【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

RESTAURANT・酢重正之 (北佐久郡軽井沢町軽井沢6-1 TEL0267-41-2007)

2011-07-30 00:05:22 | グルメ

      

 軽井沢駅から旧軽銀座に向かう本通りをまっすぐあがって徒歩で20分ほど、左手角、旧軽ロータリー前にあるお店です。

 信州、軽井沢とその周辺でとれる旬の食材を使って、メニューがつくられています。もともとは酢とか味噌とかなどを扱っていたようで、深い味わいのそれらが総菜にいかされています。

 これまで2度行きましたが、2度とも偶然に2階の大通りがよくみえるカウンターの場所を案内されました。大きな窓のまえで見通しがよく、すぐ目の前、通りの向こう側にこのお店と関係のあると思われる味噌、醤油、豆などを販売している味噌店(酢重正之商店)がみえます。

 注文したのは、サバの味噌にと、酢豚。どちらも上記のようにここで製造された味噌と酢が使われているので、味が深く、微妙です。それにご飯を注文すると、銅鍋で炊いた白米がでてきます。これもこのお店の売りです。確かに、おいしいご飯で、これも酢重特製と思われるお新香とよくあいます。バックにはジャズが静かに流れているのも趣があります。
          
 場所もわかりやすく、ランチタイムなど、もっちろん夕飯にもお勧めのお店です。実はこのお店に隣接して蕎麦屋さんがあり、やはり「酢重」と関係のお店です。それは、また次回、紹介します。


内田康夫『斎王の葬列』角川文庫、1998年

2011-07-29 00:07:41 | 小説

              
 表題『斎王の葬列』とは、この小説にでてくる、ロケ中の映画のタイトルです。これについてはもう少し説明がいります。

 斎王(または斎宮=いつきのみこ)とは奈良時代に定められた制度で、天皇の名代として伊勢神宮の神に仕えるために宮中から派遣される皇女(未婚)。

 記録にある斎王は天武天皇の娘で大津皇子の姉である大来皇女(おおくのひめみこ)です。以来、この制度は南北朝のころ、朝廷が力を失うまで約660年続いたそうです。

 斎王が決まると、斎王は、総勢50人の行列で都をあとに5泊6日の旅(「群行」)にでます。斎宮は斎王が住む御殿や事務を司る斎宮寮の総称、頓宮は伊勢に向かう斎王の宿です。

 斎宮がどこにあったのかは定かでなく、現在わかっているのは土山町の垂水頓宮関のみだそうです。

 前置きが長くなりましたがこういう説明も上手に織り込みながら、話が展開していきます。

 事件はロケ中に起こりました。ロケを劇団に進言し、ロケ隊の宿泊所に来て夕食をともにした長屋明正という男が現場付近のダムで水死体で発見されます。

 映画監督の白井は高校時代の友人、浅見に調査を依頼します。その直後、マネージャーの堀越綾子が殺されます。殺人現場には垂水頓宮の御古址(おこし)から発掘されたとおぼしき人形代(ひとかたしろ)が置かれていました。

 浅見はこれらを連続殺人として動きだします。

 事件の真相は長屋明正の出生の秘密、劇団に多額の投資をして援助していた建設会社社長の喬木正隆の過去の過去の人生(実は彼が明正の本当の父)などが解き明かされ、皮を一枚一枚剥ぐようにあきらかになっていきます。

 この真相究明のなかで、浅見は34年前の皇太子御成婚前夜に起きた惨劇(プロローグで紹介された野元末治の「御古址」での無残な死)に辿りつきます。


家族新聞研究会編『わたしの家族新聞づくり』日本機関紙出版センター、1980年

2011-07-28 00:07:25 | その他

              
 本ブログ7月24日付で、わたしの家庭新聞を紹介しましたが、同時に当時、家族新聞が全国的に話題になっていました。わたし自身はそのことを全く知らず、独自に新聞を刊行していました。刊行を継続していくうちに、他の家族の新聞との出会いが始まりました。

 その一例が、今回紹介する本、家族新聞研究会編『わたしの家族新聞づくり』です。発行所の日本機関紙出版センターが大阪にあるせいか、登場している家族新聞はほとんど関西の方々です。本書の第二章に、12の家族新聞が紹介されています。

