【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

ジャレド・ダイアモンド/楡井浩一訳『文明崩壊-滅亡と存続の命運を分けるもの-』草思社、2005年

2011-11-30 00:08:48 | 歴史

               文明崩壊(上巻)

 著者ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』を著し、1万3000年にわたる人類の歴史の形成過程を明らかにしました(本ブログでは、2009年12月11日付、2010年12月13日付)。本書は続編でありながら、その対極にある崩壊した人類社会のケーススタディーです。

 かつて繁栄をとげた社会が崩壊し、消滅したのはなぜか(あるいは崩壊の危機に瀕している社会はどうしてそうなってしまったのか)、その原因は何なのか、これが本書のテーマです。

 とりあげられた事例は、アメリカ合衆国領内に住んでいたアナサジ族、中央アメリカのマヤ文明の諸都市、太平洋に浮かぶイースター島などです。

 それらを崩壊に至らしめた環境要因としてその分析が欠かせないものは、著者によれば、森林乱伐、植生破壊、土地問題、水資源管理問題、鳥獣の乱獲、魚介類の乱獲、外来種による在来種の駆逐・圧迫、人口増大、一人当たり環境侵害量の増加、人為的に生み出された気候変動、環境に蓄積された有毒化学物質、エネルギー不足、地球の光合成能力の限界です。

 著者はさらに想定される全ての崩壊について理解を深めるには、環境被害、気候変動、近隣の敵対集団の存在、友好的な取引相手、環境問題への対応、についての考察が必要であると述べ、これら5つの要因が本書での著者の分析の基軸になっています。人類はそれらの一部を決定的要因として、あるいは複合的に絡み合った要因を背景に崩壊したという歴史的経験をもつ、という論旨です。

 第Ⅰ部「現代のモンタナ」では現代のモンタナの環境問題が論じられています。現在のモンタナの環境問題とは、有機廃棄物(鉱業残留物を発生源とする化学肥料、有機肥料、浄化槽内容物、除草剤などの流出)の影響、森林、土壌、水資源の深刻な被害、気候変動、生物多様性の低下、有害な外来種の問題のことを指し、世界中の社会を脅かしている問題が集中的に現れています。

 第Ⅱ部「過去の社会」では、崩壊した過去の社会に関する記述である。「純然たる」生態学的崩壊の例として(徹底的な森林破壊)イースター島の歴史が、近隣の友好集団からの支援の欠如で崩壊にいたった例としてピトケアン島とヘンダーソン島が、環境被害と人口増大に気候変動(旱魃)が絡んだ崩壊の例として、アメリカ合衆国南西部のアナサジ族とマヤ族(唯一解読可能な文字記録をもっていた)が取り上げられています。

 第6章から第8章で論じられているノルゥエー領クリーブランドは得られた情報量が比較的多く、また実験室内で行われた崩壊の実験のようでもあり、興味深いです。とはいえ、内容的には複雑で、それぞれが環境被害、気候変動、隣り合った社会との友好的な交流の喪失、敵対的な関係の発生が絡んでいます。また、この地での人類の経験は、致命的諸要因があっても崩壊が必ず到来するのではなく、社会の選択次第であるというメッセ―ジを伝えているという点で無視できない経験を伝えています。
 すなわち、同じ島をふたつの社会(ノルゥエー人とイヌイット)が分け合っていながら、互いの文化が違いすぎ、前者が死に絶え、後者が生き残ったという経験です。

 上巻はここまで。以下、下巻に続きます(第Ⅱ部の第9章から)。


「こみやま」(軽井沢町大字軽井沢196-10番地、Tel.0267-42-9950)

2011-11-29 00:07:29 | グルメ

         
 軽井沢には、いいお店がたくさんありますが、「こみやま」はそのひとつです。焼き鳥やです。

 この店は、駅前の「鮨あじ」にいたお客のひとりに教えてもらいました。軽井沢にある三大名店はどこかという話になり、そのときに自分の鮨屋をそのひとつにあげたのはもちろんですが、二つ目に「こみやま」をあげていました(三つ目は失念しました)。軽井沢に居をかまえている人が、しかも食事処で日々のなりわいに携わっている人がいうのですから本当でしょう、ということで過日、軽井沢に紅葉狩りによったおりに行ってみました。

