【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

西川和子『スペイン・フェリペ二世の生涯』彩流社、2005年

2007-12-31 01:19:44 | 歴史
西川和子『スペイン・フェリペ二世の生涯』彩流社、2005年
          スペイン フェリペ二世の生涯―慎重王とヨーロッパ王家の王女たち
 文字どおり、「慎重王」フェリペ二世(1527-98)の生涯を扱っています。二世の生い立ち、そして十年ごとのくぎりで、10代、20代、30代・・・70代と描いていきます。

 16世紀のヨーロッパではフランス、ネーデルランド、イタリア、イングランド、ポルトガル、オーストリアを舞台に、支配的だったカトリックに抗してプロテスタントが勢力を伸ばしてくる時代でした。そして、イスラムは虎視眈々と領土拡大をねらっていました。

 サン・カンタンの戦い、レパントの海戦、ネーデルランドの反スペイン運動、そしてアルマダの闘い。二世は休む暇はなかったのです。

 この間、4人の妃と結婚しました。マリア・マヌエラ(ポルトガル)、メアリー・チューダー(イングランド)、イサヴェル・バロア(フランス)、アナ・デ・アウストリア(オーストリア)。4カ国の女性が相手なのですから、この時期の「国際関係=縁戚関係」がわかろうというものです。

 この時代は、縁戚関係が複雑で飲み込みにくいです。そのあたりの事情を察してか、著者は「この人は誰だったかというと・・・」という調子で復習を繰り返していて、それは助かります。

 いたしかたないとはいえスペイン帝国から情勢をみすぎているきらいがあります。プロテスタントが台頭してくる背景に、階級としてのブルジョアジーの勃興があることの認識がやや希薄だと思いました。

おしまい。

山家悠紀夫『景気とは何だろうか』(新書)岩波書店、2005年

2007-12-30 01:10:18 | 経済/経営
山家悠紀夫『景気とは何だろうか』(新書)岩波書店、2005年
         景気とは何だろうか (岩波新書)
 景気循環を引き起こす要因を①市場の力,②海外からの影響,③政策の力に整理し,戦後日本の経済を「戦後復興の時代」「高度成長の時代」「低成長の時代」に区分して解明しています。

 橋本内閣の「財政構造改革」が1996,97年不況を招き,深刻化させたという分析,また1999-2000年の政策転換による景気回復,2002-04年の米中の経済活動の高揚による景気回復という状況のなかで一貫していたのが97年からの家計部門の需要低迷という分析は鋭いと思います。

 これらの分析の延長で、いわゆる「構造改革」論の論理と現状認識を批判し,格差拡大,景気回復の阻害という現状を憂えています。

 不良債権処理政策の誤り,欺瞞も徹底的に暴いています。最初の2章「1章・景気はなぜ波を打つか」「2章・景気を何でとらえるか」は論点整理が行き届いていますし,最終章「暮らしの視点から景気を見る」での「景気がよくなることが即暮らしがよくなることではない」とする着眼点は傾聴に値します。

おしまい。

山家悠紀夫『「構造改革」という幻想』岩波書店、2001年

2007-12-29 01:07:11 | 経済/経営

山家悠紀夫『「構造改革」という幻想』岩波書店、2001年
                          「構造改革」という幻想―経済危機からどう脱出するか
 小泉政権のおりに盛んに喧伝された、いわゆる「構造改革」路線を徹底的に批判しています。

 構造改革の内容は,「規制緩和政策の推進」「競争政策の積極的展開」「ダイナミックな企業活動を促す環境整備」に要約されます。著者はその本質がサプライサイド強化論であり,アメリカの近年の経済成長政策を模したものとみています。

 その上で,日本経済に今必要なのは需要喚起政策であること,またアメリカに成長をもたらした条件と現在の日本経済がおかれている環境とでは相違があることを主張し,「構造改革」には組しえないと断言しています。

 またバブル崩壊後,2度景気回復の兆候があったにもかかわらず,消費税率引き上げを含む「構造改革」政策がこれをつぶしたこと,不良債権処理の強引さが景気後退を余儀なくさせたことを糾弾しています。