 この本の「はじめに」によると、家族新聞がまじめ議論の対象になったのは、この2年ぐらいの話とあり、この本が出版されたのは1980年ですから1978年ごろということになります。

 第一章は「今なぜ家族新聞なのですか」と題して小森孝児さんが、家族新聞の意義を論じています。家族新聞の4つのタイプが示されています。「子ども単独型」「おやこ全員参加型」「片親機関車型」「親類系を含む新聞、文集」です。

 第三章「さあみんなで作りましょう」と新聞をつくるノウハウが示されています。

 家族新聞の理念と実践を論じ、紹介した記念碑的な本です。


吉岡斉『原発と日本の未来-原子力は地球温暖化の切り札か-』岩波ブックレット、2011年

2011-07-27 00:13:27 | 政治/社会

              原発と日本の未来
 ブックレットなので、全体は63ページしかありませんが、中身は濃いです。

 著者は「反原発」論者ではなく、原発に「反対派」「推進派」という図式そのものを見直すべきとして、「脱原発」を主張しています。

 著者は世界の原子力発電が1980年代以降既に20年にわたって長期停滞に陥っていることをまず確認しています。また、原子力ルネッサンス論(原子力発電拡大に有利な条件が生まれている。世界各地で原子力発電の気運が高まっている、原子力は21世紀前半に拡大し、一次エネルギー供給全体に占めるシェアは高まるだろう)は、既に破産、終焉していると、とのことです。

 世界的には原子力発電規模は横ばいです。ひるがえって日本の状況をみると、世界の発電用原子炉の新増設が1980年代末に失速したことを尻目に着実に新増設が進んでいるそうです。

 しかし、それも1997年頃を境に、国家統制による拡大戦略はスローダウンを余儀なくされたものです。原子力発電の設備利用率は、今日、不振を続けています。そして核燃料事業は混迷を深めています。安全問題そして核安保・核不拡散問題が抑制原因として働いているからですが、電力自由化の進展がその傾向(原発新増設抑制要因)に拍車をかけています。

 日本の原子力政策は戦後にはじまり、55年末までに体制が決まりました。その前提は、国家安全保障の基盤維持のために先進的な核技術・核産業を国内に保持することです。著者はこれを「国家安全保障ための公理」と名付けています(p.43)。

 また六ヶ所再処理l工場稼働の目的のひとつとしてにあげらている次の根拠は、きわめて重要な指摘です。六ヶ所再処理l工場は「機微核技術(軍事転用の観点から危険な核技術)を開発利用する権益を日本が保持し続けることである。核兵器保有国以外で、ウラン濃縮、再処理、高速増殖炉などの機微技術を保有しているのは日本だけであり、それらの技術はひとたび手放せば再取得は極めて困難である」と(p.41)。

 さらに、インド、ベトナムなど海外への原発輸出も国策的に展開されようとしていますが、著者はこれは原理的に無理とみています(pp.53-54)。

 最後に、原発が地球温暖化対策として有効であるいう説の欺瞞性を暴露しています。原子力発電拡大と温室効果ガス排出削減とは逆相関関係にあるというのです。

 章別構成は以下のとおりです。

・「原子力論争における冷戦時代の終焉」
・「停滞する世界の原子力発電」
・「難航する日本の原子力発電」
・「日本の原子力政策の不条理」
・「原子力発電と地球温暖化」


水谷静雄『曲がり角の日本語』岩波新書、2011年

2011-07-26 00:07:26 | 言語/日本語

                

 著者は『岩波国語辞典』の編纂に、初版(1963年)から現在の第7版(2009年)まで関わってきた国語学者です。数理文献学というジャンルがあるそうで、著者は自身でその「徒」と記述しています。

 当然、日本語に神経を使い、その乱れにうるさいのですが、こういう方の意見は傾聴すべきと思います。

 言葉が移ろう(変化する)こと、その自体には、著者は寛容の態度を示しています。認めがたいのは「言葉のすりきれ」です。
 「言葉のすりきれ」とは、言葉の意味が動き、本来の意味がわからなくなり、いい加減になっていることです。例として、「対応する」と「応対する」、「自発」と「自主」の区別がなくなってきていること、「仕分け」という言葉の意味の変容(もともとは簿記の用語)、ヤクザ言葉であった「やばい」が最近かなりイージーに使われていること、などがあげられています。

