【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

「特別展・大名と藩-天平泰平の立役者たち-」(埼玉県立「歴史と民俗の博物館」)

2012-04-30 00:04:20 | イベント(祭り・展示会・催事)

               

 埼玉県立「歴史と民俗の博物館」では、「特別展・大名と藩-天平泰平の立役者たち-」が開催されています。


 現在の埼玉県は、かつて武蔵野国と呼ばれた地域の北部に位置しています。徳川家康が関東の地を支配して以来、明治の廃藩置県までの約290年間にこの北武蔵の地域には5つの藩がありあました。川越藩、忍藩、岩槻藩、岡部藩、久喜藩です。

 川越藩、忍藩、岩槻藩は、江戸時代をつうじて多くの大名が封ぜられました。その数は、21家61代になります。かれらは江戸に近い川越、忍、岩槻を守り、老中などの幕府の要職につきました。

 今回の展示会では、これら川越藩、忍藩、岩槻藩と岡部藩、久喜藩とにスポットがあてられ、県域ゆかりの道具類などを鑑賞できました。自分の住んでいる地域の歴史のことをあまり知らなかったことを恥ずかしく思いますが、同時にこのように体系的にいろいろな箇所に保存されている品々をまとめて要領よく展示してくれたことに感謝の思いです。

 川越藩は江戸に近い政治、経済、軍事の要所でした。天正18年(1590年)、酒井重忠
歴代藩主は一万石で入封したのが起源です。歴代藩主は老中・御用人など幕府の重責を務めました。

 忍藩は天正18年(1590年)、徳川家康の四男松平忠吉が10万石で入封したのが最初です。この藩は江戸の外郭として重視され、日光脇参事には宿城となりました。

 岡部藩は家康の関東入国にしたがった安部信勝が榛沢郡岡部(深谷市)に陣屋を構えたのが起源です。また久喜藩は貞享元年(1684年)、米津政武が領地替により、埼玉県久喜(久喜市)に陣屋を構えて成立、以来米津氏五代が藩主を務めました。

 展示会物の主なものは次のとおりです。

・絹本着色東照権現像 天海賛(川越市立博物館蔵)
・関ヶ原合戦絵巻(歴史と民俗の博物館蔵)
・絹本著色柳沢吉保像(甲府市・一蓮寺蔵)
・旧川越城主松平大和守侯行列図巻(個人蔵)
・忍城鳥瞰図(歴史と民俗の博物館蔵)
肥前国高木郡原之城図(福島市・板倉神社蔵)
・蔦蒔絵腰弁当 板倉重昌所用(福島市・板倉神社蔵)
・大岡忠光木像 付 台座(さいたま市・龍門時蔵)
・武蔵岡部藩上屋敷跡出土遺物(東京教育委員会蔵)
・武州埼玉郡久喜本町元御陣屋跡・御林色訳絵図面(個人蔵)
・川越藩知事免官辞令・川越藩知事松井泰載宛(川越市・光西寺蔵)
・埼玉県印(埼玉県立文書館蔵)


新垣勉他『日米地位協定-基地被害者からの告発-(ブックレット554)』岩波書店、2001年

2012-04-28 00:30:42 | 政治/社会

          

  「地位協定」の「本名」は、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに合衆国軍隊の地位に関する協定」。米軍が日本に基地をもつことにともなって発生した条約です。


  内容は不平等、不合理な協定になっています。 「全土基地方式」「国内法の不適用、裁判権免除」「経済的恩典・特権」「裁判権・身柄引き渡し」「環境保護規定の不存在」。

  本書によると、米軍による公務上・公務外別の事故発生件数は、1971年に2071件、72年に3888件あったようですが、2000年でも1734件です。米兵犯罪は減少していません。

 被害者はこの不平等条約の下で苦しみながら、「被害者の会」を作って闘っています(96年4月結成)。
  95年には「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」が立ち上げられ、協定の問題点の検討に入っています。改善努力はなされていますが、いまだ限界が多いというのが現状です。


松本清張『時間の習俗』新潮社、1972年

2012-04-27 00:09:20 | 小説

                      


 清張作品は、いまでもときどき手に取ります。はずれがなく、みな面白いです。

 2月6日の夜半、相模湖で交通関係業界紙の社長殺人事件が起きました。ホテルで女性と同伴で入り、夜、散歩にでてのことでした。女性は逃亡、行方が知れません。

 三原警部は被害者の出入り先であるタクシー会社の専務峰岡秀一が犯人と睨みなします。しかし、彼は事件直後、九州東北端にある和布刈神社での新年の神事に吟行し、その様子をカメラに収めていました。完璧なるアリバイです。