 駅から旧軽銀座のほうに向かって進み、銀座には入らないで直前で三笠通りのほうに左におれるとすぐにあります。わりと目立つ構えなはずなのに、今まで気がつきませんでした。

 感じのいいお店です。焼き鳥やというと狭い場所で、煙がたちこめて、というとろが多いですが、それとは真逆で、洗練されています。
 焼き鳥は確かに絶品です。これも洗練された味わいです。ハツ、レバーなど思う存分注文しましたが、若者ではないので、いくらでも食べることはできません。今は、いいものを丁度良い量で、と言うように、心の欲するところに従えども則をこえず、といったところです。

 出かけるときには、電話をかけて予約しないとまず、席を確保することはできないので、いま開いているか閉まっているかの確認とあわせて、必ず電話をしてからお出かけください


「多古久」(台東区上野2-11-8、Tel 03-3831-5088)

2011-11-28 00:09:31 | グルメ

 ”おでん”が恋しい季節になりました。かつて、もう7-8年ほど前のことですが、都内の”おでん”屋さんを歩きまわったことがあります。

 なかでも、いくつか印象に残っている店があり、この「多古久」もそ
のひとつです。記憶を頼りながら、捜しあて、おでんを愉しんできました。

 あまり大きい店ではありません。カウンターで囲まれた席があり、テーブル席もありますが、20人も入れるかどうかです。下の画像のような雰囲気です(「食べログ」からの借用)。

           


 「多古久」は老舗で、100年前後続いています。マスターに創業年を聞いたのですが、わたしは酔っていて、返答を忘れてしまいましたが、100年前後で、明治の創業なのは確かです。

 「多古久」では、もう90歳になろうかという女性が”おでん”の鍋のまわりにかまえ、注文に応えています。「7-8年前にこのおばあさんいたな」と思い出しました。まだ、ご健在です。9時過ぎに入ったのですが、ときどきうたたねをしているようでもありましたが、注文をするとしっかり受け答えしていました。

 ”おでん”は、大根、とうふ、たこ、がんも、ハンペンなど懐かしい味を、日本酒とともに、あつあつで賞味しました。カントダキのいい味です。年季が入っています。ロールキャベツが入っているのが珍しいです。
 
 わたしの”おでん”体験は、家庭料理から始まりました。多くの人がそうでしょう。外で食べるなどと言うことは、成人してからです。父が”おでん”の種をデパートから買ってきていましたが、それは練り物で、いい味でした。だいこん、しらたき、などは母が近くのお店でもとめたものだったのでしょう。家族(兄弟)で、鍋をつつきながら、楽しい夕餉でした(「夕餉」という言葉はすっかり使われなくなりました)。 


石崎津義男『大塚久雄 人と学問』みすず書房、2006年

2011-11-26 00:14:54 | 評論/評伝/自伝

        
 「大塚史学」で著名な大塚久雄(1907-96)。タイトルに「人と学問」とありますが、その学問については多少なりとも知識がありましたが、「人」の部分に関してはあまり知りませんでした。本書はその人と学問をトータルにバランスよく解説しています(丁寧に説明され、無駄な記述がなく、すっきりしています)。

 その大塚久雄は京都に生まれ、父は湯浅蓄電池(株)の重役であり、6人兄弟の3番目でした。三高まで進んだのですが、大学は東京帝大経済学部に入学しました。京都の高校にいながら大学を東京に選んだのは、三高の教授山谷省吾が「若い時には一度広い世界を見ておくことも悪くはない」と言う言葉が大塚の脳裏に強く残ったからのようです(p.21)。

 学生時代に内村鑑三、矢内原忠雄らと邂逅し影響を受けました。父親がマックス・ウェーバーの『社会経済史原論』を買い与えてくれたことがあったにもかかわらず、その頃はまだ関心をもてなかったようです(大塚がマックス・ウェーバーに沈潜していくのは、東大助手の2年目にハンブルク大学のジンガーが東大に客員教授としてきて、その薫陶を受けてからです[pp.37-39])。時代の空気からマルス経済学に関心をもつようになりました。とくに河合栄治郎教授の勧めがあったようです。