 本のタイトルにある「日本語の曲がり角」を著者が感じているのは、かつてはうるさく言わなくとも人々がうまく使いこなしていたその体系を、崩すような変わり方をしていることを指しているようです(pp.44-45)。
 七五調が崩れ、国文学科や日本語学科の学生でも和歌、俳句が作れなくなっているとのこと。また表現態度が緩んでいるきていること(世代を超えて敬語表現ができなくなっている)も「日本語の曲がり角」の象徴と捉えられています。

 第三章「文法論を作り直せ」、第四章「日本語未来図」が本書で著者が積極的に論じようとしたかったことでしょう。前者では学校文法がイカにダメであったかを説いている(名詞の定義など)。「私の文法論」を述態文と、態文を軸に新たな文法論の構築を試みています。
 また、100年後の日本語がどうなっているかについて示唆しています(三段活用の消滅[一般活用化]、助動詞の衰退、敬語法の変質、命令形の著しい減少、言葉の男女差の消滅)。
 このあたりの議論はかなり専門的になっていて、ややこしいです。
 本当にその未来予測のとおりになるのかどうか。わたしには分りません。


内田康夫『朝日殺人事件』講談社文庫、2008年

2011-07-25 00:05:13 | 小説

             

 内田康夫さんが大変な人気推理小説家であることは知っていましたが、これまで読んだことはありませんでした。暑い夏には推理小説でもと、たまたま手にとった一冊です。

 この作家については知らないことばかりですが、まず浅見光彦シリーズというのがあるそうで、この小説が55作目とか(第一作は「後鳥羽伝説殺人事件」[1982])。ちなみに、この小説は内田さんの78冊目の小説だそうです。

 浅見光彦というのはフリーのルポライターで、探偵能力があるお坊ちゃまとのことです。事件にアプローチし、いい勘を働かせるシリーズが浅見光彦シリーズらしいです(その兄貴は警視庁の刑事局長というその世界ではエリート)。

 この「朝日殺人事件」は、光彦の母、雪江がJR電車に同じ車両に同席した島田という男がさかんに携帯電話をかけ、「アサヒのことをよろしく」と言っていたのを訝ることが切っ掛けで始まります。
 この島田という男が、目白の「四季」ホテルの一室で殺されます。誰が彼を殺害したのか?他方、杉並区松庵にある女性専用のアパートでも奇妙はことが起こっていました。雑誌「旅と歴史」の記者だった宮崎しずえの隣に越してきた女性、その部屋は、その前に暮らしていた女性が忽然と消えたいわくつきのそれでした。
 しずえは、その女性に不信感をもち調査を思い立ちます。しかし、そのしずえも新潟県の調査先で何ものかによって殺害されます。一連の事件をめぐって、光彦はキーワードの「アサヒ」をたよりに愛知、三重、富山、新潟、山形を彷徨ます。

 そして、光彦はついに連続殺人事件の脈絡をとき、事件解決に貢献します。島田を殺したのは竹間建設の田岡という常務取締役でした。田岡は島田をホテル「四季」の一室でトラブルのさなか、土人形の「犬乗り童子」の置物で殴り殺してしまったのでした。

 複雑な人間関係のなかの連続殺人事件で、迷宮入りの様相を呈していましたが、筋はみだれることなく、伏線もしっかり設定され、最後の事件解明の解説にいたっては見事という他ありません。

 なお、この作品は1995年に実業之日本社から書きおろしで刊行され、その角川文庫、光文社文庫で再刊されたものですが、わたしが読んだ本は講談社文庫、2008年版です。

 軽井沢には浅見光彦倶楽部というのがあり、そこに宿泊施設があることがわかりました。そのうち行ってみます。


家庭新聞『はばたき-子供二人の成長記録-』、『リズムは四拍子-家庭新聞「はばたき」100号記念-』

2011-07-24 00:05:43 | その他

            

