【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

なかにし礼『赤い月(上)(下)』新潮社文庫、2005年

2007-03-31 16:29:39 | 小説
なかにし礼『赤い月(上)(下)』新潮社文庫、2005年
 
 同僚の紹介です。上下巻788ページ。しかし、一気に読めました。

 1930年頃、著者の両親がモデルと考えられる勇太郎と波子は小樽から満州に赴き,苦労し、そこに森田酒造を興隆させ,一時の栄華,繁栄にまみえます。
 ところが、ソ連参戦,関東軍の後退以降,財産の全てを失って敗走し,引き揚げざるをえない状況に追い込まれます。波子の奔放な愛にも焦点をあてながら,引揚者の様子を、当時の満州の歴史状況のなかに炙り出した作品です。

 冒頭の,関東軍・保安局の氷室啓介と愛人関係にあったソ連のスパイ・エレナ(主人公波子の嫉妬による告発書で発覚)が氷室自身の軍刀で処刑される場面(臨陣格殺),波子と子どもたちが難民として牡丹江からハルピンに軍用列車で逃げていく場面,ハルピンで波子が阿片で病んだ氷室を救い出し,彼の禁断症状をふたりで格闘しながら治していく場面が凄まじく印象に残りました。

 「満州で経験した,非現実ともいうべき出来事のすべてを現実のものとして思いおこした」著者が、渾身になってエネルギーを傾注した壮大なドラマです。

 読後、映画(降旗康男監督,常盤貴子主演)を観ました。原作に忠実であすが(かなり省略),原作者は脚本家がノイローゼになるくらい「ダメだし」をしたとのことです。

小林登美枝『陽のかがやく 平塚らいてふ・その戦後』新日本出版社、1994年

2007-03-30 23:13:59 | 評論/評伝/自伝
小林登美枝『陽のかがやく 平塚らいてふ・その戦後』新日本出版社、1994年。
 
 20年間「らいてふ」と交流があっただけでなく、最後の病床でも看護にあたった著者による「らいてふ」研究です。

 「らいてふ」は1886年、東京生まれ。本名は「平塚明(はる)」。いわずと知れた「青踏社」をたちあげ(1911年)、「原始女性は太陽であった」と宣言し新しい女、と当時の世間を騒がせた女性です。

 この本は、わたしの旧来の単純な「らいてふ」像を改めさせてくれました。「らいてふ」は、女性の能力の発露を願い、「青踏」を女性の作品の発表の場として提供。

 早くから禅の研究に入り、またある種の皇国史観ももっていました。

 奥村博と長く同棲。子が二人。戦後、1941年に入籍。戦前には消費組合運動の先頭にたち、戦中には疎開先(茨城県北相馬郡戸田井)で農耕生活、そして戦後には非武装・再軍備反対、安保条約阻止などの運動に積極的にかかわりました。

 著者は、『平塚らうてふ著作集』(全8巻)の編集にたずさわったそうですが、病床での「らうてふ」自伝の口述を筆記するという大きな仕事を成し遂げました。

 「らうてふ」病床の日々の様子が詳しく書かれています。

 過日、知人会の演劇「ブルーストッキングの女たち」(木村光一演出)を観、興味が湧いてこの本を手にとりました。

増田宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』集英社新書、2000年

2007-03-27 23:52:20 | スポーツ/登山/将棋
増田宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』集英社新書、2000年
 
 変わったことを調べ、研究している人がいるものです。疑問にも感じたことがありませんでしたが、そういう問題の立て方は確かにありえますね。

 将棋の淵源はチェスと同じで、インドです。しかし、日本の将棋は、チェスよりもはるかに複雑です。とった駒を使用できる、敵陣に駒が入ると「成」ってもよい、など。

 将棋が現在のような9×9の升目盤上で40枚の駒を使う形が定着したのは江戸時代とか。それまでは13世紀-14世紀に大将棋(駒数130枚)、16世紀に中将棋(駒数92枚)が普及したようです。

 駒が大宰府とか、興福寺などで発掘され、種々の文書から当時の将棋がどのようなものであったかが推定されています。

 ただ、表題の問いには正確に答えていないような気がします。いくら捜してもありません。「少将棋は底流として続いていたことは事実であるが、いつ頃から駒を再使用するルールが確立したのか。単純な少将棋に飛車と角行(及び醉象)の駒がいつ頃から加えられるようになったのかは、まだ判明していない」(pp.193-194)というのが、もしかしたら回答に近い叙述なのかなとここに引用しましたが、よく読むとそうではないですね。ほんとうに何故、40枚なのでしょう?