 三原警部は小倉の鳥飼刑事と連携しつつアリバイ崩しに挑みます。社長殺人のさいに同伴していた女性が実は男だったこと、また峰岡が西鉄の窓口で他人名義で定期券を購入していたこと、写真の撮影順序で時間を逆転させていたことなどをつきとめ、容疑を絶対に回避できるとふんでいた峰岡を逮捕します。

 三原警部が捜査の過程でいろいろな推測をし、試行錯誤の末、難問解決するところがよく書けていました。


松本清張『溺れ谷』新潮文庫、1976年

2012-04-26 00:32:05 | 小説

            

 あらすじは、次のようです。

  悪徳経済雑誌記者(トリ屋と呼ばれる)・大屋圭造は、往年の名女優・滝田香具子を亜細亜精糖社長・古川恭太に斡旋、紹介、自由化を控えて蠢く業界の動向を探ろうとする。
 ところが、女優の滝田は時の農務大臣の是枝にまわされ、大屋の思惑はからぶりとなる。しかし、古川の行動は奇怪そのもの。このことを追求するうちに、古川は精糖業界の水面下の動きにまきこまれていく。

 一方、彼の同業の藤岡真佐子は鶴田という奇妙な人間(政界ゴロ)と接触していた。
ひょんなことから大屋はこの鶴田を真佐子に紹介をしてもらうが、このことを契機として、大屋は現職の農相が闇取引する現場をおさえることになる。
 実はこの鶴田という男はドミニカ砂糖汚職事件の際の農政局長であったが、真佐子はこの汚職事件で犠牲になって自殺した課長の愛人で、鶴田に復讐の機会をねらっていた。


 大家はこの真佐子から精糖業界の汚職摘発を狙う矢口検事を紹介してもらい、そのおおらかな気質、正義観に共鳴し、協力を誓う。
 しかし、亜細亜精糖は設立したばかりの工場を、対立するN精糖に売却し、古川社長は大損をしたかにみえたが、この措置は実は次にくる砂糖自由化への布石すぎなかった。


 予想どおりの展開にはならない。話が迷宮化するが、ストーリーは筋がとおっている。社会の悪にはらをすえかね、ひとりの人間がそれに立ち向かうが、社会の大きなうねりが小さな人間の意図をかき消してしまう。清張文学のニヒリズムがここにある。


Rachmaninov,"Piano Concerto No.2"by Helene Grimaud (piano)

2012-04-25 00:22:12 | 音楽/CDの紹介

            

 このCDではエレーヌ・グリモーがラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾いています。共演はアシュケナージ指揮のフィルハーモニア管弦楽団。


 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は、昔から好きな曲のひとつです。グリモーにとって、この曲は黒、あらゆる陰影を包含する黒だそうです。グリモーは「これは黒歌鳥[ツグミの一種]の羽根のように輝き、きらめくのです」、そして第2楽章については「鍛冶屋が白熱にまで熱し、やがて冷却して暗褐色になる金属のよう」と言っています。

 色彩を聞くことができる、譜面を見ることのできるピアニスト、エレーヌ・グリモーならではの演奏です。収録曲は以下のとおりです。


・ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
 第1楽章:Moderato
 第2楽章:Andagio sostenuto
  第3楽章:Allegro scherzando
・前奏曲 嬰ト短調 作品32の12
・練習曲集 ≪音の絵≫ 作品33
 第1番 ヘ短調
 第2番 ハ長調
 第9番 嬰ハ短調
・コレルリの主題による変奏曲 作品42


 エレーヌ・グリーモーを少しばかり紹介します。彼女は、1969年11月、フランスのエクサンプロヴァンスの生まれです。この地の音楽院に9歳のときに入学、J・クルティエに師事。その後、マルセイユでバルビゼに師事しました。1982年、13歳でパリ国立高等音楽院に入学しました。

 録音デビューは1984年。1985年ラフマニノフの《ピアノソナタ第2番》の録音で、モントルーのディスク大賞を受賞。同年、パリ音楽院研究科に進みます。1987年頃からプロのソリストとしてパリで活動をスタートさせ、ダニエル・バレンボイム指揮のパリ管弦楽団と共演。以後、欧米の著名な管弦楽団に客演し、演奏活動を続けています。