 今日は自作の冊子を紹介します。家庭新聞『はばたき』というものです。といってもこれは、1983年と1987年に、いまから2
4-28年ほど前に作ったものです。

 家庭新聞と言っても、内容は子育て日記のような新聞です。もちろん、新聞ですから、子育て日記だけではなく、家庭のなかで起こったニュース、イベント、ハプニングなどを記事にし、新聞の体裁で記事をくみました。サイズはB4.縦型です。創刊は1979年1月21日です。毎月一回(複数号の月もありました)、一月も休まず112号まで発行しました(終刊は1988年1月31日)。9年間ほどです。
 
 どんな内容かというと、たとえば1980年7月20日発行の第19号の記事は、次のようです。
・祝津(しゅくず)水族館へ
・保育園で小遠足-茨戸(ばらと)公園での陽ざしの中で-
・読書で世界旅行(黒沼ユリ子「メキシコからの手紙」、岡部清子「わたしのアンカラ日記」を読んだことの紹介
・子どもの歩み(写真が一枚)
・「言葉」欄で高村光太郎の詩の紹介
・コラム
・生活便り(ロシア民謡アンサブルを鑑賞したこと、など)

 配布先は実家、保育園の保母さんたちです。20部ほどコピーしていました。また後に、このような家庭新聞を作っている家がたくさんあることがわかり、その方々と交換などもしました。

 当時、パソコンなどはなく、全部手書きでした。それでも写真やカットを入れたり、コラムを書いたり、心に残る言葉を書き込んだり、いろいろ工夫しました。(現在でしたら、パソコンがありますから、綺麗な新聞を、もっと楽に作れたことうでしょう。)

 このような新聞を作りはじめたきっかけは、子どもの成長を記録しておきたいということがあったからです。そして、わたし自身、小学校時代に学級新聞に関心をもっていて、その延長に我が家の新聞があると思っています。

 この記録のおかげで、いまでも記事を読むとあのとき、こういうことがあったなと出来事が想いだされ、その周辺のことどももよみがえってくるから不思議です。これがなければ、永遠に忘却のかなたに埋もれてしまったものが、舞い戻ってくるのです。

 50号になったところで冊子にし、100号でまた冊子にしました。冊子化するにあたっては、スナップ写真を入れたり、この新聞の読者だった親戚、保育園の保母さんに寄せ書きをしてもらったり、あらたに編集の手をくわえました。


山崎豊子『小説ほど面白いものはない(山崎豊子自作を語る③)』新潮社、2009年

2011-07-23 00:39:29 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

 

                       

  この巻は全て対談(鼎談ないし座談)です。

 第一章は「『人間ドラマ』を書く」と題して、石川達三、荒垣秀雄、秋元秀雄、松本清張との対談。
 第二章は「『大阪』に住んで『大阪』を書く」。岡部伊都子、水野多津子、今東光、菊田一夫、浪速千栄子との大阪談義です。
 第三章のテーマは「『消えない良心』を書く」。城山三郎、秋元秀雄、三鬼陽之助、伊藤肇、長谷川一夫、ドウス昌代、三國一朗、羽仁進が相手役です。

 「山崎豊子自作を語る」シリーズの(1)(2)と重なる話が多いですが、面白かったのは、山崎さんが敬愛していた石川達三との対談。他に松本清張、ドウス昌代が迫力のある対談になっていました。

 対談にもいろいろな型があり、一方が著者の話を引きだそうとするものと、対談者がお互いに意見をもっていてそれをぶつけあうというものとがありますが、後者の型をとったほうがいい対談になります。

 その意味で、著者とドウス昌代との対談では、両者が日系二世、三世の意識の捉え方、442部隊での日系人の位置と役割についての認識で微妙に差があり(日系人の祖国の認識の理解など。もちろん同じ意見の個所もあるが)、読んでいてその差に興味が惹かれました。

 ドウス昌代さんという人のことはしりませんでしたが、山崎さんと同じ作家を職とし、「ブリエラの解放者たち」という同じ日系人兵士を扱った小説を書いているので、対談が良い方に盛り上がっていました。

 対談のあとに補章のように「『運命の人』沖縄取材記」があります。
 『運命の人』は読み終えたばかりです。
 4巻では弓成記者が沖縄で過ごし、記録に取り組むことになるのですが、彼がどの島にたどりついたことにするのかを決める過程、また小説のなかで大きなウエイトをしめる、かつて鉄血勤皇隊とひめゆる学徒隊に所属して戦後結婚した夫婦が沖縄戦を述懐する部分のモデルになった人との出会い、など生き生きとした取材日記で、これ自体が重要な記録のように思えました。