 構造改革推進派は財政構造も改革しなければならないと宣伝していますが,それも誤解であることを解明しています。まことに小気味がよいです。

 以上のように。著者の意見にはおおむね賛成で、同意できますが、ひとつだけ指摘しておきますと、財政分析で若干楽観的にすぎる記述があるように思いました。

おしまい。


柳父(やなぶ)章『翻訳語成立事情』(新書)岩波書店、1982年

2007-12-28 00:52:30 | 言語/日本語

柳父章『翻訳語成立事情』(新書)岩波書店、1982年
          翻訳語成立事情 / 柳父章/著
 明治時代に入って新しい外国の単語が次々に輸入され、それをどのように日本語に置き換えるか、つまりいかに翻訳するかが問題になりました。

 難しかったのは当該の外国の単語に相当する実態、現実が我が国に存在しない場合でした。

 本書はそのような単語10個を取り上げて、翻訳の苦心の様、また新しい日本語がたどった道(訳語にあたられて、その単語がひとり歩きをはじめ、意味を獲得して定着して過程)を分析しています。

 10個の単語は、「社会(society)」「個人(individual)」「近代(modern)」「美(beauty)」「恋愛(love)」「存在(being)」「自然(nature)」「権利(right)」「自由(freedom)」「彼・彼女(he,she)」です。

 societyでは、そもそも独立した個人の結びつきの関係という実態が我が国にはなかった(世間のようなもののみ存在)ので、この語には当初「侶伴」「仲間」「組」「連中」「会社」「交際」などさまざまな訳があてられたそうです。

 individualもわかりにくい言葉だったようで「ひとつ」「ひとり」「一人」「人民箇々」「自己一箇」などと訳されていました。

 そういった翻訳語の成立にまつわる苦心惨憺ぶりが実証的に、詳しく、解説されています。

 「翻訳語分析の方法」が「近代」の章の第二節で要約して示されています(pp.48-49)。その方法とは、「ことばの外見上の形(どう語られ、書かれているか)と、ことばの意味(どういう意味か)とを切り離さないで、一つのセットとして扱う」うということ、、「ことばの意味を考えるとき、語源というような問題をあまり重視しない。それよりも、一つの時代における、一つの言語体系における、広い意味での文脈上の働きを中心に考え」るということ、です。

 関連して「カセット効果」という用語が頻繁に出てきます。これはある訳語が与えられているときに「それは翻訳者が勝手においた約束であるから、多数の読者には、・・・(よく)わからない。分からないのだが、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、・・・何か重要な意味があるのだ」(p.36)と受け取って、定着していく効果のことで、中味が何かは分からなくても、人を魅惑し、惹きつける「小さな宝石箱」がもっているような効果のことです(p.38)。

 ユニークな面白い本でした。どのように面白いかは、実際に読んでもらうよりほかはありません。

おしまい。


岸恵子『30年の物語』講談社、1999年

2007-12-27 11:10:51 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
岸恵子『30年の物語』講談社、1999年
        
30年の物語
    著者は女優です。木下恵介監督「女の園」に出演した若き岸恵子さんが印象に残っています。

 文章は人を表わすといいますが、このエッセイを読む限り、彼女は「人物」と感じました。人間のとてつもない大きさを感じさせてくれます。

 パリ在住42年間を「30年の物語」として焼き直し,12のエッセイに集約してあります。彼女のバイタリティというか,生きかたそのものが刻印されています。本領が出ています。

 パリで得たアパルトマンでのトラブル。階下N夫人の部屋から流れ込んできた煙への苦情から発した問題が,未解決のまま時間が経過し,公証人を使って漸く一件落着かと思われたその矢先,「寄り合い(会議)」で吊るし上げられ,挙句の果てに難工事から水漏れ,壁のひび割れ,床陥没の受難を経験しました。彼女は5年間,闘いぬきました。凄いものです。

 「ホームレスと大統領」「栗毛色(シャタン)の髪の青年」「『君はヴェトナムで,何も見なかった』」でも,この人でなかれば書けない世界が活字の向こうに広がっています。

 ジャン・コクトーの舞台「影絵」出演の経緯,歌舞伎を観ながら隣のデヴィット・リーン監督の肩ですやすや。この話も凄すぎます。

おしまい。

早川雅水『フランス生まれ-美食・発明からエレガンスまで』(新書)集英社、2003年

2007-12-26 01:11:43 | 地理/風土/気象/文化
早川雅水『フランス生まれ-美食・発明からエレガンスまで』(新書)集英社、2003年
         フランス生まれ―美食、発明からエレガンスまで  集英社新書
 大変なフランス一辺倒ぶり,えこひいきぶりです。しかし,これだけの徹底ぶりなら,むしろあやかりたいくらいですね。それぐらい、夢中になれるものが欲しい・・・・。