 フランス人ですが、フランス近代音楽より、ドイツ・ロマン派音楽に関心をもっているようです。ラフマニノフ以外のレパートリーは、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ラヴェルを得意としています。

  両親は共に大学教授。本人は大学で動物生態学を学びました。現在はニューヨークで生活していますが、オオカミの生態を研究し、その養育を続けているという変わり種です。


後藤正治『ベラ・チャスラスフスカ-最も美しく-』文藝春秋、2006年

2012-04-24 00:10:49 | ノンフィクション/ルポルタージュ

                                                 
  東京オリンピック(1964年)は青春の懐かしい思い出とともにありますが、チャスラフスカの名前もそうです。


  女子体操の個人総合、跳馬、平均台で金メダルを獲得しました(4年後の墨西哥大会では、個人総合、跳馬、段違い平行棒、床で金メダル)。ラチニナ、アスタホワ、序でに男子体操のボリス・シャハリンにも憧れました。

  本書はその女子体操の女王だったチャスラフスカの半生です。彼女が生まれ育ったチェコスロバキアの20世紀は激動の時代でした。ナチに国土を蹂躙され、「プラハの春」後にはソ連の軍事介入、「ビロード革命」を経て社会主義の放棄、そしてチェコとスロバキアへの国の分裂。

  「プラハの春」のさなか、彼女は「二千語宣言」(共産党の官僚主義と権力主義批判、民主化の推奨)に署名、そして署名撤回を拒否。権力移行後、「医療・福祉担当」の大統領顧問となるも激務で心労が重なったようです。その後、チェコオリンピック委員会会長に就任。
 しかしこの間、結婚(メキシコ五輪)と離婚(1987年)があり、さらに子どもが別れた夫を殺すという事件に巻き込まれました(1993年8月)。

  本書はノンフィクションですが、チャスラフスカ本人との直接のインタビューはかなわなかったようです。彼女は現在精神的に病み、プラハの診療所にいるそうです。チェコ人でコーディネート、通訳を務めたマルチン・ヴァチカージュを通じて受けたFAXでの回答が、使われています。

  あわせて周辺の関係者からの取材。イワン・オガノフ(ロシア体操連盟副会長)、ペトル・ピットハルト(チェコ上院議長)、ソ連体操界のラチニナ、クチンスカヤ、ツリシチェワ、ホルキナ、ルーマニアのコマネチ、日本の荒川美幸、池田敬子、小野清子、中村多仁子、松久ミユキ、マルタ・クビシュヴァ(歌手)、ヴラスタ・クラモストワ(女優)、カミラ・モウチコワ(テレビキャスター)など。
  
  著者のねらいは、チャスラフスカの人生を追いながら、20世紀最大の<夢>であった社会主義の生々、発展、消滅を追うことにありました。そのテーマを追って5年間、いわば世界中を駆け回って取材した成果物が本書です。


古河散策

2012-04-23 00:05:12 | 旅行/温泉

         


         

 古河に出かけました。古河はかつて日光街道の宿場街でした。現在は、JR宇都宮線で大宮から40分ほどです。古河は栃木県に属すると思っている人が多いですが、茨城県です。


  現在の古河市は、2005年(平成17年)9月12日、古河市・総和町・三和町の1市2町が合併して誕生しました (面積 123.58k㎡)。旧古河市は、「万葉集」や「吾妻鏡」に名前が出てくるほど、その歴史は古代にまでさかのぼることができます。中世の室町時代、近世の江戸時代でも、関東の政治・文化の中心のひとつとして栄えました。明治初期、廃藩置県により古河藩は、古河県、印旛県、千葉県へと編入、最終的に明治8年に茨城県へと編入されたのです。明治以降は製糸業が栄えました。

 わたしの住んでいる蓮田市からはJRで30分、快速ですと20分で行けるのですが、これまで特にこの街に用事もなかったので、未踏の地(?)でした。今回、でかけようと思い立ったのは、桜や梅が咲いている総合公園があると聞いたこと、それに古い街ですから見聞に値する建物があると知ったからです。

 古河駅に降り立つと、予想より大きい駅でした。駅舎のなかに観光案内所があり、まずそこへ。親切な係りの人が、地図を使ってひとおり説明してくれました。この日の目的地は総合公園。係りの人にきくと駅からは3キロほど、40分ぐらいで行ける、ということでした。

 古河の人口は現在14万人ほどだそうです。日野自動車がかここに移ってくるらしく、そうなると20万人くらいになるのではかろうか、ということでした。総合公園までは、旧日光街道にそって一直線です。