 他方、肺尖カタルを患ったり(p.24)、また左脚の膝の関節リウマチが原因で大腿から下を切断し(p.69-74)、また戦後は3回、肺の手術を受け(p.89-95)、肉体的にはかなり過酷な人生でした。

 マルクス主義者は戦中、厳しい監視のもとにあり、検挙、投獄されるものが多く、大塚の周囲も例外ではありませんでした。苦難のなかで東京大学に職を得て、戦後は経済史研究の分野で大きな貢献をしました。

 大塚の生涯の仕事は膨大でこれらをひとくちにまとめることは到底無理ですが、あえてここでキーワードのみを示すならば「前期的資本」範疇の確立、株式会社発生史研究、「局地的市場圏」概念の提示などです。

 著者は『大塚久雄著作集』(第Ⅰ期全十巻)[岩波書店]刊行で、編集者の仕事にたずさわったおりに大塚久雄から聞いたことをメモとして保管していたものを、時代背景を加えて整理したものです。付録として大塚久雄の「資本論講義」が掲げられていますが、これは大塚が東大退官後、国際基督教大学に着任し、そこでの卒業論文指導ゼミナールで資本論をとりあげ、南大塚の自宅でその講義を行ったときのテープを、おこしたものです。2回分で、商品論、貨幣論あたりのマルクス「資本論」の解説です。これらをどう読まなければならないかが、比較的わかりやすく説かれています。さらに、巻末には詳細な「論文発表年譜」が掲げられています。


立石康則『魔術師(下)-三原修と西鉄ライオンズ』小学館、2005年

2011-11-25 00:05:51 | スポーツ/登山/将棋

         

 下巻は三原監督率いる西鉄の日本シリーズ対巨人戦3連勝、セリーグの万年最下位球団大洋ホエールズの監督になり、この球団を優勝に導いたこと、さらに近鉄、ヤクルトの監督を経て、日本ハムの球団代表になり、勇退して、逝去するまでです。

 何と言っても、ノンプロに毛が生えた程度の力しかなかった西鉄をパリーグの覇者に導き、日本シリーズで巨人を叩いて3連覇した実績が凄いです。

 わたしが知っていたのはその事実だけでしたが、本書を読むと三原人事が冴えわたっていることがよくわかります。中西、豊田、高倉などまだ球歴の浅かった高卒球児を周囲の雑音にはお構いなく、
辛抱強く使いました。また、入団当時は評価の低かった稲尾和久の才能を掘り当て、球界を代表する投手に育てました。

 自らが一時スポーツ記者だった経験を生かしてマスコミを上手に利用して心理作戦を企てたことを含めて、シリーズ巨人3タテの実績(巨人の当時の監督は、知将水原茂)は、ただものではありません。

 弱小球団大洋ホエールズをセリーグ優勝させたこともさることながら、日本シリーズでは誰もが圧勝と予想していた強打の大毎オリオンズ(西本監督)を4-0(すべて一点差で勝利)で下したことも、思い出しました。

 三原監督のコンセプトは、合理的な野球の追及であり、プロに徹した選手を育て上げたこと、また野球を知らない球団オーナー、フロントと一線を画し、真の意味でのスポーツ、ベースボールの在り方を追求したことです。

 しかし、三原のその正論は、巨人(ジャイアンツ)のあこぎな振る舞いに見て見ないふりをし、野球を企業の広告塔としてしかみない球界では異端視され、常にチーム内外の反三原グループと対峙しなければならなかったようです。

 本書では西鉄ライオンズが黒い霧事件の影響を受けて凋落し、消滅していくプロセス、また所謂江川問題の真相を追究しながら(ここでも野球協約の理念に違反する「抜け道」を使ってコミショナーとともにことを仕組んだ巨人球団を三原は徹底的に批判しています)、三原野球の真髄を浮き彫りにしています。

 著者はその三原野球によりそいながら、舞台裏の実相を、綿密な取材をもとに克明に描き、この人でなければ書けなかった球界のドラマに迫りました。上巻とあわせて、著者渾身の力作です。