 新しい知見の獲得の連続でした。いいものは変らないというコンセプトがフランスにはあるそうです。保守的と言われようが、なんと言われようが構わないのが、この国のいいところ。自信があるのでしょう。

 例えばリモージュで生まれたウエストンの靴(モカシンとダービー),織の手法がルイ14世時代そのままのゴブラン,90cm×90cmで75gのエルメスのスカーフ,コットン製で紙質が抜群のカスグランのレターペーパー等々,そのコンセプトは不変です。

 あげればキリがありません。マーガリン,カマンベール(神の足の臭い),マヨネーズ,ベレー,ビデ,ネオン,ファックス,点字,BCGは,フランスが発祥の地です。

 言葉(エレガンス,レストラン)にまつわる文化と伝統。そして何と言ってもこの国はバレエ,映画,絵画(印象派),シャンソンの国です。

 培われたスタイル(様式)をしっかりもった国だからこそ,国民に気概があるのです。著者はそこに惚れ,かぶれてしまったようでした。

おしまい。おやすみなさい。

宮下孝晴『フィレンツェ美の謎空間-フレスコ壁画への旅』NHK、1999年

2007-12-24 00:25:28 | 美術(絵画)/写真

宮下孝晴『フィレンツェ・美の謎空間-フレスコ壁画への旅』NHK、1999年
         
 フレスコ絵画の技法を紹介しながら、関連するフレスコ絵画の魅力を解説したテキストです。

 自由都市フィレンツェのウフィッツィ美術館を起点にイタリア各地のフレスコ画を尋ね歩き、その技法と絵画の奥に隠されたドラマを解き明かしています。

 「フレスコ」は「フレッシュ」という意味のイタリア語、まだ生乾きの漆喰(新鮮な壁)に描く技法のことです。濡れている漆喰の壁に水で溶いた顔料で描くこの技法が難しいのは、漆喰が乾く前に短時間で一気に描きる完璧なデッサン力がもとめられ、そのために画家は一日に描く面積(「ジョルナータ」)を決めそれを塗りついでいく根気を要求され、実際の描画は築かれた足場のうえで挑まなければならないからです。

 この本では、フレスコ絵画に関連する「ジョルナータ法」「ポンタータ法」「カルトーネ法」「インチジオーネ法」などがこと細かく(ときに化学式も使って)説明されています。

 フレスコ画の爛熟期は、14-15世紀。この絵画技法の端緒となったのはジョット。以降、マザッチオ、マゾリーノ、フィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコなどの巨匠が続き、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロの三人の天才で頂点をなします。

 本書で取り上げられているフレスコ画は、・・・・
「イエス・キリストと諸聖人」(メリオーレ・ディ・ヤコボ)
「荘厳の聖母」(ジョット)
「聖アンナと聖母子」(マゾリーノ)
「三王礼拝」(ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ)
「サン・ロマーノの戦い」(パオロ・ウッチェロ)
「聖母の戴冠」(フラ・アンジェリコ)
「ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公の肖像」「ウルビーノ公妃バッティスタ・スフォルツァの肖像」(ピエロ・デッラ・フランチェスカ)
「春」「ヴィーナスの誕生」(ボッティチェリ)
「玉座の聖母子とニ聖人」(ドメニコ・ギルランダイオ)
「三王礼拝」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
「聖家族」(ミケランジェロ)
「ロレンツォ豪華王の肖像」(ヴァザーリ)等、多数です。

 ヴァザーリの『イタリア芸術家列伝』が書かれた経緯とその出来栄えには驚かされましたが、アンニゴーニ(1910-88)がサン・ミケーネ・アルカンジェロ教会(ポンテ・ブッチャネーゼ)に描いたフレスコ画(壁画)にも感銘を受けました。後者はフレスコ画の技法の粋を現代に再現した壮大な作品です。

おしまい。おやすみなさい。


升田幸三『勝負』(文庫)中央公論社、2003年

2007-12-23 11:33:04 | スポーツ/登山/将棋

升田幸三『勝負』(文庫)中央公論社、2003年
        勝負 (中公文庫)