『男の料理-私もつくる-』講談社、1980年

2011-07-22 00:20:45 | 医療/健康/料理/食文化

            

 数日前に紹介した「男の料理」の姉妹版です。

 40人の著名人が、腕を競っています。たとえば、作家の安岡章太郎さんが「鰯万年煮」「炒豆腐」を作っているかとおもえば、劇作家の唐十郎さんが「ラッキョーサラダ」「ラッキョーかき揚げ」「ラッキョースープ」を作っています。他には三浦雄一郎さん「北海よせ蒸し」、岡本太郎さん「オッソ・ブコ」といった具合です。

 「男のスタミナ料理」と称して、エッセイもよせられています。広岡達郎さん(野球評論家)、梅宮辰夫さん(俳優)、植村直己さん(登山家)等々。

 さらに20人が「料理の蘊蓄」を語っています。さすがにこのコラムには食についてうるさい御仁がズラリと並んでいます。北大路魯山人、今東光、荻昌弘、金子信雄、池波正太郎、伊丹十三等々。

 1980年出版で、もう30年ほど前の本ですから、残念ですが鬼籍に入った方も少なくありません。

 錚々たる面々が登場しているので、とても太刀打ちできないので、写真、レシピを愉しみ、エッセイを味読するだけです。

 料理は本当は、楽しく、気分転換になります。創造力が必要です。もっと年をとったら、厨房で活躍するのもひとつの有意義な老後の過ごし方になるかもしれません。

 個人的には、共働きだったので、子育てが大変だった時期、家事の一環としての炊事を余儀なくされました。一週間の半分は食事をつくっていたこともありましたし、子どもの保育園での弁当をつくっていた時期もありました。

 子どもがよろこぶもの、そして栄養を考えて食事を担当しましたが、苦痛では全くなく、むしろ気持ちの転換になった、懐かしい思い出があります。家族が喜んでくれれば、気持ちよく、励みになります。

 あまり大きな声ではいえませんが、いまでも、休日の昼食はかなり担当します。テレビ番組でみた料理を夕食に試作することは、しばしばです


 わたしは料理上手とはとてもいえませんが、段取りがいいこと、作りながらドンドン食器、鍋をあらっていくのが得意な以外には取り柄はありません


山崎豊子『運命の人(4)』文藝春秋、2009年

2011-07-21 00:02:44 | 小説

             

 「運命の人」、壮大なドラマを読了。

 第4巻は、これまでの展開から一転して、場を沖縄に移し、戦中以降のこの地の悲劇が描かれています。本土の戦後が沖縄を犠牲に成たっているにもかかわらず、本土の人間はそのことの認識に乏しいことがよくわかります。作者はそれを訴えたかったようです。

 小説の展開としてはやや無理がありますが、著者にとっては小説の形式はすでにどうでもよく、書きたいことを書いたという思いなのでしょう。

 「小説の展開としてはやや無理」というのは、主人公の弓成亮太元政治記者が失意のうちに沖縄に逃げ、彷徨し、住みつくというのは受け入れられるのですが、その後、沖縄で世話になった夫妻が沖縄戦のことをかなりのページ数をとって独白する場面があり、この部分はほとんど小説としての全うな展開を無視しています。(しかし、書かれている沖縄の悲劇の歴史は傾聴に値しますし、よくここまで書いてくれたと感謝です)

 この他、琉球大学助教授の我楽正規という人間が米国立公文書館で大変な苦労をして、沖縄返還(1972年5月)に至る日米両国政府の交渉の実態と最終結果を詳しく記録した米公文書を入手し、この中に軍用地復元補償費を日本政府がアメリカの肩代わりをする密約の存在を確認し、かつて毎朝新聞記者だった弓成の取材活動が契機になった裁判での判決が誤った判断をしていたことを突き止めたその経緯が丹念に書きこまれている箇所があります。この部分も小説展開としては唐突に感じられましたが、著者の意図をくむことはできます。