高成田亮『こちら石巻さかな記者奮闘記-アメリカ総局長の定年チェンジ-』時事通信社、2009年

2011-11-24 00:04:24 | ノンフィクション/ルポルタージュ

            
 朝日新聞社に入社し、アメリカ総局長(1998年ー2002年)まで務めた著者は、もともと漁業に関心があり「さかな記者」を志望していましたが、定年後「シニアスタッフ」として石巻支局長として赴任し、積年の夢を果たしました。

 本書は夢を実現した著者の支局での成果報告です。サンマ船、捕鯨船などにのっての実地見聞にもとづく取材、そこで漁業について、地域について考えた軌跡が熱く語られています。

 漁業問題では、捕鯨(とくに地域捕鯨)、燃油高騰とともに時持続可能な漁業を展望し(乱獲にむすびつく設備過剰の解消「減船」、漁業環境の復元)、水産都市の生き方(食文化の発展を背景にした魚料理、種々の水産加工業、産地ブラントが支える漁業、魚を主にした観光の組み合わせ)を考察しています。

 また、地域問題では、直面した中心市街地問題、戦後の農地改革で召し上げられた小作地(庭園)の公有化に関わる問題、森と海をどう共存させうるかという課題、住民視点からみた女川原発問題について論じています。

 著者は魚料理が好きなようで第五章では「魚を食べる」と称して、当地の春夏秋冬の魚の紹介をしています。春はナマコ、メロウド、サクラマス、クジラ、アブラボウズ、夏はスズキ、トラフグ、カワハギ、ホヤ、クロマグロ、アナゴ、カツオ、アワビ、ウニ、マンボウ、秋はサンマ、マイワシ、イカ、ウナギ、サバ、カマス、サワラ、冬はカキ、タラ、ドンコ、ナメタガレイ、キチジ、ハゼ。

 魚でないものもたくさんありますが、まあそれはいいでしょう。地方版に載った著者執筆の「話のさかな」という連載企画記事だそうです。

 先任者から教わったことは、「その土地を愛せ」ということ。記者として地域に生き、地域を愛し、地域から世界をみようとする著者の視点は、当たり前のことですが、斬新に聞こえるのは時代がいつの間にかそういう考え方を排他し、遠ざけ、無視する風潮にそまってしまっているからでしょうか。各章の扉に掲げられた妻、惠さんの写真がgoodです。


SCHUMAN:PIANO CONCERTO Ashkenazy/London Symphony Orchestra

2011-11-23 00:21:37 | 音楽/CDの紹介

                       

 先日、「NHK音楽祭2011」でダン・タイ・ソン演奏のシューマン「ピアノ協奏曲 イ短調作品54」を聴きましたが、前後してこの曲をこのアシュケナージの演奏(ユリ・シガール指揮・ロンドン交響楽団)のCDで聴いています。

 シューマン「ピアノ協奏曲」は、シューマン(1810-1856)がメンデルスゾーンのピアノ協奏曲に着想を得て、1841年に書かれたものです。初演は1846年1月1日、ライピティッヒのゲバントハウスでメンデルスゾーンの指揮、クララ・シューマンのピアノで演奏されました。

 第一楽章(Allegro affettuoso)は、オーケストラの和音の一撃で始まり、続いてピアノが下降音型で現れます。木管が第一主題を演奏し、ピアノがそれをフォローします。第二主題は第一主題と似ていますが、クラリネットによって提示されます。

 第二楽章(Andantino grazioso)は、のどかで静かな楽章です。木管が第一楽章の第一主題を奏で、それにピアノが続きます。

 第三楽章(Allegro vivce)は、力感あふれるピアノが第一楽章を提示し、弦が第二主題を奏でます。半ばにピアノがつづる流れるような、かつ繊細なメロディが忘れられない記憶となって、胸にきざまれます。最後は流麗で迫力のある盛り上がりをみせ、一気に走り抜けティンパニの轟を背景に終了します。