  何故、この本を読みはじめたかと言うと、昔、わたしがまだ小中学生のころ、棋士である著者のファンだったからです。ケレン味のない正攻法で、きっぷのよい将棋の指しぶりで定評がありました。

 升田幸三と言えば、稀代の勝負師として、大山康晴名人との名勝負で世を沸かせました。また、非常に強烈な個性の持ち主としても有名でした。

 この本は、漫談、放談です。将棋の世界と人生とは通ずるというところがある、と銘打っていて、それはそれで事実なのでしょうが、人生感に関してはあまり学ぶところはありませんでした。

 それでも、将棋のこと、その世界を語っているところには、新しい知見をえた部分がありました。「美濃囲い」のいわれ(美濃の国のアマチュア棋士)、盲目の棋士・石田検校があみだした「急戦石田流」、四宮金吾の創案した「鳥刺戦法」など、です。

 また同僚棋士の話も興味深かったです。ネバる将棋の大山名人、姿勢のいい将棋は二上達也、振り飛車の大野源一九段、隙がないがひょうきんさのある米長邦雄、新しいことを好む内藤国雄、生一本で純真な有吉道夫、等々。

 プロの強いところは「確認」をしっかりすること、また升田将棋は前半の構想力にあるといった自己分析にも傾聴の値がありました。


羽生善治『決断力』角川書店、2005年

2007-12-22 01:05:30 | スポーツ/登山/将棋
羽生善治『決断力』角川書店、2005年
         決断力
 将棋界の実力者、羽生さんの著作です。

 棋界の様子、棋士が考えていることがわかって面白かったです。

 昔の棋士と、今の棋士とを比べると現代の棋士のほうが圧倒的に強いとか。しかし、過去の棋士が今の時代にきて、同じ環境で戦えば、必ずしもそうはいえないと、羽生さんは言っています(p.142)。

 現代の将棋の特徴も指摘しています。戦術面では序盤のさまざまな形が研究され、分類されたこと、有利な局面を勝ちに結びつける技術が進んだこと(p.22)、数多くの形が同時並行的に研究され、拡散的進歩のなかにあること(p.74)等々。

 また、若い棋士は一生懸命に手をヨムが、大人になると感覚で打ち、そのうち7割が正着だそうです。

 プロの世界では鎬を削った戦いが展開されていて、直観力、決断力、集中力が要とか。「プロらしさとは力を持続できることだ」(p.191)、というのは素晴らしい言葉です。

 因みに、羽生対大山名人は6勝3敗だそうです。

おしまい。

井上史雄『日本語ウォッチング(新書)』岩波書店

2007-12-21 01:25:41 | 言語/日本語
井上史雄『日本語ウォッチング(新書)』岩波書店、1996年
               
 身近な言葉の変化を収集し、その変化の要因、理由、根拠を分析しています。

 とりあげられている言葉は、例えば「××じゃん」「うざったい」「やっぱし」「××じゃないですか」「チョー××」、ラ抜き言葉、カ抜きの疑問文、アクセントの平板化、ガ行鼻濁音の衰退などなどです。

 これらを言葉の乱れと一刀両断で切るのではなく、ラ抜きは受身・尊敬と可能の区別の明晰化と言葉そのものの単純化として、また「××じゃん」「うざったい」は省力化、簡略化された地方の言葉の東京への流入として、そして長い言語変化の歴史的必然として理解、説明していくという方法がとられています。

 敬語の変化について、「敬語は、心理的距離を表すもので、相手との人間関係の調節に深くかかわるものなので、より効果的なものを目指して、つねに変化する傾向がある」(p.160)と要約しています。

 ①言語(ほかのことばとの体系的関係)、②空間(地域差、方言差)、③時間(世代差、歴史的変化)、④社会(使い手の違い、場面差・文体差)で言葉の変化を位置づけるというのが筆者の方法論のようです。

おしまい。

高橋義夫『覚悟の経済政策』ダイヤモンド社、1999年

2007-12-20 11:32:16 | 経済/経営
高橋義夫『覚悟の経済政策』ダイヤモンド社、1999年
                              覚悟の経済政策―昭和恐慌 蔵相井上準之助の闘い
 浜口内閣の蔵相を務めた井上準之助。列強が金本位制に復帰するなかで,金輸出解禁策を打ち出します(1930年)。