 家康が将棋の庇護につとめたこと、幕府から俸禄を受けた将棋を家業とする三家(大橋家)があったこと、詰将棋があったこと、など話題はつきません。

 著者は日本での将棋の普及を11世紀ごろ以降とみていますが、6世紀ごろ以降と主張している人がいるらしく、この本の前段でその説をややエキセントリックに批判しています。が、そういう説を誰がとなえているのかが書かれていないいので論旨に隔靴掻痒の感があって残念。

松岡正剛『日本流』朝日新聞社、2000年

2007-03-26 23:59:12 | 地理/風土/気象/文化
松岡正剛『日本流』朝日新聞社、2000年。

 このプログのリンクにもはってある、「知の巨人」松岡さんの本。
 
 童謡に始まって,童謡で終わる稀有な日本文化論です。三木露風,北原白秋,野口雨情,西条八十らによる大正の童謡運動に、フライジャルな(傷つきやすく壊れやすい)日本独自の感覚を認め,歌を忘れたが,まだ十分に思い出せるはずの「多様で一途」なこの国の伝統を模索しています。

 話は多岐にわたります。日本語,職人,着物,祭りの話,「見立て」「数奇」「ウツ」「スサビ」「アワセ」の奥にある方法をとりだす話,等々。

 とにかく「一対の語り口」を蘇らせること(p.56),「キワとかハシを見抜く」こと(p.63),「ツメ,ツクリ,モノ,メアテ」の意味,「モドキ,フリ」の文化,「間と型」の妙味など,日本流を考える素材が満載です。

 登場人物も多様(夏目漱石,永井荷風などはもとより三宅雪嶺,新渡戸稲造,網野善彦,戸坂潤,三木清,そして中村吉右衛門,井上陽水など),このように多くの有能な日本人がかつていたし,そして現在もいるのです。

 文化の多様な様相を編集していく著者の力量と斬新としかいいようのない切り口は,ただものではありません。

南川高志『ローマ五賢帝』講談社新書、1996年

2007-03-24 22:21:27 | 歴史
ローマ史の本を紹介します。
南川高志『ローマ五賢帝』講談社新書

 
紀元後96年から180年までの古い話。

 五賢帝とはネルウァ(元老院議員の互選による)、トラヤヌス(ダキア征服)、ハドリアヌス(ブリタニア北部に城壁構築)、アントニヌス=ピウスマルクス・アウレリウス(ストア派の哲人皇帝)です。

 意外なのは、この最盛期のローマ帝国に焦点をあて、繁栄した時代の帝国を支えたものは何か、を検討した研究は少ないのだそうです。

 一見、安定して平和であったかのようなこの時代でも、皇帝位の継承は紛糾し、皇帝は憎悪の対象であり、政治安定の鍵といわれてきた「養子皇帝制」なるものは存在しませんでした。

 決定的であったのは帝国各地の元老院家族の間にはりめぐらされた婚姻関係(イタリア、スペイン、ガリアなど各地の元老院家系の広い結びつき)にもとづく元老院階級の結束、賢帝(トラヤヌス以降は属州都市家系の出身)と元老院階層との柔軟な権力関係(階層間の流動性が穏和な程度で機能)という指摘が印象的でした。

 「プロソグラフィー的研究法」(生没年、出身地、家族構成、親族関係、職業と経歴、宗教などの個人情報を集め、伝統的資料の集成に基づいて、その時代の政治や社会のあり方を考察する方法「p.85」)によりながら独自の仮説を展開しています。