 「あとがき」で著者は、「今回、最も苦慮したのは、小説の構成であった。外務省機密漏洩事件と沖縄をどう小説として一貫性を持たせるか。従来の私の小説作法をもってしては書けなかった。そのために考え苦しみ、ストーリー展開表に見入るばかりの日々が延々と続いた」(p.270)と述懐しています。いわんとしていることは、よくわかりました。

 弓成記者は沖縄に住みことを決意し(土地の人間と交流を深める中で沖縄の土地闘争、米兵による少女傷害事件に直面)、ここで資料調査と整理に自分のライフワークと定めていきます。沖縄を知ることで、この国(日本)の政治社会の歪みを見極めようというわけです。

 小説の末尾で、長く別居していた妻の由里子(東京で塾の仕事に従事)が亮太の知人の計らいで沖縄に飛び、夫婦が再開する場面がでてきます。読者の胸中にも熱いものがこみあげてくるのは抑えられません。


「すし善銀座」(中央区銀座7丁目8-10 FUKUHARAGINZAビル地下1F)tel.03-3569-0068

2011-07-20 00:01:59 | グルメ



 お鮨のお店でしのぎをけずる銀座にまた、新しいお店ができました。7丁目にある「すし善銀座」です。本店は札幌市の円山にあります。このお店は汐留にあったのが、この4月にここで開店、約3カ月になります。

 やや敷居が高く、値段が少々はりますが、構えがすてきです。店内
はカウンター13席、それに奥に部屋があります。カウンターには北海道から入ったネタが並んでいます。

 シャリは小さく、大変丁寧に作られてす。巻きずしがお客の注文でつくられていましたが、豪勢でいろいろな具材が巻かれていますが、小気味良い手さばきで海苔巻ができるさまは、藝術的(?)でもあります。にぎりで、ウニ(積丹の産)を注文しましたが、これも丁寧な作品(?)でした。細かく作成過程を書くことは省略します。

 イカ、アカガイ、ウニ、コハダ、タイラガイ・・・と注文し、毛ガニまで賞味しました。ときどき、サービスのように、トウキビ、ナスの漬物などがでてきます。

 カウンターの向こうがわには、「龍化魚(右から左へ読みます)」の書がかざってありました。魚が龍になる、登竜門ですね。またその下には、古伊万里の器、アジサイの花がその横に活けられていて、お店全体が粋です。

 お酒(日本酒、焼酎)が美味なことはいうまでもありません。北海道のお店なので、北海道の銘柄を注文しました。横にいたお客さんが大阪からきた人ということで、ひとしきり上方の食文化と関東のそれとの話で盛り上がりました。

 すっかり、できあがって、帰宅の途につきました。充実の連休の一日でした。
         


「蜂蜜」(セミフ・カプランオール監督、トルコ)、於:銀座テアトルシネマ

2011-07-19 11:02:56 | 映画

     
 自然のなかの静謐、そこにも時間は流れています。

 主人公は6歳のユスフ。森林の奥深くに、両親と暮らしています。父(ヤクプ)は養蜂家。幼いユスフにとって神秘であると同時に、想像力がはたらく親しい世界です。ユスフは夢で見た世界をこっそりと、大好きな父親に話、その夢を共有します。
         

 ある年、森のみつばちがいなくなり、蜂蜜がとれなくなります。父親は蜂をさがしに、森深く入ってさがしにいきます。心配なユスフは、その日から、話すことがむずかしくなり、吃音になってしまいます。

 日にちが経過しても父は帰ってきません。ユスフをさせまいとしていた母親は、日ごとに暗い気持ちになっていきます。そんな母を、ユスフは嫌いだったミルクを飲んで、機嫌をとろうとします。父はどうしてしまったのか・・・。(映画を観ればわかります。)

 この映画は第60回ベルリン映画祭で金熊賞を受賞しました。各国の映画祭でも、世界で最も美しい映画と称賛されました。

 監督はトルコ映画界を代表するセミフ・カプランオールです。ほとんどセリフはありませんし、音楽もありませんが、登場人物の心は伝わってきますし、詩情豊かな画面にひきこまれていく不思議な魅力をもっています。観客は一緒に森のなかにいるような感覚になるのです。