 「金解禁」とは一度封鎖した金本位制を再度とるという政策で「金の自動調整作用」に期し,輸出の拡大をはかり,不況からの脱出をはかろうというものです。

 浜口内閣のもとでの緊縮財政で経済に体力をつけたあと,この策を構じ,経済の体質改善をはかったのでした。しかし,井上のこの策は旧平価を維持した金解禁であったこと,またおりしも世界恐慌が進行していたことなどのため,思うような経済効果は出ず,結果的には失敗,金輸出は再禁止となりました(1931年)。

 世情が悪化するなかで,浜口首相は狙撃され,井上も凶弾に倒れます(1932年)。

 本書では経済恐慌下に咲いた文化,例えば経済ジャーナリズムの発展,改造社の円本,銀座カフェーの隆盛,人絹の生産増にも言及があり、面白くかかれています。

著者は作家。第106回直木賞を受賞しています。

渡辺洋三『日本国憲法の精神』新日本出版社、2006年

2007-12-20 10:57:56 | 政治/社会

渡辺洋三『日本国憲法の精神』新日本出版社、2006年
            日本国憲法の精神
 「日本国憲法」を理解するバイブルのような本です。

 「第一部:法の基礎を考える」では、憲法が世界憲法史の総括版としての位置にあること、法律というものは「権利」と「義務」の体系であること、社会的性格をもつ「権利」を大切にしなければならないこと、市民社会の基本である契約意識を高めなければならないこと、日本に権利意識、契約という考え方が根づかない理由(家制度、家族意識)、法律問題を主体的に考える力が必要であること、などが述べられてます。

 「第二部:近代憲法と現代憲法」では、近代憲法で重要なのは法の支配という原則が確立したこと、法は人間の精神内部に立ち入ってはならないこと、法と道徳を混同してはならないこと、権力分立のあるべき姿などが指摘され、さらに現代憲法の特徴は生存権(社会権)の位置づけがなされたこと、権利条項が私人と私人との間にも適用されるようになったことなどが、指摘されています。

 「第三部:基本的人権とは何か」「第四部:平和の基礎」では、人権と平和の広範な問題が取り上げられています。

 前者の「第三部」では、人身の自由、思想・信条・良心の自由、労働者の人権、女性の人権、子どもの人権、社会保障の権利、等々が多くの例を引きながら説明されています。後者の「第四部」では国連憲章から始まって、憲章の「集団安全保障体制」の意義、憲法と矛盾する「集団的自衛権」、日米安保体制のなかの自衛隊の問題点、が取り上げられています。

 「第五部:岐路に立った日本国憲法」は、圧巻です。旧ガイドライン(日米共同作戦の軍事的シナリオ)をベースとする1980年代安保体制の特徴が「危機管理国家論」「日本型福祉社会論」とつながっていることが書かれています。くわえて、1990年代のソ連崩壊、湾岸戦争、国連の変質(米ソ首脳マルタ会談:1992年)、国連PKOの変質、自衛隊海外派兵の既成事実の積み重ね、など憲法の土台を掘り崩す動きが細かくチェックされています。

 「第六部:日本国憲法と二十一世紀」では、90年代以降「アメリカの覇権主義」が強まっていること、イラク空爆、ユーゴ空爆の国際情勢を背景とした「日米新軍事ガイドライン」「周辺事態安全確保法」の成立、「自衛隊法」改悪の危険性が、論じられています。また、新「地方自治法(1999年)」と住民自治との関わり方の在り方が、さらに「住民基本台帳法」改悪、「犯罪捜査のための通信傍受法(いわゆる盗聴法)」成立、小選挙区制などの問題点が解説されています。

 結論として、戦後の保守体制が矛盾を深化させていること、そうであるからこそ憲法を守り、生活のなかで生かすことが今後ますます必要であることが提言されています。

 著者は、憲法学者、法学者です。惜しくも昨年11月に亡くなられたとのことです。合掌。

おしまい。


田辺聖子『苺をつぶしながら』講談社、2007年

2007-12-19 00:50:12 | 小説
田辺聖子『苺をつぶしながら』講談社、2007年

              
苺をつぶしながら
 昨日の『私的生活』の続編で、この第三部で完結です。

 乃里子はやはり離婚していました。35歳。第三部では冒頭に苺をつぶしている乃里子がいて、小説の末尾にまた苺をつぶしている乃里子がいます。苺をつぶしているふたりの乃里子の心持はだいぶ違うのですけれど。