 総合公園は大きな公演です。そして時期遅れの梅の花がまだ咲いていました。桜も咲いていて、今年はほとんど同時に咲いている感じです。芝生では、市民、観光客がお弁当を広げています。散歩できていると思われる夫婦、若いカップルがたくさんです。そしていい春の空気。

 古い古民家も保存されていて、ここには民家の骨組み、竈のある台所、各種什器、農具などを手でさわりながら見ることができます。
                  

 古い街並みのほうは次回の楽しみにとっておき、この日は1万5000歩ほどあるき、いい運動になりました。

          


D・J・ダーリン『真実のソ連』法政大学出版、1949年

2012-04-22 00:51:43 | 政治/社会

             

 本ブログでは、一番古くに出版された本です。わたしが生まれる前に出た本です。

 札幌の知人紹介です。電話で「旧ソ連の問題点はこの本に全部書いてあります」と言われました。


 図書館にあったので、借り出し、読みました。当初はよくありがちなイデオロギー的に旧ソ連を断罪する内容のものかと想像していましたが、そうではなく、革命後の旧ソ連の国内事情を少ない資料の制約のもとで、可能な限り客観的に描きだそうと努力した形跡があります。

 読み通した感じでは、この国では社会主義政権が成立して以降、その思想を現実化しようとしたためかなり無理をしたこと、また列強がこの国をつぶそうとしていたためにその無理が加速化されたことがわかります。

 スターリン体制が確立した30年代以降はとくにひどかったようです。粛清や飢餓、そして第二次世界大戦によって失われた人的被害が天文学的数字にのぼり、その数が連合国側のそれの比ではないことを知ると暗澹たる気分になります。

 訳者の紹介によれば、著者ダーリンは1889年ロシアのロガチェフで生を受け、ピータースブルク大学に在学中、地下活動に加わり検挙されました。その後ドイツに逃れ、ハイデルベルク大学で哲学博士の学位を受けました。
 1917年3月の革命後ロシアに戻り、モスコー・ソヴィエトの代議員に選出されましたが、1921年にソビエト当局に検挙され、その後亡命。
 1940年からニューヨークに在住し、ロシア、ソビエトの外交史研究に従事し、多くの書物を上梓しました。

 本書もソ連の当時の外交政策を分析しようというのが執筆動機にあり、対外政策と国内政策とは密接に結びついているという認識のもとに、その外交政策を理解し予見するには国内政策を理解しなければならないとして刊行したようです。
 確かにソ連は戦争直後までで国内事情を固め、以降資本主義の全般的危機論を旗幟として国際社会にうってでたのですから、著者の見方は正鵠を射ていたといえます。


岩田礼『坂本繁二郎』人物往来社、1973年

2012-04-21 00:20:16 | 美術(絵画)/写真

  毎日新聞の記者で、坂本繁二郎(1882-1969)のいわば「番記者」だった著者による、日本画家・坂本繁二郎の伝記です。伝記と言っても周辺の人々の取材や資料収集だけにたよって書かれたものではなく、常に傍にいて、始終私的なインタビューを行っていた人の手になる記録であり、記者らしい臨場感を保って書かれている点に特徴があります。

 松本清張の『青木繁と坂本繁二郎』では、青木の対極で坂本が描かれ、坂本はコンプレックスの固まりで、その絵も凡庸であると評価されていましたが、この本では違います(もっとも坂本が青木を意識し、その対抗意識から青木の画を「好きじゃない」と否定していたことはきちんと書かれています[pp.52-59])。

 「坂本は安井の客観と、梅原の主観を合わせもった作家であり、それによって安井、梅原をはるかにしのいだ作家である、と私は思う。巨峰の中にひときわ孤高にそそりたつ坂本分水嶺・・・」(p.228)と書かれています。最大級の讃辞を送っています。

 絵画の本質論での坂本に対する評価は、「西洋の物質文明の中に、東洋の精神を叩きこむという反射、抵抗のこころ」(p.129)、西洋画の中にその東洋のこころを塗り込める孤高の画業が畢生の願望(p.226)に他ならず、写実を根幹とした抽象(p.158)を目指したという言葉で言いつくされています。「わび」「さび」の追及もあったといいます。

 著者によれば、田園を愛し、内向的であり、物感(対象を凝視し、礼拝するこころで描くとき、はじめて必然的にそなわる霊感[p.166])を重んじたのが坂本でした。

 描いた絵は「牛」「馬」そして「能面」「月」。「坂本の全人格に傾倒した」著者が、「あの神韻幽玄な作風はどのようにして培われ、またそれを支え、成就さした原動は何であったか。それを一般に知らせることが、坂本とかかわりをもったものの、つとめではないか」(p.229)と決心して成したのが本書です。