『男の料理』講談社、1979年

2011-07-18 00:04:04 | 医療/健康/料理/食文化

               
 押入れを整理していたら、この本が出てきました。22年ほど前に出版された本です。「週刊ポスト」で「男の料理」というシリーズが掲載されていて、それをまとめた本です。

 「男の料理は家事ではない、ホビーだ」「男の料理は労働ではない、創造だ」とかなり粋な、しかしある意味で身勝手な惹句が表紙におどっていますが、男性が厨房にはいって、料理にとりくむということが珍しいことではなくなってきた頃に出版されました。

 私自身は、料理は上手とはいえませんが、子どものころから苦でなく、母がつくっていたものをみようみまねで、若いころから厨房にたっていました。コロッケ、餃子、石狩鍋など、家庭料理なら何でもつくれます。もっともわたしのそれは、料理というよりは、家事の一環で、この本の料理の範疇には入りません。いまでも、テレビ番組を観るのは料理番組がほとんどです(テレビは嫌いで、ニュースの他はほとんど見ません)。

 さて、その料理ですが、私の流儀は冷蔵庫をガバットあけ、そこにある食材で総菜をつくるというタイプです。そして、作りながらドンドン使った鍋などはあらっていきます。総菜ができあがったときには、総菜作成のプロセスで活用したものは洗い上げてしまっています。取り柄といえば、それくらいですかね。

 この本にでてくる料理を、半分だけ以下にかかげます。このうち、ハオ油鮮鮑だけは数回つくりました(ヴィシソワーズ、浅蜊のワイン蒸しなども作れますが、この本のレシピは複雑で、高級志向です)。鮑の缶詰をかってきて、それに筍、シイタケ、長ネギなどといため、オイスターソースでまとめるというものです。家族から好評でしたが、この本が長く行方不明でしたの最近はつくっていませんが、またトライしてみます。

・ローストビーフ
・手作りソーセージ
・野鳥焼
・豚角煮
・鮮魚うすづくり
:いか五品
・ポテトリヨネーズ
・八目炒飯
・大根とぶりの荒煮
・関東煮
・スペアリブ
・豚茶漬
・焼き餃子
・オックステールシチュー
・鰹たたき
・鶏手羽煮込
・巻肉三品
・筍土佐煮
・ハヤシライス
・手打ちラーメン
・浅蜊ワイン蒸し
・ハオ油鮮鮑
・鰯のつみれ三品
・冷し中華
・鱚の桜干
・筑前煮
・ヴィシソワーズ
   (あとこの倍、料理が並んでいます)


渡辺恭三『ヴァイオリンの銘器』音楽之友社、1984年

2011-07-16 23:58:30 | 音楽/CDの紹介

           
 ロサンゼルスでヴァイオリンショップを経営していた著者が、古今東西の名器をいとおしむように作った本。

 多くのヴァイオリンが写真入り紹介され、それは下記のようです。ストラディバリ、ガダニーニのようによく知られたものもあれば、現代の製作者の作品もあり、バランスがよいです。ほとんどがカラー写真で大変奇麗です。

 それらに添えるように4本のエッセイが並んでいます。「名器はなぜ名器なのか」「名器とであった話・二題」「素人の見方・玄人の見方」「ヴァイオリンよもやま話」。

 ヴァイオリンは基本的に手作りであり、それゆえ個々に音色、音の質感などが異なります。自分の音をもとめて演奏者はヴァイオリンを選ぶのです。この本から、そのことがよくわかりました。