 地味な本かも知れませんが、示唆に富んだ指摘が随所にあります。
 
 

イ・ヨンエ『ヨンエの誓い』日本放送協会、2006年。

2007-03-21 14:31:03 | 映画

 イ・ヨンエ『ヨンエの誓い』日本放送協会、2006年。

        ヨンエの誓い
 日本で大ヒット(わたしも最後の数回をのぞき観た)した韓国ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い(原題は「大長今」)」の主演女優イ・ヨンエ(李英愛)さんのエッセイです。

 2006年にNHKの招きで来日し、「スタジオ・パークからこんにちは」に出演した後にエッセイ出版の話があり、8月にホテルでインタヴューを受け、編集されました。イ・ヨンエさんの素顔、チャングムの裏話、共演者(ヤン・ミギョン、チ・ジニ、ホン・リナ、キョン・ミリほか)との交流がいきいきと伝わってきます。

 チャングムのドラマ作りは、大変だったようです。もともとは50回ドラマの予定が54回に。週2回の放映。脚本はドラマの進行とともに次々と書かれ、どのように展開していくかはわからず、視聴者の反応を見ながら作られていったそうです。

 時代劇で医学の専門用語が出てくるのでセリフを覚えるのも苦労したとか。寒さ、睡眠不足との闘い。包丁で指を切ったことも。視聴率のプレッシャー。「キムチのようなドラマ(=チャングム)」に挑戦した「酸素のような女性(=イ・ヨンエ)」は、わりと内気で、気短なところもありましたが、チャングムの成功で大きく脱皮しました。

 映画「親切なクムジャさん」は未見。賛否両論ありましたが、ベネチア国際映画祭では高い評価をえたとのことです。

 本書には、彼女のポートレートがたくさん載っていて、どれも魅力的です。

おしまい。
後の4回ほど以外は観た)した韓国ドラマ「宮廷女       


乙川優三郎『男の縁(自撰短編集・武家篇)』講談社、2006年

2007-03-13 23:16:11 | 小説
乙川優三郎『男の縁(自撰短編集・武家篇)』講談社、2006年。
 
 揺るぎない文体をもっています。わたしが言うのもおこがましいですが、豊かな表現、洗練された言い回し、それらによってしか表現できない物語の機微、登場人物の葛藤と人情が独特の味わいを醸し出し、乙川ワールドを作り出しています。同時に、日本語の美しさも感じさせてくれます。
 
 彗星のような才能です。「悪名」「男の縁」「旅の陽射し」「九月の瓜」「梅雨のなごり」「向椿山」「磯波」「柴の家」、いずれも品格があります。

 わたしがとくに気に入ったのは、「磯波」「柴の家」の2作品。

 「磯波」:神道流という剣術の道場主の娘、奈津と五月。妹の五月は道場の後継者、志水直之進と結婚していましたが、実は彼と姉の奈津はかつて恋仲でした。五月の結婚生活はうまくいっていません。それというのも直之進の姉への想いがあったからでした。さて、この関係は、如何に展開していくのでしょうか?

 「柴の家」:若くして戸田家に養子に入り、そこの娘と結婚した新次郎。退屈なその生活にあきたらず、ふとしたことで知った向島の小梅村の陶房での老人と娘と出会い、そして生きがいを見つけたのでした。この結末は・・・・。
 
 
 

江戸は魅力的な街でした

2007-03-08 20:41:28 | 歴史
田中優子『江戸を歩く』集英社、2005年。
 
 千住小塚原回向院で始まり、鈴ケ森の刑場で、著者は近代都市東京にくみしかれた江戸の街を散策し、その情緒を嗅ぎ分けます。

 かつて、江戸は水の都でした。その文化は自然環境を大前提としていた街でした(p.88)。

 くわえて江戸は東北の鬼門寛永寺、反対側の南西に増上寺、外堀にそって山王社、反対側の外堀に神田明神(総鎮守)、北斗の方向に日光東照宮を置く、平安京(風水に守られた)を模した都市計画のもとに作られた街でした(p.154)。