 CDには、「交響的練習曲 作品13」が収められています。変奏曲の傑作のひとつです。


立石康則『魔術師-三原修と西鉄ライオンズ(上)』小学館文庫、2005年

2011-11-22 00:05:04 | スポーツ/登山/将棋

            
 本書は(上)(下)に分れていて、(上)は三原修が生まれてから、西鉄ライオンズが初優勝し、日本シリーズ(対中日戦で3勝4敗)で苦杯をなめたところまで。

 通読すると三原修の野球人生はほとんど日本の野球史そのものであったことが分かります。戦前の中等野球、東京六大学を中心としたアマチュア野球、戦争中の中断があって、戦後の草創期のプロ野球が制度として確立するまで三原修はそのなかで生き抜きました。

 しかし、彼の幾多の紆余曲折があり、挫折があり、その人生は順風満帆では全くなかったのです。三原らしい生き方がそこにあり、本書からエピソードを抜き書きすると、早慶戦での意表をついたホームスチール(昭和6年6月早慶二回戦)、結婚相手への思い込みに端を発した早稲田野球部からの退部と大学の中退、三度の兵役体験、請われて巨人の監督となって優勝に導いた経緯、直後チーム内外に造反があって冷や飯をくわされ、あげくの果てに福岡にできた球団(西鉄ライオンズ)の監督となったこと、などなどです。本人はここでも監督を辞めようと思うほどの経験をさせられました。

 野球人生の前半で彼は、野球など二度とやるまいと決意したことが数度もあったようです。

 三原野球はしばしばマジックのように語られますが、中身は理路整然と、合理的であり、独創的なものでした(流線形打線、守備の連係プレーなど)。チーム作りにもそれが貫かれていました。プロ意識に徹していない選手には冷酷でさえあったようです。

 野球にも人事ということがあり、三原はその点で異能ぶりを発揮したのではないでしょうか。巨人監督時代に宿敵南海ホークスの最多処理投手、別所の引き抜きをしたり、西鉄ライオンズ草創期に旧西日本パイレーツ、西鉄クリッパーズから集めた古手の選手集団から、中西太、豊田泰光、高倉照幸、仰木彬らの若い選手のチームに作り変え、人を育て人間集団をまとめる力が抜群にあった人のようです。

 以上は野球人三原の人生という側面からまとめたものですが、本書からは野球の舞台裏、そこで展開された人間関係、駆け引きを知ることができました。読売及び巨人軍首脳のあこぎなやり口、それに不愉快な思いを何度もさせられ、遺恨を胸に西鉄ライオンズの監督となるために玄界灘をわたった経緯には、ドラマを感じさせます。

 また、中西太、豊田泰光などが西鉄ライオンズに入団した経緯、その後のプレーの評価についての叙述も面白く、日本野球連盟が二リーグ制の確立をめざしていた頃、別の国民野球連盟という組織がリーグの運営にたずさわっていた(但しリーグの体はなさなかったようである)という知らない事実にも注目しました。

 上巻は西鉄ライオンズが宿敵南海ホークスを抑えてパリーグ優勝を果たしたにもかかわらず、日本シリーズで中日ドラゴンズの杉下投手のフォークボールが打てず敗退したことまでが書かれ、ライオンズの黄金期の様子は下巻のお愉しみとなっています。


パーボ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団+ダン・タイ・ソン(ピアノ)[NHK音楽祭]

2011-11-21 00:46:50 | 音楽/CDの紹介



 今年のNHK音楽祭「華麗なるピアニストたちの競演」、最後のプログラムに登場したのはパーボ・ヤルヴィ指揮のパリ管弦楽団+ダン・タイ・ソン(ピアノ)です。開演は6時でしたが、直前東京は激しい雨で、傘をさすのが困難なほど、風もつよかったのです。みなびしょぬれで会場にたどり着いていました。NHKホールは3階まであり、 人を収容できるそうですが、ほぼ満席でした。

 曲目は、メシアン「忘れられたささげもの」、シューマン「ピアノ協奏曲 イ短調作品54」、ストラヴィンスキー「バレエ音楽・ペトルーシカ」です。

 ダン・タイ・ソンは1980年のショパンコンクールでアジア人として初めて優勝、話題となりました。ヴェトナムのハノイ出身のピアニストです。モスクワ音楽院を卒業。現在はカナダのモントリールに在住とのこと。