 晴れて離婚した乃里子は「あの世へいったってこんないい目は見られそうにない」と思い、「今は嬉しいと(悲しいとき、嫌なときではない)息がつまって目の前が暗くなる」ほどであると快哉を叫んでいます。「人間が幸福になるには離婚すべきだ」といまでは考えているのです。

 慰謝料はもらわず、いわば着のみ着のままで別れたのですが、それがスッキリしてかえってよかったのです。

 乃里子は大阪のど真ん中にマンションを買い、自由気ままな生活をしています。どれだけ気ままかと言うと、朝なんか風呂に入ってそのままハダカでトーストを食べたりするくらいです。仕事もそこそこあります。マンションを2つ持っている金持ちですがレズっぽい桑田芽利、タレントの夏木阿佐子、子供服の会社をつくって40歳のちょと禿げた金井哲、画家でこれも中年の関口兎夢といった友達もいます。男友達も女友達も等しく好ましく思えます。

 思えば遠景にしりぞいた結婚生活は、「刑務所」のようでした、お互いに緊張の連続で、親戚関係に気疲れし、自由は何もなかったのです。「男」は「自然」のようなものですが、もう二度と結婚はない、ゴメンと思っています。

 ピアノ塾を経営し、ピアノ教師の原こずゑとの交際もいい関係です。乃里子は彼女のことを、背が高く、威厳があり、男っぽくて言い人なのだけれど、なんとなく近づき難く、女ドラキュラのように思っていたのですが、金井哲を介して、いつのまにか近しい関係になって、大阪のミナミやキタで一緒にスパゲティを食べたり、ショッピングに歩く仲になっていました。

 乃里子は独り身を満喫していました(ドジは相変わらず、「ローマ」というレストランでワインを飲みすぎ和式トイレで小用をしているさいに後にひっくり返り、あられもない醜態をさらし、介抱してくれた男性とホテルで睦みあったりしています)。

 もと夫の剛とは離婚後一度、乃里子が大雨のなかをびしょ濡れで歩いていたところを車に誘われ、それっきりでした。ところが、芽利と軽井沢に小旅行しているときに、剛はホテル(万平ホテル)に訪れてきます(留守電に行き先、電話番号を吹き込んでおいたために嗅ぎつけられ)。

 剛の相変わらずの嫉妬のいりまじった嫌味と傲慢な態度。乃里子はつくづく嫌だと思います。

 しかし、軽井沢滞在中、一大事件が起こります。

 その顛末は? 結末がわかってしまうとつまらないので、書きません。

 「だよな~」という終わり方です。ジワットきます。間違いなく。

 おしまい。おやすみなさい。

田辺聖子『私的生活』講談社

2007-12-18 00:44:35 | 小説
田辺聖子『私的生活』講談社、2006年
            私的生活
 
 このブログの12月3日に書き込んだ、田辺聖子著『言い寄る』の続編です。
 前作(第一部)の『言い寄る』の結末から、一気に3年ほど時間が飛んで、主人公の乃里子は中谷鉄工の御曹司である剛と結婚しています。その間に何があったのかよくわかりませんが、とにかく結婚していました。

 前作の最後では、剛に嫉妬でボコボコにされ、大喧嘩で終わっていたのですから(剛から、その後、ゴメンネ感覚で言い寄られてはいましたが)、この展開はちょっと意外でした。

 乃里子は、高級マンションで「大金持ち」の生活をしていました。剛とはギリシャに新婚旅行、いつもじゃれ合うふたり。

 しかし、中谷家では時々、接待のパーティーがあり、乃里子はこれが堅苦しくて好きではありません。そもそも中谷家の家族構成は複雑です。剛にしても父親の異母兄弟でした。中谷家の人たちには、何かしら好感がもてないのです。亭主と死別して出戻りの長姉は意地悪、剛の母親以外はみなよそよそしい関係でした。

 乃里子は一見リッチでしたがデザイナーの仕事から離れ、好きだった絵を描くこともなく、剛は「嫉妬深く」、ジェラシー魔で、乃里子が結婚前の友達と交際するのを嫌います。乃里子が友達の福田啓の絵を買ったことにも腹をてる始末です。

 そうこうしているうちに、二人の間に破綻の兆しがでてきます。乃里子には大阪に別に持っていた結婚前のマンションがあり、荷物も大部分そこに置いてあったのですが、剛がいつのまにかそこに忍び込み、結婚前の彼女の日記をあさって盗み見しました。

