたもの、また物価統計関係の記事を突然書き始めました。

 そうした理由はまず、書くことがだんだんなくなってきたので、わたしが一番書きやすいもので、さらに記録に残しておくと都合がよいものをUPし始めたというこです。また、本ブログを見ている人にわりとそういうことに興味をもっている人がいる(らしい)ので、思い立ったというわけです。この間、以上のように、ブログコンセプトに、若干の変化があったので、報告します。

 しばらく報告していなかった読書マラソンはいまのところ、80番台をいったりきたりしています。

<参考>
・2012年5月4日(1567位)
・2012年6月16日(933位)
・2012年8月19日(498位)
・2012年9月21日(390位)
・2012年11月22日(232位)
・2013年3月3日(197位) 
・2013年4月3日(125位)
・2013年9月10日(84位)