 わたしは、ダン・タイ・ソンの演奏会は5年前の10月に紀尾井ホールで聴いたことがあります(その日の演奏曲目は、チャイコフスキーの「四季」とショパンのバラード)。

 透明感のあるピアニズムが信条で、この日もシューマンのピアノ協奏曲の見事な演奏を披歴してくれました。円熟の境地です。


                                

 ストラヴィンスキー「バレエ音楽・ペトルーシカ」は、木管、金管、ティンパニ始め、楽器の個性がうまく引き出され、音色という点でカラフルな演奏で楽しめました。


北杜夫『マンボウ恐妻記』新潮社、2005年

2011-11-19 00:13:40 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

 先日(10月24日)、北杜夫さんが、84歳で亡くなりました。わたしが高校生の頃、大江健三郎さん、幸田文さんとともに、好きな作家でしたので、思うところがたくさんあります。この3人には、高校時代にファンレターを書いたことがあります。北杜夫さんからは返事がきました。印刷された読者ファンへの返信用(私用)のハガキで、簡単な挨拶が書かれていました。

 北杜夫さんの小説,エッセイは高校生の頃,よく読みました。この作家の名前を眼にすると自分の青春時代を思い出します。
 最初の北杜夫体験は「怪盗ジパゴ」だったと記憶しています。ゲラゲラ笑いながら読みました。そのうちこの作家が真面目な小説を書いていることを知り、『楡家の人々』『夜と霧の隅で』などを読破。前者は大河小説で、いまでも北作品では一番好きです。後者は芥川賞受賞作です。その後もマンボウシリーズをかなり読みました。このシリーズのなかでは『昆虫記』と『青春記』に惹かれています。わたし自身が子どもだったころ、昆虫採集で遊びまわり共感できたこと、『青春記』はわたし自身の青春へのノスタルジアをしばしば醸し出したからです。
         

 さて、今日紹介する『マンボウ恐妻記』ですが、わたしは北さんの著作に『マンボウ愛妻記』というのがあるのを偶然に
知り、この作家は奥さんに関することで2冊もエッセイを書いているのかと思い、後者を読み始めたのですが、何回も読んだことのある文章がでてくるので、調べると最初に『愛妻記』として出版され、その後に改題で『恐妻記』になったようで、中身は全く同じということが判明しました。わたしの読書ノートによると、2005年に「恐妻記」を読んでいました。

 という事情がわかりましたが、本書は著者の40年余の夫婦生活の実態を得意のユーモアで包んで書かれた物です。

 そんなことまで書いていいの,奥さんはこんなふうに書かれて大丈夫なの,と思わせる記述がテンコ盛りです。「可憐な少女から猛女となった」喜美子夫人,他人事ながら躁鬱病の著者とよく連れ添ってきたなと同情します。

 ユーモアを通り越した過激な表現が多いですが,これも著者の魂胆でしょうか…。そのことを抜きにしても「歳をとるほど女は強くなる」「女性は体の仕組みも頑丈にできているが生存本能も子孫を残す本能も断然強い」と慨嘆する著者の思いは,普遍性をもった真理です。 

 


もみぢ前線はいま(奇跡の秋:軽井沢紀行③)

2011-11-17 22:35:51 | 旅行/温泉

 今年は秋口から暖かい日が続き、紅葉の景色は少し遅れています。くわえて、紅葉が鮮やかな状態になるには、寒暖差があるほどいいようですが、そうなっていないので、紅葉の鮮やかさがいまひとつです。赤茶けた感じの紅葉が多いです。

 とはいえ、軽井沢は標高約1000メートルですので、既にかなり朝夕は涼しく、東京、埼玉よりは紅葉度が進んでいるはずとの期待をもってでかけました。
        

 軽井沢の秋は、初めてです。新緑の季節、初夏、冬などの軽井沢は経験があるのですが、秋は忙しさも手伝ってなかなか来れませんでした。

 いくつか紅葉の写真を撮りましたがどうでしょうか。最初の一葉は、前回のブログで紹介しためがね橋からのものです。綺麗です。
 2枚目の写真は、ホテルの付近のものです。プリンスホテルは、その敷地が広大で、もみぢの樹がたくさんあり、壮観でした。足元には、ちってかさなったもみぢがたくさんあり、歩くとかさかさ音がし、風情がありました。