・ガスパロ・ダ・サロ(バルトロッティ)[16世紀後期・プレシア]
・フェルディナンド・ガリアーノ[1773頃・ナポリ]
・ニコラ・ガリアーノ[1765・ナポリ]
・ジョバンニ・バティスタ・ガダニーニ[1750・ミラノ]
・ジョバンニ・バティスタ・ガダニーニ[1775・トリノ]
・ジョバンニ・バティスタ・ガダニーニ[1776・トリノ]
・ジュゼッペ・バティスタ・ガルネリ[1730・クレモナ]
・ジュゼッペ・バルトッロメオ・ガルネリ[1737・クレモナ]
・ジュゼッペ・バティスタ・ガルネリ[1730・クレモナ]
・ピエトロ・ガルネリ[1725-30・ヴェニス]
・ピエトロ・ガルネリ[1707・マントゥア]
・ヨーゼフ・カントゥーシャ[1969・ミッテンヴァルト]
・ヨーゼフ・クロッツ[1788・ミッテンヴァルト]
・トマス・バレストリエリ[1759・マントゥア]
・ロレンツォ&トマソ・カルカッシ[1750・フィレンツェ]
・シャルル・フランソワ・ガンド[1830・パリ]
・セバスティアン・クロッツ[1749・ミッテンヴァルト]
・マティアス・クロッツ[1739・ミッテンヴァルト]
・チューホー・リー[1979・シカゴ]
・宮本金八[1953・東京]
・ジョバンニ・バティスタ・ロジェリ[1700頃・ブレシア]
・ヤコブ・スタイナー[1675、アプサム]
・アントニオ・ストラディバリ[1665-1771、クレモナ]
・アントニオ・ストラディバリ[1669、クレモナ]
・アントニオ・ストラディバリ[1713、クレモナ]
・アントニオ・ストラディバリ[1665-1718、クレモナ]
・カルロ・アントニオ・テストーレ[1746、ミラノ]
・ジャン・バプディスト・ヴィヨーム[1850頃、パリ]
・マテオ・ゴフリラー[1728、ヴェニス]
・マテオ・ゴフリラー[1699、ヴェニス]
・カルロ・フェルディナンド・ランドルフィ[1770頃、ミラノ]
・ジョン・フレデリック・ロット[1830頃、ロンドン]
・ジョバンニ・フランチェスコ・プレッセンダ[1842、トリノ]
・ヴァンジェリスティ(派)[1712、フィレンツェ]
・ペレグリノ・ザネット[1850頃、ブレシア]、


菅谷明『新版チェルノブイリ診療記-福島原発事故への黙示』新潮文庫、2011年

2011-07-15 22:00:51 | ノンフィクション/ルポルタージュ

                             新版チェルノブイリ診療記福島原発事故への黙示
 本書は1998年8月に晶文社から出版されましたが、今回、福島原発事故が起きたことを受けて、加筆され新版として刊行されました。著者、菅谷(すげのや)さん[現在、長野県松本市長]が実際に体験したチェルノブイリでの医療活動記録です。

 信州大学医学部の助教授だった菅谷さんは1996年4月のチェルノブイリ原発事故後の1991年から被災地で医療支援活動に従事し、現地を7回訪問しました。その後、一大決心をして1995年に信州大学を退職し、ベラルーシに単身滞在、5年半にわたり首都ミンスクにある国立甲状腺ガンセンターとゴメリ州の州立ガンセンターでチェルノブイリ事故で甲状腺ガンに罹った子どもたちの治療に専念しました。

 日本と異なる医療体制、遅れた設備、医療機器にとまどいながら、献身的に治療にあたりました。
 異なる医療体制では、医師の低賃金、堅固な職域(融通の無さ)、看護婦の不足、手術の数をこなす医療体質、衛生的でない手術室、トイレの不足など驚くことばかりだったようです。医療機器に関しては、壊れた手術台、切れないメス、使い物にならないピンセットなど実際に治療にあたる医師には不都合なことが続出した、とあります。
 それでも、著者は子どもたちを甲状腺の疾患を除去するため、最善の努力をし、同僚の医師、患者から信頼を得たようです。

 いま福島原発事故に接して、著者は適切な処置がとられているかを懸念しています。放射能は目にみえないし、味もないので、いっけん何事もないように時間が過ぎていっていますが、恐ろしいのは3年、5年、10年たって被曝の影響がどうでてくるかです。迅速で適切な対策が必要なゆえんです。

 チェルノブイリ事故被災地でもまさに、時間の経過とともにいたいけな子どもたちの健康が蝕まれていったのです。

 本書で著者は自身の実際の医療体験を通じて、放射線の影響の恐ろしさ、ソ連の医療体制の立ち遅れを書きこんでいますが、それだけにとどまらずロシア人との交流、ロシア文化の豊かさなどにも触れています。根底にあるのは、状況のなかで最善を尽くすことであり、また人々への愛情である。そのことが滲みでている好著です。