 怒ったのは乃里子。二人の関係は、そのあたりから微妙に食い違うようになります。剛が父親との話し合いから、「東京に戻って仕事を継ぐ」ような将来構想を打ち明け、乃里子にもそれなりの親族に対する配慮をもとめる段になり、破局が決定的になります。剛の身勝手さ、傲慢さに辟易するようになります。

 乃里子は乃里子で、実業家の中杉氏という中年の男性との交際で、精神的に癒されるようになっていました。乃里子は剛と別居。新しい生活の予感、それを中杉氏は「では、やっと役者の私的生活にもどったわけですね」とタダ者でない省察を仄めかしながら笑うのでした(p.308)。

 贅沢だが、何かうそ臭い結婚生活とその破綻。わたしは乃里子さんに、「幸せな人生を!」とただただ願いながら(笑)、第三部『苺をつぶしながら』に進みます。

おしまい。ワインを飲んで寝ます。

山田昌弘『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』筑摩書房

2007-12-17 01:03:18 | 政治/社会

山田昌弘『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』筑摩書房、2006年

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く (ちくま文庫 や 32-1)
 「希望格差社会」というのは著者の造語です。造語の達人で、以前かなり流行した「パラサイト・シングル」という用語も著者のものです。

 「希望格差社会」とは、若者が将来に希望をもてなくなっている状況を反映し、「希望」をもてるグループとそうでないグループとで心理的な「格差」が生じてしまっている状況を言うのだそうです。

 「格差社会」は現代社会を読み解くキーワードですが、これまでは主として所得、資産に関して言われる用語でした。しかし、問題は既にその域から出て、心理的な領域でもこの問題が顕在化しているというわけです。著者はそのことを「量的な格差」から「質的な格差」への問題の推移と捉えています。

 職業、家族、教育を覆う不安定化の根源を、著者は若者の意識の問題にではなく、社会の構造的変化にもとめています。「リスク化」が前提とされ[著者によれば「リスク化」の「リスク」とは「何かを選択する時に、生起する可能性がある危険」である(p.26)]、「二極化」が進行する現代社会の構造が、「将来に希望をもてる人」と、「将来に絶望しか見出せない人」を作り出していると言うのです。

 こうした状況は、1990年代に入ってから、より限定的に言えば1998,99年ごろから顕著になりました。フリーター(非正規労働者)の増加、未婚者の増大、自殺者の急増、刹那的で狂暴な犯罪の増加は、確かにこの頃から顕著になりました。

 著者は戦後から1990年頃までは、極めて安定的社会と個人生活が築かれ、仕事、家族生活、教育シズテムが健全に機能し、生活は予測可能で、格差は縮小に向かい、人々は希望をもって生きていたのですが、90年以降はこの安定した社会機能があらゆる分野で崩壊し、「勝ち組」「負け組」の二極化をもたらしていると警告しています(p.22)。

 著者はさらに、そうなってしまった理由を解明し(ニューエコノミーの出現、予測不可能なライフコース、教育パイプラインの機能不全)、プロセスを跡付け、かつその克服の手立て(「職業訓練システムの導入」「職業カウンセリング」「コミュニケーション能力」などの個人的対処の公共的支援、「逆年金制度」など)を提言しています。

 新しい現象を社会学的に考察し、うまくまとめているので、説得的にみえますが、認識の方法が幾分、類型的です。俄かに賛同できない部分もありました。とくに、戦後から1990年頃までを安定的社会と呼んで、この時代を評価しているかのような記述は馴染めません。また、「勝ち組」「負け組」という用語を安易に使いすぎています。この延長で、年収の多い夫婦という家族形態を「強者連合」とする感覚は、たとえそれをカッコつきで使っているにせよ、聞き苦しい感じを受けました。学問的にも熟した用語とは言えません。

 最近の日本社会の衰退ぶり、不平等化の進行、凶悪犯罪の多発などについては確かに目を覆いたくなるのは事実で、著者の指摘は部分的にあたっていますし、問題提起は真摯に受け止めたいと思うのですが、著者がこれと比較対照するモデルとして提示する「高度成長期の日本社会」の評価は、美化が行きすぎているように思いました。

 今日はちょとピリ辛のコメントです。

おしまい。おやすみなさい。