 このほか、軽井沢の紅葉は雲場池が有名です。きれいな紅葉が湖面に映し出され、それは美しい光景です。

          


碓氷湖(奇跡の秋:軽井沢紀行②)

2011-11-16 00:33:05 | イベント(祭り・展示会・催事)

 「めがね橋」から横川までアプトの道が一直線に続いていることは昨日、書きました。この間、何があるかというと、トンネル(隧道)が5つあります。第五隧道が最長で、240メートルほどあります。アプトの遊歩道は正しくは(?)横川を起点に「めがね橋」に向かって進むのですが、わたしが逆行したことになります。小春日和で暖かな日でしたが、さすがにトンネルに入るとヒンヤリです。

 トンネルをくくぐって降りて行くと、途中、右手に碓氷湖が見えてきます。観光バスが並んでいました。綺麗な湖で、湖面に周囲の山々と紅葉が映っていました。1時間ほどで湖を一周できます。そこもいい散策コースです。もってきた弁当をひろげて、しばし休息。

        ←碓氷湖

 ここは14-5年ほど前に整備されたそうで、それほど過去のことではありません。

 さらに降りて行くと温泉(とうげの湯)がありましたが、そこは時間を考慮してパス。このあたりから横川までトロッコが走っていて、実はそれを期待していたのですが、この日は走っていませんでした。土日だけなのでしょうか。あきらめて、徒歩で進むことにしました。すると左手に旧丸山変電所が見えてきました。

        ←旧丸山変電所

 約2時間半ほどかけ(途中で碓氷湖で休んだので1時間ほど余計にかかりました)て終着の横川着。名物の釜めしをたべ、いまきた経路を今度は逆にのぼっていくというかたちで、往復4時間ほどのトレッキングを楽しみました。と言っても、普段の運動不足がたたり、最後はかなり脚が硬直し、痛くなっていました。

          

 


めがね橋(奇跡の秋:軽井沢紀行①)

2011-11-15 00:12:07 | 旅行/温泉

      
 このところ月に一度は、天気のよいときを見計らって軽井沢に出かけています。

 先日は秋の軽井沢、紅葉狩りに行きました。行き先は碓氷峠です。高速道路がなかった頃は、車で軽井沢にいくには大変な思いをしてこの確氷峠を超えたのでしょう。現在でもここを通過するのはぐるぐると山道を迂回しながら、わたしのように運転が好きでない者は目をまわしながら登り降りしなければなりません。

  「めがね橋」(正式名称は碓氷峠第三橋梁)までは、軽井沢から車で30分ほど、国道18号線を安中榛名に向かって峠を降りていくと、いきなり前方に見えてきます。その壮大な景観に、驚かされます。


               

 今回はその碓氷峠にある「めがね橋」、そしてそこからアプトの道を5つのトンネルを抜けながら横川までの散策ルートを体験しました。往復10キロです。軽井沢から横川までは一直線を下っていきます。約5キロ。休まず歩き続ければ1時間半ほど。

 「めがね橋」界隈はいままであまり知られていなった観光コースのようですが、最近の観光ブックには登場するようになり、今後、観光客が増えそうです。かつては、この橋を電車が走っていたようです。煉瓦づくりの立派な橋です。

 JRの「大人の休日」の宣伝ポスターで、この橋から第5隧道に入るその入り口で、吉永小百合さんがポーズをとって写真におさっまっています。

 紅葉がまっさかりで、あたり一面「もみじ」でした。いい空気を一杯すってきました。
          
          
            


「法然と親鸞・ゆかりの名宝」展( 国立博物館・平成館)

2011-11-14 00:34:02 | イベント(祭り・展示会・催事)

         
 国立博物館・平成館で「法然と親鸞・ゆかりの名宝」展が開催されています(10月25日~12月4日)。今年は法然(1132~1212)の800回忌、親鸞(1173~1262)の750回忌です。平安時代末期から鎌倉時代にかけての末世とでもいうべき時代に、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば救済されると人々に説いたふたりの僧が、時代閉塞の空気がたちこめるこの時代にまみえました。