 構成は以下のとおり。「生家」「青木繁」「進路」「欧州」「馬」「八女」「戦中」「戦後」「死」。


鎌倉散策

2012-04-20 00:34:27 | 旅行/温泉

          

 何年かぶりに鎌倉を散策しました。
 湘南新宿ラインに乗れば蓮田からは一本で、1時間半ほどで着きます。今回はTV番組の「アド街」で鎌倉小町通りが紹介され、それが切っ掛けとなりました。


 目指したのは鶴岡八幡宮、若宮小路から入りました。そろそろ葉桜になり始めた並木をとおり、一直線。
 23日の日曜日はこのあたりで流鏑馬が行われます。人通りの多いのが目立ちます。来年にむけ、世界遺産登録のために運動が進んでいます。


 神社境内はこんなに立派だったかなと思わせるほど広く、華やいだ雰囲気です。まだ残っていた桜が綺麗です。今年は遅咲きだったから出会えたのでしょう。その奇跡(?)を喜びました。
 数年前に倒れた大木のあとはなまなましいというか、残念というか。この木を使ったお守りが販売されていました。
 リスにも時々出会えます。写真で捕獲しました。
         


 一路、小町通りへ。かなり前にきたことはあるのですが、風景に刻印された記憶はほとんどありません。小町通りはこんなだったかなという想いをもちながら通過。お店がだいぶ代わったのかもしれません。注意深く見ると、お香の店が2軒ありました。
 食べ物やが多いです。時期なので、「しらす」丼の看板も見つけました。グルメのいいお店はたくさんありますが、一日では多くは体験できません。


 川喜多記念の映画博物館、日本画家の鏑木清方記念館がありました。雪の下界隈です。歩き疲れたので、休憩がてら鏑木清方記念館を見学しました。
 小町通りは、そのメインの通りから横道に入ったところに、昔ながらの風情を感じさせるところがあります。
 これらもとてもまわりきれないので、勘だけつけておいて、次回まわしとしました。

 鎌倉は歴史の街、鎌倉五山、切りとおしなど、たのしめるところ、勉強になる名所はたくさんあります。今年の散策は鎌倉がいいのではないでしょうか(予感)・・・。


ラズウェル細木『う』(第1巻)、講談社、2011年

2012-04-19 00:00:10 | その他

            

 本ブログで初めて登場する「まんが本」です。


 うなぎをめぐる主人公・椒太郎の日々。読んでいるうちにうなぎに詳しくなります、間違いなく。

 話は「うの一番」から「うの二十九番」まで。
 関東と関西のうなぎのかば焼き(うな重)の違い[腹開きと背開き、蒸すと蒸さない、頭のあるなし]。
 うなぎをつかった料理「半助豆腐(うずら豆腐)」「う巻」「まむし丼」。まだまだあります。
 肝の使い方、ウナギ酒、スーパーで買ったウナギの美味しい食べ方。ウナ重の松竹梅などなど。
 
 主人公・椒太郎には彼女がいて、近々結婚しそうなのだが、ときに彼女の物言いを上の空でうなぎに没頭していたり・・・。
 主人公と周りの人々の関わりの間にうなぎが常にあって面白いです。まだまだ続くようです。

 「モーニング」という雑誌に連載中。


田丸公美子『シモッタのデカメロン』文藝春秋、2008年

2012-04-18 00:34:01 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

            

 
 イタリア語通訳(同時通訳)30年の経歴をもつ著者(自称シモネッタ)による、シモネタ体験記です。

  「アモーレ」の国イタリアの下世話な話が満載です。しかし、不愉快な思いはしません。下品でもありません。これらの話を読むと、イタリア人気質、イタリア文化の一端が透けてみえてきます。

  表題の「デカメロン」というのはもともとはボッカチオの作品で、これは14世紀のフィレンツェでベストが大流行したときに、郊外の舘に逃れた男女10人が暇つぶしに毎日一人一話、都合十話の話をして10日間を過ごした物語で、それにあやかっています。

 本書の読み方はいろいろありうるが、一番最後の章「シモネッタのイタリア初夜」では著者がイタリア語を学ぶきっかけ、その後イタリア語の翻訳、通訳を始めたころのエピソードが自己紹介のように書かれているので、ここからスタートするのもひとつの方法です。