 「さらに外側には、吉原遊郭、品川の遊里があり、・・・浅草には弾左衛門という頭がおり、車善七という頭がいた」そうです(p.200)。

 渡来人が大挙して入植した浅草、魚河岸と商いでにぎわった日本橋界隈、江戸時代に埋め立てられた新しい入植地深川。本当に江戸は、魅力的な都市だったのです。

 大名が出入りした名残である上屋敷、中屋敷、下屋敷は、現在では大学、庭園になっています。かなりまえ、東京を散策して知った場所がたくさん出てきました(門前仲町、根津神社、小石川後楽園など)。

 根津の串焼きの「はん亭」にはよく行きましたが、江戸時代の爪革問屋の建物だったとは・・・(p.150)。
 
 よくできた本です。おしまい。

フェルメール

2007-03-05 18:00:35 | 美術(絵画)/写真
朽木ゆり子『フェルメール全点踏破の旅』集英社、2006年。
 
 
 ベルリン、ドレスデン、ブラウンシュバイク、ウィーン、デルフト、アムステルダム、ハーグ、ロッテルダム、ロンドン、パリ、エジンバラ、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークに散らばっているフェルメールの絵画を3週間弱で鑑賞し、作品そのものの解説し、その来歴を読み解いた本です。

 「全点」とありますが4点(「合奏」「聖女プラクセデス」「手紙を書く女と召使」「音楽の稽古」)は観ることができなかった、と書かれています。「合奏」は現在行方不明。「聖女プラクセデス」は一般公開されてないとか。「手紙を書く女と召使」は以前に観たから、今回は断念。「音楽の稽古」はタイミングがあわなかった、とあります。

 専門家の間では34枚がフェルメールの真作であることで合意があるとのことです。「聖女プラクセデス」「フルートをもつ女」を真作とするのは無理らしいです。 「赤い帽子の女」「ダイアナとニンフたち」も本当にフェルメールが描いた絵かどうかは不確か、とか。

  フェルメールの作品は初期に神話を題材とするものもありましたが、ほとんどは日常生活のテーマが描かれています。寓意はないように思われているが、実はたくさん「ある」そうです。

 本書は、それぞれの絵の来歴に詳しい叙述があります。おしまい。

蓮見圭一『水曜の朝、午前3時』新潮文庫、2005年

2007-03-02 20:21:32 | 小説
蓮見圭一『水曜の朝、午前3時』新潮文庫、2005年。
 
 なぜ、この本を読んだかというと、この文庫の帯に俳優の児玉清さんが絶賛の言葉があったからです。児玉さんは、大変な読書家としても知られています。児玉さんを信頼して読み始めました。面白い小説でした。
 
 脳腫瘍を患って余命いくばくもない四条直美が病床から娘・葉子(ニューヨークに留学中)あてに吹き込んだテープの録音を起こすということをした「僕」。

 録音の内容がそのまま小説の展開になっています。実は「僕」は葉子と結婚して、双子の子どもがいます。

 時代は大阪万博の頃。祖父がA級戦犯で処刑され、厳格な家庭に育った直美が、親の反対を押し切って(親が決めた許婚がいた)、大卒で就職した会社をやめ、万博のコンパニオンになります。そこでひとりの有能な男性、「臼井」と恋に陥りますが、最後は破綻します。(どうしてそうなってしまったかは、ここでは書きません。お楽しみに)。

 臼井の妹、成美との交際もありました この小説の全体のストーリーにとっては傍流ですが、それなりに重要です。

 なぜなら、小説のタイトルはこの妹の成美の死んだ時間だからです(しかも、このタイトルは「サイモント・ガーファンクル」の同名のデビュー曲[WEDNESDAY MORNING,3A.M.]からとったのだそうな)。
 彼女は、臼井と別れたことに、ある種の自責の念をもちながらも、その後結婚、葉子を産みました。

 「解説」で池上冬樹氏が「本書は、オールド・ファッション・ラブソング」で、「夾雑物を排して、恋愛と家族と人生というテーマに収斂させている」(pp.312-313)と書いています。
 
おしまい。