 ふたりは師弟の関係にありますが、そのふたりがまみえたこと自体が奇跡です。貴重なしら用が多く展示されています。そのひとつが「法然上人行状絵図」(国宝)です。法然の80歳の人生が、約540メートルの蒔絵のなかに示されています。国宝です。

 「選択本願念仏集」は法然の著作になる念仏とは何かが書かれたマニフェストのようなもの。巻頭の内題にあたる「選択本願念仏集 南無弥陀仏」の文字は法然の真筆です。この本の中で法然は阿弥陀仏が諸行のなかから念仏のみを選択して の行とした専修念仏の立場を明らかにしています。

 「二河白道図(にがびゃくどうず、鎌倉時代)は、中国唐の時代の浄土教家・善導が説いたたとえ話を絵にしたものです。現世と浄土をつなぐ白い道を一心に渡る(念仏する)ことで極楽に行くことができるというのです。

 蓮如による「歎異抄」(室町時代)も展示されています。「歎異抄」は親鸞の没後、東国の門弟たちのあいだで師の説との異論がでていることを嘆き、遺訓を守るべきとの意図で書かれたものです。

 国宝の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(鎌倉時代)は鎌倉時代の来迎図を代表する作品です。全身を金色に輝かせた阿弥陀聖衆が経巻を前に合掌する往生者を迎える様子が描かれています。スピード感に満ち溢れているので、「早来迎」の名で知られています。多くの化物(けぶつ)と化宮殿(けきゅうでん)が描かれていることから、最上ランクにあたる上品上生(じょうぼんじょうしょう)の来迎を表しています。

 阿弥陀如来立像(あいだにょらいりゅうぞう、鎌倉時代)は、法然の弟子源智(げんち)が師の一周忌供養にあわせて造った像です。後年、像内に源智の造立願文のほか、源頼朝、後鳥羽院をはじめとした4万6千人ほどの姓名を 記した文書が納められていることが判明しました。仏師快慶の作風に近いといわれていますが、衣文の彫りなどに相違が見られ、別の有力な慶派仏師の作とも考えられます。

 親鸞には妻の恵心尼がいました。恵心尼自筆書状類は、残念ながら、展示期間がずれていて、眼にすることはできませんでした。


田部井淳子『山を楽しむ』岩波新書、2002年

2011-11-12 00:50:43 | スポーツ/登山/将棋

               

 1975年に女性として初めて世界最高峰のエベレスト登頂に成功した著者は、その後の登山経験、登山をとおして出会った人々、景観、花々、さまざな食の体験を新聞記事や生活情報誌の紀行文として投稿してきたようですが、それらを編集してなった新書です。

 生の体験をが素朴に叙述されているので、真実味があります。文章のひとつひとつが興味深いのですが、印象に残ったのは、最初のエヴェレスト登頂から24年振りにそのベースキャンプを再訪し、環境の大きな変化に驚いたとの記述です。

 日本からの飛行経路、カトマンズ空港の様子、シェルパ族の村の変わりよう、田部井さんが驚いているのだから本当に登山の環境は全く変わってしまったのでしょう。

 彼女の最初のエベレスト登頂は約1400日かけて準備し、日本から約11トンの隊荷を運びこみ、約600人のポーターを雇っての成果だったという事実にも仰天しました。

 巻末に掲げられた著者の主な海外での登山歴の豊かさは、凄いです。何しろ7大陸の最高峰を全部登っているし、その中には南極大陸のビンソマシフ(4897㍍)も含まれるからです。

 その田部井さんも「もうだめか」と思った雪崩との遭遇が3度あったといいます。またガスによる遭難にも巻き込まれています。登山は彼女にあってさえ、死と隣りあわせだったのです。

 山がブームになり、ゴミ問題、トイレ問題が深刻な状況になっていることもよくわかりました。

 なお、記述のなかでカザフスタン、キルギスタン、ウズペキスタンなど「タン」が付く国について、この「タン」が「市」を意味していると書かれていますがこれは誤りでしょう(pp.105-106)。「(イ)スタン」はペルシャ語由来の接尾辞で、「***が多い所」の意味、したがってキルギスタンはキルギス人が多いところ(国)、ウズペキスタンはウズペク人が多いところ(国)です。