  その他の各章には、「くどき上手なイタリア男たち」「カサノヴァの末裔たち」「ああ夫婦」「世界最古の職業、東西のプロたち」「ああ日本人」「ホテルにて」「かくもユニークな人たち」「イタリア人のビジネス」のタイトルがついています。

  「解説にかえて」では、ロシア語同時通訳者で作家だった米原万里さんとの対談。その後の「文庫版あとがき」には癌と闘った万里さんへのお別れの言葉で、涙をさそいます。


加山郁生『性と愛の日本文学』河出書房新社、1997年

2012-04-17 00:24:43 | 文学

             

 著者は多くの日本の現代文学を読んでいる人だと思います。

 「性愛」という観点から何か書きたく、その形を大分類して本にしたようです。

「女の魔性に跪く男の愛‐谷崎文学の世界‐」
「発禁書と猥褻裁判」
「エロス・官能・まぐわいの歌」
「少年少女から男と女への変容」
「官能する文学」
「お洒落なエロス・共感するエロス」
「凄絶な生きざまの愛と性」
「ちょっと危ない愛と性」
「男も骨灰になるまで」
「死ぬほど愛して」

 以上のの各章。この分類そのものと、それぞれにどの小説のどの文章を配置するかに努力のあとが・・・。
  
 しかし、それだけに止まっているので深みがなく、評論としても貢献がないように思えました。

 「これはこれで<性と愛>の観点から見た、ひとつの日本近代文学史となりえているのではないか」(p.273)と著者は書くが、表面的になぞっているといった感じは否めません。


井上陽水”LIVE2012 Hallo, Goodbye"(川口総合文化センター:リリア)

2012-04-14 00:20:14 | 音楽/CDの紹介

           

 井上陽水さんのコンサート・ツァーが、川口総合文化センターリリアから始まりました。テーマは「LIVE 2012 Hallo, Goodbye」です。7月18日の名古屋国際会場でのコンサートまで25会場28公演が予定されています。


 2000人収容可能な大ホールは満席。3階までいっすいの余地もなく埋まっています。7時スタート、9時過ぎまでのコンサートは、大変な盛り上がりでした。

 井上陽水といえば、昭和のカリスマ的存在だった歌手です。1970年代には吉田拓郎さんとともに、フォークソング、ニューミュージックの流れを牽引しました。その人もいまは還暦をすぎました。歌唱力は全然衰えていません。

 わたしの座った席は何と一番前の席、キーボード、ベースの音が轟音のように炸裂し、襲ってくる座席でしたが、だんだんそれにも慣れ、陽水さんも次第にのってきて、舞台と会場は一体となりました。
 後半はスタンディング・オベーション。歓声と拍手、懐かしい陽水節に酔いしれたひとときでした。

 歌われたナンバーは下記のとおりです。

・東へ西へ
・Power Down
・Maku-up shadow
・俺の事務所はCAMP
・MAP
・自然にかざられて
・なぜか上海
・海へ来なさい
・夏祭り
・リバーサイドホテル
・ジェラシー
・愛の装備
・クレイジー・ラブ
・新しいラプソディ
・最後のニュース
・ミスキャスト
・氷の世界
・少年時代

<アンコール>
・渚にまつわるエトセトラ
・Happy Birthday
・招待状のないショー
・いっそセレナーデ
・夢の中へ


住井すゑ『牛久沼のほとり』埼玉福祉協会、2002年

2012-04-13 00:49:32 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

              
  奈良に生れた著者は農民文学者・犬田卯と結婚。

 昭和10年より夫の実家である牛久沼畔に疎開,定住。以来,ここが人生の拠点となる。時とともに近代化,開発で変わっていくこの地で,著者が日々考え,問い続けたことは何か。
 平易な文章で人を唸らしめます。

 自然にあっては土,水,火を大切にし,食にあっては米を敬い,社会にあっては人間の平等を重んじる。嘘は絶対に許さない。それが彼女の信念。

 1944年,青森の騎兵連隊にいる息子に送った5足の手編み靴下を連隊長に没収され,理性的で穏やかな彼女が連隊長に怒りの手紙を出した話,憲法を抱いて棺に入った蜷川虎三の話,「一代(ひとしろ)」というのが土地の大きさを測る単位(稲一束)であるという話,物価の高騰を測る彼女の物指しが米の値段であるという話,草むしりを罰にしている農業高校をやめた農家の高校生の話。生活の知恵,生きる哲学がぎっしり詰まった玉手箱のような本です。